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民謡のある風景 - 清盛ゆかりの瀬戸に生きる心意気(広島県 音戸の舟唄)

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広島県呉市と、倉橋島の音戸町は橋で結ばれています。その下が音戸の瀬戸。長さ約650mの水路ですが、幅は最も狭いところで約90m。いくつかの暗礁があって、潮の干満による潮流は、約4ノットとかなり早くなっています。昔は、瀬戸内海有数の難所でした。呉市から音戸へ、この水路を漕ぎ渡るには、かなりの技術を要したに違いありません。『音戸の舟唄』は、その漕ぎ手たちによって唄われました。  ♪イヤーレーノ 船頭可愛いや 音戸の瀬戸はヨー   一丈五尺の ヤーレノーエ 艪がしわるヨー この舟唄は、広島から岡山にかけて広く唄われていた『臼ひき唄』のようなものを、船頭たちが艪に合わせて唄ったのが始まりだと言われています。瀬戸内海一帯の舟唄は、全てこの『音戸の舟唄』系の唄だと言われ、土地によっては「石切り唄」、「酒造り唄」、「田植え唄」などに形を変えて唄い継がれているともいいます。「舟唄」の場合は、節回しの区切りの部分に独特の息づかいをみせ、艪を操る姿を彷彿させます。 音戸の瀬戸は、1164(長寛2)年に、平清盛が開削したと伝えられています。倉橋島と対岸の呉市警固屋は、かつては陸続きでした。そのため、舟で大坂方面へ向かう場合は、ここを迂回しなければなりませんでした。瀬戸内の水軍を味方につけた清盛は、その不便さを解消し、海路を確保すべく、延べ6万余人、10カ月の月日をかけて、水路を造りあげたのだといいます。もっとも、音戸と警固屋では、地層が全く違うとも言われ、この話は伝説の域を出ません。 1961(昭和36)年12月、清盛が切り離した陸地を再びつないで、音戸大橋が出来ました。全長1071mの橋上を車が行き交い、舟唄は過去のものとなりました。だが、音戸の瀬戸が水路の要衡であることは、今も変わりなく、1日数百隻の船がこの瀬戸を越えます。唄に込められた心意気が生きているのです。

三次浅野藩と赤穂浪士の絆求めて

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三次市は、三つの川が合流して、中国地方第一の大河・江の川となる辺りに開けた地域で、古くから交通の要衝として知られていました。今も山陰・山陽を結ぶ交通の要で、広い商圏を抱えていますが、特に江戸時代は、鉄の産地出雲につながる出雲往来などのポイントとして、重要視されました。 この辺り一帯は、秋から春にかけて、川が運ぶ冷気の影響で、濃い霧が時々発生します。夜半から朝まで漂う「霧の海」は、観光の呼びものの一つになっていますが、昔は往来を妨げ、山道の通行を難儀なものにしました。このため、江戸時代、出雲への道は、東海道並みの道幅に広げられ、一里塚も置かれたといいます。 三次市は、江戸時代、広島・浅野藩の支藩である三次藩の城下町として栄え、四十七士の討ち入りで知られる元禄赤穂事件とも深い関わりがあります。 三次の地は、もともと三吉氏が代々領地としていたもので、16世紀末に、今の尾関山公園の北方にそびえる比熊山一帯に山城が築かれました。その後、この城は廃城となり、関ケ原の戦いの後、安芸国に入封した福島正則が、重臣・尾関正勝にこの地を治めさせ、尾関氏は江の川を見下ろす尾関山に館を構えました。そして、1619(元和5)年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が安芸に入封しました。 今から390年前の1632(寛永9)年、長晟が没し、嫡男光晟が家督を継ぎます。しかし、当時、光晟が17歳という若さだったこともあって、幕府は、光晟の庶兄に当たる浅野長治に5万石を分与する処置をとらせて、本藩を手助けさせることにしました。こうして三次藩が成立し、長治は、三次の町全体を一つの曲輪(郭)に見立て、4代にわたってこの地を治めました。 元禄赤穂事件でおなじみの浅野内匠頭長矩の正室阿久利姫(揺泉院)は、この三次藩初代藩主浅野長治の次女にあたります。二つの浅野家は、長矩の高祖父にあたる長政から分かれたもので、同族ということになります。 二人の縁組は、長矩が10歳、阿久利が7歳の時に幕府から許可され、長矩17歳、阿久利14歳の時に結婚。この時、赤穂藩からは、家老の大石内蔵助が迎えに来ました。大石、時に24歳。まさかに、19年後、主君の仇討ちということになるなど、思いようもありません。大石は、長治の建てた鳳源寺に詣で、境内にシダレザクラを植えました。今に残るこの桜は、両家の繁栄を願ってのものだったでしょう。 阿久利は、

