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民謡のある風景 - 一高生が唄い広めた男たちの唄(兵庫県 デカンショ節)

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兵庫県丹波篠山市は、丹波山塊の間に開けた盆地にあります。盆地からの道は、天引峠、天王峠、鐘ケ坂などの峠を越す道となります。盆地のほば中央に、標高459mの高城山がそびえ、丹波富士の名で呼ばれています。 灘五郷の酒造りを支えてきた丹波の杜氏たちは、この盆地から、半年に及ぶ出稼ぎの旅に出ました。家で待つ妻たちにとっては、つらい半年だったでしょう。地元の古い民謡は、そんな妻たちの気持ちを、「でこんしょ、でこんしょで半年暮らす、あとの半年ァ泣いて暮らす」と唄っていたといいます。 篠山は、1747(寛延元)年以降、青山氏が領主となり、明治維新まで6万石の城下町として栄えました。1898(明治31)年の夏、その旧藩主の青山子爵が、旧藩士らを引き連れ、千葉・館山の海浜に遊んだことがありました。旧藩士たちは、昼は泳ぎ、夜は宴会で盛り上がり、地元の民謡『篠山節』を大声で唄いました。  ♪丹波篠山 山家の猿が   花のお江戸で 芝居する   ヨーイ ヤレコノ デッカンショーヨ この唄を聞きつけたのが、同じ浜に来ていた第一高等学校(現・東大)の学生たちでした。語呂もよければ、調子もよい。バンカラ気分の学生には、ぴったりきました。寮へ帰った彼らは、房州土産の唄として大いに喧伝しました。囃子言葉も、デカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとったと称し、「ヨーイ ヨーイ デカンショー」と唄い替えました。そして学生たちが帰省の度に、この唄を唄ったものですから、全国に広まるのも早かったのです。 こうして一高生が流行源となった『篠山節』は、『デカンショ節』として広まり、それが再び篠山に帰って来ました。地元では、太鼓と三味、笛をつけて、正調の曲調を伝えていますが、そこにはもう、農家の女の嘆きの影もありません。唄の変貌の一例と言えるでしょう。

明石で遭遇した焼きラーメンと、明石名物玉子焼

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取材で兵庫県・明石へ行った時のこと。初日の目的地は魚住。新幹線が停まる西明石駅から、各駅で二つ目の駅です。 西明石駅の到着が12時半だったので、最初はいったん外に出て、昼を食べるつもりでした。が、コンコースを歩いていたら、魚住方面の各駅が間もなく入線する、これを逃すと次は30分後とのアナウンス。それを聞いて、電車が30分に1本しかないのかもと思い、計画を変更して、とりあえず魚住を目指すことにしました。 そして、電車が次の大久保駅に着いた頃、魚住でお会いする橋本維久夫さんから電話。「いま焼きラーメン食べてる!」。更に続けて「あんたも食べる?」と。 というわけで、魚住駅に着くと、橋本さんが迎えに来てくれ、その足で焼きラーメンへ。連れて行かれたのは、南二見会館に入っていた「喫茶&お食事 三起」。で、橋本さんが注文してくれたのは、下の写真のような焼きラーメン定食でした。 その後、メニューを見ていて「そばめし定食」を発見。常識的には、そばめしに味噌汁、漬け物などだと思ったものの、焼きラーメン定食のご飯が頭から離れず、もしやそばめしに白いご飯付きか? 関西なら、あり得る! と勝手に想像。 好奇心を抑えきれず、店の人に確認すると・・・、さすがに白いご飯はついていないとのことでした(なぜか、しょんぼり)。 橋本さんには、これとは違う日、山陽電車東二見駅前の玉子焼屋「田村」に連れて行ってもらったことがあります。玉子焼と言っても、だし巻き玉子でも、子どもの頃に弁当に入れてもらった甘い玉子焼きでもありません。世間で言うところの明石焼です。 明石と言えばタコを真っ先に思い浮かべる人も多いと思いますが、それほどに、明石のタコは有名です。実際、マダコの水揚げ量は日本一。そんな明石のタコを使った玉子焼ですから、うまくないわけがありません。 地元では昔から玉子焼と呼ばれていて、明石焼というのは、観光客などに一般的な玉子焼と間違われないよう、後から命名されたものらしいです。関東の人間にとっては、たこ焼の方がポピュラーですが、実はたこ焼のルーツは明石の玉子焼にあります。 「 大阪と言えば?で思い浮かべる事ども 」に書きましたが、たこ焼きは、昭和10年、福島県会津坂下出身の遠藤留吉さんが、明治からある明石の玉子焼をアレンジして、大阪の屋台で売り出したのが始まりなんだそうです。玉子焼とたこ焼の違い

