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キャラメルのような干し芋「ひがしやま」 高知県大月町

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漢字で書くと「干菓子山」。高知では誰もが知っている干し芋で、中でも大月町竜ケ迫産は絶品と評判です。通常、干し芋というと、スライスした平たい芋(平干し)を思い浮かべる人の方が多いと思いますが、高知の「ひがしやま」は、そのまま干す丸干し派です。 そもそも、干し芋は、静岡県で誕生したもので、それが茨城県に伝わり、爆発的に広がります。そこには、海での遭難が絡んでいます。 江戸も後期に入った1766(明和3)年、薩摩の御用船が駿河の御前崎沖で座礁。その乗組員を大澤権右衛門親子が助け、お礼の金20両を断り、代わりに船にあったサツマイモの種芋を分けてもらい、栽培方法も伝授されました。その後、サツマイモは近隣にも伝わり、1824(文政7)年には、御前崎の付け根辺りにある白羽村(現・御前崎市)の栗林庄蔵が、ゆでたサツマイモを薄く切って干す「煮切り干し」を考案。更に1892(明治25)年頃、天竜川の右岸にある大藤村(現・磐田市)の大庭林蔵と稲垣甚七が、サツマイモを蒸して厚切りにして乾燥させる「蒸切り干し」を考え出し、今日につながる干し芋が誕生しました。 一方、現在の主産地・茨城県に伝わったのも、船の遭難がきっかけでした。1888(明治21)年、阿字ケ浦(現・ひたちなか市)の照沼勘太郎が、静岡県沖で遭難。助けられた土地で見た干し芋をヒントに、1895(明治28)年から見よう見まねで干し芋作りを始めました。その後、1908(明治41)年になって、阿字ケ浦の小池吉兵衛と、湊町(現・ひたちなか市)の湯浅藤七が、本格的に干し芋の製造を開始。これをきっかけに各地で生産が拡大し、今では総生産量の約9割を茨城県が占めるまでになっています。 で、高知の「ひがしやま」ですが、これは、そんな干し芋の概念を完全に覆すシロモノです。いつ頃から作られているのかは分からないのですが、地域によって「ほしか」とか「ゆでべら」とか、いろいろな呼び名があるらしく、結構、古くからあるようです。 「ひがしやま」の語源については、「干してかちかちにするという意味の古い土佐弁『ひがちばる』」からきているという説もあります。でも、大月の「ひがしやま」は、「かちかち」とはほど遠いので、少なくとも大月バージョンは、「ひがちばる」ではなさそうです。また、漢字は「東山」とも書くようですが、大月町のある幡多郡に、かつて東山村(現・四万十市)が

発祥の形にこだわったきんつば「肥後鍔」 熊本

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きんつばというと、四角いものを思い浮かべる人が多いと思いますが、元は丸型でした。しかも、最初は、きんつば(金鍔)ではなく、ぎんつば(銀鍔)だったというのです。 江戸前期の天和年間(1681 - 1684年)に、京都の清水坂辺りの屋台で売られた焼き餅が、庶民の間で流行しました。小豆餡を米粉の生地で包んで焼いたもので、その色と形が刀の鍔に似ていたことから「銀鍔」と呼ばれました。 それが、享保年間(1716 - 1736年)に江戸に伝わり、米粉を小麦粉に変えて焼いたところ、焼き色が付いたことで、「銀より金の方がいい」と、「金鍔」と名付けられたと言われます。江戸時代には、「流石武士の子金鍔を食べたがり」といった江戸川柳もあって、金鍔は、江戸の代表的な菓子になっていたようです。 その後、明治になって、神戸元町の紅花堂(現・本高砂屋)の創業者・杉田太吉が、金鍔を改良して角型のきんつばを考案。これが徐々に広がり、本家も分家もしのいで、一般的になったとされます。一説によると、丸より四角の方が効率よく衣を付けることが出来、一度にたくさん焼けるようになったからだと言われています。 ところで、このブログに何度か登場している甘党の夏目漱石先生も、もちろん金鍔がお好きだったでしょう。小説『坊ちゃん』の中で、主人公のことを「坊ちゃん」と呼んで可愛がる下女・清について書きながら、「(略)折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる」と、さりげなく金鍔のことに触れています。紅花堂が、角型の「きんつば」を売り出したのは、1897(明治30)年のことで、『坊ちゃん』が発表された1906(明治39) 年に、丸か角か、どちらが一般的だったかはかなり微妙なところですが、子どもの頃の思い出であれば、間違いなく丸型だったはずです。 そんな中、日本橋にある榮太郎本舗は、幕末の頃、屋台で金鍔を商っていたそうで、今も当時と変わらず、刀の鍔をかたどった丸い金鍔を作っています。また、他にも、発祥の丸型にこだわっている店があります。 熊本にある、お菓子の香梅です。香梅の金鍔は、以前は「まるきんつば」という名前でしたが、「刀は備前、鍔は肥後」と言われたブランド鍔にあやかり、「肥後鍔」に改名しました。 肥後鍔は、江戸時代から熊本と八代を中心に作られてきた刀の鍔です。鍔は手を防御するための刀装具ですが、肥後鍔は古今の刀装具の中

