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日本六古窯の一つ常滑焼の歴史

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私が編集に携わっていた雑誌は、今年で創刊64年になりますが、一貫して読者からの投稿欄が設けられています。編集部にはバックナンバーが全て保管されており、創刊2年目に入った1959年の雑誌(第2巻第1号)を見ていた時、「常滑焼の歴史」という原稿が目に止まりました。投稿者の柴山三郎さんは、1898(明治31)年に常滑市で生まれ、1923(大正12)年に秘色焼を興し、主に花器や水盤を作陶していた方でした。その投稿は、次のように始まっていました。 「全国有数の『すえ物作りの街・常滑』の名は、あまりにも世間に知られておりません。皆さんの身近に使用されていながら、その陶器が何焼であるかを知らずに使われている不思議な存在が、常滑焼であります」 私も、常滑焼と聞いて、イメージするのは土管坂ぐらいで、柴山さんの原稿を読んで初めて、朱色の急須や植木鉢も常滑焼だと知りました。常滑焼が、越前・瀬戸・信楽・丹波・備前と共に、日本の六古窯の一つとされていることは知っていましたが、確かに身近で使っていながら、それが常滑焼とは意識していませんでした。ちなみに、INAX(伊奈製陶/現LIXIL)も常滑だそうで、柴山さんは、常滑焼の知名度の低さは伊奈製陶以外、 ほとんど宣伝をしていないという、昔からの宣伝嫌いの風習からで、「デパートの宣伝係でさえ知らない人が多い実情であります」と書かれていました。 せっかくなので、柴山さんの原稿を以下に抜粋してみます。 「常滑市は名古屋市の南方、伊勢湾の海中に細長く延びた知多半烏の西海岸にある人口5万(※1)の街であります。名古屋駅から名鉄電車で急行1時問(※2)で達する陶器の街で、煙突林立する大工業地帯の景観を見ることが出来ます。有田焼も京焼も生まれていなかった鎌倉時代に、幕府からの注文で大きな壺や、 ひらかと称する皿、茶碗を盛んに焼いていたのであります。3000年以前の弥生式の土器も付近から発掘されていますので、 常滑焼の起源をどこまでさかのぼってよいのか分かりません。昔は船を利用した海上輪送が唯一つの運送機関でありましたので、 海岸地帯であって粘土と燃料の豊富にあった常滑地方一帯が、自然と陶器の生産地として発展したものと考えます。常滑古窯調査会の手で、半島の丘陵地帯の尾根10里ほどの間に散在する古い窯跡1000余カ所の存在を確認することを得ましたが、まだ山中に埋も

植木の里・川口安行の話

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長男家族は、我が家から約9km、車で20分ぐらいの所に住んでいます。ルートはいくつかあるのですが、国道4号を突っ切るとJR武蔵野線東川口駅南口の戸塚地区、4号線を草加方面へ少し走ってから入ると安行地区を通ります。 安行地区は、「植木の里」と呼ばれ、その歴史は400年以上になります。かつては鋳物と共に川口の2大産業として、隆盛を極めましたが、東京に隣接していることから人口が増えると共に、住宅開発が進み、鋳物工場も緑化産業も徐々に減っています。 それでも安行には、川口市営植物取引センターや川口緑化センター樹里安、花と緑の振興センター、安行園芸センターなど、「植木の里」にふさわしい施設があります。植物取引センターでは、毎週火曜日、植木のせりが行われ、全国から関係者が集まります。また、センターの敷地には、JAさいたまの子会社「安行植物取引所」が運営する植木直売所があり、一般の人が購入出来るようになっています。 川口緑化センターは、川口の伝統産業である植木や花、造園の振興を図るため、緑化産業に関する情報の収集や提供を行う施設です。道の駅「川口・あんぎょう」が併設されており、多種多様な花と緑を販売する園芸販売コーナーや、レストラン、屋上庭園などがあります。 花と緑の振興センターは、県の施設で、生産者や造園業者向けの情報提供や講習を行う他、園内には植木や鑑賞用樹木など、2000種類以上の植物が展示されています。安行園芸センターは、農事組合法人あゆみの農協の施設で、植木や草花、園芸資材を購入出来ます。 安行は、1496(明応5)年、この地に曹洞宗の金剛寺を創建した中田安斎入道安行の名にちなんで付けられた地名と言われています。応仁の乱から20年ほど経ち、時は群雄割拠の戦国時代が幕を開けた頃でした。殺傷が続く戦乱の中、自らの所業に悩んでいた中田氏は、この地を行脚していた節庵禅師による金剛経で救われ、寺を建てることにしたと伝わります。 入道というぐらいですから、在家のまま剃髪し、仏道に進んだのでしょう。中田氏の出自については、いまひとつ分からないのですが、安行の子どもが、太田資長(道灌)の孫である資頼に仕えていたということから、安行も同時代を生きた資長の配下にあったのかもしれません。資長が、道灌を名乗るのは入道してからのことで、安行に影響を与えたと考えられなくもないかと。 戦国時代の中田