静寂につつまれる冬の銀山湖を訪ねて

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朝来市というと、旧和田山町にある雲海に浮かぶ山城・竹田城で有名ですが、以前、姫路市在住の写真愛好家に勧められたのは、旧生野町にある銀山湖でした。しかも、季節は冬限定で、勧められるまま、2月の寒い時期に生野を訪問しました。 生野は兵庫県のほぼ中央、古代から出雲・大和両文化圏の接点として開け、生野銀山と共に発展してきた鉱山の町です。生野銀山は、807(大同2)年の開坑と言われ、室町時代の1542(天文11)年、山名祐豊が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まりました。その後、織田・豊臣時代を経て、江戸時代には幕府の直轄地として「生野代官」が置かれ、新潟の佐渡金山、島根の大森銀山と共に幕府の宝庫的存在となっていきました。 生野までは、姫路からJR播但線特急はまかぜ1号で約45分。車の場合は、やはり姫路から播但連絡道路を利用、生野南ICまでは約50分です。 私は車を利用しましたが、生野に着いたら、まず駅にほど近い「生野書院」に寄ってみたいところです。中は史料館になっていて、生野銀山関係はもとより、昔の生野の暮らしぶりや生活に関わる史料が展示されています。建物は、大正時代に建てられた林木商の邸宅を改修したもので、生野の町にはまだ、明治、大正の頃のこうした古い建物が多く残っており、銀山の町として繁栄した往時の面影を伝えています。 町並みを散策した後は、国道429号を東へ向かいます。目的の銀山湖の途中に、生野銀山があります。1973(昭和48)年に資源枯渇のため閉山した銀山の跡が、翌年から史跡・生野銀山として保存されています。約1kmの観光坑道や銀山資料館、銀を製錬した吹屋資料館などがあり、50分ほどの見学コースになっています。 さらに東へ10分ほど走ると、県立生野ダムとして建設された銀山湖に出ます。周囲12km、貯水量1800万平方リットルの人工湖で、生野を流れる市川の清水を満々とたたえています。フナやコイ、ブラックバスが多く、釣りのメッカとして県内外の釣り人が足しげく通います。 しかし、冬の銀山湖は静寂につつまれます。この辺りは雪も多く、鏡のような湖面に雪をかぶった周囲の山々を映します。また、温暖化の影響もあり、最近は全面結氷することはないようですが、トップ写真のように湖面が凍ると、湖底に沈んだ木が湖面に突き出したり、波紋を広げたような円が所々に現れ、不思議な風景を見せてくれます。

観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

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  出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。 最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。 そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。 で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。 私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。 しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。 そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。 潮目が変わったのは1968(

シーボルトが、梅雨の神戸で出会ったものとは?

