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民謡のある風景 - 人の興亡しのばせる哀愁(青森県 十三の砂山)

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青森県五所川原市十三(じゅうさん)。太宰治が「人に捨てられた孤独の水たまり」と言った十三湖をまたいで、十三大橋がかかります。橋は、6年の歳月を費やして1979(昭和54)年に完成したもので、全長234m。コンクリートの中にピアノ線を組み込んだ特殊な工法で造られていて、その橋のたもとに「十三(とさ)の砂山碑」が建っています。  ♪十三の砂山ナーヤーエ 米ならよかろナ   西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ   弁財衆にゃナーヤーエ 弁財衆にゃー 西のナー   西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ 十三(とさ)は、鎌倉時代に全国七湊の一つに数えられていました。当時、この地は津軽・安東氏が支配し、十三湊は安東水軍の根拠地として栄え、諸国の船が出入りしていたといいます。 南北朝時代の1341年、この湊を大津波が襲い、にぎわいを一気に奪い去りましたが、その後、日本海・西回り航路が開かれると、上方の綿布、塩、陶磁器を積んだ北前船が入り、十三からは津軽の米と木材が積み出されていきました。 北前船は、上方の特産品をもたらしただけではなく、弁財衆と呼ばれた船乗りたちによって、舟唄もまた運ばれてきました。『十三の砂山』は、そのようにして伝えられた舟唄『酒田節』の名残だといいます。地元では、舟唄が盆踊り唄に変わり、上の音頭と下の音頭の掛け合いの形で唄われます。 現在、広く唄われている曲調は、地元の民謡研究家で唄い手でもあった成田雲竹が編曲したもので、三味線伴奏譜は高橋竹山が工夫し、1951(昭和26)年、全国郷土芸能大会で披露されて評判となりました。 地元の唄は、この雲竹調とはかなり異なり、哀愁の色あいが濃くなっています。十三湖畔で聞くと、なぜか無性に人恋しくなるのも、土地の興亡の歴史が背景にあるからなのかもしれません。

不思議系B級グルメの代表格「黒石つゆやきそば」

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新青森駅にあった「黒石や」の黒石つゆやきそば 弘前城追手門広場での取材後、お目当ての「肉の富田」のかつサンドをゲット出来ず、傷心の帰京となった私(詳しくは 昨日の記事 参照)。新幹線で帰るため、弘前駅から新青森駅へ移動しました。 と、ここで、「B級グルメ黒石つゆ焼そば」と書かれた暖簾を掲げる「黒石や」という店を発見。かつサンドの敵をつゆやきそばで、じゃないですが、B級グルメ好きとしては、ここは食っとけモードとなり、暖簾をくぐって店内に入りました。 黒石には行ったことがないし、初のつゆやきそばだな。そう思った、忘れん坊の私。当然のように、「名物!」と書かれたつゆやきそばを注文しました(写真上)。 黒石にはもともと、太めの平麺と甘辛いウスターソースが特徴の「黒石やきそば」がありました。この「黒石やきそば」に汁をかけたものが、「黒石つゆやきそば」で、昭和30年代後半に提供されたのが最初と言われています。 「黒石やきそば」は、かつて「おやつ焼きそば」と呼ばれ、10円から食べられる子どものおやつだったそうです。関東のもんじゃ焼きも、昔は東京の下町や埼玉の南東部の駄菓子屋で子どもたちがおやつとして食べていたものでした。それが今、B級グルメとして脚光を浴びているわけですが、子どもの頃に食べていた人には郷愁をもって、またそうではない人にとっても珍しい食べ物として、受け入れられているのでしょう。 で、「黒石つゆやきそば」は、黒石市中郷にあった「美満寿」という食堂が始めたものでした。子どもの頃に食べた人の話では、「寒い冬に、子どもたちのため、作り置きで冷めてしまった焼きそばに温かい汁をかけてくれたのが始まりじゃないのかなぁ」とのこと。 ただ、「美満寿」の閉店により、つゆやきそばもいったんは姿を消してしまいます。しかし、その味を懐かしんで、つゆやきそばを再現する飲食店が出始めます。更に近年のB級グルメ・ブームもあり、「黒石やきそば」と共に「黒石つゆやきそば」も脚光を浴びるようになりました。 なぜかすり鉢で提供された「妙光」二号店の黒石つゆやきそば となれば、全国的にも珍しい、不思議系B級グルメのつゆやきそばに注目が集まるのは必須。てなわけで、今では黒石「名物!」と言われるようになったわけです。 ところで、うっかり者の私、忘れていたことがあります。新青森駅で「黒石つゆやきそば」を食べるずっ