魚沼産コシヒカリを使った「しんこ餅」 新潟県南魚沼

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「しんこ餅」というと、奈良や京都の「しんこ」、関東の「すあま」など、上新粉で作った菓子の総称になります。上新粉は、うるち米を精白・水洗いし、乾燥させてから粉にしたもので、「しんこ餅」は、もち米で作られる普通の「餅」に比べ、粘りが少なくて歯切れがよく、コシと歯ごたえがあるのが特徴です。 新潟県では、郷土菓子として人気があり、特に日本屈指の米どころ中越地方では、名物となっています。中越の南部、魚沼地方と呼ばれる十日町市や魚沼市、南魚沼市などの「しんこ餅」は、白くて中に餡が入っているのが一般的です。このうち南魚沼市の浦佐には、その名もずばり「しんこ餅」という地方銘菓があります。 浦佐の「しんこ餅」は、もともと、国指定無形民俗文化財である浦佐毘沙門堂「裸押合大祭」が行われる日にだけ作られていました。裸押合大祭は、毎年3月に行われる日本三大奇祭の一つで、約1200年の歴史を持ちます。 807(大同2)年、坂上田村麻呂が、東国平定の際に自身の守り本尊「毘沙門天」を祭った御堂を建立。「国家安穏」「五穀豊穣」「家内安全」を村人と共に祈り、祝宴の中で歌い踊って士気を鼓舞したことが、祭の始まりと言われます。 この祭り、かつては新年の3日に行われていました。しかし、我先に参拝しようと多くの信者が押し合いへし合いし、更に除災招福を願って水行をしてお詣りする人も出て、次第に裸になる者が多くなり、ついには全員裸で御本尊に額づくといった案配で、1月から3月に日程を変え、今の裸押合大祭の形になったということです。 その浦佐にある東家製菓舗は、「しんこ餅」一本勝負の店。上新粉で作る「しんこ餅」は、すぐに固くなりがちですが、粉の配合を変えるなど試行錯誤を繰り返し、ようやく昔ながらの製法をベースにしながら、風味を損なうことなく柔らかさを保つことが出来るようになったといいます。そうして出来た「しんこ餅」は、さらっとした食感で甘さ控えめのこし餡を、ブランド米の魚沼産コシヒカリを使って包み込んでおり、浦佐名物の土産として、大人気となっています。 取材で浦佐に行った際、製造元を訪ねてみましたが、その日は早くに売り切れたらしく、営業時間内だというのに、既に店は閉まっていました。上越新幹線浦佐駅の売店にも置いてありますが、こちらも早めに行かないと売り切れ必至です。私は、たまたま駅前のホテルに泊まったので、あくる日、

栗と砂糖だけを使う美濃生まれの「栗きんとん」 岐阜県中津川

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中津川は、木曽路の入口にあり、町のどこからでも、美濃と信濃にまたがる恵那山が見えます。その中津川の駅前ロータリーに、「栗きんとん発祥の地」と書かれた碑が建っています。 栗きんとんというと、おせち料理の栗きんとんを思い浮かべる人も多いと思います。ゆでたサツマイモを裏ごしして、砂糖や塩などと合わせた粘りけのある餡を栗にまとわせたもので、「金団」と書きます。しかし、中津川など東濃地方の栗きんとんは「金飩」と書き、炊いた栗に砂糖を加え、茶巾で絞って形を整えた和菓子のことなのです。 中津川はかつて、中山道の宿場町として栄えました。東西の文化が入りやすかったため文人も多く、江戸後期には旦那衆の間で俳諧や茶の湯が流行。その必需品が菓子であり、舌の肥えた旦那衆をうならせる菓子作りのため、職人たちは試行錯誤を繰り返し、出来上がったのが栗きんとんだと言われます。 中津川の地域情報サイト「恵那山ネット」で出している「栗きんとんめぐり公式パンフレット」を見ると、市内には栗きんとんの店が14店あります。栗の収穫が始まる9月から冬にかけ、各店手作りで製造します。 いずれも材料は栗と砂糖だけ。しかも作り方もほぼ同じなのに、味は全て違うといいます。栗に砂糖を加えて炊き上げるわけですが、栗そのものが違うのか、砂糖が違うのか、炊き上げる温度や時間が違うのか、その微妙な加減がまた人気となっているようです。 中でも有名なのは、栗きんとんを初めて売り出したと言われる「すや」と、江戸末期の1864(元治元)年創業の「川上屋」です。「すや」の創業は元禄年間で、江戸から下ってきた武士が、「十八屋」の屋号で酢屋を開いたのが始まりだそうです。その後、1902(明治35)年に7代目が駄菓子屋に転向、次の8代目から生菓子を作るようになったといいます。 ただ、中津川から西へ約45kmほどの八百津町にある「緑屋老舗」(1872年創業)も、元祖栗金飩を標榜していて、明治20年代に3代目が商品化したそうです。で、「すや」の娘さんが八百津町に嫁いだことで、栗きんとんが中津川に伝えられたとしています。 決着はまだ見ていませんが、いずれにしろ美濃で生まれたお菓子であることは間違いないようです。

日本の饅頭発祥の店・塩瀬の「志ほせ饅頭」 東京都中央区

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以前、事務所があった築地2丁目から、歩いて10分ほどの所(明石町)に、創業670余年という老舗和菓子屋・塩瀬総本家があります。塩瀬によると、「貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです」とのことです。 龍山徳見は、1305(嘉元3)年から49年まで、長期間、元に滞在していました。徳見が帰国する際には、禅僧を始め船主など元朝の人々が同行し、そのまま日本に留まった一行の中に林淨因がいました。淨因は、徳見が修行をしていた禅堂の饅頭(マントウ)職人を務めており、その経験を生かして、小豆餡入りの饅頭(まんじゅう)を作りました。 本来のマントウは肉などを詰めますが、淨因は、戒律で肉食出来ない日本の禅僧のため、それを回避するものを作ったわけです。これが、菓子としての日本の饅頭の元祖ということになります。 その後、林家の子孫は京都に移り、応仁の乱では戦禍を逃れ三河の塩瀬村(現在の愛知県新城市塩瀬)へ避難。ここで「塩瀬」に改姓しました。乱の後、再び京に戻って饅頭を商うようになると、これが大繁盛。足利義政から「日本第一番饅頭所」の看板を受けました。以後も織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康らに愛好され、江戸開府と共に江戸に移転しました。 お勧めの一品は、江戸時代から名物として有名な「志ほせ饅頭」。伝来の食感にこだわり、国内産のヤマトイモをすり下ろし、上新粉と砂糖を加えて練った皮で、これまた吟味した北海道産の小豆餡を包んでいます。かなり小ぶりですが、しっかりとした食べごたえのある饅頭です。