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一昨日の記事( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )で、シーボルトの著書『日本(NIPPON)』に掲載されていた、嬉野の浴場の挿絵を入れましたが、『日本』には他にも、多くの挿絵が載っていました。兵庫県神戸市でも、兵庫津と須磨寺の絵が入っています。 シーボルトは1826(文政9)年2月15日、出島を発ち、オランダ商館長に同行して、江戸へ向かいます。そして、前の記事に書いたように、大村( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )、彼杵( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )、嬉野( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )、柄崎( 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )など、長崎街道の宿場を通り、更に下関からは船で室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、再び陸路を歩きます。 そして姫路、加古川、明石を通って、3月11日、兵庫に到着します。兵庫では、須磨神社に参拝、近くで名物の敦盛そばを食べたりしています。その後、生田神社に参拝して、西宮を経由して大坂へ向かいました。江戸に着いたのは4月10日、それから5月18日まで滞在して、帰路に就きます。 兵庫津 復路は、6月15日に兵庫に入り、兵庫津から下関までは船に乗ることになっていましたが、向かい風で出帆出来ず、結局、兵庫に4泊して、19日の夜、兵庫を出帆することになりました。 この6月の神戸というのが、今回のブログの伏線なんですが、その前に、個人的に気になった敦盛そばに触れておきます。 まず須磨寺ですが、これは通称で、正式には上野山福祥寺といいます。須磨は、『源氏物語』に「須磨」の巻があるように、古くから知られており、平安時代前期の886(仁和2)年に建立された寺も、昔から通称で親しまれてきたようです。須磨寺は、源平合戦で「一ノ谷の戦い」が行われた際、源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。 須磨寺 一ノ谷の戦いは、義経による「ひよどり越えの逆落とし」の奇襲で有名ですが、この合戦で、平清盛の甥・敦盛(16歳)は、源氏方の武将・熊谷直実に討ち取られます。「祇園精舎の鐘の声……」の書き出しで知られる『平家物語』の中で最も有名な逸話、巻第九「敦盛最期」の場面ですね。 須磨寺に残る「義経腰掛の松」は、熊谷直実が討ち取った敦盛の首を、義経が検分する際に腰を掛けた松と伝えられています。その後、須磨寺には敦盛の首塚が祀ら

城のある風景 - 興亡150余年の山城の石組み

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城というと、とかく平地にある城を思い浮かべがちです。しかし、平地に城が築かれるようになったのは、織田信長や豊臣秀吉から後のことで、それ以前は山城が主流でした。 城は、もともと戦いに備えたものですから、守り易くて、攻めにくい所に造られ、天然の要害が利用されました。兵庫県朝来市和田山町にある竹田城跡も、代表的な中世の山城の跡と言われ、標高353mの古城山の山項にあります。 竹田城は、全体の形が虎の伏した姿に似ていると言われ、虎臥城と呼ばれていたといいます。城が造られたのは、1443(嘉吉3)年のことで、13年の年月をかけて、山名宗全が築いたと言われています。 山名宗全は、その頃の守護職で、但馬・備後・安芸・伊賀を治めていました。虎臥城の名は、あるいは宗全の勢威をそれとなく暗示した呼び名だったかもしれません。 竹田城には、山名氏の家臣・太田垣光景を配して、但馬の守りが固められましたが、応仁の大乱の後、肝心の山名氏が衰退してしまい、竹田城の太田垣氏らは勢いを増して自立しました。世は戦国、織田信長の上洛を機に、この地域の形勢はあわただしく動きます。 1577(天正5)年、信長軍の中国征伐が開始されます。10月、山陽道の総大将として羽柴秀吉が播磨に入り、但馬の竹田城は兵糧攻めをかけられました。威力を誇ったさしもの山城も落城、その後、播磨の龍野城主・赤松広英に預けられましたが、1600(慶長5)年、広英が因幡攻略の失敗で自刃、城も廃城となりました。 築城後150余年、城主はいずれも不運でしたが、山城としての竹田城の見事なイメージはそのまま残りました。今も、大手門、城櫓、天主台、北千畳、南千畳などの石組みが、整然と昔の面影を伝え、鳥が翼を広げたような威容を見せています。戦国の世の輿亡を偲ばせる山城の跡は、城が確かに戦いの拠点だったことを、思い起こさせずにはおきません。 