「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群

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「白いろうそく」の発明は、想像以上に画期的だったようです。18世紀初めに、ろうそく製造を営んでいた芳我弥三右衛門という人によって「伊予式箱晒し法」の技術が発明され、精製脱色技術が格段に向上しました。 青みがかった色が当たり前だったろうそくが、それまで見たこともないような乳白色に生まれ変わりました。この白いろうそくは、「晒ろう(白ろう)」と呼ばれ、電気のなかった時代には国内外で高級品として重宝されました。 県都・松山から北西へ約40km。四方を山で囲まれた盆地に、ひっそりと佇む内子町。江戸後期から明治にかけて、木ろうと和紙の生産で栄えた町です。 木ろうとは、ウルシ科の落葉高木ハゼの実をしぼって作るろうそくの原料です。江戸時代には頭髪を結う際のビンツケに用いられた他、近年では化粧品や色鉛筆などの原料としても利用されていました。 ハゼノキは、江戸時代に琉球王国から持ち込まれ、九州、中国、四国など西日本では、それまで木ろうの原料だったウルシからハゼに切り替わったようです。 伊予国の大洲藩で製ろうが始まったのは、安芸国(広島県)可部から、3人のろう職人を呼んでからで、藩内の内子でも、ろうがつくられるようになったと伝わります。内子の木ろう生産に、一大変革が訪れるのは、明治時代中期。維新後、激減していた木ろうの需要ですが、活路を海外に見いだしました。 引き金となったのは、「伊予式箱晒し法」です。芳我弥三右衛門は、ろうそくのしたたりが、水面に落ちて白くなったのにヒントを得て、研究の末にこの製法を発見したといいます。 彼が開発した技術は、精製脱色のみならず、晒ろうの量産も可能にしました。そのため、日本はもとよりヨーロッパを中心に、世界に向けて晒ろうを輸出することが出来るようになりました。 やや固く、融点の高い晒ろうの上品な灯火は、海外でも絶大な人気を誇り、内子の街は大いに繁栄しました。最盛期は、1900年代初頭(明治30年代後半)です。晒ろう生産は、愛媛県が全国1位を独占、内子町はその70%を占める一大晒ろう生産地となり、全国に名をはせました。 しかし、この栄華は短く、大正に入るとパラフィンの普及、石油の輸入、電灯の導入によって需要が激減。内子町の晒ろう生産は、大正10年頃までにほぼ消滅してしまいました。 かつての四国遍路と金比羅旧街道のゆるやかな坂道に沿った約600mにわたる八日市