棟方志功も愛した「高砂」のそば

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昨日の記事で、伊賀市にある老舗精肉店「金谷」のことを書きましたが、青森県弘前市に行った際、最高に心惹かれるショーウインドウを持つ精肉店を見つけました。店の名は「肉の富田」。木の窓には、大きく「かつサンド」の貼り紙がしてありました。 弘前についても以前のブログ( 古き時代の良きものを守りながら発展する津軽の文化都市 )で書いていますが、弘前には1898(明治31)年に陸軍第八師団が設置され、その関連施設が林立して「軍都」と称されるようになりました。周辺には、新たに商人の街が形成され、第二師団があった仙台から移転してきたり、支店を出したりした者も少なくなかったようです。 その一つは、第八師団駐屯地となった翌年に、仙台から出店した三原時計店で、その弘前店として建てられた赤いとんがり屋根の時計塔は、現在、土手町のシンボルとなっています。で、「肉の富田」も、仙台から移ってきたそうで、こちらは1904(明治37)年から弘前で営業しています。 そんな歴史ある店なので、ショーウインドウも木製で出来ており、それに惹かれたのです(いくら私でも、単なるかつサンドの貼り紙で萌えるはずがありません)。この日は、追手門広場で取材があり、弘前駅からそちらへ向かう途中で木のショーウインドウに出合いました。が、かつサンド持参で取材するわけにもいかず、帰りに買おうと思って、いったんスルー。でも、帰りに寄ったら、もう売り切れでした。 後悔先に立たず・・・ですな。で、物欲しそうにショーウインドウを覗いていたら、他にも「ナポリタンスパゲテー」とか「豚そぼろ」とかが並んでいました。どうやら、惣菜も扱っているようです。 弘前の知人に教えてもらったところによると、肉の富田のかつサンドは、弘前市民のソウルフードとも呼べるものだそうです。私、ホントこういうのに鼻が利くんですよねえ。で、かつは、薄切り肉を数枚重ね合わせて揚げているんだとか。食べたかったなあ。 ちなみに、「元祖伊賀肉 金谷」と同じく、こちらも1階は精肉店ですが、2階で食事が出来る(た?)模様。ネットでは、学生時代、ここで部活の飲み会をやり、すき焼きを食べたという人がいたので、確かだと思います。 というわけで、弘前名物のかつサンドは逃してしまった私ですが、追手門広場での取材前には、こちらも老舗のそば店「高砂」で、お昼を食べました。1913(大正2)年創業と

