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「日本一ウザい」と評判のレストラン「ザクロ」

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「日本一ウザい」と評判のレストラン「ザクロ」に初めて行ったのは、2010年のこと。完全に一回り昔のことになります。 「ザクロ」は、日暮里駅から歩いて5分ほどの「夕やけだんだん」と呼ばれる坂を下りた所にあります。 「夕やけだんだん」というのは、一般公募で選ばれた名前で、坂の上から奇麗な夕焼けが見えることが、命名の決め手になっています。ちょうど谷中銀座商店街の入口になっており、休日ともなれば、多くの人で賑わいます。 この谷中を始め、以前の記事( 千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る )でも紹介した根津や千駄木は、東京を代表する散歩スポットとなり、三つの街の頭文字をとって通称「谷根千」と呼ばれています。そんなエリアの入口に当たる場所にあるのが、「ザクロ」です。外観からして、「谷根千」とは対照的な雰囲気を醸し出しているんですが、ここが日暮里であることを思い出すと、なぜかふさわしい気にもなってきます。。。 このレストラン、テレビなどでもよく紹介されており、「日本一ウザい」のは、ここの店長サダット・レザイ・モハマッド・アリさんです。「ザクロ」のTwitterアカウントは、自らを、「日本一ウザい」で検索すると、トップに出てくるレストランザクロです、と紹介しているので確かです。 2010年の時は、初ザクロということもあり、お勧めの「おなかペコペココース(1000円※現在は1100円)」にしました。なんせ、お店の美しい女性が「ザクロに来られる99%のお客様がオーダーされる、ハッピーランチです♪」というもので・・・。この店で出しているのは、アリさんの出身国であるイランと、トルコ、ウズベキスタンの料理です。 おなかペコペココースは、これらの料理が次から次へと出て来ます。ベースとなるナン、ライス、スープに続いて、骨付きラムのカレー、豆カレー、ファティール、ラムの肉団子、サモサ、サラダ、ポテトサラダ、チキンのカレー風煮込みが 登場。これでチャイは飲み放題、ジュースやデザートもあって、更にサービスのクッキーとナツメもありまして(ランチは他にも何かあったような気がしますが、品数が多すぎて・・・)、食後にはシーシャを初体験してきました。 ちなみに私は、アリさんが買い物に出掛けている最中に店に入ったので、普通に席に座りました。と、右隣に座っている人が、中東風のベストを着ていたので、「それ

見た目エイリアンなのに味は伊勢エビ級と言われるウチワエビ

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日南市飫肥を取材した際( 飫肥城下に残る不思議な弓 )、初日の撮影が終わり、取材に協力してくれた地元の皆さんと夕食に向かう途中、その一人が魚屋の前で足を止めました。そして、バケツに入った何かを買っていました。 バケツの中を覗くと、見たことのない生物が入っていました。それが、ウチワエビでした。 土地の人はパチエビとかパッチンとか呼んでいるそうです。見かけは、SF物のエイリアンか何かのように、ややグロテスクな感じでした。でも、味は最高で、エビとカニの中間といった感じらしく、身は軟らかく甘いんですよ、と皆さん口々に賛美。後で、ご馳走しますからね、と。 私は初めて見たんですが、このウチワエビ、千葉県から九州、沖縄まで棲息しているとのこと。どちらかと言うと、西日本に多いみたいですが、それでも都市部ではほとんど知られておらず、やはり一般的なエビではない模様。 ただ、宮崎を始め、九州では結構親しまれていて、伊勢エビに比べて安価な割に、かなりおいしく、中には伊勢エビよりうまいという人もいるほどだとか。茹でて食べるのが一般的ですが、焼くと甘みのある濃厚な味わいがより強くなります。一緒にいた方たちは、茹でてマヨネーズをつけて食べると、焼酎にとてもよく合う、と教えてくれました。 身は大小ありますが、それほど大きいものではなく、手のひらサイズと思ってもらえばいいでしょう。私が日南を訪問した頃は、魚屋さんで1匹400円ぐらいで売っていました。 しかし、最近では、そのおいしさが飲食業界に知れ渡り、現在では豊洲市場でも取り引きされ、東日本では伊勢エビ級の高級品として扱われる場合もあるようです。そこで通販サイトを確認したら、1kgで6000円(5〜7匹)から8000円(6〜10匹)、中には1万4000円(5〜10匹)なんて店もありました。恐ろしいもんですな。 取材で行った際、地元の方が、魚屋で買って、ホテルで湯がいて二つに割ってもらえばいいですよ、とアドバイスしてくれました。が、今や庶民の味ではなくなったようなので、日南でも、そんな楽しみ方は出来ないかもしれません。

