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11月, 2021の投稿を表示しています

海も山も魅力的な房総半島

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学生時代に、友人たちと外房の海へ遊びに行ったことがあります。夜中に、大学のある早稲田に集合し、車で出発。当時は、東京湾アクアラインであるとか、京葉道路とかはありませんから、ひたすら下道を走ります。 で、外房の海で、名前を知っていたのが、御宿とか鴨川だったので、道路標識を頼りに、適当に走っていました。やがて、道路が狭くなり、気がつくと街灯もない山道を走っているではありませんか。 「あれ、おれたち、海に行くんだよな」「これ、完全に山じゃない?」と、一同、不安感が募ってきます。夜中で、車もあまり通っていないだろうからと、その時はペーパードライバーの友人が運転していたのですが、真っ暗な中、左側が崖の細い山道を走ることになり、運転する側も、同乗している方も、なかなかにスリリングな展開となりました。 周囲が確認出来ない夜中の走行ということもあり、我々の印象では山越えだったのですが、房総半島の中部から南部にかけては、標高300m前後の丘陵地帯になっています。そんな房総半島のほぼ中央に、養老渓谷があります。大多喜町の麻綿原高原(まめんばらこうげん)を源流とする、養老川沿いの渓谷です。 養老渓谷最大の見所は、100mにわたってゆるやかに流れ落ちる粟又の滝です。房総一の名瀑として知られ、滝壺の近くから下流にある小沢又の滝付近まで、約2kmの遊歩道が整備されています。この粟又の滝自然遊歩道沿いには、大小の滝が点在し、春から秋にかけて水辺を散策をする人でにぎわいます。 養老渓谷のある大多喜町は、古くから房総半島の交通の要衝として栄え、戦国時代以降は城下町としても繁栄しました。大多喜町のシンボルとなっている大多喜城は、戦国時代に上総武田氏の一族である真里谷信清が築いた小田喜城がベースになっているとされます。その後、1544(天文13)年に、『南総里見八犬伝』のモデルとなっている安房里見氏の武将・正木時茂が、真里谷朝信から攻め取り、里見氏の所領となりました。 しかし、1590(天正18)年に、豊臣秀吉が関東を平定し、徳川家康が関東へ移封されると、小田喜城は家康に接収され、徳川四天王の一人・本多忠勝が、10万石を与えられてこの地に入りました。忠勝は、里見氏に備えて城を大改修し、城の名を大多喜城に改めました。併せて城下町の整備にも手を付けましたが、関ケ原の戦いを経て、忠勝が1601(慶長6)年に桑

江戸期会津の面影を今に残す街道の宿場町

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300mほどのゆるやかな坂道の両側に、雪国特有の重厚な茅葺きの民家が建ち並びます。ここ大内宿は、江戸時代初期に整備されたと言われる宿場町の一つです。町中を貫く会津西街道は、会津の若松城下から下野の今市を結ぶ街道ですが、それは関東側の呼び名で、会津側からは下野街道、あるいは南山通りなどと呼ばれていました。 江戸時代には、会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な役割を担っていました。数万俵の廻米や生活物資、参勤交代の大名行列や旅人がこの街道を往来し、街道筋にある大内宿の本陣や脇本陣、旅籠で旅の疲れを癒やしました。 1868(慶応4)年には、白虎隊で有名な会津戦争(戊辰戦争)の際に、周辺が戦場となりましたが、運良く戦火をまぬがれました。しかし、旅の要所としての役割を果してきた大内宿も、新政府の誕生と共にその役割を終えることになります。 1884(明治17)年、現在の国道121号が開通すると、大内宿はその道すじから遠く離れ、過疎の山村となってしまいました。以来、大内宿は人々の記憶の中から姿を消していくことになりました。 大内宿が再び脚光を浴びるのは、1981(昭和56)年のことです。全国で16番目の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。その後、大内宿は、会津の歴史を生きたまま今に伝えることとなります。 保存地区は、旧宿場を中心とする南北約500m、東西200mの範囲です。茅葺・寄棟造の主屋が妻面を街道に向け、道路と直角に整然と並び、この地方の宿場によく見られる家屋の形態をよく残しています。床面積は約40〜50坪と一定で、他の一般的な宿場よりかなり大きめに作られています。これは、雪深い山間という土地柄、「うまや」を住居の中に収容するための知恵でした。 道路の中央には、広い溝が設けられ、宿場の用水として利用されていましたが、1886(明治19)年に埋め立てられ、道路の両側に、新たに洗い場用の側溝が掘られました。この溝は、今でも豊かな水量を保ち、地元の人々によって大切に使用されています。 また、大内宿には、源平合戦の先駆けとなった「以仁王(もちひとおう)伝説」が残されています。京都から敗走した以仁王が、この地に潜行したという物語です。王の宮号「高倉宮」にちなんだと思われる高倉神社では、毎年7月2日の半夏生(はんげし

