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民謡のある風景 - マスコミに乗った筑前の誇り(福岡県 黒田節)

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JR博多駅頭、いやでも目に入るのが、大盃と槍を抱えた黒田武士像。その地が、あの有名な『黒田節』の古里であることを強調してやまぬかのようです。  ♪酒は飲め飲め 飲むならば   日の本一の この槍を   飲みとるほどに 飲むならば   これぞ まことの 黒田武士 節は、稚楽『越天楽(平調)』の曲詞からとり、詞は七五調4句で、「今様」という昔の流行唄(はやりうた)形式。だから、これは民謡ではないという説もあるくらいで、『黒田節』も、元は『筑前今様』と言っていました。 『越天楽』の曲調で七五調4句を唄うという武士は、江戸の頃、各藩にいたそうで、かなり流行しましたが、黒田藩では、他藩の「今様」と区別するために「筑前」という地名を冠に付けました。なにしろ誇り高い黒田武士です。「おれの所は違う」と、つっぱったのです。 有名な「酒は飲め飲め・・・」は、黒田25騎の一人母里太兵衛にちなむもので、福島正則との間で名槍日本号を賭け、見事に大盃を飲み干したという故事によります。『筑前今様』が『黒田節』と名を変えたのは、昭和に入ってからのことで、1928(昭和3)年、NHKのラジオ基幹局ネットワークが完成。その年、『筑前今様』が電波に乗りました。この後、担当プロデューサーが『黒田節』のタイトルで再三にわたって放送、それが爆発的流行の緒となりました。マス・メディアが広めた唄の典型といっていいでしょう。 赤坂小梅がレコード化したのは1943(昭和18)年。これで、唄がぐんと民謡風な趣になりました。もっとも、そのため「今様」風な味わいは薄くなり、唄が俗化したと嘆く人も出たりしました。とはいえ、酒席でよく唄われてきたところに、この唄の特徴があり、それがまた酒徳を称えた代表的歌詞にもよく似合います。冥界の黒田武士も、かえってそれを喜んでいるかもしれません。

福岡で知らない人はいない150年の老舗「吉塚うなぎ屋」

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福岡市で行われたとある会議の終了後、一緒に出席していた熊本の知人TTさんと博多駅まで歩き、別れ際に、「時間があったら案内したいうなぎ屋があったんだけど」と言われました。焼き方は関西風なので、東京で食べているうなぎとは違うと思うが、とてもおいしいので、ぜひ食べてもらいたかった、と。 おいしい食べ物を逃した経験は、結構、記憶に残るようで、高鍋の天然カキの場合は、13年もの間、待ち焦がれていたほどです( 苦節13年、豊かな森と日向灘の荒波が育てる高鍋の天然かき )。なので、この時の会話も、私の脳裏に刻まれ、福岡に行く度に思い出すことになりました。 そしてついに、それが実現する日がきました。以前のブログ( レトロエリアやベイエリア、いろいろな顔を持つ福岡 )にも書いた、ある国際会議を取材した時のことです。しかも、会議の参加者には友人もたくさんおり、彼らと一緒に、その店「吉塚うなぎ屋」を訪問しました。 「吉塚うなぎ屋」は、福岡の人で知らない人はいないと言われるほどの店だそうです。創業は、昨日のブログに書いた「つきじ宮川本廛」( 創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」 )より、20年古い1873(明治6)年。今は中洲にありますが、創業地は博多駅の北にある吉塚だったので、「吉塚うなぎ屋」を名乗りました。 熊本のTTさんが、関東のうなぎとは違うというので、関西風なのかと思いきや、そこに店独自の焼き方によって、表面はカリっとしつつ、ふっくらとした蒲焼きに仕上がっています。焼きの際、「吉塚」独自の「こなし」という技を加えているからだそうです。 うなぎの蒲焼きは、関東と関西で、開き方と焼き方に違いがあるとされます。開き方は、関東が背開き、関西が腹開きになります。関東は武家文化で、腹開きは切腹をイメージするので敬遠された、関西は商人文化で、腹を割って話をするので腹開きが好まれた、などと言われます。また、焼き方は、関東が蒸し焼き、関西が直火焼きです。更には、焼く時の串も関東は竹串ですが、関西は金串を使うようです。知らんけど・・・。 しかし、切腹だとか、腹を割って話すとか、うなぎのさばき方に、いちいちそんなことを考えたとも思えず、単なるこじつけなんじゃないですかね。実のところ、あらかじめ蒸しておくことで焼き時間を短くしたり、蒸すためには身が崩れにくい背開きの方がいいとか、単に作業効率の問

