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民謡のある風景 - 雅に将軍献上茶の昔偲ばせて(京都府 宇治茶摘み唄)

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京都府宇治市一帯は、昔から茶どころと言われてきました。宇治での茶の栽培は、室町時代にさかのぼり、その後も幕府の保護を受けて、東宇治、宇治など宇治川の扇状地で高級茶を作り続けました。その伝統をひいて、京都府では、今も玉露、煎茶、かぶせ茶、てん茶などが生産され、およそ1600haの茶園からの荒茶生産量は、年間約2360トンに上ります。 茶は、5月頃、新芽が出そろいます。それを摘んだものが番茶で、玉露などの高級茶はこれで作ります。 茶の新芽を手で摘んでいく作業は、根気がいります。その作業の中から生まれたのが茶摘み唄ですが、『宇治茶摘み唄』は、作業唄というよりは、むしろ雅なお座敷唄といった趣で、ゆっくりとしたテンポで唄われます。  ♪ハアー 宇治は茶所 茶は緑所   娘やりたや 婿ほしや 宇治の茶の唄は、投げ節と味木屋節の2種があると言われ、投げ節は、元禄の頃の九州の流行歌(はやりうた)が元になっていると言われています。味木屋節は「お茶壼の儀式」という献茶の儀式の時に唄われたものだといいます。 高級茶として知られた宇治茶は、江戸時代、将軍への献上品として珍重されました。製茶業者が新茶を精選し、専門家が吟味して、極めつきの特級品が茶壼に納められ、その茶壷が役人を従えて、東海道を江戸へ向かいました。茶壼道中は、重要な年中行事の一つで、茶壼通過の際は、大名行列も道を譲るしきたりだったといいますから、まさに茶壼さまさまだったわけです。「お茶壼の儀式」が、いかに典雅だったか、このことからも想像出来ましょう。 味木屋節の「味木屋」というのは、昔の製茶業者だったと言われ、業者によって唄われる唄の節回しも違っていただろうと考えられ、今も5通りの節があるそうです。 茶摘みの現場から唄が消え、宇治の茶唄も保存されるだけの運命にあるようです。 

白壁と茅葺き屋根が映える嵯峨野・愛宕詣の門前町

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京都には、仕事で何度も行っていますが、正直、どこもかしこも観光客が多すぎて、個人的には観光をする気にはなれません。そのため、有名スポットは、中学、高校の修学旅行で回った所ぐらいしか知りません。 そんな中、やっぱり京都はいいなあ、と思ったのは、洛外の嵯峨野です。と言っても、JR山陰本線嵯峨嵐山駅を中心としたエリアは、世界から観光客が押し寄せる人気スポットです。なので、私が気に入ったのは、嵯峨野は嵯峨野でも、人が少ない早朝の嵯峨野と、観光スポットからは少し外れる奥嵯峨野と呼ばれるエリアです。 嵯峨野は、丹波高地東部の佐々里峠を源とする桂川が、嵐山で京都盆地に流れ出た辺りの左岸一帯を指します。正確には、東は東映太秦映画村がある太秦に隣接する「嵯峨野」を冠するエリア、西は小倉山(嵯峨亀山町)のふもと、南は桂川を挟んで嵐山の対岸地域、北は愛宕山(嵯峨愛宕町)のふもとというのが、本来の範囲となるようです。現在の町名では、小倉山の西(嵯峨水尾)や愛宕山の北(嵯峨越畑)なども、「嵯峨」が付いていますが、嵯峨野の野が野原の野であれば、やはり平野部を指すのでしょう。 で、早朝の嵯峨野ですが、嵯峨野でも特に人気がある「竹林の小径」も、朝早くであれば、人通りが少なく、とても静かに散策することが出来ます。JR山陰本線京都駅の始発は5時31分です。一番電車が嵯峨嵐山駅に着くのは、5時47分。竹林の入口にある野宮神社(ののみやじんじゃ)までは徒歩10分程度なので、6時頃には竹林に到着出来ます。私が行ったのは夏だったんですが、十分に光があり、人出が多くなる時間まで、じっくり写真を撮ることも出来ました。 竹林の小径は、野宮神社と大河内山荘の間、約200メートルの道で、周辺には数万本の竹が生い茂っています。ちなみに野宮神社は、その昔、天皇の代理で伊勢神宮に仕える斎王が、伊勢へ向かう前に身を清めた「野宮」に由来しています。『源氏物語』賢木の巻には、光源氏との結婚を諦め、伊勢の斎宮に選ばれた娘の秋好中宮に同行するため野宮に籠った六条御息所を光源氏が訪ねる場面が描かれています。そんな野宮神社の本殿には、野宮大神(天照皇大神)を、またいくつかある境内社には愛宕大神、白峰弁財天、白福稲荷大明神、大山弁財天、野宮大黒天が祭られています。その一つ、本殿の左にある白峰弁財天社は、芸能上達の神様として知られています。

