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『旅先案内』都道府県別記事一覧

●北海道 旭川市「 塩ホルモン発祥の地、道北・旭川グルメ旅 」 旭川市「 銘菓郷愁 - 農業の歴史刻む『旭豆』 北海道旭川 」 池田町「 北の国・ワインカラーの町 」 江差町「 民謡のある風景 - 歳月に磨き抜かれた民謡の王者(北海道 江差追分) 」 置戸町「 木のぬくもりを伝える北国のクラフト 」 長万部町「 函館本線長万部駅の名物駅弁『かにめし』 」 北広島市「 太古からの森に抱かれた『妖精と出会えるまち』 」 釧路市「 火山と森と湖。手つかずの大自然が残る阿寒国立公園 」 釧路湿原「 原始的な大自然を満喫する旅 - 釧路湿原 」 倶知安町「 羊蹄山の恵みを受けて育まれたオブラート 」 鹿追町「 超絶おいしいヨーグルトと煮込みジンギスカン 」 士別市「 羊のまち士別で味わう絶品ジンギスカン - 花の友 」 斜里町「 厳しくも美しい大自然。秘境しれとこを行く 」 大樹町「 今や海外にも広がり始めたミニバレーの発祥地 - 北海道大樹町 」 弟子屈町「 手つかずの大自然に抱かれ、自然と共に暮らす人々 」 根室市「 日本最東端と最西端 - 納沙布岬と与那国島 」 函館市「 銘酒『鶴の友』がある函館の居酒屋てっ平 」 函館市「 城のある風景 - つかの間の夢の青空 」 美瑛町「 前田真三さんが愛した美瑛の丘 」 東川町「 北の創り手たちの心を伝える温もりの木工クラフト 」 深川市「 安全性やブランド力を高め付加価値農業を創出する北空知 」 北竜町「 夏冬2度訪ねた『太陽を味方につけた町』北竜 」 松前町「 北前船が行き交った最北の城下町 - 松前 」 室蘭市「 鶏肉じゃない『やきとり』で室蘭の町を元気に 」 利尻島「 利尻昆布を求めて洋上富士の島へ - 利尻島 」 稚内市「 日本最北端・風の街 - 稚内 」 ●青森県 青森市「 インパクト大の青森二大B級グルメ - 生姜味噌だれおでんと味噌カレー牛乳ラーメン 」 青森市「 七戸から八甲田山を抜けて青森へ 」 五所川原市「 民謡のある風景 - 人の興亡しのばせる哀愁(青森県 十三の砂山) 」 黒石市「 不思議系B級グルメの代表格『黒石つゆやきそば』 」 田子町「 ガーリック・キャピタルを標榜する青森県最南端のニンニク村 」 つがる市「 遮光器土偶をかたどった木造駅の巨大オブジェ 」 十和田市「 瀬となり淵となって流れる奥入瀬

『旅先案内』記事一覧(Google Map)

民謡のある風景 - 南国の光に映える叙事詩(沖縄県 安里屋ユンタ)

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北国が冬に神髄を見せるように、南国は夏に真の姿を現します。沖縄も真夏が最も生き生きと輝きます。海も、空も、樹々も光に包まれます。浦島太郎が行った竜宮城は、琉球城ではなかったか、と言われるくらい、南の風土はまぶしさに満ちています。 沖縄の最南端に位置する八重山諸島は、大小19の島々からなり、沖縄本島よりも亜熱帯の趣きが濃くなっています。変幻の妙をたたえる海と白砂、琉球建築独特の赤い瓦屋根、何もかもが鮮やかな光の中にあります。中でも、竹富島は世界中で最も美しい島と言われ、時がゆったりと流れます。 八重山は民俗芸能の宝庫と言われ、多くの民謡が、古い形で保存されています。沖縄民謡の代表と言われている『安里屋ユンタ』も、八重山の竹富島が発祥の地とされています。  ♪サァー 安里屋ぬ クヤマによ(サァ ユイユイ)   あん美らさ 生りばしよ   マタ ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨー 沖縄の言葉は難解です。日本の古代の言葉が生きているからだという説もあるくらいで、唄の題名になっている「ユンタ」も「ユイ唄」の意と言われ、「ユイ」は、古語。田植えや刈り入れなどの時に、昔は集落ごとに共同労働が行われ、これを「ユイ」と言いました。この唄も、昔はそんな共同労働の際に唄われた作業唄だったのかもしれません。 この一節は「安里という屋号の家に、クヤマという美しい娘が生まれた」という意で、この後、歌詞は、その娘の婚姻をめぐる叙事詩風な展開となっていきます。 太平洋戦争中、八重山出身の音楽家がこの唄を編曲して、『新安里屋ユンタ』というレコードを出し、日本中に知られるようになりましたが、趣きは元唄とかなり違ってしまいました。沖縄の唄は、風土の中でこそ最もまぶしく光ります。

民謡のある風景 - 噴煙の桜島を唄い、にぎにぎしく変身(鹿児島県 鹿児島小原良節)

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鹿児島には「議を言うな」という言葉があります。理屈を言うな、不言実行、ということらしいですが、錦江湾を挟んで噴煙を吐く桜島は、優柔不断を嫌う、そんな土地柄にふさわしい山です。桜島は、名は島ですが、今は大隅半島と陸続きになっています。1914(大正3)年1月の大爆発で、幅400mの瀬戸海峡が埋まってしまいました。山項は三つの岳に分かれ、南岳が今も断続的に噴煙を上げ、灰を降らせています。 この桜島を唄い込んだ歌詞で有名なのが、『鹿児島小原良節』。  ♪花は霧島 煙草は国分   燃えて上がるは オハラハー 桜島 霧島の花というのはミヤマキリシマのことで、6月が見事。国分の煙草は、慶長年間に栽培が始まったと言われ、昔は出水、指宿と並んで薩摩煙草として有名でした。『鹿児島小原良節』が有名になったのは、昭和になってからですが、元唄は、旧薩摩領だった日向の安久(宮崎県都城市)周辺で唄われていた『安久(やっさ)節』だと言われています。それが、鹿児島郊外の伊敷村原良(現・鹿児島市原良)に入って労作唄となり、『原良節』と呼ばれました。 大正の頃、土地の芸妓一八がこの唄を好んで唄い、その節回しが『一八節』とも呼ばれたりしました。その芸統を引いたのが、やはり地元の芸妓で、名を喜代三といった。1930(昭和5)年、鹿児島「青柳」の2階で、作曲家・中山晋平が、この喜代三の唄う『一八節』と出会います。酒豪で純情、しかも華やかだった喜代三の唄う『一八節』は、まことに情熱的だったそうです。後に彼女は中山夫人となります。 中山の招きで上京した彼女は、新橋喜代三の名でレコード・デビュー、34(昭和9)年1月、賑やかに編曲された『鹿児島小原良節』を発表します。よく知られている曲調はこちらの方で、いわば『喜代三節』。地元の唄は、桜島にふさわしく、放胆な薩摩っぽらしい気力をうかがわせています。

