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民謡のある風景 - 歳月に磨き抜かれた民謡の王者(北海道 江差追分)

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北海道渡島半島の南端白神岬。海峡を隔てて、本州北端の津軽半島竜飛崎までは、約19km。三つの潮流がひしめく津軽海峡は、航行の難所とされてきましたが、人はそれでも、海を越えました。 渡島半島の町江差は、江戸の頃、ニシン漁の根拠地として栄え、春先2〜3カ月の漁が、「一起こし千両」と言われました。漁期には、ヤンシュウと呼ばれた出稼ぎ人や商人、船乗り、ニシン成金目当ての遊芸人が、山をなして押し寄せ、「江差の5月は江戸にもない」と言われる賑わいをみせました。それらの人々が持ち込んだ唄の一つが、『江差追分』へと育っていきます。  ♪(本唄)鴎の なく音に ふと目を さまし   あれが 蝦夷地の 山かいな 『江差追分』の本唄は、浅間山麓の追分宿で唄われていた馬子唄が新潟に入り、日本海を北上して北海道に入ったものと言われます。この本唄に朝鮮の「ペンノレ」と同系の艪漕ぎ唄「エンヤラヤ」が、合の手としてつけられ、唄は次第に座敷唄の形をとっていきました。 明治に入ると、平野源三郎が、尺八の伴奏でこの唄を唄い出し、その格調の高さが注目されて、「正調」と名づけられました。やがて、唄は舞台でも唄われるようになり、合の手は前唄という形になって、これに、送り・後唄がついて、今の『江差追分』スタイルが完成します。長い年月の間、実に多くの人々が、この唄を練り上げてきたわけです。 江差町では、毎年9月第3土曜、日曜に、この唄の全国大会が開かれます。ニシンの漁場は北へ移り、江差は、ニシンではなく「追分」の中心地となって、唄は磨きに磨かれました。 「追分」が越えてきた海峡は今、全長54km弱の青函トンネルで結ばれ、江差もまた、唄と共に明日を目指しているかのようです。

函館本線長万部駅の名物駅弁「かにめし」

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いつだったか忘れましたが、函館から札幌へ特急列車で移動した時のこと。途中の長万部駅で、名物駅弁の「かにめし」を買ったことがあります。私の中では、カニの駅弁というと、この長万部の「かにめし」を一番最初に思い浮かべます。 ある時、交通新聞社のウェブマガジン『トレたび』で、「日本全国駅弁の旅」という企画を見つけました。その第11回がカニ駅弁で、リードは次のようなものでした。 「昭和27年に初めて販売されて以来、根強い人気を誇るのがカニ駅弁。今回は、カニ好きの、カニ好きによる、カニ好きのための特集をお届けします!」 そして、北海道・釧路駅のたらば寿し、石川県・加賀温泉駅のかにすし、鳥取県・鳥取駅の元祖かに寿し、兵庫県・豊岡駅と城崎温泉駅の城崎のかにずし、福井県・福井駅などの越前かにめしの5点が紹介されていました。 あれ? 長万部の「かにめし」がないじゃない・・・。『トレたび』は、1952(昭和27)年発売開始の元祖かに寿し(鳥取駅)を最初のカニ駅弁としていますが、長万部の「かにめし」は、それより2年前の1950(昭和25)年に駅弁として販売を始めてるんですがね。 というわけで、専門の交通新聞社でさえ、追い切れていないのか、と思いきや、同じ『トレたび』の「旅行ガイド」という別企画に掲載された記事には、「カニを使った駅弁は各地で発売されているが、元祖は長万部『かにめし本舗かなや』の『かにめし』」と、きっちり書かれていました。 かにめし本舗かなやは、昭和初期に、鉄道交通の要衝として栄えた長万部駅で、弁当を販売していた長万部駅構内立売商会(1928[昭和3]年創業)が前身です。かにめしは、第2次世界大戦直後、食糧難で弁当の食材が入手困難だったことから、噴火湾でとれた毛ガニを塩ゆでし、弁当の代わりにホームで立ち売りしたのが始まりです。 しかし、「煮かに」は毛ガニの漁期以外には販売出来なかったため、カニのおいしさを1年中味わってもらえるようにと、何度も試作を重ねた末、1950年に完成。駅弁「かにめし」として販売をするようになりました。最盛期の昭和30年代には、15人の売り子がホームに並んだといい、長万部の「かにめし」は、一躍、北海道の名物となりました。 それが今年になって、北海道新幹線の札幌延伸に伴い、函館本線長万部~余市間の廃止が確定。函館~長万部間の存続も厳しく、北海道新幹線並行在

