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民謡のある風景 - 漁絶えた浜に残る貝とりの一節(鳥取県 貝殼節)

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山陰本線を浜村駅で降りると、駅を挟んで温泉町が広がります。町は海につながり、その海で、昔はホタテがとれました。記録によると、鳥取県気高地方一帯の海岸では、江戸期の頃から、周期的にホタテが大量発生し、浜は貝漁で賑わったといいます。 この辺りでは、貝のことを貝殻と言います。貝殻は貝殼の皮とも言うそうです。『貝殼節』は、その貝漁の労働歌として生まれ、手漕ぎの櫓に合わせて唄われました。  ♪何の因果で貝殼ひきなろた   カワイヤノウ カワイヤノウ   色は黒うなる 身は痩せる 貝漁は、ジョレンで底引きをしてホタテ貝をかき集めました。かなりの重労働です。それが「何の因果で・・・」という詞句を生み、「カワイヤノウ」と囃すことで、労働の厳しさを紛らわしました。 貝漁は1929(昭和4)年を境にぱったり途絶え、唄だけが残りました。4年後、鳥取師範の教師・三上留吉が、賀露から泊に至る海岸の集落を採譜して歩き、鳥取市役所の俳人・松本穣葉子が詞句を補作し、浜村温泉で唄われるようになりました。 戦後、民謡ブームの中でこの唄も脚光を浴びるようになり、53(昭和28)年2月、朝日放送の「全国民謡の旅コンクール」で1位になって、鈴木正夫の唄でレコード化もされました。こちらの方はお座敷唄の趣ですが、賀露港では、三味線伴奏のない作業唄の曲調を保ち、昔の風情を伝えています。 NHKのテレビドラマ『夢千代日記』(早坂暁)でも、この唄が効果的に使われていました。年配の方の中には、吉永小百合、秋吉久美子、樹木希林らの芸妓ぶりを、この唄と共に思い出す人もいるかもしれません。貝のとれなくなった山陰の海にこの唄が流れると、人の世の深さが思われ、曲調の明るさが、切なく思えます。 

白壁土蔵の街に春の訪れを告げる流しびな

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倉吉市は鳥取県中部、市のほぼ中央に打吹山があり、その少し北に玉川という水路が通っています。玉川沿い(通称川端)には、昔ながらの土蔵や商家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたレトロな町並みが形成されています。これらは江戸時代から昭和初期に建てられたものがほとんどで、赤い石州瓦で葺かれた屋根が、家並みに統一感を与えています。 倉吉は、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった交通の結節点にあり、古くから栄えてきました。更に江戸時代には、倉吉せんばと呼ばれる脱穀具で一世を風靡しました。冬の間にせんばを作り、春には日本中に出荷していました。せんばの行商に出掛けた商人はまた、各地の文化を身に付けて倉吉に戻ってきました。その代表格である倉吉絣は、薩摩や久留米を行商した人たちが持ち帰ったと言われ、すぐにせんばと並ぶ主産業となりました。そしてせんばと絣で潤った町には、米問屋や鉄問屋、木綿問屋、醸造業などが蔵を並べ、裏手には水路が造られ、舟が絶えず往来するようになりました。 裏通りのため、人通りがまばらなことも手伝い、昔町にタイムスリップしたような感覚に陥ります。また、玉川をまたいで、各土蔵の木戸口に向かってゆるやかな反りを持つ一枚石の石橋が架けられています。赤い瓦の白壁土蔵群と運河、そして石橋の連続が、非常に美しい家並みを形成しています。 この川端で毎年4月、子どもたちによる流しびなが行われます。1985年に倉吉打吹ライオンズクラブが始めてから、今年で36回目を迎え、「くらよし打吹流しびな」の名で今や倉吉を代表する春の風物詩となっています。 流しびなは巳の日の祓いとして、草や紙で「ひとがた」を作り、災いを払うために川や海に流した行事が源と言われます。やがて3月3日の上巳(本来は3月上旬の巳の日だったらしい)に、子どもたちの健康を願って人形を流す風習へと変遷しました。今でも奈良県五條市や兵庫県たつの市、京都・下鴨神社などで、伝統的な流しびなが行われており、中でも鳥取市用瀬町の流しびなは全国的にも知られています。 もちろん「くらよし打吹流しびな」も、子どもたちの健やかな成長を願ってのイベントなのですが、そもそもの発想は玉川の浄化運動から生まれました。水路としての役目を終えた玉川は、生活排水などで汚れ、70年代から80年代にかけては、誰も見向きもしない川となっていました。