世界有数の大会に成長した飯塚国際車いすテニス大会

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以前、一般社団法人日本車いすテニス協会の前田恵理会長に、参加した選手たちから、「最も人情の厚い大会」と呼ばれる飯塚国際車いすテニス大会について、話を伺ったことがあります。 飯塚国際車いすテニス大会(通称ジャパンオープン)は1985年に第1回大会が開催され、2019年で35回を数えました(2020、2021年は新型コロナウイルス感染拡大に伴い中止)。大会当初は障害者の社会復帰や車いすテニス・プレーヤーの交流といったことが目的でした。しかし、回を重ねるごとに大会への認知度が高まり、世界から一流プレーヤーが参加するようになって、2004年には世界四大大会に次ぐアジアで唯一のスーパーシリーズに昇格。更に18年からは、車いすバスケットボール、車いす駅伝競走と共に、障害者スポーツとしては初めて天皇杯・皇后杯が下賜されるようになりました。 競技としての車いすテニスは、76年にアメリカのカリフォルニアで始まり、日本には82年に紹介されました。その翌年、飯塚市にある「総合せき損センター(独立行政法人労働者健康安全機構)」で、脊髄損傷者のリハビリの一つとして車いすテニスが導入されました。飯塚はかつて炭坑で栄えた街ですが、その頃は炭坑災害などで脊髄を損傷した人が多く暮らしており、せき損センターが飯塚に設けられたのもそうした背景があったようです。 車いすテニスは当初、せき損センターの体育館で行っていましたが、やがて本格的なコートで練習してみたいとなって、飯塚ローンテニスクラブに打診がありました。このテニスクラブは青少年育成のため、飯塚ロータリークラブの会員13人が出資して設立したものでした。当時はまだ、障害者スポーツが一般的ではない時代でしたが、テニスクラブは二つ返事で依頼を受諾、クラブのコートを車いすテニスの練習に開放しました。更に翌年には九州車いすテニスクラブも発足し、山口や佐賀、熊本など他県からも車いすの方たちが練習に来られるようになりました。 その後、車いすテニスクラブから、大会を開催したいという相談があり、出資者たちが所属するロータリークラブの活動として大会を開催することが決まりました。しかも、海外では車いすテニスが盛んなことから、どうせなら海外選手を招待しようという話に発展。こうして海外から14選手、国内64選手、合計78選手が参加して、第1回大会が開催されました。 大会後、選