城のある風景 - 守られ続けた世界の名城

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JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。 姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。1600(慶長5)年、池田輝政がこの地に入り、9年の歳月をかけて本格的な城造りに取り組みました。内堀から中堀、外堀へと広がる螺旋状の区割りや、大天守を中心に小天守を配した連立式天守閣の威容など、姫路の街と城の骨格が、この時にほぼ姿を現しました。 工事に動員された人々は、約2430万人に及んだといいます。1618(元和4)年には本多忠政が入城して、未完成だった西の丸などを構築して、城を完成させました。 白い漆喰を総塗籠めにした優美・壮麗な城は、その後もこの地の人々の誇りとされてきましたが、幕末期・鳥羽伏見の戦いの際は、戦火にさらされそうになります。幕府側だった姫路藩を、長州藩が備前岡山藩を前面に立てて攻めようとしたのです。 その岡山藩は、池田輝政を祖とします。城の遺徳が人々に不戦の途を選ばせ、城は無事開城となりました。 こうして幕末の危機を生き延びた姫路城でしたが、明治政府の廃城の方針の下で、この城も入札にかけられ、23円50銭で落札されました。落札した人は、城郭を解体して使おうとしたのですが、莫大な経費がかかることが分かって、事態は振り出しに戻りました。 1878(明治11)年、この名城の危機を、陸軍の中村重遠大佐が救います。当時、全国の城は陸軍の管轄下にあったのですが、彼の意見具申で保存が決まり、やがて明治の大修理が行われて、城はよみがえります。また、1934(昭和9)年からは昭和の大修理事業が始まり、2度の空襲にも耐えて、30年にも及ぶ工事が続きました。 1993(平成5)年12月には、ユネスコの世界文化遺産に登録。更に、2009年(平成21)年から始まった平成の修理は、2015年に工事が完了。改修でよみがえった城は、守り続けた人たちの熱い心で、白く輝いているかのようです。

流域の人々の心を映す清流・千種川

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千種川は、1985年に環境省選定の名水百選に選ばれています。その紹介文の中で、小中高校生による水生生物調査や、流域のライオンズクラブの活動が取り上げられ、「地域住民活動を通じて保全に努めている」と記されています。 千種川中流域にある佐用ライオンズクラブの呼びかけで始まったこの活動は、流域の赤穂、相生、上郡、佐用、千種の5クラブ合同の奉仕活動として、1972(昭和47)年から実施されてきました。その成果は毎年、『千種川の生態』という冊子にまとめられ、流域の人々の意識を高め、清流を守るために大きな力となってきました。1993年には、その功績が認められ、環境庁長官から表彰を受けており、質の高い活動として地域住民からも支持されています。 延長68km、源流を中国山地の分水嶺・江浪峠に発する千種川は、上郡から赤穂市を抜けて、瀬戸内海へと注ぎます。人工改変度が小さく、ダムもないため、昔ながらの美しい流れを保つ、我が国では数少ない川の一つとなっています。 しかし、そこに住む人々にとって、川は単なる風景ではありません。 上郡町が、「ふるさと創生事業」でまとめた『ふるさと上郡のあゆみ』は、「上郡は 千種川の恵みによってこそある」で始まります。 千種川は、その豊富な水量により、土地を潤し流域の人々の暮らしを支えてきました。鉄道のない時代には高瀬舟が通い、一つの風物詩をなしていました。上郡やその上流の佐用に荷揚げ場が置かれ、瀬戸内海と中国山地を結ぶ重要な交通網の役目を果たしていたのです。 そんな恵みの川、千種川をそのままの姿で残したい。ホタルが飛び交い、アユが跳ねる川のままでいてほしい。流域の人々のそんな願いが、千種川を昔のままの澄んだ流れに保っているのでしょう。 全国各地を歩いて回った民俗学者・宮本常一が、生前、こんなことを言っていました。「民衆が水を管理し、民衆が水を自分たちのものとして考えてこれを操作してゆく間は水は汚れるものではない」。 千種川の清流が、その言葉の正しさを証明しているようです。上郡町は、兵庫県最西端。町面積の7割を山林が占め、その山々の間を縫うように、千種川が流れます。

