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愛媛を代表するB級グルメと、みんな大好き国民食のコラボ

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2018年7月に起こった西日本豪雨で甚大な被害があった愛媛県の宇和島市吉田町、西予市野村町、大洲市の3カ所を取材した帰り、JR松山駅でB級グルメ好きの心を刺激するのぼりを発見しました。駅構内にあるカレーショップデリーの「やきぶたたまごカレー」です。どうやら「自慢のカレーで焼豚玉子飯を応援」とのコンセプトで始めたようです。焼豚玉子飯は、知る人ぞ知る今治市のB級グルメで、既にこのブログでも一度紹介していますが( 鉄板焼き鳥にセンザンキ、焼豚玉子飯 - 今治のソウルフードはすごいぞ )、今回はそのつづきみたいなものです。 さて、カレーで「デリー」と言えば、1956(昭和31)年に東京・湯島で創業した老舗インドカレー店が頭に浮かびます。が、松山の「デリー」は、そちらとは特に関係ない模様。1971(昭和46)年に、四国で唯一の地下街「まつちかタウン」にオープンした「カレーショップデリー」の支店になるそうです。 のぼりには「やきぶたたまごカレー」とありましたが、掲示メニューには「焼豚玉子カレー」と書かれ、しっかり今治のB級グルメを継承していました。「デリー」は松山駅の北側にありますが、反対の南側にある「麺小町」という喜多方ラーメンの店で、「焼豚玉子飯」をメニューに載せており、焼き豚はこの店から融通してもらっているとのこと。ホンモノの焼き豚を使っているってことですな。 ネットでクチコミを見ていると、かなりの人が、この焼豚玉子カレーを食べています。が、愛媛を代表するB級グルメと、みんな大好き国民食とのコラボに、これがうまくないわけはないと手放しで喜ぶ人がいる一方、別々に食べたいとする人も相当数いて、評価は真っ二つ。私も、正直なところ別々派ですが、これはこれで食べること自体に意義があると思うB級好きです。 そんなこんなで、予定外の場所で「焼豚玉子カレー」を食べた私、ホテルは駅の近くだったので、まずはチェックイン。そして、まだ空いているであろうサントリーバー「露口」へ行こうと、大手町駅前から路面電車で大街道を目指すことにしました。 すると、大手町駅の手前に踏切があり、線路が交差しています。あれ? これって、前に聞いた、電車の交差点か? そう思いました。 というのも、その4年前、「露口」で隣り合ったお客さんから、松山には日本で唯一、一般電車(鉄道)と路面電車(軌道)が交差するポイントがあ

函館本線長万部駅の名物駅弁「かにめし」

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いつだったか忘れましたが、函館から札幌へ特急列車で移動した時のこと。途中の長万部駅で、名物駅弁の「かにめし」を買ったことがあります。私の中では、カニの駅弁というと、この長万部の「かにめし」を一番最初に思い浮かべます。 ある時、交通新聞社のウェブマガジン『トレたび』で、「日本全国駅弁の旅」という企画を見つけました。その第11回がカニ駅弁で、リードは次のようなものでした。 「昭和27年に初めて販売されて以来、根強い人気を誇るのがカニ駅弁。今回は、カニ好きの、カニ好きによる、カニ好きのための特集をお届けします!」 そして、北海道・釧路駅のたらば寿し、石川県・加賀温泉駅のかにすし、鳥取県・鳥取駅の元祖かに寿し、兵庫県・豊岡駅と城崎温泉駅の城崎のかにずし、福井県・福井駅などの越前かにめしの5点が紹介されていました。 あれ? 長万部の「かにめし」がないじゃない・・・。『トレたび』は、1952(昭和27)年発売開始の元祖かに寿し(鳥取駅)を最初のカニ駅弁としていますが、長万部の「かにめし」は、それより2年前の1950(昭和25)年に駅弁として販売を始めてるんですがね。 というわけで、専門の交通新聞社でさえ、追い切れていないのか、と思いきや、同じ『トレたび』の「旅行ガイド」という別企画に掲載された記事には、「カニを使った駅弁は各地で発売されているが、元祖は長万部『かにめし本舗かなや』の『かにめし』」と、きっちり書かれていました。 かにめし本舗かなやは、昭和初期に、鉄道交通の要衝として栄えた長万部駅で、弁当を販売していた長万部駅構内立売商会(1928[昭和3]年創業)が前身です。かにめしは、第2次世界大戦直後、食糧難で弁当の食材が入手困難だったことから、噴火湾でとれた毛ガニを塩ゆでし、弁当の代わりにホームで立ち売りしたのが始まりです。 しかし、「煮かに」は毛ガニの漁期以外には販売出来なかったため、カニのおいしさを1年中味わってもらえるようにと、何度も試作を重ねた末、1950年に完成。駅弁「かにめし」として販売をするようになりました。最盛期の昭和30年代には、15人の売り子がホームに並んだといい、長万部の「かにめし」は、一躍、北海道の名物となりました。 それが今年になって、北海道新幹線の札幌延伸に伴い、函館本線長万部~余市間の廃止が確定。函館~長万部間の存続も厳しく、北海道新幹線並行在

