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民謡のある風景 - 落日の中の憂愁の旅情(新潟県 佐渡おけさ)

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佐渡のおけさか、おけさの佐渡か、佐渡へ渡る船上で、まず、おけさが流れます。  ♪ハァー 佐渡へ 佐渡へと草木もなびくョ   佐渡は居よいか 住みよいか 新潟から佐渡の両津へ、フェリーで2時間30分。ジェットフォイルでは約1時間。午後の便だと、海に沈む夕陽が、島をシルエットに描き出し、旅情もひとしお。 「嫁も姑も手を打ちならし、五十三里を輪に踊る」と唄われる佐渡島。周囲270km、我が国第一の大きさの島です。船が着く両津港は、日米通商条約締結の折、補助港に指定された港ですが、江戸期には両津よりも小木港の方が栄えました。佐渡の金の積み出しに使われ、西回り航路が開けてからは、日本海交易の中継港となり、出船千艘、入船千艘の賑わいを見せたといいます。奥羽、北陸から山陰沿いに南下し、下関から瀬戸内へ抜けて大坂、更には江戸へという、この海の道は、佐渡へ諸国の芸能をも運び込みました。 「おけさ」も、海の道を通って佐渡へ渡ったといいます。九州の「ハイヤ節」が、日本海を通って小木や新潟の出雲崎などへ上陸、小木で「ハンヤ」と呼ばれるようになり、それが相川鉱山にも広まったと言われています。歴史の古さを示すかのように、歌詞も、18世紀半ば頃の流行詞から、尾崎紅葉の詞まであるという多彩さです。 歌詞による起源説はいろいろ。桶屋の佐助が唄い出したからオケサだとか、猫が芸者に化けて唄ったのが始まりとか、織田信長の娘の侍女発祥説というのまであります。 伝説はさておき、この唄を実際に唄い広めたのは、1924(大正13)年に創立された立浪会で、特に、美声の村田文三の唄で知られるようになりました。これに、新潟出身の小唄勝太郎の「ハァー小唄」調が加わって急速に普及しました。 憂愁と明るさ・・・、夕陽の中で聞きたい唄です。

冬の味覚・五十嵐浜の地ダコ

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昨日の明石からのタコつながりという強引な技で、今日は新潟市内野のタコについてです。 内野については以前、「 杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち 」で、かつては造り酒屋が集中し、酒蔵の町と呼ばれていたことを書きました。で、酒の寒造りと共に内野の冬を語る上で欠かせないのが、こちらも知る人ぞ知る五十嵐浜の地ダコです。 冬場、天気の良い日に国道402号を走っていると、内野町を流れる新川の辺りで軒下に巨大なタコがぶら下がっている光景に出合います。大きなものでは体長3m、重さ50kgなんてものもあるそうです。種類はミズダコですが、この巨大タコは内野周辺でしか捕れません。しかも、12月から3月までの産卵期に限られます。 そこへもってきて、冬の日本海は、時化が多いときています。この時期、漁に出られる日はあまりなく、地ダコが揚がるのも1シーズン12〜13回というから、地元の人でもなかなか口に出来ない貴重品なのです。 タコ漁というと「たこつぼ」を仕掛けるのが一般的に思われます。が、実際にはいろいろな漁法があるようです。例えば、日本一の明石では、たこつぼ漁もありますが、ほとんどが底引き網漁で、一部一本釣りも行われているらしいです。タコの一本釣りって、どんなでしょうね。興味があります。 また、「西の明石、東の志津川」と言われる宮城県南三陸町では、「籠網」を沈めて、タコを捕っています。一方、内野の五十嵐浜では、松やナラの木箱を使います。これは、明治時代から伝わる五十嵐浜独特の漁法だそうです。 こうして捕られたタコは、すぐに茹でて直売しており、五十嵐浜の道端に大きな地ダコがぶら下がる光景は、内野の冬の風物詩となっています。五十嵐浜の地ダコは、でかいだけではなく、味も格段に旨いので、午前中には完売してしまうといいます。 食べ方としては、そのまま刺し身で食べるのが、何と言ってもいちばんです。足の吸盤はこりこりとした歯ごたえがあり、頭部は脚より甘みがあります。 ちなみに、地元の方の計らいで、内野駅近くの料理屋さんに調理してもらい、タコの内臓を撮影させてもらいました(トップ写真)。普通は、漁から帰った後、すぐに内臓を取り除いて茹でるため、一般の人の口にははなかなか入りませんが、漁師さんに頼めば分けてもらえることもあるんだそうです。 また、地元では、生のタコしゃぶも人気があると聞きました

