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民謡のある風景 - 旧街道が育てた口説き唄 (栃木県 八木節)

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日光から宇都宮方面へ向かう街道は、栃木県・今市(日光市)で分岐し、八木(足利市)、群馬県・太田、木崎を経て、高崎に近い倉賀野で中山道と合流します。この分岐した道は、例幣使街道と呼ばれ、昔、京都から下向した勅使が、日光東照宮大祭へと赴く際に使われました。『八木節』は、この例幣使街道沿いに唄われていきました。  ♪アーアアーア   さても一座の皆様方よ わしのようなる三角野郎が   四角四面の櫓の上で 音頭とるとは揮りながら   しばし御免を蒙りまして 何か一言読み上げまする   文句違いや仮名間違いは 平にその儀はお許しなされ   許しなされば文句にかかるがオーイサネー 『八木節』は、新潟県の『新保広大寺くずし』系の唄と言われます。江戸の昔、越後から上州へ出稼ぎに来た者が唄い、それを地元の人たちが盆踊り唄にして真似て唄ったのが始まりだといいます。一説では、例幣使街道の宿場町木崎(群馬県太田市)で、越後生まれの遊女が唄い出したのだとも言われます。これに、酒の四斗樽を叩く技法が付いて、木崎の盆踊り唄となりました。木崎の先の八木宿でも、盛んに唄われるようになり、特に栃木県山辺村(現・足利市)の美声の馬方が、街道沿いに唄って歩いたといいます。明治の末、群馬の人・新井勝三郎が詞曲を整え、それを八木で発表、更に山辺村堀込の馬方・渡辺源太郎がこれを習い、大いに唄い広めました。 堀込源太と呼ばれた渡辺は、1914(大正3)年、東京・歌舞伎座でこの唄を披露し、16年にはレコード化もされて、『八木節』は更にポピュラーになりました。大正半ばには東京、大阪でも流行、さまざまな口説き文句が拍手を浴びました。 こうして、越後の唄が栃木で生まれ変わり、群馬で育って全国的に知られるようになりました。産みの親、育ての親がそろった珍しい民謡の一つと言えるでしょう。 

西の芦屋釜と並び称された茶釜の銘品・天命釜

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栃木県南西部、市の南端を渡良瀬川が流れる佐野は、古名を天命(てんみょう)といい、『太平記』には「下野国天命宿」の名が見えます。後に天明の字が当てられ、『木曽路図絵』は「天明宿、犬伏宿は半里の間、大路町続きなり。天明は昔茶釜を鋳て、天明釜と云ひ、筑前芦屋釜と同じく賞美せられし名物なり」と記しています。 鎌倉極楽寺に文和元年(1352)銘の釜があって、これが現存する最古の天命釜とされています。また、足利義政愛蔵の東山御物にも室町中期の天命釜があり、現存しています。西の芦屋釜と並び称されたこれら天命釜の特徴は、荒い鉄の地肌の美しさと佗の趣と言われます。 しかし、天命では茶釜ばかりを作っていたわけではありません。梵鐘、鰐口、釣燈篭、仏像の他、鍋や釜などの日用品にまで及んでいます。中でも梵鐘は、国の重要文化財に指定されているものだけで十数点も残っています。 現存する梵鐘で最古のものは、千葉県の日本寺にあり、元亨元年(1321)の銘が入っています。面白いところでは、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼすきっかけとなった京都・方広寺の大鐘があり、その製作には、40余人の天明鋳物師が参加したといいます。 伝承によると、天明鋳物は平安時代、藤原秀郷が、河内の鋳物師5人を移住させ、武具を作らせたのが始まりと言われます。その後、茶の湯の流行と共に茶釜の需要も増え、やがて茶の世界で珍重され、中央まで名が聞こえるようになりました。 取材時には、市内に10カ所あった工房は、現在4カ所まで減少しています。しかし、残っているのは、いずれも工芸品を手掛けている工房ばかり。藤原秀郷によって招請されて以来30代近く続く正田家の正田忠雄さんを始め、江田家22代目江田蕙さん、それに取材に協力して頂いた栗崎二夫さん(栗崎鋳工所)と若林秀真さん(若林鋳造所)の4人の鋳物師が、天明鋳物の歴史を継いでいます。 このうち栗崎さんは、主に朱銅焼と呼ばれる鋳物を作っています。朱銅焼は焼いた青銅を磨き込むことで、赤の地肌に金の班紋を浮きださせる技法を用い、漆器の根来塗を思わせる不思議な鋳物です。 また若林さんは、亡き父彦一郎さんの跡を継ぎ、伝統的な天命鋳物を守っています。彦一郎さんは、伝統を後世に伝えていくために鋳物製造の資料や在来民具を収集し、残してくれました。若林さんは、その伝統を守りながら、更に自分の世界を切り開こうと、自ら茶の