香ばしい皮に包まれた「空也もなか」 東京都中央区

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まだ築地に事務所があった2014年、久しぶりに訪ねて来られた知人が、手土産に空也の最中を持って来てくださったことがありました。「空也もなか」というと、母が存命中、「予約してあるから昼休みに取ってきて」と、よく言いつかったものです。 空也は、銀座6丁目の並木通り沿いにあり、事務所からは歩いて15分程度。昼休みの散歩には、ちょうどいい案配でしたが、いつも取りに行くだけで、私の口に入ったためしがありませんでした。ただ、予約しないと手に入らないことだけは頭に入りました。 1884(明治17)年に創業した空也の初代古市阿行は、実は江戸城の畳職人だったそうです。それが、大政奉還で職を失い、踊り念仏仲間の一人、榮太樓總本鋪の創業者である細田安兵衛(幼名栄太郎)の力添えもあり、職人を集めて和菓子屋を開いたといいます。そして、踊り念仏の由来である空也上人の名を屋号としました。また、踊り念仏の拍子をとる時に叩くひょうたんから着想を得て、最中をひょうたん型にしました。 「空也もなか」の最大の特徴は、「焦がし種」とよばれる香ばしい皮にあります。これは、初代が懇意にしていた9代目市川團十郎を訪ねた際、團十郎が長火鉢で炙った最中を出してくれ、それが美味だったことから、皮を焦がした最中を作るようになった、と伝えられています。中の餡は、北海道の契約農家から仕入れた小豆に白ざらめを加えて炊き上げ、最後に水飴でつや出しをしています。シンプルですが、すっきりと控えめな甘さに仕上がっています。 ところで、空也というと、よく、夏目漱石が愛したとか、『吾輩は猫である』に登場するとか紹介されます。前の記事( 銘菓郷愁 - 漱石にも勧めたい『坊っちゃん団子』 愛媛県松山 )にも書きましたが、漱石は甘いものが大好きだったそうです。 で、漱石が、自宅の菓子鉢に常備していたのが、空也餅だったらしく、『吾輩は猫である』に登場する空也餅のくだりは、実話だったようです。そのうちの1カ所は、門人である水島寒月の縁談で、相手の母親が訪ねて来た時の話でした。 「『御話は違いますが ― この御正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃ御座いませんか』『ええその欠けた所に空也餅がくっ付いていましてね』と迷亭はこの質問こそわが縄張内だと急に浮かれ出す。」 実はこれ、夏目漱石の門人・寺田寅彦のエピソードだそうで、寺田自身がエッセーの中で、

銘菓郷愁 - ブドウを包む「月の雫」 山梨県甲府

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「勝沼や馬子は葡萄を喰いながら」の句で知られるように、山梨県の勝沼の辺りは、古くからのブドウの産地でした。ブドウは、もともとヤマブドウやオオエビカヅラなどの野生種が知られていました。栽培作物になったのは、中国から渡来した系統のもので、1300年ほど昔、僧行基が広めたと言われています。 甲州ブドウは、1186(文治2)年に、今の勝沼町の雨宮勘解由という人が、域ノ平で、1株の変種を見つけ、それを持ち帰って栽培したのが、そもそもの始まりとされています。その後、名医で、後に貼り薬の商品名にもなった永田徳本が、この地を訪れ、棚架け法などの栽培法を指導したと言われます。 徳本の指導の後、この地の栽培は急速に伸びたといい、1667(寛文7)年には、徳本の石碑も建てられたそうです。当時、この地は、徳川綱重が治めていましたが、その後を継いだ綱豊は、1704(宝永元)年に5代将軍綱吉の養子になります。そのため、甲斐・甲府藩は、綱吉の側用人だった柳沢吉保が治めることになり、家臣団と甲府に移り住みました。 1709(宝永6)年、綱吉が亡くなると、吉保も現役を退き、後を子の吉里が継ぎます。彼の治世中の1710年代の調べによると、甲州ブドウの産地はわずか14町7反(約4万4000坪)に過ぎませんでしたが、そのブドウが、思いもよらぬ珍しい菓子を生み出すことになります。 1723(享保8)年秋、甲府の老舗・牡丹亭の主人が、菓子を作ろうと、ブドウ棚の下で砂糖を煮詰めていた時のことです。1粒のブドウが、ぽろりと砂糖鍋の中にこぼれ落ちました。見ると、ブドウの粒の周りに砂糖が白く固まり、清らかな色の砂糖菓子状になっているではありませんか。主人が味わってみると、まことに高雅な珍味でした。 早速、藩主の吉里に献じられました。吉里は、この初めての菓子の味をめでて、「月の雫」と命名したということです。吉里は、翌年、大和郡山に転封となりますから、この名は、吉里の置き土産ともなりました。 「月の雫」は砂糖を熱して蜜状にし、温度を整えながら、ブドウを包んで仕上げます。包んでなおブドウのみずみずしさを保つのが伝統の技です。口に含むと甘さが広がり、一気にかじるとブドウが割れ、蜜と酸味が口中にあふれ、衣の砂糖と絶妙のハーモニーを奏でます。甘味の歴史をまとめて味わえる銘菓です。