かつては「下の下」と言われた深海魚「げんげ」を食べる

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思い起こせば2006年9月16日、この日初めて、「げんげ」という深海魚を食しました。 前夜、私とライターの砂山幹博さんは、東京駅から20時12分発の上越新幹線に乗り込み、越後湯沢へ。そこから特急はくたかに乗り換え、富山を目指しました。新幹線は3連休前で指定が取れず、自由席にも座れたなかったため、その頃はまだあった車内の売店前で立ち放し。その間、暇なので、売店の女の子と話し込み、気づいたら缶ビールとワインを買い込んでいました。 その後のはくたかは、指定が取れていたので、列車の中で飲み続け、富山に着いたのは23時25分。結局、この日はチェックインして寝るだけになりました。 翌日は、朝から夕方まで取材。そして夜、当時、富山在住だった友人NYさんが案内してくれた店で、砂山さんを交え食事をすることになりました。この店で登場したのが、「げんげ」です。 げんげは見た目グロテスクな深海魚で、昔は「下の下」と言われて捨てられていたそうです。げんげの名も「下の下」に由来すると言われていますが、今では高級魚となり、漢字も「幻魚」と当てられています。 皮からしてかなりのゼラチン質で、ヌルヌルというか、ベロベロというか、食感に特徴のある魚です。友人いわく、天ぷらにしてもヌルヌル感は残るとか。恐るべし、げんげ! その店では、付きだしのげんげ豆腐に始まり、げんげの骨せんべい、げんげ鍋と続き、いろいろな食べ方を味わいました。もちろん、他にも富山の郷土料理として伝わる昆布〆の定番、富山湾のカジキマグロとか、カニの押し寿司など、お手頃価格で頂きました。 2軒目に移って、ここでもこれまで聞いたことのない魚類を注文。更にげんげ干を発見し、それも頼んでみたところ、これが絶品でした。 そんなげんげ体験もあり、翌年にも富山出張の際に、げんげを出す店を見つけて食べた私。更にその次の年、08年には魚津取材があり、周辺を調べているうちに、「元祖げんげの唐揚げ」げんげの万両という店を見つけ、「もうこれは行くしかない!」と、即決しました。 この店は、初代店主が試行錯誤を繰り返した末に作り出した名物「げんげの唐揚げ」で有名でした。また、げんげの握りといったげんげ料理はもちろん、白えびのお作り、ズワイガニなど、日本海の幸を味わい、充実した夕食となりました。 ※万両は、残念ながら閉業されたようです。新型コロナの影響もあったんで

養鰻業者のまかない飯「ぼくめし」に注目!