赤い夕日に染まる童顔の野仏は、下野生まれの石の民芸

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野木町は、栃木県最南端。町域の大部分は、平地林の残る平らな台地ですが、西側は渡良瀬遊水地の一部をなす低湿地帯となっており、一面をヨシが生い茂っています。そして町の西境を、思川(おもいがわ)というロマンチックな名の川が、渡良瀬遊水地に向かって流れています。 町のほぼ中央を走る東北本線と思川との間には、日光街道が通っています。その街道筋に、「仏生庵工房」という石屋がありました。その名の通り、石仏や道祖神などを彫っている工房でした。 石仏は。ギリシャ彫刻の影響を受けた、インド・ガンダーラ地方の釈迦像が始まりと言われます。池田三四郎著『石の民芸』によると、道祖神は開拓のために初めて作られた道を守る神。またはその道から入ってくるかもしれない災厄を防ぐ神。そして子どもを授け、労働力に育てて豊穣を約束してくれる神が、夫婦和合や縁結びの神として、道祖神の形に集約されていったといいます。 仏生庵工房の大久保昌英さんが作っていた道祖神は、福々しい顔をしていました。「道祖神はだいたい男女双体ですから、深刻な顔つきにすると、妙になまめかしくなる。それで努めて童顔にするよう心がけているんです」と、大久保さんは話していました。 大久保さんは、道祖神や石仏に、主として福島県・須賀川産の江持石(安山岩)を使っていました。ただ、きめの細かさでは、江戸城の石垣にも使われた伊豆の青石(凝灰岩)が最適だそうで、細かい細工物の時には、これを使うと言っていました。 道祖神や石仏も、最近は信仰や宗教のためというより、インテリアとしての需要が多くなっています。庭の片隅や、応接間に置くために買い求める人がほとんどだといいます。しかし、考えようによっては、それこそが民間信仰や宗教の本来の姿なのかもしれません。 記事を書くに当たって確認したところ、大久保さんは石工を続けてはいるようですが、仏生庵工房という名ではないので、石仏や道祖神は彫っていないのかもしれません。が、栃木県が運用する「とちぎの伝統工芸品」というウェブサイトに「野木の石仏」が出ており、そこには大久保安久さんという方の名前が出ていました。同じ大久保なので、何らかの関係がある方かもしれません。

一度はくぐってみたい紅葉の絶景トンネル

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那須塩原市に超絶きれいな紅葉のトンネルがあります。JR東北本線西那須野駅からほど近い大山参道の紅葉で、約200mにわたって続くイロハカエデの並木道です。 ここはもともと、大山巌元帥の墓所へ向かう参道で、1916(大正5)年から翌17年にかけて整備され、参道の両脇にはさまざまな樹木が植えられました。墓所に近い100mにはヒノキ、それ以外の200mには桜とイロハカエデが交互に植えられたそうです。 しかし、桜は枯れて伐採されてしまい、200mの参道にはイロハカエデだけが残りました。また、1955(昭和30)年には、イロハカエデの参道が、大山家から西那須野町(現・那須塩原市)へ寄贈され、今は大山公園となって、市民に親しまれています。 那須塩原市は、1200年以上の歴史を持ち多くの源泉を抱える塩原温泉郷や、古くからの湯治場・板室温泉、秘境・三斗小屋温泉などがあって、何と言っても温泉で有名です。私も子どもの頃、宇都宮の親戚に連れられ、塩原温泉に行ったことがあり、塩原と聞くと真っ先に温泉を思い浮かべてしまいます。その一方、江戸時代以前は、「手にすくう水も無し」とうたわれるなど、那須野が原は不毛の地扱いをされていました。 しかし、明治時代に入ると、政府の殖産興業政策により那須疏水が整備され、貴族・華族が一斉に開拓を推し進めました。その結果、不毛の地と言われた那須野が原は急速に発展を遂げました。市内にはその名残として、那須に入植したり農場を拝領したりした明治の宰相、要人の名を冠した地名が多く残り、現存する当時の貴族・華族の別邸は日本遺産に登録されています。 その一つ松方別邸は、当時の総理大臣松方正義が1903(明治36)年に建てた洋風の別荘です。松方は、那須野が原開拓に熱心に取り組み、千本松農場(現千本松牧場)を造り、欧米風の大農法をここで実践しました。 また、第1次山縣内閣と第1次松方内閣で外務大臣を務め、青木農場を開設した青木周蔵の別邸も現存。こちらは県に寄贈され、現在は道の駅「明治の森黒磯」の一施設として一般開放されています。 大山元帥も、那須開拓に乗り出した、そうした明治の要人の一人です。江戸末期の1842(天保13)年、薩摩藩士・大山綱昌の次男として生まれました。従兄弟に西郷隆盛・従道兄弟がおり、特に従道とは1歳違いだったこともあり、幼い頃から仲が良く、親戚以上の盟友関係に