醤油醸造や讃岐三白の積出港として栄えた引田の町

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東かがわ市引田(ひけた)は、半島によって風がさえぎられ、平安時代から天然の良港として知られていました。中世には、引田城が築かれて商業が発展、城下は物資の集散地として賑わいました。標高86mの城山にある引田城は、播磨灘に面しており、山城でありながら、三方を海に囲まれた海城でもあり、天然の要害となっていました。 引田は、1584(天正12)年、阿波に次いで讃岐も平定した長宗我部元親の領地となりますが、翌85年、羽柴秀吉の四国攻めで長宗我部氏が敗退。87年に生駒親正が、讃岐国を与えられて引田城へ入城しました。しかし、引田城は、讃岐国の東端にあったため、生駒氏は間もなく中央寄りの聖通寺城に移ります。更に本拠の場所を黒田官兵衛に相談し、88年から高松で築城を開始。城は90年に完成し、97年からは丸亀城の造営に取り掛かっています。 その後、1600(慶長5年)の関ケ原の戦いで、生駒氏は東軍に加担。江戸時代も領地を安堵されましたが、一国一城令により引田城は廃城となりました。ちなみに丸亀城は、樹木で覆い隠し破却を免れたそうです。 1640(寛永17)年のお家騒動後、讃岐は分割され、41年に西讃に山崎氏が入り丸亀藩が興り、東讃には42年、御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が入って、高松藩が成立しました。この高松藩5代藩主の松平頼恭は、質素倹約に努め、藩の財政再建を図ると共に、藩の収入を上げるためさまざまな策を実行。塩田の開発で塩の増産を図ると共に、本草学を学んでいた家臣の平賀源内に、薬草や砂糖の栽培・研究を命じました。 源内は、薬草園の仕事をしながら、砂糖栽培を研究。しかし、砂糖製造の完成を待たず、職を辞して江戸へ出てしまいます。後継の藩医・池田玄丈も、志半ばで世を去り、後を託した弟子の向山周慶が、砂糖の精製に成功します。その成功には、次のような逸話があったといいます。 江戸後期の1790年頃、薩摩の奄美大島出身の関良介という人が、四国遍路に訪れました。しかし、体調を崩して、讃岐国大内郡(現在の東かがわ市)辺りで行き倒れてしまいます。それを助けたのが、藩医で大内郡湊村出身の向山周慶でした。関さんはそれを恩義に感じ、既に砂糖を生産していた薩摩藩秘伝の砂糖製法を周慶に伝授。周慶はついに、上等の白砂糖の製造に成功しました。「讃岐の白糖」は、「本邦第一の白糖」と言われるほど

藍が生んだ繁栄の証を卯建の町並みに見る

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美馬市脇町は、吉野川中流域の北岸にあります。江戸時代には城下町として繁栄しますが、その萌芽は、織田信長の前に三好政権を築いた、戦国武将の三好長慶にあります。 脇城は、平安時代に、讃岐の国守だった藤原氏の居館として作られたのが初めのようです。鎌倉時代になると、源氏の流れをくむ小笠原氏が阿波国の守護に任ぜられ、更に戦国時代になると、小笠原氏の庶流である三好氏が阿波を治め、1533(天文2)年、三好長慶が、阿波北方鎮圧の拠点として、脇城を改修しました。 その後、1556(弘治2)年には、武田信玄の弟信顕が、京都で長慶に会い、その計らいで脇城主となります。しかし、1582(天正10)年、阿波国を平定した土佐の長宗我部氏に城を落とされ信顕は戦死。その長宗我部氏も羽柴秀吉の四国攻めで敗れ、1585(天正13)年、秀吉の腹心・蜂須賀正勝の子・家政が、阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となり、正勝の盟友で筆頭家老の稲田稙元が、脇城に入城しました。 稙元は、脇城に入城すると直ちに城郭を修理強化すると共に、戦乱のために荒廃した城下町の復興に尽くします。そして、城下に商人町を形成し、これを保護したため、脇城下は四国、中国地方の商人まで移住して来て、当時としては珍しい一種の商業都市として繁栄しました。 また、藩主の蜂須賀家政が、藍の生産を奨励したことで、吉野川沿岸の農地の多くが、藍畑へ転換されました。徳島の藍は、品質の高さから別格扱いされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。こうして、「藍と言えば阿波、阿波と言えば藍」と言われるほど、阿波国(徳島県)は、江戸時代から明治後期に至るまで、藍王国としてその名をはせることになります。 しかし、なぜ阿波が藍王国になったのでしょう。その答えは、「四国三郎」の異名をもつ吉野川にあります。 吉野川は、愛媛県西条市と高知県いの町に頂がある瓶ケ森(1897m)を源に、四国のほぼ中央部から県北を、西から東に流れ、徳島市で紀伊水道に入ります。利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と共に、日本三大暴れ川の一つに数えられ、台風が来る度に洪水を繰り返しました。が、その氾濫によって、流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしました。 この洪水地帯で育った藍は、粉にしてから乾燥、発酵させ、藍染めの元となる藍染料「すくも」を作ります。こうして出来た