東武スカイツリーライン西新井駅の「西新井らーめん」

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我孫子駅の唐揚げそば( 常磐線我孫子駅「弥生軒」の唐揚げそば )、鳥栖駅のかしわうどん( 鳥栖駅6番ホーム「中央軒」のかしわうどん )に続いて、西新井駅の立ち食いラーメンの紹介です。 ホームの立ち食いそばは、かなりの数があると思いますが、ラーメンは珍しいのではないでしょうか。国民食の一つと言われるほど人気のラーメンなのに、なぜホームの立ち食いというとそばやうどんが中心になるんでしょう。駅のホームという場所柄、提供までの時間が問題なんですかね。 それはともかく、西新井駅のラーメンは、1983年に埼玉県越谷市へ引っ越し、築地へ通勤するようになって、その存在を知りました。 ちょっと身の上話をすると、私は新宿区生まれ、小金井市育ちで、結婚するまではJR中央線の武蔵小金井駅から歩いて5分ほどの所に住んでいました。一方、妻の実家は中野で、結婚してからは、東村山市にアパートを借りて住んでいました。しかし、義父はリタイア後、故郷である茨城県古河市に移住する予定だったこと、また私の事務所が築地であることから、両方に利便性がある東武伊勢崎線沿線に的を絞って、家を探しました。 結果、越谷市で土地を見つけて家を建てることになり、妻と2歳前の長男の3人で埼玉県人となりました。その後、長女が生まれ、更には年月を経て長男、長女が結婚して孫も生まれましたが、一昨年まで東武線での通勤が続きました。が、実のところ、わざわざ途中下車してまでラーメンを食べようとは思わず、「西新井らーめん」を食べたのは、長男が小学校高学年の一時期だけでした。 「西新井らーめん」を食べることになるきっかけは、中学受験を控えた長男の日曜テストでした。当時、四谷大塚のテストを受ける長男とその友人に付きそうのが、毎日曜日の恒例になっていました。で、西新井駅で準急に乗り換えたりする際、めざとく「西新井らーめん」を見つけた長男のリクエストで食べることになったのです。 以後、それが恒例のようになり、今では2人の子どもの親となった長男は、初詣で西新井大師へ行き、帰りに家族で「西新井らーめん」を食べるというのが、正月の恒例行事になっているようです。別に親から親へ代々受け継ぐ恒例行事にしなくてもいいんですが・・・。子どもの頃の思い出って、変なところで残っているのかもしれませんね。 東武伊勢崎線は、1899(明治32)年に北千住駅から久喜駅まで