市民の手により観光名所となった太平山あじさい坂

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栃木市は江戸時代、日光例幣使街道の宿場駅として、また巴波川の水運を利用した問屋町としても栄えました。明治維新後、廃藩置県によって県庁が置かれ、栃木県の政治、経済の中心地として繁栄しましたが、その後、県庁は宇都宮に移転。それでも、商業都市としての活気は維持し、北関東の商都と呼ばれました。 巴波川の岸辺には、今もかつての材木問屋や麻問屋の蔵が軒を連ね、当時の繁栄ぶりをしのばせています。これらの蔵は、時代の変化の中で本来の役割を終え、「蔵の街・栃木」のシンボルとして、一般公開されています。 その一つ、木材回漕問屋だった旧家の蔵を活用し、観光施設にした「塚田歴史伝説館」には、「三味線おばあさん」というハイテクロボットがいました。三味線を弾きながら、語り部となって当時の暮らしなどを説明してくれるんですが、手前のおじさんのリアルさが不気味で、内容がなかなか頭に入ってきませんでした。 そんな栃木市に、約1200年の歴史を持つ太平山神社があります。827年、慈覚大師により創建されたと言われ、江戸時代には徳川家の信仰があつく、社運が大いに隆盛。というのも、第4代将軍徳川家綱の生母・宝樹院が、太平山の麓の出身で、太平山神社を崇敬していたためだそうです。本殿は、栃木市南部の太平山頂(標高341m)に立ち、約1000段の石段が続く表参道は「あじさい坂」と呼ばれています。 名前の由来となった約3000株のあじさいは、50年近く前の1974年に、栃木ライオンズクラブによって植えられたものです。その年、結成5周年を迎えた同クラブが、記念事業として植樹したのが始まりです。 クラブではその後も、補植や手入れなどを継続。最初の植樹から3年後の77年にクラブに入会した水沼敬司さんによると、当時の参道はまだ石段になっておらず、急坂での作業はかなり大変だったそうです。 「一時は人の背丈ほども伸びて、あじさいのトンネルのようになったこともあります。しかし、あまりにも伸び過ぎたため観光協会が剪定したところ、翌年は花が咲かず、がっかりした記憶があります」(水沼さん) もちろんそれ以降は、そんなことはなくなり、観光協会も本腰を入れてあじさい坂の手入れに参画。栃木ライオンズクラブが毎年実施している除草や施肥の奉仕活動とは別に、栃木農業高校や栃木特別支援学校の生徒など、今では多くの市民ボランティアが、あじさいの剪定作

