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佐賀県を代表する民俗芸能・面浮立

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政府は現在、盆踊りや念仏踊りなど、地域の歴史や風土を反映して伝承されてきた民俗芸能「風流踊」を、ユネスコ無形文化遺産に提案しています。既に2009年、風流踊系の「チャッキラコ(神奈川県三浦市)」が登録されており、今回はこれに国指定重要無形民俗文化財となっている全国各地の風流踊40件を加えて、「風流踊」として拡張記載を再提案。ユネスコでの審査は、今年11月頃に行われる予定です。 この風流踊の流れをくむ民俗芸能が、佐賀県鹿島市にもあります。県の重要無形民俗文化財に指定されている「面浮立」です。「浮立」の由来は、もちろん「風流」で、佐賀県南西部に多く見られます。この辺りの浮立は、鬼の面を被って踊るのが特徴で、そのため「面浮立」と呼ばれます。そして、面浮立を踊る際に使う面を浮立面と言います。 鹿島錦の取材で、この地を訪れた時、地元の方が浮立面を彫っている方の工房に連れて行ってくれました。 浮立面は木彫りの面で、素材は佐賀県の県木である楠を始め、桐や檜などを使います。同じ鹿島でも、地域によって表情が微妙に異なりますが、阿吽の面相を一対とするのは、共通しています。「阿」が雌面、「吽」が雄面で、雌面は角がほとんどなく、額にV字の皺があり、雄面は角が長く、額にU字の皺があります。 浮立面は、2003年に、佐賀県の伝統的地場産品に指定されました。現在、浮立面を制作している工房は、杉彫と中原恵峰工房の2軒で、いずれも鹿島市にあります。杉彫の4代目小森恵雲さんは、2002年に佐賀県マイスターに認定され、2015年には、中原恵峰さんと共に、国土緑化推進機構の「森の名手・名人」に認定されています。 この浮立面をかぶって踊る面浮立には、いろいろ種類があって、その中で、県の重要無形民俗文化財に指定されているのは、鹿島市の音成(おとなり)面浮立と母ケ浦(ほうがうら)面浮立の二つになります。音成が、最も古い形を残していると言われる面浮立で、母ケ浦は、鬼面芸として完成された芸と構成を持っているとされます。佐賀県には、他にも面浮立がありますが、この音成系と母ケ浦系の2種類に分かれるようです。 音成浮立と母ケ浦浮立を見分ける上で分かりやすいのは、衣装の違いになります。音成は濃紺1色で帯と太鼓のひもが黄色なのに対し、母ケ浦は波といかりの華やかな模様の衣装になっています。他にも、曲目の違いや動きの違いなどがあ

観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

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  出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。 最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。 そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。 で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。 私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。 しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。 そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。 潮目が変わったのは1968(

日本六古窯の一つ常滑焼の歴史

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私が編集に携わっていた雑誌は、今年で創刊64年になりますが、一貫して読者からの投稿欄が設けられています。編集部にはバックナンバーが全て保管されており、創刊2年目に入った1959年の雑誌(第2巻第1号)を見ていた時、「常滑焼の歴史」という原稿が目に止まりました。投稿者の柴山三郎さんは、1898(明治31)年に常滑市で生まれ、1923(大正12)年に秘色焼を興し、主に花器や水盤を作陶していた方でした。その投稿は、次のように始まっていました。 「全国有数の『すえ物作りの街・常滑』の名は、あまりにも世間に知られておりません。皆さんの身近に使用されていながら、その陶器が何焼であるかを知らずに使われている不思議な存在が、常滑焼であります」 私も、常滑焼と聞いて、イメージするのは土管坂ぐらいで、柴山さんの原稿を読んで初めて、朱色の急須や植木鉢も常滑焼だと知りました。常滑焼が、越前・瀬戸・信楽・丹波・備前と共に、日本の六古窯の一つとされていることは知っていましたが、確かに身近で使っていながら、それが常滑焼とは意識していませんでした。ちなみに、INAX(伊奈製陶/現LIXIL)も常滑だそうで、柴山さんは、常滑焼の知名度の低さは伊奈製陶以外、 ほとんど宣伝をしていないという、昔からの宣伝嫌いの風習からで、「デパートの宣伝係でさえ知らない人が多い実情であります」と書かれていました。 せっかくなので、柴山さんの原稿を以下に抜粋してみます。 「常滑市は名古屋市の南方、伊勢湾の海中に細長く延びた知多半烏の西海岸にある人口5万(※1)の街であります。名古屋駅から名鉄電車で急行1時問(※2)で達する陶器の街で、煙突林立する大工業地帯の景観を見ることが出来ます。有田焼も京焼も生まれていなかった鎌倉時代に、幕府からの注文で大きな壺や、 ひらかと称する皿、茶碗を盛んに焼いていたのであります。3000年以前の弥生式の土器も付近から発掘されていますので、 常滑焼の起源をどこまでさかのぼってよいのか分かりません。昔は船を利用した海上輪送が唯一つの運送機関でありましたので、 海岸地帯であって粘土と燃料の豊富にあった常滑地方一帯が、自然と陶器の生産地として発展したものと考えます。常滑古窯調査会の手で、半島の丘陵地帯の尾根10里ほどの間に散在する古い窯跡1000余カ所の存在を確認することを得ましたが、まだ山中に埋も