銘菓郷愁 - 風雅伝える逸品「大手まんじゅう」 岡山

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饅頭は、蒸し菓子の中の王様と言われています。饅頭の製法が中国から伝わったのは、南北朝時代の初めにあたる1340年から1345年の頃と言われ、日本に帰化した中国・元の人が、初めて作った、とされています。 一方、鎌倉時代の禅僧・弁円円爾(べんねんえんに)が伝えたと言われているのが、酒饅頭です。弁円円爾は、1235年に中国に渡って、41年に帰国し、博多(福岡)、京都、鎌倉に、今に残る名刹を創建した高僧でした。 いずれにしても、室町時代には、広く饅頭の名が知られていたようで、当時の歌合わせにも、「いかにせむこしきに蒸せるまんじゅうの思いふくれて人の恋しき」というのがあるそうです。 江戸時代、17世紀半ば頃になると、今とほとんど変わらない饅頭が作られていたと言われます。『食膳雑記』(1673年書写)という本にも、「甘酒と水を合わせ、粉を入れ、ゆるゆるにならぬようこねて……」と、作り方が書かれ、よく知られた食べ物だったようです。 「大手まんじゅう」は、岡山の大手饅頭伊部屋の初代にあたる、伊部屋永吉が創製したもので、この店の創業は1837(天保8)年のことでしたから、もう180余年以上も前のことになります。 初代の伊部屋永吉は、もともとは回船問屋を営んでいた人でした。風流な人だったようで、大坂から酒饅頭の製法を持ち帰って、地元で作り始めました。それが、備前岡山藩主の好みにも適い、茶会の席などでも使われました。「大手まんじゅう」の名も、藩主直々の命名だった、と伝えられています。 岡山藩は、藩主・池田光政の大規模新田開発でも知られるように、昔からの米どころでした。「大手まんじゅう」は、その良質の備前米で作られます。 まず、糀から作り始め、もち米などを加え、日数をかけて、じっくりと甘酒を熟成させます。これに小麦粉を混ぜ合わせ、発酵させて、饅頭の生地を作ります。また、北海道・十勝産の良質な小豆を、特製の砂糖で練って餡を作り、それを生地で包んで、香り豊かに蒸して、仕上げます。 甘酒のコクと餡の甘さが調和した独特の味わいは、とてもまろやかで、餡の練り方もまた古式を伝えて、風味があります。口に含むと、うっすらと広がる生地の酸味もまた風雅な銘菓です。

銘菓郷愁 - 羊羹の源流をしのぶ「いでゆむし羊羹」 静岡県伊東

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羊羹といえば、まずは練羊羹のことを思い浮かべるようになったのは、いつ頃からだったのでしょう。練羊羹が作られるようになったのは、寒天が作られ出した1658(万治元)年から後のことだと言われていますが、もっと早く、1589(天正17)年に初めて作られ、1626(寛永3)年には、今のいわゆる羊羹色をした羊羹があった、という説もあります。 どちらにしても、19世紀になると、練羊羹が高級な味わいの上等品として、珍重され出したようです。 けれども、もともと羊羹といえば蒸した羊羹を指すのが普通のことでした。蒸し羊羹は、赤小豆の餡に小麦粉を加え、甘味の汁で練ってから、せいろで蒸したものでした。練羊羹は、これとは違い、輸入品の砂糖を使って煮詰め、それと赤小豆や寒天を練り混ぜたのですから、甘さがまず違います。砂糖は、江戸後期になっても、貴重品だったことには変わりなく、600gの値段が200文から300文はしました。職人の日当が、300文から400文という時代ですから、砂糖入り練羊羹の高級感も想像出来ようというものです。 しかし、練羊羹が登場してからは、蒸し羊羹もまた高級化して、小豆に、葛や砂糖を加えて作るようになります。味は甘くて、淡白、しかも値段は練羊羹よりも安かったそうです。このため多くの人に好まれ、奉公に出た店員さんでも喜んで買えた、というところから「丁稚羊羹」と言われたそうです。 「いでゆむし羊羹」は、古くからの蒸し羊羹の味覚を今に伝える逸品で、この蒸し羊羹は、伊東の温泉の水蒸気を使って蒸しています。伊東の温泉は、27度から57度と言われ、湧出量も膨大なものです。 「いでゆむし羊羹」はこの天然の熱を利用して作ったもので、小倉餡に甘露煮の栗を入れ、殺菌作用のある竹の皮で包んであります。 水蒸気を使って食品を蒸す、という製法は古くから行われていたもので、各地の神社に伝わる神饌の中にも、米の粉をこねて、せいろで蒸すという製法のものがたくさんあって、日本の菓子の原型を伝えています。蒸し羊羹も、伝統をしのばせてくれるもので、この「いでゆむし羊羹」も餡の甘さを極力抑え、栗のうまさを引き出して、しかも、餡の余韻を残すという、葛も使ったさらりとした銘菓です。

銘菓郷愁 - 近江源氏の悲話秘めた「うばがもち」 滋賀県草津

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草津は、東海道と中山道の分岐点にある宿場町として栄えました。五街道のうちの重要な二街道が交差する宿場ですから、そのにぎわいも格別だったようです。 1843(天保14)年の調べでは、草津には72軒の旅籠屋がありました。これは、近江地方の東海道・中山道沿いの宿場町としては、最大規模のものでしたから、その交通量の多さも推察出来ようというものです。 そのにぎわう宿場町で有名だったのが「うばがもち」で、江戸時代の旅行案内書にも、名物として記されています。 近松門左衛門の世話物の作品に『丹波与作侍夜の小室節』というのがあって、その中の道中双六の台詞にも「うばがもち」が登場します。 「ここで矢橋の舟賃が、出舟召せ召せ旅人の乗りおくれじとどさくさ津、お姫様よりまずうばが餅・・・」 江戸の頃から有名だった草津の「うばがもち」には、近江源氏の悲話が絡んでいます。 室町時代後期の近江の守護大名に、近江源氏の佐々木氏(六角氏)という一族がいました。この一族は、六角義賢の代に、足利将軍を支え、観音寺城に拠って織田信長と戦います。けれども戦いに敗れ、義賢とその子義弼は甲賀に逃れて、更に抵抗しますが、とうとう1570(元亀2)年に降伏、一族はちりぢりになってしまいます。 一族離散の中で、3歳になる義賢の曽孫を守って逃れたのが、福井殿と呼ばれていた乳母でした。乳母は六角氏の血につながる子を連れて、自らの故郷である草津に潜み、それからは、街道を行き交う人々に餅を売って、遺児を育てたといいます。 このことは、次第に道行く人々の間で評判になり、餅もだれ言うとなく、「うばがもち」と呼ばれるようになりました。 言い伝えでは、大坂城が落城した頃(1615年)にも乳母は84歳で健在だったそうで、草津を通った徳川家康に餅を献上して、長寿を称えられたそうです。こうして「うばがもち」は、一躍有名になっていきます。 往時をしのぶ「うばがもち」は、乳母の乳房になぞらえた形で、草津産の有機もち米を使って切餅にし、それを、こし餡で包み、その上に砂糖をポッチリと乗せてあります。伝統の味を今に伝えた見事な甘さに驚かされます。

