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佐賀県を代表する民俗芸能・面浮立

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政府は現在、盆踊りや念仏踊りなど、地域の歴史や風土を反映して伝承されてきた民俗芸能「風流踊」を、ユネスコ無形文化遺産に提案しています。既に2009年、風流踊系の「チャッキラコ(神奈川県三浦市)」が登録されており、今回はこれに国指定重要無形民俗文化財となっている全国各地の風流踊40件を加えて、「風流踊」として拡張記載を再提案。ユネスコでの審査は、今年11月頃に行われる予定です。 この風流踊の流れをくむ民俗芸能が、佐賀県鹿島市にもあります。県の重要無形民俗文化財に指定されている「面浮立」です。「浮立」の由来は、もちろん「風流」で、佐賀県南西部に多く見られます。この辺りの浮立は、鬼の面を被って踊るのが特徴で、そのため「面浮立」と呼ばれます。そして、面浮立を踊る際に使う面を浮立面と言います。 鹿島錦の取材で、この地を訪れた時、地元の方が浮立面を彫っている方の工房に連れて行ってくれました。 浮立面は木彫りの面で、素材は佐賀県の県木である楠を始め、桐や檜などを使います。同じ鹿島でも、地域によって表情が微妙に異なりますが、阿吽の面相を一対とするのは、共通しています。「阿」が雌面、「吽」が雄面で、雌面は角がほとんどなく、額にV字の皺があり、雄面は角が長く、額にU字の皺があります。 浮立面は、2003年に、佐賀県の伝統的地場産品に指定されました。現在、浮立面を制作している工房は、杉彫と中原恵峰工房の2軒で、いずれも鹿島市にあります。杉彫の4代目小森恵雲さんは、2002年に佐賀県マイスターに認定され、2015年には、中原恵峰さんと共に、国土緑化推進機構の「森の名手・名人」に認定されています。 この浮立面をかぶって踊る面浮立には、いろいろ種類があって、その中で、県の重要無形民俗文化財に指定されているのは、鹿島市の音成(おとなり)面浮立と母ケ浦(ほうがうら)面浮立の二つになります。音成が、最も古い形を残していると言われる面浮立で、母ケ浦は、鬼面芸として完成された芸と構成を持っているとされます。佐賀県には、他にも面浮立がありますが、この音成系と母ケ浦系の2種類に分かれるようです。 音成浮立と母ケ浦浮立を見分ける上で分かりやすいのは、衣装の違いになります。音成は濃紺1色で帯と太鼓のひもが黄色なのに対し、母ケ浦は波といかりの華やかな模様の衣装になっています。他にも、曲目の違いや動きの違いなどがあ

酉の市の起源は日本武尊の命日に立った門前市

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昨日の記事( 宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」 )で触れた、日本武尊の東征にまつわる伝説が残る鷲神社(おおとりじんじゃ)の話です。鷲神社は、酉の市で広く知られています。社伝によると、日本武尊が東征の折、天岩戸神話の中で、天宇受売女命が裸で踊った際の伴奏者・天日鷲命を祭る社に立ち寄り、戦勝を祈願したことから、天日鷲命と日本武尊を祭っている、としています。 しかし実際には、隣にある鷲在山(じゅざいさん)長國寺(ちょうこくじ)の境内に祭られていた鷲宮に始まると言われます。長國寺も酉の寺として知られ、浅草酉の市は、この長國寺が発祥とされます。 その長國寺は、寺の縁起によると、1630(寛永7)年に石田三成の遺子といわれる、 大本山長國山鷲山寺(じゅせんじ/千葉県茂原市)第13世日乾上人によって鳥越(台東区)に開山され、1669(寛文9)年に、新吉原の西隣に当たる現在地(台東区千束)に移転してきた、としています。 しかし、こちらもいろいろ不明な点があります。まず、石田三成の遺子は6人(3男3女)いて、長男と三男は確かに出家していますが、長男は臨済宗の僧、三男は真言宗の僧になっています。また、長國寺開山の頃、確かに日乾上人という高僧がいましたが、その日乾は、京都八本山の一つ本満寺第13世を経て、1602(慶長7)年に日蓮宗総本山身延山久遠寺の第21世を務めた人です。 久遠寺を退いた後は、一時、やはり京都八本山の一つ本圀寺に住したと言われ、その後、摂津国(大阪府)の能勢頼次に招かれ、能勢氏の領地(能勢郡)に隠居所・覚樹庵を建てました。頼次は、明智光秀と親しく、山崎の戦いでは光秀についたため、豊臣秀吉に領地を没収されますが、徳川家康に仕え、1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、家康により旧領を回復されました。そしてこの年、本満寺貫首であった日乾上人を招き、山や屋敷などを永代寄進。日乾は、そこに庵を結んだことになります。更に家康が亡くなった後、頼次は恩人である家康の菩提のためと能勢氏の祈願所として、覚樹庵境内に真如寺を建立、日乾上人が法務を執りました。 もちろん、長國寺を開山した日乾上人は、この日乾上人とは、同名異人なのかもしれません。ただ、長國寺に安置されている鷲妙見大菩薩(わしみょうけんだいぼさつ)の由来を聞くと、どうも話が混線したのでは、と思わないでもありません。