250年近い歴史を持つ伊予の窯業地・砥部

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砥部町は、愛媛県のほぼ中央、東と西、南の三方を山に囲まれた盆地状の町です。北部は松山平野に向かって開け、重信川を境に松山市に接します。町の中央を砥部川が北流し重信川に合流、瀬戸内海へと下ります。「ミカン王国・愛媛」の中でも一、二の生産量を誇る代表的産地です。と同時に、やきもの産地としても知られています。 砥部では、主に飲食器、花器類の磁器が生産されています。その特色は、白い磁膚に藍の呉須絵にあります。砥部焼の正確な起源は不明ですが、少なくとも江戸中期以来、陶器が焼かれていました。今日のような磁器の製造が始められたのは、1777(安永6)年のことです。 時の大洲藩主、加藤泰候(9代)が、藩財政振興策の一環として始めたものです。伊予郡原町村(現・砥部町)の杉野丈助が、監督としてこれに応じ、有田や波佐見などと共に、磁器の産地として知られていた肥前大村藩・長与の陶工5人を招き、砥部村五本松(現・砥部町五本松)に築窯しました。 砥部は、「伊予砥」の名で中央にも聞こえた砥石の産地でした。泰候は、肥後の天草砥石を原料にして、肥前各地で磁器が生産されていることを知り、伊予砥でも磁器が作れないかと考えたのです。そして、5人の指導を受け、3年近い歳月を経て出来上がったのが、1777年でした。 最初に窯が築かれた五本松は、今も砥部焼の中心地で、周辺を合わせて30数戸の窯元が軒を連ねます。南に高くそびえる障子山(885m)を背景に、庭で天日乾燥する情景は、「陶芸の町」砥部らしい情趣が漂います。 藩政期においては、主に染付を量産しました。俗に「くらわんか茶碗」というものがありますが、これは摂津国枚方(大阪府枚方)付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗を言います。初期のものは、砥部焼が多く使用されたということです。 砥部の窯業が、地場産業として確立したのは、明治に入ってからのことです。1875(明治8)年、良質の原料陶石「万年石」が発見され、急速に発展しました。主に、東南アジアへの輸出が始まリ、大正の頃には輸出が総生産の7割を占めた時期もあります。茶碗は特に「伊予ボール」として人気がありました。その後、時代の波を受けつつも、昭和40年代の民芸ブームによリ窯数も増え、1976(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定され、今日に至っています。 若い頃、撮影に協力して頂いた故酒井芳美さ

富士山麓、素朴な山里の雰囲気を残す手織り紬の里 山梨県富士河口湖町

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山梨県南部、富士山の北麓に半円を描くような形で、山中、河口、西、精進、本栖のいわゆる富士五湖が連なります。富士山を望む湖として、日本で最も有名な湖沼群です。河口湖はその中心で、県内観光のメッカとなっています。 その河口湖北岸に大石という集落があります。湖畔の大石公園からは、湖越しに雄大な富士山が望め、ゆったりとした気分にひたれます。夏には公園にラベンダーが咲き誇り、富士と湖、花の取り合わせがとても美しい場所です。 その大石公園から、山側に向かって少し入った辺りに、大石紬伝統工芸館があります。私が取材した頃は、周辺にまだ茅葺きの家が残り、素朴な山里の雰囲気を残していました。今はさすがに、ほとんどの家が、トタンなどで屋根を覆わってしまったようですが、古くからの手織り紬の里にふさわしいたたずまいが感じられました。 そして、そんなたたずまい通り、大石では今も、蚕を育て、繭を採り、糸を紡いで染めています。昔ながらの農家の機織りの姿を、最もよく伝えているのが、この大石紬だと言われます。 大石紬には玉繭が使われます。玉繭というのは、一つの繭に二つのさなぎが入っているもので、昔は屑繭と呼ばれました。太く、節の多い糸が出来ます。節があるからねばって切れやすく、手間がかかって織るのに苦労するのだといいます。大石の人々は、そんな糸を使い、根気よく丁寧に紬を織ってきました。大石紬が持つ温もりのある風合いは、こうして生まれるのです。 大石紬のもう一つの特徴として、独特な光沢があげられます。糸は富士山麓に自生する草木で染められます。染めは水に大きく左右されます。大石の水は、富士山の雪解け水です。その水が、美しい色と艶を生みます。大石紬にとって、まさに恵みの水です。 取材した時は、12人の織り手がいました。伝統工芸館が出来てからは、自宅にあった機をここに集め、家事や農作業の合間にやって来ては、ここで機織りをしていました。伝統工芸館は、大石紬を織って50年、60年という織り手の手仕事に、直にふれることが出来る貴重な場でもあります。※現在、残っている織り手の平均年齢は80代後半で、大石紬は廃絶の危機にあるようです。