遮光器土偶をかたどった木造駅の巨大オブジェ

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この3月1日から東京国立博物館で、「縄文時代の祈りの道具・土偶」が展示されています。縄文時代の祈りの道具の代表「土偶」を取り上げたもので、9月4日まで、約半年にわたって平成館考古展示室に展示されます。 展示品は、東北や関東で出土した土偶など17件で、重要文化財4件、重要美術品2件が含まれます。中でも青森県つがる市木造亀ケ岡遺跡から出土したものが多く、しかもそのうちの遮光器土偶と土面は重文、猪形土製品が重美となっています。 そのつがる市木造に友人がおり、だいぶ前に訪問させてもらったことがあります。北海道函館での取材後、青森にも仕事があり、その時、友人が迎えに来てくれ、つがる市の友人の所にお邪魔しました。 友人は、車で迎えに来てくれたんですが、自宅から800mほどの所にある駅へわざわざ連れて行ってくれました。鉄道マニアでもないので、なんで?と思ったのですが、駅前に着いて理由が分かりました。 写真の通り、駅舎の前面に、遮光器土偶の巨大オブジェが張り出していたのです。 なんでも1987(昭和62)年の国鉄分割民営化で木造駅の無人化が決まる中、なんとか駅を中心とした活性化策をと、ふるさと創生事業の1億円を活用して駅舎を改築したそうです。デザインに遮光器土偶を選んだのは、亀ケ岡遺跡のPRも兼ねていましたが、この巨大オブジェを付けたこともあって、費用は2倍強の2億1200万円がかかったとのこと。 しかし、これだけの駅なので、「一度は訪れたいちょっとすごい駅」とか珍スポット、面白駅など、当然注目を集めています。 ただ、駅に列車が入って来る3分前から3分間、目が赤く光ったりして、当初は子どもたちを中心に、周辺住民から「怖い」と恐れられていたようです。3分間光らせるというのは、ウルトラマンのカラータイマーみたいな発想だったんですかね。それはともかく、実際に住民からのクレームもあり、その後は観光客などから要望があった時のみ、手動で光らせるようになりました。 しかし、時間の経過と共に、巨大オブジェはだんだんと町に浸透。愛着さえ湧いてきて、今では町のシンボルとなり、「シャコちゃん」の愛称で呼ばれています。そして誕生から30年近くが経過した2020年4月、駅舎の補修工事と共に、シャコちゃんの目もLEDライトに転換。併せて、以前の赤1色から、7色に変化するレインボー・シャコちゃんに生まれ変わり、

城のある風景 - 新城にかけた藩祖の悲願

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弘前城跡は公園になっていて、四季に美しい場所です。明治になって桜が植えられ、今は5000本。秋には、紅葉が天守の白壁に映えます。 弘前城の天守閣は、もともとは5層で、本丸の西南の隅にあったと言われます。1627(寛永4)年秋、その天守閣の鯱に落雷、それがもとで、中に積んであった火薬が爆発し、天守閣は焼失してしまいました。今の3層の天守は、1810(文化7)年に、隅櫓を改造したものだといいます。 弘前城は南北に長く、東西に短い長方形の城で、三重の濠をめぐらし、西の岩木川、東の土淵川を天然の要害として利用していました。5層の天守閣は、西濠となる岩木川を見下ろし、津経のシンボル岩木山と向かい合っていました。津軽なら、岩木山はどこからでもよく見えます。その山と睨み合っているような天守閣は、まこと、この地の支配者の威風を示すものだったでしょう。 もともと、弘前には城などありませんでした。戦国時代の終わり頃、津軽地方の武将だった大浦為信が、およそ20年かけて、この地域を南部氏から攻め取り、豊臣秀吉の承認も取り付けてしまいます。為信は、独立してから津軽氏を名乗り、古城の堀越城を足場にしていました。 やがて、関ケ原の戦いが起こります。一代かけて手中にした津軽惣領主の地位は、守らなければなりません。為信は長子信建を豊臣方につけ、自らと次子信枚は徳川方に従いましたが、豊臣に賭けた家臣団の一部は、堀越城で反乱を起こします。津軽も天下分け目だったのです。 合戦後、惣領主の地位は信建が引き継ぎましたが、為信はなお実権を握り、堀越城からおよそ6km北西の地に、新城を築く計画を打ち出します。体制刷新の総仕上げでした。 計画から4年後の秋、信建は病没、為信も去り、結局、信枚が築城を成し遂げ、1611(慶長16)年、新城へ移りました。天守を山と向かい合わせたのは、あるいは、信枚の鎮魂の思いもあったのかもしれません。