当時の一流アーティストが技を競った大崎八幡宮と雀踊り

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以前の記事( 戦国武将「独眼竜」政宗が築いた城下町 )でも、少し触れましたが、仙台城下町の北西端に、1607年、伊達政宗が創建した大崎八幡宮があります。内外とも漆塗・胡粉下地に彩色を施し、彫刻・金具に飾られ、絢爛たる雰囲気を表す桃山建築の傑作で、国宝に指定されています。 大崎八幡宮によると、もともとは平安時代に、坂上田村麻呂が、東夷征伐の武運長久を祈念すべく、東北統治の鎮守府胆沢城(現・岩手県奥州市水沢)に、武門の守護神である宇佐八幡宮を勧請し、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりだそうです。その後、室町時代に奥州管領大崎氏が、自領(現・宮城県大崎市)に遷祀し守護神としたことから、大崎八幡宮と呼ばれるようになったとのことです。そして、大崎氏滅亡後、伊達政宗が、居城である玉造郡(現・大崎市)の岩出山城内に、大崎八幡宮の御神体を遷し、更に仙台開府後、仙台城の乾(北西)の方角に当たる現在地に祭ったとしています。 ただ、宮城県神社庁によると、大崎市にある大崎八幡神社は、1057(天喜5)年、前九年の役において、源頼義・義家親子が、石清水八幡を祭って戦勝を祈願。これに勝利したことから、凱旋途中に、胆沢と栗原、そして大崎の3カ所に石清水八幡を勧請し武具等を奉納したことが起源としています。 もっとも、これもちょっと辻褄が合わないところがあって・・・。例えば、1057年に頼義は計略をもって安倍頼時討伐には成功しますが、頼時の跡を継いだ貞任が更に勢いを増し、戦況は一向に好転しませんでした。状況が変わったのは、1062(康平5)年に出羽清原氏が官軍側に与してからでした。同年8月16日、栗原郡営岡(たむろがおか)で合流した源氏(3000兵)と清原氏(1万兵)は、翌17日に安倍軍の拠点の一つである小松柵へ到達。それからわずか1カ月で安倍氏は滅亡してしまいます。 また、宮城県神社庁は、小松柵を大崎市田尻町西北部の北小松にあるとしていますが、研究者などによると、岩手県一ノ関市の磐井川沿いにある萩荘付近と推定されているようです。なので、時期も場所もちょっと違うかな・・・と。 というわけで、ちょっと訳が分からなくなってきましたが、大崎市の大崎八幡神社は、奥州管領となった大崎直持が、1361(正平16)年に、自領(現・宮城県大崎市)に社殿を建て、大崎家の氏神、及び陸奥大崎5郡の総鎮護としたということにな