キャンドルの町として、世界に知られる鈴鹿路の宿場町

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亀山市は三重県の北西部、鈴鹿山脈の南東麓にあり、起伏の多い地形から「丘のまち」とも呼ばれます。かつては6万石の城下町として、また東海道の宿場町として栄え、鈴鹿路の要でした。明治に入ってからは、関西本線と参宮線(現紀勢本線)の分岐点となり、諸設備が設けられて発展しました。更に国道1号や東名阪高速自動動車道路が通じ、JR東海とJR西日本の境界線となるなど、今も中京・阪神二大経済圏の接点という重要な位置を占めています。 江戸時代の伊勢亀山藩は、藩主の交替が激しく、江戸中期も後半の1744(延享元)年に、石川氏が6万石で入ってから、ようやく安定しました。亀山市内の宿場は、亀山宿、関宿、坂下宿の3宿があり、その一つ亀山宿は、伊勢亀山城の城下町でもありました。また、関宿、坂下宿は旧関町(2005年に亀山市と合併)にあった宿駅で、関はその名の通り、古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれていました。 伊勢鈴鹿関は、672(天武天皇元)年に起きた古代日本最大の内乱・壬申の乱を描いた、『日本書紀』巻第28「壬申紀」の記載の中に、その名が出ています。その後、741(天平13)年に、日本最初の大僧正で東大寺大仏造立という国家プロジェクトのリーダーを務めた行基上人が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられます。 この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、近在の人々や東海道の旅人の信仰も集め、周辺には門前町が形成され、この集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。そして、関地蔵院を中心に、次第に宿場町が整備されていきました。この関宿は現在、東海道で唯一、往時の町並みを色濃く残しているスポットして知られ、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されています。 その関宿を歩いていて見つけたのが、みそ焼きうどんです。「2011中日本・東海B-1グランプリ」を獲得したB級グルメらしいのですが、個人的には、ご飯と味噌汁がついていたのが、謎でした。まあ、それが、B級たるゆえんなのかもしれませんが、高山でB級グルメをご馳走してくれ( https://petitavi.blogspot.com/2021/01/19.html )、この地方に詳しいOTさんは、「みそ焼きうどんは、三重県ではメイン・ディッシュだと思われます」と解説してくれました。 ところで亀山は、伊勢亀山藩石

ガーリック・キャピタルを標榜する青森県最南端のニンニク村

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田子町は青森県最南端、南を岩手県、西を秋田県と接する県境の町。町の特産「田子ニンニク」は、知る人ぞ知る上質のニンニクで、一流レストランが指名買いするほどのブランドを確立しています。 田子でニンニク栽培が始まったのは1962(昭和37)年。隣の福地村で、小規模ながら栽培されていたニンニクの種子を、町の農協青年部が買い入れ、栽培したのが始まりです。 「福地ホワイト六片種」と呼ばれる、この種子は、その名の通り真白で、実の一片一片が、普通の品種の2倍以上もあります。更に質も非常にいいのですが、いかんせん大規模に栽培されていたわけではなく、当時はほとんど知られていませんでした。 しかし、田子で試験栽培を始めてみると、この辺りの土壌や気候が、ニンニク栽培に適していることが分かりました。田子は、十和田火山の噴火によるシラス状の土地で、水はけがいい土地です。また、冷害の原因となるヤマセも、ニンニクの敵ではありませんでした。逆に、収穫期に日照が少なく、実が大きく育つというメリットさえもたらしました。 こうして田子では、69年から「第1次5力年計画」を立て、本格的なニンニク生産を開始。その年のニンニク生産額は300万円でした。が、75年には100倍の3億円、87年には7億円と増え続け、日本一のニンニク産地となりました。 現在、ニンニク栽培は県内の他市町村にも広がり、生産量1位の座は譲ったものの、町を挙げて築いたニンニク文化で「ニンニクの首都」を標榜。町の中央には「ガーリックセンター」が建てられ、一般財団法人田子町にんにく国際交流協会が発足、世界一のニンニクの町アメリカ・カリフォルニア州ギルロイ市との姉妹提携など、ニンニクを柱にしたユニークな町づくりが行われています。

