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全国的にも珍しい温泉付き駅舎・ほっとゆだ駅

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横手のかまくらを取材した後、JR北上線で西和賀町を訪問した話を以前の記事( 岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬 )に書きました。その際、下車したのが、「ほっとゆだ」駅でした。  ◆ ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。  ◆ ほっとゆだ駅については、こんな記述でしたが、駅は元々1922(大正11)年に、横手を起点とする国鉄西横黒線(にしおうこくせん)の終点・陸中川尻駅として開業しました。西横黒線はその後、24(大正13)年に陸中川尻まで延伸した東横黒線に編入され、横黒線に線名を変更。岩手県の黒沢尻駅から秋田県の横手駅を結ぶ路線として開業しますが、54(昭和29)年に黒沢尻町が周辺の6村と合併して北上市になったのを機に、黒沢尻駅を北上駅に改名し、66(昭和41)年には線名も北上線に変更されました。 国鉄民営化後、陸中川尻駅は、旧湯田町が費用の3分の2を負担して、木造2階建ての新駅舎を建てました。また、湯田温泉峡を持つ町のPRと活性化も兼ねて温泉を掘り、89(平成元)年4月1日、温泉付き駅舎のほっとゆだ駅として運用を開始しました。 温泉施設ほっとゆだの入浴料は大人440円、子ども260円で、1600円で利用出来る貸切風呂もあります。私は、錦秋湖の雪景色を撮影した後、列車の待ち時間を利用して「ほっとゆだ」で冷えた身体を温めましたが、中にはわざわざ途中下車をして温泉に入る好き者もいるようです。 まあ確かに、鉄道好き、温泉好き、どちらにとっても、行ってみたいスポットではあるでしょうね。それに私のような、鉄道、温泉にこだわりのない単なるミーハーも、近くに行ったら、寄ってみたくなること請け合いです。 ちなみに、ほ

長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット

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昨年暮れ、長崎街道の大村宿( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )と彼杵宿( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )について書き、その後、武雄(柄崎宿/ 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )の話に続けました。本来なら、彼杵宿と柄崎宿の間に、嬉野宿があるのですが、嬉野は、一昨年11月に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いていたので、パスしてしまいました。でも、一つだけ飛ばすのも何か気持ちが悪いので、今回は、宿場町としての嬉野に絞って書いてみます。 大村湾沿いの彼杵宿から嬉野宿への行程は、山道になります。大村藩と佐賀藩の境となる俵坂峠を越えると、俵坂番所跡があります。敷地面積200余坪、侍1名と足軽9名が監視に当たり、特にキリシタンの取り締まりは厳しかったといいます。長崎に、日本最初の商社と言われる亀山社中を結成した坂本龍馬も、この峠を通ったことでしょう。 俵坂番所跡から、嬉野宿の西構口跡までは約1里(4km)です。構口(かまえぐち)というのは、宿場の東西にある出入口のことで、上り方面を東、下り方面を西としました。 嬉野宿の西構口は、1925(大正14)年創業の老舗温泉旅館・大正屋の前、東構口は、1950(昭和25)年開業の和多屋別荘の本通り入口前にあったとされます。東西構口の間は約500m、ここが嬉野の宿場町で、30軒余りの旅籠や木賃宿の他、商家など100軒ほどの家並が続いていました。 当時は、宿場の中央付近に豊玉姫神社があり、その隣に御茶屋(上使屋)がありました。上使屋というのは、参勤交代の大名や上級武士、幕府の役人などを接待する場所で、佐賀藩では嬉野宿を始め20カ所ほど用意していたといいます。嬉野の上使屋は、武雄と共に温泉付きだったらしく、スペシャルな御茶屋だったようです。 上使屋は、宿泊所も兼ねていましたが、嬉野の上使屋は手狭だったため、街道から北へ300mほどの場所にある瑞光寺を本陣として使っていました。1862(文久2)年に、豊玉姫神社境内の一部を取り入れて拡張しましたが、その5年後には大政奉還が行われます。そして1871(明治4)年の廃藩置県後、上使屋は民間に払い下げられ、塩屋という嬉野第一の旅館となりました。 ちなみに、塩屋は1922(大正11)年の嬉野大火で焼失、その後、和多屋旅館となり、それを継承したのが

