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民謡のある風景 - 幕末から続いた圧巻の熱狂ぶり(滋賀県 江州音頭)

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万葉の歌人・柿本人麻呂が「近江の海」と歌った琵琶湖は、滋賀県域のおよそ6分の1を占め、日本最大の淡水湖として知られます。 一帯は、7世紀に始まる大津京以来の文化の郷でもあります。湖東平野の中心部にある八日市(東近江市)も、聖徳太子の由来を伝える古い市場町ですが、江戸期、この町で『八日市祭文音頭』という唄が唄われていました。 幕末の頃、神崎郡御園村神田(現・東近江市)に、西沢寅吉という美声の男がいて、彼が唄祭文を習い覚え、独自の工夫を凝らして地元で唄い始めたのが、『八日市祭文』の起こりだといいます。これが『江州音頭』と呼ばれている唄で、地元では夏の夜の盆踊りに欠かせぬ民謡になっています。 唄祭文だけに、歌詞も長くなっています。  ♪ヤ コリャ ドッコイセ(ホラ シッカリセ)   エー 皆様頼みます(ハ キタショ)   アー これからは ヨイヤセの掛け声頼みます   (コリャ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)   アー さては此の場の皆様へ(ア ドシタイ)・・・ という調子で、七五反復の詞が続いていきます。盆踊り唄の方は、錫杖の一種を鳴らしながら唄っていたといいますが、1925(昭和元)年の全盛期には、京、大阪方面でも流行し、座敷唄としても唄われたといいます。 この唄の発生については、犬上郡豊郷町説というのもあって、西沢寅吉がその町の禅寺で初めて唄ったのだ、とも言われています。つまり、この唄い手の出身地説をとれば八日市、初演地説をとれば豊郷ということになります。 八日市では、夏の夜、琵琶湖祭りの行事として『江州音頭』の集いが開かれますが、その熱狂ぶりは圧巻の一語に尽きます。それだけ日本人の体質にはまった唄なのでしょう。琵琶湖を抱えた近江は、実にさまざまな面を垣間見せてくれる郷なのです。

甲賀忍者の古里は、日本六古窯の一つ信楽焼の産地

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甲賀市は、滋賀県東南部、三重、京都、奈良と境を接し、大阪と名古屋のほぼ中間にあります。江戸期には水口藩加藤家が置いた水口城の城下町として発展、また市域を東西に横断する東海道の宿駅が水口と土山に置かれ宿場町としても栄えていました。 「甲賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者でしょう。 こう書くと、昨日の記事(伊賀忍者の古里は、俳聖・芭蕉生誕の地)と、ほぼ似た文章になってしまいますが、甲賀と伊賀はお隣同士。2017年には、「忍びの里 伊賀・甲賀ーリアル忍者を求めてー」として、伊賀市と甲賀市が、ダブルで日本遺産に認定されています。 というわけで、甲賀市も伊賀市同様、市内には忍者をモチーフにしたあれやこれやがあふれています。JR東海道本線の草津駅とJR関西本線の柘植駅(三重県伊賀市)を結ぶJR草津線には、今年の6月までラッピング列車「SHINOBI-TRAIN(忍びトレイン)」が運行していました。1時間に上下4本程度走っていましたが、運行日も時間も公表されない忍者列車で、その神出鬼没ぶりも人気の一つでした。当初は2019年までの予定でしたが、好評のため延長され、今回、車両の定期点検でラッピングを外す必要があり、「忍務」完了となったそうです。 ただ、甲賀市には忍者にまつわる施設が盛りだくさん。甲賀流忍者を学んだり、体感出来たりする「観光インフォメーションセンター甲賀流リアル忍者館」、水ぐも体験などが出来る「甲賀の里忍術村」、甲賀流忍者の住居として歴史的にも貴重な「甲賀流忍術屋敷」の他、忍者が長けていた薬術に関する資料を展示する「くすり学習館」や、忍者の信仰を集めたと言われる「油日神社」などがあります。 甲南町にある甲賀流忍術屋敷は、代々望月出雲守を名乗る甲賀忍者の頭目望月家総領家の居宅です。忍者が暮らしていた本物のからくり屋敷で、現存しているのは日本で唯一ここだけです。屋敷には、「隠し扉」や「からくり窓」、「どんでん返し」など、不意の敵襲があった際に、逃げるための仕掛けが残っています。 また、甲賀町にある甲賀の里忍術村は、山の自然をそのまま生かした広い敷地内に、研究資料の一部を展示する忍術博物館やからくり屋敷が点在しています。からくり屋敷は、忍術三代秘伝書『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』の編者の一人とされる藤森保義の居宅を、解体移築し活用しています。忍術博物館は、