越前の砂丘を彩る可憐な花"辣韮"

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えちぜん鉄道三国芦原線の終着駅三国港。福井駅から小さな電車に乗って、45分の行程です。すぐ隣には「関西の奥座敷」と言われる北陸の湯どころ芦原温泉が控えます。 「九頭竜川は北陸一の長河である。三国町はその河口に『帯のはばほど』につづく古い町なみである」。三好達治が、『越前・三国わが心のふるさと』でこう書いているように、三国町(現・坂井市三国町)は九頭竜川の河口に臨む古くからの港町。江戸時代には北前船の積み出し港としてにぎわい、北陸第一の港と称されました。 その三国港の西南に、長さ12kmにわたってなだらかな砂丘地が広がります。長さが3里あることから三里浜と呼ばれるこの砂丘地帯は、全国一のラッキョウの産地です。 ラッキョウは乾燥に強く、砂丘地で無灌水栽培出来る数少ない作物の一つ。しかも球の光沢、緻密さなど、品質ではかえって砂丘地の方が優れ、また植え付け、掘リ出し、洗浄等の作業も容易で、砂地であることが有利に働いています。 三里浜にラッキョウが導入されたのは1874(明治7)年頃。少数の人が自家用として栽培を始めました。その後、他の村人もこれにならって作リ始め、次第に生産も増え、1897(明治30)年頃には、余ったものが三国商人によって売られるようになりました。 しかし、この地方にラッキョウ栽培が定着するまでには、幾多の困難と苦闘の歴史がありました。江戸時代、この辺りは日本海から吹きつける強風のため、田畑は土砂に埋まリ、海の荒波によって家々が倒され、住民は流浪して他郷に逃げざるを得ない状態でした。 江戸中期、敦賀に生まれた僧・大道が、こうした惨状をみかねて、村々の百姓を説いてネムの木を植えて砂地を落ち着かせました。大道は、次にシイや松を植え、次第に面積を広げていきました。更に草地を増やして緑化を押し進め、ついに砂丘を耕地化することに成功したのです。 そして、大道のこうした努力は、後年、全国一のラッキョウ産地として花開いたわけです。今、かつての不毛地帯・三里浜は、ラッキョウを始め、スイカ、ダイコンなどの名産地となっています。 ところで、日本の大部分のラッキョウ産地は、1年掘り栽培を採用していますが、三国では2年掘りを採用しています。2年間、畑に置くことによって、分球数が多くなり、小粒で身が締まり、肉質も緻密で歯切れの良いラッキョウになります。ラッキョウの花は、10月下旬から