民謡のある風景 - 大鎌振るう労働の消えた古里(宮崎県 刈干切り唄)

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宮崎は県域の7割以上が山岳部。建国神話で有名な高千穂の峰もここにあります。80代以上の人たちなら多分記憶しているはずの『紀元節祝歌』は、こう歌い出します。 「雲に聳える高千穂の高根おろしに・・・」 宮崎県北西部にある高千穂、熊本県と境を接し、五ケ瀬川の上流に位置します。奥日向と呼ばれる山深い盆地の町は、北に1757mの祖母山、南に1739mの国見岳に挟まれ、昔は、秋になると、この辺り一帯でササや丈なすカヤを刈る光景が見られました。 カヤは、勾配の急な山の斜面に生えています。それを刈る鎌は、刃渡りおよそ50cmばかり、柄の長さは1m半ほどもあったといいますから、カヤ刈りはかなりの重労働だったでしょう。カヤは、よく乾かしてから牛馬の飼料にしました。『刈干切り唄』は、このカヤ刈りの際に唄われました。  ♪ここの山の 刈干しァすんだヨー   あすは田圃で エー稲刈ろかヨー 昔は「一谷一節」と言われ、谷間ごとに独自の節まわしを響かせていました。同じ奥日向でも、高千穂の唄と五ケ瀬のものでは、テンポが違うといいます。高千穂で唄い継がれた旋律は、哀愁をたたえ、ゆったりとした節まわしで、大鎌を振るう労働を彷彿とさせます。 この唄には、日向地方一帯で唄われている旋律もあります。全国的に知られているのはこちらの方で、昭和40年代の民謡ブームに乗って、たちまちポピュラーになりました。 作業唄は座敷唄に変わり、刈干しを飼料としていた牛馬も今は耕耘機に変わってしまいました。地元では、広まった唄の旋律を「うそつき節」といって区別しているそうですが、どちらも既にして、唄の背景を失ってしまいました。 高千穂の峰々は、神話時代そのままの趣で、観光客の姿も絶えませんが、集落の暮らし方は刻々と変わり続け、『刈干切り唄』の古里で、古老のしわは深まるばかりです。

民謡のある風景 - 海路で運ばれた唄の源流(熊本県 牛深ハイヤ)

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熊本県の天草は、隠れキリシタンの里と言われ、崎津港の天主堂は、天草を代表する景観となっています。天草は、大小120余の島からなり、天然の良港が多い土地です。崎津はその一つですが、唄で知られた牛深港も、各方面への定期船が発着して、海の路の要となっており、今なお水産業の中心地でもあります。 牛深が発祥地だとされる唄が『牛深ハイヤ』ですが、牛深は、土地の歴史から言っても、唄の発祥地というよりは、唄を広めた中軸の地と言った方がいいかもしれません。  ♪ハイヤエー ハイヤ可愛いや 可愛いや   今朝出た船はェー どこの港にサーマ 入るやらェー 牛深はその昔、風待ちをする船の寄港地だったといいます。海産物を積んで大坂へ向かう船は、牛深で南風の吹き出しを待ちました。その南風を、西日本では広く「ハエ」と呼んでいます。梅雨時の南風が黒ハエ、梅雨明けの南風が白ハエと呼ばれてもいます。この唄の唄い出しハイヤエーは、そのハエのことだという説があります。つまりは、風を利用して航行した船乗りたちが、この唄と深く関わっていた証左がそこにもある、ということでしょうか。 『ハイヤ節』は本来、奄美の盆踊り唄に、二上がりの手を付け、口笛も入った激しいリズムの唄だったといいます。鹿児崎や長崎の田助も『ハイヤ節』の発祥地と言われたりしていますが、どれも底抜けに明るい唄です。南国のリズムが、船乗りたちの気風と溶け合い、この唄は酒席で盛んに唄われ、やがて船乗りたちによって諸国へ運ばれました。 各地に散った『ハイヤ節』は、それぞれの土地に根を下ろしました。『津軽アイヤ節』『塩釜甚句』『庄内ハエヤ節』『三原ヤッサ』など、実に多くのハイヤ系の唄があります。ハイヤの変貌は、昔の交通の要が、海の路であったことを告げ、唄の生い立ちの秘密を暗示して、興味がつきません。

民謡のある風景 - 観光長崎のゆとり偲ばせて(長崎県 ぶらぶら節)

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1571(元亀2)年からの港町だった長崎は、江戸期、ただ一つ海外に開かれた日本の出窓でした。人工の島である出島を外国人居留地とし、長崎は貿易港として栄えました。さまざまな西欧の文物がここから入り、貿易の利益は、かまど銀などとして、町人にも分配されたといいます。ゆとりある人々は遊びを楽しみ、お祭りに興じました。おくんち、凧(はた)揚げ、精霊流しなど、今に伝わる観光資源が育ち、遊女町丸山には、17世紀末で、760余人の遊女がいたといいます。 そんな、長崎のゆとりが、『ぶらぶら節』というユニークな題名の唄を産みました。  ♪長崎名物 凧揚げ盆まつり   秋はお諏訪のシャギリで   氏子がぶうらぶら   ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅう この唄は、丸山の遊廓辺りでお座敷唄として唄われてきたものとされ、発生については、江戸初期とも、江戸末期とも言われ、はっきりしません。 幕末の頃、江戸を中心としてはやった『やだちゅうぶし』という唄の中に、「やだちゅうと言わねえもんだちゅう」という歌詞があるところから、その影響を受けているという説もあります。また、愛媛県・松山近辺に伝わった茨城の『潮来節』とも、何らかの関連があると言われています。さまざまに言われてはいますが、いつ、どこで、だれが唄い出したかとなると、よく分からないらしく、そこがまた民謡の民謡らしいところでもあります。 そんな『ぶらぶら節』が脚光を浴びたのは、昭和に入ってからでした。長崎県西彼杵郡高島町生まれの芸妓愛八が、丸山でこの唄を掘り起こし、1930(昭和5)年にレコード化。今、唄われているのは、この愛八の唄法を伝えたものといいます。歴史のひだの合間を、したたかに生き抜いてきた唄と言えるでしょう。

