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民謡のある風景 - 唄が知られて、川がないのに橋がある(高知県 よさこい節)

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土佐の高知の播磨屋橋くらい有名な橋もないでしょう。ご存じ『よさこい節』で、全国的にその名を知られています。  ♪土佐の高知の播磨屋橋で   坊さん かんざし買うを見た   ハァ ヨサコイ ヨサコイ 土佐の代表的民謡であることは言うまでもありませんが、ペギー葉山の『南国土佐を後にして』の中に歌い込まれて、更に有名になりました。 播磨屋橋は、1950(昭和25)年に鉄筋コンクリート製になり、その下を流れていた堀川も、埋め立てられて今はありません。元々の橋は、川の南と北に店を構えていた豪商・播磨屋と櫃屋が、互いの往来のために掛けたもので、文政年間(1818 - 29)には、橋の両側に露店風の小間物屋が並んだといいます。「坊さん」がかんざしを買ったのは、その小間物屋ででもあったのでしょうか。 『よさこい節』の起源については諸説があります。慶長年間(1596 - 1614)、高知城の築城の際に唄われた「木遣り」が元唄という説。正徳(1711 - 15)の頃、江戸ではやった『江島節』が土佐に入ったという説。あるいは、各地にある祭礼の『みこしかつぎ唄』が変化したのだという説など。また、安政年間(1854 - 59)には、歌詞にある「坊さん」の恋愛事件が持ち上がり、それが唄い込まれて全国的に唄われたともいいます。 歌詞も地元では「おかしなことやな、播磨屋橋で・・・」 と唄っていましたが、明治維新で江戸へ出てきた土佐の人々が、「土佐の高知の・・・」と替えて唄い出したのだといいます。 明治に入ると、この唄に振りが付きました。高知の料亭・得月楼が踊りにし、芸妓衆に踊らせたのが始まりといいます。日露戦争の頃には、「よさこい」が「ロシヤ来い」と替えて唄われ、播磨屋橋は更に有名になりました。川がないのに橋だけはある、というところが、この唄の知名度を物語っていると言えるでしょう。

21もの「七不思議」がある足摺岬と金剛福寺

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足摺岬を見下ろす丘の中腹に、四国霊場第38番札所の金剛福寺があります。一般社団法人四国八十八ケ所霊場会のウェブサイトによると、蹉跎山補陀洛院金剛福寺(さださんふだらくいんこんごうふくじ)は、822(弘仁13)年、嵯峨天皇の勅願によって、弘法大師が三面千手観音を本尊として開創したそうです。代々皇室の勅願所として栄え、また源氏一門の帰依が厚かったといいます。 そのサイトを読んでいて、気になる一文を見つけました。「『七不思議』と言う大師遺跡が岬突端をめぐるようにあります」。むむっ、七不思議とな・・・。 早速、調べてみると、土佐清水市のウェブサイトに「足摺の七不思議」という記事が掲載されていました。それによると、「1.ゆるぎ石 2.不増不滅の手水鉢 3.亀石 4.汐の満干手水鉢 5.根笹 6.大師一夜建立ならずの華表 7.亀呼場 8.大師の爪書き石 9.地獄の穴」と。。。あれ? 七不思議じゃないの? 九不思議? と思ったら、写真の下にあった解説に、「※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です」と、おことわりが書いてありました。 そこで更に検索してみると、九つどころか21もの不思議があるそうです。3倍じゃん! ちなみに残りの12個は、「犬塚」「竜の駒」「行の岩」「鐘の石」「阿字石」「亀呼石」「天灯松」「龍灯松」「龍の遊び場」「汐吹の穴」「午時の雨」「喰わずの芋」です。 土佐清水市のウェブサイトから、主な「不思議」を紹介しておきます。 「ゆるぎ石」:弘法大師が金剛福寺を建立した時発見した石。乗り揺るがすと、その動揺の程度によって孝心をためすといわれています。 「不増不滅の手水鉢」:賀登上人と弟子日円上人が補陀落に渡海せんとしたとき、日円上人が先に渡海していったので非常に悲しみ、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。 「亀石」:この亀石は自然石で、弘法大師が亀の背中に乗って燈台の前の海中にある不動岩に渡った亀呼場の方向に向かっています。 「汐の満干手水鉢」:岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれ、非常に不思議とされています。 「亀呼場」:大師がここから亀を呼び、亀の背中に乗って前の不動岩に渡り、祈祷をされたといわれています。 「大師の爪書き石」:これは弘法大師の爪彫りとい