日本の心・茶の文化を育む三河の小京都

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西尾市というと、このコロナ禍で、市議14人がコンパニオンを入れて忘年会をしたり、副市長の指示で大手薬局チェーン創業者夫妻のワクチン接種予約を優先確保したりと、残念なニュースが続き、かなり評判を落としてしまいました。西尾には、「一色産うなぎ」「西尾の抹茶」と、特許庁認定の地域ブランドが二つあり、私も抹茶の取材をしたり、一色うなぎを取り寄せたりしたことがあったので、正直がっかりしました。 しかし、そうした残念な人たちと、うなぎや抹茶の生産者の方たちとは別物。市の評判と共に、そうしたブランドに傷がつくのは忍びないので、今回はさわりだけですが、取材をした抹茶について書いておきたいと思います。 西尾市は、地域ブランドに認定されているように、日本一の抹茶の里です。西尾で抹茶づくりが始まったのは、1872(明治5)年のこと。市の西部、稲荷山の麓にある紅樹院の住職足立順道師が、修業の帰りに京都・宇治から茶の実を持ち帰ったのが始まりといいます。その後、宅地化により宇治の茶園が減少したこともあって、昭和20年代頃から、抹茶生産の比重は宇治から西尾にシフトしてきました。 植物学的には、抹茶の木と煎茶の木に違いはありません。むしろ茶畑の違いが大きな要素となっています。特に茶摘みの時期になると、それが顕著になります。 抹茶用の畑は、俗に「覆下茶園」と言われ、全面に覆いをかけます。新芽が出る頃に日差しをさえぎるのは、茶の木の成育にとって障害になるように思えます。しかし、実際はそうすることで、よりおいしい茶が出来るから不思議。 抹茶の場合、茶摘みの20日ほど前から覆いをかけ始めます。最初の10日間は日照の2〜3割をカット。後の10日間は7〜8割をカットし、茶園の中はほとんど薄暗闇となります。 これによって、根から吸収された養分はぶどう糖のままとどまります。その時に茶摘みをすることで、茶葉の有効成分、例えば茶のうま味の中心となる「タンニン」などが最高値となり、おいしいお茶が生まれます。 抹茶の葉は年に1回、摘まれます。そのため、茶樹の背も高くなっています。西尾では毎年、茶摘みの時期に、中学生による勤労体験学習が組まれています。 薄暗く、背の高い木の中で、まさに声はすれども姿は見えぬ状態。はたから見ると、ユーモラスな光景なのですが、全て手摘みで行う抹茶だけに、生産農家にとっては、まことに貴重な労働力

杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち

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2014年9月に、アーチ曲線が特徴的な新駅舎となった越後線内野駅は、かつて「鶴の友」駅と呼ぶ人がいました。というのも、旧駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたのです。「内野駅」の看板はその隣に、小さな(それが普通だったんでしょうが・・・)白い文字でひっそりと掲げられていました。 これなら「鶴の友」駅と呼ばれても不思議はない。そう私も思いましたが、そもそも「鶴の友」って何? 新潟以外の人にとっては、聞き慣れない名称に違いありません。 それもそのはず、県外不出の地酒の名前だからです。蔵元が、地元の人の口に合った酒造りを目指し、新潟市以外ではほとんど売られていません。しかし、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 「鶴の友」の蔵元は、内野駅から真っ直ぐ南へ向かって歩き、国道に出たところで左折。すぐに樋木酒造の風格あるたたずまいに出くわします。建物が国の文化財に指定されており、酒蔵としての年輪を感じさせます。ここから更に500mほど東へ行くと、「越の関」のブランドで知られる塩川酒造があります。かつては、そのまた500m先に「日本海」の伊藤酒造、また駅前通りを挟んで樋木酒造と反対側の国道沿いには「朗」の濱倉酒造があり、内野は酒蔵の町と呼ばれていました。 こんな至近距離に、造り酒屋が集中していたのは、良質な水を豊富に使える立地と、陸運、水運の便の良さ、新川開削工事や北国街道を行き交う人で賑わい、町全体が繁盛したことによります。1818(文政元)年、信濃川に合流していた新川を開削し、直接日本海に放流するために始まった新川開削工事では、全国から人が集まり、その人たちの飲食をまかなうために料亭が栄え、造り酒屋も多数生まれたというわけです。 また、新潟は酒造りのプロ越後杜氏の本拠地です。江戸時代初めまで、日本酒は新酒、間酒(あいしゅ)、寒前(かんまえ)、寒酒造りと年4回仕込んでいました。しかし、江戸幕府が秋の彼岸以前の酒造りを禁止。米本位制をとっていた幕府にとって、米の大量消費が米価を高騰させ、経済が混乱することを恐れたからです。 また、寒造りの酒は旨い、という評判もあり、この頃から日本酒は11月から3月にかけての寒造りが主体となり、その期間だけ酒造地へ出向いて酒造りをするプロ集団が誕生することになりました。 新潟の冬は、山間部は雪に閉ざされ、沿