白と藍のコントラストが美しい肥前三川内焼

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昨日の記事( 長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット )で、多良街道と長崎街道の宿場町として、また有明海の干満差を利用した河港都市として栄えた嬉野市の塩田について触れました。 記事では、塩田は「肥前の窯業地に近かったため、熊本の天草地方で採取した陶石『天草石』を、有明海を経て塩田川から直接運搬」したとしましたが、その天草石を、いち早く陶磁器に使ったと思われるのが、佐世保市にある三川内焼です。 三川内焼の起源は、慶長の役で朝鮮に渡った平戸藩祖・松浦鎮信が、帰国に際し、朝鮮人陶工数十人を連れ帰ったのが始まりです。その中に、優れた技を持つ巨関(こせき)がおり、鎮信の命によって1598(慶長3)年、平戸に窯を開きました。平戸市山中町にある中野窯跡がそれで、県の史跡に指定されています。 巨関と息子の三之丞(後に今村姓を賜る)は、藩主の命により陶石を求めて各地を探索、1637(寛永14)年、平戸から50km離れた三川内に窯を移しました。以米、明治維新の廃藩に至るまで、一貫して平戸藩御用窯として松浦氏の保護下にあり、精妙な陶技が磨かれました。こうした経緯から、三川内焼は「平戸焼」とも称されます。 窯が、平戸から三川内に移された当時、既に大村藩は波佐見で、鍋島藩は有田に陶石鉱を発見し、磁器焼成を行っていました。一方の三川内は、有田や波佐見に隣接しているものの、満足のいく陶石は得られなかったようで、この地で本格的に磁器が焼かれるようになったのは、今村家3代の弥治兵衛(如猿)が、1662(寛文2)年に、肥後(熊本県)の天草石を使うようになってからのことといいます。 天草の陶石は、日本の磁器原料の約80%を占めるほどになっていますが、当時はまだ地元以外ではあまり知られていなかったようです。天草陶石が発見されたのは、江戸初期の1950年頃のことと推測され、当時、幕府直轄領だった天草では、島民が自活のため、陶磁器を焼いていたという記録が残っているそうです。 1922(大正11)年に設立され、天草陶石を採掘・出荷している上田陶石によると、1712(正徳2)年頃、佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した初めとされているとのこと。これが、恐らく塩田津に陸揚げされた、最初の天草石だったのではないでしょうか。 一方の三川内では、天草石を直接、早岐の港に陸揚げしていました