天孫降臨神話に彩られた神々の里

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阿蘇中岳の火口近くまで行った後、次の目的地・高千穂まで移動しました。と言っても、取材地の日之影に適当な宿が見つからず、中継地として高千穂に泊まることにしたものです。ただ、単なる中継地ではもったいないので、まず高千穂峡に寄ってみました。阿蘇から高千穂峡まで、国道325号で約53km、所要時間は1時間とちょっとでした。 一昨日の鍋ケ滝の記事で、「阿蘇の大自然は、約9万年前に起こった巨大噴火によるもの」と書きましたが、実は高千穂峡も、阿蘇山の火砕流がもたらしたものです。高千穂峡の場合、9万年前の噴火とその3万年前、つまり約12万年前の噴火による火砕流が、五ケ瀬川を浸食して出来た浸食峡谷です。 峡谷は、高い所で100m、 平均80mの断崖が、東西に約7kmにわたって続いています。高千穂峡にある真名井の滝は、日本の滝百選になっている名瀑で、高千穂峡のシンボルともなっています。 この高千穂峡には、約1kmの遊歩道が整備され、崖の上から峡谷や滝を眺められます。また、真名井の滝の近くには、貸しボートもあり、水上から滝を始め柱状節理の断崖を見上げることも出来ます。 私が行ったのは、晩秋だったので、深い緑の渓谷というイメージとは違っていたものの、背景が紅葉しており、それはそれできれいな風景でした。この晩秋というのは、高千穂で夜神楽が始まる時期でもあります。しかも、私が高千穂に行った日は、ちょうど高千穂神社の夜神楽まつりにぶつかり、夜神楽を鑑賞することが出来ました。 毎年11月22日と23日の2日間、高千穂神社の神楽殿で、「神話の高千穂夜神楽まつり」が開催されるそうで、タイミングばっちりでした。で、宿で夕食を取った後、高千穂神社へ向かいました。宿では、夜神楽まつりを見に行く宿泊客のために、バスを出してくれ、行きはそれを利用させてもらいました。 高千穂の夜神楽は、神楽宿と呼ばれる民家や公民館で、夜を徹して三十三番の神楽を氏神様に奉納します。町内20の集落で行われますが、例祭日は集落によって異なり、毎年11月中旬から翌年2月上旬にかけて、それぞれの地域で奉納されます。 ただ、高千穂の夜神楽は、神事ですし、期間も決まっているので、一般の観光客はなかなか見ることが出来ないため、いつでも神楽を広く鑑賞出来るようにと、毎日高千穂神社境内の神楽殿で「高千穂神楽」が行われています。毎日夜の8時から1時間

伝統を醸す讃岐の「どぶろく祭り」

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すっかり「うどん県」の名が定着した香川県。三豊市豊中町はその西部、三豊平野の中央にあります。この豊中町笠岡の鎮守・宇賀神社では、毎年春秋2回のお祭リで、参拝者にどぶろく(濁酒)を振る舞うのが、数百年来の習わしとなっています。 もちろん、ちゃんと財務省の許可を得てのもの。1898(明治31)年、酒税法の改正によリ、自家用の酒の醸造は禁止となりました。これに伴い、宇賀神社のどぶろく祭りも、一時中断の憂き目にあっています。しかし、氏子たちが協議のうえ陳情、1900年、年間1石(180リットル)以内との特許を得て復活しました。春は3月春分の日、秋は10月の例祭が、どぶろく解禁の日となります。 どぶろく祭りの由来は、実は明らかではありません。が、かなり古くからのものらしく、古老の話では、300年ぐらい前から続いているといいます。醸造も古式床しい製法で行われます。氏子の中の代々世襲されてきた杜氏によリ、昔ながらの醸造道具(県指定民俗資料)を使って造られます。ただ、昔は各部落の当屋の家で行われていましたが、現在は税法上、神社の境内で行われ、厳重な制度によって出来上がっています。 どぶろくは、祭リの前日にまず「口開け」の式を行います。次いで、祭リの当日、御神酒として神前に奉納し、神事が終わった後、氏子一同や一般の参拝者に頂かせるのが、習わしとなっています。 また、祭リの日には、氏子たちが「エビ汁」をこしらえます。エビの頭を取リ、砕いてすりつぶしたものを、みそと一緒に煮ます。水は、米のとぎ汁を使うため、とろりとコクが出て、非常にいい味に仕上がります。このエビ汁と交互に飲めば、いくらでもどぶろくが腹に納まる、と氏子の人たちは言います。もっとも、度を越すと、救急車のお世話になることになるとか。取材当時は、県内の人にも、ほとんど知られていない祭リで、それだけに郷土色豊かで、素朴な味わいがありました。 現在は、2002年に創設された構造改革特区制度により「どぶろく特区」が認定され、全国で129の特区が、どぶろくをつくっています。しかし、宇賀神社のどぶろく祭りを取材した頃は、どぶろくの醸造は神事用として1石以内に限リ、奈良の春日大社、大分県大田村の白髭田原神社などに認められているだけでした。 ちなみに、春祭リは氏子だけですが、秋の例祭では、一般の参拝者にもどぶろくが振る舞われます。讃岐観光の折