今や海外にも広がり始めたミニバレーの発祥地 - 北海道大樹町

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大樹町は北海道の東部にあり、東は太平洋、西は日高山脈に接し、中央部に広大な十勝平野が広がっています。海、山、そして十勝平野という自然に恵まれ、町は農業を中心に漁業、林業を基幹産業として発展してきました。また最近では「宇宙のまちづくり」を掲げ、航空や宇宙分野での実験や飛行試験を積極的に誘致しています。 大樹町の町技となっているミニバレーは、そんな大樹町発祥のスポーツで、もともとは町民のための冬のレクリエーションとして生まれました。それが徐々に各地へ広がり、今では毎年ジャパン・カップが開催されるなど、道内はもとより東北や関東、南の沖縄まで普及しています。更には海外にも広まり、最近ではロシアの関係者から国際組織を作ってほしいという要請を受けるほどになっています。 ミニバレーが誕生したのは1972年。考案者は、当時、大樹町教育委員会の職員として、ママさんバレーボール教室の指導をしていた小島秀俊さんでした。小島さんによると、ミニバレーが生まれたきっかけは、教室の参加者減が要因だったそうです。 教室に参加していたお母さんたちは、「ボールが当たると痛い」とか「突き指やけがが心配」と口々に言い、練習を重ねる度に1人減り2人減りと、参加者が少なくなっていきました。どうしたらこの状況を打開出来るか悩んでいた小島さん、ある日、遊びに行った友人の家で、部屋に転がっていたビニール製のビーチボールが目に止まりました。「これなら当たっても痛くはないな。このボールを使ったらどうだろう」。そんな思いが頭をよぎりました。 早速、次のバレーボール教室の時に試してみたところ、「痛くない」どころか、ボールが顔に当たっては笑い、頭に当たっては笑い、と体育館はお母さんたちの笑顔と歓声に包まれました。しかも、ボールを思い切り打っても、当たり所によっては前に飛ばなかったり、意図せぬ変化をしたり……、それもまた「楽しい!」「面白い!」と感じる要素であることが分かりました。 そして、これを本格的に競技として取り入れることにしました。そのためにはルールから作らなければいけませんし、そもそも競技の名前も考えなければなりません。ボールはビーチボールを使うとして、他の用具は既成のもので、体育館にあるものを活用することにしました。目を付けたのがバドミントンのネットと支柱でした。バレーボールのコートはタテ18m、ヨコ9mですが、両

前田真三さんが愛した美瑛の丘

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以前の記事( 東海随一の紅葉の名所・香嵐渓と足助の町並み )にも書きましたが、かつて編集に携わっていた雑誌で、写真家の前田真三さんに1年間表紙をお願いしたことがありました。その企画は、凸版印刷アイデアセンターの担当者から持ち込まれたもので、前田さんが、写真集『奥三河』で毎日出版文化賞特別賞を受賞した翌年、ちょうど『丘の四季』が出版された頃でした。 で、前田さんが、7月号用に選んだ写真は、美瑛の丘の写真でした。拓真館のウェブサイトにある「 心に残る10枚 」の一つ、「麦秋多彩」が、その写真です。これについて前田さんは、本誌のエッセーで「麦熟れる丘」と題して、次のように書いていました。 「さわやかな初夏の風が、心地よく丘を吹き抜けていた。あたり一面、真っ白いジャガイモの花畑である。ゆるやかな丘は、適当な起伏を保ちながら果てしなく続いている。空は抜けるように青い。目を東に向けると、まぶしいばかりの残雪のなかに噴煙を真っすぐ天に突き上げている十勝岳の主峰。やや北に転ずるとトムラウシから大雪連峰が指呼の間に望まれる。そのとき私は、あまりにも雄大で美しい風景に心を奪われてしまった。そして、馬の背のようななだらかな丘の上に整然と並んだ一条のカラ松林を見た。それは周囲の風景とよく調和している、というよりも、この丘のカラ松のために丘をとりまく大風景が存在している、という感じであった。「これこそ日本の新しい風景だ」と、思わず心のなかで叫んだ。これがこの丘との最初の出会いである。 この丘に通いはじめて、やがて16年になろうとしている。この丘とは、北海道中央部、旭川市から富良野市に至る中間の美馬牛峠および深山峠付近の丘陵地帯である。この付近一帯は、人工的に整地された畑作地帯であるから、やや野趣に欠ける面もあるが、ジャガイモをはじめ小麦やビートなど西洋的な作物が多く、ゆるやかな丘の連なりは、ヨーロッパの田園に匹敵するしゃれた風景であるといっても過言ではない。 さて、この写真はその丘陵地帯の真ん中にある美瑛町で撮影したものである。すでに日暮れに近い時刻で、空は異様に暗かった。四囲の緑がようやく落ち着きをみせ、麦畑がゆるやかな起伏で広がっていた。わずかな雲のすきまから夕日が差し込み、麦秋の丘は一段と赤味を増していた。そんな光の魔術に、とりつかれたように私はシャッターを切った。風景写真に理屈はいら