酒を呑んだり三味線を弾いたり、ユニークなからくり人形

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幕末、神戸港は諸外国に向けて門戸を開きました。年号が改まり、明治に入ると、外国船が続々と錨を下ろし、さまざまな異人さんが神戸の街に上陸し、紅毛碧眼の船乗りや黒い肌の水兵たちが、街を闊歩しました。初めて見る外国人に、神戸の人たちはさぞかしびっくりしたことでしょう。 そんな素朴な驚きが、神戸人形として形になり、今に伝わっています。神戸人形は伝統的な日本人形とは趣を異にします。一説には、初めて見た黒人船員の強烈な印象が、淡路の人形浄瑠璃と結び付き、特異なからくり人形が生まれたのだとされます。 ただ、創始者とされる野口百鬼堂が作った人形は、ツゲの木肌をそのまま生かしたものでした。それが、黒い人形になったのは、出崎房松が登場してからだそうです。この人は、黒人船員を見ると駆け寄って握手を求めたり、自分も顔を黒く塗って町を歩いたりといったエピソードが語られていて、そうした憧れの黒人を日本の庶民に当てはめたのでしょうか。 神戸人形の誕生は明治末期といわれ、大正から昭和初期には神戸港周辺や布引の滝の茶店で、外国人目当ての観光土産として売られました。大正天皇が、皇太子時代に布引の滝に来られた際、献上したこともありますが、もっぱら外国人が愛賞し買い求めました。 ただ、創始者については、野口百鬼堂説の他に、八尾某説、長田神社の参道で売っていた「長田の春さん」説などがあります。草創期で、はっきりと名前が分かっているのが、野口百鬼堂と出崎房松ぐらいというだけで、古い人形の中には、野口とも出崎とも異なる作風のものもあり、まだまだ無名の作者がいっぱいいたに違いないと言われています。 神戸人形は、からくり人形で、これまでに百数十種類が確認されています。つまみを回すと糸の繰りで前後、左右に動き、酒を呑んだり、三味線を弾いたりユーモラスな動きを見せます。そうしたユニークな仕種や表情が受けたのか、大正時代にはヨーロッパにも輸出されていました。今も時々、ヨーロッパの「蚤の市」に古い神戸人形が出ることがあるそうですが、その頃に輸出されたものかもしれません。 ところで神戸人形は、こうした生い立ちのためか、日本人にはほとんど知られていません。更にこれまで何回か廃絶の憂き目にあっています。取材した時も、作者がおらず、神戸人形を扱っている神戸センターでも、100個ほどの在庫があるのみだと聞きました。 その後2015年

但馬の静かな城下町。郷愁を呼ぶ町並みを歩く

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出石町は、兵庫県北東部、2005年に近隣市町村と合併して誕生した豊岡市の南部にあります。町の歴史は古く、『古事記』にも名前が記載されているほど。室町時代になると山名氏が居城、山名時代は約200年続きました。しかし、その間、足利将軍家の相続問題にからんで、城主山名宗金は細川勝元と争い、京都を中心に11年(1467-77)にわたる応仁の乱を起こしています。 町の西南端に残る出石城跡は、1574(天正2)年、山名祐豊の築城。1580(天正8)年、羽柴秀吉に攻められて落城し、秀吉の家臣青木勘兵衛が城主となりました。次いで前野但馬守が入り、1595(文禄4)年、龍野から小出吉政が入封、5万3000石を領しました。 出石が、本格的な城下町としての体裁を整えるのは、この小出氏2代・吉英の代になってから。吉英は、1604(慶長9)年、有子山山頂にあった山城を山麓に移し、城郭を囲んで武家屋敷を置き、その外に町家、更に外側に下級武士を住まわせ、城の固めとしました。この時造られた碁盤目状の町筋は、その後あまり変わっていません。 小出氏は9代続いた後、松平氏を経て、1706(宝永3)年、信州上田から仙石氏が入封、7代伝えて明治維新に及んでいます。この間、仙石氏は5万8000石を領していましたが、天保年間(1830-43)に起きたお家騒動(講談などで知られる仙石騒動)で、3万石に格下げされています。 こうして出石は、室町、戦国、桃山、江戸と約400年にわたり城下町として、その歴史を刻んできました。その風情は、現代にも伝えられています。明治の末、山陰線の敷設工事が始まった時、町民が鉄道敷設に猛反対、路線は大きく迂回しました。おかげで、昔ながらの町並みと共に、但馬の小京都と言われる静かなたたずまいが残ることになりました。 出石城跡のすぐそばには、仙石騒動の首謀者・仙石左京などが住んでいた家老屋敷があり、また城跡の下には町のシンボル・辰鼓櫓が残ります。辰鼓櫓は見張り台として設けられたもので、この上から太鼓を打ち鳴らし登城の合図としました。その時刻が辰の刻(午前8時)であったことが、その名の起こりです。今は電気時計になっていますが、やはり辰の刻には太鼓のテープが時を知らせています。 その他、街道の備えでもあった経王寺や見性寺のものものしい造り、出石生まれの沢庵禅師が再興した宗鏡寺、250年の歴史を持