江戸総鎮守の神田明神からオタクの街秋葉原まで

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徳川家康が、江戸に幕府を開いたのは、今から400年以上前の1603年のこと。大規模な城下造成の中で、神田明神を江戸城の鬼門の方角となる現在地に移し、江戸総鎮守としました。以来、神田明神の祭礼・神田祭は、徳川将軍が上覧する天下祭として江戸城入城を許され、江戸市中を挙げて盛大に執り行われるようになりました。 現在では、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭りの一つとされ、奇数年に「本祭」、偶数年に「蔭祭」が行われます。これは、江戸の繁栄と共に祭りが派手になってきたため、1681(天和元)年以後、山王祭と隔年で本祭を行うことになったためです。 一般に神田祭と言う時は、本祭を指します。祭礼の中心は、100基以上の神輿が町に繰り出し、宮入りを行う神輿渡御です。中でも旧神田青物市場の江戸神社神輿はその大きさ、重さから千貫神輿と呼ばれ、迫力に満ちた宮入りに群衆の興奮もピークに達します。蔭祭の方は、この神輿が出ない小規模なものになっており、どうせ見るなら、奇数年の方がお勧めです。6日間にわたる祭りでは、神輿や山車に曳き物、踊り手が加わり、数千人の大行列となって神社へと向かう神幸祭など、他にも見所が多くあります。 ところで、神田というのは、千代田区北東部の地区名で、旧東京市神田区に当たります。1947(昭和22)年に神田区と麹町区が合併して千代田区が誕生した際、神田神保町、神田駿河台など、旧神田区内の町名には全て「神田」を冠称する町名変更がなされました。その後、1964(昭和39)年に住居表示制度が導入され、古くから続く町名の多くが消滅しましたが、一部を除き、神田を冠する町名の多くは住居表示未実施のまま現在に至っています。 そんな神田を冠する町の代表・神田神保町は、古書店街で知られます。神田神保町は、神田地区の西端にあり、130余の古書店が軒を連ね、和書、洋書、漢書、学術書、雑誌、地方出版書など、あらゆるジャンルの古書を扱っています。店内には、わずかな歩行スペースのみ残して本の壁が築かれ、店頭にも積み上げられています。 古書店街の誕生は明治初期、近隣の学生や知識階級が、本を要したことに始まります。印刷・製本技術の発達や文芸活動、また神田駿河台を中心に設立された各種学校の教科書需要に伴い発展してきました。関東大震災では、大部分の店が崩壊、焼失しましたが、東京市の官庁・学校図書館の復

ユネスコ無形文化遺産・小千谷縮の雪さらし

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「雪中に糸となし 雪中に織り 雪水に濯ぎ 雪上に晒す 雪ありて縮あり 雪こそ縮の親と言うべし」 江戸後期の商人で、随筆家でもあった鈴木牧之は、当時の魚沼地方の生活を描いた『北越雪譜』の中で、小千谷縮をこう表現しています。 小千谷縮は、昔からあった越後上布に改良を加えたものです。緯糸に強い撚りをかけた織物を、お湯の中で丹念に強くもむことで、ほどけた布に「シボ」と呼ばれる独特の細やかなしわが出ます。1955年に国の重要無形文化財第1号指定を受けた他、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。ちなみに重要無形文化財の指定条件には、使う糸や織機の他、湯もみ、雪さらしなどの技法も示されています。 雪さらしは、本来は晴れた日に行いますが、小千谷の冬を彩るイベント「おぢや風船一揆」では、デモンストレーションとして天候に関係なく実施されます。2012年に、おぢや風船一揆に行く機会があり、その際、粉雪が舞う中、雪さらしが披露されていました。 ▲小千谷紹介観光ビデオ「小千谷風船一揆」(小千谷市観光協会) 雪にさらすことで麻生地が漂白されると共に、麻糸が更に鮮やかさを増し色柄を引き立てます。その科学的根拠として、一般にはオゾンの漂白効果が挙げられます。実際に日本雪氷学会が雪上のオゾン濃度を調べたところ、確かに晴れた日に上昇し、雨の日は低下する傾向が見られたそうです。ちなみに、雪の日は雨の日ほど濃度の低下はなかったそうですが、やはり晴れた日の方がいいのでしょう。それを経験則として取り入れていた先人の知恵には脱帽するしかありません。 おぢや風船一揆は毎年2月下旬、2日間にわたって開催されます。日本を代表する熱気球大会「日本海カップクロスカントリー選手権」を兼ねたイベントで、今年で45回目となるはずでしたが、残念ながら新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。 以前は、競技と各種イベントが同一会場で行われていたようですが、雪が少なかった13年前に、競技とイベントを別会場で実施してから現在の形式になったと聞きました。イベント会場では、熱気球試乗体験やうまいもの市場、雪像コンテストなどが実施され、多くの市民や観光客で賑わいます。 小千谷市は、新潟県のほぼ中央、いわゆる中越にあります。2004(平成16)年10月23日に起きた新潟県中越地震では、小千谷でも震度6強の揺れを観

