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全国的にも珍しい温泉付き駅舎・ほっとゆだ駅

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横手のかまくらを取材した後、JR北上線で西和賀町を訪問した話を以前の記事( 岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬 )に書きました。その際、下車したのが、「ほっとゆだ」駅でした。  ◆ ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。  ◆ ほっとゆだ駅については、こんな記述でしたが、駅は元々1922(大正11)年に、横手を起点とする国鉄西横黒線(にしおうこくせん)の終点・陸中川尻駅として開業しました。西横黒線はその後、24(大正13)年に陸中川尻まで延伸した東横黒線に編入され、横黒線に線名を変更。岩手県の黒沢尻駅から秋田県の横手駅を結ぶ路線として開業しますが、54(昭和29)年に黒沢尻町が周辺の6村と合併して北上市になったのを機に、黒沢尻駅を北上駅に改名し、66(昭和41)年には線名も北上線に変更されました。 国鉄民営化後、陸中川尻駅は、旧湯田町が費用の3分の2を負担して、木造2階建ての新駅舎を建てました。また、湯田温泉峡を持つ町のPRと活性化も兼ねて温泉を掘り、89(平成元)年4月1日、温泉付き駅舎のほっとゆだ駅として運用を開始しました。 温泉施設ほっとゆだの入浴料は大人440円、子ども260円で、1600円で利用出来る貸切風呂もあります。私は、錦秋湖の雪景色を撮影した後、列車の待ち時間を利用して「ほっとゆだ」で冷えた身体を温めましたが、中にはわざわざ途中下車をして温泉に入る好き者もいるようです。 まあ確かに、鉄道好き、温泉好き、どちらにとっても、行ってみたいスポットではあるでしょうね。それに私のような、鉄道、温泉にこだわりのない単なるミーハーも、近くに行ったら、寄ってみたくなること請け合いです。 ちなみに、ほ

遮光器土偶をかたどった木造駅の巨大オブジェ

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この3月1日から東京国立博物館で、「縄文時代の祈りの道具・土偶」が展示されています。縄文時代の祈りの道具の代表「土偶」を取り上げたもので、9月4日まで、約半年にわたって平成館考古展示室に展示されます。 展示品は、東北や関東で出土した土偶など17件で、重要文化財4件、重要美術品2件が含まれます。中でも青森県つがる市木造亀ケ岡遺跡から出土したものが多く、しかもそのうちの遮光器土偶と土面は重文、猪形土製品が重美となっています。 そのつがる市木造に友人がおり、だいぶ前に訪問させてもらったことがあります。北海道函館での取材後、青森にも仕事があり、その時、友人が迎えに来てくれ、つがる市の友人の所にお邪魔しました。 友人は、車で迎えに来てくれたんですが、自宅から800mほどの所にある駅へわざわざ連れて行ってくれました。鉄道マニアでもないので、なんで?と思ったのですが、駅前に着いて理由が分かりました。 写真の通り、駅舎の前面に、遮光器土偶の巨大オブジェが張り出していたのです。 なんでも1987(昭和62)年の国鉄分割民営化で木造駅の無人化が決まる中、なんとか駅を中心とした活性化策をと、ふるさと創生事業の1億円を活用して駅舎を改築したそうです。デザインに遮光器土偶を選んだのは、亀ケ岡遺跡のPRも兼ねていましたが、この巨大オブジェを付けたこともあって、費用は2倍強の2億1200万円がかかったとのこと。 しかし、これだけの駅なので、「一度は訪れたいちょっとすごい駅」とか珍スポット、面白駅など、当然注目を集めています。 ただ、駅に列車が入って来る3分前から3分間、目が赤く光ったりして、当初は子どもたちを中心に、周辺住民から「怖い」と恐れられていたようです。3分間光らせるというのは、ウルトラマンのカラータイマーみたいな発想だったんですかね。それはともかく、実際に住民からのクレームもあり、その後は観光客などから要望があった時のみ、手動で光らせるようになりました。 しかし、時間の経過と共に、巨大オブジェはだんだんと町に浸透。愛着さえ湧いてきて、今では町のシンボルとなり、「シャコちゃん」の愛称で呼ばれています。そして誕生から30年近くが経過した2020年4月、駅舎の補修工事と共に、シャコちゃんの目もLEDライトに転換。併せて、以前の赤1色から、7色に変化するレインボー・シャコちゃんに生まれ変わり、