かんざし買った竹林寺の坊さんと、がっかり名所の播磨屋橋

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高知の播磨屋橋は、がっかりな観光地として有名です。「日本三大がっかり名所」の一つにもなっています。でも、がっかりだったのは、昔のことでは?と思う私です。 ちょっと話が古くなりますが、1601(慶長6)年、土佐に入国した山内一豊は、大高坂山に城を築くことにし、山の南を流れる鏡川と北の江ノ口川を外堀として利用、二つの川に挟まれた三角州に城下町を建設しました。そして03年、本丸などが竣工、山の名を河中山に改めました。 しかし、外堀代わりにしたのは天然の川だったので、治水に苦慮。そのため、2代藩主忠義は、城のある河中山の地名を嫌い、10年には山の名を再び改名します。この時、忠義の命を受けて名前を考えた竹林寺の空鏡上人は、高智山と命名。これが、高知の由来となりました。 昭和33年の播磨屋橋 やがて、城下町には堀川が網の目のように張り巡らされ、水の都とも言えるような町に変貌します。そして、通りの連絡を良くするため、堀川にはいくつも橋が架けられるようになりました。その一つが、播磨屋橋です。これは、堀川を挟んで商売をしていた「播磨屋」と「櫃屋(ひつや)」が、両店の往来のために自費で設けた橋でした。 その播磨屋橋が、なぜがっかり名所になったかと言うと、それは播磨屋橋の知名度が高かったからです。土佐の代表的民謡「よさこい節」に、この橋の名前が出て来ます。「♪土佐の高知の播磨屋橋で 坊さん かんざし買うを見た」。しかも、この部分が、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」(1959年)の中に歌い込まれ、更に有名になりました。 そんな播磨屋橋ですが、1960年代になって堀川が埋め立てられ、橋の必要がなくなり、1958(昭和33)年に歩道と車道の間に設置された朱塗りの欄干だけが残りました。そんなわけで、有名な播磨屋橋を訪れてみたら、川はなく、赤いガードレールみたいなものが付いてるだけということになり、がっかり名所にランクインしたわけです。ペギー葉山のヒット曲を映画化した『南國土佐を後にして』(小林旭主演)に、この赤いガードレールみたいな播磨屋橋が出てくるので、興味のある方は、ご覧になってください。 その後、1998(平成9)年に、朱色の欄干(ガードレール)は、1950(昭和25)年に造られた橋を模して石造りの欄干にリニューアル。すぐ側に、赤い太鼓橋を設置した、「はりまや橋公園」を整備し、橋の下には

1年中しめ飾りを外さない中土佐久礼の港町

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四万十の撮影で2連敗を喫した私は、傷心を抱えて帰京することになりました。とはいえ、シラスウナギを求めて夜中に徘徊した上、だるま朝日を狙って日の出前から起きていた働き蜂の私、チェックアウトまでゆっくりしてから、宿を発ちました。 四万十市から高知空港までは約130km、2時間ほどで着けます。しかし、帰りの便が夕方の出発だったので、途中で寄り道を決め込み、ほぼ中間地点の中土佐町で昼食を取ることにしました。 四万十市から中土佐町の久礼までは、国道56号で約67km。下道をゆっくり走っても、1時間半ほどで到着します。久礼は、土佐湾に面した天然の良港で、四万十川流域で生産された物資を、関西方面へ搬出する重要な港の一つとして発展してきました。また、漁港としての歴史も古く、港の周辺は典型的な漁師町になっています。 カツオ船の漁師純平と、その恋人八千代を中心に、土佐の漁師町に暮らす人たちの姿や風土などを描いた漫画『土佐の一本釣り』は、ここ久礼を舞台にしていました。作者の青柳裕介さんは、高知県香南市の出身で、中土佐町に部屋を借り、久礼の漁師たちと酒を酌み交わし、港町の生活に溶け込みながら創作に打ち込んだそうです。 そんな久礼の一角に、観光客の人気スポットとなっている久礼大正町市場があります。明治時代から庶民の台所として賑わってきた市場で、店先には水揚げされたばかりの新鮮な魚介類や、朝どれの野菜などが並びます。 もともとは、明治の中頃に出来た闇市が起源だそうで、港町に暮らす漁師のおかみさんたちが、ヒメイチの炒りジャコを売り始めたのが始まりと言われています。1915(大正4)年、市場の周辺約230戸が焼失するという大火事がありました。その際、大正天皇から復興費が届けられたことに住民が感激し、「地蔵町」という地名を「大正町」に改名し、それ以来「大正町市場」と呼ばれるようになりました。 ランチは、この大正町市場前にある「市場食堂 ど久礼もん」へ。ここは、「海鮮どんぶり」と「なぶらスープカレー」推しのようでした。海鮮どんぶりは、その日に水揚げされた新鮮な魚を使うため、捕れた魚によって盛り付けが変わる丼です。一方の、なぶらスープカレーは、マグロ・カツオ・イカ・シイラに国産野菜を使ったトマトベースの名物カレー。「なぶら」は、漢字で書くと「魚群」となり、意味は・・・漢字の通りですね。 で、私は、なぶら

