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早明戦二つの引き分け(その2)1990年・今泉の70m独走トライ

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1975年の引き分けに関連して、藤原とか、植山とかの話を書いているうち、記事がだいぶ長くなってしまったので、90年の引き分けについては、記事を改めました。 さて、1990年は、早稲田が東芝府中を破り日本一となった時の1年生トリオ・SH堀越正巳、CTB藤掛三男(早明戦はけがで欠場)、FB今泉清と、翌年からWTBに定着した郷田正が最上級生になった年でした。また、明治も1年から早明戦に出場しているWTB吉田義人を始め、No8富岡洋、HO西原在日などが4年生としてチームを引っ張りました。この他、早稲田にはFL相良南海夫、WTB増保輝則、明治にはFL小村淳、SH永友洋司、CTB元木由記雄らが在籍し、早明戦に出場しました。 試合は、明治がPGで先制しましたが、早いうちに早稲田が3本のPGを入れ、9対3とリード。しかし、ここから明治が反撃。前半33分、明治ボールのラインアウトを早稲田が奪い、CTB石井が突進。これを明治CTB元木が止め、ルーズボールを明治が確保。そのままカウンターに移り、ラインが出来ていなかった早稲田はやすやすと明治FB小杉山英克の突破を許し、フォローした明治SH永友がオープンスペースにボールをキック。ゴール手前で郷田と増保がボール処理を誤り、もたついているところへ、後ろから走ってきた永友がごっつあんトライ。更に、明治がPGを決めて、前半は明治1点リードでハーフタイムへ。 後半に入ると、明治がPG2本を決め、更に後半22分、早稲田ゴール前のスクラムを明治が押し、最後はFL小村がトライ。早稲田はPGを1本返すのが精一杯で、31分には、明治FWがモールを押し込んで、No8富岡がトライ。トライ後のゴールはいずれも決まりませんでしたが、この時点で明治24点、早稲田12点のダブルスコアに。試合は完全に明治ペースとなり、誰もが、たぶん明治の選手たちもほとんどが、明治の勝利を確信したに違いありません。 しかし、ここから劇的な幕切れが用意されていたのです。 残り5分。ラインアウトで明治のペナルティー、堀越ちょんげりでスタート。早稲田がボールを回すも前へ進めず。残り4分。明治ラインオフサイドのペナルティー。堀越ちょんげりで自ら前進、フォローしたCTB吉雄潤が前進。ラックになったところでボールが出ず、早稲田ボールのスクラム。早い球出しから今泉が突進。その前に明治ペナルティーで、堀越ち

早明戦二つの引き分け(その1)1975年・藤原のダイビングトライ

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前の記事「雪の早明戦」で、70年代から90年代にかけて、ラグビー早明戦が大変な人気となっていたことを書きました。この試合、もし明治も対抗戦を全勝できていたら、インジュアリータイムに入って早稲田がゴール前でペナルティーを犯したところで、明治はPGを狙い、決まれば引き分け両校優勝となっていたでしょう。 実は、全勝同士の早明戦で引き分け、両校優勝となったことが、2度あります。1975年と90年で、75年は10対10、90年は24対24でした。100年近い早明戦の歴史の中で、引き分け自体、この2回しかありません。 1975年は、早稲田の藤原優、明治の松尾雄治が、共に最上級生の年でした。12月7日の早明戦でも、松尾が難しい角度からのPGを決めれば、藤原が同点トライを挙げるなど、日本のラグビー史上、最高のウイング、最高のスタンドオフとも称される二人の対決だけでも、本当に見応えのあるゲームでした。 試合は前半17分、早稲田が自陣ゴール前のスクラムでノットストレートの反則を犯し、SO松尾がPGをきっちり決めて、明治が先制。これに対して、早稲田は3回のPGがあったものの、FB畠本裕士が2回続けて失敗し、3回目はWTB藤原が代わりに蹴るも、これも失敗。なかなか追いつくことが出来ませんでした。 そんな中、前半32分、明治が自陣でのドロップキックをミス。ゴール正面22mライン上で早稲田ボールのスクラムとなり、早稲田は両ウイングが左右に開く一方、SO、両CTB、FBの4人が、スクラムの真後ろに並ぶ、縦十字のフォーメーションを取り、スクラムから出たボールをSH辰野登志夫が、真後ろのSO星野繁一にパス。星野は迷わずDGを蹴り、これが決まって同点となります。 後半は、一進一退の攻防の後、22分、早稲田が自陣ゴール前でオーバーザトップのベナルティーを犯し、ほとんど角度のない難しい位置からのPGを松尾が決めて、明治が勝ち越し。しかし、直後の早稲田キックをキャッチした明治が、オフサイドの反則で早稲田FB畠本がPGを決め、再び同点。 更に後半25分、明治がゴール前に上げたハイパントのこぼれ球を、明治が拾い、左に展開して明治のWTB井川芳行が左隅にトライ。松尾のゴールは失敗して、10対6で明治がリード。 後半32分、明治陣の右サイドで早稲田ボールのラインアウト。スロワーはFL豊山京一で、ショートラインアウト

