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民謡のある風景 - 緩やかに時が流れた旅情たたえて(神奈川県 箱根長持唄)

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車で箱根を越えると、そこが、昔「天下の瞼」と言われるほどの難所だったとは信じ難いものがあります。時代が道を変えてしまったのです。旧街道は、湯本の手前から折れて須雲川に沿って進み、二子山のふもとを回って関所へ出るようになっていました。 小田原から三島へ至るいわゆる箱根八里のうち、箱根・小田原間は4里8丁。普通、宿場と宿場の行程は2里から3里ほどでしたから、この距離はおよそ2倍ということになります。おまけに坂道が多かったから、大名行列が箱根にかかると、仲間だけでは長持や明け荷を運びきれず、雲助とよばれた人足の力に頼らざるを得ませんでした。『箱根長持唄』は、その人足たちが唄い出したものと言われ、『箱根かごかき唄』とも呼ばれていました。 2人か4人の人足が、前後で相棒となり、「ヘッチョイ、ヘッチョイ」と、掛け声で調子をとりながら荷を運び、疲れると一息入れて、杖で荷を支えながら唄いました。雲助唄とも言われたこの唄が、助郷にかり出された農民たちによって持ち帰られ、各地の長持唄に変わっていきました。箱根の人足唄は、長持唄の源流ということになります。  ♪(甲)竹にナー なりたや      ヤレ ヤレー 箱根の竹に   (乙)諸国ナー 大名の   (甲)杖の竹ナアーエ      ヘッチョイ ヘッチョイ 箱根の旧街道は、1618(元和4年)に開かれ、今に残る石畳は、1668(寛文8)年に造られたもので、明治の半ば頃まで利用されていましたが、今では新しい道に寸断されてしまっています。湿った石畳の道は、時間が緩やかに流れていた昔の旅にふさわしく、唄声もよく響いたでしょう。例年11月になると、箱根大名行列祭りでこの唄が聞かれます。昔の旅情にぴたりと合って、捨て難い味わいのある唄です。

城のある風景 - 天下に抗した町ぐるみの城

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ああでもない、こうでもない、どうすればいい、そりゃだめだと、なかなか結論が出なくて会議が長引くと、「小田原評定」などと言われます。 小田原城で評定が行われたのは、1590(天正18)年のことで、その年の3月、豊臣秀吉は、なんと21万の大軍で小田原攻略に向かいました。天下の大軍と争うことになって、城内では出撃か、籠城か、さてどうするかと軍議を尽くしましたが、結論が出ません。 ところが、3月末に小田原城下にやって来た秀吉軍は、力攻めに攻め取るのを止め、長期包囲作戦に出ました。 秀吉軍が、大軍で押し寄せたのは、この城が、どんなに攻めにくいか、よく知られていたからかもしれません。小田原城は、15世紀に、北条早雲が攻め取ったもので、3代目の氏康が二の丸の構えを造り、上杉謙信、武田信玄も、この構えを突き破ることが出来ませんでした。氏康は、更に三の丸を築造して構えを堅固にし、氏政の代になると、周囲10kmの大外郭で町を囲んでしまいました。町が城となり、城が町でした。こんな城はどこにもありません。 秀吉は先刻承知で、速攻は初めから考えていなかったでしょうし、大軍で出向いたのはデモンストレーションでもあったでしょう。20万石もの米を用意して町を包囲し、海上にも軍艦を配置して、北条側の輸送路を断ちました。後は、時間つぶしに酒宴や茶会。しかも周囲の支城はしっかり攻め取っていました。 しかし、小田原側も負けてはいません。食糧はたっぷり用意していましたから、こちらも酒宴で気を紛らわし、祭礼や市もいつもと変わらず行われるという有り様でした。 こうしておよそ100日、両軍の根比べが続きましたが、しょせん小田原は孤立無援、内通する者も出て来て、さすがの巨城も膝を屈しました。 巨大な城は、徳川氏の時代に壊され、本格的な天守閣も、明治に入って解体されてしまいました。今あるのは、戦後に再建されたもので、内部は博物館を兼ねています。