日本三古湯の一つ道後温泉の話と真穴みかん

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昨年暮れに書いた松山の記事( 松山・大街道の大入亭からバー露口へ )で、大入亭のカウンターで隣り合った地元の方から、バー露口を紹介された話を披露しました。で、そのお客さんは、道後温泉にあるホテルの社長で、「良かったら、うちのお風呂に入って行ってください」と、帰り際に名刺を渡されました。 初めて会った人間に、とても親切な申し出をしてくださったのですが、翌日は朝から砥部焼の取材が入っていたため、残念ながらお風呂をお借りすることはありませんでした。 道後温泉は、古代からその存在が知られ、日本三古湯の一つと言われています。夏目漱石の『坊つちやん』(1905年)でも、「住田」という温泉場として何度も登場します。ちょっと、抜き出してみましょう。 「住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた」 前の記事( 銘菓郷愁 - 漱石にも勧めたい「坊っちゃん団子」 愛媛県松山 )に書いた「坊ちゃん団子」は、この部分にちなんでつくられたお菓子です。で、まだあります。 「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける」 更に、住田という固有名詞ではなく、温泉になると、これがもう、あちこちに出てくるわけです。「温泉は三階の新築で上等な浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む」とか、「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」「温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら」などなど・・・。 この3階建ての温泉というのが、有名な道後温泉本館です。漱石が、旧制松山中学に英語教師として赴任したのは、1895(明治28)年のことで、道後温泉本館は、その前年、94年に改築したばかりでした。建物は、松山城の城大工棟梁の家系である坂本又八郎が設計しました。 道後温泉本館は、いわゆる銭湯ですが、1994(平成6)年に国の重要文化財に指定されながら、今も現役の公衆浴場として営業をしています。2007(平成19)年に地域団体商標(地域ブランド

裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝

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前日に熊本に入って、市内で取材を一つ済ませた後、次の日の撮影に備え、大津町まで移動しました。そして翌日、ミルクロードと国道212号を使って、小国町の鍋ケ滝へ向かいました。泊まったホテルから鍋ケ滝までは、ちょうど50kmぐらい、車で約1時間でした。 で、鍋ケ滝まであと少し、たぶんあと1分ぐらいの所で、謎の案山子群像を発見。ミーハーな私は車を停め、パシャリと1枚シャッターを切ってきました。しかも、個人宅の玄関先にいた案山子たちだけではなく、他にも案山子が出没。後で、Google Mapのストリートビューで確かめると、ここのお宅の少し先にいた、釣りをする案山子には、ボカシが入っていました。完全に人間だと思ったんでしょうね。Googleくん、だまされてますよ(笑・・・。 ちなみに、最近は更にバージョンアップしているようです。「小国町 案山子」で検索すると、結構ヒットします。お断りしておきますけど、新潟県長岡市の小国町で「おぐにかかしまつり」が行われているらしく、そちらの検索結果もかなり出て来ます。Google Mapのストリートビューで確認する時は、鍋ケ滝を目的地に、出発地を坂本善三美術館にしておくと、蓬莱川を渡ってすぐの辺りで、案山子群像のお宅があります。 で、案山子たちから鍋ケ滝の駐車場までは約350mです。2015年に、駐車場や滝までの遊歩道を整備して有料公園化したそうです。入園料は、大人(高校生以上)300円、子ども(小・中学生)150円、小学生未満無料とのことです。 私が行ったのは、その2年前の2013年の晩秋でしたが、その時も駐車場はありましたし、売店もありました。それに、滝までの階段もあって、よく整備されていると思ったのですが・・・。 鍋ケ滝は、落差は10mほどしかありませんが、幅は約25mあり、周囲が木々に覆われているため、木漏れ日の中を水が流れ落ちる様が、とてもフォトジェニックです。更に、最大の特徴は、滝の裏にかなり広いスペースがあり、裏からも滝を見ることが出来るところです。 阿蘇の大自然は、約9万年前に起こった巨大噴火によるものです。前に、裏磐梯の記事を書いた際、1888年の大噴火によって、今の裏磐梯が出来た、まさに「天地創造の世界」と書きましたが、阿蘇の規模は、その磐梯山を大きく上回っています。噴火による火山灰は、なんと北海道まで達したといいます。また

歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄

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この2日、大村、東彼杵と長崎街道に触れながら記事を書いてきました。順番でいくと、今日は嬉野になるのですが、嬉野については1年以上前に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いてしまったので、今回は嬉野はパスして、次の武雄についてになります。計画性のないブログなので、こういう時に困ってしまいます・・・。 さて当初、嬉野宿から小倉へ向かう長崎街道は、多良街道の起点で、有明海の干満差を利用した河港都市でもあった塩田宿(嬉野市)を経由する南回りのルートでした。しかし、塩田川は度々氾濫し、往来に支障を来すことが多かったため、1705(宝永2)年に嬉野から柄崎宿(武雄市)を経由する北回りルートがつくられました。 武雄は、嬉野と同様に、古くからの温泉として知られ、いずれも神功皇后にまつわる伝説があり、また奈良時代の『肥前国風土記』にも、それぞれの温泉が出てきます。武雄の神功皇后伝説は、皇后が剣の柄で岩を一突きしたら温泉が湧き出たというもので、そこから柄崎と呼ばれるようになったとされます。 その後、柄崎はいつの頃からか塚崎と書くようになったようですが、武雄の名については、明治政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』によると、肥前佐賀藩に「武雄村」の名があり、幕末には一つの村になっていたようです。その後、1889(明治22)年の町村制施行では、武雄村の柄崎などの集落によって武雄町が発足しています。 武雄のシンボル的な山・御船山の北東麓にある武雄神社は、735(天平3)年の創建と言われ、武雄の名はこの神社に由来するそうです。で、その武雄神社の「武雄」については、諸説あるようですが、武雄神社では、武内宿禰を主祭神に、その父である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)などを合祀しているので、武雄心命のお名前を頂戴したのかもしれませんね。 この武雄神社とは反対側の御船山南西麓には、御船山楽園という庭園があります。15万坪という広大な大庭園で、江戸時代の武雄領主鍋島茂義の別邸跡です。 御船山の断崖絶壁に向けて、20万本ものツツジが植えられ、開花時期には広い園内が一面、ツツジのジュータンを敷き詰めたようになります。また、秋の紅葉時には、ライトアップが行われ、御船山楽園の池には灯篭が浮かび、幻想的な世界が展開します。 武雄はまた、焼き物の産地としても知られ

手つかずの大自然に抱かれ、自然と共に暮らす人々

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道東地方のほぼ中央、阿寒国立公園の約56%を占める弟子屈町は摩周湖、屈斜路湖、硫黄山など、手つかずの大自然があふれ、年間約100万人の観光客が訪れます。 阿寒国立公園は、「火山と森と湖」の公園と呼ばれ、千島火山帯の西南端にあたる三つのカルデラ・摩周、屈斜路、阿寒が中心となっています。三つの大きなカルデラが、これほど接近しているのは世界的にも珍しく、特に屈斜路カルデラは世界最大級で、美幌峠や藻琴山などの雄大な外輪山を持っています。透明度世界一といわれる摩周湖は、45度の急斜面で覆われます。これほど険しい湖岸も珍しいでしょう。湖には、注ぐ川も、流れ出る川もありません。春から秋までは霧が多く、その姿を隠すことが多くなります。摩周湖が、「神秘の湖」と呼ばれるのもうなづけます。 そんな弟子屈の観光拠点となるのが、川湯や摩周などの温泉群。町には七つの温泉があり、それぞれ泉質・効能からロケーションまでさまざまで、バラエティーに富んだ温泉が味わえます。 この地の温泉を最初に探査したのは、1858(安政5)年にここを訪れた蝦夷地探検家・松浦武四郎でした。その後、明治に入って本格的な調査が行われ、1877(明治10)年、川湯などの採掘が始まりました。 その川湯は、アカエゾマツやシラカバ、ミズナラなどの天然林に囲まれた温泉街です。湯量も豊富で、湯の川が街の中を流れ、硫黄の香りと湯煙りが漂っています。 弟子屈では、こうした観光の他、酪農や畑作が基幹産業となっています。これらは、いずれも自然そのもの、あるいは気候、風土など自然条件を生かしたものばかり。人の暮らしが、いかに自然の恩恵を受けているかがよく分かります。 太古を思わせる、手つかずの大自然に抱かれるように暮らす人々に、日本古来の伝統的な生活を見る思いがします。 硫黄山はいまなお噴気を上げ火山活動を続けている ←屈斜路湖からそのまま掘り込んだ和琴半島の露天風呂。湖畔には砂浜を掘ると即露天風呂になる砂湯などもあります