幕末の黒船来航をきっかけに築かれた横浜中華街

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横浜が歴史の舞台に登場するのは、幕末の黒船がきっかけです。開国を迫られた幕府は、アメリカやイギリスなど5カ国と条約を結び、横浜、長崎、函館を開きました。 当時の横浜は80軒ほどの漁師小屋が建ち並ぶ寒村で、当初アメリカは、東海道の宿駅であった神奈川宿に近い神奈川湊の開港を求めていました。しかし、幕府は外国人と住民が接触するのを防ぐため、神奈川湊を避けて、東海道から外れた横浜に港を新設し、外国人居留地も整備しました。 この時、外国人たちは、筆談によって日本人との通訳が出来る中国人を伴ってきました。また横浜と上海、香港間に定期航路が開かれると、大勢の華僑が来日。彼らは居留地の一角に関帝廟、中華会館、中華学校などを建設し、中華街を築きました。 当初は日用品や衣料品、食品を扱う店が多かったようですが、やがて中国人の職業は三把刀(料理、洋裁、理髪)という刃物を使う仕事に制限され、中華料理店が増えることになりました。 その後、1972年の日中国交回復後、中華街は観光地として発展します。更に2004年に横浜高速鉄道が開業し、元町・中華街駅が設置されると、アクセスと知名度が大幅に向上。現在は食の一大観光地として、年間2000万人以上が訪れています。 横浜中華街と呼ばれるのは、風水に基づいて置かれた、東西南北四つの門を結ぶ400m四方のエリアです。ここに200件近い料理店が軒を連ね、世界有数の規模を誇る中華街となっています。 店の約7割が広東料理で、味付けは比較的あっさりしているのが特徴です。他にも、辛みと酸味の効いた四川料理、濃厚な味付けの上海料理、北京ダックなどで知られる北京料理、海に囲まれた地理的特徴から海産物が多く使われる台湾料理など、この街に来ればありとあらゆる中国料理を食すことが出来ます。 そんな横浜中華街の人たちが、心のより所としているのが関帝廟です。開港3年後の1862年に建てられた小さな祠が始まりとされ、主神は三国志の英雄として有名な実在の武将関羽。旧暦の6月24日(今年2021年は8月2日)には関羽の生誕日を祝い、中華街を代表する伝統行事「関帝誕」が開かれます。 横浜中華街には、この関帝廟と同様、実在したとされる人物を祭った媽祖(まそ)廟があります。媽祖はおよそ1000年前の北栄時代、福建省で生まれ、備わった神通力によって人々を救ったという伝説が残る女性だそうです。

千本桜と菜の花畑のコントラストが見事な権現堂桜堤

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昨日のブログ( 日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」 )は、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」という江戸時代の地口から始めましたが、実はこの地口、後に「幸手、栗橋、まだ先よ」と続けることもあります。 日光街道は、日本橋を起点に第1の宿・千住から草加、越谷と続き、更に粕壁(春日部)、杉戸を経て、幸手宿、栗橋宿へ通じます。江戸時代は、東京と埼玉、それに神奈川の一部(川崎、横浜)を含むエリアが武蔵国となっていて、次の宿場・下総国中田宿(現・茨城県古河市)との間には関所が置かれていました。 日本橋から千住までは約9km、千住からは草加までが約9m、越谷までは約16kmなので、日本橋〜越谷は約25kmとなります。一方、日本橋から幸手までは越谷の倍となる約50km、栗橋までは55kmほどあり、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」の後に、つい勢いで「まだ先よ」と付け足したくなったやつがいたんでしょうね。 栗橋宿は、利根川対岸の中田宿と、2宿で1宿の合宿(あいしゅく)の形になっていました。ここの利根川には、軍事上の守りの観点から架橋されず、渡船場が置かれていました。渡し場は、房川渡しと呼ばれ、関所(房川渡中田御関所)が設置されていました。中田の名が付いているように、当初は中田宿側に置かれましたが、その後、栗橋側に移設され、通称「栗橋関所」と呼ばれるようになりました。 もう一つの幸手宿は、日光街道と共に、将軍が日光社参の際に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、重要な宿場となっていました。1843(天保14)年の『日光道中宿村大概帳』によると、幸手宿の長さは585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模を誇っていました。 その幸手と言えば、関東屈指の桜の名所・権現堂桜堤で有名です。 権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の1576(天正4)年頃と言われています。天正4年というと、織田信長が安土城を築城した年のこと。 その頃に権現堂を流れていたのは、渡良瀬川の本流だったようです。その後、江戸時代になって、「坂東太郎」こと利根川を東に移すことになり、現在の古利根川から渡良瀬川へ直線上にショートカットする新川通を開削し、これを利根川本流にしました。そのため権現堂の