悲喜交々、幾多のドラマを生んだ引き揚げの街

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京都府と福井県にまたがる若狭湾。その西部に、二つの半島で覆われた舞鶴湾があります。湾内のあちこちに入江があり、天然の良港が点在します。舞鶴市は、この舞鶴湾を包むように広がる海の街です。 舞鶴は、城下町と軍港という二つの顔を持っています。 西舞鶴は、細川氏の城下町として、明るくのどかな港町の風景を見せます。細川藤孝、忠興(妻はガラシャ夫人)父子が、この地に城を築いたのが1579(天正7)年。その田辺城は、鶴が舞うような美しい姿から、別名舞鶴城とも呼ばれ、廃藩後、その名をとり、町の名前を舞鶴と改めました。 一方、東舞鶴は、海軍と共に発展した計画都市で、現在も海上自衛隊が駐屯し、軍港としての性格を残しています。明治政府の海軍大臣西郷従道は、天然の良港舞鶴に海軍鎮守府を開庁、初代司令長官に東郷平八郎中将を任じました。そして現在は「世界に開かれた海洋・文化都市」を目指した街づくりが進められています。 しかし、舞鶴と言えぱ、やはり「引き揚げ」。戦後、舞鶴は引揚港の代名詞ともなり、悲喜交々、数々のエピソードを生みました。 敗戦時、外地にいた日本人は約660万人と言われます。1945(昭和20)年9月25日、復員第一船高砂丸が、大分県別府港に到着。以後、続々と引揚船が各地の港に着きました。舞鶴は、この年10月7日に雲仙丸が入港して以来、引揚者の1割を迎え入れることになりました。 引揚援護局の壁は、消息を求める貼り紙で埋まり、ある者はあてもなく名前に聞き覚えがないか、上陸する人に聞いて回りました。また、喜びにわく人波の陰では、いまだ還らぬ夫や息子を待ちわび、船が着く度に桟橋にたたずむ女性の姿が見られるようになり、だれ言うとなく「岸壁の母」「岸壁の妻」と呼ばれ、日本中の涙を誘いました。 1946(昭和21)年の末までに、約510万人が帰国しましたが、民族独立運動が高まる地域や統一的な政治権力を持たない地域では、引き揚げも円滑には進みませんでした。特に、ソ連管理地域は悲惨を極めました。 推定57万5000人が、ソ連に抑留され、シベリアからの引揚第一船大久丸が、舞鶴に入港したのは46年11月8日のこと。が、これも1年余りで中断、領海の氷結が理由でした。GHQが砕氷船を送ること、氷結の心配のない港に船を送ることを申し入れましたが、ソ連は拒否。結局、引き揚げが再開されたのは、49年6月のことで