銘菓郷愁 - 近江源氏の悲話秘めた「うばがもち」 滋賀県草津

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草津は、東海道と中山道の分岐点にある宿場町として栄えました。五街道のうちの重要な二街道が交差する宿場ですから、そのにぎわいも格別だったようです。 1843(天保14)年の調べでは、草津には72軒の旅籠屋がありました。これは、近江地方の東海道・中山道沿いの宿場町としては、最大規模のものでしたから、その交通量の多さも推察出来ようというものです。 そのにぎわう宿場町で有名だったのが「うばがもち」で、江戸時代の旅行案内書にも、名物として記されています。 近松門左衛門の世話物の作品に『丹波与作侍夜の小室節』というのがあって、その中の道中双六の台詞にも「うばがもち」が登場します。 「ここで矢橋の舟賃が、出舟召せ召せ旅人の乗りおくれじとどさくさ津、お姫様よりまずうばが餅・・・」 江戸の頃から有名だった草津の「うばがもち」には、近江源氏の悲話が絡んでいます。 室町時代後期の近江の守護大名に、近江源氏の佐々木氏(六角氏)という一族がいました。この一族は、六角義賢の代に、足利将軍を支え、観音寺城に拠って織田信長と戦います。けれども戦いに敗れ、義賢とその子義弼は甲賀に逃れて、更に抵抗しますが、とうとう1570(元亀2)年に降伏、一族はちりぢりになってしまいます。 一族離散の中で、3歳になる義賢の曽孫を守って逃れたのが、福井殿と呼ばれていた乳母でした。乳母は六角氏の血につながる子を連れて、自らの故郷である草津に潜み、それからは、街道を行き交う人々に餅を売って、遺児を育てたといいます。 このことは、次第に道行く人々の間で評判になり、餅もだれ言うとなく、「うばがもち」と呼ばれるようになりました。 言い伝えでは、大坂城が落城した頃(1615年)にも乳母は84歳で健在だったそうで、草津を通った徳川家康に餅を献上して、長寿を称えられたそうです。こうして「うばがもち」は、一躍有名になっていきます。 往時をしのぶ「うばがもち」は、乳母の乳房になぞらえた形で、草津産の有機もち米を使って切餅にし、それを、こし餡で包み、その上に砂糖をポッチリと乗せてあります。伝統の味を今に伝えた見事な甘さに驚かされます。