北原白秋の古里「水郷柳川」をどんこ船で下る

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「水郷柳川」として知られる柳川市は、福岡県南部、九州一の大河・筑後川が、有明海へ流れ込む河口に開けた町です。有名な有明海の干潟は、筑後川によって運ばれてきた大量の土砂や阿蘇の火山灰など、微細な土によって形成されました。現在でも、筑後川河口付近では、1年間に約10mの割合で、干潟が成長していると言われています。  こうした自然の営みに、柳川の人たちはうまく調和し、干潟に掘割を切って排水を促し、掘った土を盛って陸地化してきました。しかも堀割は、干拓事業のための水路として、灌瀧用水路として利用するだけではなく、立花氏12万石の城下町として、城を防御する城堀の役割を果たしていました。 柳川には、中心部の2km四方だけで、60kmもの水路が張り巡らされています。柳川市全体で見ると、水路の総延長は930kmにもなるそうで、柳川の水路面積は、道路面積をしのいでいるといいます。まさに「水郷柳川」と呼ぷにふさわしい状態です。 柳川を「水郷」と呼んだのは、北原白秋でした。白秋(本名隆吉)は、1885(明治18)年、沖端村(現・柳川市沖端町)の造酒屋・北原家の長男として生まれました。白秋が生まれた明治時代には、掘割は城を守る役割を失い、人々の暮らしの場としての性質が強まっていました。 掘割に面する家々では小舟を持ち、掘割を移動手段として使っていました。また、農村から川船で野菜を売りに来たり、有明海に面する熊本や長崎、佐賀など他県からの物品が、柳川で川舟に積み換えられ運ばれたりして、舟運も発達しました。また、炊事・洗濯などにも、掘割の水が使われ、人々の日常生活と水路が密接につながるようになっていました。 そんな時代に生まれ、高校まで柳川で暮らした白秋は、写真家田中善徳との共著である水郷柳川の写真集『水の構図』の中で、古里柳川について、次のように書いています。 「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った。・・・」 地元の中学伝習館に進んだ隆吉少年は、「白秋」という号で短歌を作り始めます。しかし、教師との対立から中学を中退、早稲田大学英文科予科に進みます。その後、与謝野鉄幹に誘われ『明星』に参加し、学業の傍ら詩作に励みます。そして、1909(明治42)年に処女詩集「邪宗門」を発表します。 更に

天神様の使い「鷽(ウソ)」は幸福を呼ぶ青い鳥

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「天神様の使い」といえばウシが有名ですが、ウソもまた、同じ呼称が与えられています。 ウソという鳥は、日本では北海道や本州の亜高山帯にある針葉樹林に棲み、秋から冬にかけ、四国や九州などに渡る漂鳥ーいわば国内版渡り鳥です。体長は11〜12cm。頭部は黒く、背は青灰色、くちばしは太く黒い。オスは顔がバラ色をしており、なかなか美しい鳥です。 ウソが「天神様の使い」と言われるようになったのは、太宰府天満宮に平安時代から伝わる「神幸式」と関係があります。菅原道真の霊を慰めようと、道真の誕生日9月25日に行われているものですが、ある年、この神幸式の列にクマンバチが襲いかかり、行列が進まなくなりました。まさにその時、ウソが北から渡ってきて、クマンバチを食べてくれ、神幸式を滞りなく行うことが出来た、と伝えられます。 やがて1年中の嘘を、神前で誠に替えてもらおうと、人々が木彫りのうそを天満宮に持ち寄るようになりました。それがいつ頃から始まったのかは、正確には分かりません。が、江戸時代に、盛んに行われていたことは、記録により明らかになっています。 これが、現在も1月7日の夜、天満宮の境内で行われる「うそ替え神事」です。「うそ替えしましょう」と呼び合いながら、暗闇の中でうそを交換し合います。自分のうそより立派なものと替わると吉とされます。 明治時代になると、天満宮では指の先ほどの純金のうそを作り、神官が人々の中を回るようになりました。最初は3個でしたが、その後6個に、更に12個まで数も増えました。が、今は木うそに番号が入っており、神職が発表した番号のうそを持っている人に、純金製のうそが授与される形になっています。 うそ替えに使われる木うそは、もともとは自分たちで作ったものでした。野良仕事などで使う鎌で木を削ったもので、それぞれ形も異なっていました。その後、専門の作り手が登場、それらの人々により形も徐々に整えられてきました。しかし、一時は天満宮の禰宜を務めていた故・木村當馬さんだけになってしまい、天満宮を始め商工会議所などの呼びかけで太宰府木うそ保存会が発足。木村さんを講師に、後継者を育成してきました。 うそには朴(ホウ)の木を使います。原木の太さをそのままに、うそを削っていくため、大きさや太さは一本一本違っています。それがまた人気を呼ぴ、民芸品として木うそを求める人も多いようです。ちなみに