鳥栖駅6番ホーム「中央軒」のかしわうどん

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今から20年近く前、サロンパスで知られる久光製薬の元会長・中冨正義さんにお会いするため、佐賀県鳥栖市を訪問しました。事前にご本人と約束し、「白寿のジョガー」として取材させて頂くことになっていたため、鳥栖到着後、真っ直ぐご自宅へ伺いました。 1905年生まれ中冨さんは、60代も後半を迎えたある日、旧友から高齢者マラソン出場を誘われました。学生時代は陸上部でしたが、50年近くも走りから遠ざかっていました。いったんは無理だと断ったのですが、旧友の「途中で歩いてもいいから」の一言にカチン。生来の負けず嫌いが頭をもたげ、練習に励んだ末、見事完走。 これをきっかけに、その後、国内外の大会へ次々と出場。ついには82年、77歳の時にホノルルでフルマラソンを走ってしまいます。以来、ホノルルには15回連続出場。サロンパスの試供品を詰めた大きな袋を肩からかけ、沿道の観衆に配りながら走るのが名物となりました。 実は中冨さんとはそれ以前に、どこかのホテルで偶然お会いしたことがありました。その時、乗り合わせたエレベーターで、同行されていた方が持っていた袋からサロンパスを取り出し、渡されたことがあります。突然のことで驚いたのも確かですが、ホノルル・マラソンでサロンパスを配るエピソードは聞いていたので、結構うれしくなったものです。 そんな話を枕に、いろいろ伝説的エピソードを伺おう、なんぞと考えながら、中冨家のインターホンをピンポーン。すると、家の方が出てこられ、中に入れてくださいました。取材のため中冨さんにお会いしたい旨伝えると、いま旅行に出ているとの返事。 呆然とする私に、ご家族が申し訳なさそうに声を掛け、経緯を聞いた上で、少し待ってほしいと。しばらくして、手ぶらでお帰しするわけにはいかないので、とりあえずマラソン関係も含め、エピソードを詳しく知っている関係者の方に集まってもらうことになった、とのこと。 せっかく手配をしてくださったので、そちらに出向き、お話を伺うことにしたのですが、行ってみると、結構な人数が集まっており、これも中冨さんの人徳なのだろうと察しました。で、基本的なエピソードはそこで伺い、後でご本人からは電話取材でコメントをもらうことにし、写真も先方が手配してくれることになりました。その後、世間話に入り、鳥栖の町についても、いろいろお話を聞かせて頂く中、気になる情報が飛び込んできまし

常磐線我孫子駅「弥生軒」の唐揚げそば

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全国の駅そばを30年にわたって食べ歩いた駅そば研究家による「全日本愛と感動の駅そばランキング」の第1位は、常磐線我孫子駅にある弥生軒でした。とはいえ、駅そば研究家の弥生軒評は「ごくありふれた駅のごくありふれた駅そば」。更にネットのクチコミでも「そばは普通」との評価が多いのです・・・。 それがなぜ、駅そばNO1なのかというと、その秘密は、平成になって始めたトッピングの唐揚げにあるようです。ボリューム満点の唐揚げは、たちまち人気となり、やがて客の絶えない駅そばになったのです。 ただ、唐揚げは作り置きなので、常連の間では、つゆに浸し温かくしてから食べるという裏技が定番らしいことも分かりました。 で、ある日、私も我孫子駅へ行ってみました。 実はこれ、編集部の若手スタッフが担当するコラムの代打取材だったのです。というのも、直近の出張で、ちょっとした食べ物ネタを扱うコラムの取材も一緒にやってくるはずが、体調不良により取材が出来なかったということで、私が急遽、何かをやっつけなくてはいけなくなったのです。 そこで、他の企画と場所がかぶらず、しかも近場で取材出来るもの、という条件の中、弥生軒の唐揚げそばを選びました。もちろん朝食を抜き、それなりに構えて行ったのですが、それにしてもヘビーな駅そばで、既に若手ではなかった私には結構堪えました。 ちなみに、朝9時の段階で、1・2番ホームの唐揚げは売り切れ。仕方なく階段を上り下りして隣のホームでゲットしました。それでも、私の唐揚げが最後の1個でした。唐揚げは、外で作って運んでくるらしく、次に入るのは10時過ぎ、とおばちゃんが客に説明していました。 ところで、もう一つ、この店を有名にしているものがあります。山下清です。 清は昭和17年から5年間、住み込みで働いていました。弥生軒は当時、駅弁を販売していたのですが、その弁当の包装紙には、清の絵が使われていました。 ただ、その間も清の放浪癖は治まらず、旅から戻る度に、社長から怒られるという繰り返しだったそうです。