ゆうがおの町・壬生で300年続くかんぴょう作り

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7月から8月、栃木県南部を旅すると、農家の庭先に無数の白い帯のようなものが干され、吹き流しのように風にひるがえっているのを見かけます。栃木県の夏を彩る風物詩かんぴょうの天日干しです。 かんぴょうは、他県でも作っている所はありますが、栃木県はそれらを全く寄せ付けず、全国生産の99.6%を占めています。特に、壬生町を中心とした県南一帯が栽培好適地で、その主産地となっています。 かんぴょうは古い食物で、室町時代の『節用集』にも記されておリ、仏道では精進料理として鎌倉時代から食用に供されていたといいます。しかし、昔は関西が主産地で、栃木県(下野国)にかんぴょうが入ってきたのは、今から約300年前、滋賀県(近江国)水口からであったとされます。 水口は東海道五十三次の宿場町の一つとして知られますが、安藤広重の代表作『東海道五十三次』を見ると、水口では名物かんぴょうが描かれています。 1712(正徳2)年、その近江国水口の城主鳥居伊賀守忠英が、下野国壬生藩に移封されて来ました。当時、壬生領内にはこれといった産物がなく、ために忠英は、殖産興業策として、前任地水口からかんぴょうの種子を取り寄せ、栽培させたといいます。もっとも、全国の99.6%を占めるほどの名産になろうとは、当の忠英自身、想像もしていなかったに違いありません。 ところで、このかんぴょうが、実は夕顔の果実から作られることをご存じでしょうか。夕顔は、ウリ科の1年草で、かんぴょうはその変種フクベで作ります。 真っ白い花が開く夏の夕暮れ時、花合わせといって、雄花を摘んで雌花に人工交配させます。やがて小さい丸い実をつけ、半月ほどで5kmぐらいの果実に急速に成長します。 かんぴょうは、これをむいて、1日天日で干し上げて作ります。最盛期は7月下旬からほぼ1カ月。この間、壬生の農家は文字通り、町の花・夕顔で明け、夕顔で暮れていきます。  ◆ このかんぴょうの取材で壬生を訪問した日の夜、台風崩れの温帯低気圧が日本列島に接近。この台風は、典型的な雨台風で、コースに当たった東日本を中心に記録的な大雨をもたらしました。壬生でも、夜中にバケツをひっくり返したような大雨が降り、いつもは眠りが深い私でも、さすがに起きてしまうほどでした。外の様子を見ようと、灯りを付けると、なんと泊まっていたホテルの部屋が雨漏りをしているという驚愕の展開。同じ頃、隣の

北関東の歴史町・足利市

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  足利市は、室町時代に将軍家となった足利氏発祥の地で、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学(アカデミア)」と呼んだ足利学校があります。足利の市街地は、足利氏の居宅跡である鑁阿寺と、足利学校を中心に展開しています。鑁阿寺と足利学校を結ぶ道沿いには、古い土蔵などが残り、この辺りが明治大正期に繊維産業で富を築いた富裕層の邸宅街であったことをうかがわせます。 足利学校は日本最古の学校と言われますが、その創建は奈良時代とも、平安時代とも、鎌倉時代とも言われ、定かになっていません。確実なのは、室町時代の永享11(1439)年、関東管領・上杉憲実が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉の円覚寺から僧・快元を招いて足利学校の経営に当たらせてからのことになります。 上杉憲実の方針により、教育の中心は儒学に置かれましたが、快元が易学にも精通していたことから易学を学びにくる者も多く、兵学、医学なども教えました。特に兵学は、戦国大名が関心を寄せる実践的学問で、戦国時代には足利学校出身者が、その道の権威者として重んじられました。 足利学校は最盛期、「学徒三千」と言われたほどの隆盛を誇り、北は奥羽から南は琉球に至る全国各地から来学徒がありました。宣教師フランシスコ・ザビエルは、布教本部に宛てた書簡に「坂東の大学あり。日本国中最も大にして最も有名なり」と記し、足利学校の名は海外にまで伝えられました。 しかし、関東における事実上の最高学府となった足利学校も、江戸時代には易学、兵学などの必要性が少なくなった上、朱子学に取って代わられ衰退。明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図りましたが、廃藩置県の実施もあり、明治5(1872)年に廃校となりました。その後、大正10(1921)年に足利学校の敷地と孔子廟や学校門など現存する建物が国の史跡に指定されて保存が図られ、平成2(1990)年の復元完成へとつながることとなります。 ちなみに、前々回のブログ(「 大人気漫画の聖地で出会った謎の看板 」)で触れた天海大僧正(慈眼大師)も、足利学校で学んでいます。天海は14歳の頃、故郷の会津を出て修行に出ます。最初は宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、18歳からは比叡山延暦寺で修行。その後、大津の三井寺や奈良・興福寺で学びましたが、母危篤の知らせを受け、23歳の時に会津に戻りました。そして、自ら母の葬