銘菓郷愁 - 漱石にも勧めたい「坊っちゃん団子」 愛媛県松山

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米の粉を水で練って、小さく丸めて蒸したり、ゆでたりしたものを団子と呼んだのは、ずいぶん昔のことだったそうです。宮崎県などには、神武天皇の話にちなんだ団子を「だご」と呼び、お祭りの時に作る風習が見られたりしますから、団子作りは、稲作文化と共に伝わった、と考えた方が良いのかもしれません。 江戸時代に書かれた『瓦礫雑考』という随筆集では、中国の唐の時代(7世紀)に、「粉団」という名の団子を、端午の節句の時に作っていたことが出てくるそうです。中国では、小麦以外の穀物の粉をこねて、小さく丸めて蒸したものを「円」と呼び、その中に餡を入れたものを「団」と言ったそうで、団子の製法も中国から伝わったのだろうと言われています。 団子を串にさして、焼き団子にして食べることも、かなり古くから行われていたようで、室町時代にはあったのではないか、と言われています。 松山の「坊っちゃん団子」は串団子に工夫を凝らしたもので、夏目漱石の名作『坊っちゃん』にちなんで作られたものです。『坊っちゃん』には、団子を食べるくだりが、次のように描かれています。 「住田と云う所は温泉のある町で(略)おれの這入った団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいと云う評判だから温泉に行った帰りがけに一寸食ってみた」。 漱石は、1895(明治28)年4月、愛媛県立尋常中学校(後の松山中学校、現・松山東高校)に教諭として赴任し、1年後、熊本の第5高等学校の教授となります。『坊っちゃん』は、その当時の教員体験をもとにして書かれたもので、「住田」というのは道後温泉のことのようです。 漱石は甘いものが大好きで、胃弱に悩んでいたのに、甘いものをゲップが出るほど食べまくったそうです。ですから、道後の団子の評判を聞いて、何はさておいても食べてみたかったのかもしれません。もっとも、小説ですから、本当のところはどうだったのか知っているのは、漱石だけということになりますが、他の作品にも団子がよく出ます。 「坊っちゃん団子」は、三つの団子を串ざしにし、餡でくるんであります。これはもう、ほとんど餡を丸めたのか、というほどにも軟らかで、山葵色と玉子色、鶯色のまろやかな餡で包まれ、至福の甘さは、漱石に勧めたいほどです。

銘菓郷愁 - 米どころ偲ばせて「養生糖」 新潟県新発田

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越後平野中央部の蒲原一帯は、蒲原平野とも呼ばれ、日本有数の穀倉地帯として知られています。コシヒカリの古里と言った方がいいでしょうか。 新潟県は米どころとして有名ですが、この地の米作りの歴史は、繰り返される水害との戦いの軌跡でした。この地は、江戸時代、さまざまに入り組んだ支配の下に置かれていましたが、人々は知恵をつくし、力をふるい、支配領域を超えて協力し合い、今に至る米どころを作り上げたのです。 そんな歴史をしのばせる銘菓が、新発田市・長尾本店の「養生糖」です。米俵に似せた容れ物の中に、本物の米粒のようにも見える「養生糖」が入っていますが、米粒の正体は黒ゴマで、その一粒ひとつぶを山芋粉と糖蜜で包んであります。 この可愛いらしい菓子は、今から約130年前、1895(明治28)年に長尾本店の当時の主人が創製したものでした。長尾家は、新発田・溝口藩6万石(幕末時10万石)の藩医を務めた家柄でした。「養生糖」に山芋と黒ゴマが使われているのは、医家の知恵だったのでしょう。 ゴマは、もともとインドやエジプトが原産地と言われ、日本へは中国を経て6世紀頃に入ってきたものだそうです。漢方ではゴマ油が使われますが、ゴマはビタミンEを含み、脳を健やかにすると言われ、ゴマ塩は胃酸過多にも効くそうです。 また、山芋は、生薬名を「サンヤク」と言います。成分は主に澱粉ですが、独特のネバネバは、マンナンを主成分としたもので、ジアスターゼの一種も含んでいます。漢方では、もっぱら滋養強壮剤として使い、腸炎や夜尿症、寝汗の治療にも用いられてきました。痰のからみを取る民間薬としても盛んに使われてきました。昔は、山芋をすりおろして凍傷や火傷の治療などにも使ったといいますから、食べておいしいというだけのものではなかったようです。 これら、昔から知られた漢方の薬材を利用したところから、「養生糖」の名も生まれました。 「養生糖」は、回転釜にゴマを入れてかき混ぜながら山芋粉と糖蜜で、少しずつくるんでいきます。温度調節とタイミングの難しい作業で、どこか昔の丸薬作りに似ています。噛むと、柔らかな甘みの中で、ほのかにゴマが香り、いつまでも食べていたい不思議な銘菓です。

銘菓郷愁 - マルメロを包む「加勢以多」 熊本

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マルメロという果実をご存じでしょうか。セイヨウカリンとも言います。マルメロもカリンもバラ科の落葉高木ですが、カリンは中国大陸の原産で、マルメロはイランやトルキスタン地方などが原産地とされます。我が国には、江戸時代の1630年代の初め、長崎に出島が造られ、ポルトガル人が収容された頃にもたらされたと言われています。 洋梨型で黄色のマルメロの実は、外側が綿毛で覆われ、甘酸っぱいような独特の芳香を発します。実そのものは堅くて渋く、生でかじるというわけにはいきません。 このマルメロの実を原料にしたのが、熊本の銘菓「加勢以多(カセイタ)」です。この名は、ポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロ砂糖漬の箱)」からきていると言われます。初めの2句「カイシャ・ダ」がなまって、「カセイダ」になったのだろうというのです。 このマルメロの実を原料としたポルトガルの菓子を好み、茶席で用いたのが細川忠興でした。忠興は『細川三斎茶書』『細川茶湯之書』でも知られた茶人で、千利休に学んで茶の湯の奥義を極めた人でした。忠興は、茶の中に新しいものを進んで取り入れた人だったそうですから、「カセイタ」は好みに適った菓子でした。 やがて、マルメロは細川藩内で栽培されるようになり、「カセイタ」も作られ、徳川将軍家への献上品にも加えられるようになります。 19世紀初めの記録では、細川藩内の菓子屋でもマルメロを植えていたそうですから、「カセイタ」が揺るぎない肥後産代々の銘菓となっていた様子がうかがえます。 『恰園随筆(細川護貞)』によると、昔の「カセイタ」は次のようにして作ったそうです。 まず、マルメロの皮をむいて、実を四つ切りにして堅い部分を除き、柔らかくなるまで弱火で煮てから水気を切り、すり鉢ですって漉します。更に、砂糖とゆで汁を入れてかき混ぜてから再び漉して、とろ火でくず餅くらいの堅さになるまで煮ます。それを2日ほど杉の板の容器に入れて、出来上がりとなります。堅めのマルメロジャムと言っていいでしょう。今の「加勢以多」は寒天も使い、それをもち米の粉の皮で挟みます。口に含むと、濃厚な甘味を米の粉がやさしくくるみ込み、ゼリーのような舶来の味覚が楽しめる銘菓です。