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3年ほど前、浜松で取材があって1泊した際、ホテルの近くにあったうなぎ屋に入りました。オーダーしたのは「ぼくめし」。 マルマ養魚のぼくめし だいぶ前、浜名湖ウナギの産地・新居町(現湖西市)で、養鰻家を取材した際に教えてもらった料理です。今では、ウナギの養殖はハウスで行いますが、以前は露地の養殖池を使い、ウナギを捕るのに人夫を雇って網を引いていました。その養鰻業者のまかない飯が、「ぼくめし」です。 「ぼく」とは、太いウナギのことです。泥に潜って網を逃れ続け、池の主のようになった大ウナギを大木になぞらえて「ぼく」と呼びました。お重からはみ出してしまうようなウナギで、商品価値はありませんが、脂がたっぷりのって味は全く問題がありません。 「ぼくめし」は、そんな大ウナギを使ったまぜご飯で、名古屋の「ひつまぶし」に似ています。しかし、新居町の「ぼくめし」には、ゴボウが入ります。一口大のウナギと、ささがきにして油で炒めたゴボウのまぜご飯です。 で、このゴボウが侮れないのです。非常にいいアクセントになっていました。 なので実は、浜松のうなぎ屋で食べた「ぼくめし」は、おいしかったのはおいしかったんですが、ゴボウのささがきがイマイチな印象。新居町でご馳走になった、本場「ぼくめし」がうますぎたのか、あるいはその時の思い出が、「ぼくめし」を美化させていたのか・・・。少し前の記事( 函館本線長万部駅の名物駅弁「かにめし」 )でも、同様の体験を書きましたが、今回の場合は店が違うので、やはりもう一度、本場新居町の「ぼくめし」を食べてみたいと思ったものです。 ちなみに、取材させて頂いた養鰻家の会社(マルマ養魚)では、「ぼくめし」が簡単に作れるパックを直売所で販売していました。これのおかげで、「ぼくめし」は一般家庭にも広がり、またマスコミでも取り上げられるようになり、「ぼくめし」をメニューにのせる料理店も出来たと聞きました。 取材をしたのは、そんな「ぼくめし」が、養鰻業者のまかない飯から、新居町の郷土料理へと変貌を遂げつつある時期でしたが、今ではもっとポピュラーになっているに違いありません。

冬の味覚・五十嵐浜の地ダコ

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昨日の明石からのタコつながりという強引な技で、今日は新潟市内野のタコについてです。 内野については以前、「 杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち 」で、かつては造り酒屋が集中し、酒蔵の町と呼ばれていたことを書きました。で、酒の寒造りと共に内野の冬を語る上で欠かせないのが、こちらも知る人ぞ知る五十嵐浜の地ダコです。 冬場、天気の良い日に国道402号を走っていると、内野町を流れる新川の辺りで軒下に巨大なタコがぶら下がっている光景に出合います。大きなものでは体長3m、重さ50kgなんてものもあるそうです。種類はミズダコですが、この巨大タコは内野周辺でしか捕れません。しかも、12月から3月までの産卵期に限られます。 そこへもってきて、冬の日本海は、時化が多いときています。この時期、漁に出られる日はあまりなく、地ダコが揚がるのも1シーズン12〜13回というから、地元の人でもなかなか口に出来ない貴重品なのです。 タコ漁というと「たこつぼ」を仕掛けるのが一般的に思われます。が、実際にはいろいろな漁法があるようです。例えば、日本一の明石では、たこつぼ漁もありますが、ほとんどが底引き網漁で、一部一本釣りも行われているらしいです。タコの一本釣りって、どんなでしょうね。興味があります。 また、「西の明石、東の志津川」と言われる宮城県南三陸町では、「籠網」を沈めて、タコを捕っています。一方、内野の五十嵐浜では、松やナラの木箱を使います。これは、明治時代から伝わる五十嵐浜独特の漁法だそうです。 こうして捕られたタコは、すぐに茹でて直売しており、五十嵐浜の道端に大きな地ダコがぶら下がる光景は、内野の冬の風物詩となっています。五十嵐浜の地ダコは、でかいだけではなく、味も格段に旨いので、午前中には完売してしまうといいます。 食べ方としては、そのまま刺し身で食べるのが、何と言ってもいちばんです。足の吸盤はこりこりとした歯ごたえがあり、頭部は脚より甘みがあります。 ちなみに、地元の方の計らいで、内野駅近くの料理屋さんに調理してもらい、タコの内臓を撮影させてもらいました(トップ写真)。普通は、漁から帰った後、すぐに内臓を取り除いて茹でるため、一般の人の口にははなかなか入りませんが、漁師さんに頼めば分けてもらえることもあるんだそうです。 また、地元では、生のタコしゃぶも人気があると聞きました