富山駅の新旧グルメたち

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昨日の記事( 日本酒好きのワンダーランド・ぽんしゅ館で味わう「鶴の友」 )で、上越新幹線越後湯沢駅構内にある利き酒施設「ぽんしゅ館」を紹介しました。ここは、新潟県内の酒蔵が、全て利き酒出来る施設ですが、富山駅にも以前、駅ナカ角打ちがありました。 「ぽんしゅ館」がある新潟は、日本屈指の酒どころですが、お隣の富山も負けていません。立山、勝駒、満寿泉、三笑楽、銀盤など、おいしい地酒が目白押しです。富山駅の駅ナカ角打ち「つりや」は、それらの銘柄が5種類ずつ定期的に入れ替わり、1杯200円で試飲出来るようになっていました。 そんな駅ナカ角打ちですが、コロナ禍でどうしたか検索してみたら、コロナ禍以前の2019年1月に撤退していることが分かりました。っていうか、富山駅自体、だいぶ変わっているようです。 最後に富山へ行ったのは2018年5月で、当時も工事中でしたが、地元ではないので、今後どうなるかなどは特に気にしていませんでした。が、この3月18日には、富山駅南口にホテルと商業施設の複合ビル「MAROOT(マルート)」がオープンし、これに歩調を合わせて、駅前にあった商業施設「マリエとやま」の一部機能がマルートへ移転。マリエはいったん閉鎖した上で大規模リニューアルをし、今年秋頃、新装オープンするようです。 富山駅では、夜のラーメン屋台を含め、シロエビの天丼を食べたり、列車待ちの間にシューパフェを食べたり、ます寿司を買ったりと、結構飲食をしていたんですが、今や知っている店はないかも状態となっています。 そんな中、駅ナカ角打ちの「つりや」と同じ、きときと市場「とやマルシェ」に入っていた「白えび亭」は、今も健在のようです。以前、富山でライフスキル教育を取材した後、講師の方を空港へ送るという地元の方から、途中でシロエビの天丼をご馳走するという話を聞き、新幹線で帰る私はよだれを垂らしながら、それを見送ったものです。 それからしばらくして、富山に日帰り出張があり、昼前に富山駅に降り立ちました。で、シロエビを食べたいと切望していた私、当時は富山駅ビルの3階にあった「白えび亭」に入りました。今はどうか知りませんが、その頃は食券を買うシステムでした。そこで、ショーケースにある番号と機械の番号を照合し、シロエビの天丼 with 刺身を注文した・・・つもり。 が、出てきたものは、あちらさん曰く「えびえび丼

日本酒好きのワンダーランド・ぽんしゅ館で味わう「鶴の友」

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以前の記事で、新潟県のJR越後線内野駅が、かつて「鶴の友」駅と呼ばれていたことを紹介しました( 杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち )。これは、駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたためで、「内野駅」の看板はその隣に、ひっそりと掲げられていました。 「鶴の友」とは、内野にある樋木酒造の日本酒です。樋木酒造は超がつくほど地元密着型の蔵元で、地元の人の口に合った酒造りを目指しています。そのため、「鶴の友」も新潟市以外にはほとんど出回らず、県外不出の地酒となっていますが、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 私の場合、築地の事務所近くにあった老舗のそば店「さらしなの里」に「鶴の友」が置いてあったことから、時々、飲むことが出来ましたが、東京を始め関東圏ではめったにお目にかかれないと思います。一度、北海道の函館に行った際、「鶴の友」を置いてあるという理由で店を選んだことがありました( 銘酒「鶴の友」がある函館の居酒屋てっ平 )。その時は、残念ながら品切れだったんですが、日本酒のラインアップに「鶴の友」が入っているだけで、その店を信頼してしまうほど、私にとって好きな銘柄となっています。 そんな「鶴の友」を確実に味わえるのが、「ぽんしゅ館」です。 「ぽんしゅ館」は、新潟県湯沢町にあるレルヒという会社が運営しており、「新潟人も知らない、新潟を売る、新潟の専門食品店」を標榜しています。扱っているのはお酒だけではないのですが、県外の人間からすると、「ぽんしゅ館」という名前からして、完全に日本酒のお店だと思ってしまいます。 私の初「ぽんしゅ館」は、上越新幹線越後湯沢駅構内の店舗でした。ここは1995年に出来た店で、以後、2013年に新潟駅、2017年には長岡駅にも開店しています。 で、目玉は何と言っても、ぽんしゅ館オリジナルの利き酒設備です。日本酒王国・新潟の酒蔵が、全て利き酒出来る越後のお酒ミュージアムで、日本酒好きにとっては、ワンダーランド的施設でしょう。 また、第1号店の越後湯沢駅店には、「湯の沢」という酒風呂もあって、定期的にお風呂専用に薄めた日本酒が投入されています。日本酒の成分が血行を促進し、肌がすべすべ・体がポカポカになると言われ、新幹線や在来線の待ち時間などに利用する旅行客もいます。 そんな施設だけに、新幹線の駅な