銘菓郷愁 - 江戸へ13里の味「芋せんべい」 埼玉県川越

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「芋せんべい」は、甘藷を原料とした和菓子です。甘藷は今でこそ珍しくもなんともありませんが、もともとは中南米が原産地と言われ、全世界では数百種もあるそうです。我が国には、まず、今の沖縄に伝わり、次に薩摩に渡って、中国・関西方面で栽培されるようになります。 関東・東北方面に広がったのは、18世紀に入ってからでした。特に1735(享保20)年に、学者の青木昆陽が、幕府の命令で小石川の薬草園に甘藷を試植し、それが普及のきっかけになりました。サツマイモの普及を図った昆陽は、その後、甘藷先生と呼ばれるようになりました。 1751(寛延4)年には、川越藩主の奨励で、今の所沢市に住んでいた名主が甘藷栽培を開始し、やがて関東一円に広がっていきます。関東一帯はローム層でしたから、日照りの夏はろくに作物が出来ず、悩みのたねでした。けれども、甘藷は日照りに強く、イモが土中で育ちますから、いざという時の食べ物としても貴重なものでした。 こうして甘藷は一般に普及し、1790年代になると、江戸の町々にも焼き芋屋が増え、木戸番小屋でも売るようになりました。この時、本郷4丁目の木戸番が、味がクリ(栗=九里)に近いというので、しゃれて「八里半」という看板を出したそうですが、後になるとクリより(四里)うまいということで、「十三里」としゃれる人も出ました。 このしゃれにあやかるわけではありませんが、江戸・日本橋から13里の所が川越市の札の辻で、昔、役所の制札を掲げた四つ辻です。この辻に続く蔵の街のほぼ中央にあるのが、和菓子舗亀屋榮泉です。「芋せんべい」は、この地で初めて作られたもので、甘藷は明治の頃に作り出された「紅赤」種を使っています。「紅赤」は、川越イモの名を全国に知らしめた良質のイモで、大正時代には全国に普及し、何よりも食味抜群のイモとされましたが、育てにくい優良児とも言われています。 その「紅赤」のイモを薄く切って、両面に黒ゴマをまぶし、鉄板で焼いて、表に砂糖蜜をぬって「芋せんべい」が出来上がります。原料となる「紅赤」は生のイモを切っていくわけですが、亀屋榮泉では、スライス機も自ら開発した独自のものを使っているそうです。大正時代には、当時の宮内省からも注文を受け、甘藷菓子の名を高めました。蜜の甘さにひたっていると、甘藷の馥郁とした甘さが湧き上がってくる素敵な銘菓です。

銘菓郷愁 - 王朝食文化の香り「桔餅」 沖縄県那覇

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「桔餅(きっぱん)」は、沖縄産の九年母(くねんぼ)を原料として作ります。九年母は、ミカン科の常緑小高木で、マレー半島からインドシナにかけてが原産地です。実は、温州ミカンよりも酸味が強く、沖縄では「クネンボ」ではなく、「クニブ」と呼びます。『万葉集』で、「アベタチバナ」と呼ばれている果実ではないか、とも言われています。 桔餅は、この九年母の皮と果実を使って作ります。果実は果汁を絞り取って種を除いてしまいます。皮は厚くてむけやすく、テレビン油香があります。桔餅は、この香りを巧みに利用しているのです。 九年母は、沖縄本島北部でしか採れないそうですから、原料そのものも貴重で、この菓子も、もともとは琉球王家への献上品でした。昔は、王朝の高位の人だけが口に出来たといいます。 桔餅は、中国・福州から伝来した菓子だそうで、伝わったのは江戸時代の1661年から73年頃のことでした。当時、沖縄は第二尚氏の王朝の頃で、10代尚質王と11代尚貞王の時代に当たります。ちょうど、琉球王朝の対中国朝貢貿易が盛んな頃でした。 琉球王朝では、早くから宮廷の調理人として「御料理座」というのを設け、包丁人という専門職が置かれていました。それらの人々が宮中の料理・菓子作りを司り、彼らは中国・福州に出かけて、中国菓子も学んだといいます。桔餅は、その伝統ある調理人にも知られていたに違いなく、九年母の香りを生かす独特の作り方などに、そのような沖縄の食文化の奥深さを感じさせてくれます。 桔餅は、九年母の皮などを刻んでから、砂糖を加えて、こね混ぜ、直径5cmほどの円盤形にして、表面を乾かします。それを砂糖の衣でくるみ、4日間天日に干して仕上げます。 天気の具合いや気温、湿度などで、砂糖の加減の仕方も変わると言いますから、細やかな気配りと手間のかかる仕事になるわけです。 桔餅は、食べる時、中心から6等分に切り、一口で食べられる大きさにします。口に含むと、外側の砂糖衣がまず甘さを伝え、やがて、ほろ苦いような柑橘類の味が絡んできます。甘いと思えば、さにあらず、ほろ苦いと言えば、また違い、互いに相手を称えて譲らず、絶妙のバランスを保った銘菓です。