金融資本の砦となった「いぐら屋」の家並

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福岡市から東南へ車で約1時間、緑のじゅうたんを敷き詰めたような田園風景が広がります。うきは市吉井町は、福岡県東南部、南に耳納連山がそびえ、北に九州一の大河筑後川がゆったりと流れています。この山と川の間を、国道210号が東西に走り、これに沿うようにして吉井の町並みが展開しています。 国道沿いの上町・中町・下町・天神町には、白壁土蔵造りの重厚な建物が軒を連ね、車で通る人の目を奪います。かつて吉井は、天領日田(大分県日田市)と、藩の中心久留米を結ぶ豊後街道の宿場町でした。しかし、宿場としてよりも、吉井は木蝋、酒、醤油などの産業と、筑後川を利用した物資の集積地として栄えました。 江戸初期、久留米藩の灌概工事により、筑後川から大石・長野水道が引かれました。これにより水田が広がり、吉井の米作は飛躍的に伸びました。筑後川の豊かな水と米は、酒造業を大きく育て、以前から行われていた櫨蝋造りと、その後に興った製粉、製麺業を合わせ、吉井は「吉井銀」と呼ばれる金融資本の集積を見るに至りました。 そして、これら富の蓄積を基盤とした家造りが、今日残る町並みの原形となったのです。その後、江戸後期から明治にかけ、三度の火災に見舞われた吉井の建物は更に堅牢化し、蔵造りに近い重厚な造りの町家が造られました。これらの造りを、この辺りでは「いぐら屋」と呼びます。「い」は「居」、「ぐら」は「蔵」、「屋」は「家」の意味です。 今も吉井町には、江戸から明治にかけて建てられた家が数多く残り、この町に落ち着いたたたずまいを与えています。これらの家並は国道沿いの他、上町でT字型に交差する通称「白壁通り」や、大石・長野の二本の疏水に沿っても展開しています。 毎年春には、これらの家々の玄関にひな人形が飾られ、観光客に無料で公開されます。「お雛様めぐり」と名付けられたこの催しは、約1カ月にわたって行われ、やはり町並みを生かして毎年5月に行われる「小さな美術館めぐり」と共に、多くの観光客を引きつけ、町の活性化に一役買っています。

筑豊炭田の川・遠賀川上流にある鮭神社

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1986(昭和61)年頃、福岡県飯塚市と嘉穂町で、鮭の稚魚が放流されたという新聞記事を読みました。それによると、「放流したサケの稚魚は、北海道生まれの嘉穂町(現・嘉麻市)育ち。卵を北海道から空輸して、嘉穂町の大里叶・鮭を遠賀川に呼び戻す会代表宅で100%近いふ化に成功。(略)嘉穂町にある日本で唯一の鮭神社で、放流祈祷を厳かに行った」とありました。 福岡県で鮭の放流とは珍しいと思ったのですが、一つひっかかったのが、「嘉穂町にある日本で唯一の鮭神社」という部分。なにしろ、百科辞典などによると、鮭は「太平洋岸の利根川以北、日本海岸の山口県以北」に上るとされています。それがなぜ、九州に鮭神社があるのか? ミーハー心がくすぐられました。 早速、取材をしようと、遠賀川に鮭を呼び戻す会に連絡を取りました。すると、代表の大里さんは、造り酒屋を営んでおり、酒蔵は神社とは隣り合わせにあるとのこと。鮭と酒。最初は、しゃれかと思ったのですが、そんなことはなく、大里さんの家は、昔は鮭神社の神官であったそうで、当時は氏子代表を務めていました。 鮭神社の建立は1200年以上前。祭神は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)とその子鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、海神の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の三柱となっています。しかし、「シャケ様」とか「鮭大明神」と呼ばれて信仰を集めているのは、これらの神様ではなく、鮭そのものでした。 鮭が上ってくると、氏子たちは神様にお供えして豊年を祈り、食べずに境内の鮭塚に埋めました。 実際、鮭は昭和の初めまでよく上ってきていました。遠賀川の河口は、九州でも最も北寄りにあり、地理的には、鮭が上ってきてもおかしくはないわけです。そして、豊作になるような年には天候もよく、鮭も上ってきたのでしょう。それが逆に、鮭が上ってくれば豊作になると考え、鮭大明神として祭ったものではないでしょうか。 しかし、石炭産業の発展(遠賀川流域は筑豊炭田の町が連なる)に伴い川が汚れ、鮭は全く捕れなくなりました。鮭のこない年は、大根をタテ割りにして赤トウガラシの目を入れて鮭をかたどり、代わりにするのが習わしです。そして、鮭の代わりに大根が祭られる年が続きました。 ところが1978(昭和53)年12月、遠賀川で鮭が捕れたのです。40年ぶりのことでした。大里さんも、実はそれまで鮭など見たこと