全国的にも珍しい温泉付き駅舎・ほっとゆだ駅

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横手のかまくらを取材した後、JR北上線で西和賀町を訪問した話を以前の記事( 岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬 )に書きました。その際、下車したのが、「ほっとゆだ」駅でした。  ◆ ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。  ◆ ほっとゆだ駅については、こんな記述でしたが、駅は元々1922(大正11)年に、横手を起点とする国鉄西横黒線(にしおうこくせん)の終点・陸中川尻駅として開業しました。西横黒線はその後、24(大正13)年に陸中川尻まで延伸した東横黒線に編入され、横黒線に線名を変更。岩手県の黒沢尻駅から秋田県の横手駅を結ぶ路線として開業しますが、54(昭和29)年に黒沢尻町が周辺の6村と合併して北上市になったのを機に、黒沢尻駅を北上駅に改名し、66(昭和41)年には線名も北上線に変更されました。 国鉄民営化後、陸中川尻駅は、旧湯田町が費用の3分の2を負担して、木造2階建ての新駅舎を建てました。また、湯田温泉峡を持つ町のPRと活性化も兼ねて温泉を掘り、89(平成元)年4月1日、温泉付き駅舎のほっとゆだ駅として運用を開始しました。 温泉施設ほっとゆだの入浴料は大人440円、子ども260円で、1600円で利用出来る貸切風呂もあります。私は、錦秋湖の雪景色を撮影した後、列車の待ち時間を利用して「ほっとゆだ」で冷えた身体を温めましたが、中にはわざわざ途中下車をして温泉に入る好き者もいるようです。 まあ確かに、鉄道好き、温泉好き、どちらにとっても、行ってみたいスポットではあるでしょうね。それに私のような、鉄道、温泉にこだわりのない単なるミーハーも、近くに行ったら、寄ってみたくなること請け合いです。 ちなみに、ほ

大内宿を彷彿させる茅葺き屋根の駅 - 湯野上温泉駅

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会津美里町で本郷焼の取材をした際( 大人気漫画の聖地で出会った謎の看板 )、新白河駅でレンタカーを借り、国道289号と121号経由で会津美里町へ入りました。その記事にも写真だけ入れましたが、会津美里へ向かう途中、新白河駅から約45kmの地点に、湯野上温泉駅があります。 この駅は、1932(昭和7)年に国鉄会津線の湯野上駅として開業しました。民営化後の87(昭和62)年、会津線がJR東日本から第三セクターの会津鉄道に転換、駅名も湯野上温泉駅に改称されました。更にその年12月には新駅舎が完成しましたが、これが全国でも珍しい茅葺き屋根の駅舎で、鉄道マニアだけではなく、一般の観光客も多く訪れる駅となりました。 湯野上温泉駅は、観光スポットである大内宿( 江戸期会津の面影を今に残す街道の宿場町 )の玄関口で、茅葺き屋根も、そんな大内宿の街並みに合わせて葺き替えられました。また、待合室には茅につく虫を煙で追い払うための囲炉裏があったり、駅舎の隣には足湯があったりして、訪れる人を癒やしてくれます。 更にこのスポットは、会津の桜の名所ともなっており、ホーム沿いの桜並木が一斉に花を咲かせる春には、写真愛好家や鉄道マニアを始め、多くの観光客で賑わいます。福島民報が定点で撮影した春の動画があるので、例によって一部早送りして編集したものを埋め込んでおきます。

