長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット
昨年暮れ、長崎街道の大村宿( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )と彼杵宿( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )について書き、その後、武雄(柄崎宿/ 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )の話に続けました。本来なら、彼杵宿と柄崎宿の間に、嬉野宿があるのですが、嬉野は、一昨年11月に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いていたので、パスしてしまいました。でも、一つだけ飛ばすのも何か気持ちが悪いので、今回は、宿場町としての嬉野に絞って書いてみます。 大村湾沿いの彼杵宿から嬉野宿への行程は、山道になります。大村藩と佐賀藩の境となる俵坂峠を越えると、俵坂番所跡があります。敷地面積200余坪、侍1名と足軽9名が監視に当たり、特にキリシタンの取り締まりは厳しかったといいます。長崎に、日本最初の商社と言われる亀山社中を結成した坂本龍馬も、この峠を通ったことでしょう。 俵坂番所跡から、嬉野宿の西構口跡までは約1里(4km)です。構口(かまえぐち)というのは、宿場の東西にある出入口のことで、上り方面を東、下り方面を西としました。 嬉野宿の西構口は、1925(大正14)年創業の老舗温泉旅館・大正屋の前、東構口は、1950(昭和25)年開業の和多屋別荘の本通り入口前にあったとされます。東西構口の間は約500m、ここが嬉野の宿場町で、30軒余りの旅籠や木賃宿の他、商家など100軒ほどの家並が続いていました。 当時は、宿場の中央付近に豊玉姫神社があり、その隣に御茶屋(上使屋)がありました。上使屋というのは、参勤交代の大名や上級武士、幕府の役人などを接待する場所で、佐賀藩では嬉野宿を始め20カ所ほど用意していたといいます。嬉野の上使屋は、武雄と共に温泉付きだったらしく、スペシャルな御茶屋だったようです。 上使屋は、宿泊所も兼ねていましたが、嬉野の上使屋は手狭だったため、街道から北へ300mほどの場所にある瑞光寺を本陣として使っていました。1862(文久2)年に、豊玉姫神社境内の一部を取り入れて拡張しましたが、その5年後には大政奉還が行われます。そして1871(明治4)年の廃藩置県後、上使屋は民間に払い下げられ、塩屋という嬉野第一の旅館となりました。 ちなみに、塩屋は1922(大正11)年の嬉野大火で焼失、その後、和多屋旅館となり、それを継承したのが...