ガーリック・キャピタルを標榜する青森県最南端のニンニク村

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田子町は青森県最南端、南を岩手県、西を秋田県と接する県境の町。町の特産「田子ニンニク」は、知る人ぞ知る上質のニンニクで、一流レストランが指名買いするほどのブランドを確立しています。 田子でニンニク栽培が始まったのは1962(昭和37)年。隣の福地村で、小規模ながら栽培されていたニンニクの種子を、町の農協青年部が買い入れ、栽培したのが始まりです。 「福地ホワイト六片種」と呼ばれる、この種子は、その名の通り真白で、実の一片一片が、普通の品種の2倍以上もあります。更に質も非常にいいのですが、いかんせん大規模に栽培されていたわけではなく、当時はほとんど知られていませんでした。 しかし、田子で試験栽培を始めてみると、この辺りの土壌や気候が、ニンニク栽培に適していることが分かりました。田子は、十和田火山の噴火によるシラス状の土地で、水はけがいい土地です。また、冷害の原因となるヤマセも、ニンニクの敵ではありませんでした。逆に、収穫期に日照が少なく、実が大きく育つというメリットさえもたらしました。 こうして田子では、69年から「第1次5力年計画」を立て、本格的なニンニク生産を開始。その年のニンニク生産額は300万円でした。が、75年には100倍の3億円、87年には7億円と増え続け、日本一のニンニク産地となりました。 現在、ニンニク栽培は県内の他市町村にも広がり、生産量1位の座は譲ったものの、町を挙げて築いたニンニク文化で「ニンニクの首都」を標榜。町の中央には「ガーリックセンター」が建てられ、一般財団法人田子町にんにく国際交流協会が発足、世界一のニンニクの町アメリカ・カリフォルニア州ギルロイ市との姉妹提携など、ニンニクを柱にしたユニークな町づくりが行われています。

古き時代の良きものを守りながら発展する津軽の文化都市

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桜の名所として知られる弘前城。その正門が追手門です。1層目の屋根を高めにした2層の櫓門で、全体を簡素な素木造りとしていることなど、戦国時代の古い形式を残すものとして、全国の城門の中でも注目されています。 追手門周辺の濠や土塁もよく保存・整備されており、春には濠沿いに植えられた桜の花が豪華に咲き誇ります。しかも弘前城の場合、散った桜の花びらが濠を埋め尽くす、いわゆる「花筏」がまた見事で、あえて桜が散る時期を狙って訪れる人も大勢います。 弘前城の桜は、花自体が大きく、豪華な点が特徴だと言われます。ソメイヨシノは通常、一つの房に4~5個の花を付けますが、弘前城のソメイヨシノは、それよりも多く花を付けており、中には七つの花を咲かせている房もあります。また一般にソメイヨシノの寿命は60~80年と言われますが、弘前城には樹齢100年を超える古木が300本以上あるそうです。 これらの桜を支えているのは、「弘前方式」と呼ばれる桜の管理技術だとされます。桜は枝を切ると、そこから腐りやすくなるので切らない方が良いとされ、よく「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われます。が、弘前公園管理事務所では、桜の枝を切るのだといいます。これは全国有数のリンゴ産地・弘前ならではの発想で、病気や害虫に弱いソメイヨシノを、リンゴ栽培を応用した適正な剪定によって管理しているのです。 桜の時期には200万人もの観光客が訪れると言われる弘前城。旅好きの義母も、桜を求めて弘前を訪れたことがありましたが、その時は、残念ながら満開の桜とはならなかったようです。逆に私は、GWの1週間ほど前に弘前を訪問した際、見頃はもっと後だろうと思っていたのに、かなり咲きそろっていて、三脚を持ってこなかったのを悔やんだことがあります。桜は、その年によって時期がずれるので、必ずしも満開の時期に当たるとは限りませんが、やはり一度は見てみたい桜の名所に違いありません。 ところで、弘前城のある弘前公園周辺は、現在、市役所を始めとした官公庁街となっており、駅前とこの官公庁街、そして中心街の土手町という三つのエリアを結ぶように100円バス(土手町循環100円バス)が運行されています。弘前駅前から弘前城追手門までは約2km。土手町循環100円バスの場合、駅前から最寄りの市役所前までは約10分です。 さて弘前は、1611(慶長16)年に築かれた鷹岡城を