レトロエリアやベイエリア、いろいろな顔を持つ福岡

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福岡市には、仕事で何度も行っていますが、通常は1泊ないし2泊なので、移動に便利な博多駅周辺のシティホテルかビジネスホテルに泊まっていました。しかし、福岡で開催された国際会議を取材する機会が2度あり、その時は滞在期間が長かったので、どちらもコンドミニアムタイプのホテルにしました。 一つ目は、博多港に近いホテル博多プレイスです。大相撲九州場所が行われる福岡国際センターの真向かいにあり、同センターと福岡国際会議場、マリンメッセ福岡、福岡サンパレスからなる福岡コンベンションセンターが近く、会議の取材には最適でした。元アパマンショップ・レジデンスだったことから、部屋もある程度は広く、ミニキッチンや洗濯機、電子レンジが付いていました。 博多プレイスは、その名の通り、福岡市の博多区にあります。博多区には、博多港だけではなく、博多駅と福岡空港もあり、福岡はもとより九州全体の玄関口ともなっています。で、この博多区が、私が思っていたよりだいぶ広くて、北は国際会議場などが近い博多港ですが、南は福岡市の端で大野城市と春日市に接し、東には福岡空港があり、西は那珂川を挟んで天神エリアと接しています。なお、博多と天神を隔てる那珂川の中州には、新宿・歌舞伎町、札幌・すすきのと並んで、日本三大歓楽街の一つとされる中洲があります。中洲や天神は、屋台でも有名ですが、地元の人に言わせると、もっとおいしくて安い店がいっぱいあるので、屋台に行くことはないそうです。 博多区は、ビジネス街の趣が強く、商業地区としては、九州一の繁華街と言われる天神地区に一歩譲る形となっています。しかし、中央区天神という狭いエリアの天神に比べ、博多区は範囲が広い分、実はいろいろな顔を持っています。 例えば、博多駅から南へ1kmほど行った美野島には、昭和の面影を残す商店街があります。美野島は那珂川沿いにあり、川を渡ると中央区の清川になります。この清川地区は、明治後期に柳町の遊郭が移転してきて、九州では長崎・丸山、熊本・二本木と並ぶ大きな歓楽街としてにぎわいました。それによって、隣接する美野島地区も発展。更に昭和初めに、美野島南部が博多織や足袋、ゴムなどの工場地帯となり、そこで働く人やその家族など、多くの人が集まり、住宅や商店街が形成されました。 しかし、1958(昭和33)年の売春禁止法施行により特殊飲食街が廃止されたことで、歓楽街で