夏冬2度訪ねた「太陽を味方につけた町」北竜

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最初に北竜町を訪ねたのは、夏、ヒマワリ真っ盛りの時期でした。道内の子どもたち約80人が、オホーツク側のサロマ湖から日本海側へ向けて、道内を横断しながらリーダーシップ・キャンプをするというプログラムに同行した時でした。北竜には、その途次に立ち寄り、子どもたちは、「ひまわり迷路」で楽しい時間を過ごしていました。 次に北竜を訪問したのは、厳寒の1月中旬でした。前日に日本海で発生した低気圧が、急速に発達しながら北海道に接近。更にこの低気圧が数年に一度レベルの寒気を呼び込み、北日本は大荒れの天気が予想される時期でした。実際、北竜町では訪問した日の午前中、5時間で25cmの積雪があったそうです。 取材の打ち合わせで連絡を取っていた中島則明さんから、前日に電話があり、北海道は翌日午後から爆弾低気圧の影響で冬の嵐になる可能性があり、最悪の場合、取材予定の活動が延期になることもあり得る、との話でした。心配しながら新千歳空港へ降り立ちましたが、雪は全く降っておらず、所々、青空も見えていました。ただ、空港から北竜町までは距離にして約120km。まだ安心出来ません。 新千歳空港からはエアポートライナーで札幌まで行き、ここで函館本線の特急に乗り換えて滝川へ。乗車時間は合わせて約90分。滝川から北竜まではバスです。札幌‐留萌間を走る高速バスに乗ると、滝川駅前から北竜役場前までは約25分。途中、所々雪が舞う箇所もありましたが、北竜町は「太陽を味方につけた町」のキャッチコピー通り、青空の下、太陽が顔をのぞかせていました。 役場前で、北竜町議会副議長の山本剛嗣さんと、中島さんと合流後、すぐに現場へ向かいます。この日の活動は、高齢者宅の除雪作業でした。この日は14人のボランティアが、それぞれスコップ持参で参加。3班に分かれ、3軒のお宅で雪はね(雪かき)奉仕を行いました。 北竜町の冬は雪が多く、年に何度かは雪はねが必須。道路に面した玄関前などはショベルカーを使うことも出来ますが、家の裏側は人の手でやるしかありません。しかし、高齢者宅では手が足りず、こうして時々、雪はねボランティアを実施、とても喜ばれています。 元気な人が高齢者をサポート。皆で力を合わせて厳しい冬を乗り切るのが、北竜町流だと皆さん口をそろえています。この時は、そんな町民性、地域性が、取材目的の一つでした。 この後、活動の打ち上げを兼ね、焼

銘菓郷愁 - 農業の歴史刻む「旭豆」 北海道旭川

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北海道旅行の土産に「旭豆」をもらった、という人が随分いるようです。「旭豆」は、北海道・旭川生まれなのですが、いつしか、全北海道を代表するようになりました。 歴史上に旭川という地名が登場するのは、1890(明治23)年のことで、地名は市内を流れる忠別川のアイヌ原名に由来するという説があります。この地に和人が入ってきたのは1877(明治10)年頃からだそうで、90年には、北海道開拓の原動力の一つであった屯田兵制度が変わり、開拓労働に重点が移って、旭川周辺にも、91年から93年にかけて屯田兵が入ります。 更に92年、北海道の農政が転換します。それまで寒冷地での稲作は無理だとされ、米を作ろうとした屯田兵は、軍隊の牢屋に入れられました。けれどこの年から水田に直接モミをまく直播法が奨励され、東旭川の屯田兵が高能率の直播器を発明したり、新種の早生米も見つかったりして、旭川を含む上川盆地の稲作は急速に広がっていきました。1903(明治36)年には、函館地方が大凶作なのに北の旭川周辺は大豊作、という実績を築きます。 「旭豆」は、この上川穀倉地帯を背景に誕生しました。02年の春、この地を富山の売薬行商人・片山久平という人が訪れ、旭川の宿に泊まったのがきっかけでした。片山は、同宿の人々が「田の畔で見掛ける見事な大豆を使って、菓子は出来ぬか」と、話しているのに引かれました。大豆は、あまり地味をより好みせずに育ちます。上川の田の畔に植えられた大豆も、目を引かれるほどによく育っていたのでしょう。 片山は、同郷の菓子職人・浅岡庄治郎と新種の菓子の創作にとりかかり、飛騨高山の「三嶋豆」をヒントに工夫を凝らしました。「三嶋豆」は、煎った大豆に砂糖と澱粉のころもをかけた菓子で、甘く香ばしいのが特徴です。二人が創り出した新しい菓子もそれに似て、大豆特有の風味と香りが生かされ、それが甘味と溶け合っていました。 旭川には、1900年から旧陸軍の第7師団が置かれ、「旭豆」は、その陸軍の兵士たちに愛されました。兵役を終えて郷里へ帰る兵士たちは、北海道土産として「旭豆」を求めました。彼らもまた多くが農民の子だったのです。 その後、北海道は大豆とビートの主産地として成長、「旭豆」も味に磨きをかけました。「旭豆」は、開拓の歴史が凝縮した菓子です。