唐揚げ一筋60年。日光杉並木近くの鶏からあげ専門店 - 味の大塩

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杉線香の取材で、日光市の今市に行ったことがあります。当時はまだ、水車小屋で杉の粉をつき、それを材料に線香を作っていました。 この時、かの有名な 日光杉並木 に近く、JR今市駅と東武線下今市駅の中間にあるホテルに泊まりました。ネットで検索したら、2015年にリニューアルオープンし、今は夕食もとれるようですが、その頃はホテル内での夕食はなく、外で食べるしかありませんでした。 で、イメージ的にJR側の方が飲食店がありそうな気がして、とりあえず今市駅方面へ向かって歩き始めました。すると、ものの2分もしないうちに、「味の大塩」という店を発見。が、ホテルから駅まで5分程度のはずなので、いったんやり過ごし、駅を目指して歩き続けました。 ただ、到着した駅前は明かりが乏しく、飲食店は見当たりませんでした。そこでUターンをして、最初に発見した「味の大塩」さんに入ることにしました。 席に着くなり店の人が、「うちは唐揚げ専門なんですけど」と、申し訳なさそうに一言。渡されたメニューを見ると、料理は確かに「鶏からあげ」と「鶏からあげ定食」の2品のみ。 でも私、唐揚げは好きな方だし、この取材で撮影を担当してくれた宇田川さん(現在は陶芸家兼林業家)も異論はないというので、二人とも鶏からあげ定食をオーダーしました。注文が入ると、店の方がお茶を出してくれ、一緒にお手ふきを二つ置いて行きました。当然、一つは宇田川さんのだと思い、渡そうとしたところ、あちらにも二つのお手ふきが・・・。ん? そういうシステムなのかな。ま、いっか。 というわけで、待つことおよそ15分。 出て来たのが、銀色の皿に鎮座まします立派な唐揚げ様。唐揚げは唐揚げでも、何と鶏の半身の唐揚げだったのです。まずはその偉容にテンションが上がります。箸で食べるなんざとても出来ないため、結果的に手で食べることになります。お手ふき二つの謎が解けました。 早速、かじりついてみると、お味の方も抜群。 決め手は秘伝のたれで、ベースにはさっぱりとした味が特徴のしょうゆを使っているのだそうです。そして、この自家製たれに漬け込んだ若鶏の肉をじっくり揚げます。そのため皮はパリパリ、肉はふっくら柔らかな中にも歯応えがあり、奥まで味が染み込んでいました。これを、銀の皿にこんもり盛られた

親子4代女子旅にお供するの巻 - 川治温泉

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川治温泉 に旅行したのは、3年前の6月でした。当初、家内の母を中心に義理の姉と姪2人、家内と娘、それに生後8カ月の孫娘の7人で行く女子旅のはずでした。 しかし、旅行の直前になって姪の一人の懐妊が分かり、まだ安定期に入っていないことから、女子旅から抜けることに。で、その代打として私が指名されました。女子旅プラスワン、プラスワンの私は運転手兼子守という役回りです。 義母は旅行が好きで、よく義姉と家内と一緒にあちこち旅をしていました。歴女に鉄子という義母は、特に列車で歴史的な土地を巡るのがお好みでした。近場の時は孫たち(うちの娘や姪たち)が同行させてもらうこともありました。そして、この年の川治旅行では、更に一世代増え、親子4代旅となったわけです。 川治温泉では、大正15年創業の老舗旅館「 湯けむりの里 柏屋 」さんにお世話になりました。川治は鬼怒川と男鹿川が合流する温泉郷で、柏屋さんはほぼその合流点にあり、部屋の目の前を男鹿川の清流が流れていました。また、トレインビューが魅力の温泉宿とも呼ばれ、部屋の窓から左手を見ると、鬼怒川にかかる高架橋を野岩鉄道会津鬼怒川線の列車が走る光景が見られました。 野岩鉄道会津鬼怒川線というと、土日祝日を中心に SL大樹 が運行します。運転区間は下今市駅と鬼怒川温泉駅の間だけなので、川治湯元駅までは来ていないのですが、もしこの橋をSLが走っていたら、特にSL大好き鉄子の義母は大興奮だったに違いありません。 川治温泉の開湯は江戸時代で、享保年間(1716年~1736年)に、男鹿川が氾濫した後、偶然に発見されたと言われます。その後、この地を通っていた会津西街道の宿場町として、また湯治場として栄えました。 会津西街道は、会津の若松城下から下野の今市を結ぶ街道ですが、それは関東側の呼び名で、会津側からは下野街道、あるいは南山通りなどと呼ばれていたそうです。江戸時代には、会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な役割を担っていました。街道筋にある 大内宿 には今も茅葺き屋根の民家が軒を連ね、往時を偲ばせます。 そんな川治温泉では、お世話になった柏屋さんを始め、いくつかの旅館がリニューアルやリノベーションにより、現代にマッチした宿として、観