中国山地に囲まれた若桜町でジビエ三昧

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若桜町は鳥取県の東南端、兵庫県と岡山県に県境を接する中国山地の中にあります。町は、東に氷ノ山(1510m)、西には東山(1388m)、南が三室山(1358m)、北は扇ノ山(1310m)と、1300m以上の山々に囲まれており、町域の95%が山林で占められています。 若桜はまた、鳥取から姫路に抜ける播磨往来の宿場町として栄え、山陰と山陽の文化や物資が交錯していました。そんな若桜の町並みを取材した際、地元の方の計らいで、その方が所有する山小屋に泊めて頂きました。 食事も、何人かの町の方たちと一緒に、山小屋で鍋をすることになりました。鍋と言っても、そんじょそこらの鍋ではありません。熊鍋です。 他にも、イノシシやシカの肉も登場し、ジビエ三昧の夕食となりました。若桜は、周りがほとんど山だけに、猟師さんもたくさんいるらしく、地元の方は、普段からこれら山肉を食べているそうです。 私、東京生まれの東京育ちで、父方、母方の祖父母とも東京にいたため、子どもの頃から田舎に行く楽しみを味わうことなく過ごしてきました。なので、豚、鶏、牛以外の肉は、大人になるまで食べたことがありませんでした。特に、熊肉はほぼ食べる機会がなく、若桜で頂いた熊鍋が、これまでで唯一の熊食いとなっています。 そんな若桜のふるさと納税返礼品を覗いてみたら、ありました、ありました。鹿肉の生ハムにジビエカレー、ジビエの缶詰あれこれセット(鹿肉の大和煮、猪肉のすき焼き、猪肉の和風オイル漬け)の三つが選択出来るようになっていました。 で、説明を見てみると、「全国的にもトップクラスの品質を誇る若桜29工房の厳選鹿肉」「衛生的に処理された若桜29工房の猪肉」といった記載がありました。若桜29工房? 以前、若桜を訪問した時にはなかったような・・・。 というわけで調べてみると、「わかさ29(にく)工房」は、2012(平成24)年に若桜町によって設立され、翌年から本格稼働を始めた獣肉解体処理施設とのことです。更に16年には、指定管理者として「猪鹿庵(じびえあん)」を選定し、代表1名、食品衛生責任者1名、従業員2名、地域おこし協力隊1名によって運営をしているそうです。 山々に囲まれた若桜では、シカやイノシシによる農林業被害が多く、害獣駆除は年間約1000頭に及んでいました。そこで、これらの山肉を活用し、里山の恵みとして特産品に出来ないかとの

数百年の時を経て独特の色艶を見せる煤竹細工

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倉吉市は鳥取県のほぼ中央、東、西、南の三方を山に囲まれた平野にあります。小鴨川、竹田川、国府川がそれぞれ支流を集めて合流し、倉吉で天神川となって日本海に注ぎます。縄文、弥生時代の遺跡が多く見られるように、古くから開けた土地で、市街の西方には伯者国府や国分寺、国分尼寺跡などがあり、倉吉が古代伯者の文化、政治の中心であったことを物語っています。 近世には山陰道、津山街道、勝山街道が交差する宿場町として、京文化や吉備文化が往来し、また鳥取藩の城下町として栄えました。江戸中期には「倉吉せんば」の産地として一大繁栄期を迎え、当時造られた白壁の土蔵群が、その頃の面影を伝えています。倉吉絣や二十世紀梨の産地としても知られ、民芸の町と言われるように、優れた郷土玩具や民芸品もあります。 その一つに、倉吉独特の煤竹細工があります。煤竹というのは、茅葺屋根の屋根組みに使われ、囲炉裏や竈から立ち上る煙が染み込んだ竹のこと。長い年月、煙にいぶされた竹は、付着していた煤を取り除いてみると、独特の飴色になっています。200年、300年を経たものなど、実に見事な色合いで、煤竹細工はそれを使って作られます。 煤竹細工が倉吉で始まったのは、そう古いことではありません。倉吉出身の中野竹蔵氏が神戸に出て、大正元年に竹製のペン軸を作り、ドイツへ輸出したことに端を発します。倉吉の南方、岡山県境一帯にかけて自生する、俗に鳳尾竹と呼ばれる根曲竹を使ったものでした。その後、二度の大戦に巻き込まれ、事業は二転三転しました。しかし、その間も一貫して竹製品を作り続け、1939(昭和14)年には故郷倉吉に戻り、更に終戦後、現在のような煤竹を用いた竹窓の製造を始めました。 特に高度成長期に入ると、農家が家を次々と建て替えるようになり、煤竹がたくさん出ました。鳥取県内はもとより、兵庫、京都、北陸3県などにも足を伸ばし、煤竹を集めて歩きました。それと共に、煤竹細工もさまざまなものが作られるようになってきました。 1965(昭和40)年には天皇、皇后両陛下上覧のため、煤竹製の衝立を作り、70年には大阪万博に出品。このあたりから、工芸的な製品作りが増えてきました。現在は茶道や花道関係のものが多く、また、飾り窓の窓枠も種々あります。 ただ、家の建て替えが一通り終わると、昔ながらの茅葺きの家はだんだんと少なくなり、材料の入手が困難になっ