城のある風景 - つかの間の夢の青空

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五稜郭の名で知られる函館の城は、西洋式の設計で、1857(安政4)年11月から工事が始まり、7年後の1864(元治元)年、完工を待たず、ここに函館奉行所が置かれました。 この城は、日米和親条約による開港に備えて、急いで造ることになったもので、火砲の攻撃に耐えられるようにと、蘭学者が設計に当たりました。五稜郭の原型は、16世紀のヨーロッパで考え出されたものと言われ、函館ではオランダ式の星型五稜の築城法がとられました。 明治維新後、五稜郭は明治政府が接収しましたが、1868(明治元)年10月、この城を旧幕臣の軍勢が襲います。軍勢は旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられた者たちで、総勢3500名。会津で戦った新撰組副長の土方歳三も合流していました。 小さな戦闘はありましたが、政府側はことごとく敗北、10月25日には、箱館府知事以下の政府関係者が青森へ去りました。 国際法に詳しかった榎本は、11月に入ってイギリスやフランスの領事らと会談、国内の紛争には不干渉の立場をとる、という覚書をとりつけ、榎本らの集団を"事実上の政権"と認めさせました。 更に、榎本らの集団は上級士官以上の者たちによって選挙を行い、"政権"の代表などを決めました。投票総数は856票だったと言われ、総裁には榎本、副総裁には陸軍奉行並だった松平太郎が選ばれました。陸軍奉行には大鳥圭介、同格に土方歳三らが名を連ね、いわゆる"共和国"が誕生しました。 12月15日、"共和国"の出発を祝って祝砲が鳴り響きます。榎本らにとっては、この時が夢の青空が輝いていた時期だったでしょう。 1869(明治2)年正月、榎本らの"政権"承認を求めた嘆願は却下され、政府は圧倒的な軍勢で五稜郭に迫り、土方歳三も市街戦で逝きます。5月18日、五稜郭開城。"共和国"は、つかの間の夢に終わりました。

手つかずの大自然に抱かれ、自然と共に暮らす人々

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道東地方のほぼ中央、阿寒国立公園の約56%を占める弟子屈町は摩周湖、屈斜路湖、硫黄山など、手つかずの大自然があふれ、年間約100万人の観光客が訪れます。 阿寒国立公園は、「火山と森と湖」の公園と呼ばれ、千島火山帯の西南端にあたる三つのカルデラ・摩周、屈斜路、阿寒が中心となっています。三つの大きなカルデラが、これほど接近しているのは世界的にも珍しく、特に屈斜路カルデラは世界最大級で、美幌峠や藻琴山などの雄大な外輪山を持っています。透明度世界一といわれる摩周湖は、45度の急斜面で覆われます。これほど険しい湖岸も珍しいでしょう。湖には、注ぐ川も、流れ出る川もありません。春から秋までは霧が多く、その姿を隠すことが多くなります。摩周湖が、「神秘の湖」と呼ばれるのもうなづけます。 そんな弟子屈の観光拠点となるのが、川湯や摩周などの温泉群。町には七つの温泉があり、それぞれ泉質・効能からロケーションまでさまざまで、バラエティーに富んだ温泉が味わえます。 この地の温泉を最初に探査したのは、1858(安政5)年にここを訪れた蝦夷地探検家・松浦武四郎でした。その後、明治に入って本格的な調査が行われ、1877(明治10)年、川湯などの採掘が始まりました。 その川湯は、アカエゾマツやシラカバ、ミズナラなどの天然林に囲まれた温泉街です。湯量も豊富で、湯の川が街の中を流れ、硫黄の香りと湯煙りが漂っています。 弟子屈では、こうした観光の他、酪農や畑作が基幹産業となっています。これらは、いずれも自然そのもの、あるいは気候、風土など自然条件を生かしたものばかり。人の暮らしが、いかに自然の恩恵を受けているかがよく分かります。 太古を思わせる、手つかずの大自然に抱かれるように暮らす人々に、日本古来の伝統的な生活を見る思いがします。 硫黄山はいまなお噴気を上げ火山活動を続けている ←屈斜路湖からそのまま掘り込んだ和琴半島の露天風呂。湖畔には砂浜を掘ると即露天風呂になる砂湯などもあります