民謡のある風景 - 天然の景観に育まれた古謡(佐賀県 岳の新太郎さん)

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佐賀には、全国的に知られた民謡があまりありません。が、土地を代表する唄『岳の新太郎さん』は、野趣を帯びながらも優美な味わいをみせ、多〈の人をひきつけてきました。  ♪岳の新太郎さんの   下らす道にゃ   ザーンザ ザンザ   銅の千灯籠ないとん   明れかし   色者の粋者で   気はざんざ 唄に出てくる「岳」は、多良岳(983m)のことで、阿蘇火山帯に属する円錐状の火山。ツツジ、シャクナゲの群落で知られ、山は佐賀と長崎の県境にまたがります。昔、多良岳の山項には金泉寺という寺があり、そこに新太郎という美男の寺侍がいたといいます。その言い伝えが、この唄のタイトルにもなったわけですが、曲調は、天明年間に流行した伊勢神宮の木遣唄が元になっている、と言われます。元唄は各地に広まり、長野の伊那地方では、『ざんざ節』と呼ばれる草刈唄になったりしました。『岳の新太郎さん』も、以前は『ザンザ節』と呼ばれていたようで、木材の宝庫だったこの地方へ、仕事唄として入ってきたものかもしれません。 この唄が知られるようになったのは比較的新しく、昭和20年代に、地元の人々が九州芸能大会で唄い、1954(昭和29)年には、東京の郷土芸能大会でも地元太良町の人が唄い、一躍評判になりました。56(昭和31)年には、鈴木正夫がレコード化し、それ以来、佐賀の代表的民謡と言われるようになりました。つまりは、この間に知られるようになったわけで、それだけに唄も本来持っている味わいを失わずにきた、と言ってもいいでしょう。 多良岳の一帯は県立自然公園に指定され、山項に立てば、有明海と大村湾が左右に広がり、阿蘇の噴煙もまた遠く望まれます。民謡は自然が育てるものだと言われますが、この景観の中で、土地の唄を聴けば、まさにそうとしか言いようがない思いにかられます。

民謡のある風景 - マスコミに乗った筑前の誇り(福岡県 黒田節)

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JR博多駅頭、いやでも目に入るのが、大盃と槍を抱えた黒田武士像。その地が、あの有名な『黒田節』の古里であることを強調してやまぬかのようです。  ♪酒は飲め飲め 飲むならば   日の本一の この槍を   飲みとるほどに 飲むならば   これぞ まことの 黒田武士 節は、稚楽『越天楽(平調)』の曲詞からとり、詞は七五調4句で、「今様」という昔の流行唄(はやりうた)形式。だから、これは民謡ではないという説もあるくらいで、『黒田節』も、元は『筑前今様』と言っていました。 『越天楽』の曲調で七五調4句を唄うという武士は、江戸の頃、各藩にいたそうで、かなり流行しましたが、黒田藩では、他藩の「今様」と区別するために「筑前」という地名を冠に付けました。なにしろ誇り高い黒田武士です。「おれの所は違う」と、つっぱったのです。 有名な「酒は飲め飲め・・・」は、黒田25騎の一人母里太兵衛にちなむもので、福島正則との間で名槍日本号を賭け、見事に大盃を飲み干したという故事によります。『筑前今様』が『黒田節』と名を変えたのは、昭和に入ってからのことで、1928(昭和3)年、NHKのラジオ基幹局ネットワークが完成。その年、『筑前今様』が電波に乗りました。この後、担当プロデューサーが『黒田節』のタイトルで再三にわたって放送、それが爆発的流行の緒となりました。マス・メディアが広めた唄の典型といっていいでしょう。 赤坂小梅がレコード化したのは1943(昭和18)年。これで、唄がぐんと民謡風な趣になりました。もっとも、そのため「今様」風な味わいは薄くなり、唄が俗化したと嘆く人も出たりしました。とはいえ、酒席でよく唄われてきたところに、この唄の特徴があり、それがまた酒徳を称えた代表的歌詞にもよく似合います。冥界の黒田武士も、かえってそれを喜んでいるかもしれません。

民謡のある風景 - 土の匂い超えた仏の里の踊り(大分県 草地踊り)

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国東半島は、瀬戸内海の周防灘と伊予灘の間に丸く突き出た仏の里。海岸沿いにぐるりと国道が巡り、そこから半島の中心部へ向かって、放射状に道が延びています。どれもが仏と出会う道です。半島の西の根っこの辺りにある豊後高田市もまた仏の里です。平安時代に始まるという富貴寺、長安寺、奈良時代からという天念寺などの諸仏、それに何よりも、岩に彫られた磨崖仏との出会いが鮮烈な印象を残します。 そんな仏の里にふさわしく、8月、豊後高田市では、盛大な盆踊り大会が開かれ、草地地区に伝わる『草地踊り』も披露されます。  ♪(レソ踊り・伊勢屋口説)   国は豊後の高田の御城下   御城下本町繁盛な所   角の伊勢屋という町人は・・・ 『草地踊り』は、四つのパターンに変化します。初めがレソ踊り、続いてマツカセ踊り、ヤンソレサ踊り、最後が六調子踊りとなって終わります。唄は、七七調を繰り返す口説き形式をとり、リズムの違う六調子だけが破調となります。曲は、江戸時代に流行した唄祭文の変化したものではないかと言われ、地元では、徳川吉宗の時代に始まる、とされています。 『草地踊り』は、踊りの変化につれて、踊り手の衣裳も変わります。初めはユカタ、ケダシの優しい女踊りだったものが、ハッピ姿となり、激しく力強い男踊りで六調子を踊り納めます。見せ場を意識したこの構成は、1933(昭和8)年、地元出身の演芸評論家・安部豊が演出したもので、全国民謡大会で優勝。戦後も、大阪万博、つくば科学博に招かれた他、欧米を巡って喝采を博しています。 その昔、岩に仏を残す行為は、人の予測を超えた先端性を持つものだったでしょう。その里に伝わる踊りだけに、土俗性を突き抜けて鮮烈です。

民謡のある風景 - 文化の深さに支えられた粋(愛媛県 伊予節)