B級グルメの聖地・久留米で焼き鳥のはしご

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りんどう杯車いすバスケットボール九州大会(写真/田中勝明) 毎年夏、福岡県久留米市で、りんどう杯車いすバスケットボール九州大会が開催されています。今年は残念ながら、新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止となりましたが、予定通り開催されていれば、37回目となるはずでした。 この大会は、民間団体である久留米りんどうライオンズクラブが主催していることもあって、複合的な目的を持って開催されています。その最大の特徴は、久留米市内の中学生が、授業の一環としてゲームを観戦することにあります。中学校ごとに応援チームを決め、鳴り物入りで応援合戦を展開するため、選手たちもいつもよりハッスル。また、その姿勢が子どもたちに伝わり、勇気と感動を与えるという相乗効果をもたらしています。 私も一度、大会を取材させて頂いたことがありますが、中学生による応援合戦の他にも、ハーフタイムにはアップテンポなBGMを流したり、地元小学生のダンス・パフォーマンスを入れたり、大会全体を盛り上げる工夫が凝らされていました。大会に初めて参加したという宮崎の選手も、「まさかこんなに元気のある大会だとは思ってもいませんでした」と話し、他の車いすバスケットボール大会では見られない盛り上がりに、選手たちもより一層燃えているようでした。 りんどう杯車いすバスケットボール九州大会(写真/田中勝明) この時、パフォーマンスに参加した小学生に感想を聞いてみると、その子は、 「いちばん強く心に残っているのは、選手の方々の顔です。とてもキラキラと輝いていました。足が不自由なのに、どうしてあんなに素敵な笑顔が出来るんだろうと思いました。ボールに向かっていく姿は、足が自由に使える私たちよりもたくましく見え、憧れます。感動をもらった分、自分も選手の皆さんに感動してもらいたいと、一生懸命に大きく踊りました」 と話してくれました。 また、大会の常連だという女性チームの選手は、 「大会運営に携わっている方たちが、いろいろな場面で温かく声を掛けてくださったり、選手が試合に集中出来るよう配慮してくださっています。この大会に参加して、多くの方々に支えられていることを改めて実感しました。それに応えるためにも、更に向上したプレーを見せられるよう、これからも練習に励みます」 と、熱い思

筑前の小京都・秋月を歩く

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秋月城 大手門だった黒門 以前、まだ高校生だった長女のリクエストで、映画『ラストサムライ』のDVDを買ってあげたことがあります。なぜ、欲しがったのか分かりませんし、実は買ってから長女が見た気配もありませんでした。私自身は特に興味はなかったのですが、せっかく買ったのだからと、時間のある時に再生してみました。それは、明治初頭の日本を舞台にした映画でした。 その頃、明治新政府に強い不満を持っていた士族の反乱が相次ぎました。まず、1876(明治9)年10月24日に熊本県で「神風連の乱」が起きます。するとそれに呼応して、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こります。そして、翌77年には熊本、宮崎、大分、鹿児島各県において、西郷隆盛を盟主に士族反乱としては最大規模かつ国内最後の内戦となった西南戦争が起こりました。映画は、このあたりを題材に展開されていました。 秋月城裏手の長屋門 秋月の乱の舞台・秋月は、朝倉市の郊外、古処山の山懐に抱かれた小さな城下町です。鎌倉時代に原田種雄(たねかつ)が、幕府から秋月荘を賜り、秋月氏と称して古処山に山城を築いたのが始まりです。その後、福岡黒田藩の支藩となり、幕末まで秋月黒田藩の城下町として栄えました。 秋月の乱では、秋月の士族約250人が、反政府の挙兵をしました。しかし、間もなく鎮圧され、士族たちは仕事を求めて秋月を去って行きました。また、商人たちも秋月の店をたたんで他所に移り、「秋月千軒のにぎわい」と言われた城下町秋月は、1900年代の初めには戸数、人口共に半減。城跡や武家屋敷の石垣だけが、往時を物語る、山間の静かな城下町に変わりました。 目鏡橋  ◆ 秋月の取材には、印刷会社の担当者・酒井さんが同行してくれました。と言うのも、彼の生まれ故郷の近くだったため、実家の車で案内役を買って出てくれたのです。 秋月は、朝倉の中心街から北へ約7km。四方を筑紫山系に囲まれた小さな盆地で、その中央を東から西へ野鳥川が流れています。町並みに入る直前には、この野鳥川に架かる石造りのアーチ橋が見えてきます。 この橋は1810(文化7)年、秋月藩が長崎警護を務めていた縁で、長崎の眼鏡橋と同じ石工を招いて架橋されました。当時は「長崎橋」