北の国・ワインカラーの町

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池田町の町を歩いていて、やたらと目につくのがワインショップです。それこそ、軒を連ねるようにして並んでいます。そして、その前の歩道も、街灯も、家々の屋根も、みなワインカラー。それもそのはず、ここはワインの里、町ぐるみでワインを愛し、育てているのです。 この北の小さな町池田町を、全国的に有名にしたのが、十勝ワインで知られる町営のワインづくりです。地方の時代にあって、この池田町のワインづくりの成功は、新しい町づくりのモデルとされ、「自治体ワイン」の名まで生みました。 昭和30年代の初め、池田町は冷害によリ財政赤字に陥いりました。この時、ある専門家が言った「ここの山ブドウは良質のワインになるアムレンシス系統かもしれない」の一言が、町を挙げてワインづくりに取リ組むきっかけとなりました。 1960(昭和35)年、ワイン町長と呼ばれた当時の丸谷金保町長の発案で、ブドウ栽培に着手。3年後の63年から、ワインの醸造を始めました。 池田町のブドウは当時の日本では珍しい垣根式や棒仕立てで栽培されていました 良いワインは、良いブドウから。ここのブドウは、よっぽどワインに適していたのか、翌64年には、早くも国際ワイン品評会で銅賞に入賞。以後も同品評会での金賞、銀賞を始め、世界のワイン・コンテストで数々の賞を受賞。世界に誇るワインへと評価を高めていきました。 もっとも、初めから全て順調に進んだわけではありません。国際品評会に入賞、町民がやっと、ブドウ栽培をやろうという機運が盛リ上がった64年、厳しい冷害に見舞われ、苗木が全滅してしまいました。 その後、懸命な努力によリ、山ブドウにヨーロッパ種のセイベル種を交配させて、寒さに強い「清見」を生み出しました。本当に軌道に乗ることが出来たのはそれからです。 池田町のワインには、いくつもの品種がありますが、人気なのは、「清見」や「山幸」など酸味の効いた辛口の赤。これらは、特産のいけだ牛にとてもよく合います。春と秋に行われるワイン祭では、十勝ワインの飲み放題がある他、牛の丸焼きも登場。北海道の雄大な自然にマッチした、なんとも豪快なイベントです。 ↑中世ヨーロッパの城を思わせるところから「ワイン城」と呼ばれる池田町のシンボル・ワイン工場

安全性やブランド力を高め付加価値農業を創出する北空知

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午前3時、まだ真っ暗な中、広大な豊泉牧場の一角に明かりがともりました。乳製品の加工場・MOMO工房で、牛乳の瓶詰めが始まったのです。 「そりゃあ、冬は寒いですよお。でも、真っ白な雪を踏みしめて工房まで歩いて来るのは気持ちいいものですよ」と、ご夫婦でMOMO工房を切り盛りする鹿島留美さんは話します。ご主人の稔さんは豊泉牧場の5代目社長。 豊泉牧場は1957(昭和32)年に酪農専業の3戸により発足、62年から有限会社となりました。当時としては例のない方式でした。そんな伝統を受け、94(平成6)年に社長に就任した稔さんは、更に先進的でユニークな経営に乗り出しました。 96年、消費者とのつながりを構築しようと牛の里親(オーナー)制度をスタート。オーナーは牧場で生まれた子牛を時価で購入。子牛は牧場で育てられ、牛乳が生産されるようになると自分の牛の牛乳をいつでも飲めます。また実際に牧場に出かけて、酪農体験をすることも出来ます。 更に98年、MOMO工房を立ち上げ、ヨーグルト、アイスクリーム、ミルクパンの製造販売を始めました。工房は製造体験も出来るようになっており、学校などの体験学習に利用されています。 牧場まで案内してくれた地元の東原廣志さんが、「鹿島君は思いついたら即行動だからね」と言えば、留美さんも、「相談された時には、もう決まってますからね」と笑っていました。 鹿島さんは、牛乳の配達が終わると、道内一の利用率を誇る道の駅「ライスランドふかがわ」に顔を出します。ここで搾り立てのフレッシュミルクを使ったソフトクリームの販売を始めたからです。消費者との触れ合いを求める鹿島さんの挑戦はまだまだ続きそうです。  ◆ 深川を中心とした北空知管内では「北育ち元気村」の名の下、JAが広域合併し、米を始めとする農産物の広域統一ブランドを作り、その普及に努めています。この辺りは特に道内随一の米どころとして知られます。 北海道開拓が始まった当時、道内では稲作が行われておらず、屯田兵はアワや麦を食べていました。北空知では1892(明治25)年、現在の深川市音江町で稲を植えたところうまく育ち、自分でため池を作ったり、川の水を引いて水田を作る人が多くなってきました。 1912(大正元)年には、石狩川の水を引いて用水路を作る工事が始められ、4年後の1916年に完成。当時はクワやスコップで土を掘り、掘っ