日本三大美林、下北半島の青い森

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霊場恐山。あちこちで硫気や水蒸気がゴボゴボと噴き出し、地獄のような絵図を描きます。硫黄分が強い酸性土壌のため、草木はほとんど見当たりません。しかし、周囲の外輪山は、対照的に緑濃い原生林におおわれています。 かつては、緑におおわれた恐山の周辺部は大畑町に、恐山そのものはむつ市の飛び地となっていました。が、2005年3月に大畑町がむつ市に編入されたため、現在は全てむつ市となっています。 大畑はイ力漁の町として知られますが、かつての町域はむしろ山側に広がリ、96%が山林によって占められていました。大畑から恐山に向かう山の斜面には、雄大なヒバの天然林が広がリ、木曽ヒノキ、秋田杉と並ぶ日本三大美林の一つ、青森ヒバの古里の名に恥じない見事な景観を見せています。 ただ、三大美林とはいえ、ヒノキや杉に比べると、ヒバの知名度はだいぶ低くなります。ヒバは日本特産樹で、南方型アスナロと北方型ヒノキアスナロの二つがあります。青森のものはヒノキアスナロで、全国の82%が集まリ、とくに下北、津軽両半島に大団地をなして分布しています。 ヒバはまだすっぽりと雪におおわれた2月から3月に、たくましく花を咲かせ、命の営みを始めます。成長には200年から300年かかり、その間、風と雪によって鍛えられます。三大美林と言われるものは、いずれも天然林ですが、藩政時代から積極的な山林経営がなされ、「枝一本腕一本、樹一本首一つ」という厳しい掟の中で守られてきました。現在伐採されているヒバは、そうした藩政時代初期に芽吹き、江戸、明治、大正、昭和と長い時代の変遷を見て、成長してきたことになります。 青森ヒバは、湿気に強い、腐朽菌に強い、振動・圧力に強い、木目が緻密で美しい、シロアリに強いなどの特長を持ち、古くから築城、神社仏閣などの建築に使われてきました。代表的なものに、岩手県平泉の中尊寺金色堂、青森県弘前市の弘前城などがあリ、宮大工など一部の人たちには、ヒノキと双壁をなす良材と認められていました。 実は、建て替え前の我が家も、青森ヒバを使っていました。長男が独立し、長女もやがて結婚という頃、築30年ほどになるので、リフォームを考えました。住宅会社との打ち合わせも終盤になり、屋根材の選択となって、知人の一級建築士にどういう素材がいいか相談しました。 すると、それだけコストをかけてリフォームするなら、土壌も含めて基礎か

七戸から八甲田山を抜けて青森へ

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青森の奉仕団体が、毎年、耳の不自由な子どもたちをリンゴ狩りに招待しているという話を聞いて、取材に行ったことがあります。リンゴ狩りをするのは、青森の市街地からは少し離れた八甲田山麓にある観光果樹園「青森りんごの里」で、青森駅からは10km強という感じでした。 リンゴ狩りは午前中に行うというので、前泊が必要。当然、青森駅近くに泊まるのが便利ですが、実は新幹線の停車駅は、青森駅とは離れた新青森駅になります。東京‐新青森間は3時間15分で、青森駅までは乗り換え時間を入れて約3時間半です。新青森にもホテルやレンタカーがあるので、そちらでもいいかと思いましたが、「青森りんごの里」は東京方面に結構戻る感じだったので、結局、一つ手前の七戸十和田駅で降り、駅に近い東八甲田温泉に泊まることにしました。 七戸町はかつて、レールバスが走る南部縦貫鉄道が通っていた町です。しかし、南部縦貫鉄道は2002年に廃止され、現在、JR七戸十和田駅が町唯一の駅になっています。聞くところによると、町唯一の駅が新幹線の駅というのは、日本全国で七戸町だけだそうです。 駅に隣接してイオンのショッピングセンターが、またイオンの駐車場の隣には道の駅もあって、いろいろな施設が集まっているようですが、日が暮れてから降り立つと、かなり寂しい印象です。目指す東八甲田温泉は駅の近くにあるはずですが、駅からは見あたらず、駅前の公園を突っ切って、Google Mapが示す方向へ歩いてみました。 すると、何となく「あれかな?」という2階建ての建物があり、近づいてみると、「日帰入浴」と共に「宿泊 東八甲田温泉」の看板がありました。七戸町で唯一の宿泊が出来る温泉とのこと。ここのお湯は掛け流しで、大浴場の他に、青森ヒバの香りが心地よりヒバ風呂がありました。 翌朝、駅の反対口にある駅レンタカー七戸十和田駅営業所で車を借り、受付で青森市田茂木野にある青森りんごの里までの道を確認したところ、「八甲田山を通る県道40号は通行止めになっているはず」と。「えっ! うそ・・・そんなはずは・・・」という私に、「確認してみますけど、確実なのは国道4号をいったん北上して、みちのく有料道路で青森市内に入る迂回路です」と、別ルートを教えてくれました。 ただ、想定外の上、土地勘が無いため、そのルートで取材時間に間に合うのか、全く見当がつきません。途中まで行って、