南蔵王連峰山麓・弥治郎に伝統こけしの源流を訪ねて

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白石市は、蔵王連峰と阿武隈山脈に囲まれた閑静な城下町。近年は東北自動車道の開通や東北新幹線白石蔵王駅の開業で、県南の交通拠点となっています。白石と言えば、まず思い浮かぶのが、温麺と白石和紙。しかし、もう一つ「弥治郎こけし」の名で知られる伝統こけしも、白石市のものです。 白石市福岡八宮字弥治郎。ここが、弥治郎系こけしの発祥地です。白石市街から北西へ約5km、昔から奥羽の薬湯として知られた鎌先温泉があります。弥治郎の集落は、ここから更に北西へ1.5kmほど行った所にあり、こけしは鎌先温泉の土産物として発生しました。 「伝統こけし」は、東北地方に限って見られる木地玩具ですが、いずれも温泉場を本拠とした湯治土産が元で、その担い手は木地師というロクロ工人団でした。 木地師の本拠は当初、京阪周辺の山地で、特に近江(滋賀県)や吉野(奈良県)が中心だったようです。やがて原材が乏しくなるまま、彼らは深山に良木を求めて散っていきました。それは、地方的な漆器工芸の形成とも関係します。 東北地方にも、こうした木地師の集落は多く、特に会津山地に集中していました。これらは会津漆器と結びついていましたが、会津城下から外れた山地に入った木地師団は、漆器問屋との関わりがなく、そのため湯治客相手の木地物商売とりわけ木地玩具の製作販売を始めたと見られています。東北地方には、温泉が多くあります。その湯治客に目をつけたのは、当然だと言えるでしょう。 こうして発生した伝統こけしは、10系統に分類されます。土湯、鳴子、遠刈田、そして弥治郎の4者をいわば源流とし、作並、蔵王高湯、肘折、木地山、津軽、南部の6者を、後の発生ながら独自の型を伝えるものとしています。そして更に、これらの分派が各地にあります。 これは、近くの温泉という小さな市場だったことから、長男以外が木地業で身を立てる場合は、自分で新しい市場を開拓して独立する必要があったためです。弥治郎系のこけしが白石、小原、仙台、飯豊、米沢、郡山、熱塩、塩川、いわき、そして北海道の弟子屈などに散在するのも、このためです。しかし、今では東北地方全体の土産として、また日本を代表する人形として海外にまで、販路は広がっています。 弥治郎も昔は半農半工で、木地仕事は農閑期に限られていましたが、今では1年中やっています。そして毎春、白石市では、「全日本こけしコンクール」が開催さ

加賀温泉郷・湯の里、技の里

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山中、山代、片山津 ー 旧山中町(現・加賀市)は、古くから知られた湯の里です。2005年に加賀市と合併して新生・加賀市となった後、町名がそれぞれ加賀市山中温泉、加賀市山代温泉、加賀市片山津温泉となったのを見ても、これら三つの温泉が、町にとってどんな存在なのかが分かります。 このうち山中温泉は、大聖寺川の中流にあリ、文字通り山の中。山代温泉は大聖寺川下流、前に田園地帯を控え、背後に小高い丘陵を背負った高台にあります。そして片山津は日本海側、柴山潟の畔にデラックスな旅館が立ち連なる明るい温泉です。この三湯に、小松市の粟津温泉を加えて、加賀温泉郷と総称しておリ、それぞれ異なった風情と情趣で、多くの湯客を引きつけています。 この加賀温泉郷には、お湯の他にもう一つの顔があります。山中漆器と九谷焼 ー つまリ「技の里」としての顔です。 山の木地師が、温泉土産に杓子や椀、それに玩具などを挽いたのが、山中漆器の始まリだといいます。漆塗リは江戸時代中頃に始まリ、蒔絵は江戸後期に京都や会津の技術が導入されて基礎が出来たといいます。 同じ石川県には、漆器の代名詞のようになっている輪島塗がありますが、両者の間にはかなりの違いがあります。山中漆器の場合、塗リそのものよりも、むしろ挽きの方に特徴があると言えます。 特に、ひと目で山中漆器と分かるのが、独特の素地加飾「筋挽き」です。器の表面にびっしりと細かい筋を彫リ上げる千筋や、平筋、ロクロ目筋、更には飛び鉋を使った飛び筋、稲穂のような筋文様を彫る稲穂筋など、数十種類の筋挽きがあります。素地加飾に使う小刀やカンナは、全て木地師自らが作ってもので、作業に応じて使いわけます。 また、薄く挽く技術も、非常に優れています。向こう側が透けて見えるような、極薄の茶托や椀素地があって、その技には本当に驚いてしまいます。こうした高度な技術は、漆を塗った後に蓋がぴったリ吸い付くよう見込んで挽く技術にも通じ、中でも茶道の棗では、他の追随を許さない力を持っています。  ◆ もう一つの技・九谷焼も、この時、当時の代表的な作家・北出不二雄さんにお会いし、お話を伺うことが出来ました。北出さんは、1919(大正8)年の生まれで、取材時は60代後半、日展評議員や金沢美術工芸大学名誉教授も務められ、石川県の無形文化財に指定されていました。少年時代から家業である製陶に関わり、兵役に