長田のB級グルメ群。そばめし、ぼったこ、みかん水

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神戸市の花・あじさい 旭川で塩ホルモン(「 塩ホルモン発祥の地、道北・旭川グルメ旅 」)を食べてから1年ほど経ったある日、その時の面子が、神戸で顔をそろえました。カメラマンの田中さんとライターの砂山さんは富山、私は下関で、それぞれ取材を終え、神戸での取材のため合流。これに、神戸が地元のDHさんと、その先輩・のりちゃんさんを加え、北野でスタバ・ミーティングを行いました。 北野のスターバックスは、1907(明治40)年に建てられた木造2階建ての建物で、国の登録有形文化財に指定されています。更に店内は、アンティーク調の家具で統一され、なかなかどうして優雅なカフェタイムを過ごせました。 ところで、この時の神戸取材に当たって、田中さん、砂山さんと私は、綿密に打ち合わせを重ねました。ただし、綿密だったのは、ディープな神戸探訪の件でしたが・・・。 そして取材後、我々が速攻向かったのは、長田区の駒ケ林でした。目的は、西神戸センター街にある、お好み焼き「ゆき」のそばめし&ぼったこ。 地下鉄駒ケ林駅上は、DHさんとの共通の友人・THさんの会社と聞き、電話を入れてみました。しかし、残念ながらその日は定休日ということで、お会いすることは出来ませんでした。で、歩いているうち、シャッターを下ろしている店が結構多いことに気づきました。居酒屋も定休日になっています。この辺りで私、非常にいや〜な予感が・・・。 しかも、そのいや〜な予感は的中してしまいます。「ゆき」も定休日になっていました。そうなると急にお腹が空き始め、周囲を探索。そのうち、とってもディープな一角を見つけました。 「丸五市場」です。中に入ると、何となくアジアン・テイストな空気感。店先の鉄板で、牛すじやホルモンを焼いている店。「どんぶり かれーあじ」「どんぶり しょうゆあじ」とメニューを書いた看板を掲げる店(いったい何丼だあ!)。 すると、更に発見。「丸五丼」。ウナギの蒲焼きにマグロのヅケ、焼き鳥、カルビになぜか漬け物までのっかって・・・。丸五市場が誇る5品を集めた丼だそうな。 むむっ! これは逃せないのではないか! 我々3人、等しく色めき立ったものの、よくよく見ると、毎月5の付く日限定と書いてあります。今日は何日だっけ? とお互いに聞くものの、瞬時に日にちが思い浮かばないほどの焦りよう・・・。 が、少し冷静になったところで、ここはひと