北の国・ワインカラーの町

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池田町の町を歩いていて、やたらと目につくのがワインショップです。それこそ、軒を連ねるようにして並んでいます。そして、その前の歩道も、街灯も、家々の屋根も、みなワインカラー。それもそのはず、ここはワインの里、町ぐるみでワインを愛し、育てているのです。 この北の小さな町池田町を、全国的に有名にしたのが、十勝ワインで知られる町営のワインづくりです。地方の時代にあって、この池田町のワインづくりの成功は、新しい町づくりのモデルとされ、「自治体ワイン」の名まで生みました。 昭和30年代の初め、池田町は冷害によリ財政赤字に陥いりました。この時、ある専門家が言った「ここの山ブドウは良質のワインになるアムレンシス系統かもしれない」の一言が、町を挙げてワインづくりに取リ組むきっかけとなりました。 1960(昭和35)年、ワイン町長と呼ばれた当時の丸谷金保町長の発案で、ブドウ栽培に着手。3年後の63年から、ワインの醸造を始めました。 池田町のブドウは当時の日本では珍しい垣根式や棒仕立てで栽培されていました 良いワインは、良いブドウから。ここのブドウは、よっぽどワインに適していたのか、翌64年には、早くも国際ワイン品評会で銅賞に入賞。以後も同品評会での金賞、銀賞を始め、世界のワイン・コンテストで数々の賞を受賞。世界に誇るワインへと評価を高めていきました。 もっとも、初めから全て順調に進んだわけではありません。国際品評会に入賞、町民がやっと、ブドウ栽培をやろうという機運が盛リ上がった64年、厳しい冷害に見舞われ、苗木が全滅してしまいました。 その後、懸命な努力によリ、山ブドウにヨーロッパ種のセイベル種を交配させて、寒さに強い「清見」を生み出しました。本当に軌道に乗ることが出来たのはそれからです。 池田町のワインには、いくつもの品種がありますが、人気なのは、「清見」や「山幸」など酸味の効いた辛口の赤。これらは、特産のいけだ牛にとてもよく合います。春と秋に行われるワイン祭では、十勝ワインの飲み放題がある他、牛の丸焼きも登場。北海道の雄大な自然にマッチした、なんとも豪快なイベントです。 ↑中世ヨーロッパの城を思わせるところから「ワイン城」と呼ばれる池田町のシンボル・ワイン工場