日本酒好きのワンダーランド・ぽんしゅ館で味わう「鶴の友」

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以前の記事で、新潟県のJR越後線内野駅が、かつて「鶴の友」駅と呼ばれていたことを紹介しました( 杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち )。これは、駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたためで、「内野駅」の看板はその隣に、ひっそりと掲げられていました。 「鶴の友」とは、内野にある樋木酒造の日本酒です。樋木酒造は超がつくほど地元密着型の蔵元で、地元の人の口に合った酒造りを目指しています。そのため、「鶴の友」も新潟市以外にはほとんど出回らず、県外不出の地酒となっていますが、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 私の場合、築地の事務所近くにあった老舗のそば店「さらしなの里」に「鶴の友」が置いてあったことから、時々、飲むことが出来ましたが、東京を始め関東圏ではめったにお目にかかれないと思います。一度、北海道の函館に行った際、「鶴の友」を置いてあるという理由で店を選んだことがありました( 銘酒「鶴の友」がある函館の居酒屋てっ平 )。その時は、残念ながら品切れだったんですが、日本酒のラインアップに「鶴の友」が入っているだけで、その店を信頼してしまうほど、私にとって好きな銘柄となっています。 そんな「鶴の友」を確実に味わえるのが、「ぽんしゅ館」です。 「ぽんしゅ館」は、新潟県湯沢町にあるレルヒという会社が運営しており、「新潟人も知らない、新潟を売る、新潟の専門食品店」を標榜しています。扱っているのはお酒だけではないのですが、県外の人間からすると、「ぽんしゅ館」という名前からして、完全に日本酒のお店だと思ってしまいます。 私の初「ぽんしゅ館」は、上越新幹線越後湯沢駅構内の店舗でした。ここは1995年に出来た店で、以後、2013年に新潟駅、2017年には長岡駅にも開店しています。 で、目玉は何と言っても、ぽんしゅ館オリジナルの利き酒設備です。日本酒王国・新潟の酒蔵が、全て利き酒出来る越後のお酒ミュージアムで、日本酒好きにとっては、ワンダーランド的施設でしょう。 また、第1号店の越後湯沢駅店には、「湯の沢」という酒風呂もあって、定期的にお風呂専用に薄めた日本酒が投入されています。日本酒の成分が血行を促進し、肌がすべすべ・体がポカポカになると言われ、新幹線や在来線の待ち時間などに利用する旅行客もいます。 そんな施設だけに、新幹線の駅な

糸魚川駅周辺のあれこれ

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糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ぐ活動を取材した際( 糸魚川駅北大火からの復興 )、夕方から駅に近い商工会議所で紙芝居をするということで、昼間のうちに別件の仕事を一本片付けたり、火災があったエリアを歩いたりしました。それでも少し時間が出来たので、糸魚川ジオステーション「ジオパル」を訪問してみました。 「ジオパル」は、糸魚川市が北陸新幹線糸魚川駅高架下に設けた「糸魚川世界ジオパーク」の魅力発信基地となると共に、糸魚川の特徴的な地勢の一部を表現した大型ジオラマも設置されています。つまり、「ジオパル」の「ジオ」は、「ジオパーク」と「ジオラマ」双方の意味を持ち、友達や仲間を意味する「パル」を組み合わせた交流施設となっています。 ちなみに、ジオパークの「ジオ(geo-)」は「地球の、地面の、地理の」を意味する接頭辞で、これに「パーク(park=公園)」をつなげた造語です。ジオパークの構想は1990年代半ばからヨーロッパで練られ、2004年にユネスコの支援を受けて世界ジオパークネットワークが発足。「世界ジオパーク」の加盟認定を行う仕組みが作られました。 日本には現在九つの世界ジオパークがあり、糸魚川ジオパークもその一つになっています。糸魚川には、日本列島を東西に二分する大断層フォッサマグナの西側の断層である「糸魚川‐静岡構造線(糸静線)」が通り、日本列島の形成を示す貴重な地質や特徴的な地形を見ることが出来ます。また、二つの国立公園(中部山岳、妙高戸隠連山)や三つの県立自然公園(親不知・子不知、久比岐、白馬山麓)があり、ジオに関する豊富な話題を始め温泉や登山など、さまざまな切り口で楽しめます。 「ジオパル」にはこの他、大糸線で活躍した人気車両「キハ52-156」の実車が展示されていたり、日本の豪華寝台特急の先駆けとなったトワイライトエクスプレスの再現車両があったり、鉄道マニアにとって聖地の一つになっています。糸魚川市のYoutubeチャンネルITOIGAWAbroadcastが動画を公開しているので、ジオラマ部分をピックアップして埋め込んでおきます。 ところで、糸魚川に着いたのは昼前でしたが、一つ簡単な仕事を片付けてから、遅めの昼食を駅前にあった大衆食堂「あおい食堂」でとりました。その後、駅北大火があった場所を確認するため歩いていたら、マンホール蓋の交換作業に遭遇しました。珍しいの