鉄火巻きにおでん、焼き鳥、私の中のグルメタウン姫路

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  姫路に行って、必ず寄る店があります。 姫路駅から徒歩3分の「勝三寿し」です。このお寿司屋さんを知ったのは、今から25年ほど前のこと。清流・千種川の取材で訪れた上郡の方が、一緒に夕飯を食べましょう、と私とカメラマンのK氏を乗せて車を走らせること約50分。着いたのが、「勝三寿し」だったのです。 その方が子どもの頃、仕事で姫路に行ったお父さんのお土産が、勝三寿しの鉄火巻きだったそうです。で、席に着くなり、まずは鉄火巻きを注文。出て来たのは、私が知っている鉄火巻きではありませんでした。確かに、海苔で巻いてはいますが、切られておらず、巻いてそのまま出してきた感じです。 しかも、食べてみても、普通の鉄火巻きとは明らかに異なります。具は、切り身ではなく、すき身。それに醤油ではなく、特製のタレを塗って、酢飯と共にパリパリの海苔でふわっと巻いたのが、勝三寿しの鉄火巻きです。 後で聞くと、昔は、姫路駅の周辺で、勝三寿しの鉄火巻きを片手にパチンコしているおっちゃんがいたり、ここの鉄火巻きを持って、近くにあった大劇という映画館に行ったりしていたそうです。それほど姫路っ子の生活になじんでいたのでしょうね。 ここは、カメラマンの田中さんや、ライターの砂山さんとも一緒に行きました。前に、兵庫県加西から高知へ移動する際、丸亀で1泊した話を書きましたが( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )、実はこの移動の時、加西の方のアドバイスでルートを変更したことで、早めに姫路に到着しました。そこで、その時間を利用して勝三寿しに行き、いつも通り、鉄火巻きを食べてから、丸亀に向かいました。 田中さんとの取材時には、前から行きたかった大衆食堂「かどや」にも入ることが出来ました。この時のメインの取材は、古くから姫路を中心とした播磨地方で作られてきた、なめし革でした。また、明珍火箸など、江戸時代から続く伝統の技を紹介。更に、ネタの一つとして、姫路おでんも取り上げました。 姫路では、おでんを生姜醤油で食べます。「かどや」さんは、その姫路おでんの元祖的なお店で、撮影にご協力頂きました。 ちなみ、生姜醤油は、かける派とつける派があり、80年以上続く「かどや」さんは、かける派でした。地元では一般的な食べ方だったため、以前は関東煮やおでんとだけ呼ばれていましたが、2006年に姫路の食でまちおこしを考

降る雨を瀬戸内と日本海に分ける水(み)分かれの町

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「デカンショ節」のせいか、丹波と言うと、どうも山奥のイメージがあります。しかし、丹波市の氷上町には、そんな感じは全くありませんでした。確かに、三方が山に囲まれてはいますが、みな背の低い山ばかり。いわゆる盆地で、川の流れもゆっくりでした。 古代の丹波は但馬、丹後も含む、広大な地域を表していました。それが、奈良時代に分割され、丹波は桑田・船井・何鹿(いかるが)・天田・氷上・多紀の6郡になりました。その後、明治時代の廃藩置県で、氷上と多紀は兵庫県に、残り4郡は京都府に編入されました。 氷上郡6町が合併して誕生した丹波市の中心・氷上町は、本州一低い中央分水界の町として知られます。中央分水界は日本列島の太平洋側と日本海側の境界で、北から南まで、まるで背骨のように走っています。その分水界が、氷上町では海抜100m前後で形成されています。そのため、町内を流れる高谷川は瀬戸内海へ、黒井川は日本海へ注ぎます。 稲畑人形の代表作「天神」 しかも、氷上町には真北と真南を結ぶ「子午線」が通っており、子午線上に建つ家では、理論上、雨が降った時に北側の屋根の雨水は日本海へ、南側の屋根の雨水は瀬戸内海へ注ぐことになります。ミーハーの血が騒ぎますねぇ。  ◆ 日本では昔から、全国各地で土人形が作られてきました。それらの源流と言われるのが、京都の伏見人形です。江戸後期に全盛を極め、文化・文政の頃(1804~29年)には、伏見稲荷の参詣路である伏見街道沿いに、50戸もの窯元がありました。 この伏見人形の影響を受けて誕生した人形の一つに、江戸末期、沼貫村(現・丹波市氷上町) 稲畑 の赤井若太郎忠常がつくり始めた稲畑人形があります。若太郎は稲畑の庄屋である赤井家の長男として生まれ、元服の祝いで京都見物へ出掛けた折、伏見人形と出合いました。 稲畑で土人形をつくり、地場産業に出来ないかと考えた若太郎は、父の許しを得て、伏見から人形勝という職人を呼び寄せました。そして、自らも寝食を忘れて型づくりに励み、今日、稲畑人形の代表作と言われる「天神」を始めとした型を完成させました。更に、近隣の農家の指導も行いながら、地域ぐるみで人形制作を始めました。 弘法大師開基の岩瀧寺(兵庫県観光百選) 当初は7軒が人形づくりに関わ