糸魚川駅周辺のあれこれ

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糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ぐ活動を取材した際( 糸魚川駅北大火からの復興 )、夕方から駅に近い商工会議所で紙芝居をするということで、昼間のうちに別件の仕事を一本片付けたり、火災があったエリアを歩いたりしました。それでも少し時間が出来たので、糸魚川ジオステーション「ジオパル」を訪問してみました。 「ジオパル」は、糸魚川市が北陸新幹線糸魚川駅高架下に設けた「糸魚川世界ジオパーク」の魅力発信基地となると共に、糸魚川の特徴的な地勢の一部を表現した大型ジオラマも設置されています。つまり、「ジオパル」の「ジオ」は、「ジオパーク」と「ジオラマ」双方の意味を持ち、友達や仲間を意味する「パル」を組み合わせた交流施設となっています。 ちなみに、ジオパークの「ジオ(geo-)」は「地球の、地面の、地理の」を意味する接頭辞で、これに「パーク(park=公園)」をつなげた造語です。ジオパークの構想は1990年代半ばからヨーロッパで練られ、2004年にユネスコの支援を受けて世界ジオパークネットワークが発足。「世界ジオパーク」の加盟認定を行う仕組みが作られました。 日本には現在九つの世界ジオパークがあり、糸魚川ジオパークもその一つになっています。糸魚川には、日本列島を東西に二分する大断層フォッサマグナの西側の断層である「糸魚川‐静岡構造線(糸静線)」が通り、日本列島の形成を示す貴重な地質や特徴的な地形を見ることが出来ます。また、二つの国立公園(中部山岳、妙高戸隠連山)や三つの県立自然公園(親不知・子不知、久比岐、白馬山麓)があり、ジオに関する豊富な話題を始め温泉や登山など、さまざまな切り口で楽しめます。 「ジオパル」にはこの他、大糸線で活躍した人気車両「キハ52-156」の実車が展示されていたり、日本の豪華寝台特急の先駆けとなったトワイライトエクスプレスの再現車両があったり、鉄道マニアにとって聖地の一つになっています。糸魚川市のYoutubeチャンネルITOIGAWAbroadcastが動画を公開しているので、ジオラマ部分をピックアップして埋め込んでおきます。 ところで、糸魚川に着いたのは昼前でしたが、一つ簡単な仕事を片付けてから、遅めの昼食を駅前にあった大衆食堂「あおい食堂」でとりました。その後、駅北大火があった場所を確認するため歩いていたら、マンホール蓋の交換作業に遭遇しました。珍しいの

遮光器土偶をかたどった木造駅の巨大オブジェ

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この3月1日から東京国立博物館で、「縄文時代の祈りの道具・土偶」が展示されています。縄文時代の祈りの道具の代表「土偶」を取り上げたもので、9月4日まで、約半年にわたって平成館考古展示室に展示されます。 展示品は、東北や関東で出土した土偶など17件で、重要文化財4件、重要美術品2件が含まれます。中でも青森県つがる市木造亀ケ岡遺跡から出土したものが多く、しかもそのうちの遮光器土偶と土面は重文、猪形土製品が重美となっています。 そのつがる市木造に友人がおり、だいぶ前に訪問させてもらったことがあります。北海道函館での取材後、青森にも仕事があり、その時、友人が迎えに来てくれ、つがる市の友人の所にお邪魔しました。 友人は、車で迎えに来てくれたんですが、自宅から800mほどの所にある駅へわざわざ連れて行ってくれました。鉄道マニアでもないので、なんで?と思ったのですが、駅前に着いて理由が分かりました。 写真の通り、駅舎の前面に、遮光器土偶の巨大オブジェが張り出していたのです。 なんでも1987(昭和62)年の国鉄分割民営化で木造駅の無人化が決まる中、なんとか駅を中心とした活性化策をと、ふるさと創生事業の1億円を活用して駅舎を改築したそうです。デザインに遮光器土偶を選んだのは、亀ケ岡遺跡のPRも兼ねていましたが、この巨大オブジェを付けたこともあって、費用は2倍強の2億1200万円がかかったとのこと。 しかし、これだけの駅なので、「一度は訪れたいちょっとすごい駅」とか珍スポット、面白駅など、当然注目を集めています。 ただ、駅に列車が入って来る3分前から3分間、目が赤く光ったりして、当初は子どもたちを中心に、周辺住民から「怖い」と恐れられていたようです。3分間光らせるというのは、ウルトラマンのカラータイマーみたいな発想だったんですかね。それはともかく、実際に住民からのクレームもあり、その後は観光客などから要望があった時のみ、手動で光らせるようになりました。 しかし、時間の経過と共に、巨大オブジェはだんだんと町に浸透。愛着さえ湧いてきて、今では町のシンボルとなり、「シャコちゃん」の愛称で呼ばれています。そして誕生から30年近くが経過した2020年4月、駅舎の補修工事と共に、シャコちゃんの目もLEDライトに転換。併せて、以前の赤1色から、7色に変化するレインボー・シャコちゃんに生まれ変わり、