ヒスイ王国・糸魚川と奴奈川姫の伝説

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糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ぐ活動を取材した際、市内をあちこち歩いていて、ヒスイと奴奈川姫(ぬなかわひめ)にまつわるあれこれを見つけました。 まず、糸魚川駅南口に出ると、すぐ右側に「ヒスイ王国館」という建物があります。コミュニティーホールらしいですが、1階には糸魚川観光物産センターがあって、それこそヒスイや地酒などが置いてありました。糸魚川は、硬玉ヒスイの原産地なのです。 糸魚川駅の隣に、えちご押上ひすい海岸駅(えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)がありますが、この駅から海に向かって5分ほど歩くと、その名もヒスイ海岸があります。玉石の海岸で、石の多くは、川によって、長い年月をかけ山から海に流されてきたものです。運が良ければ、ヒスイが見つかることもあるそうです。 さて、ヒスイ王国館前の横断歩道を渡ると、奴奈川姫のブロンズ像があります。更に、海へ向かって真っ直ぐ延びる駅前通りは、その名も「ヒスイロード」と呼ばれ、両側の歩道には、デッカイ勾玉と少し小ぶりな勾玉、それに宝珠が、あっ、ここにも、あれ、あそこにも、という感じで設置されています。 そして駅から歩いて5分ほど、日本海を望む駅前海望公園には、ひときわ大きな奴奈川姫のブロンズ像が建っています。姫にしがみついているのは、息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)で、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子とされます。つまり、大国主神と奴奈川姫の間に出来た子どもってことになります。 ただ、『古事記』では、出雲国の大国主神が、高志国の沼河比売(奴奈川姫)に求婚したことまでしか出ていません。でも、平安前期の歴史書『先代旧事本紀』には、大己貴神(大国主神)と高志沼河姫(奴奈川姫)の子どもと記されており、記紀には記述がないものの、これと同じ伝承が、糸魚川を始め各地に残っています。 出雲と糸魚川では、かなり距離がありますが、日本海に面しているので、舟で交流があったのでしょうね。しかも、糸魚川には、古くからヒスイを使った玉作りを行う一族がいたと言われます。玉は古代人の装飾品で、勾玉・管玉など、多種多様な玉があります。ヒスイやメノウなどを材料として作られましたが、それが信仰の対象となるほど、神秘的な美しさを秘めていました。 大国主神がはるばる出雲から高志国までやって来たのも、ヒスイを求めてということだったのでしょう。で、玉造部