歴史ドラマの舞台となった会津若松の旅

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飯盛山の土産物屋から聞こえてきた「寄っでがんしょ。お茶飲んで休まっせ」の声に誘われ、店に入りました。お茶を入れてくれたおばさんに、東日本大震災の影響を聞くと、「観光客は激減。いつもは宮城からの修学旅行が多いんだけど、今はゼロ。福島や郡山の子どもたちが遠足で来るぐらい」とあきらめ顔でした。 東日本大震災から半年の2011年9月に、会津若松を訪れた時のことです。 飯盛山は、会津若松駅のほぼ真東にある標高300mほどの山で、白虎隊自刃の地として知られます。会津と言えば、白虎隊の悲劇を思い浮かべる人も多く、会津を旅した人は必ずと言っていいぐらい飯盛山に登ります。震災前には、年間約200万人の観光客が訪れ、白虎隊十九士の墓前には香煙が絶えませんでした。 頂上からは、市内が一望出来ます。かつて、飯盛山にたどり着いた白虎隊の隊士たちは、砲煙に包まれた城下を目にし、城が陥落したと思い自刃しました。山頂では、そんな少年たちに思いをはせ、手を合わせる人たちの姿が見られます。 その飯盛山の中腹には、会津さざえ堂というお堂があります。正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)。上りと下りが別の通路になっており、入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を下って外に出ることが出来ます。世界的にも珍しい、二重らせん構造の建築物として、国の重要文化財に指定されています。 さざえ堂は、江戸後期に東北から関東各地の寺院に建てられた仏堂で、順路に沿って三十三観音や百観音などが安置され、堂内を回るだけで巡礼がかなう構造となっています。会津さざえ堂も同じで、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となるまでは、斜路に沿って西国三十三観音像が安置されていました。 この飯盛山と並んで会津若松のシンボルとなっているのが、鶴ケ城です。会津の旅で、ここを外すわけにはいきません。 蒲生氏郷が築いた城は、黒壁で7層の天守閣を持ち、織田信長の安土城を思わせる偉容だったとも言われています。江戸時代に地震の被害を受け、再建された天守閣は、現在と同じ5層でした。戊辰戦争後は、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は1965年に再建されました。内部は郷土博物館になっていて、5層からは会津若松市街地や会津盆地、奥には磐梯山まで望めます。 震災があった2011年3月に、天守閣の屋根の葺き替えが終わり、それまでの黒瓦を明治以前

天地創造の世界・裏磐梯を訪ねて

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1888(明治21)年7月15日の朝、1000年の眠りから覚めた磐梯山が、突然爆発しました。それまで北側にあった小磐梯山が吹き飛ばされ、それらが土石流となって、磐梯山の北側を流れていた長瀬川沿いに押し出し、谷を埋め、川を堰き止めました。 その過程で、崩壊した大きな岩塊がそっくり移動して、流れ山が出来ました。更には、長瀬川の堰き止めや、流れ山の低所に水がたたえられて湖が出来、沼となりました。桧原湖や五色沼など、大小200もの湖沼群、磐梯高原はこうして誕生しました。まさに天地創造です。 今回の記事では、この天地創造の世界・裏磐梯を訪ねます。磐梯高原には、いわゆる裏磐梯三湖と呼ばれる火山堰き止め湖、桧原湖、秋元湖、小野川湖があります。しかし、これら大きな湖を紹介していると長くなってしまうので、今回はパスして、五色沼自然探勝路と中瀬沼遊歩道を紹介します。 五色沼は、裏磐梯の定番と言っていいほどの有名な観光地です。既にご存じかもしれませんが、裏磐梯紀行で、ここを外すわけにはいきません。 そんな五色沼の人気の秘密は、やはり水の色にあるといっていいでしょう。湧出する鉱泉に含まれている物質と光の加減で、沼により、天候により、また時間によって、さまざまに色が変化します。特に秋は、紅葉を水面に映し、ひときわ美しくなります。 探勝路は全長3.7km。東西二つの入口があり、東口は五色沼自然教室からスタート。西ロは裏磐梯で最もにぎわう、桧原湖南岸の磐梯高原駅バス停近くから入ることになります。 東口から入ると、まず五色沼の中で最も大きい毘沙門沼に出ます。ここではボート遊びも出来、背景には磐梯山も望めます。探勝路を進むと、深泥沼、弁天沼と続き、五色沼随一の景勝地と言われる瑠璃沼に着きます。瑠璃沼のそばには、エメラルドグリーンの水をたたえた青沼があり、ここから最後の柳沼まではあと一息。西口に着いたら、桧原湖で遊覧船に乗るのもいいでしょう。 中瀬沼は、桧原湖と小野川湖に挟まれた湖で、その北岸、アカマツ林の中をたどるように全長2.5kmの遊歩道が設けられています。途中にある展望台からの眺めは格別。眼下には小島が浮かぶ中瀬沼があり、正面には磐梯山の爆裂火口が大きく口を開けています。 この展望台は、流れ山の上に設けられたものです。それにしても、絶好のポジションに流れ着いたものです。中瀬沼遊歩道には、桧原湖