民謡「貝がら節」の古里・気高

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鳥取市中心部から西へ18kmほどの場所にある気高町は、山陰本線を挟んで、北は日本海に面し、南は中国山地の一部をなす鷲峰山の麓にまで及んでいます。2004年に鳥取市に編入合併するまでの町の代表的な産業は、農業、漁業、それに浜村温泉を中心とした観光でした。気高には浜村、宝木の二つの駅があり、その一つ浜村駅を降りると、すぐ目の前が温泉街になっています。 浜村温泉は、遠く1501(文亀元)年の開湯と伝えられます。古書には「天正年間(1573-92)鹿野城主亀井氏の臣、宍戸豊後白鷺を射て之を傷つく、鷺、沢畔に留まりて去らず、往きて検するに温泉湧出せり」と記され、別名「鷺の湯」とも呼ばれます。 湯どころ山陰路の中でも湯量随一を誇り、県下初の公式温泉プールや野天風呂もあって、湯煙りをあげています。旅館の庭先からは、なだらかなスロープを描いて砂丘公園が広がり、いかにも鳥取らしい風情を伝えています。 また、かつてこの地を訪れた小泉八雲が「不思議なほど渚に近い温泉」と表現したように海にも近く、温泉街から10分ほど歩けば、西因幡県立自然公園に指定されている白砂の海岸線に出ます。この海岸は、民謡「貝がら節」の舞台でもあります。 「何の因果で 貝がらこぎなろうた カワイヤノー カワイヤノー 色は黒うなる 身はやせる」 明治の初め頃、浜村の沖合い東西70kmにわたって帆立貝の大発生をみました。漁師たちはジョレンに網をつけ、底引き船で乗り出しました。「貝がら節」はその苦しい作業を唄った労働歌で、哀調と素朴さに満ちたメロディによって、多くの人々に共感されています。 浜村温泉を今日のように有名にしたのは、あるいは多少この民謡の力に与っているかもしれません。 ところで、浜村駅から山陰線で西へ1駅行くと、因州和紙の里・青谷町に着きます。因州和紙の起源は不明ですが、江戸初期に「美濃紙」の製法が伝来したとされており、伝承では次のような逸話が残っています。 1628(寛永5)年、美濃国から全国を巡錫していた旅僧が、青谷にさしかかった時、にわかに病魔に襲われ、道のほとりに倒れてしまいました。純朴な村人たちは、真心からの手厚い看護を施し、間もなく重い病気も全快しました。旅僧はその謝恩のしるしとして、美濃に伝わる紙漉き法を伝授して再び旅立ちました。 この伝承には、他にもバリエーションがあるらしいのですが、現在につな