幕末の黒船来航をきっかけに築かれた横浜中華街

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横浜が歴史の舞台に登場するのは、幕末の黒船がきっかけです。開国を迫られた幕府は、アメリカやイギリスなど5カ国と条約を結び、横浜、長崎、函館を開きました。 当時の横浜は80軒ほどの漁師小屋が建ち並ぶ寒村で、当初アメリカは、東海道の宿駅であった神奈川宿に近い神奈川湊の開港を求めていました。しかし、幕府は外国人と住民が接触するのを防ぐため、神奈川湊を避けて、東海道から外れた横浜に港を新設し、外国人居留地も整備しました。 この時、外国人たちは、筆談によって日本人との通訳が出来る中国人を伴ってきました。また横浜と上海、香港間に定期航路が開かれると、大勢の華僑が来日。彼らは居留地の一角に関帝廟、中華会館、中華学校などを建設し、中華街を築きました。 当初は日用品や衣料品、食品を扱う店が多かったようですが、やがて中国人の職業は三把刀(料理、洋裁、理髪)という刃物を使う仕事に制限され、中華料理店が増えることになりました。 その後、1972年の日中国交回復後、中華街は観光地として発展します。更に2004年に横浜高速鉄道が開業し、元町・中華街駅が設置されると、アクセスと知名度が大幅に向上。現在は食の一大観光地として、年間2000万人以上が訪れています。 横浜中華街と呼ばれるのは、風水に基づいて置かれた、東西南北四つの門を結ぶ400m四方のエリアです。ここに200件近い料理店が軒を連ね、世界有数の規模を誇る中華街となっています。 店の約7割が広東料理で、味付けは比較的あっさりしているのが特徴です。他にも、辛みと酸味の効いた四川料理、濃厚な味付けの上海料理、北京ダックなどで知られる北京料理、海に囲まれた地理的特徴から海産物が多く使われる台湾料理など、この街に来ればありとあらゆる中国料理を食すことが出来ます。 そんな横浜中華街の人たちが、心のより所としているのが関帝廟です。開港3年後の1862年に建てられた小さな祠が始まりとされ、主神は三国志の英雄として有名な実在の武将関羽。旧暦の6月24日(今年2021年は8月2日)には関羽の生誕日を祝い、中華街を代表する伝統行事「関帝誕」が開かれます。 横浜中華街には、この関帝廟と同様、実在したとされる人物を祭った媽祖(まそ)廟があります。媽祖はおよそ1000年前の北栄時代、福建省で生まれ、備わった神通力によって人々を救ったという伝説が残る女性だそうです。

首都圏から近い温泉場・湯河原そぞろ歩き

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「手湯」がある湯河原駅 湯河原までは、東京駅から東海道本線の快速で約1時間半。新幹線で熱海まで行って、1駅戻るという手もあり、これなら1時間もかかりません。周辺の箱根や熱海に比べると知名度はだいぶ低いと言わざるを得ないのですが、首都圏から気軽に利用出来る日帰り温泉として、関東では、人気の観光地になっています。 湯河原の地名は、河床から温泉が自然湧出していたことに由来します。温泉場としての歴史は古く、万葉集にも詠まれているほどです。 「足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに」 この歌は、万葉集の中で唯一、温泉を詠んだもので、その歴史にちなんで、湯河原温泉の中心部には万葉公園があります。園内には、万葉集に登場する草花が植えられ、「日本の歴史公園100選」にも認定されています。 万葉公園の中には、「独歩の湯」という足湯があります。湯河原を愛した国木田独歩にちなんで名付けられた足湯ですが、湯河原には独歩の他にも、夏目漱石や芥川龍之介、島崎藤村など、日本を代表する文豪が静養に訪れていました。 温泉と言えば、夕食後のそぞろ歩きも楽しみの一つですが、最近は、宿泊客はいるのに温泉街が衰退しているという所が多く見られます。これは、宿が大型化し、館内での飲食や娯楽、土産物を扱う売店などの充実に力を入れ、宿泊客を外出させずに宿の利益を大きくする、いわゆる「囲い込み」をするようになったためです。結果、温泉と土地との結びつきが薄れ、やがて温泉街自体を衰退させ、それが宿にも跳ね返ってくることになりました。 ご多分にもれず湯河原も、かつての面影はなく、老舗旅館も廃業してしまうような状況にありました。そんな中、廃業した旅館の再生プロジェクトが見られるようになり、2019年には江戸後期に温泉宿を営んでいたという老舗旅館「富士屋旅館」が17年ぶりに復活。現在は、2016年に廃業した若草荘のリニューアルプロジェクトが進行中で、今年2月にはFacebookを通じて、若草荘大掃除イベントの参加者を募集するなど、面白い取り組みが始まっています。 ふじむね遊技場 そうした状況にあっても、湯河原の取材では、出来れば温泉街の雰囲気も入れたいと、歩いて街の中を巡ってみました。すると、温泉場には今も3軒の射的場が残っていることが分かりました。そのうちの1軒で撮影をしていると、レトロな雰囲気を