羊蹄山の恵みを受けて育まれたオブラート

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倶知安は、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の北麓に広がる町です。1910(明治43)年に後志支庁が置かれ、羊蹄山麓の行政の中心地、物資の集散地として発展しました。 また、羊蹄山を含む支笏洞爺湖国立公園と、ニセコ積丹小樽海岸国定公園を結ぶ道路交通の要衝にあり、夏の登山や冬のスキーなど、多くの観光客が訪れます。産業は、こうした観光地だけに第三次産業の比率が高くなっていますが、山麓一帯では酪農、盆地では畑作が盛んで、特に馬鈴薯は全国でも有数の産地となっています。 更に、この馬鈴薯を原料に生産される片栗粉やオブラートも、倶知安の特産品。特にオブラートは、全国生産量の40%を占める日本一の生産地です。 オブラートは、英語でイータブル・ペーパー(食べられる紙)とかポテト・スターチ・ペーパーと言うように、その原料は澱粉。特に羊蹄山麓のように、高地で作られる馬鈴薯が、オブラートには向いているといいます。 ここ倶知安のオブラートは、そうした点に目をつけて生まれたものですが、他にも日本一おいしいと言われる羊蹄山の湧水を使っていることも、利点となっているのだそうです。一口にオブラートと言っても、自然の恵みが大きな要素となっているのです。 そもそもオブラートは、キリスト教の祭壇に供える小麦粉の薄い煎餅がルーツだといいます。オブラートとは、その煎餅の形を示す偏円形の意味のギリシャ語とか。それがドイツで薬を包んで飲むのに使われ、原料も澱粉に変わりました。 しかし、初期のオブラートは今のものよりも硬く、厚さも薄焼き煎餅くらいだったようです。飲む時は、水に浮かべて、その上に薬を置き、軟らかくなったところからたたんで、水と共に飲んでいたといいます。 それがだんだんと改良され、現在の厚さ0.03mmというものになりました。その製造工程は、澱粉に水と若干の食用油を加えて糊状にし、それを回転式乾燥ドラムにかけて、薄い紙状のオブラートにするというもの。 こう書くと、ひどく簡単なようですが、実は大変。ドラムの加熱調節はもとより、部屋の温度や湿度、また季節や天候なども微妙に影響します。また、乾燥ドラムには漆が塗られていますが、これも20日ごとに塗り替えなくてはなりません。オブラート製造で一人前になるには、10年はかかると言われる、まさに職人の世界なのです。 こうして作られたオブラートは、裁断されて薬包用や飴、キャラメル

北の創り手たちの心を伝える温もりの木工クラフト

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東川町は、北海道の屋根と言われる大雪山連峰の山裾にあり、肥沃な土壌と豊かな自然に恵まれています。道内一の落差を誇る羽衣の滝を持つ天人峡温泉、大雪山連峰の主峰旭岳中腹の旭岳温泉の二つの温泉を有し、おいしい米や野菜、木工品が生産される町として知られています。 また毎年、国際写真フェスティバル「フォト・フェスタ」や「写真甲子園」が開催され、写真の町としても有名です。 東川は、旭川市の東にあり、元は旭川村(現市)に属していました。その後、1897(明治30)年に分村、1959(昭和34)年に町制を施行しました。町の西側は上川盆地の穀倉の一環を成す平野部、東部は大雪山連峰の主峰旭岳に連なる火山・原生林地帯で、大雪山国立公園に含まれています。 旭川、東川の周辺は、大雪山系の森林地帯を控え、古くから製材木工業が盛んで、家具などの生産も行われてきました。これらの家具は、狂いの少ないと言われる地場木材を使って、全国的にも高い評価を得ています。 そうした伝統家具の流れの中で、40年ほど前から、木工クラフトが脚光を浴びるようになりました。当初は、旭川に造形作家などを招いて講習会も行われ、家具作りのノウハウを生かしながら、新しいクラフトを生み出してきました。自然をモチーフにしたものが多く、作品からは木の温もりや優しさが伝わってきました。 やがて、題材を自然に求める作家たちは、自然が豊かな郊外へ工房を移すようになりました。特に、素材や工具なども入手しやすい東川は、そうした作家たちにとって、恰好の拠点だったようです。現在、東川には多くの工房が点在し、それぞれ独自の手法とデザインで、楽しいクラフトを制作しています。 しかも、家具を始めとする木工の伝統を受け継いだ作家たちは、高い技術に裏打ちされた新しいクラフトを創り上げ、全国的にも高い評価を得ています。販路も、むしろ道外の方が多く、東京や大阪といった大都市圏に広がっています。コンクリートに囲まれた都会の人間にとって、東川のクラフトは、自然の温もりを感じさせるオアシスとなっているのでしょうか。 ※写真は、鳥のモビールを始め動く木工クラフトを創る早見賢二さん