大船渡線・気仙沼線の起点・一ノ関駅

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東日本大震災の取材で、よく利用した駅の一つが、一ノ関駅でした。東北新幹線の復旧後、被災地へ入る場合は内陸部の新幹線駅でレンタカーを借りることが多くなりました。福島県の相馬市や南相馬市、また飯舘村の場合は福島駅、宮城県山元町や亘理町は白石蔵王駅、南三陸町へはくりこま高原駅、岩手県陸前高田市は一ノ関駅、大船渡市は水沢江刺駅といった案配です。 中でも一ノ関駅は、追跡取材をさせてもらった陸前高田と南三陸を同時に回る際や、気仙沼を取材する際には拠点となっていたので、駅自体はもちろん駅に近いホテルもよく利用させてもらいました( 地元の方お勧めの居酒屋こまつと喜の川 - 一関 )。 ある時、一ノ関駅で降り、いつものように駅レンタカーを借りようと改札へ向かっていると、「一関・平泉 もち街道」という顔出しを発見。ふむふむと見ているところに、新幹線下り方面のワゴンサービスのお姉さん二人が通りかかりました。 で、ちょっとモデルになってもらえないか声を掛けたところ、即答でOKしてくれ、頼んだこっちがびっくりするぐらいノリノリで撮影に応じてくれました。撮る側もモデル側もいい感じで撮影を続けているうち、下りの新幹線が到着するとのアナウンスがあり、お姉さんたち、大慌てでホームに上がって行きました。。。 ところで、「一関・平泉 もち街道」ですが、一関市や平泉町など旧伊達藩北部は、もち料理が豊富なんだそうです。年中行事や慶弔のもてなしなど、人が集うともち料理が振る舞われてきました。正式なもてなし料理の「もち本膳」は、雑煮と小豆、くるみ、なます(大根おろし)のもちに、漬け物をお膳に乗せて供されます。味付けは他にも多種多彩で、ゴマやクルミ、ずんだ、しょうが、納豆など300種類を超えるとも言われます。 以前、ライターの砂山さんとカメラマンの田中さんが、一関を取材した際にも、この辺りのもち文化を取り上げていました。参考に、その部分を抜粋してみます。  ◆ 一関の人々は、老いも若きも、とにかく餅をよく食べます。正月はもとより、桃の節句やお彼岸に七夕、冠婚葬祭にも必ずと言っていいほど餅が出ます。ルーツは江戸時代にさかのぼります。有数の米どころだったことに加え、伊達藩由来の礼儀作法が結びつき独特の「もち食儀礼」が生まれ、庶民へと広がりました。 種類も豊富で、あんこやずんだ、ゴマといったポピュラーなもの以外にも、エ