銘菓郷愁 - 阿波三盆の深い甘さ「滝の焼餅」 徳島

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阿波・徳島産の最高級の白砂糖というと、「和菓子を語るものは、阿波三盆を知らざれば、通にあらず」と言われるほどにも有名です。その阿波三盆を惜しみなく使ったのが「滝の焼餅」です。 日本で国産の砂糖が奨励されたのは、徳川8代将軍吉宗の頃でしたが、この時は、あまり成功しませんでした。その後、各地で藩の政策として砂糖生産が見直され、徳島では、寛政年間(1789 - 1801)の頃から砂糖作りが始まります。 1827(文政12)年の頃には、甘藷の栽培地も広がって、約20万斤(120トン)の砂糖が生産されるようになります。阿波三盆は、こうして全国に知られ、戦前は、宮中から下賜される菓子にも阿波三盆が使われていたということです。 阿波三盆の産地となる徳島は、江戸時代、蜂須賀藩27万7000石の地として知られました。蜂須賀家政が、この地の領主として入国したのは1585(天正13)年のことで、この年、豊臣秀吉が関白となって、天下に覇を唱えます。家政は、直ちに渭山に城を築き、入国の翌年に完成させました。「滝の焼餅」はこの時、城の落成を祝って献上されたと言われます。 もちろん、まだ阿波三盆のなかった頃ですから、その時の献上品は素朴な味だったのでしょうが、この菓子が喜ばれて、領主愛用の名水「錦竜水」の使用を許されます。この水は、徳島駅の南西約600mの地にそびえる眉山の一角大滝山に、今も湧き出ている清水です。この水を使うことで、「滝の焼餅」の味が、更に引き立ちました。 焼餅そのものは、江戸初期の京都名物の中にも名が出てきて、こちらの方は、粘りけのないうるち米を粉にして餅を作り、中に赤い小豆の餡を入れたもので、この餅を釜の上で焼いて花の模様をつけたものだったそうです。 「滝の焼餅」は、阿波米の粉に名水を加えて指で丸め、それを薄くのばして、中に阿波三盆で味を整えた、こし餡を挟んで、鉄板で焼きます。火は、クヌギの薪を使うというぜいたくさで、餅の表面には菊型の型押しをします。その味わいは、昔から「滝のおやき」として文人墨客に愛されてきました。 焼き型の香ばしさ、こし餡の淡泊で深みのある甘さ、湧き上がるような雅趣あふれる舌ざわり、どれをとっても見事な銘菓です。

銘菓郷愁 - 明治生まれの風雅「黄金芋」 東京都日本橋

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和菓子は、明治に入ってから急速に変化したと言われます。それまで、菓子は京都が本場とされ、江戸時代の末期になっても、江戸の高級菓子店は、看板に「京菓子」の標示をしていたそうです。1886(明治19)年に創業し、「黄金芋(こがねいも)」を創製した壽堂が「京菓子司」を名乗ったのも、その伝統を引き継いだからでしょう。 明治になって、文明開化の波が押し寄せると、菓子の上でも変化が起こり、東京でもさまざまな独創品が生まれていきます。「黄金芋」も、そのようなユニークな菓子の一つでした。 「黄金芋」は、どら焼きなどと同じ焼菓子の一種で、小麦粉と鶏卵、砂糖で作った皮で餡を包み、それにニッキの粉をまぶして、火炉に宙づりにして焼き上げたものです。餡は、白インゲン、卵黄、砂糖で作られ、皮にも餡にも鶏卵が活用されています。 皮は、芋の皮に似せてあり、焼き上がった形が焼き芋に似ているところから、この菓子の名も生まれました。焼き芋は、今でこそスーパーでも売っていますが、少し前までは屋台の石焼き芋屋でしか買えませんでした。しかし、江戸では18世紀の頃からもてはやされ、明治30年代になると、東京には850軒近い石焼き芋屋があったそうです。「黄金芋」は、この人気食品をかたどって、高級菓子に仕上げた独創品だったわけです。 「黄金芋」の味を引き立てているニッキは、よく知られているように古代エジプト以来の代表的香料で、漢方医療では、樹皮を乾かしたものを「桂皮」と呼び、発汗、解熱、健胃剤などに使いました。菓子の原料としてもよく利用され、京名産「八ツ橋」にも、味を整える原料として使われています。 江戸と京都では、餡も違いました。京都では、小豆を使った餡が好んで作られましたが、武士の都、江戸では、小豆は煮ると腹が割れるということで嫌われ、代わりの豆が使われました。ですから、京菓子と江戸菓子では、微妙に味が違っていたともいいます。 インゲン豆の餡を使った「黄金芋」は、その点では江戸の流れを継ぐものですが、ニッキで包むことで、江戸と京都の味の調和を図ったことにもなります。 「黄金芋」は、和紙でくるんだ和菓子です。包みを開くと、ニッキが香り、口に含むと、控えめな餡の甘さが、香りにとり巻かれて流れる銘菓です。