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道後温泉は、古くから「伊予の湯」として知られ、万葉の歌人・山部赤人もやって来て、「昔の天子も行幸なさった温泉」と、歌で称えています。 道後は、城下町・松山の北東。木造3層の道後温泉本館を取り巻くようにして、華やかに旅館群が並びます。おなじみ、夏目漱石『坊ちゃん』の舞台でもあります。なにしろ古くからの名所なので、土地の民謡『伊予節』にも、真っ先に登場します。  ♪伊予の松山 名物名所 三津の朝市 道後の湯   音に名高い五色素麺 十六日の初楼   吉田さし桃小かきつばた 高井の里のていれぎや   紫井戸や片目ぶな 薄墨楼や緋の蕪 チョイト伊予がすり 『伊予節』は、古くからのお座敷唄で、ゆったりと粋な調子と三味の手から見て、江戸で生まれたのではないか、という説があるくらいです。 昔、海の道は、今の新幹線並みの威力で、江戸と各地を結んでいました。江戸で生まれた唄が、松山へ入り、名所づくしが評判となって、再び江戸へ入ったのかもしれません。いずれにしても、19世紀の初め頃には、江戸・中村座でもこの唄の曲調が使われ、幕末には、200余の歌詞が瓦版で出回っていたといいます。もちろん商都・大坂にも伝わり、明治になってからも流行を繰り返したというから、息の長いもてはやされ方をした、と言えるでしょう。 『伊予節』は、本調子の三絃を粋に響かせ、曲調は純然たる俗謡です。民謡に特有のひなびた味わいなど、全くありません。それでいながら、唄そのものは地元の隅々にまで広く浸透し、替え唄もずいぶん生まれたといいます。今では、すっかり地元を代表する民謡になっています。洗練された味わいを、少しの戸惑いもなく呑み込んでしまうあたりに、伊予地方の文化の底の深さがうかがえます。「坊ちゃん」が、この地の気風に合わなかったのは、たまたまムシの居所が悪かっただけなのかもしれません。

民謡のある風景 - 唄が知られて、川がないのに橋がある(高知県 よさこい節)

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土佐の高知の播磨屋橋くらい有名な橋もないでしょう。ご存じ『よさこい節』で、全国的にその名を知られています。  ♪土佐の高知の播磨屋橋で   坊さん かんざし買うを見た   ハァ ヨサコイ ヨサコイ 土佐の代表的民謡であることは言うまでもありませんが、ペギー葉山の『南国土佐を後にして』の中に歌い込まれて、更に有名になりました。 播磨屋橋は、1950(昭和25)年に鉄筋コンクリート製になり、その下を流れていた堀川も、埋め立てられて今はありません。元々の橋は、川の南と北に店を構えていた豪商・播磨屋と櫃屋が、互いの往来のために掛けたもので、文政年間(1818 - 29)には、橋の両側に露店風の小間物屋が並んだといいます。「坊さん」がかんざしを買ったのは、その小間物屋ででもあったのでしょうか。 『よさこい節』の起源については諸説があります。慶長年間(1596 - 1614)、高知城の築城の際に唄われた「木遣り」が元唄という説。正徳(1711 - 15)の頃、江戸ではやった『江島節』が土佐に入ったという説。あるいは、各地にある祭礼の『みこしかつぎ唄』が変化したのだという説など。また、安政年間(1854 - 59)には、歌詞にある「坊さん」の恋愛事件が持ち上がり、それが唄い込まれて全国的に唄われたともいいます。 歌詞も地元では「おかしなことやな、播磨屋橋で・・・」 と唄っていましたが、明治維新で江戸へ出てきた土佐の人々が、「土佐の高知の・・・」と替えて唄い出したのだといいます。 明治に入ると、この唄に振りが付きました。高知の料亭・得月楼が踊りにし、芸妓衆に踊らせたのが始まりといいます。日露戦争の頃には、「よさこい」が「ロシヤ来い」と替えて唄われ、播磨屋橋は更に有名になりました。川がないのに橋だけはある、というところが、この唄の知名度を物語っていると言えるでしょう。

民謡のある風景 - 明るくリズム弾んで瀬戸大橋時代へ(香川県 金毘羅船々)

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香川県琴平町の金毘羅宮、というよりは「さぬきのコンピラさん」と言った方が通りが早いでしょう。「コンピラさん」は象頭山に鎮座し、本宮までは785段の石段の道です。奥宮まで、更に石段が続きます。山の上だけに眺望がすばらしく、晴天ならまさにコンピラ様々です。 かつて、「讃岐の道は金毘羅に通じる」と言われ、全国から人が集まりましたが、その道はどこかで瀬戸内海を渡らなければなりません。江戸後期、金毘羅参りが盛んになると、大坂から丸亀へ向かう客船が人気を集め出します。客船は、「讃州金毘羅船」と染め抜いた幟を立てて、道頓堀、淀屋橋などから船出していきました。 船旅は、風が順調なら3日か4日、逆風だと1週間もかかったといいます。お座敷唄となった『金毘羅船々』は、その辺りのところをうまく唄い込んでいます。  ♪金毘羅船々 追手に帆かけて   シュラ シュ シュ シュ   まわれば四国は 讃州那珂の郡   象頭山金毘羅大権現   一度まわればー この唄は、元禄期に大坂で唄い出されたとか、明治の初めに道中唄としてはやったとか言われますが、詳しいことは分かっていないようです。ある説では、船旅の無柳を慰める遊び唄だったのではないか、と見ています。曲調はあくまでも明るく、リズミカルで、今でも座敷遊びの伴奏によく弾かれたりします。 1880(明治13)年に初演された河竹黙阿弥の芝居『霜夜鐘十字辻筮』にも、「四国は讃州那珂の郡、象頭山金毘羅大権現、御信心の・・・」という台詞が出てきます。その頃には、この唄の一節が耳に馴染んだものだったのでしょう。 本宮の前は19mも突き出した高台で、讃岐平野は一望の下。瀬戸大橋時代を迎えた明るさがみなぎり、思わず、この唄が口の端に浮かびそうになります。

民謡のある風景 - 殿様が今に残した大観光資源(徳島県 阿波踊り)