明石で遭遇した焼きラーメンと、明石名物玉子焼

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取材で兵庫県・明石へ行った時のこと。初日の目的地は魚住。新幹線が停まる西明石駅から、各駅で二つ目の駅です。 西明石駅の到着が12時半だったので、最初はいったん外に出て、昼を食べるつもりでした。が、コンコースを歩いていたら、魚住方面の各駅が間もなく入線する、これを逃すと次は30分後とのアナウンス。それを聞いて、電車が30分に1本しかないのかもと思い、計画を変更して、とりあえず魚住を目指すことにしました。 そして、電車が次の大久保駅に着いた頃、魚住でお会いする橋本維久夫さんから電話。「いま焼きラーメン食べてる!」。更に続けて「あんたも食べる?」と。 というわけで、魚住駅に着くと、橋本さんが迎えに来てくれ、その足で焼きラーメンへ。連れて行かれたのは、南二見会館に入っていた「喫茶&お食事 三起」。で、橋本さんが注文してくれたのは、下の写真のような焼きラーメン定食でした。 その後、メニューを見ていて「そばめし定食」を発見。常識的には、そばめしに味噌汁、漬け物などだと思ったものの、焼きラーメン定食のご飯が頭から離れず、もしやそばめしに白いご飯付きか? 関西なら、あり得る! と勝手に想像。 好奇心を抑えきれず、店の人に確認すると・・・、さすがに白いご飯はついていないとのことでした(なぜか、しょんぼり)。 橋本さんには、これとは違う日、山陽電車東二見駅前の玉子焼屋「田村」に連れて行ってもらったことがあります。玉子焼と言っても、だし巻き玉子でも、子どもの頃に弁当に入れてもらった甘い玉子焼きでもありません。世間で言うところの明石焼です。 明石と言えばタコを真っ先に思い浮かべる人も多いと思いますが、それほどに、明石のタコは有名です。実際、マダコの水揚げ量は日本一。そんな明石のタコを使った玉子焼ですから、うまくないわけがありません。 地元では昔から玉子焼と呼ばれていて、明石焼というのは、観光客などに一般的な玉子焼と間違われないよう、後から命名されたものらしいです。関東の人間にとっては、たこ焼の方がポピュラーですが、実はたこ焼のルーツは明石の玉子焼にあります。 「 大阪と言えば?で思い浮かべる事ども 」に書きましたが、たこ焼きは、昭和10年、福島県会津坂下出身の遠藤留吉さんが、明治からある明石の玉子焼をアレンジして、大阪の屋台で売り出したのが始まりなんだそうです。玉子焼とたこ焼の違い

不思議系B級グルメの代表格「黒石つゆやきそば」

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新青森駅にあった「黒石や」の黒石つゆやきそば 弘前城追手門広場での取材後、お目当ての「肉の富田」のかつサンドをゲット出来ず、傷心の帰京となった私(詳しくは 昨日の記事 参照)。新幹線で帰るため、弘前駅から新青森駅へ移動しました。 と、ここで、「B級グルメ黒石つゆ焼そば」と書かれた暖簾を掲げる「黒石や」という店を発見。かつサンドの敵をつゆやきそばで、じゃないですが、B級グルメ好きとしては、ここは食っとけモードとなり、暖簾をくぐって店内に入りました。 黒石には行ったことがないし、初のつゆやきそばだな。そう思った、忘れん坊の私。当然のように、「名物!」と書かれたつゆやきそばを注文しました(写真上)。 黒石にはもともと、太めの平麺と甘辛いウスターソースが特徴の「黒石やきそば」がありました。この「黒石やきそば」に汁をかけたものが、「黒石つゆやきそば」で、昭和30年代後半に提供されたのが最初と言われています。 「黒石やきそば」は、かつて「おやつ焼きそば」と呼ばれ、10円から食べられる子どものおやつだったそうです。関東のもんじゃ焼きも、昔は東京の下町や埼玉の南東部の駄菓子屋で子どもたちがおやつとして食べていたものでした。それが今、B級グルメとして脚光を浴びているわけですが、子どもの頃に食べていた人には郷愁をもって、またそうではない人にとっても珍しい食べ物として、受け入れられているのでしょう。 で、「黒石つゆやきそば」は、黒石市中郷にあった「美満寿」という食堂が始めたものでした。子どもの頃に食べた人の話では、「寒い冬に、子どもたちのため、作り置きで冷めてしまった焼きそばに温かい汁をかけてくれたのが始まりじゃないのかなぁ」とのこと。 ただ、「美満寿」の閉店により、つゆやきそばもいったんは姿を消してしまいます。しかし、その味を懐かしんで、つゆやきそばを再現する飲食店が出始めます。更に近年のB級グルメ・ブームもあり、「黒石やきそば」と共に「黒石つゆやきそば」も脚光を浴びるようになりました。 なぜかすり鉢で提供された「妙光」二号店の黒石つゆやきそば となれば、全国的にも珍しい、不思議系B級グルメのつゆやきそばに注目が集まるのは必須。てなわけで、今では黒石「名物!」と言われるようになったわけです。 ところで、うっかり者の私、忘れていたことがあります。新青森駅で「黒石つゆやきそば」を食べるずっ