代々の住職が受け継ぐ一休さんの納豆 - 京田辺市

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  京田辺市の西に、平安京を定める際、都の中心軸の南の起点にされたという甘南備山(かんなびやま)があります。その麓にある酬恩庵は、とんちで有名な一休宗純が再興し、晩年を過ごしたことから、通称一休寺と呼ばれます。 一休禅師は、寺の周辺の人々に、納豆づくりと仕込みに必要なむしろの織り方を教えたと伝えられます。奈良時代に日本へ伝来した納豆は、一度途絶えた後、鎌倉時代に宋から禅僧が持ち帰り、寺などで作られるようになりました。その伝統を受け継ぐのが、一休寺納豆や京都・大徳寺の大徳寺納豆、静岡県浜松・大福寺の浜納豆で、一休寺では代々の住職が、納豆の製法を受け継いできました。 私は2013年に酬恩庵にお邪魔し、田邊宗一住職から、一休寺納豆のことを伺う機会を得ました。その時の住職のお話を、かいつまんで書き起こしておきます。 その前に、田邊住職のことを簡単にご紹介すると、田邊住職は、1949年、京都府京田辺市の生まれ。72年、花園大学文学部仏教史学科卒業。愛知県名古屋市の徳源寺専門道場で修行の後、77年に父の跡を継ぎ酬恩庵一休寺の住職となりました。著書に『一休寺』(京の古寺から)があります。 以下、田邊住職のお話を書き起こしたものです。  ◆ 当寺はもともと妙勝寺といって、鎌倉時代に大應国師が開山したのが始まりです。その後、兵火により荒廃していたところ、大應国師を慕う一休禅師が、それを憂えて再興し、師恩に報いるという意味で、「酬恩庵」と命名されました。一休禅師63歳の時で、88歳で亡くなるまで25年間、酬恩庵に住まわれ、81歳で大徳寺住職となられた時もここから通われました。 その一休禅師が、寺と、寺のある薪村に製法を伝えたのが、一休寺納豆です。 納豆と言っても、皆さんが普段食されているものとはだいぶ異なります。一般に納豆と言われるのは、大豆を納豆菌で発酵させたものを指しますが、一休寺納豆は麹菌を使って発酵させた後、乾燥・熟成させます。中国料理に使う豆鼓に似ており、粘り気もありません。 製法そのものは、奈良時代に一度、中国から伝来したと考えられています。それがいつの間にか途絶え、鎌倉時代に再び中国から禅僧が持ち帰り、その製法を基に一休さんが作ったのが始まりとされています。以来約550年、歴代の住職がそれを受け継いできました。 仕込みは毎年、土用の太陽が照りつける7月の末頃に始めます。蒸

周山街道沿いに林立する北山杉の美林

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大学2年の夏休み、第2外国語でとっていたスペイン語の単位ほしさに、教授が企画した琵琶湖のキャンプに友人と3人で参加しました。教授が授業を持っていた各大学の学生を集めた合同キャンプで、我々は「これに参加すれば『優』は確実だ」との下心を秘めての参加でした。 愛知出身の友人は、実家から直接行くというので、もう一人の友人と私は、行きは東名、帰りは中央道と、車で寄り道をしながら行くことにしました。直前になって先輩の一人が、徳島の実家へ帰る途中、京都の親類の家に寄って行きたいから乗せていけ、と言ってきたため、ついでにその先輩も乗せ、京都経由で行くことになりました。 あちこちで遊んでいたため、京都に着いたのは2日目の夕方でした。勧められるまま、先輩の親類宅で晩ご飯をご馳走になり、夜もだいぶ遅くなってから、琵琶湖のキャンプ場へ向かうことになりました。 ナビなどない時代なので、道を教えてもらうと、「簡単だよ。大原を抜けて行くといい。ただ、三千院の少し先で右に曲がらなくてはいけないんやけど、そこを間違うと日本海まで行っちゃうから気をつけるんだよ」と。 なに、大したことなかろう、と走り始めたのですが、当時の大原辺りは真っ暗闇です。お化けでも出そうな雰囲気で、ヘッドライトに浮かび上がった白い洗濯物に、二人して悲鳴をあげる始末。それでも、ガソリンの残りが乏しかったこともあり、分岐点を見逃すまいと、必死で運転をしました。 結局、無事にキャンプ場にたどり着きましたが、この時走った大原の先の分岐点(「途中」という地名だったと思います)までの道が、京と若狭を結ぶ若狭街道(国道367号)でした。 東西に長い若狭からは、古来、いくつもの道が畿内に向かって延びていました。昔、若狭の行商たちが、若狭湾でとれた鯖に一塩し、一昼夜かけて都へ運搬。京に着く頃に、ちょうどいい塩加減になり、都で珍重されたということで、これらの道は総称して鯖街道とも呼ばれます。 そんな京と若狭を結ぶ道の一つに周山街道があります。ほぼ現在の国道162号に沿っており、途中には、見事な杉の美林が見られます。磨き丸太で知られる北山杉です。川端康成は『古都』の中で、その辺りをこう書いています。 「清滝川の岸に、急な山が迫ってくる。やがて美しい杉林がながめられる。じつに真直