四季光彩 - 奥日光の自然美 その三

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このブログのきっかけとなったのは、撮り貯めた写真の整理でした。過去にさかのぼって、ポジフィルムで撮ったものもスキャニングしてみたところ、奥日光の写真が非常に多くあることに、改めて気付きました。それも季節のいい新緑や紅葉の写真だけではなく、雪や氷の写真もあります。 そもそも、1年を通して奥日光に通うようになったのは、カメラマン氏からの提案でした。「四季のさまざまな色合いを風景写真で表現してみたい」。そう彼が言ったのが、始まりです。ただ、自然が相手だけに、モタモタしていると、思った色に出くわさない危険性もあります。北海道とか沖縄とか、ちょいと行って撮影するというわけにはいきません。 そこで一計を案じたカメラマン氏は、地理に精通するためにも撮影は東京近郊の一箇所で行うこととし、地形に変化があり、四季の表情が豊かな場所ということで、奥日光を選んだのでした。私はそれに同行することになり、1回目は12月の初旬にロケハンを兼ねて訪問。その後は毎月1回、通うことになり、新雪に腰まで埋もれたり、 極寒の中ガタガタ震えながら日の出を撮影したり( その一 ) 、アカヤシオを目指して崖伝いに歩いたりと、なかなかどうしてハードな撮影行となりました。 でも、おかげでいろいろな表情の奥日光に出会うことが出来ました。今回は少し「四季光彩」の色に絞って、見ていきましょう。  ◆ まずは、奥日光に春の訪れを告げるアカヤシオから。 アカヤシオはヤシオツツジの一種で、東北南部から紀伊半島の岩山などに自生しており、栃木県の県花になっています。奥日光では、いろは坂、 明智平 、 半月山 などで多く見られ、だいたい4月下旬~5月上旬、つまりゴールデンウィーク中に見頃を迎えます。 カメラマン氏との撮影行では、明智平と半月山の両方で挑戦してみました。明智平の撮影では、崖伝いに移動してポイントを探していたのですが、この時、カメラマン氏はだいぶ危険な状態にあったようです。後に、彼が書いたエッセーに、次のような記述がありました。 「背負ったカメラ・ザックが、木の枝につかえて、先ほどから体の方向転換に四苦八苦している。スタンスが悪い。立っているのは、10cm四方しかない三角錐の突起部なのだ。崖の下は、垂直に落ちている。間違っても右方向には転落出来ない。 編集氏はどうした、どこにいるのだろう。助けを求め