いのち輝く備後三次のひな人形

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三次市は広島県北部、中国山脈の中の三次盆地の中心にあります。西城川、馬洗川、可愛川の三つの流れがここで落ち合い、西日本の太郎・江ノ川となって、日本海へ注ぎます。可愛川に沿って南へ行けば広島、馬洗川を東南にたどれば尾道、福山の瀬戸内海に、西城川をさかのぼれば出雲、江ノ川を下れば石見へと、三次は古くから、山陽山陰を結ぶ交通の中心地として栄えてきました。それは今も同じで、鉄道では芸備線、福塩線、三江線が通り、国道54号と同183、184号両線の分岐点となっています。 この三次の町を歩いていると、そこかしこに懐かしげな商家、町家、白壁の土蔵造リなどを目にすることが出来ます。特に、万光小路などのいわゆる「めくら小路」や、西城川の堤沿いに古い家並みが続く旭町などは、あたかも江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。その基礎を作ったのは、1632(寛永9)年、広島・安芸藩から分封されてきた浅野長治で、長治は現在の三次町を中心に武家屋敷町、町人町などを形成し、城下町・三次としての体裁を整えました。 三次の町が、浅野長治の時代に基盤が出来たのと同様、今に残る三次の文化、三次ひな人形や鵜飼も、この長治が持ち込んだものです。鵜飼は、参勤交代の途中、アユやコイの卵を採取して、川漁を奨励したことに始まリ、今でも三次の夏の風物詩として、人気を集めています。また取材したひな人形も、長治が江戸から土人形師を連れ帰リ、この地で作らせたのが始まりと言われています。 三次地方では、江戸時代から春の節句は男女共通で、4月3日(旧暦3月3日にあたる)に行われています。初節句を迎える子どもには、男子に賢聖・武人の人形を、女子には娘人形を贈るのが習わしでした。中でも、この地方は古くから天神信仰が厚く、節句前には三次の町を中心に、近郷にも天神像を主座とする人形市が立ったそうです。 三次ひな人形の起源は、1641(寛永18)年。長治が連れ帰った職人は、江戸浅草・今戸焼の土人形師・森喜三郎で、長治は喜三郎に五人扶持を与え、主として忠臣孝子の像を作らせました。そして長治は、家臣に子どもが生まれる度に、一個の人形を贈っては、忠道孝道の励ましにしたといいますが、それが後に、町民の人形贈りの風習になったようです。 三次ひな人形は、素焼きの土人形に彩色を施したものですが、もともと三次は冒頭に記したように三つの川の合

なだらかな草原の中に灌木が点在する天空の広場

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以前のブログ( 福山市民のソウルフード、大衆食堂「稲田屋」さんが閉店 )にも書いたんですが、子どもの頃、同じ東京の小金井市に住んでいた従姉妹(母の妹の娘)は、私より一つ年上で、一人っ子の私にとって、姉のような存在でした。その従姉妹が、広島県庄原市の男性O君と結婚。彼と従姉妹は、安倍前首相と同い年、同じ大学の出身で、卒業後は東京と広島で遠距離恋愛を続けていました。彼は広島市内の会社に就職しましたが、数年後、実家の仕事を継ぐために庄原市へUターン。そのため従姉妹も、結婚を機に、庄原に住むことになりました。 そんな従姉妹夫婦が、結婚して間もないある冬の朝、広島市内のデパートへ買い物に出掛けました。庄原市から広島市の中心までは、90km近くありますが、車は順調に広島市内へ入り、デパートまではあとわずか。しかし、広島の街を走るうち、妙なことに気がつきました。 信号待ちで車が止まる度、道行く人たちが、皆こちらを見てくるのです。ご自慢のワーゲンゴルフではありますが、それほど珍しいわけでもありません。自分たちが、あまりにも素敵なカップルだからかしら。思い切りポジティブな従姉妹は、そう思ったそうです。 しかし、そうではありませんでした。その謎は、デパートの駐車場に車を入れて解けました。車の屋根に高々と雪を積んでいたのです。 広島県は、温暖な瀬戸内から、中国山地の厳しい寒さまで、バラエティーに富んだ気候を持っています。県東北部の庄原市は、西日本では最も寒冷な地域で、市街地でも例年20〜30cmの積雪があり、北部は豪雪地帯に指定されています。 庄原市の北端、島根県との県境にある比婆山連峰は、標高1200m級の山々が連なり、山頂付近は国の天然記念物に指定されているブナの純林に覆われています。最高峰は標高1299 mの立烏帽子山で、主峰比婆山(1264m)は、『古事記』に登場する、国生みの女神伊邪那美命が葬られた「比婆之山」と伝えられています。ブナ林の中にある円丘が、伊邪那美命の御陵とされ、一帯は「比婆山伝説地」として、県の史跡に指定されています。 また、比婆山の西にある吾妻山(1239m)も、人気の登山スポットで、山頂近くには国民休暇村「吾妻ロッジ」があったのですが、新型コロナウイルスの影響などで集客が低迷し、残念ながら最近、営業を終了してしまったそうです。実は私も、この休暇村に泊まったこ