銘菓郷愁 - 純和三盆の極み「二人静」 愛知県名古屋

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「二人静」は名古屋の老舗菓子舗両口屋是清(1634年創業)の創製品で、菓子名としては「ニニンシズカ」と読みます。これは、春の野山に咲く草花「フタリシズカ」の名古屋方言からとったものだそうです。 草花の「フタリシズカ」は、センリョウ科の多年草で、葉の頂きに穂の形をした白い花を1本から5本くらいつけますが、2本並び咲くものが多いようです。18世紀初めの江戸の百科辞典『和漢三才図会』では、この花の名は、能の『二人静』に由来していると言っています。 「静」というのは、源義経の恋人として知られた白拍子「静」のことで、能の『二人静』では、その「静」が二人現れます。物語は若菜を摘む女に「静」と名乗る女が供養を頼むところから始まり、女とその「静」が、影と形になって同じ舞を舞います。「静」を二人にしたことで、義経との悲恋が際立ち、能の原点を示す夢幻の趣の強い曲だとも言われています。 このような物語を背景にした草花を見て、和菓子の着想を得たのが、両口屋是清11代当主でした。能にも詳しかった彼は、庭に生えていた「フタリシズカ」に目をとめ、新しい和菓子の想を練りました。花の可憐、伝説の優美、能の気品を一つの菓子に凝縮させようというのですから、並の難しさではありません。 工夫の末に、国産砂糖の極上品である和三盆を原料とし、それを5cmほどの紅白の半球状にして、球形にまとめ、和紙にくるんだものが生まれました。和紙をほどくと、はらり、二つに分かれるという和菓子です。和三盆は、四国特産のものが使われました。1940(昭和15)年のことでした。 国産の砂糖は、鹿児島や高知で早くから生産され、江戸時代、熊本や徳島、香川でも白砂糖が作られるようになりました。特に、香川では、藩の政策として砂糖製造に力を入れ、1800年代には上等の白砂糖の製造に成功、「讃岐の白糖」は「本邦第一の白糖」と言われるほどになりました。「二人静」が、四国の砂糖にこだわったのは、老舗らしい歴史へのこだわりだったのかもしれません。 高名な俳人中村汀女は、この「二人静」を口に含み、次の一句を生みました。「忘れざり花にも二人静あり」 去りがてなさわやかな甘味が、「静」の名残りの思いを伝える銘菓です。

銘菓郷愁 - 名僧の遺徳偲ぶ「黄精飴」 岩手県盛岡

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東洋医学では、医食同源といって、病気予防の上で日常の食生活が大事であることを説いています。盛岡の銘菓「黄精飴」も、そんな考え方が生んだ伝統の和菓子でしょう。 「黄精飴」の黄精(おうせい)というのは、薬草のナルコユリから取れるもので、アルカロイド様の物質を含む根茎を、漢方の滋養、強壮薬として使います。また、ナルコユリと似た薬草にアマドコロというのがあって、こちらの根茎は、ナルコユリよりも節の間が長く、漢方の萎蕤(いずい)や玉竹(ぎょくちく)として使い、強壮、強精薬とされています。どちらも日本の山野に自生する多年草で、これを生薬として使うのではなく、菓子の中に取り込んだところに、「黄精飴」のユニークさがあります。 この黄精という生薬を、盛岡の人に教えたのは、江戸時代、対馬藩の外交を担当していた学僧・規伯玄方という人だったそうです。 玄方は、対馬藩の対朝鮮外交機関であった以酊庵の2代目住持となった学識豊かな僧侶で、1629(寛永6)年、徳川3代将軍家光の時に、外交団の長として朝鮮に赴き、大成功を収めます。ところが、それから6年後、玄方が50歳の時、対馬藩のお家騒動に巻き込まれてしまいます。 当時、対馬藩は、外交を有利に運ぶため、外交文書に手ごころを加えていたのですが、重臣の一人がそのことを暴露したため、幕府も困ってしまい、暴露した重臣を津軽に流し、玄方を藩主の身代わりとして、南部藩・盛岡へ流罪とします。 それから20余年、玄方は盛岡にあって学問を教え、漢薬の製法、味噌、醤油、清酒の醸造、茶道、造園法なども教えて、文化や産業の興隆に大きな指導力を発揮しました。玄方が対馬へ帰ってからも、南部藩ではその徳を慕い、「方長老」と呼んで称えました。 その影響力に注目したのが、幕末にこの地へやって来た近江出身の重吉という人でした。重吉は、もち米を主な材料とする菓子「求肥」に、ナルコユリやアマドコロの根茎から取った煎汁を入れて新しい求肥を作り、医食同源の思想を菓子の形にしました。 黄精飴は、一口で食べられる大きさのものを1個ずつ和紙でくるんであります。食べると、野の光が口の中に匂い立つようで、底から底から淡い甘さがにじんでくる銘菓です。 

銘菓郷愁 - 南蛮貿易の香り「カスドース」 長崎県平戸

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「カスドース」は、ちょうど一口で食べられそうな大きさのカステラを、砂糖の混じった卵黄の衣で、厚くたっぷりぬり固めたといった趣の菓子で、長崎、平戸ゆかりの逸品です。 平戸は、中世を通しての中心的貿易港で、ポルトガル船が初めてこの港に入ってきたのは、1550(元文19)年のことでした。 当時、平戸には王直という倭冠の頭目が住んでいて、武装した商船を指揮して、広く活躍していました。彼らは、アジアの海を我が庭のごとく走り回っていました。平戸へやってきたポルトガル船は、この王直の手引きでやって来たのではないかと言われれます。 それから十数年間、平戸は南蛮貿易港として栄え、ポルトガルの商人やキリスト教の神父たちが町に住みます。また、京都や堺など諸国の商人が、異国の品を求めて集まり、平戸は西の都と言われるほどのにぎわいを見せました。 西欧人が生活していたわけですから、当然ながら彼らの食文化もこの地に紹介されていきます。1560年当時のある神父の手紙には、平戸の町の人たちが牛肉や豚肉を食べ、ポルトガルと同じような食材もある、と書かれているそうです。カスドースもそんな背景の中で日本にもたらされた南蛮菓子の一つで、1502(文亀2)年に創業した「つたや総本家」の祖先が、ポルトガル人から製法を伝授されたということです。 カスドースという名は、ポルトガル語のCastella(カステラ)とDoce(ドース)という言葉が変化して出来たものだそうです。カステラはイベリア半島にあったカスティーリャ王国のことを指し、ドースは、甘いもの、菓子(キャンディー類)という意味がありますから、カステラ・ドースというのは、「カスティーリャ地方の菓子」ということになります。カステラも紹介された当時、カステラ・ボーロ(カスティーリャ地方のケーキ)と言っていたそうですから、カステラとカスドースは、親戚のようなもので、カスドースは「甘いカステラ」ということにでもなるのでしょうか。 カスドースの材料は、卵、上白糖、小麦粉、水飴、グラニュー糖となっていて、基本的にはカステラと似ていますが、口に含むとまず卵黄と砂糖の融合した独特の甘さに驚かされ、噛むとカステラの風味が湧いてきて、洋菓子の日本化の歴史を思わせる銘菓です。 関連記事 → 今に示す松浦党の誇り