糸魚川駅北大火からの復興

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糸魚川市は、日本列島を東西に分けるフォッサマグナの西側断層「糸魚川‐静岡構造線(糸静線)」が通り、日本列島の形成を示す貴重な地質や特徴的な地形を見ることが出来ます。そんな糸魚川はまた、幾度となく大火に見舞われてきた歴史を持ちます。昭和以降に限っても、昭和3(1928)年、7(1932)年、29(1954)年、そして記憶に新しい2016(平成28)年と、糸魚川の人々は、度重なる大規模火災を経験してきました。 2016年12月22日に発生した火災は、147棟の建物を焼失し、糸魚川市駅北大火と呼ばれました。火は、地元で「じもん風」とか「蓮華おろし」と呼ばれる強い南風にあおられて飛び火を繰り返し、鎮火まで30時間を要しました。その間、雁木造(がんぎづくり)の商店街や、360年以上の歴史を持つ酒蔵「加賀の井酒造」、多くの著名人が宿泊した「平安堂」、江戸時代から続く料亭「鶴来家」なども焼けてしまい、町並みは一変。焼失面積は約4万平方m、火元から海側へ約300mも燃え広がり、鎮火された現場には、信じられないような光景が広がっていました。 この火災から1年ほど経った頃、糸魚川市を訪問する機会がありました。糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ごうと活動していた女性、中村栄美子さんにお会いするためでした。 中村さんは、電電公社(NTTの前身)に勤務時代、テレホンサービスを担当しており、その中で地元の民話をテレホンサービスで紹介する企画を始めたそうです。それが、1日に全国で700人以上の人が聞いてくれる大ヒットになり、以来、山間のお年寄りを訪ねて昔の伝承や民話を採話するようになりました。こうして取り上げた民話は500話近くになり、そのうち6話は「まんが日本昔ばなし」にも採用され、全国放映もされたとのことです。 その後、地域の歴史を紙芝居などで伝える紙芝居グループ「昔かたり春よこい」を結成。その代表を務め、制作したオリジナル紙芝居は80作以上に上ります。そして、全国規模の紙芝居大会で優秀賞6回、第7回日本語大賞優秀賞などの受賞歴があります。 そうした経験から、中村さんは、火事の記憶を風化させず次の世代に伝えていく手段として、「糸魚川駅北大火」の紙芝居を制作することにしました。制作費は、糸魚川ライオンズクラブが支援してくれ、2017年11月に完成しました。 通常、紙芝居は大体15〜16枚で作るそう

江戸時代から伝わる郷土玩具鯛車で地域活性化を図る

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新潟市西蒲区巻地区に、「鯛の蔵」と呼ばれる建物があります。これは、郷土玩具「鯛車」の伝承を目的とした施設で、大小さまざまな鯛車が展示されている他、市民を対象にした鯛車の製作教室も開催されています。 鯛車というのは、張り子や木、紙などで作られた鯛の形の玩具に車を付けたものです。疱瘡(天然痘)除けの玩具の一つで、新潟や埼玉、滋賀、鹿児島など各地に見られます。 医学の発達していない江戸時代、疱瘡は命にも関わる病で、疱瘡を擬神化した疱瘡神は悪神として恐れられました。そして、この疱瘡神は犬や赤色を苦手とすると考えられ、子どもたちに「赤物」と呼ばれる疱瘡除けの赤い人形や玩具などを与える風習がありました。 巻の鯛車は、竹と和紙で作られ、ウロコはロウで描かれています。お盆になると、浴衣を着た子どもたちが、鯛車を引いて家の周りや町内を歩く姿が見られました。しかし、それも昭和の中頃までで、いつしかお盆の風物詩・鯛車は巻から姿を消してしまいました。 鯛車が消えた原因は、作り手の不在でした。かつては、籠屋や提灯屋などが副業として作っていましたが、時代の変遷と共に、そうした手仕事をする人がいなくなり、それに伴って鯛車も消えてしまいました。そこで2004(平成16)年、市民有志による「鯛車復活プロジェクト」が立ち上がり、鯛車の製作教室が開かれるようになりました。 「鯛の蔵」はその拠点で、巻文化会館の文書蔵だったものを改装し、11(平成23)年にオープンしました。「鯛の蔵」の向かいに事務局を構える巻ライオンズクラブも、この活動に共鳴し、蔵の前に芝を敷き、ドウダンツツジ20本を植栽するなど、会員たちが力を合わせて造園工事を実施。「鯛の庭」と命名し、石碑も設置しました。これらの動きに呼応して、地元商店街も「まき鯛車商店街」と改名、鯛車を商店街のシンボルとして活用するようになりました。 そしてこの年、「鯛車復活プロジェクト」は、日本の伝統文化の振興と地域社会の活性化に貢献したとして、第4回ティファニー財団賞「伝統文化振興賞」を受賞。現在、お盆に行う「鯛の盆」や、古い町並みとコラボする「鯛の宵」など、さまざまなイベントを行い、古き良き伝統を継承していこうとしています。