城のある風景 - 開国の大老を偲ぶ天守閣

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彦根市は古くから開けた滋賀県東部の中心都市ですが、かつて明治の薩長藩閥政府からは、国賊の町として卑しめられたといいます。安政年間、強い指導力を発揮した大老・井伊直弼は、彦根藩主でもありました。 直弼が、大老として幕閣の最上位に列したのは、1858(安政5)年4月のことでした。その後、彼の強力なリーダーシップで日米修好通商条約が結ばれます。直弼を問責した水戸の徳川斉昭は謹慎を命ぜられ、その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で同じような条約が結ばれて、日本は開国の途を歩み出します。 尊皇攘夷派に対する大弾圧が始まったのは、その直後のことでした。 井伊家が居城としていた彦根城は、もともと、京都の抑えとして幕府が重要視した拠点でした。城の工事は、1603(慶長8)年から始まり、06年には高さ約24mの3層の天守閣が完成しました。上が狭く、下が曲線状に広がる花頭窓を持った、破風白壁の優美な天守でした。 築城に当たっては、周辺の寺院跡や古城から石が運ばれ、大津城や小谷城、長浜城を壊して用材が持ち込まれました。重要拠点づくりということで、7カ国12大名が協力して普請に当たったといいます。 城域およそ250万平方mに及ぶ工事は、ほぼ20年の歳月をかけて行われ、広い三重の堀、堅牢な高い石垣を誇る彦根城が完成、徳川譜代大名の筆頭井伊氏が治めることとなります。 直弼は、1850(嘉永3)年、病弱で死亡した兄の後を継いで、13代藩主となりましたが、運命の歯車が別に回っていたら、外濠のほとりの埋木舎で、静かな生涯を送ったのかもしれません。しかし、時代はこの人を求めたのでしょう。1860(万延元)年3月、直弼は水戸藩士に襲われ、雪を血に染め、逝きました。まだ46歳でした。 ※実は、彦根城の築城には、我が家の先祖も関わっています。徳川四天王の筆頭・井伊直政の従兄弟であった、先祖の鈴木重好は、直政の死後、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。そして、1603(慶長8)年、征夷大将軍となった家康の命により、直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。

山紫水明の渓谷に伝統の技が息づく木彫りの里

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滋賀県北東部、琵琶湖東岸の町・米原。古くから交通の要衝として栄え、現在も新幹線停車駅の米原は、東海道・北陸両線の連絡駅となっています。また、国道8号と同21号の分岐、名神高速道路と北陸自動車道のジャンクションもここにあります。 米原にはもう一つ、東海道本線・醒井駅があります。古来、中山道61番目の宿駅として賑わった町です。この宿場の東の入口に、清らかな湧水があります。『古事記』や『日本書紀』に見られる「居醒の泉」だとされ、『十六夜日記』を始め古くから多くの書物に書き残されています。 湧き出た水は、地蔵川となって街道筋を流れます。川には釧路湿原や奥日光・湯川などで見られるバイカモが群生しています。水温が年間14度前後の清流に育つこのバイカモが、訪れる人の気持ちを和ませ、なんともいえない趣をこの宿駅に与えています。 その醒井から鈴鹿山脈の北の端、霊仙山へ向かって3kmほど進むと、木彫りの里・上丹生に出ます。1日の平均日照が3時間といわれるほど山が迫り、その間を流れる丹生川に沿って民家が軒を連ねています。130戸ほどのうち約4分の1が、木工を生業とする家だそうです。 上丹生で木彫が始まったのは、江戸中期。堂大工・上田長次郎の次男勇助が、友人の川口七右衛門と共に京都で12年間、彫刻修業をし、帰郷して社寺彫刻や欄間彫刻を手がけたのが始まりです。その後、2代目勇助が長浜の浜仏壇の彫刻を始め、江戸末から明治中頃にかけて、木彫の村として大きく成長しました。更に明治の末、横浜で西洋家具、東京で西洋建築を学んだ宮大工の森曲水が、それらを伝統的な木彫技術に生かし、工芸として新しい流れをつくりました。 森曲水の弟子の一人井尻庄一さんは、昭和元年からノミを手にし、芸術性の高い作品で上丹生の木彫の第一人者と言われました。その後、息子の宣男さん、信一さん兄弟が後を継ぎ、更に現在は孫の一茂さんが継承しているようです。取材でお会いした際、庄一さんは「木彫りは下絵がすべて」と話していました。「いい構図が浮かぶと寝食を忘れ筆を執る」と。 社寺建築の彫刻から欄間、仏像、だんじりを始めとした祭の山車や曳き物、床置、家具、仏壇など木で彫れるものは何でも彫るのが、上丹生の木彫の特色です。さまざまなものを彫るため、粗彫りも含めるとノミの種類は300種以上に及びます。上丹生にはこうした彫刻を始め木地、仏壇の飾り金具