住民主体の「おもてなし」行事・真壁のひなまつり

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桜川市の南東に連なる筑波山・足尾山・加波山は「常陸三山」と呼ばれ、古くから茨城の山岳信仰の中心地として知られていました。筑波山は、日本百名山の一つに数えられ、江戸時代には「西の富士、東の筑波」と言われ、富士山と並び称されました。足尾山の山頂には足の病を取り除き、足を丈夫にするという足尾神社があり、多くの履物やギプスなどが奉納されています。修験道の山として知られる加波山では、今も山伏の修行である禅定が行われます。また加波山は、明治時代に起きた反政府運動「加波山事件」の舞台でもあります。 この常陸三山では良質な花崗岩を産出し、そのふもとにある桜川市真壁町は、昔から石材の産地として名を馳せてきました。また採石だけではなく、石の加工も行われ、真壁で造られる「真壁石燈籠」は、国の伝統的工芸品に指定されています。 真壁は、戦国時代に真壁氏が城を築き、今につながる町割りが形成されました。その後、豊臣政権五奉行の筆頭で、関ケ原の戦いでは家康を支持した浅野長政が、隠居料として真壁に5万石を与えられ、真壁藩初代藩主となって城下町を完成させました。枡形と呼ばれる城下町特有の町割りは、今も当時の面影を伝え、国の伝統的建造物群保存地区に指定されているエリアでは、約100棟が国の登録有形文化財になっています。 2003(平成15)年、伝統的建造物群保存地区の真壁地区で、自宅や店にひな人形を飾る活動が始まりました。最初は数人の有志が、真壁に来た人を何とかもてなしたいと企画したものでしたが、それを見ていた町の人たちが、自主的にひな人形を飾り始めました。初の試みにもかかわらず、数人で始めたものが、3月3日のひな祭りの頃には約40軒になっていたといいます。 そして2年目以降、ひな人形を飾る家や店舗は次々と増え、今では約180軒が、それぞれのおひな様を飾るようになり、観光客も年々増えて10万人に及ぶ規模になりました。更には、「真壁のひなまつり」の盛況ぶりが周辺にも広がり、最近は県内あちこちで同様の企画が開催されるようになっています。 こうして、今や茨城を代表する春の風物詩に成長した「真壁のひなまつり」ですが、そもそもは「真壁に来る人をもてなしたい」という住民の思いから始まったものです。そのため、多くの住民が外から来た人に声掛けし、真壁の歴史や町のことを話してくれます。そんな「おもてなし」の心こそが、「真