棟方志功も愛した「高砂」のそば

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昨日の記事で、伊賀市にある老舗精肉店「金谷」のことを書きましたが、青森県弘前市に行った際、最高に心惹かれるショーウインドウを持つ精肉店を見つけました。店の名は「肉の富田」。木の窓には、大きく「かつサンド」の貼り紙がしてありました。 弘前についても以前のブログ( 古き時代の良きものを守りながら発展する津軽の文化都市 )で書いていますが、弘前には1898(明治31)年に陸軍第八師団が設置され、その関連施設が林立して「軍都」と称されるようになりました。周辺には、新たに商人の街が形成され、第二師団があった仙台から移転してきたり、支店を出したりした者も少なくなかったようです。 その一つは、第八師団駐屯地となった翌年に、仙台から出店した三原時計店で、その弘前店として建てられた赤いとんがり屋根の時計塔は、現在、土手町のシンボルとなっています。で、「肉の富田」も、仙台から移ってきたそうで、こちらは1904(明治37)年から弘前で営業しています。 そんな歴史ある店なので、ショーウインドウも木製で出来ており、それに惹かれたのです(いくら私でも、単なるかつサンドの貼り紙で萌えるはずがありません)。この日は、追手門広場で取材があり、弘前駅からそちらへ向かう途中で木のショーウインドウに出合いました。が、かつサンド持参で取材するわけにもいかず、帰りに買おうと思って、いったんスルー。でも、帰りに寄ったら、もう売り切れでした。 後悔先に立たず・・・ですな。で、物欲しそうにショーウインドウを覗いていたら、他にも「ナポリタンスパゲテー」とか「豚そぼろ」とかが並んでいました。どうやら、惣菜も扱っているようです。 弘前の知人に教えてもらったところによると、肉の富田のかつサンドは、弘前市民のソウルフードとも呼べるものだそうです。私、ホントこういうのに鼻が利くんですよねえ。で、かつは、薄切り肉を数枚重ね合わせて揚げているんだとか。食べたかったなあ。 ちなみに、「元祖伊賀肉 金谷」と同じく、こちらも1階は精肉店ですが、2階で食事が出来る(た?)模様。ネットでは、学生時代、ここで部活の飲み会をやり、すき焼きを食べたという人がいたので、確かだと思います。 というわけで、弘前名物のかつサンドは逃してしまった私ですが、追手門広場での取材前には、こちらも老舗のそば店「高砂」で、お昼を食べました。1913(大正2)年創業と