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南国・阿波徳島の夏は猛暑続き。8月の平均気温は28度。その暑さに挑むように、毎年8月12日から18日まで、熱狂的な阿波踊りが繰り広げられます。 (前唯子)♪踊る阿呆に見る阿呆       同じ阿呆なら踊らにゃ損々 (本 唄)♪阿波の殿様 蜂須賀公が       いまに残せし盆踊 (後離子)♪アーエライヤッチャ エライヤッチャ       ヨイヨイヨイヨイ 地元では、世界の二大祭りはリオのカー二バルと徳島の阿波踊りだ、と胸を張ります。熱狂ぶりではひけをとりません。陽気な早まの三味線に、太鼓・笛・鉦などがからんで踊り手を煽ります。唄は江戸期にはやった『よしこの節』ですが、唄の前後の囃子詞がなんといっても絶妙です。 阿波踊りの発生については、阿波藩主を称えた徳島城落成祝賀説がよく知られます。天正年間、阿波の藩主となった蜂須賀家政が、徳島城を築き、その落成を祝って、旧暦7月14日から3日間、城下の人々に無礼講を許したのが、この踊りの始まりだといいます。 もっとも、だからといって、藩主が踊りの振り付けをやるわけはないので、この踊りの元になっているのは、地元に古くから伝わる「精霊踊り」だという説もあり、盆行事の踊りがベースになったというのが本当のところらしいです。 唄の方も、後から阿波へ入ったものと言われます。18世紀後半、今の茨城県潮来地方ではやり出した『よしこの節』が、船便によって各地にもたらされ、阿波へも、特産の藍を商う人々によって伝えられた、とされています。が、今では阿波が本場の観があります。 阿波踊りは、いまや徳島県の一大観光資源、遠くから踊りに出向くファンも多くいます。今年も「踊らにゃ損々」の熱気が話題を呼ぶことでしょう。 

民謡のある風景 - 維新の風雪、今に伝えた応援歌(山口県 男なら/オーシャリ節)

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山口県萩市は、1600(慶長5)年から260年間、長州藩36万石の城下町として栄えました。この市の北部に、菊ケ浜と呼ばれる海岸があります。指月山と鶴江台の間に広がる弓なりの形の砂浜で、今では北長門海岸国定公園の一部になっています。1863(文久3)年、この浜で上を下への大騒動が起こりました。 幕末期、日本中を尊皇攘夷の掛け声が飛び交いましたが、この年6月25日、長州藩はスローガンを実行に移し、下関海峡通過のアメリカ船を砲撃。次いで、フランス、オランダの艦艇を攻撃しました。7月16日、アメリカ艦ワイオミング号が反撃に出て、萩砲台を砲撃。次いで2隻のフランス艦が報復を開始して、砲台を占領してしまいました。 危機を感じた長州藩は、根拠地を山口に移し、菊ケ浜に約2kmにわたって土畳を築き、米仏蘭の反撃に備えました。この時に唄われたのが、『男なら(オーシャリ節)』だといいます。きっかけがきっかけですから、歌詞もおのずから勇ましくなります。  ♪男なら お槍かついで お仲間となって   ついてゆきたや 下関   尊皇攘夷と聞くからは   女ながらも武士の妻 まさかの時にはしめだすき   神功皇后さんの三韓退治 かがみじゃないかいな   オーシャリシャリ 「オーシャリシャリ」は、「おっしゃる通りです」の意だそうで、土畳構築に従事した女性たちの心意気を唄ったのが、この唄だというのですから、詞の勇ましさも分かろうというものです。曲は、幕末流行の「甚句」ものの系譜と言われています。 それにしても、明治維新の頃の唄を、そのまま伝えているのが、いかにも維新の主役を演じた県らしいところです。

民謡のある風景 - 清盛ゆかりの瀬戸に生きる心意気(広島県 音戸の舟唄)

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広島県呉市と、倉橋島の音戸町は橋で結ばれています。その下が音戸の瀬戸。長さ約650mの水路ですが、幅は最も狭いところで約90m。いくつかの暗礁があって、潮の干満による潮流は、約4ノットとかなり早くなっています。昔は、瀬戸内海有数の難所でした。呉市から音戸へ、この水路を漕ぎ渡るには、かなりの技術を要したに違いありません。『音戸の舟唄』は、その漕ぎ手たちによって唄われました。  ♪イヤーレーノ 船頭可愛いや 音戸の瀬戸はヨー   一丈五尺の ヤーレノーエ 艪がしわるヨー この舟唄は、広島から岡山にかけて広く唄われていた『臼ひき唄』のようなものを、船頭たちが艪に合わせて唄ったのが始まりだと言われています。瀬戸内海一帯の舟唄は、全てこの『音戸の舟唄』系の唄だと言われ、土地によっては「石切り唄」、「酒造り唄」、「田植え唄」などに形を変えて唄い継がれているともいいます。「舟唄」の場合は、節回しの区切りの部分に独特の息づかいをみせ、艪を操る姿を彷彿させます。 音戸の瀬戸は、1164(長寛2)年に、平清盛が開削したと伝えられています。倉橋島と対岸の呉市警固屋は、かつては陸続きでした。そのため、舟で大坂方面へ向かう場合は、ここを迂回しなければなりませんでした。瀬戸内の水軍を味方につけた清盛は、その不便さを解消し、海路を確保すべく、延べ6万余人、10カ月の月日をかけて、水路を造りあげたのだといいます。もっとも、音戸と警固屋では、地層が全く違うとも言われ、この話は伝説の域を出ません。 1961(昭和36)年12月、清盛が切り離した陸地を再びつないで、音戸大橋が出来ました。全長1071mの橋上を車が行き交い、舟唄は過去のものとなりました。だが、音戸の瀬戸が水路の要衡であることは、今も変わりなく、1日数百隻の船がこの瀬戸を越えます。唄に込められた心意気が生きているのです。

民謡のある風景 - ドジョウすくって民謡もヒット(島根県 安来節)