三次浅野藩と赤穂浪士の絆求めて

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三次市は、三つの川が合流して、中国地方第一の大河・江の川となる辺りに開けた地域で、古くから交通の要衝として知られていました。今も山陰・山陽を結ぶ交通の要で、広い商圏を抱えていますが、特に江戸時代は、鉄の産地出雲につながる出雲往来などのポイントとして、重要視されました。 この辺り一帯は、秋から春にかけて、川が運ぶ冷気の影響で、濃い霧が時々発生します。夜半から朝まで漂う「霧の海」は、観光の呼びものの一つになっていますが、昔は往来を妨げ、山道の通行を難儀なものにしました。このため、江戸時代、出雲への道は、東海道並みの道幅に広げられ、一里塚も置かれたといいます。 三次市は、江戸時代、広島・浅野藩の支藩である三次藩の城下町として栄え、四十七士の討ち入りで知られる元禄赤穂事件とも深い関わりがあります。 三次の地は、もともと三吉氏が代々領地としていたもので、16世紀末に、今の尾関山公園の北方にそびえる比熊山一帯に山城が築かれました。その後、この城は廃城となり、関ケ原の戦いの後、安芸国に入封した福島正則が、重臣・尾関正勝にこの地を治めさせ、尾関氏は江の川を見下ろす尾関山に館を構えました。そして、1619(元和5)年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が安芸に入封しました。 今から390年前の1632(寛永9)年、長晟が没し、嫡男光晟が家督を継ぎます。しかし、当時、光晟が17歳という若さだったこともあって、幕府は、光晟の庶兄に当たる浅野長治に5万石を分与する処置をとらせて、本藩を手助けさせることにしました。こうして三次藩が成立し、長治は、三次の町全体を一つの曲輪(郭)に見立て、4代にわたってこの地を治めました。 元禄赤穂事件でおなじみの浅野内匠頭長矩の正室阿久利姫(揺泉院)は、この三次藩初代藩主浅野長治の次女にあたります。二つの浅野家は、長矩の高祖父にあたる長政から分かれたもので、同族ということになります。 二人の縁組は、長矩が10歳、阿久利が7歳の時に幕府から許可され、長矩17歳、阿久利14歳の時に結婚。この時、赤穂藩からは、家老の大石内蔵助が迎えに来ました。大石、時に24歳。まさかに、19年後、主君の仇討ちということになるなど、思いようもありません。大石は、長治の建てた鳳源寺に詣で、境内にシダレザクラを植えました。今に残るこの桜は、両家の繁栄を願ってのものだったでしょう。 阿久利は、

白壁土蔵の街に春の訪れを告げる流しびな

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倉吉市は鳥取県中部、市のほぼ中央に打吹山があり、その少し北に玉川という水路が通っています。玉川沿い(通称川端)には、昔ながらの土蔵や商家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたレトロな町並みが形成されています。これらは江戸時代から昭和初期に建てられたものがほとんどで、赤い石州瓦で葺かれた屋根が、家並みに統一感を与えています。 倉吉は、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった交通の結節点にあり、古くから栄えてきました。更に江戸時代には、倉吉せんばと呼ばれる脱穀具で一世を風靡しました。冬の間にせんばを作り、春には日本中に出荷していました。せんばの行商に出掛けた商人はまた、各地の文化を身に付けて倉吉に戻ってきました。その代表格である倉吉絣は、薩摩や久留米を行商した人たちが持ち帰ったと言われ、すぐにせんばと並ぶ主産業となりました。そしてせんばと絣で潤った町には、米問屋や鉄問屋、木綿問屋、醸造業などが蔵を並べ、裏手には水路が造られ、舟が絶えず往来するようになりました。 裏通りのため、人通りがまばらなことも手伝い、昔町にタイムスリップしたような感覚に陥ります。また、玉川をまたいで、各土蔵の木戸口に向かってゆるやかな反りを持つ一枚石の石橋が架けられています。赤い瓦の白壁土蔵群と運河、そして石橋の連続が、非常に美しい家並みを形成しています。 この川端で毎年4月、子どもたちによる流しびなが行われます。1985年に倉吉打吹ライオンズクラブが始めてから、今年で36回目を迎え、「くらよし打吹流しびな」の名で今や倉吉を代表する春の風物詩となっています。 流しびなは巳の日の祓いとして、草や紙で「ひとがた」を作り、災いを払うために川や海に流した行事が源と言われます。やがて3月3日の上巳(本来は3月上旬の巳の日だったらしい)に、子どもたちの健康を願って人形を流す風習へと変遷しました。今でも奈良県五條市や兵庫県たつの市、京都・下鴨神社などで、伝統的な流しびなが行われており、中でも鳥取市用瀬町の流しびなは全国的にも知られています。 もちろん「くらよし打吹流しびな」も、子どもたちの健やかな成長を願ってのイベントなのですが、そもそもの発想は玉川の浄化運動から生まれました。水路としての役目を終えた玉川は、生活排水などで汚れ、70年代から80年代にかけては、誰も見向きもしない川となっていました。

観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

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  出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。 最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。 そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。 で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。 私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。 しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。 そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。 潮目が変わったのは1968(