伊賀肉専門の老舗精肉店「金谷」の寿き焼

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伊賀肉を専門に扱う老舗の精肉店「元祖伊賀肉 金谷」は、1905(明治38)年から、東京へ伊賀牛を出荷していたそうです。しかし、昭和になると、衛生面から列車で生きた牛を運ぶことが禁じられました。そんなこともあって、伊賀肉は現在、伊賀市外にはほとんど出回っておらず、幻のという形容詞がついています。 一方、「金谷」では、1928(昭和3)年に、伊賀街道沿いに店を構え、1階を精肉店、2階を料亭にし、伊賀肉を提供するようになりました。2階のイチオシ・メニューは「寿き焼」。美食家としても知られる池波正太郎が、エッセー集『食卓の情景』にも取り上げた絶品です。 金谷のすき焼きは伝統的な関西風で、割り下は使いません。ベテランの仲居さんが、鮮やかな手さばきで焼いてくれます。見ていると、使い込まれた南部鉄の鍋に牛脂をなじませ、まず肉を1枚だけ焼き始めます。そして砂糖と濃口醤油で味を整え、「どうぞ」と勧めてくれます。肉本来のおいしさを味わってもらうためだそうです。 120年近くにわたって伊賀肉を専門に扱ってきた店だけに、肉そのものがいいのでしょう。最近は「霜降り信仰」と言われるほど、サシ偏重の傾向が強くなっていますが、金谷の伊賀肉はサシが適度に入り、うまみもしっかりと残っています。これなら年配の方でも、たくさん食べられそうです。野菜も地の物を使っており、全ておいしく頂けました。  ◆ ちなみに、東京で伊賀肉のすき焼きが食べられないか検索したところ、1軒だけ見つけることが出来ました。浅草にある「おりべ」です。 同店のサイトによると、「当店では、その殆どが伊賀(三重県)で食される為に東京ではあまり出回っていない、希少な伊賀牛を産地から直接仕入れて使用しております。伊勢志摩サミットでも振舞われたこの伊賀牛は『肉の横綱』とも呼ばれ、大変柔らかく、またサシがありながらしつこすぎない味わいが特徴です」とのこと。 ただ、完全個室、完全予約制で、昼夜とも1日2組のみらしく、気軽に立ち寄れるわけではありませんでした。で、リタイアと同時に始まったコロナ禍もあり、いまだ食べに行けていません。 ■ 「元祖伊賀肉 金谷」 :伊賀鉄道伊賀線広小路駅から徒歩2分 ■ 「おりべ」 :つくばエキスプレス浅草駅から徒歩5分/東武線浅草駅から徒歩10分/東京メトロ銀座線浅草駅・都営浅草線浅草駅から徒歩15分/東京メトロ日比谷線

福岡で知らない人はいない150年の老舗「吉塚うなぎ屋」

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福岡市で行われたとある会議の終了後、一緒に出席していた熊本の知人TTさんと博多駅まで歩き、別れ際に、「時間があったら案内したいうなぎ屋があったんだけど」と言われました。焼き方は関西風なので、東京で食べているうなぎとは違うと思うが、とてもおいしいので、ぜひ食べてもらいたかった、と。 おいしい食べ物を逃した経験は、結構、記憶に残るようで、高鍋の天然カキの場合は、13年もの間、待ち焦がれていたほどです( 苦節13年、豊かな森と日向灘の荒波が育てる高鍋の天然かき )。なので、この時の会話も、私の脳裏に刻まれ、福岡に行く度に思い出すことになりました。 そしてついに、それが実現する日がきました。以前のブログ( レトロエリアやベイエリア、いろいろな顔を持つ福岡 )にも書いた、ある国際会議を取材した時のことです。しかも、会議の参加者には友人もたくさんおり、彼らと一緒に、その店「吉塚うなぎ屋」を訪問しました。 「吉塚うなぎ屋」は、福岡の人で知らない人はいないと言われるほどの店だそうです。創業は、昨日のブログに書いた「つきじ宮川本廛」( 創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」 )より、20年古い1873(明治6)年。今は中洲にありますが、創業地は博多駅の北にある吉塚だったので、「吉塚うなぎ屋」を名乗りました。 熊本のTTさんが、関東のうなぎとは違うというので、関西風なのかと思いきや、そこに店独自の焼き方によって、表面はカリっとしつつ、ふっくらとした蒲焼きに仕上がっています。焼きの際、「吉塚」独自の「こなし」という技を加えているからだそうです。 うなぎの蒲焼きは、関東と関西で、開き方と焼き方に違いがあるとされます。開き方は、関東が背開き、関西が腹開きになります。関東は武家文化で、腹開きは切腹をイメージするので敬遠された、関西は商人文化で、腹を割って話をするので腹開きが好まれた、などと言われます。また、焼き方は、関東が蒸し焼き、関西が直火焼きです。更には、焼く時の串も関東は竹串ですが、関西は金串を使うようです。知らんけど・・・。 しかし、切腹だとか、腹を割って話すとか、うなぎのさばき方に、いちいちそんなことを考えたとも思えず、単なるこじつけなんじゃないですかね。実のところ、あらかじめ蒸しておくことで焼き時間を短くしたり、蒸すためには身が崩れにくい背開きの方がいいとか、単に作業効率の問