雪と火事によって形成された独特な美しい町並み

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若桜町は、鳥取県の東南端、氷ノ山を中心に、中国山脈が延々と県境に起伏しています。町の大部分は山岳地帯で占められ、集落も標高200~650mの高所に散在しています。中心地の若桜は、四方を山に囲まれたすり鉢状の底部にあり、かつては矢部、山崎、山中、木下氏らの城下町として栄えた町です。 また、若桜は鳥取から姫路に抜ける現在の国道29号、かつての播磨往来の宿場町でもありました。兵庫・岡山両県境に近いこともあり、「因幡の中の播磨」とも呼ばれ、山陰と山陽の文化や物資が交錯していました。 現在では、城下町としての面影は、その町割にわずかに残っているにすぎません。しかし、宿場町・若桜としての姿は、今でも町のあちこちに見ることが出来ます。 その若桜の家並の特徴は、「カリヤ」という、現在のアーケードのような通りにあります。若桜は、西日本のスキーのメッカになっているほど積雪が多い地域です。カリヤとは、家と道路の間に設けられた幅1.2mほどのひさしのついた私道で、豪雪地帯に住む人々の生活の知恵が生み出したものです。現在では、このカリヤ通りも途切れていますが、かつては「カリヤづたいに傘いらず」と里謡にうたわれたように、カリヤが続き、雪や雨の日でも傘なしで通り抜け出来ました。 このカリヤ通りの裏は、蔵通りと呼ばれる白壁土蔵群が続き、かつての若桜宿の繁栄をしのばせています。蔵通りは、2度の大火に見舞われた明治期に作られたもので、火災を食い止めるために、土蔵以外の建物を建てることが禁じられた名残です。通りを挟んで蔵の反対側には、寺が軒を連ねていますが、これらの寺も防火のため、1カ所に集められたのだといいます。 また、若桜町には、集落すべてが平家姓を名乗る落折という集落があり、3月3日、初節句の男の子に弓を引かせる習わしが、数百年の昔から続いています。この行事を雛祭りにやるのは、源氏に男児の誕生を悟られないためといい、以前は町の人ですら、この行事の存在を知らなかったそうです。

民謡「貝がら節」の古里・気高

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鳥取市中心部から西へ18kmほどの場所にある気高町は、山陰本線を挟んで、北は日本海に面し、南は中国山地の一部をなす鷲峰山の麓にまで及んでいます。2004年に鳥取市に編入合併するまでの町の代表的な産業は、農業、漁業、それに浜村温泉を中心とした観光でした。気高には浜村、宝木の二つの駅があり、その一つ浜村駅を降りると、すぐ目の前が温泉街になっています。 浜村温泉は、遠く1501(文亀元)年の開湯と伝えられます。古書には「天正年間(1573-92)鹿野城主亀井氏の臣、宍戸豊後白鷺を射て之を傷つく、鷺、沢畔に留まりて去らず、往きて検するに温泉湧出せり」と記され、別名「鷺の湯」とも呼ばれます。 湯どころ山陰路の中でも湯量随一を誇り、県下初の公式温泉プールや野天風呂もあって、湯煙りをあげています。旅館の庭先からは、なだらかなスロープを描いて砂丘公園が広がり、いかにも鳥取らしい風情を伝えています。 また、かつてこの地を訪れた小泉八雲が「不思議なほど渚に近い温泉」と表現したように海にも近く、温泉街から10分ほど歩けば、西因幡県立自然公園に指定されている白砂の海岸線に出ます。この海岸は、民謡「貝がら節」の舞台でもあります。 「何の因果で 貝がらこぎなろうた カワイヤノー カワイヤノー 色は黒うなる 身はやせる」 明治の初め頃、浜村の沖合い東西70kmにわたって帆立貝の大発生をみました。漁師たちはジョレンに網をつけ、底引き船で乗り出しました。「貝がら節」はその苦しい作業を唄った労働歌で、哀調と素朴さに満ちたメロディによって、多くの人々に共感されています。 浜村温泉を今日のように有名にしたのは、あるいは多少この民謡の力に与っているかもしれません。 ところで、浜村駅から山陰線で西へ1駅行くと、因州和紙の里・青谷町に着きます。因州和紙の起源は不明ですが、江戸初期に「美濃紙」の製法が伝来したとされており、伝承では次のような逸話が残っています。 1628(寛永5)年、美濃国から全国を巡錫していた旅僧が、青谷にさしかかった時、にわかに病魔に襲われ、道のほとりに倒れてしまいました。純朴な村人たちは、真心からの手厚い看護を施し、間もなく重い病気も全快しました。旅僧はその謝恩のしるしとして、美濃に伝わる紙漉き法を伝授して再び旅立ちました。 この伝承には、他にもバリエーションがあるらしいのですが、現在につな