土佐の小京都・四万十市で惨敗を喫す

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愛媛、高知の取材巡礼も終盤、最後の目的地・四万十市に入りました。巡礼2日目は、大月町の柏島で取材した後、道の駅・大月で「ひがしやま」をゲット。国道321号で太平洋沿岸を走り、土佐清水では足摺岬などに立ち寄りながら、夕方に四万十市に着きました。 四万十の目的は、シラスウナギ漁です。もちろん、シラスウナギを捕るためではなく、シラスウナギ漁を撮るためです。以前の記事で徳島のシラスウナギ漁( 漆黒の川面に浮かぶ幻想的な光 - シラスウナギ漁 )を書きましたが、実は徳島は、この四万十のリベンジでした。そう・・・四万十では、シラスウナギ漁を撮影することが出来なかったのです。 ウナギの稚魚・シラスウナギは、冬から春にかけ、黒潮に乗って東アジア沿岸を回遊し川を上ります。日本では鹿児島や宮崎、徳島、高知、静岡などの川に遡上します。この時、シラスウナギは、潮に乗って遡上してくるため、大潮前後にはシラスウナギを追う漁師たちが、川に繰り出します。 シラスウナギ漁の最適期は、大潮時の干潮から満潮にかけて。また、明かりに集まってくる性質があることから、シラスウナギ漁は新月の夜、川面をライトで照らして行われるのが一般的です。冬の夜、ウナギが遡上する川の河口付近では、漆黒の川面に黄色や緑色の光が浮かび上がり、遠目からはまるでホタルが飛び交うように見えます。 で、その光景を撮るため、四万十川河口に宿を取り、夜中にいそいそと出掛けたのですが、1隻の船にも巡り会えず惨敗。この経験から、徳島では、漁師の方にお会いして、事前に漁が行われる場所や時間帯、気象条件などを伺いました。その際、シラスウナギは風のある日の方が多いと聞きました。 話を伺った方は、ベテラン漁師で、以前はシラスウナギ漁に出ていましたが、強い風が吹く冬の夜中に水しぶきを浴びながらの漁はきついため、最近はもっぱらマスコミ対応だと笑っていました。ただ、風が弱い日を狙って年に2、3度、川に出てみることもあるそうですが、「私が行くと、若い漁師から『今日は和田さんが来てるからだめだ』などと言われ、からかわれます」と、話していました。 四万十では、新月を選んで出掛けたのですが、そう言えば風がなく穏やかな天気でした。地元に住んでいれば、気象条件などを見て、さっと撮影に行けるのでしょうが、やはり一発勝負は難しいですね。 そうは言っても、このままではいわゆるボ

黒潮に育まれた四国最南端の町・土佐清水

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ここ3日間の記事は、同じ時に回った場所を連続で紹介しています。この時は、愛媛県の宇和島市と愛南町、高知県の大月町と四万十市の取材で、松山空港から四国入りして、高知空港から四国を離れるという旅程でした。初日は、宇和島市岩松と愛南町外泊で取材、宿を予約していた大月町まで、高速で約100km、下道で約100km、という感じの移動でした。 2日目は、大月町柏島を取材した後、次の取材地・四万十市まで移動しましたが、途中の土佐清水市と言えば、以前の記事( おいしい食べ物が多かった観光地ナンバー1 - 高知 )に登場した、高知の伝統食研究の第一人者、松﨑淳子高知女子大学名誉教授ご推奨の宗田節の産地です。更には足摺岬を始め、有名スポットがいくつかあるので、道すがら立ち寄ってみました。 柏島から足摺岬までは約60km、大月町の中心部からは国道321号の一本道です。土佐清水市との境にある、大月町の才角海岸からはほとんど太平洋に面した海沿いを走ることになります。 才角海岸から13kmほど走ると、土佐清水市の竜串海岸に出ます。ここには、海中展望塔の「足摺海底館」があります。全国に六つある海中展望塔の一つで、中四国では唯一の施設だそうです。「普段着のままで、自然の海を散歩出来る」をウリにしていて、建物に入ってらせん階段を降りると、海の中が覗ける丸い小窓が付いた部屋があります。外は自然の海ですが、よほど魚が多いのか、水族館と変わらぬほどさまざまな熱帯魚を間近に見ることが出来ます。 また、周辺には、土佐の海と黒潮の魚たちをテーマに、サメやマンタ、ウミガメなどを展示する足摺海洋館SATOUMIやグラスボートなどの施設があります。更に、竜串海岸には、約1700万年前に浅い海で生まれた地層が、潮風や波に洗われることによって出来た奇岩奇勝が続いており、その天然の岩の上を歩く遊歩道もあります。 竜串海岸から足摺岬までは25kmほどですが、その途中にも、いくつか見所があります。その一つは、以前、同じ編集部にいたK嬢が取材の際に訪れ、土佐清水に行ったらぜひ見てきてほしいと太鼓判をおしたアコウの木です。アコウはクワ科の樹木で、他の木に寄生して育ちます。樹上で芽を出すと、宿主の枝や幹をつたって気根を下ろし、やがて宿主を覆って枯死させます。 竜串海岸から20kmほどの松尾天満宮の裏手には、3本のアコウがあり、1本は