美しい風紋を身にまとった砂丘と青い海原のコントラスト

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砂丘というと、どうしても『砂の女』を思い出してしまいます。『砂の女』の舞台は、鳥取ではないのですが、鳥取イコール砂丘、砂丘イコール砂の女、とどうしても連想してしまうのです。 『砂の女』は、海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められる物語です。安部公房の代表作で、近代日本文学の傑作と言われ、20カ国語に翻訳されるなど、海外でも高い評価を得ています。 1964年には、原作の安部公房自身が脚本を書き、勅使河原宏監督により映画化されましたが、とても「濃い」作品に仕上がっていました。映画はDVDも出ており、それが2枚組になっています。映画『砂の女』は、封切り時は147分でした。しかし、カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞したのは122分の短縮版で、勅使河原監督はその後、122分版を正式版とし、147分版は上映されなくなりました。で、その幻のオリジナル版が、一緒に入っているようです。 と、話が鳥取ではなくなってしまいました・・・。今回の記事は、鳥取砂丘の話です。 初めて鳥取砂丘に立ったのは、今から30年以上前でした。ウェート・トレーニング界の第一人者で、当時、雑誌にコラムの連載をお願いしていた小山裕史さんが案内してくれました。 小山さんは出発前、トレーニング・ジムの玄関からビーチ・サンダルを2足、車に積み込みました。10月も下旬になっていたので、サンダルになってまでは・・・と思いましたが、やはりこれは正解でした。 実際に鳥取砂丘に立つと、眺めているだけでは飽き足りなくなります。砂丘といえば、童謡「月の砂漠」のイメージのせいか、一面の砂の原を想像しがちです。しかし、鳥取砂丘は、意外に起伏があるのです。特に正面に見える馬の背状の小高い丘が、おいでおいで、と手招きをしているように思えてきます。高さ47m。傾斜35度。 砂に足をとられながら登るのは、かなりきついです。しかし、その分、頂上にたどり着いた時の風は爽やかです(ただし、あまり長くいると、季節によっては、日本海から吹き付ける風が尋常じゃなく冷たいです)。頂からは、砂丘の広がりと雄大な日本海が一望出来ます。美しい風紋を身にまとった白砂と、青い日本海のコントラストが見事です。 鳥取砂丘を歩きながら、小山さんから、ある相撲部屋の親方が、部屋の力士たちのトレーニングについて相談しに来られた時の話を聞きました。

熱海に見る日本古来の「おもてなしの心」

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今から15年ほど前のお盆休みに、娘と2人の姪を連れて、熱海に行きました。 初日は、足湯&足裏マッサージを体験。娘たちは初めてのマッサージながら、結構、平気な顔をして、気持ち良さそうにしていました。最後に私もやってもらったのですが、足裏の時は内臓は健康ですね、と太鼓判。ところが、指への刺激に移ってからが、さあ大変。指によっては、強烈な痛みを伴いました。どうやら、腰、肩、目に関わるツボのようでした。 「でも、お嬢さんたちの方が、ひどかったですよ」と、店の人。いちばん上の姪は肩に鉛が入っているよう。下の姪は、目がかなりひどい状態。我が家の娘も、足が相当、凝っていた模様。後から聞いたら、みんな飛び上がらんばかりの痛さを堪えていたとか。かわいいもんです。 ところで、この店で、我々一行はゼミ旅行と間違われました。私が教授で、学生をマッサージに連れてきてあげた、という想像だったようです。当時、上の姪と娘は大学生、下の姪は高校生でしたが、この子は身長が高く、また3人とも同じ中高一貫の女子校に行っていたので、姉妹と従姉妹ということもあって、雰囲気がそもそも似ていたのでしょう。 明けて2日目は、朝から 岩盤浴 。「これが本当の岩盤浴!」のキャッチ・コピーと、「うわさ以上の本物だ!」のサブ・キャッチ・・・。これを見る限り、かなり怪しい感じでしたが、とりあえず3人娘に付き合って、私も岩盤浴初体験。 で、どうだったかと言うと、あづい! の一言。10分入って5分休憩を3回繰り返すのですが、かなり体力を消耗するようで、昼食後はあくびが出て仕方がありませんでした。その上、上の姪は、なぜか熱発。当たっちゃったんですかね。 それにしても3人娘、昼食で ビーフシチューを食べた後(私は、「阿藤快お勧めの」という冠がつく、あじ丼でした) 、熱海銀座で目を付けていた レトロな喫茶店 で、特大のバナナパフェやクリームあんみつ、パンケーキを平らげるという食欲を開示。あれだけ汗をかいても、結局、太ったんじゃないか、という珍道中でした。  ◆ さて、そんな熱海に、日本開国後の初代駐日総領事として着任したオールコック卿にまつわる、ちょっといい話があります。 ラザフォード・オールコック卿(1809-1897)が、駐日イギリス総領事として着任たのは1859(安政6)年、日本は攘夷運動で騒然としている最中でした。翌年3月、桜