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山陰本線で米子から安来へ。中海に面した安来は、昔、山陰道の宿場町・港町として栄えました。中海は中江 - 瀬戸で美保湾に通じ、今も安来商港は、島根の東の玄関口と言われています。 「安来」とくれば、言わずと知れた『安来節』の発祥地。駅前広場にも塔が建てられています。   ♪安来千軒 名の出たところ    社日桜に 十神山 (アラ エッサッサー) 唄の起源は、いろいろに言われていますが、船唄の『出雲節』が元になっているとされ、初めはやや長い曲調であったといいます。その後、明治の初め、美保湾に面した境の港町に、さん子という唄のうまい芸妓が出て、『さんこ節』という名で、七七七五調の今のような詩型が唄われるようになりました。 これに手を加えたのが、安来で料理屋をやっていた渡辺佐兵衛・お糸親子で、富田徳之助が三味の手を工夫したといいます。この、整えられた唄に興味を持ったのが、日本画の巨匠・横山大観です。松江でこの唄を聞き、帰京するや、早速お糸一行を呼んで各地を回らせました。それがきっかけで、とうとう『安来節』は浅草にまで進出、全国的に有名になっていきました。 『安来節』は、唄も陽気ですが、踊りもまたユーモラスです。踊りは、俗に「ドジョウすくい」と言われ、実際にドジョウを取るときの手が振り付けられたのだ、といいます。一説には、安来が鉄工業の歴史を持つ町でもあるため、「どじょうすくい」は「土壌すくい」で、砂鉄採取の動作が振り付けられたのだ、とも言われています。 説はともあれ、安来となれば、この踊りくらいは覚えておかなければ、というので、学校の運動会の集団演技などでも取り上げられるケースが多いようです。土壌よりはドジョウである方が、唄そのものの明るさが生きてくるようです。 

民謡のある風景 - 白壁の家に映える港唄(岡山県 下津井節)

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岡山県南の倉敷・児島の一帯は、古くから商工業が発達した所で、大和朝廷の頃には、児島に朝廷直轄の蔵が置かれ、室町時代には、児島半島突端の下津井が、早くも天然の良港として栄えました。 江戸時代には、下津井港は北国回船の寄港地として知られ、参勤交替で九州からやって来る大名も、御座船を下津井へ寄せ、ここから陸路をとりました。金毘羅さまへの道中も、ここが本州側の基点の一つでした。 港が栄えると遊里が生まれます。船頭や漁師がその里でよく唄ったのが、『下津井節』です。  ♪下津井港はよー 入りよて出よてよー   まとも巻きよて まぎりよてヨー   トコハイ トノエー ナノエー ソーレソレ この唄は、元々は瀬戸内の船着場で広く唄われていたらしく、北前船の他の寄港地にも、同系の唄が残っていると言われます。つまりは、船頭衆が唄い広めたもので、『富士川船頭唄』『石見舟唄』なども、この唄の系列に入るといいます。 『下津井節』は、1887(明治20)年頃、大いにはやったそうですが、肝心の港の方は、漁港としては栄えたものの、宇高連絡船の賑わいには勝てず、交通拠点の主役ではなくなってしまいました。ところが1927(昭和2)年、思いもかけぬチャンスがやってきます。大阪毎日が景勝地人気投票を実施したのです。下津井の人々は大いに喧伝に努め、下津井を見事入選させただけではなく、ついでに『下津井節』も売り込んでしまいました。31(昭和6)年には、その唄がNHK岡山局から放送されます。この頃から『下津井節』は、岡山を代表する唄と見られるようになっていきます。 1988(昭和63)年4月、児島 - 坂出ルートを結ぶ瀬戸大橋が完成。下津井は、ますます通過地点の色を濃くしましたが、町には、往時を偲ばせる白壁の家がいまだ残り、唄の古里にふさわしい面影を見せています。

民謡のある風景 - 漁絶えた浜に残る貝とりの一節(鳥取県 貝殼節)

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山陰本線を浜村駅で降りると、駅を挟んで温泉町が広がります。町は海につながり、その海で、昔はホタテがとれました。記録によると、鳥取県気高地方一帯の海岸では、江戸期の頃から、周期的にホタテが大量発生し、浜は貝漁で賑わったといいます。 この辺りでは、貝のことを貝殻と言います。貝殻は貝殼の皮とも言うそうです。『貝殼節』は、その貝漁の労働歌として生まれ、手漕ぎの櫓に合わせて唄われました。  ♪何の因果で貝殼ひきなろた   カワイヤノウ カワイヤノウ   色は黒うなる 身は痩せる 貝漁は、ジョレンで底引きをしてホタテ貝をかき集めました。かなりの重労働です。それが「何の因果で・・・」という詞句を生み、「カワイヤノウ」と囃すことで、労働の厳しさを紛らわしました。 貝漁は1929(昭和4)年を境にぱったり途絶え、唄だけが残りました。4年後、鳥取師範の教師・三上留吉が、賀露から泊に至る海岸の集落を採譜して歩き、鳥取市役所の俳人・松本穣葉子が詞句を補作し、浜村温泉で唄われるようになりました。 戦後、民謡ブームの中でこの唄も脚光を浴びるようになり、53(昭和28)年2月、朝日放送の「全国民謡の旅コンクール」で1位になって、鈴木正夫の唄でレコード化もされました。こちらの方はお座敷唄の趣ですが、賀露港では、三味線伴奏のない作業唄の曲調を保ち、昔の風情を伝えています。 NHKのテレビドラマ『夢千代日記』(早坂暁)でも、この唄が効果的に使われていました。年配の方の中には、吉永小百合、秋吉久美子、樹木希林らの芸妓ぶりを、この唄と共に思い出す人もいるかもしれません。貝のとれなくなった山陰の海にこの唄が流れると、人の世の深さが思われ、曲調の明るさが、切なく思えます。 

民謡のある風景 - 一高生が唄い広めた男たちの唄(兵庫県 デカンショ節)

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兵庫県丹波篠山市は、丹波山塊の間に開けた盆地にあります。盆地からの道は、天引峠、天王峠、鐘ケ坂などの峠を越す道となります。盆地のほば中央に、標高459mの高城山がそびえ、丹波富士の名で呼ばれています。 灘五郷の酒造りを支えてきた丹波の杜氏たちは、この盆地から、半年に及ぶ出稼ぎの旅に出ました。家で待つ妻たちにとっては、つらい半年だったでしょう。地元の古い民謡は、そんな妻たちの気持ちを、「でこんしょ、でこんしょで半年暮らす、あとの半年ァ泣いて暮らす」と唄っていたといいます。 篠山は、1747(寛延元)年以降、青山氏が領主となり、明治維新まで6万石の城下町として栄えました。1898(明治31)年の夏、その旧藩主の青山子爵が、旧藩士らを引き連れ、千葉・館山の海浜に遊んだことがありました。旧藩士たちは、昼は泳ぎ、夜は宴会で盛り上がり、地元の民謡『篠山節』を大声で唄いました。  ♪丹波篠山 山家の猿が   花のお江戸で 芝居する   ヨーイ ヤレコノ デッカンショーヨ この唄を聞きつけたのが、同じ浜に来ていた第一高等学校(現・東大)の学生たちでした。語呂もよければ、調子もよい。バンカラ気分の学生には、ぴったりきました。寮へ帰った彼らは、房州土産の唄として大いに喧伝しました。囃子言葉も、デカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとったと称し、「ヨーイ ヨーイ デカンショー」と唄い替えました。そして学生たちが帰省の度に、この唄を唄ったものですから、全国に広まるのも早かったのです。 こうして一高生が流行源となった『篠山節』は、『デカンショ節』として広まり、それが再び篠山に帰って来ました。地元では、太鼓と三味、笛をつけて、正調の曲調を伝えていますが、そこにはもう、農家の女の嘆きの影もありません。唄の変貌の一例と言えるでしょう。