江戸の面影を今に伝える中山道、木曽路の宿場町

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中山道69宿は江戸幕府が整備した5街道の一つで、日本橋から武蔵、上野、信濃、美濃の国々を通り近江の草津で東海道と合流して、京都の三条大橋へ至ります。中部山岳地帯を通る中山道は太平洋岸の東海道に比べて難所が多く、中でも木曽路は難所続きの厳しい道のりでした。 木曽路は、現在の長野県塩尻市桜沢から岐阜県中津川市馬籠までの約90kmで、その間に宿場は11あります。駒ケ岳を主峰とする中央アルプスと御岳山を主峰とする北アルプスの間に深く刻まれた谷間を縫い、幾度も険しい峠を越えます。江戸時代の旅人は、だいたいが2泊3日で歩きました。中山道が国道19号になった現在でも、木曽路には往時の街道の雰囲気が残ります。中でも宿場の景観をよくとどめているのが奈良井(塩尻市)と妻籠(南木曽町)。いずれも国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 江戸から数えて34番目、木曽路に入って2番目の奈良井宿は、標高が940mと木曽11宿で最も高い宿場です。両側に山が迫り、行く手には道中きっての難所、鳥居峠が控えています。木曽路最大の宿場町で、「奈良井千軒」とうたわれるほど賑わいました。 奈良井川沿いの旧街道にはおよそ1kmにわたって、2階のひさしがせり出した出梁造の商家や旅籠が連なります。現在の家並みは1837(天保8)年の大火後のもので、本陣や上問屋、道が直角に折れ曲がる鍵の手など宿場の姿をそのまま残しています。 「木曽路はすべて山の中である」。島崎藤村『夜明け前』の書き出しです。 ちきりや7代目手塚万右衛門の手塚英明氏 山に囲まれた木曽の産業の中心は、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキの木曽五木に代表される木材です。木曽漆器は600年余り前に木曽福島の八沢で作られたのが起源とされます。400年ほど前からは奈良井の北側にある平沢集落(塩尻市木曽平沢)でも漆塗りが行われ、やがては主産地となりました。江戸時代には奈良井宿を往来する旅人の土産物として人気を集めます。木曽漆器は、ヒノキやサワラなどの材を使い、主に木肌の美しさが引き立つ木曽春慶塗の手法が用いられます。 明治初めには、下地の材料となる「錆土」と呼ばれる粘土が奈良井で発見され、他の産地よりも堅牢な器が作られるようになり、飛躍的な発展を遂げました。旅館や料理屋などの業務用として需要が高まり、輪島や会津若松と並ぶ漆器産地としての地位を

歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄

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この2日、大村、東彼杵と長崎街道に触れながら記事を書いてきました。順番でいくと、今日は嬉野になるのですが、嬉野については1年以上前に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いてしまったので、今回は嬉野はパスして、次の武雄についてになります。計画性のないブログなので、こういう時に困ってしまいます・・・。 さて当初、嬉野宿から小倉へ向かう長崎街道は、多良街道の起点で、有明海の干満差を利用した河港都市でもあった塩田宿(嬉野市)を経由する南回りのルートでした。しかし、塩田川は度々氾濫し、往来に支障を来すことが多かったため、1705(宝永2)年に嬉野から柄崎宿(武雄市)を経由する北回りルートがつくられました。 武雄は、嬉野と同様に、古くからの温泉として知られ、いずれも神功皇后にまつわる伝説があり、また奈良時代の『肥前国風土記』にも、それぞれの温泉が出てきます。武雄の神功皇后伝説は、皇后が剣の柄で岩を一突きしたら温泉が湧き出たというもので、そこから柄崎と呼ばれるようになったとされます。 その後、柄崎はいつの頃からか塚崎と書くようになったようですが、武雄の名については、明治政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』によると、肥前佐賀藩に「武雄村」の名があり、幕末には一つの村になっていたようです。その後、1889(明治22)年の町村制施行では、武雄村の柄崎などの集落によって武雄町が発足しています。 武雄のシンボル的な山・御船山の北東麓にある武雄神社は、735(天平3)年の創建と言われ、武雄の名はこの神社に由来するそうです。で、その武雄神社の「武雄」については、諸説あるようですが、武雄神社では、武内宿禰を主祭神に、その父である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)などを合祀しているので、武雄心命のお名前を頂戴したのかもしれませんね。 この武雄神社とは反対側の御船山南西麓には、御船山楽園という庭園があります。15万坪という広大な大庭園で、江戸時代の武雄領主鍋島茂義の別邸跡です。 御船山の断崖絶壁に向けて、20万本ものツツジが植えられ、開花時期には広い園内が一面、ツツジのジュータンを敷き詰めたようになります。また、秋の紅葉時には、ライトアップが行われ、御船山楽園の池には灯篭が浮かび、幻想的な世界が展開します。 武雄はまた、焼き物の産地としても知られ