近江聖人の古里にある「白鬚さん」の湖中鳥居

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湖西の中心都市・高島市を初めて訪問したのは、今から20年前のことです。この時は、伝統工芸の高島扇骨を取材しました。 高島市の安曇川町は、湖西第一の大河・安曇川流域の町です。高島市一帯は、古くから開けた土地で、北陸や若狭と京畿を結ぶ交通の要衝にありました。『延喜式』には、大津から船で高島に至る運賃が記載され、そこから先は陸路をとったとあります。 また、日本海ルートで入る大陸文化の影響も色濃く、こうした文化の通り道であったことを反映してか、高島市には、古くから伝わる工芸品がいくつかあります。高島硯、雲平筆、それに取材した高島扇骨です。 350年の伝統を持つ扇骨は、安曇川町西万木(にしゆるぎ)を中心に生産され、現在、全国シェアの約90%を占めています。大陸との交易の開港地北陸と京を結ぶ要衝にあったこと、また雪に覆われる冬の間の農民の副業に適していたことなど、地理的、生活的条件から必然的に発展してきました。 起源については、都の貴族がこの地に隠棲して作り始めたとか、武士の落人が生活の糧を得るため始めたとか、諸説があります。しかし、そもそものきっかけは江戸初期、安曇川流域に住んでいた長谷川玄斎という医者が、度重なる川の氾濫で農民が苦しむのを見かね、堤防に竹を植えたことに始まります。 後年、この竹に目をつけた戸島忠兵衛という人物が、冬の農家の副業として導入。自ら仲買人となって販路開拓に努め、農民に利益をもたらせようとしました。また、幕末には名古屋で高度の技術を学んで帰った井保久吉や、その甥で、京阪に販路を求め、ついには扇子の輸出にまでこぎつけた井保寿太郎など、多くの先人たちの努力により、扇骨産地としての形態が整ったのです。 安曇川は近江聖人・中江藤樹の生地ですが、藤樹のみならず、この地方は古来、人徳豊かな土地柄であったのでしょう。 扇骨の工程は親骨が18、仲骨が16と、非常に煩雑。竹は節間40cm以上の3〜5年生のものを使います。これを用途にあった長さに切り、扇骨用に細く割ります。後は親骨と仲骨に分けられ作業が進みます。なかでも技術のいるのは、形を整えるために幾種類もの包丁(鉋の刃)を使って仕上げる工程。 これが終わると漂白され、冬で1週間、夏で3日ほど白干(乾燥)をします。この時、均一に削られた竹はまるで花のようにまとめられ、美しい幾何学模様を見せてくれます。乾燥後は再度削り

「近江の北海道」と呼ばれる湖北の旅

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いうまでもなく、琵琶湖は日本一大きい湖です。滋賀県全体の約6分の1を占め、琵琶湖を中心に湖東、湖西、湖南、湖北と地域が区分されます。今回はそのうち、湖北の紹介です。 湖北は、米原市と長浜市になりますが、米原市は別記事を立てるので、とりあえず長浜市を中心に書いていきます。以前は、坂田、東浅井、伊香の3郡に湖北町や高月町、木之本町、余呉町などがありましたが、2010年に長浜市がそれらを編入合併し、大津市と草津市に次ぐ県下第3の都市になりました。 琵琶湖が南北に長い分、湖南と湖北とでは気候や風土ががらりと変わり、湖北には北国の厳しさがあります。湖北は「近江の北海道」とも言われ、冬はどんよりした雪雲に覆われる日が多くなります。そんな北陸型の気候を、地元の人たちは「伊香しぐれ」と呼びます。高月、木之本、余呉の各町があった旧伊香郡の「伊香」というのは、古語で「雪」を意味する言葉だそうで、その名の通り、湖北の冬はよく雪が降ります。これは湿った日本海の風が伊吹山にぶつかって雪を降らせるためで、冬場、米原や関ケ原辺りで東海道新幹線に遅れを生じさせるのは、この「伊香しぐれ」が犯人です。 関ケ原と言えば、昨日のブログ( 天下分け目の関ケ原を抱える西濃地方 )でも触れたように、豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた「天下分け目の戦い」で知られますが、その秀吉が、織田信長の後継を柴田勝家と争ったのが、賤ケ岳の合戦です。賤ケ岳は旧余呉町にあり、山頂からは南に琵琶湖、北に余呉湖が望め、琵琶湖八景の一つに数えられています。 長浜市の中心は、滋賀県唯一の新幹線駅米原のすぐ北にあります。ここは、豊臣秀吉が初めて城を築いた地で、長浜城は出世城と呼ばれましたが、豊臣家滅亡後、廃城となりました。1983年、湖畔に天正様式の天守閣を持つ城が再建され、長浜城歴史博物館となっています。 長浜から湖岸を北へ向かうと、虎姫、湖北、高月、木之本と続きます。琵琶湖八景の一つ竹生島は、この辺りからの眺めがお勧めです。島には長浜港と木之本の飯浦港から船で渡れます。 旧湖北町には、野烏センターがあり、観察室のスコープや双眼鏡でバードウォッチングが楽しめます。湖岸には、コハクチョウや天然記念物のオオヒシクイなど1万羽を超す鳥が飛来します。天気の良い日は超望遠レンズをつけたカメラマンたちが、水鳥たちや美しい夕陽を撮っています。 高月町