創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」

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一昨日の 居酒屋「鍵屋」 、昨日の あんこう料理専門店「いせ源」 に続く老舗つながりで、編集部があった築地の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」について触れておきます。 「つきじ宮川本廛」は、1893(明治26)年の創業です。同店のサイトによると、創業者の渡辺助之丞は、深川にあった「宮川」という、うなぎ専門店で修行をした後、暖簾分けにより築地で開業したそうです。 深川の「宮川」は、幕末から営業していた老舗のうなぎ店で、同店の主人だった宮川曼魚が、随筆『深川のうなぎ』(1953年)の中で、次のように記しています。 「維新前に深川八幡前の川岸端に鰻屋があつた。表通りには長い竹樟の先へ紺地に白く染め抜いた『田川』と云ふ『のぼり』がたてゝあつた。木場の人達は、松本や平清の酒後好い気持で芸者や松本の女中を連れて、この『のぼり』へ行くのであつた。仲町の芸者や、松本、平清の女中たちはふだんにもこの『のぼり』へ行つて、白焼で一口やつたあとは、筏で『ごはん』を、と酒落こんでゐた。当時にあつては誰れもが『のぼり』と呼んで通つてゐた。  その『のぼり』が明治になつて『宮川』になつた。そして表通り西寄りの方へ移転して、現今も引続いて繁昌してゐる。昔は松本や平清と倶に深川の名物になつてゐた」 宮川曼魚(渡辺兼次郎)は、日本橋にある老舗のうなぎ屋「喜代川」の次男として生まれました。若い頃、室生犀星や萩原朔太郎らと共に、北原白秋門下として文学活動を始めますが、請われて、後継者がいなかった深川「宮川」を継ぐことになります。そして、うなぎ屋の主人を務めるかたわら、江戸文学の研究を続けました。 「つきじ宮川本廛」のサイトによると、「深川のうなぎ専門店『宮川』での修業を終え、同店の廃業に際し名跡を受け継ぎ、明治26年、散切り頭の助之丞二十八歳は築地橋、東詰めに“うなぎ屋”を開業」とありますが、深川の「宮川」は、戦後も繁盛していたわけですから、「宮川」の名跡を継いだのは、開業と同時ではなかったようです。 ちなみに、1951年6月28日に亡くなった林芙美子は、その前日、『主婦の友』の連載企画「私の食べあるき」で、東京の料理屋を2軒回りました。その1軒が、深川の「宮川」でした。 うなぎが、庶民の食べ物となったのは、江戸時代に入ってから。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸の町の整備に着手し、1回目の天下普請では、日比