四国巡礼のスタートは渦潮を超えて

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鳴門市は四国の東端、渦潮で有名な鳴門海峡の西側にあり、大鳴門橋で兵庫県の淡路島と結ばれています。鳴門の渦潮は、瀬戸内海と紀伊水道の干満差により、激しい潮流が発生することで生まれます。春と秋の大潮時には、渦の直径が最大で30mに達することもあり、渦の大きさは世界最大と言われています。 また、鳴門海峡の潮流は、イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と共に「世界三大潮流」と言われています。その速さは、大潮の最大時には、時速20km以上にもなり、こちらは日本一の速さとされています。 そんな渦潮を見るには、「渦の道」と呼ばれる大鳴門橋の遊歩道や、鳴門公園の展望台などがありますが、やはり間近で見られる観潮船がお勧めです。観潮船は、うずしお汽船と鳴門観光汽船があります。 うずしお汽船は、2017年から4年連続で、鳴門市の屋外アクティビティ第1位を受賞。観潮船は、1日18便で、所要時間は約30分です。陶板複製画を中心とした大塚国際美術館の隣にあり、鳴門公園千畳敷展望台や渦の道入口、大鳴門橋架橋記念館などの観光スポットへも歩いて10分程度となっています。 一方の鳴門観光汽船は、大型の「わんだーなると」と水中観潮船「アクアエディ」の二つのタイプの観潮船があります。「わんだーなると」は1日12便で、所要時間は約30分。予約なしで乗れます。一方の「アクアエディ」は1日15便で、所要時間は約25分。こちらは予約制です。 大鳴門橋を離れて鳴門市街地を抜け、西へ15分ほど車を走らせると、大麻町に出ます。ここは、全国にその名が知られる大谷焼の産地です。 大谷焼はなんと言っても、大がめや大鉢類など、大物陶器で有名です。阿波特産の藍染用の藍がめの需要で栄え、明治・大正期には大いに活況を呈しました。しかし、藍染の不振と共に次第に衰退。最近では、花瓶や湯飲みなどの日用雑器も作られています。超大物の大がめの場合、一人が台の上に乗り、もう一人が寝そべって足でロクロを蹴るという方法で作陶します。ここならではの光景でしょう。 また、大麻には、四国八十八カ所霊場の一番札所霊山寺と、二番札所極楽寺があります。第1番札所から第88番札所まで、札所番号の順に巡拝することを順打ちといい、そのスタート地点となる霊山寺は、約1300年前に聖武天皇の勅願で行基が開いたと言われます。弘法大師が、霊山寺を1番札所としたのは、

甲賀忍者の古里は、日本六古窯の一つ信楽焼の産地

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甲賀市は、滋賀県東南部、三重、京都、奈良と境を接し、大阪と名古屋のほぼ中間にあります。江戸期には水口藩加藤家が置いた水口城の城下町として発展、また市域を東西に横断する東海道の宿駅が水口と土山に置かれ宿場町としても栄えていました。 「甲賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者でしょう。 こう書くと、昨日の記事(伊賀忍者の古里は、俳聖・芭蕉生誕の地)と、ほぼ似た文章になってしまいますが、甲賀と伊賀はお隣同士。2017年には、「忍びの里 伊賀・甲賀ーリアル忍者を求めてー」として、伊賀市と甲賀市が、ダブルで日本遺産に認定されています。 というわけで、甲賀市も伊賀市同様、市内には忍者をモチーフにしたあれやこれやがあふれています。JR東海道本線の草津駅とJR関西本線の柘植駅(三重県伊賀市)を結ぶJR草津線には、今年の6月までラッピング列車「SHINOBI-TRAIN(忍びトレイン)」が運行していました。1時間に上下4本程度走っていましたが、運行日も時間も公表されない忍者列車で、その神出鬼没ぶりも人気の一つでした。当初は2019年までの予定でしたが、好評のため延長され、今回、車両の定期点検でラッピングを外す必要があり、「忍務」完了となったそうです。 ただ、甲賀市には忍者にまつわる施設が盛りだくさん。甲賀流忍者を学んだり、体感出来たりする「観光インフォメーションセンター甲賀流リアル忍者館」、水ぐも体験などが出来る「甲賀の里忍術村」、甲賀流忍者の住居として歴史的にも貴重な「甲賀流忍術屋敷」の他、忍者が長けていた薬術に関する資料を展示する「くすり学習館」や、忍者の信仰を集めたと言われる「油日神社」などがあります。 甲南町にある甲賀流忍術屋敷は、代々望月出雲守を名乗る甲賀忍者の頭目望月家総領家の居宅です。忍者が暮らしていた本物のからくり屋敷で、現存しているのは日本で唯一ここだけです。屋敷には、「隠し扉」や「からくり窓」、「どんでん返し」など、不意の敵襲があった際に、逃げるための仕掛けが残っています。 また、甲賀町にある甲賀の里忍術村は、山の自然をそのまま生かした広い敷地内に、研究資料の一部を展示する忍術博物館やからくり屋敷が点在しています。からくり屋敷は、忍術三代秘伝書『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』の編者の一人とされる藤森保義の居宅を、解体移築し活用しています。忍術博物館は、