5月中旬の蔵王山頂で寒さに凍えるの巻

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2012年の5月中旬、宮城県の蔵王町側から蔵王エコーラインで御釜まで行ってみました。初日は路面凍結により通行止め。下界が晴天だったので勇んで出掛けた2日目も、刈田岳の頂上付近は悪天候。しかも、氷点下2度の中、冷たく猛烈な風が吹き付けてきました。 それでも、とりあえず車を降り、御釜方面へ向かいました。しかし、霧の粒がブリザードかと思うような勢いで吹き付け、どこに何があるのか全く見えません。手前の看板も霧氷で何が書いてあるのか読めず・・・。このままでは、凍死してしまう! そう思って、すごすごと引き返してきました。 しかし、停車中の車が揺れるほど激しく冷たい風にさらされたため、車に戻っても、しばらくは手が利かないほどでした。下界はスイセンが咲き、新緑がまばゆい季節だったんですが・・・。 蔵王には、2009年に山形側から行ったことがありましたが、その時は2月だったので、雪はあたりまえ。それが今回は5月も中旬ですからねえ。正直、想定外でしたが、舐めていたのも確かです。 蔵王連峰を東西に横断し、宮城県と山形県をつなぐ山岳観光道路・蔵王エコーラインは、例年4月下旬には開通します。その年も、同様に開通しており、私が行った翌週には、自転車ロードレース「日本の蔵王 ヒルクライム・エコ2012」が開催されることになっていました。しかも、蔵王の5月は、1年の中で晴天率が最も高い時期と聞いていたのですが、やはり山の天気は変わりやすいですね。 で、本来であれば、刈田岳山頂からは、円型の火口湖「御釜」が見られます。御釜は、蔵王のシンボルで、天候によって、湖面の色がエメラルドグリーンやるり色に変わることから、別名「五色沼」と呼ばれています。もちろん、私のように悪天候に当たってしまったら、御釜そのものが見えませんが。 そんなわけで、御釜は見ることが出来なかったのですが、蔵王には他にも見所がたくさんあります。まず、蔵王に向かう蔵王エコーラインの冬期閉鎖が解除される4月下旬から5月中旬まで、エコーラインはいわゆる「雪の回廊」となります。私が行ったのは5月12日でしたが、その頃でも、結構な高さの雪が残っていました。 遠刈田温泉からエコーラインで10分ほどの中腹には、不動滝と地蔵滝、三階滝と、三つの滝を眺められる滝見台があります。不動滝は、落差53.5m、幅16m、蔵王山中で最も大きな滝です。三階滝は、落差