神田にある老舗のあんこう料理専門店「いせ源」

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昨日、1856(安政3)年創業の居酒屋「鍵屋」について書きましたが( 江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」 )、今日はそれより更に古い料理屋「いせ源」の話です。かつて勤めていた編集部の忘年会を老舗シリーズにしていたことがあり、その一つが、1830(天保元)年創業の「いせ源」でした。 「いせ源」は、神田にある有名なあんこう料理専門店ですが、もともとは京橋にあった「いせ庄」というどじょう屋が前身だそうです。2代目の時に、京橋から神田に移転し、店の名を「いせ庄」から「いせ源」へ改めます。「庄」は初代の名前・庄蔵から取っており、改名後の「源」も2代目の名前・源四郎から取っています。 じゃあ「いせ」はというと、店主の名字は伊勢ではなく立川、更に三重県の出身でもないようで、話によると、江戸の名物「伊勢屋」の「いせ」を拝借したらしいのです。有名な噺のまくらに、江戸の名物があり、それには、「火事に喧嘩に中っ腹。伊勢屋、稲荷に犬の糞」と、「伊勢屋」が出て来ます。江戸の町には、それだけ「伊勢屋」が多かったわけですが、そんなブランドにあやかったのかもしれません。 それはともかく、神田に移って「いせ源」として営業を始めた2代目は、どじょうだけではなく、あんこう鍋やよせ鍋、かき鍋、青柳鍋、白魚鍋など、さまざまな鍋を提供。その中で、あんこう鍋は、当時主流だったみそ仕立てから醤油仕立てに変えたことで、江戸っ子の胃袋を完全にわしづかみ。それはやがて、4代目があんこう鍋専門店にするほどの人気ぶりだったようです。 定番のあんこう鍋の他にも、きも刺しや唐揚げ、煮こごり、とも和えなど、さまざまなあんこう料理が楽しめます。また、鍋のシメにおじやを作ってくれますが、これがまた旨いのです。 建物は、関東大震災で全焼した後、再建された当時のままのもので、東京都の歴史的建造物に選定されています。老舗にふさわしい佇まいで、大正時代の下町の風情をも伝えています。 ちなみに、老舗忘年会シリーズは他に、深川・森下にある馬肉料理専門店「桜鍋みの家本店」(1897[明治30]年創業)や、浅草にある牛鍋の「米久本店」(1886[明治18]年創業)などがありました。どちらも「いせ源」同様、雰囲気からしてすばらしいお店です。 みの家の桜鍋 米久の牛鍋

江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」

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前に上野について書いた際( 忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目 )、上野駅の隣にある鶯谷駅についても少しだけ触れました。その時にも書きましたが、鶯谷駅の南口は山の手台地、北口は下町低地になっており、南口は徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の寺域で、崖下となる北口はラブホテル街という、地形的にも環境的にも、かなり対照的な感じになっています。 で、上野の記事は、南口から上野公園に向かって書き進めましたが、北口にも、実はお薦めしたいスポットがあります。 鶯谷駅の南口から跨線橋で北口へ渡り、鶯谷駅下の交差点で言問通りを横断。左に進んで2本目の道を入り、すぐに左折すると、右側に大変趣のある佇まいを見せる正統派居酒屋「鍵屋」があります。 「鍵屋」は、1856(安政3)年の創業。現存する居酒屋としては、日本最古と言われます。もともとは酒屋で、店先に卓を置いて飲めるようになっていたそうです。当時は、今よりもやや浅草寄りの下谷に店を構えていましたが、言問通りの拡張に伴い現在地へ移転。大正元年に建てられた日本家屋を改装し、風情ある店構えを保ちつつ今も変わらぬスタイルで営業しています。 なお、初代の建物は、私が幼少期から結婚するまで住んでいた小金井市の、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に移築され、毎年8月のイベント時には、その中でお酒を楽しめるそうです。 これまで何度か「鍵屋」に行っていますが、17時開店なので、平日、仕事を終えてからだと、店内はいつも満席。ただ、お客さんが長居をするような店ではないので、少しの間、待っていれば入ることが出来ます。 メニューを写真で入れておきますが、私が必ず頼むのは、「うなぎのくりからやき」と「煮奴」です。 「くりからやき」は、不動明王が持つ倶利伽羅剣に似ていることから名付けられたもので、「鍵屋」では、間違いなく看板メニューになっています。「鍵屋」では、うなぎの腹身を串に刺し、たれに漬けて炙っています。身は弾力があり、甘辛いたれとうなぎの脂がよく絡み、とてもおいしいので、お薦めです。 もう一つの「煮奴」も「鍵屋」の名物の一つで、メニューにある「とりもつなべ」の甘辛い醤油味のつゆで煮ています。とりもつのだしが、豆腐によく染み、更に時々とりもつが入っていたりして、それもまた楽しみな一品となっています。 また「鍵屋」のお酒は、菊正宗、大関、櫻正宗の