木のぬくもりを伝える北国のクラフト

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1980年代から、日本のあちこちで、まちおこし・村おこし運動が盛んになりました。置戸町も、そんな町の一つでした。 置戸では、1970年代の後半から、町づくりのためにさまざまなアイデアを生み出してきました。全国的に有名になった人間ばん馬や、町民焼酎、町民ワイン、それにオケクラフトなどがその産物です。中でもオケクラフトは、置戸町のアイデンティティーとも言える森林文化の中心的存在として、町を挙げてその育成、強化に取り組んできました。 置戸町は大雪山の東端に接し、周囲を山に囲まれ、森林が町の面積の8割以上を占めています。森林のほとんどは、エゾマツとトドマツ。軟らかく割裂性が高いため、建材としての需要はほとんどなく、せいぜい炭鉱の支柱用に安い値段でしか売れませんでした。 そのため二次加工に力を入れ、付加価値を高める必要がありました。コロッケを買う時に包んでくれた経木や、駅弁の折り箱などがそれです。しかし、ある時期から折り箱は紙製になり、経木はビニールへと変わってしまいました。 そこで割裂性のよさを生かして、割り箸作りを始めました。これは当たり、高級割り箸の生産はぐんぐん伸びました。が、機械で量産する場合、割り箸に出来るのは表皮に近い部分だけ。樹齢100年ぐらいの太い木でも、中の60年分ぐらいは捨てることになります。これでいいのだろうか。そんな声が、町の中で次第に大きくなってきました。 割り箸にしろ、経木にしろ、使い捨てとは言え、捨てた後はまた自然に返ります。木に囲まれて生きてきた日本人の生活の知恵であり、人間が自然に積極的に関わった形でのリサイクルでした。しかし、機械の導入によって、自然と人間の良い関係が崩れてしまったのです。6割は捨てるとなると、やはり抵抗があります。町でも「豊かな自然を守り、自然と共に楽しく暮らす町づくり」を目指し始めました。 町では、工業デザイナーの秋岡芳夫氏を招き、自然との新たな関係を模索しました。その話し合いの中から生まれたのが、オケクラフト。成長に100年かかった木では、100年使える物を作る。育つスピードと作るスピードを合わせよう。この考え方をベースにした新しいものづくりへの挑戦でした。 エゾマツ、トドマツの見直しが始まりました。東北工業大学からロクロ技術と樹脂強化、クラフトデザインを導入。170種類もの工芸品を試作して、東京のデパートで展覧会を

太古からの森に抱かれた「妖精と出会えるまち」

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大学時代の友人が、一時、札幌に単身赴任していたことがあります。東京生まれ東京育ちの彼にとって、冬の北海道はさぞ辛かろうと思いましたが、そんな心配はどこ吹く風。こちらが拍子抜けするくらい、札幌ライフを楽しんでいました。 ある時、その友人が、札幌の冬を表現して、「しんしんと雪が降るんだぞ」と言ったことがありました。実感のない私が、ふんふんと聞いていると、それを察した彼は、「本当に、しんしんと降るんだぞ、分からないだろうなあ」と、哀れむような目で私を見ました。そんな夜、彼は一人、部屋で本を読みながら過ごすのだ、とも話していました。 その頃にはだんだんイメージがふくらみ、何か彼だけ、人生が豊かになっているような嫉妬心を覚えたものです。 上の写真は、そんな冬の北海道の典型的な風景を切り取ったものです。撮影地の北広島は、友人が住んでいた札幌と隣り合わせ。札幌までは快速電車で16分、新千歳空港までは20分という場所にあります。 その北広島を、地元の方に案内して頂いたことがあります。札幌に近い場所は、住宅展示場と見紛うようなしゃれた家並が続いていました。当時は、札幌のベッドタウンとして宅地化が進み、人口が増加している頃でした。 また、札幌という大消費地を控え、農業も野菜などの近郊農業が中心でした。第一印象は、「何だか北海道らしくない街」でした。この辺を歩いている限り、とてもこれぞ北海道的な写真が撮れるとは思えませんでした。 ところがどっこい、北広島には、特別天然記念物・野幌原始林の一部を含む広大な森が、市の中心部にあります。東京なら、車で2時間は走らないとお目にかかれないような豊かな自然が、駅から歩いてすぐの場所にあるのです。 更に、郊外に出れば広々とした牧草地や耕作地もあり、まさに北海道らしい風景が広がっています。そこに「しんしん」と雪が降れば、北海道らしくないものまで隠してくれ、道外の人間がイメージする「完璧な」北海道が出現します。 北広島は「妖精と出会えるまち」をキャッチにしています。市内にはエルフィン・ロードというサイクリングロードも整備されています。ゆっくり自転車で回ってみたい土地です。 ※北海道の開拓時代を物語る「旧島松駅逓所(国指定史跡)」は、クラーク博士が帰国の際、見送りに来た生徒たちに「Boys be ambitious」の名言を残した地でもあり、また寒地稲作発祥