四季光彩 - 奥日光の自然美 その二

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幻の湖が出現した小田代ケ原 奥日光といえば 華厳滝 や 中禅寺湖 、 戦場ケ原 など、日本を代表する自然があふれています。そんな有名観光地が、あちこちに点在することもあって、滝に湖、湿原、水といったイメージが強いのではないでしょうか。が、奥日光は自然林の探勝路も整備され、気軽に森を堪能出来るスポットにもなっています。 日光の森にはさまざまな表情があります。新緑や紅葉など、季節ごとの違いもありますが、ミズナラやカラマツの森など、樹種による表情も豊かです。 ミズナラは標高1600mまでの山地帯の代表的な植物で、純林を形成することは少ないと言われます。しかし、奥日光ではいくつかの純林が見られ、特に山王林道を入った 光徳牧場 近くの光徳の森は「光徳ミズナラ植物群落保護林」に指定されています。中には母樹と思われる直径80cm、樹齢300年以上の大木も見られますが、だいたいは樹高15m、直径20cmほどの若々しいミズナラで形成されています。 また、通称・柳沢林道(日光市道1002号線)でも、ミズナラの美しい純林が見られます。柳沢林道は国道120号線から 小田代ケ原 を通り、 西ノ湖 、 千手ケ浜 へ至る林道で、かつては一般車の通行も認められていましたが、自然が荒れたため、1993年から一般車の乗り入れは禁止され、 低公害バス が運行しています。といっても、平日は1日に6往復しか運行していないので、車道を歩いても危険はありません。 戦場ケ原と男体山 以前、カメラマン氏と撮影行を重ねた時も、またその後、単独で撮影に行った際にも、ここは何度も通っており、勝手知ったる道です。せっかくなので、ブログのタイトル通り、少し旅先案内をしてみましょうか。  ◆ 柳沢林道に入るとすぐ、左手にカラマツ林があります。林床にはミヤコザサが生え、夏は緑、秋には黄色く色づいたカラマツとのコントラストがとてもきれいです。少し歩くと、湯川に出合います。 湯ノ湖 を源とする湯川は、 湯元温泉 の対岸にある 湯滝 となって流れ落ち、 戦場ケ原 の中を緩やかに流れた後、 竜頭ノ滝 で再び下り、 中禅寺湖 へと注ぎます。 柳沢林道と交差する湯川の脇は、戦場ケ原と竜頭ノ滝を結ぶ探勝路になっています。この湯川にかかる しゃくなげ橋 を渡ると、その先

四季光彩 - 奥日光の自然美 その一

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「二、三日前から禁漁となった湖は、黄、紅白、濃淡の緑と、とりどりに彩られた山々の姿を逆さに、鮮やかに映していた。が斯うしたこの湖の誇りも、やがてひと月の後には、氷と雪に封じられて死の湖として永い冬を過ごさねばならないのだ」 これは、大正時代に活躍した作家・葛西善蔵さんの『 湖畔手記 』の一節です。葛西さんは大正13年秋、奥日光・湯ノ湖畔にある湯元温泉に2カ月ほど滞在して、これを書き上げました。 かつて、そんな奥日光に、1年を通して通ったことがあります。当時よく一緒に仕事をしていたカメラマン氏に付き合っての行軍でしたが、寒いのが嫌いな私にとって、こんなことでもなければ、厳冬の奥日光に行くことはなかったと思います。 関東にありながら、奥日光の冬は長く厳しいことで知られます。見事な紅葉も、その冬を前に精いっぱいの輝きを放っているようで、それがまた、見る者の心を捉えるのではないでしょうか。でも、冬は決して死ではありませんでした。雪と氷に覆われた湖の岸辺で、じっと眠ったように春の訪れを待つ木々の枝にも、固い蕾が見られ、かえって自然の生命力を強く感じさせてくれたものです。 で、奥日光の撮影行ですが、2月にはカメラマン氏の希望により、まさしく氷と雪に封じられた 湯ノ湖 で、厳冬の幻想的な早朝の光を撮影しよう、ということになりました。ロケハンをしながら土地の人に情報を聞き、その後、宿の人から渡された新聞で日の出時間を確認して当日に備えました。土地の方から、早朝には氷点下20度近くまで下がると聞いた私、こりゃ初めての経験だわい、厳寒の中でモーニングコーヒーを飲むのだ!とはしゃぎながら「万全の」準備をしたものです。 翌朝、目覚まし時計にたたき起こされ、眠い目をこすりながら外を見ると、金精峠から雪と風が吹き降りているらしく、暗がりの中、街路灯が霞んでいました。眠いのと寒いのもあり、「こんなんで朝日出るか?」と、昨夜とは打って変わったテンションになったものの、何とか意を決して着替えを敢行。氷点下20度と聞いたため、ダウンの重ね着をした私は、何だか肉襦袢か着ぐるみを着たような出で立ちになっていました。 ただ、宿から出たとたん、冷たく激しい風が、雪と共に体当たりを食わせてきて、その格好がオーバーではないことを知らせてくれました。玄関の外にある寒暖計は氷点下12度を示していまし