福山市民のソウルフード、大衆食堂「稲田屋」さんが閉店

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たぶん、広島県の中で、一番多く行っている所は福山市だと思います。記憶にあるだけで8回、ここ2年に限っても福山で三つの取材をしています。また、福山の北にある三和町や豊松村(2004年の新設合併により現在はいずれも神石高原町)で取材をした際には、取材時間の都合で福山で前泊または後泊をしており、回数としては恐らく2桁を超えていると思います。 ちょっと話が逸れますが、子どもの頃、同じ東京の小金井市に住んでいた従姉妹(母の妹の娘)は、私より一つ年上で、一人っ子の私にとって、姉のような存在でした。その従姉妹が広島県庄原市の男性O君と結婚。彼と従姉妹は、安倍前首相と同い年、同じ大学の出身で、卒業後は東京と広島で遠距離恋愛を続けていました。彼は広島市内の会社に就職しましたが、数年後、実家の仕事を継ぐために庄原市へUターン。そのため従姉妹も、結婚を機に、庄原に住むことになりました。 稲田屋特製定食(880円)と関東煮(1本180円) ある時、従姉妹から、庄原に行ってから知ったという漬物、広島菜漬と安芸紫が送られてきました。広島菜漬は、九州の高菜、信州の野沢菜と並ぶ日本三大漬菜と言われる広島菜の漬物で、安芸紫は、じっくり熟成させた広島菜をしそ風味に仕上げたものでした。で、この安芸紫が非常においしく、これさえあればご飯がいくらでも食べられちゃうという漬物でした。これ以降、広島出張の際には、必ず安芸紫を探すようになりました。 ところが、福山ではなかなかお目にかかれないのです。ある時など、安芸紫自体を知らない土産物店の人がいました。今でこそ、銀座に広島県のアンテナショップがあったり、ネットで安芸紫を購入出来たりしますが、当時は広島への出張時にしか入手出来なかったので、その反応の悪さに憤慨したものです。 広島菜は、1600年代前半、福島正則の参勤交代に従った人が、帰途に京都で手に入れ持ち帰った種子が元になっています。それが、明治時代に川内村で品種改良され、現在の広島菜が出来上がったと言われます。川内村(現在の広島市安佐南区川内地区)ではその後、広島菜が盛んに作られるようになり、広島を代表する特産となりました。 関東煮(1本180円)と純米酒(600円)の熱燗 となれば、広島菜から作る安芸紫も、知っていて当然でしょ! というのが、私の思考です。こうなると、同じ広島県でも、広島を中心とした西部は安

瀬戸内に臨む安芸の小京都の魅力 - 竹原

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竹原は安芸の小京都と呼ばれます。平安末期、京都・下賀茂神社の荘園として開け、市内には上賀茂神社・下賀茂神社が祀られています。そうした歴史的背景と共に、賀茂川や美しい竹林など、自然も京都をほうふつさせます。 しかし、海のない京都と違い、竹原には瀬戸内海があります。賀茂川は、瀬戸内海と内陸部を結ぶ舟が行き交い、竹原はその港町として栄えました。 一方、この港は瀬戸内海賊の基地としても知られました。そんなことを考えると、当時の竹原は、京都とは大いに違う趣を見せていたことでしょう。この頃の港は、賀茂川のかなり上流にあったらしいのですが、戦国時代に砂の堆積で使えなくなり、瀬戸内寄りに新たな港を造成しました。それが、現在の竹原です。 その後、浅野長晟(ながあきら)が藩主となってから、竹原は大きく変わります。浅野藩は、瀬戸内海での新田開発に力を入れました。しかし、土地の脱塩が不十分で、農地には適しませんでした。そこで、播州赤穂の浅野藩から技術者を招き、塩田開発に乗り出しました。 そして、これが大成功。1650(慶安3)年には31軒、1653(承応2)年には88軒の塩屋を数えるまでになりました。その後は、藩も個人も競って塩田開発に投資し、やがて竹原は塩の町として発展。同時に竹原の港も、その積出港として繁栄していきました。 今も残る竹原の重厚な町並みは、塩景気に沸いた浜旦那たちのものです。また、清水寺を模した西方寺を始め、多くの社寺が建立され、竹原は再び京を思わせる町へと変貌を遂げていきます。 これらの町並みは戦災を免れ、現在もほぼ全域に残っています。特に 上市・下市の家並 は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、江戸時代後期のさまざまな様式の建造物を見ることが出来ます。 伝建地区に2軒、国の重要文化財に指定されている建物があります。春風館頼家住宅と復古館頼家住宅で、頼家というのは、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた『日本外史』の著者・頼山陽を始め、江戸後期に多くの儒学者を輩出した家です。 製塩業と港で栄えた竹原は、元禄期には大坂などの町人文化の影響を受け、富裕層は学問に力を入れました。これにより、頼山陽の父である頼春水や、その弟の春風、杏坪の3兄弟を始め、多くの町人学者を輩出しました。 春風館頼