1987年「雪の早明戦」

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日本ではずっと野球人気が高く、他のスポーツに比べ、注目度は雲泥の差がありました。その中にあって、プロ野球シーズン終了後のウィンタースポーツと言えば、1993年のJリーグ開幕まで、ラグビーが王者に君臨していました。 特に、1970年代から90年代にかけて、12月第1日曜日に開催されるラグビー早明戦は、風物詩とさえ呼べるレベルで、ウィンタースポーツ最大のイベントとなっていました。 正直、その後の大学選手権、日本選手権は、おまけ的な意味合いさえあった感じがします。しかし、それが年々エスカレート。早明戦が国立競技場で開催されるようになったのは、1973年に秩父宮ラグビー場が改修されることになったためですが、秩父宮では観客が収容しきれないこともあり、国立開催が常態化しました。 それでも、早明戦のチケットは、マスコミから「狂騒曲」と形容されるほど入手困難になり、一種の社会現象となっていました。1982年の早明戦は、主催者発表で6万5000人、実際は、旧国立競技場の観客動員記録となる6万6999人が入場しました。 そんな中、前の記事で書いたように、88年の日本選手権では、早稲田が日本一に輝きました。これが、学生最後の日本一となるわけですが、実は、その前年に行われた早明戦が、後世に語り継がれる一戦となっていたのです。 1987年12月6日、この日の国立競技場は、前夜から当日朝にかけて降った雪のため、グラウンドはぬかるみ、周りにはグラウンドから除かれた雪が積み上がっていました。12月に都心部で積雪があったのは、戦後初めてのことだったようです。そんな環境で行われた早明戦でしたが、やはり伝統の一戦だけあり、6万2000人の大観客が詰め掛け、初の雪中対決を観戦しました。この早明戦を、早稲田は全勝、明治は筑波大学に敗れ1敗で迎えていました。この成績が、ただの雪中対決ではなく、後々まで「雪の早明戦」として語られる伏線となりました。 試合は、明治のキックオフで始まり、開始5分ぐらいまでは、ほとんど早稲田陣地で進みました。と言っても、明治が攻めているという感じでもなく、前半5分過ぎに明治陣深くまでに入った早稲田は、ラックからこぼれたボールをSO前田夏洋が拾ってそのままスペースを突いて前進、フォローしていたCTB今駒憲二が更に前進し、明治タックルでラックになったところを早い球出しで、SH堀越正巳→S

かつてはラグビー日本選手権の日だった1月15日

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1月15日というと、かつてはラグビー日本選手権の日でした。私は小学生の時は野球、中学、高校はバスケットボールと、ラグビー経験は全くないのですが、ラグビー強豪校の大学に入学して以来、バスケットと並んで好きなスポーツになっています。 かつて60年代半ばから70年代半ばまで、高校のラグビー部とサッカー部を交互に舞台とする青春学園シリーズが、日本テレビで放送されていました。有名なのは、主題歌『太陽がくれた季節』が大ヒットした『飛び出せ!青春』(村野武範主演/サッカー部)でしょうが、その後の『われら青春!』(中村雅俊主演/ラグビー部)も、人気を呼んでいました。また、『青春とはなんだ』(夏木陽介/ラグビー部)や『でっかい青春』(竜雷太/ラグビー部)の再放送もあって、ラグビーは結構身近な存在でした。 ちょっと話が迷走しますが、大学1年で、「夏の避暑地で楽しい実習を」という誇大キャッチと、先輩女子部員のハニートラップに引っかかった友人2人と私は、夏休みに山中湖のリゾートホテルで、実習という名のアルバイトをしました。その際、まさしく「夏の避暑地で楽しく」過ごしていた女の子たちを、若気の至りでナンパ。で、友人の一人が、自己紹介で名乗ったのが、片桐でした。片桐は、72年の『飛び出せ!青春』で、剛達人が演じた不良少年の名前でした。友人は、あのドラマを見て、片桐という名前に惚れ込んだらしいのです。今や大学教授ですが、かなりアホな大学生でしたねぇ。 で、肝心の1月15日・日本選手権の話です。 ラグビー日本選手権の歴史は、1961(昭和36)年からのことになるようです(60年度)。ラグビーへの関心を少しでも上げるため、日本一決定戦を行おうとの発想でした。しかし、日本選手権という名で開催するのは時期尚早となって、NHK杯争奪戦として実施されました。この時は、日本協会による推薦で、社会人からは八幡製鉄、大学からは日本大学が出場し、秩父宮ラグビー場で対戦。結果は、八幡製鉄が50対13で勝利を収めました。NHK杯争奪戦は都合3回開催され、これを助走に、63年度から満を持して日本選手権大会が開催されることになりました。 第1回日本選手権は、社会人と大学それぞれ2チーム、計4チームによるトーナメント形式で行われ、64年3月22日に花園ラグビー場で行われた決勝では、同志社大学が近鉄を18対3で破り、第1回日本