魚沼産コシヒカリを使った「しんこ餅」 新潟県南魚沼

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「しんこ餅」というと、奈良や京都の「しんこ」、関東の「すあま」など、上新粉で作った菓子の総称になります。上新粉は、うるち米を精白・水洗いし、乾燥させてから粉にしたもので、「しんこ餅」は、もち米で作られる普通の「餅」に比べ、粘りが少なくて歯切れがよく、コシと歯ごたえがあるのが特徴です。 新潟県では、郷土菓子として人気があり、特に日本屈指の米どころ中越地方では、名物となっています。中越の南部、魚沼地方と呼ばれる十日町市や魚沼市、南魚沼市などの「しんこ餅」は、白くて中に餡が入っているのが一般的です。このうち南魚沼市の浦佐には、その名もずばり「しんこ餅」という地方銘菓があります。 浦佐の「しんこ餅」は、もともと、国指定無形民俗文化財である浦佐毘沙門堂「裸押合大祭」が行われる日にだけ作られていました。裸押合大祭は、毎年3月に行われる日本三大奇祭の一つで、約1200年の歴史を持ちます。 807(大同2)年、坂上田村麻呂が、東国平定の際に自身の守り本尊「毘沙門天」を祭った御堂を建立。「国家安穏」「五穀豊穣」「家内安全」を村人と共に祈り、祝宴の中で歌い踊って士気を鼓舞したことが、祭の始まりと言われます。 この祭り、かつては新年の3日に行われていました。しかし、我先に参拝しようと多くの信者が押し合いへし合いし、更に除災招福を願って水行をしてお詣りする人も出て、次第に裸になる者が多くなり、ついには全員裸で御本尊に額づくといった案配で、1月から3月に日程を変え、今の裸押合大祭の形になったということです。 その浦佐にある東家製菓舗は、「しんこ餅」一本勝負の店。上新粉で作る「しんこ餅」は、すぐに固くなりがちですが、粉の配合を変えるなど試行錯誤を繰り返し、ようやく昔ながらの製法をベースにしながら、風味を損なうことなく柔らかさを保つことが出来るようになったといいます。そうして出来た「しんこ餅」は、さらっとした食感で甘さ控えめのこし餡を、ブランド米の魚沼産コシヒカリを使って包み込んでおり、浦佐名物の土産として、大人気となっています。 取材で浦佐に行った際、製造元を訪ねてみましたが、その日は早くに売り切れたらしく、営業時間内だというのに、既に店は閉まっていました。上越新幹線浦佐駅の売店にも置いてありますが、こちらも早めに行かないと売り切れ必至です。私は、たまたま駅前のホテルに泊まったので、あくる日、

銘菓郷愁 - 米どころ偲ばせて「養生糖」 新潟県新発田

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越後平野中央部の蒲原一帯は、蒲原平野とも呼ばれ、日本有数の穀倉地帯として知られています。コシヒカリの古里と言った方がいいでしょうか。 新潟県は米どころとして有名ですが、この地の米作りの歴史は、繰り返される水害との戦いの軌跡でした。この地は、江戸時代、さまざまに入り組んだ支配の下に置かれていましたが、人々は知恵をつくし、力をふるい、支配領域を超えて協力し合い、今に至る米どころを作り上げたのです。 そんな歴史をしのばせる銘菓が、新発田市・長尾本店の「養生糖」です。米俵に似せた容れ物の中に、本物の米粒のようにも見える「養生糖」が入っていますが、米粒の正体は黒ゴマで、その一粒ひとつぶを山芋粉と糖蜜で包んであります。 この可愛いらしい菓子は、今から約130年前、1895(明治28)年に長尾本店の当時の主人が創製したものでした。長尾家は、新発田・溝口藩6万石(幕末時10万石)の藩医を務めた家柄でした。「養生糖」に山芋と黒ゴマが使われているのは、医家の知恵だったのでしょう。 ゴマは、もともとインドやエジプトが原産地と言われ、日本へは中国を経て6世紀頃に入ってきたものだそうです。漢方ではゴマ油が使われますが、ゴマはビタミンEを含み、脳を健やかにすると言われ、ゴマ塩は胃酸過多にも効くそうです。 また、山芋は、生薬名を「サンヤク」と言います。成分は主に澱粉ですが、独特のネバネバは、マンナンを主成分としたもので、ジアスターゼの一種も含んでいます。漢方では、もっぱら滋養強壮剤として使い、腸炎や夜尿症、寝汗の治療にも用いられてきました。痰のからみを取る民間薬としても盛んに使われてきました。昔は、山芋をすりおろして凍傷や火傷の治療などにも使ったといいますから、食べておいしいというだけのものではなかったようです。 これら、昔から知られた漢方の薬材を利用したところから、「養生糖」の名も生まれました。 「養生糖」は、回転釜にゴマを入れてかき混ぜながら山芋粉と糖蜜で、少しずつくるんでいきます。温度調節とタイミングの難しい作業で、どこか昔の丸薬作りに似ています。噛むと、柔らかな甘みの中で、ほのかにゴマが香り、いつまでも食べていたい不思議な銘菓です。

杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち

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2014年9月に、アーチ曲線が特徴的な新駅舎となった越後線内野駅は、かつて「鶴の友」駅と呼ぶ人がいました。というのも、旧駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたのです。「内野駅」の看板はその隣に、小さな(それが普通だったんでしょうが・・・)白い文字でひっそりと掲げられていました。 これなら「鶴の友」駅と呼ばれても不思議はない。そう私も思いましたが、そもそも「鶴の友」って何? 新潟以外の人にとっては、聞き慣れない名称に違いありません。 それもそのはず、県外不出の地酒の名前だからです。蔵元が、地元の人の口に合った酒造りを目指し、新潟市以外ではほとんど売られていません。しかし、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 「鶴の友」の蔵元は、内野駅から真っ直ぐ南へ向かって歩き、国道に出たところで左折。すぐに樋木酒造の風格あるたたずまいに出くわします。建物が国の文化財に指定されており、酒蔵としての年輪を感じさせます。ここから更に500mほど東へ行くと、「越の関」のブランドで知られる塩川酒造があります。かつては、そのまた500m先に「日本海」の伊藤酒造、また駅前通りを挟んで樋木酒造と反対側の国道沿いには「朗」の濱倉酒造があり、内野は酒蔵の町と呼ばれていました。 こんな至近距離に、造り酒屋が集中していたのは、良質な水を豊富に使える立地と、陸運、水運の便の良さ、新川開削工事や北国街道を行き交う人で賑わい、町全体が繁盛したことによります。1818(文政元)年、信濃川に合流していた新川を開削し、直接日本海に放流するために始まった新川開削工事では、全国から人が集まり、その人たちの飲食をまかなうために料亭が栄え、造り酒屋も多数生まれたというわけです。 また、新潟は酒造りのプロ越後杜氏の本拠地です。江戸時代初めまで、日本酒は新酒、間酒(あいしゅ)、寒前(かんまえ)、寒酒造りと年4回仕込んでいました。しかし、江戸幕府が秋の彼岸以前の酒造りを禁止。米本位制をとっていた幕府にとって、米の大量消費が米価を高騰させ、経済が混乱することを恐れたからです。 また、寒造りの酒は旨い、という評判もあり、この頃から日本酒は11月から3月にかけての寒造りが主体となり、その期間だけ酒造地へ出向いて酒造りをするプロ集団が誕生することになりました。 新潟の冬は、山間部は雪に閉ざされ、沿