火山と森と湖。手つかずの大自然が残る阿寒国立公園

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阿寒国立公園は「火山と森と湖」の公園と呼ばれます。公園内には、2006年の春分の日に噴火した雌阿寒岳(1499m)や、雄阿寒岳(1371m)、阿寒富士(1476m)と三つの活火山があります。周囲にはマリモで有名な阿寒湖や、ペンケトーとパンケトー、それに神秘の湖と呼ばれるオンネトーなど、これらの火山による堰止め湖が点在し、それらを包むように深い原生林が広がります。こうした阿寒の森は、アカエゾマツ、トドマツなどの常緑針葉樹と、ミズナラ、カツラなど落葉広葉樹とからなる針広混交の森となっています。 また、阿寒湖温泉と野中温泉(雌阿寒温泉)という、二つの温泉地を持っています。阿寒湖温泉の方は完全に観光地化していますが、雌阿寒温泉は原生林に囲まれた静かな雰囲気を残しています。 この阿寒国立公園の中は、いくつかの拠点を結ぶ車道が整備されています。それを周回するのが一般的ですが、一つひとつゆっくり親しむと、また違ったものも見えてきます。今回は、阿寒湖と雄阿寒岳、雌阿寒岳を主体とした、公園の西側部分を紹介します。 まずは阿寒横断道路(国道241号)沿いにある双湖台に寄ってみましょう。摩周湖のある弟子屈町から来ると、阿寒湖畔温泉の少し手前にあります。ペンケ、パンケの両湖が望める展望台で、森全体が俯瞰出来ます。 阿寒の典型的な森林相を確認したら、次は雄阿寒岳登山口に向かいます。ここは阿寒湖の水が阿寒川となって流れ出る出水口です。水辺に沿って歩くと、林床には本州では高山帯に咲く花々が見られます。十分ほどで太郎湖に出ます。岩場からは清水が湧き出し、湖の縁には丸く大きな葉を持つラワンブキが密生しています。太郎湖の周辺はアカエゾマツ、トドマツなどが混生する美しい森になっています。この先は次郎湖を経由して、雄阿寒岳山頂まで約3時間半。しかし、結構傾斜が急なので、森を歩くことが目的なら、適当なところで引き返すほうが賢明でしょう。 雄阿寒岳の次は、雌阿寒岳山麓の森を探勝しましょう。阿寒湖畔から、足寄峠を越えてしばらく走るとオンネトーへ向かう道に出ます。この道は森の中に切り開かれているので、両側に美しい自然林を見ながら走ることが出来ます。 雌阿寒岳の登山口付近はアカエゾマツの美しい森が見られます。登山道はかなり急な登りがありますが、入り口から20分ぐらいの間は傾斜が緩く、また特に林相も美しいので、ぜひ散

鶏肉じゃない「やきとり」で室蘭の町を元気に

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室蘭市が発行している広報誌 『広報むろらん』の2001年9月号 に、「”焼き鳥”で室蘭をアピール」と題し、次のような記事が掲載されました。 「最近、市内外で注目を集めている室蘭の焼き鳥。この焼き鳥で室蘭のまちおこしを、と考えている団体がある。室蘭中央ライオンズクラブだ。(中略) 同クラブでは、この焼き鳥に注目。今後1年間、重点的に焼き鳥をアピールしていこうと、今年7月『焼き鳥委員会』を立ち上げた。 市民には焼き鳥を室蘭独自の食文化として、より一層愛着を持ってもらう。市外の人にはそのおいしさを売り込み、まちの活性化とまちづくりに役立てるのが狙い(後略)」 ここで、基本的なことを押さえておかないといけないのですが、「室蘭やきとり」は鶏ではありません。豚です。豚なのに、なぜ「やきとり」か、という疑問はひとまずおいて、「室蘭やきとり」と言えば、豚肉、タマネギ、洋がらし、がお決まりです。鶏肉、長ネギ、七味唐辛子の一般的な焼き鳥とは大いに趣を異にしています。さて、「室蘭やきとり」の基礎知識を得たところで、続きにまいりましょう。 実は、この記事の前に、 『広報むろらん』は2000年11月号 で、「やきとりを探る」という特集を組みました。それは、なぜ室蘭独特の「やきとり」が生まれ、定着したかを探る企画でした。ルーツ自体は諸説があって、定かではないのですが、この企画が室蘭中央ライオンズクラブに活動のヒントを与えました。 1909(明治42)年に初めて溶鉱炉に火がともって以来、室蘭は鉄鋼の町として繁栄。最盛期には人口16万人を超えていました。この頃、室蘭の街は活気にあふれ、鉄鋼労働者を中心に繁華街は夜中までにぎわいました。 そして、こうした労働者の胃袋を満たしていたのが「やきとり」です。新日鐵の工場があった輪西には、ずらーっと「やきとり」の屋台が並んでいたといいます。 しかし、そんな室蘭も、鉄冷えと共に人口が減り続け、『広報むろらん』の記事が出た2000年頃は10万人に。道内の人たちからは、「寂しい街」というイメージで見られるようになってしまいました。 そんなイメージを吹き飛ばし、市民に元気を与えたい。かつては肩が触れ合うほどのにぎわいを見せ、今はネコも歩かない、日本一寂れた商店街と言われる室蘭に、再び活気を取り戻したい。室蘭中央ライオンズクラブの「やきとり委員会」は、そんな気持ちから