北陸新幹線開業をきっかけに始まった「くろワン・プロジェクト」

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北陸新幹線は、東京から埼玉、群馬、長野、新潟を経て、富山、石川をつなぎます。北陸新幹線の構想は、東海道新幹線開業の翌年、1965年に金沢市で開催された地方公聴会で発表されたそうです。構想自体は、かなり以前からあったのですが、実際に開業したのは、それから50年後の2015年になってからでした。 昨日の記事( 糸魚川駅北大火からの復興 )で書いた糸魚川も、その停車駅の一つですが、東京から金沢方面へ向かう下りの新幹線では、次が今日の記事、黒部市(黒部宇奈月温泉駅)となります。黒部宇奈月温泉駅は当初、82年に北陸新幹線富山県東部駅を黒部市の舌山付近に建設する計画が発表され、93年になって現在地に「新黒部駅(仮称)」を設置することが決定。そして13年にJR西日本から、駅名を「黒部宇奈月温泉駅」とすることが正式に発表されました。 その一方、黒部市では、駅の建物を始め新駅周辺の整備構想について、市民からの提言を得るなどの施策を展開しました。駅名候補の選定や駅周辺の整備に関して、提言の取りまとめを依頼されたのは、97年に誕生した「黒部まちづくり協議会」でした。その協議会で、新幹線市民ワークショップの2代目リーダーを務めた菅野寛二さんに、お話を伺ったことがあります。 ワークショップでは、駅舎を全て木で作ろうとかガラス張りにしようとか、それこそさまざまな意見が出たそうです。その中で、無料の駐車場を設けること(500台)や、ロータリーには一般車は入れずバスやタクシーのみ乗り入れが出来るようにするなどの提言は、そのまま生かされました。ただ、議論の中で、最も大きな課題とされたのが、二次交通の整備でした。 新幹線駅が開業しても、その先のアクセスが無ければ、乗降客の利便性が悪く、当然ながら利用客も少なくなるだろうとの考えでした。そこで目を付けたのが、新駅が開業する付近を通る富山地方鉄道(地鉄)でした。これを受け、地鉄では新幹線の新駅から500mほどの所にある舌山駅を廃止し、新幹線駅の前に新駅を作る構想を打ち出しました。しかし、通学など普段から駅を使う地元の人たちから、舌山駅存続の要望があり、舌山駅も存続しながら新駅を設けることになりました。 こうして、最初は新幹線絡みの話として始まったワークショップでしたが、活動の中で地元の生活に密着した鉄道としての役割を再認識し、そこにスポットを当てる動きが副

江戸時代から伝わる郷土玩具鯛車で地域活性化を図る

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新潟市西蒲区巻地区に、「鯛の蔵」と呼ばれる建物があります。これは、郷土玩具「鯛車」の伝承を目的とした施設で、大小さまざまな鯛車が展示されている他、市民を対象にした鯛車の製作教室も開催されています。 鯛車というのは、張り子や木、紙などで作られた鯛の形の玩具に車を付けたものです。疱瘡(天然痘)除けの玩具の一つで、新潟や埼玉、滋賀、鹿児島など各地に見られます。 医学の発達していない江戸時代、疱瘡は命にも関わる病で、疱瘡を擬神化した疱瘡神は悪神として恐れられました。そして、この疱瘡神は犬や赤色を苦手とすると考えられ、子どもたちに「赤物」と呼ばれる疱瘡除けの赤い人形や玩具などを与える風習がありました。 巻の鯛車は、竹と和紙で作られ、ウロコはロウで描かれています。お盆になると、浴衣を着た子どもたちが、鯛車を引いて家の周りや町内を歩く姿が見られました。しかし、それも昭和の中頃までで、いつしかお盆の風物詩・鯛車は巻から姿を消してしまいました。 鯛車が消えた原因は、作り手の不在でした。かつては、籠屋や提灯屋などが副業として作っていましたが、時代の変遷と共に、そうした手仕事をする人がいなくなり、それに伴って鯛車も消えてしまいました。そこで2004(平成16)年、市民有志による「鯛車復活プロジェクト」が立ち上がり、鯛車の製作教室が開かれるようになりました。 「鯛の蔵」はその拠点で、巻文化会館の文書蔵だったものを改装し、11(平成23)年にオープンしました。「鯛の蔵」の向かいに事務局を構える巻ライオンズクラブも、この活動に共鳴し、蔵の前に芝を敷き、ドウダンツツジ20本を植栽するなど、会員たちが力を合わせて造園工事を実施。「鯛の庭」と命名し、石碑も設置しました。これらの動きに呼応して、地元商店街も「まき鯛車商店街」と改名、鯛車を商店街のシンボルとして活用するようになりました。 そしてこの年、「鯛車復活プロジェクト」は、日本の伝統文化の振興と地域社会の活性化に貢献したとして、第4回ティファニー財団賞「伝統文化振興賞」を受賞。現在、お盆に行う「鯛の盆」や、古い町並みとコラボする「鯛の宵」など、さまざまなイベントを行い、古き良き伝統を継承していこうとしています。