美しい風紋を身にまとった砂丘と青い海原のコントラスト

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砂丘というと、どうしても『砂の女』を思い出してしまいます。『砂の女』の舞台は、鳥取ではないのですが、鳥取イコール砂丘、砂丘イコール砂の女、とどうしても連想してしまうのです。 『砂の女』は、海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められる物語です。安部公房の代表作で、近代日本文学の傑作と言われ、20カ国語に翻訳されるなど、海外でも高い評価を得ています。 1964年には、原作の安部公房自身が脚本を書き、勅使河原宏監督により映画化されましたが、とても「濃い」作品に仕上がっていました。映画はDVDも出ており、それが2枚組になっています。映画『砂の女』は、封切り時は147分でした。しかし、カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞したのは122分の短縮版で、勅使河原監督はその後、122分版を正式版とし、147分版は上映されなくなりました。で、その幻のオリジナル版が、一緒に入っているようです。 と、話が鳥取ではなくなってしまいました・・・。今回の記事は、鳥取砂丘の話です。 初めて鳥取砂丘に立ったのは、今から30年以上前でした。ウェート・トレーニング界の第一人者で、当時、雑誌にコラムの連載をお願いしていた小山裕史さんが案内してくれました。 小山さんは出発前、トレーニング・ジムの玄関からビーチ・サンダルを2足、車に積み込みました。10月も下旬になっていたので、サンダルになってまでは・・・と思いましたが、やはりこれは正解でした。 実際に鳥取砂丘に立つと、眺めているだけでは飽き足りなくなります。砂丘といえば、童謡「月の砂漠」のイメージのせいか、一面の砂の原を想像しがちです。しかし、鳥取砂丘は、意外に起伏があるのです。特に正面に見える馬の背状の小高い丘が、おいでおいで、と手招きをしているように思えてきます。高さ47m。傾斜35度。 砂に足をとられながら登るのは、かなりきついです。しかし、その分、頂上にたどり着いた時の風は爽やかです(ただし、あまり長くいると、季節によっては、日本海から吹き付ける風が尋常じゃなく冷たいです)。頂からは、砂丘の広がりと雄大な日本海が一望出来ます。美しい風紋を身にまとった白砂と、青い日本海のコントラストが見事です。 鳥取砂丘を歩きながら、小山さんから、ある相撲部屋の親方が、部屋の力士たちのトレーニングについて相談しに来られた時の話を聞きました。