気仙沼横丁と共に忘れられない気仙沼駅前の大衆食堂ますや

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東日本大震災前、気仙沼は、昨日書いた大船渡線の他、南三陸町を通って石巻市の前谷地駅に至る気仙沼線の起点にもなっていました。しかし、気仙沼市と南三陸町にあった16駅中9駅が津波で流失。また鉄橋が落ちたり、路盤・築堤が流失するなど、沿岸部を走る南気仙沼から陸前戸倉(南三陸町)間は壊滅状態となりました。 震災翌月以降は、代行バスやバス振替輸送などで運行していましたが、2012年5月にJR東日本が提示したBRT方式による仮復旧について、沿線の気仙沼、南三陸、登米の各自治体が合意。そして12月22日からBRTの本格的な運行が始まりました。 大船渡や陸前高田を取材する際は、気仙沼が拠点になっていたので、大船渡線のBRTにも乗ったことがありました。しかし、南三陸の場合は、東北新幹線くりこま高原駅でレンタカーを借りるのが常だったので、気仙沼線にはついぞ乗ったことがありませんでした。ただ、気仙沼線・大船渡線BRT専用のICカード「odeca(オデカ)」は購入してあるので、いつか気仙沼線BRTにも乗ってみたいと思っています。 ちなみに、気仙沼線・大船渡線BRTには、「おっぽくん」という沿線復興のキャラクターがあります。「おっぽくん」はリスで、どうやら「お出かけ」に引っかけて尻尾を大きく描いているようです。「odeca」も、そこからの命名のようで(尾デカっ!)、気仙沼駅でカードを見た私、何となく欲しくなってしまい、odecaを作っちゃったのですが、試しに大船渡線BRTに乗った時に持っていくのを忘れ、いまだ一度も使ったことがありません。。。 BRT気仙沼駅は本来の大船渡線気仙沼駅を出てすぐ左手の気仙沼観光コンベンション協会前に設置されていました。いつもレンタカーを借りていた所で、くりこま高原駅の駅レンタカー同様、何度も利用するため顔なじみになっていましたが、途中からレンタカーの取り扱いがなくなってしまい、陸前高田に行く時は一ノ関駅、大船渡へ行く時は水沢江刺駅を利用するようになりました。 あと、気仙沼駅で忘れてはいけないのが、「ますや食堂」と、レトロな喫茶店「停車場」です。 この話は、既に記事しているので、そちら( 復興屋台村取材で出会った気仙沼の名物グルメたち )に譲りますが、簡単に紹介すると、「ますや食堂」さんは、80代のご夫婦と、そのお嬢さんの3人でやっており、震災の時、地域の人を元気

三陸鉄道と大船渡線の結節点・盛駅

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昨日の記事で書いたSL銀河が運行を開始した2014年4月12日の前週4月5日、6日には、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台となり、全国的に注目された三陸鉄道が、3年ぶりに全線で運行を再開しました。今はJRから山田線が移管され、久慈から盛までがつながり三陸鉄道リアス線となっていますが、当時はまだ久慈 - 宮古間の北リアス線と、釜石 - 盛間の南リアス線に分かれていました。ちなみに盛以南は大船渡線、久慈以北は八戸線につながり、岩手県沿岸部を縦貫する大事な足となっています。 東日本大震災では、南北リアス線107.6km(現在は全線163km)のうち約320カ所で津波被害を受けましたが、「三鉄は地元の足」だと全社一丸となって復旧に取り組み、震災の5日後には、比較的被害の少なかった北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運行を再開。その後「三鉄の希望作戦」と名付けたがれきの撤去作業を進めた自衛隊、修復されたホームや駅舎を掃除してくれた地域住民、全国から駆け付けたボランティアなど、多くの人の力を借り、徐々に復旧区間を拡大させてきました。そして4月5日に南リアス線、6日に北リアス線がつながり、ついに全路線で復活を果たしたのです。 SL銀河運行開始の日は、そんな時期でもあったので、私もまだ乗っていなかった南リアス線に乗車してみました。この時、一緒に乗った乗客の一人は、大阪から休暇を取って三陸鉄道に乗りに来たという鉄道マニアで、前日は北リアス線に乗ってきたと話し、北リアス線はトンネルばかりで風景があまり見えなかったが、南リアス線はどうでしょう、と聞かれました。しかし、私も初めてなので、分かるはずもなく・・・。 しかも私の場合、取材の合間だったので、乗車したのは釜石から唐丹までの3駅だけでした。で、ここまでが釜石市で、次の吉浜駅からは大船渡市に入ります。南リアス線も比較的トンネルが多い路線らしいのですが、吉浜(吉浜漁港)、三陸(越喜来漁港・泊漁港)、甫嶺(鬼沢漁港)、恋し浜(小石浜漁港)、綾里(野々前漁港・綾里漁港・石浜漁港)と、駅周辺に漁港があるように、三陸の海もばっちり眺められます。この後、三陸鉄道は陸前赤崎を経て、終点の盛駅へと向かいます。 盛駅は、大船渡市の行政・司法の中心・盛町にあり、JR大船渡線の終着駅でもあります。三陸鉄道とは乗り入れしていませんが、ここで大船渡線に乗り換え、陸