インパクト大の青森二大B級グルメ - 生姜味噌だれおでんと味噌カレー牛乳ラーメン

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このブログは、あまり計画性がないため、書き終えた記事に引きずられる傾向があり、今はご当地グルメやB級グルメのネタが続いています。今回は青森編で、私を導いてくれた導師は、青森市から西へ40kmほどのつがる市から、わざわざ駆け付けてくれたOKさんでした。 私はその日、 仙台から天童へはしご酒をした 仲間の一人、横浜のKTさんと共に、朝から北海道・函館へ行っていました。函館は雪で、天候によっては羽田へ戻ることもあるという条件付きフライトでした。しかし、雪の中、飛行機は無事に到着。函館での仕事も滞りなく終わり、空路、羽田に戻られるKTさんと別れ、私は列車で青森へ移動しました。 私が乗ったスーパー白鳥26号は、その当時、函館13時54分発、14時38分に青函トンネルに入り、14時52分にトンネル最深部到着、そして15時03分にトンネルを出て、15時41分青森着となっていました。青函トンネル前後も含め、80km以上トンネルが続きます。この時はまだ在来線でしたが、既に新幹線が通れる規格になっていたようです。 そして、青森でも夕方から一本仕事を片付け、OKさんの案内で、市内へ繰り出しました。リクエストは、マイブームのB級グルメです。 で、OKさんが連れて行ってくれたのが、青森おでんの「なら屋」さん。青森おでんは、すりおろした生姜と味噌を混ぜ合わせたたれをのせたおでんで、見た目、かなりのインパクトがありました。ちょっと見、味付けがかなり濃いのではと思ったのですが、だしはよく染みこんでいましたが、くどくはなく、おいしいおでんでした。 戦後、青森駅前周辺に出来た闇市の中のある屋台が、冬の厳しい寒さの中、青函連絡船を待つ乗客に少しでも暖まってもらおうと、味噌にすりおろした生姜を入れたのが始まりと言われています。そして、そのおでんが客にとても喜ばれ、市内各地に広まったそうです。 ただ、青森おでん=生姜味噌だれおでん、というだけの単純な図式ではありません。「 ディープな街にある沖縄おでんの名店・悦ちゃんと東大 」で記事にした沖縄おでんも、おでんだねに特徴がありましたが、青森おでんも同じです。 まず、「ツブ貝」が入っています。陸奥湾産の貝で、生姜味噌がツブ貝独特の臭みを消してくれ、なかなかどうしておいしいのです。更に「ネマガリタケ」。なぜ、おでんにネマガリタケを入れるようになったのかは不明らしい