ミーハー心をくすぐる明るい山陰 - 米子

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  米子市は山陰のほぼ中央、島根との県境にあり、古くから交通の要衝として栄えました。江戸期には米子城が築かれましたが、城主がほとんど不在だったこともあり、城下町としてよりも商人の町として発展。そんな米子の特性を表すものに「逃ぎょい逃ぎょいと米子に逃げて、逃げた米子で花が咲く」という俗謡があります。 これは米子が開放的で、移住者を寛容に受け入れる土地であることを表しています。江戸時代の米子は藩主直轄ではなく、一部の自治が認められており、それがこうした風土を醸成したと考えられています。そんな古くからの土壌は今の時代にも受け継がれ、よく米子の人は進取の気風を持つ新しもの好きだと言われるそうです。 米子を取材したのは、2019年6月のことでした。前日に島根県の益田で一本取材をし、翌朝の山陰本線で米子に入りました。米子駅は、境線の起点駅でもありますが、2駅先の伯耆大山駅で分岐する伯備線も、米子駅まで乗り入れており、事実上、伯備線の基点駅にもなっています。 更に、東京と出雲市を結ぶサンライズ出雲の停車駅でもあり、東京を夜の10時に出発した寝台特急は、翌朝9時過ぎに米子駅に到着します。一方、上りは米子を夜の7時56分に発車し、東京駅には翌朝7時8分に到着します。 ところで境線は、米子駅から境港駅まで、約18kmを結ぶ路線です。全16駅で、途中には米子空港駅もあります。境港と言うと、漫画家の水木しげるさんの出身地であることから、「ゲゲゲの鬼太郎」で町おこしをしているのは有名ですが、境線もこれにあやかって、「ゲゲゲの鬼太郎」のイラストを車体に描いたラッピング列車を走らせています。現在、メイン・キャラクターである鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ男、ねこ娘、こなき爺、砂かけ婆の6種類の列車が運行しています。また、境港駅が「鬼太郎駅」、米子駅が「ねずみ男駅」など、駅名にも、妖怪の名前が愛称として付けられています。 ちなみに、2019年の取材では、地元の方が車で案内してくださった上、取材後は空港まで送ってくださったので、境線には乗りませんでした。ただ、2010年に宍道湖のシジミを取材した帰りにJRで米子空港へ向かい、その時、ねこ娘列車に乗ることが出来ました。で、このねこ娘列車は美人運転士さんが運転していたのですが、交渉をしたものの、残念ながら撮影NGで、写真を残すことは出来ませんでした。 さて、前

日本海の荒波と風雪が造り出した自然の彫刻 - 浦富海岸

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岩美町は鳥取県の最北端、北を日本海に面する港町です。浦富海岸と呼ばれるこの辺リの海岸線は、日本海の荒波による長年の侵蝕作用で、断崖、絶壁、洞窟、洞門、奇岩、岩礁などがあちこちに点在し、変化に富んだ景観を演出しています。しかも、それらの多くは緑滴る老松を頂き、周囲の白砂青松の取リ合わせと共に、海岸の美しさを一層引き立てます。 眺めが、宮城県の松島に似ているところから、「山陰の松島」とも呼ばれます。が、大阪朝日新聞からの依頼でこの地を取材した島崎藤村は、「松島は松島、浦富は浦富」と、その独特の海岸美を絶賛したといいます。大阪朝日新聞に掲載された紀行文『山陰土産』から、その部分を抜粋してみましょう(元の記載のままです)。 「無數の島々から成る眺めの好い場所といふと、人はよく松島あたりを比較に持ち出す。この比較は浦富には當てはまらない。松島はあの通り岸から離れた島々のおもしろさであるのに、私達がこゝに見つけるものはむしろ岸に倚り添ふ島島の眺めであるのだから。こゝでは海岸全體が積み重ね積み重ねした感じをもつて私達に迫つて來る。これはこの附近にかぎらず、やがて山陰道を通じての海岸の特色であらう。松島は松島、浦富は浦富だ」 浦富海岸は隣接する鳥取砂丘と共に山陰海岸国立公園に指定されています。日本海の荒波と風雪が造り出した自然の彫刻とも言えるダイナミックな景観で、松島の女性的な美しさに対して、豪快で男性的なところが魅力と言われます。浦富海岸には、網代から城原海岸まで、遊歩道が設けられており、その魅力をたっぷり味わうのに最適です。 網代港は山陰でも有数の松葉ガニの水揚げ港。浦富海岸自然探勝路の入口は、そんな漁港の片隅にあります。遊歩道の始まりは登りから。「海はどこなんだ」と、不安になり始めた頃、やおら視界が開け、絶壁と青い海が目に飛び込んできます。しかし、右手には民家があったりして、本当にここでいいのか、また不安になります。それでも、左手の海に目をやると、なにやら格好のいい島があります。 それが、 千貫松島 です。周囲50m、高さ10mの洞門で、頂に青々とした松が生えています。かつては見事な老松が枝を広げていて、ここを訪れた鳥取藩主・池田綱清が「我が庭にこの岩つきの松を移す者あれば禄千貫を呈す」と言ったことから、この名がついたと言