越後に伝わるだるまの原型「三角だるま」

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阿賀野市の水原町は、白鳥の渡来地として世界的に知られる瓢湖のある所。そして、瓢湖と並んで水原の名物となっているのが、三角だるまの名で親しまれる起き上がり小法師。 この三角だるま、昔は県内各地で製作されていましたが、他の人形に押されて廃絶し、現在まで続いているのは水原だけ。「鳩屋」の屋号を持つ今井家が、その製作を継承しています。 鳩屋は約200年続く玩具製作の家。3代目までは、農業のかたわらぽつぽつと、木や竹や紙の玩具を作っていたようです。そして4代目から本格的になり、山口土人形といわれる数十種類の土人形や、三角だるまを作り始めたといいます。 ただ、三角だるまという名前は、最初からのものではありません。地元のお年寄りたちの話では、「子どもの頃、よく転がして遊んだけど、単に起き上がり小法師と呼んでいた」というのですから、比較的最近になってからの命名のようです。 養蚕家は、蚕がよく起き上がるように、漁師の家では難破しても早く浮き上がるようにと、願掛けがされ、また水原にある徳鳳寺では、年始に夫婦一対を紙袋に入れて檀家に配ったりしたといいます。こうして、一般のだるまと同じように縁起物として使われることもあったようですが、縁起物のだるまにしては、かわいらしさが先に立ち、ちょっと物足りない感じもします。 だるまというのは、足利時代に、中国の不倒翁という玩具が京都に入って、起き上がり小法師と名を変えたのが始まりとされています。それが江戸中期に、江戸の市民によってだるまに変身させられ、その後、縁起物として全国津々浦々にまで広まったといいます。ですから、水原の三角だるまは、本来の玩具性を残したまま現在に伝わる、いわばだるまの原型とも言えるでしょうか。 三角になった由来は、「越後の子どもたちが、冬に被っていた蓑帽子の形を模したもの」(鳩屋・談)といいます。しかし、起き上がり小法師として最適とも思える形を考えると、製作の容易さも含め、単に製作上都合がよかったから、といったところが、案外、本当かもしれません。 何しろ作りは、紙をラッパ状にして和紙を貼り、土製のおもりを底辺につけただけの単純なもの。ただ、それに彩色が施され、顔が描き加えられると、がぜん民芸としての趣を醸し出すから不思議です。 2点の目とへの字の口。てんで好き勝手なところにある下がり眉にどじょうひげ。八方破れでユーモラスな面相で

苦難の道を乗り越えて発展してきた桐箪笥

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新潟県のほぼ中央、信濃川の支流加茂川に沿って開けた加茂市は、794(延暦13)年、京都の賀茂神社を分祀。それに伴い、京風の文化・習俗も伝わり、街を貫流する加茂川の風姿と合わせて、越後の小京都と呼ばれることもあります。江戸時代には、毎月6回定期的に開かれた六斎市の市場町として栄えました。 その加茂に、約200年の歴史を持ち、国の伝統的工芸品に指定されている「加茂桐箪笥」があります。 桐は吸湿性が少なく、高温多湿の日本にあっても衣類を湿気から守り、また熱伝導が低いことから火事に遭っても内部は燃えにくい性質を持っています。こうした素材の上に、桐箪笥は隙間がなく、気密性の高い作り、扉や引き出しの開け閉めが軽いといった特徴を持ち、古くから日本人に愛用されてきました。その中にあって、加茂の桐箪笥は、全国の約7割の生産量を占め、北海道から九州まで出荷されています。 しかし、これまでの歩みを見ると、順風満帆とはほど遠い苦難の歴史を感じます。とくに昭和20年代から30年代までは、まさに茨の道でした。 戦後はベニヤ箪笥の全盛期で、政府も機械化、量産化を推進するため、手作りの桐箪笥に対し、20%の物品税をかけました。当然、桐箪笥は高価になり、売れ行きが低迷。 また、新潟では木材不足解消のため、生長の早い桐の植林を進めていましたが、桐の使用量が減ったため供給過剰となり、桐の価格が下落しました。すると価格の安さに注目した洋家具メーカーが、裏板や引き出しに桐を使い始めました。 ところが、その頃には値下がりに嫌気をさした桐農家が、植林をやめており、今度は桐が極端に不足。昭和30年代には、桐箪笥は壊滅状態に陥り、昭和27年に全国で1360軒あった業者の数は5年ごとに半減し、40年代に入ると170軒まで減ってしまいました。 その後も桐材の不足、日本人のきもの離れなど、多くの危機がありましたが、加茂桐箪笥はそのつど柔軟に対応し、それらを乗り越えてきました。今後も、高い技術を生かして時代のニーズを取り入れていけば、日本の伝統家具である桐箪笥を継承していくことができるのではないでしょうか。