ユネスコ無形文化遺産・三社大祭の古里で朝ごはん

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毎年7月31日から8月4日までの5日間、八戸の街が祭りの熱気に包まれます。この期間の人出は100万人以上。それが、およそ300年の歴史と伝統を誇る、国の重要無形民俗文化財「八戸三社大祭」で、2016年にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・山車行事」に登録されました。 三社とは、法霊山龗(おがみ)神社、長者山新羅神社、神明宮の三つの神社のことで、見どころはこれら三社の神輿行列と、神話や歌舞伎などを題材に各山車組が毎年製作する27台の山車の合同運行です。山車は高さ10m、幅8mもあり、夜の運行ではライトアップされた山車が夜空に浮かび上がり、より一層、豪華さを増すことになります。 一昨年、この三社大祭を見る機会がありました。青森県八戸市吹上にある独立行政法人国立病院機構八戸病院に、八戸三社大祭の山車が訪問する様子を取材するためでした。 八戸病院は1934年に八戸市立結核療養所として創設され、47年に国立八戸療養所として発足。その後69年に重症心身障害児病床を併設、予防法や治療法の発達で結核発症が大幅に減ったことを受け、2003年に結核病棟を閉鎖し、翌年から独立行政法人国立病院機構八戸病院として、国が担うべき医療と定められた政策医療分野の一つ、重症心身障害の専門医療施設となりました。現在、リハビリテーションを含め、約150人の重症心身障害児(者)が入院しています。 訪問活動をアレンジしているのは、八戸中央ライオンズクラブで、八戸病院の嘱託医として入院患者の診療を担当する会員らの提案により、約50年前から実施しています。当初は、入院患者たちを三社大祭の見学に招待していましたが、患者の中には重い身体的な障害を持つ人も多いことため、4年目には山車の方から病院に来てもらうことを計画。会員が関係する山車組に依頼し、病院への三社大祭山車訪問が実現することになりました。その後、十数年前から、病院と同じ町内の吹上山車組が協力してくれるようになり、毎年欠かさずに三社大祭の山車訪問が続いています。 吹上山車組は、山車審査で常に上位を占める有名山車組で、2016年までは10年連続最優秀賞を受賞したこともあります。吹上山車組の方の話では、山車の製作は例年、5月の連休明け頃から始めるそうです。しかも、青森ねぶたなどと違い、八戸三社大祭の山車製作には山車組関係者自らが当たり、本業を終えてから集合して作り上

瀬となり淵となって流れる奥入瀬の渓流美

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奥入瀬川は十和田湖の水が流れ出るただ一本の川。太平洋に注ぐまで、全長67kmをゆるやかに流れます。詩人であり、紀行文家であった大町桂月が、「住まば日の本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」とうたった奥入瀬は、そのうち十和田湖東岸の子ノロから、蔦川と合流する焼山までの渓流14kmを指します。 桂月が十和田を訪れるきっかけは、当時在籍していた雑誌『太陽』に掲載する紀行文のためでした。桂月は明治41年8月に十和田を訪れ、十和田湖と奥入瀬をくまなく歩き、その魅力を『太陽』に発表しました。 『太陽』は明治28(1895)年に創刊された日本初の総合雑誌で、当時のオピニオンリーダーとしての役割を担っていました。そこに発表された紀行文「奥羽一周記」は、十和田、奥入瀬を広く世に知らせるきっかけとなりました。 各地を旅した桂月ですが、十和田湖奥入瀬と蔦温泉をことのほか愛し、その後も度々訪問。ついには本籍を移して定住してしまいます。そして自然と酒を愛でながら歌作にいそしみ、大正14年、この地で57年の生涯を閉じました。 その桂月が、奥入瀬を描いた文の中に、次のような一文があります。 「・・・この渓流は、他には見難き風致を有す。湖口より蔦川を入るまで凡そ三里、島多し。みな木を帯ぷ。巖の水中に立てるものも多し。それもみな木を帯ぶ。これ奥入瀬渓流の特色也。・・・」 奥入瀬は、湖によって洪水が自然に調節され、流量が安定しています。更に渓流とはいえ、70mにつき1mというゆるやかな勾配の中を流れています。そのため、川の中の小さな岩や倒木にも、苔や灌木が生えています。清らかな水に加え、こうした岩を覆う深緑色の苔やその上の灌木が、奥入瀬を更に美しく見せているのです。 十和田湖樹海のうっそうとした木々と渓流、岩、滝が次々と織りなす風景は、庭園の趣さえ感じさせます。5月の新緑と10月中旬の紅葉期が特に美しく、多くの観光客を引きつけ、魅了します。 奥入瀬観光は、車の中からでも容易に景色が楽しめます。が、やはり歩いて探勝するのが一番。渓流浴いには遊歩道が整備されており、車でポイントだけを見て回ったのでは気がつかない、さまざまな自然の表情に巡り合えます。 ただ、全部歩くと約5時間の行程となるので、途中の 石ケ戸