住民たちが丹精込めて作った流山の「あじさい通り」

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以前の記事( 二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街 )に書いた、松戸市の本土寺へ行った際、近くに住む友人の高橋昌男さんが、寺まで案内してくれました。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。で、ひとしきり、境内でアジサイなどを撮影した後、帰り際に高橋さんが、隣の流山に、「あじさい通り」というのがあって、本土寺とはまた違った趣があるから寄ってみたら、とアクセス方法を教えてくれました。 我が家とは逆方向でしたが、本土寺から1kmほどで、近くには「東部あじさい苑」という群生地もあるというので、行ってみることにしました。まず目指したのは、「東部あじさい苑」でした。国道6号から少し入った辺りで、道路を挟んだ向かいには、流山市東部公民館があるので、かなり分かりやすい場所でした。 ここは、小さな丘の斜面に約100mにわたって、アジサイが植えられていました。斜面には、階段も2箇所作られていて、下から眺めるだけではなく、近くで花を観賞することが出来ます。 斜面側には、建物などはなく、アジサイの奥や両側は、杉などの木々で覆われています。恐らく、杉林だった所を「あじさい苑」にしたのでしょうね。以前、群馬県の赤城山麓で、自生するアジサイを撮ったことがありますが、雰囲気がそこに似ていて、風景写真としても、いい感じの撮影スポットになっていました。 「あじさい通り」は、「東部あじさい苑」のあるバス通りから、2本入った住宅地の中にあります。距離にして400〜500m、歩いて5、6分です。 「あじさい通り」と「東部あじさい苑」は、南柏本州団地自治会の有志が、1992(平成4)年に植え始めたのが発端です。「あじさい通り」と呼ばれ、32種類ものアジサイで覆われる斜面は、以前は竹林だったそうです。それを、通り沿いの有志が、土地の所有者の承諾を得て、竹林の傾斜地を開墾。景観作りのために、アジサイを植栽したのが始まりです。 その後、植栽の範囲を広げ、「あじさい通り」に加えて、「東部あじさい苑」も作り、いつしか噂が噂を呼び、アジサイの群生地として知られるようになってきました。当初は、自治会の会員だけで、植栽や除草、剪定などを行っていましたが、千葉県立特別支援学校流山高等学園からの申し出により、同学園の生徒たちも、作業に参加するようにな