民謡のある風景 - 自在に生きる上方気質の古里(大阪府 河内音頭)

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大阪府の中東部に広がる河内地方は、中世の頃、あの楠正成も守護を務めた地です。江戸後期からは、大坂の穀倉地帯とも呼ばれ、独特の農民気質を育てました。この地方で広く唄われてきたのが、『河内音頭』で、常に脱皮を繰り返し、時代時代でリニューアル版がヒットしています。  (お久藤七)  ♪アー さては一座の皆様や   申し上げます段の儀はお久藤七物語   ヨンヨホ ホイホイ   これよりぽつぽつのせまする 『河内音頭』は、八尾市が発祥地だと言われています。八尾は、中世の寺内町から発展した町で、かつては河内木綿の集散地でした。 この八尾市に、臨済宗の常光寺という寺があります。延命地蔵が本尊で、毎年8月、地蔵盆踊りが盛大に行われます。盆踊り唄の中の流し音頭は、『河内音頭』の中でも最も古いものだと言われ、室町初期の頃、常光寺が再建された際の木挽き唄がベースになっていると言われます。 この唄の特徴は、伝統的な上方の話芸を自在に取り込んでいる点でしょう。河内街道をたどって入って来たさまざまな音頭がミックスされ、明治期から後は、阿呆陀羅経、浄瑠璃、浪曲、漫才と、とにかくさまざまなものを消化して、即興自在なスタイルを打ち立てました。明治期には、義太夫節を取り入れた唄い方や、江州音頭の節を入れたものが人気を集めました。中でも1893(明治26)年に起こった「河内十人斬り」事件を唄ったものが評判になって、『河内音頭』の名は、全国に知られるようになりました。語り芸を取り込んだ特徴が発揮されたわけです。 戦後も、鉄砲光三郎の節が話題となり、近年では、河内家菊水丸がレゲエ調に変化させたCMソングをヒットさせました。時代と共に呼吸する柔軟さが、この唄を生んだ土地の人の特有の気質なのかもしれません。

民謡のある風景 - 幕末の唄と調和する心地よい古里(和歌山県 串本節)

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JR紀勢本線串本駅から20分ばかり歩くと、海岸から一直線に延びた形で、大小40ほどの岩が点々と続いている風景に出会います。橋の杭を思わせるところから、橋杭岩と呼ばれていますが、どことなく、対岸の大島へ行きつこうとして果たせない、未練の思いを形にしたようにも見え、この地の民謡『串本節』によく似合います。  ♪ここは串本 向かいは大島   橋をかけましょ 船橋を   アラ ヨイショヨーイショ   ヨイショヨーイショ ヨーイショ   (ハ オチャヤレ オチャヤレ) 『串本節』は、幕末の頃、この地に伝わった『オチャヤレ節』(エジャナイカ節)が元になっていると言われ、串本、大島、潮岬などの秋の祭礼で唄われ出したといいます。 串本では、潮崎本之宮神社の10月の祭りで、神輿の行列唄として唄われてきたといい、唄の名も、囃子詞からとって『オチャヤレ節』としてきました。今でも地元の人は、「エジャーナーイカ、エジャーナイカ、ナイカ、ハ、オチャヤレ」と囃します。 大正年間この唄が、全国的に広まるきっかけをつかみます。アメリカから、日米親善の飛行機が串本に来ることになり、取材のため多くの新聞記者がこの地を訪れました。当時の町長が、記者たちのために労いの宴を設け、その席で『オチャヤレ節』が披露されました。囃子詞の面白さにひかれた記者たちが、競ってこの唄を記事にし、更には、上方漫才の名手砂川捨丸がこの唄をレコード化しました。 メディアに乗った唄の伝播力は強く、『オチャヤレ節』は『串本節』と名を変え、祭り唄から座敷唄へと変化しました。が、串本と大島の間は今も巡航船で結ばれ、夕景に浮かぶ橋杭岩のシルエットも、昔に変わりありません。「エジャーナーイカ」の囃子詞は、なぜかこの風景と心地よい調和をみせ、唄の原点を偲ばせてくれます。

民謡のある風景 - 吉野杉の香気偲ばせる過疎の古里(奈良県 吉野川筏唄)

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奈良と三重にまたがる大台ケ原は、全国一の多雨地帯と言われます。吉野川はそこを源流とし、和歌山へ出て紀ノ川と名を変え、紀伊水道に注ぎます。全長136km。大阪に隣接し、人口がふくらむ奈良県にとって、この川は貴重な水資源です。その川を、昔は筏が走りました。 奈良県は、近畿の屋根と言われる紀伊半島中央地域を抱え、県域の3分の2が山間地です。以前は山林、木材業が代表的産業で、吉野杉の名は全国に知られました。 吉野杉は、酒樽用に最適と言われ、中でも樹齢70年から100年ぐらいのものが珍重されました。最上のものは、外側が白太で内側が赤く、「内稀」と呼ばれて、酒どころ灘や伏見の酒造家の需要がひきもきらぬ有り様だったといいます。吉野杉の樽に詰められた酒は、樽回船で江戸まで運ばれ、遠州灘の波にもまれている間に、吉野杉特有の香気がブレンドされて、樽酒ならではの味をかもしました。 さて、いくら需要があるとは言っても、吉野杉の古里は山間の地です。杉材を運ぶには、陸路よりは川の方が、はるかに便利でした。そんな労働の中で、筏師たちが唄い出したのが『吉野川筏唄』だったといいます。  ♪筏乗りさんヨー   ア 袂がぬれる ヨー工   赤いたすきで 締めなされ   ホイ ホイ 筏唄は、川の流れがリズムの基調となります。流れが穏やかなら、道中唄調に「ホーイ ホイ」といった合いの手になりますし、流れが急な川なら「コラショーイ」といった掛け声が入ります。同じ筏唄でも、熊野川上流・北山川系の唄のテンポが早いのは、そのせいだと言われます。 かつて唄が流れた吉野川から筏師たちは姿を消し、この唄の古里一帯は、今、過疎に悩む地となりました。この唄も、同じ運命をたどるのでしょうか。