球磨川「焼酎渓谷(バレー)」を訪ねる

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人吉を語る時、忘れてはならないのが球磨川です。熊本県南部をU字状に流れる長さ約115km、九州第二の大河です。 日本三大急流の一つに数えられ、その急流を下る球磨川下りはよく知られています。また、アユ釣りの名所として、全国の釣り天狗を魅きつけていますが、シーズンなど、アユの数より多いんじゃないかと思うほど、釣り人の姿が目につきます。 寛政の三奇人の一人とうたわれた高山彦九郎は、1792(寛政4)年2月、球磨を訪れていますが、その時の様子を『筑紫日記』に「馳走有り。焼酎に鮎を肴とす」と書いています。球磨川のアユと球磨焼酎。たしかに、最高のご馳走であったに違いありません。 さて、その球磨焼酎ですが、これは球磨川流域に27(取材時は32)もの醸造元があります。人吉の下流・球磨村から、上流の水上村にかけて球磨川沿いにまんべんなく、焼酎メーカーが散らばっています。 その様は、「焼酎渓谷」という表現がぴったりです。この渓谷の人たちは、球磨川の清流の恵みを受けながら、これまで何世代にもわたって焼酎を作り、売り、そして自分たちも飲んで生活してきました。 ところで、なぜ、球磨川流域が、このような焼酎の大生産地になったのでしょうか。水がいいこともありますが、球磨焼酎は米が原料、球磨地方にはその米が余っていたからということらしいのです。 人吉は、相良氏が鎌倉初期から明治維新まで、約700年にわたって治めてきた日本一古い城下町。この人吉藩は、表高こそ2万2000石という小藩でしたが、実質10万石の収入がありました。 人吉市の東端から小高い丘陵が連なります。実はその奥に、巨大な稲田が広がっているのですが、丘に隠れているのを幸い、うちはここまでと検地の役人をだましていたのです。そして、この豊かな米を原料に、せっせと焼酎を作っていました。  ◆ 取材の際、チョクと呼ばれる盃に遭遇しました。販売促進用に作ったぐい飲みのミニチュアだろうと思ったのですが、取材に協力して頂いた深野酒造の社長は、「いや、これこそが本来の球磨焼酎の盃」と。 元来この地方では、ガラという酒器に入れて、そのまま火にかけて温めたものをチョクで飲みます。そして、酔うほどに賑わうほどに、無礼講で球磨拳が始まります。 球磨拳というのは、ジャンケンに似たゲームで、負けた人が必ず一杯飲み干さなければいけません。しかも、延々続くという恐怖のゲ

安全性やブランド力を高め付加価値農業を創出する北空知

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午前3時、まだ真っ暗な中、広大な豊泉牧場の一角に明かりがともりました。乳製品の加工場・MOMO工房で、牛乳の瓶詰めが始まったのです。 「そりゃあ、冬は寒いですよお。でも、真っ白な雪を踏みしめて工房まで歩いて来るのは気持ちいいものですよ」と、ご夫婦でMOMO工房を切り盛りする鹿島留美さんは話します。ご主人の稔さんは豊泉牧場の5代目社長。 豊泉牧場は1957(昭和32)年に酪農専業の3戸により発足、62年から有限会社となりました。当時としては例のない方式でした。そんな伝統を受け、94(平成6)年に社長に就任した稔さんは、更に先進的でユニークな経営に乗り出しました。 96年、消費者とのつながりを構築しようと牛の里親(オーナー)制度をスタート。オーナーは牧場で生まれた子牛を時価で購入。子牛は牧場で育てられ、牛乳が生産されるようになると自分の牛の牛乳をいつでも飲めます。また実際に牧場に出かけて、酪農体験をすることも出来ます。 更に98年、MOMO工房を立ち上げ、ヨーグルト、アイスクリーム、ミルクパンの製造販売を始めました。工房は製造体験も出来るようになっており、学校などの体験学習に利用されています。 牧場まで案内してくれた地元の東原廣志さんが、「鹿島君は思いついたら即行動だからね」と言えば、留美さんも、「相談された時には、もう決まってますからね」と笑っていました。 鹿島さんは、牛乳の配達が終わると、道内一の利用率を誇る道の駅「ライスランドふかがわ」に顔を出します。ここで搾り立てのフレッシュミルクを使ったソフトクリームの販売を始めたからです。消費者との触れ合いを求める鹿島さんの挑戦はまだまだ続きそうです。  ◆ 深川を中心とした北空知管内では「北育ち元気村」の名の下、JAが広域合併し、米を始めとする農産物の広域統一ブランドを作り、その普及に努めています。この辺りは特に道内随一の米どころとして知られます。 北海道開拓が始まった当時、道内では稲作が行われておらず、屯田兵はアワや麦を食べていました。北空知では1892(明治25)年、現在の深川市音江町で稲を植えたところうまく育ち、自分でため池を作ったり、川の水を引いて水田を作る人が多くなってきました。 1912(大正元)年には、石狩川の水を引いて用水路を作る工事が始められ、4年後の1916年に完成。当時はクワやスコップで土を掘り、掘っ