近江商人を輩出した湖東の町 - 近江八幡、八日市、五箇荘

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松前をテーマにしたブログ( 北前船が行き交った最北の城下町 )で、近江商人に触れましたが、松前や江差に入った近江商人の出身地は、ほとんどが近江八幡でした。近江商人の中でも八幡商人は、北は蝦夷(北海道)から南は安南(ベトナム)までという広範囲を行商して、各地に出店をつくり、近江商人の名を高めました。 この近江商人という言葉ですが、もともとは他国の人からつけられたものです。他にも富山商人、甲州商人、紀州商人、伊勢商人、大坂商人などの呼び名がありますが、これらはいずれも地名を冠してそう呼ばれたもので、それぞれの商いの仕方で、日本の商業を発展させてきました。 これらの商人のうちで、近江商人の特色としてあげられるのは、第一に行商形態をとったこと、第二に全国各地に出店したこと、第三に営業種目が多岐にわたっていたこと、そして第四に合理的な経営を心がけたことです。特に天びん棒が近江商人のトレードマークと言われるように、自ら天びん棒を担いでの行商が、彼らの商いのルーツとなります。 天びん棒には矢立や帳面、商品見本などが入った行李が結わえられていました。そして菅笠をかぶり、木綿の着物に粗末な合羽を羽織り、足元は脚絆に足袋、草鮭をはいて、何日も歩き続けました。そして商品はまとめて、馬や荷車で定宿に送っておき、そこを拠点に売り回ったのです。 更に、彼ら近江商人の大きな特徴となっているのが、いわゆる「ノコギリ商法」の敢行です。行商の時、郷里や上方の産物を、主に中山道を中心として地方に持ち下り、商品を全て売りつくすと、帰りは手ぶらでは帰らず、その地方の産物を仕入れ、国元や上方地方で売りさばきました。これによって行商先の人々も潤い、国元でも地方の特産が手に入り喜ばれました。 八幡商人のふるさと近江八幡は、琵琶湖の東岸にある豊臣秀次20万石の城下町です。1585(天正13)年、叔父の秀吉から八幡山城主に任命された18歳の秀次は、本能寺の変の折に混乱の中で焼失した安土城下の人々を、そっくり近江八幡に移して新しい町を造り上げました。 横筋4通り、縦筋12通りの碁盤目模様の町並みや八幡堀を造営。特に長さ6kmに及ぶ、琵琶湖と直結した八幡堀は、明治、大正の頃まで商工業の動脈としての役割を果たし、今も旧城下町のシンボルになっています。また、べんがら格子の商家や白壁の土蔵が建ち並び、今にもマゲ姿の商人たちが格