民謡のある風景 - 雅に将軍献上茶の昔偲ばせて(京都府 宇治茶摘み唄)

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京都府宇治市一帯は、昔から茶どころと言われてきました。宇治での茶の栽培は、室町時代にさかのぼり、その後も幕府の保護を受けて、東宇治、宇治など宇治川の扇状地で高級茶を作り続けました。その伝統をひいて、京都府では、今も玉露、煎茶、かぶせ茶、てん茶などが生産され、およそ1600haの茶園からの荒茶生産量は、年間約2360トンに上ります。 茶は、5月頃、新芽が出そろいます。それを摘んだものが番茶で、玉露などの高級茶はこれで作ります。 茶の新芽を手で摘んでいく作業は、根気がいります。その作業の中から生まれたのが茶摘み唄ですが、『宇治茶摘み唄』は、作業唄というよりは、むしろ雅なお座敷唄といった趣で、ゆっくりとしたテンポで唄われます。  ♪ハアー 宇治は茶所 茶は緑所   娘やりたや 婿ほしや 宇治の茶の唄は、投げ節と味木屋節の2種があると言われ、投げ節は、元禄の頃の九州の流行歌(はやりうた)が元になっていると言われています。味木屋節は「お茶壼の儀式」という献茶の儀式の時に唄われたものだといいます。 高級茶として知られた宇治茶は、江戸時代、将軍への献上品として珍重されました。製茶業者が新茶を精選し、専門家が吟味して、極めつきの特級品が茶壼に納められ、その茶壷が役人を従えて、東海道を江戸へ向かいました。茶壼道中は、重要な年中行事の一つで、茶壼通過の際は、大名行列も道を譲るしきたりだったといいますから、まさに茶壼さまさまだったわけです。「お茶壼の儀式」が、いかに典雅だったか、このことからも想像出来ましょう。 味木屋節の「味木屋」というのは、昔の製茶業者だったと言われ、業者によって唄われる唄の節回しも違っていただろうと考えられ、今も5通りの節があるそうです。 茶摘みの現場から唄が消え、宇治の茶唄も保存されるだけの運命にあるようです。 

民謡のある風景 - 幕末から続いた圧巻の熱狂ぶり(滋賀県 江州音頭)

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万葉の歌人・柿本人麻呂が「近江の海」と歌った琵琶湖は、滋賀県域のおよそ6分の1を占め、日本最大の淡水湖として知られます。 一帯は、7世紀に始まる大津京以来の文化の郷でもあります。湖東平野の中心部にある八日市(東近江市)も、聖徳太子の由来を伝える古い市場町ですが、江戸期、この町で『八日市祭文音頭』という唄が唄われていました。 幕末の頃、神崎郡御園村神田(現・東近江市)に、西沢寅吉という美声の男がいて、彼が唄祭文を習い覚え、独自の工夫を凝らして地元で唄い始めたのが、『八日市祭文』の起こりだといいます。これが『江州音頭』と呼ばれている唄で、地元では夏の夜の盆踊りに欠かせぬ民謡になっています。 唄祭文だけに、歌詞も長くなっています。  ♪ヤ コリャ ドッコイセ(ホラ シッカリセ)   エー 皆様頼みます(ハ キタショ)   アー これからは ヨイヤセの掛け声頼みます   (コリャ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)   アー さては此の場の皆様へ(ア ドシタイ)・・・ という調子で、七五反復の詞が続いていきます。盆踊り唄の方は、錫杖の一種を鳴らしながら唄っていたといいますが、1925(昭和元)年の全盛期には、京、大阪方面でも流行し、座敷唄としても唄われたといいます。 この唄の発生については、犬上郡豊郷町説というのもあって、西沢寅吉がその町の禅寺で初めて唄ったのだ、とも言われています。つまり、この唄い手の出身地説をとれば八日市、初演地説をとれば豊郷ということになります。 八日市では、夏の夜、琵琶湖祭りの行事として『江州音頭』の集いが開かれますが、その熱狂ぶりは圧巻の一語に尽きます。それだけ日本人の体質にはまった唄なのでしょう。琵琶湖を抱えた近江は、実にさまざまな面を垣間見せてくれる郷なのです。

民謡のある風景 - 祝祭の町に生き続ける歴史の唄(三重県 伊勢音頭)

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三重は、何と言っても伊勢神宮のある土地。神宮を外して三重は語れません。初参り客は百万を超し、20年ごとの遷宮もまた有名です。2033年には、第63回目の遷宮が行われます。 伊勢は、神宮の鳥居前に開けた町で、江戸の頃は、遷宮の年ごとに爆発的に人の波が押し寄せました。遷宮の年の伊勢参りは「おかげ参り」と呼ばれ、1830(文政13)年には、何と500万人もの人が、伊勢へやって来たといいます。当時の人口は、全国で3000万人ほどだったといいますから、「おかげ参り」の熱狂ぶりも分かろうというものです。 人々は、参宮の帰り、伊勢・古市の妓楼で精進落としをし、そこで『伊勢音頭』を覚えて各地に散りました。  ♪伊勢は 津でもつ 津は 伊勢でもつ   尾張名古屋はヤンレ城でもつ   ヤッコラヤートコセ ヨイヤナ   アリャリャ コレワイナ コノヨイトコセー 伊勢参りツアーを全国に広めたのは、人々にお札を届け、地元で宿坊を営む御師たちでした。1796(寛政8)年8月、その御師を主人公にした芝居『伊勢音頭恋寝刃』が、大阪で幕を開けました。伊勢・山田の御師・孫福斎が、料理茶屋で引き起こした殺傷事件を題材にしたもので、作者の近松徳三は、3日で書き上げたといいます。見せ場は、『伊勢音頭』の踊りを背景にした、10人斬り殺しの場。これが、喝采に次ぐ喝采でした。『伊勢音頭』は、更に有名になりました。 この唄は伊勢参りの道中唄、遷宮の折の木遣などが混じり合って出来たと言われ、1958(昭和33)年には地元で更に整備され、『正調伊勢音頭』としてまとめられました。祝祭の町伊勢にとって、この唄はまさに町の歴史のシンボルのようなものなのかもしれません。これからも、遷宮の年ごとに大きな脚光を浴びていくでしょう。