豊かな自然と伝統の技が息づく城下町

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白石市のウェブサイトで観光情報を見ると、市内を三つのエリアに分けて紹介しています。それは、中心エリア、小原エリア、鎌先エリアの三つです。 中心エリアは、白石城や武家屋敷など、城下町としての白石がメイン。そして小原エリアは小原温泉と材木岩公園、鎌先エリアは鎌先温泉と弥治郎こけし村となっています。 白石市は江戸時代、伊達氏が治める仙台藩の一部になっていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、居城以外の全ての城を廃城とする「一国一城令」を立案し、1615(慶長20)年、2代将軍秀忠がそれを発令しました。これによって、全国で多くの城が破却されましたが、藩域が広いなどの理由で、一部には複数の城が残った藩もありました。 例えば紀州藩では、紀伊と伊勢の二つの令制国に、和歌山城と松坂城、田丸城、田辺城、新宮城の5城を保持しました。これは、紀州藩が、御三家の一つであることと、西国諸大名への備えとすることが、要因だと考えられています。 そんな中、仙台藩でも、政宗の居城である仙台城と、白石城が残されました。これは、白石城を預かっていた片倉小十郎を、家康が高く評価していたためとも言われています。ただ、仙台藩ではこの他にも、要害の名目で21カ所もの城を維持し続けるという裏技を使っていたのですが・・・。 しかし、そんな白石城も、明治維新後の1874(明治7)年には廃城令により解体。その後、何度か復元の話が持ち上がったようですが、それが実現したのは、1995(平成7)年になってからでした。これは、全国的にも珍しい木造での復元で、1823(文政6)年に再建された、3階櫓が忠実に再現されています。「木造復元天守」は、これまでに、白河小峰城(1991年)、掛川城(1994年)、白石城(1995年)、新発田城(2004年)、大洲城(2004年)の5城がありますが、白石城は高さ、広さ共に最大級の城となっています。 この白石城の北、三の丸外堀に当たる沢端川沿いに、片倉家の用人だった小関家の屋敷があります。1730(享保15)年に建てられた屋敷は、白石市に寄贈され、現在は市民や観光客の憩いの場となっています。その周辺は、とても閑静で、城下町の風情が残るエリアになっています。 次なる小原エリアにある材木岩は、高さ約65m、幅約100mの柱状節理。白石川の上流、ダム湖百選に選定されている七ケ宿ダムのすぐ下流にあり、

戦国武将「独眼竜」政宗が築いた城下町

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仙台を旅する時、仙台駅西口から出ている、レトロな外観をした循環バス「るーぷる仙台」が便利です。晩翠草堂、瑞鳳殿、仙台市博物館、仙台城跡、大崎八幡宮と、主な観光スポットを網羅。乗り降り自由な1日乗車券(630円)もあります。なので、記事ではるーぷるのルートに沿って、仙台を回ってみます。 最初の停車場は「青葉通一番町」ですが、ここは駅から歩いて来られるので、通過してもいいでしょう。次は「晩翠草堂前」。『荒城の月』の作詞で知られる土井晩翠が、晩年の3年間を過ごした住居が、当時のまま保存されています。 るーぷるはこの後、少し進路を南にとり、広瀬川にかかる霊屋橋を渡って「瑞鳳殿前」まで行きます。バス停を降りると、藩祖・伊達政宗が、自らの終焉の地と定めた森が広がり、その奥に政宗が眠る瑞鳳殿があります。 瑞鳳殿がある経ケ峯歴史公園は、東日本大震災で100基以上ある石灯籠のほとんどが倒壊し、石垣も崩れました。が、政宗が眠る「瑞鳳殿」を始め、2代藩主忠宗の霊屋「感仙殿」、3代藩主綱宗の霊屋「善応殿」とも、建物の被害はほとんどありませんでした。 瑞鳳殿は、豪華絢爛な桃山様式の廟建築でしたが、戦災により焼失。現在の霊屋は1979年に再建されたもので、2001年には仙台開府400年を記念して大改修工事が行われ、柱に彫刻獅子頭、屋根に竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦りました。 瑞鳳殿に続いては、伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)です。城とは言え、天守閣はありません。将軍家康の警戒を避けるためだったと言われますが、標高130mの山城だったので、どっちみち天守閣など不要だったかもしれません。 天守台に立つと、気分はまさに天下取りの野望に燃えた政宗そのもの。眼下には仙台市街はもちろん、晴れていれば太平洋まで望めます。戦国時代を舞台にしたアクションゲーム「戦国BASARA」のヒットにより、一時、政宗を始めとした戦国武将が、若い女性の間でブームになりました。こうした「歴女」たちの聖地の一つが、この仙台城で、政宗公騎馬像の前で写真を撮る歴女たちの姿が多く見られました。 ところで、この政宗像、よく見ると、両目が開いています。独眼竜政宗では?と疑問に思いますが、絵や彫像は全て両目を入れるようにとの遺言によるものだそうです。 そんな歴女のヒーロー政宗が、1607年に創建したのが仙台城下町の北西端にある大崎八