夏冬2度訪ねた「太陽を味方につけた町」北竜

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最初に北竜町を訪ねたのは、夏、ヒマワリ真っ盛りの時期でした。道内の子どもたち約80人が、オホーツク側のサロマ湖から日本海側へ向けて、道内を横断しながらリーダーシップ・キャンプをするというプログラムに同行した時でした。北竜には、その途次に立ち寄り、子どもたちは、「ひまわり迷路」で楽しい時間を過ごしていました。 次に北竜を訪問したのは、厳寒の1月中旬でした。前日に日本海で発生した低気圧が、急速に発達しながら北海道に接近。更にこの低気圧が数年に一度レベルの寒気を呼び込み、北日本は大荒れの天気が予想される時期でした。実際、北竜町では訪問した日の午前中、5時間で25cmの積雪があったそうです。 取材の打ち合わせで連絡を取っていた中島則明さんから、前日に電話があり、北海道は翌日午後から爆弾低気圧の影響で冬の嵐になる可能性があり、最悪の場合、取材予定の活動が延期になることもあり得る、との話でした。心配しながら新千歳空港へ降り立ちましたが、雪は全く降っておらず、所々、青空も見えていました。ただ、空港から北竜町までは距離にして約120km。まだ安心出来ません。 新千歳空港からはエアポートライナーで札幌まで行き、ここで函館本線の特急に乗り換えて滝川へ。乗車時間は合わせて約90分。滝川から北竜まではバスです。札幌‐留萌間を走る高速バスに乗ると、滝川駅前から北竜役場前までは約25分。途中、所々雪が舞う箇所もありましたが、北竜町は「太陽を味方につけた町」のキャッチコピー通り、青空の下、太陽が顔をのぞかせていました。 役場前で、北竜町議会副議長の山本剛嗣さんと、中島さんと合流後、すぐに現場へ向かいます。この日の活動は、高齢者宅の除雪作業でした。この日は14人のボランティアが、それぞれスコップ持参で参加。3班に分かれ、3軒のお宅で雪はね(雪かき)奉仕を行いました。 北竜町の冬は雪が多く、年に何度かは雪はねが必須。道路に面した玄関前などはショベルカーを使うことも出来ますが、家の裏側は人の手でやるしかありません。しかし、高齢者宅では手が足りず、こうして時々、雪はねボランティアを実施、とても喜ばれています。 元気な人が高齢者をサポート。皆で力を合わせて厳しい冬を乗り切るのが、北竜町流だと皆さん口をそろえています。この時は、そんな町民性、地域性が、取材目的の一つでした。 この後、活動の打ち上げを兼ね、焼

世界的な文化遺産ウォッチ・リストに認定された岩松の町並み

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ワールド・モニュメント財団(WMF)が認定する、存続が危ぶまれる歴史遺産「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」2020年版の中に、宇和島市にある岩松地区の町並みが入りました。WMFは、世界の歴史的建築物や文化遺産の保護に取り組む財団で、今回のリストには、2019年4月に大火災が発生したフランス・パリのノートルダム大聖堂、新たな空港建設計画で危機に瀕しているペルー南部、マチュピチュの近郊にあるウルバンバの谷、行政上の問題で適切に管理されていないチリ領イースター島の彫刻や岩絵などが含まれています。 「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」は、隔年で発表されており、2020年版は世界21カ国から25カ所が認定され、日本からも2カ所が入っています。その2カ所は、岩松地区と東京都北区滝野川の稲荷湯でした。稲荷湯は、昔ながらの銭湯で、映画『テルマエ・ロマエ』の撮影地としても知られますが、「銭湯の人気低下が、影響を与えている」としています。一方の岩松地区については、少し長くなりますが、報道発表を転載します。 「岩松歴史的町並みは、四国の西側で瀬戸内海の南西部に広がる宇和海のリアス式海岸地帯の湾口部にあたる岩松(愛媛県宇和島市津島町)に所在します。16世紀後半にできた農村集落から始まり17世紀(江戸時代)から酒、醤油などの醸造業を中心に、岩松川の川港を基盤にして栄えました。川沿いに形成された町並みで、往時の有力商家の屋敷構えは今でもその建築的特徴を良く残すなど、岩松の歴史を今日まで伝えており、海岸線が入りこんだ愛媛県南予地方でも、その規模は大きく、保存状態も良いとされています。最近では空家、空き地、改築などにより、その景観が失われることが危倶され、歴史的建物再活用による地域活性化を図りながら町並み保存を地域社会の総意として進める取り組みがされており、今回の『文化遺産ウォッチ』選定にあたっては、歴史的文化的建築的価値とともに、保存活動の計画性や長期にわたる行政も交えた地域社会の関わりの在り方などが評価されました。」 岩松は、この報道発表にあるように、藩政時代から、岩松川河口の港町として、山からは木炭、海からは鮮魚などが運ばれ、山と海の産物の交易により栄えてきました。戦後最初の新聞連載小説となった、獅子文六の『てんやわんや』は、終戦直後、文六が妻の実家がある、この岩松に疎開し