日本の原風景を見るような環状集落・荻ノ島を訪ねて

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昨日のブログ で、新潟県中越地震の際、柏崎の人たちが、長期にわたって小千谷市総合体育館で昼食の炊き出しを続けた話を書きました。その中心となったうちの一人坪田さんには、1997年にあることで取材させてもらっており、大学の先輩(しかも同学部)ということもあって、炊き出しの件を聞いた時には、さっさと同行を決めたものです。 2007年7月16日、今度はその柏崎を、マグニチュード6.8の激震が襲いました。新潟県中越沖地震です。柏崎市は震度6強を観測。新潟県中越地震から3年を経たずして起こった巨大地震に、日本中が驚き、また被災された方たちの心中に思いをはせました。 3年前の中越地震と同様、この時も、明石の橋本維久夫さんを中心に炊き出しが計画されました。しかも、中越地震の時の参加者に加え、青森県つがる、東京、千葉県野田、奈良県生駒、兵庫県の神戸と姫路からも参加があり、更に中越地震の炊き出しで知り合った、長岡のMTさんが、現地コーディネートを担当してくれ、輪が大きく広がっていました。 以前のブログ( 「震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント」 )に書きましたが、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。で、この記事を書くため、当時飛び交っていた打ち合わせメッセージを見ていて、橋本さんが大体長と呼ばれることになったきっかけを作った犯人が分かりました。それは、神戸のDHさんで、参加者に呼び掛けるメッセージで、DHさんは「大隊長(本当は大体でええやろう)の橋本さんから指示があり・・・(中略)・・・既に大体長(わざと間違ってます)から・・・」と書いており、以後の流れを作ってしまったようです。 それはともかく、炊き出しは9月1日に200戸の仮設住宅があった刈羽村の源土運動広場で、翌2日には柏崎市西山町のいきいき館でそれぞれ実施しました。柏崎では、ボランティア・センターに詰めていた岩手県立大学の学生ボランティアがさまざまな企画を練り、お年寄りから子どもまでが楽しめるイベントを用意。また、小千谷で昼食の炊き出しを続けた坪田さんたちも、自分たちが被災しているにもかかわらず、駆け付けてくれました。  ◆ この中越沖地震から1年が経った2008年7月、同じ柏崎でも内陸部にある高柳町を訪問しました。高柳町は、地震の2年前、05年に柏

ユネスコ無形文化遺産・小千谷縮の雪さらし

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「雪中に糸となし 雪中に織り 雪水に濯ぎ 雪上に晒す 雪ありて縮あり 雪こそ縮の親と言うべし」 江戸後期の商人で、随筆家でもあった鈴木牧之は、当時の魚沼地方の生活を描いた『北越雪譜』の中で、小千谷縮をこう表現しています。 小千谷縮は、昔からあった越後上布に改良を加えたものです。緯糸に強い撚りをかけた織物を、お湯の中で丹念に強くもむことで、ほどけた布に「シボ」と呼ばれる独特の細やかなしわが出ます。1955年に国の重要無形文化財第1号指定を受けた他、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。ちなみに重要無形文化財の指定条件には、使う糸や織機の他、湯もみ、雪さらしなどの技法も示されています。 雪さらしは、本来は晴れた日に行いますが、小千谷の冬を彩るイベント「おぢや風船一揆」では、デモンストレーションとして天候に関係なく実施されます。2012年に、おぢや風船一揆に行く機会があり、その際、粉雪が舞う中、雪さらしが披露されていました。 ▲小千谷紹介観光ビデオ「小千谷風船一揆」(小千谷市観光協会) 雪にさらすことで麻生地が漂白されると共に、麻糸が更に鮮やかさを増し色柄を引き立てます。その科学的根拠として、一般にはオゾンの漂白効果が挙げられます。実際に日本雪氷学会が雪上のオゾン濃度を調べたところ、確かに晴れた日に上昇し、雨の日は低下する傾向が見られたそうです。ちなみに、雪の日は雨の日ほど濃度の低下はなかったそうですが、やはり晴れた日の方がいいのでしょう。それを経験則として取り入れていた先人の知恵には脱帽するしかありません。 おぢや風船一揆は毎年2月下旬、2日間にわたって開催されます。日本を代表する熱気球大会「日本海カップクロスカントリー選手権」を兼ねたイベントで、今年で45回目となるはずでしたが、残念ながら新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。 以前は、競技と各種イベントが同一会場で行われていたようですが、雪が少なかった13年前に、競技とイベントを別会場で実施してから現在の形式になったと聞きました。イベント会場では、熱気球試乗体験やうまいもの市場、雪像コンテストなどが実施され、多くの市民や観光客で賑わいます。 小千谷市は、新潟県のほぼ中央、いわゆる中越にあります。2004(平成16)年10月23日に起きた新潟県中越地震では、小千谷でも震度6強の揺れを観