エメラルドグリーンの海が広がる絶景の柏島

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大月町は、高知県最西端、海岸部を中心に足摺宇和海国立公園に指定されている自然豊かな町です。以前の記事に書いた、キャラメルのような干し芋「 ひがしやま 」の産地です。特に、大月町龍ケ迫産の「ひがしやま」は絶品と評判で、私も「道の駅 ふれあいパーク・大月」で買い求め、それを実感しました。 その龍ケ迫は、豊後水道の南端にある宿毛湾に面した集落です。集落は、昨日の記事に書いた、愛南町の「石垣の里」のような石垣で囲まれた家があったり、石積みの段々畑があったりして、高知というより愛媛の南予のような風景が展開します。 というのも、龍ケ迫は、1876(明治9)年頃、愛南町の大浜から移住してきた人たちが住み着いた場所なのだそうです。愛南町大浜と大月町龍ケ迫は、宿毛湾を挟んで反対側にあり、陸路だと湾をぐるっと回るため30km強ありますが、海路だと約10kmと陸路の3分の1ほどになります。 「石垣の里」外泊は、隣の中泊から次男以下が移住して作られた集落でしたが、龍ケ迫も同じような理由で、大浜から分家移住してきたのでしょうか。現在、龍ケ迫天満宮の秋祭りなどで披露される「龍ケ迫の獅子舞」も、1892(明治25)年に、愛媛の行商人が集落の若者たちに伝えたのが始まりと言われており、移住元とのつながりは、かなり強かったのだろうと思われます。 さて、龍ケ迫のある大月町には、エメラルドグリーンの海が印象的な「柏島」があります。私も行ってみましたが、ここの海は本当に透きとおるように青く美しい色をしており、まさに絶景の島でした。 柏島は、宿毛湾の南に突き出た大月半島の先端にあり、柏島橋と新柏島大橋という二つの橋で、半島とつながっています。周囲4kmほどの島で、私が行った時、海の上をウミネコがわんさかわんさか飛んでいました。何事かと思って近づいてみると、どうやら魚の養殖をしているようです。後で調べると、これは「小割式生簀養殖」と呼ばれ、大きな円形の生簀では、クロマグロ(本マグロ)が泳いでいるそうです。その生簀に、イワシなどのエサがまかれる時間を狙って、おこぼれに預かろうとウミネコがやって来ていたのです。 実は大月町は、日本のマグロ養殖事業発祥の地だったのです。小割式生簀というのは、回遊魚であるクロマグロの生態に合わせた丸い生簀で、近畿大学水産研究所の原田輝雄教授により開発されました。和歌山県串本町大島にある

キャラメルのような干し芋「ひがしやま」 高知県大月町

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漢字で書くと「干菓子山」。高知では誰もが知っている干し芋で、中でも大月町竜ケ迫産は絶品と評判です。通常、干し芋というと、スライスした平たい芋(平干し)を思い浮かべる人の方が多いと思いますが、高知の「ひがしやま」は、そのまま干す丸干し派です。 そもそも、干し芋は、静岡県で誕生したもので、それが茨城県に伝わり、爆発的に広がります。そこには、海での遭難が絡んでいます。 江戸も後期に入った1766(明和3)年、薩摩の御用船が駿河の御前崎沖で座礁。その乗組員を大澤権右衛門親子が助け、お礼の金20両を断り、代わりに船にあったサツマイモの種芋を分けてもらい、栽培方法も伝授されました。その後、サツマイモは近隣にも伝わり、1824(文政7)年には、御前崎の付け根辺りにある白羽村(現・御前崎市)の栗林庄蔵が、ゆでたサツマイモを薄く切って干す「煮切り干し」を考案。更に1892(明治25)年頃、天竜川の右岸にある大藤村(現・磐田市)の大庭林蔵と稲垣甚七が、サツマイモを蒸して厚切りにして乾燥させる「蒸切り干し」を考え出し、今日につながる干し芋が誕生しました。 一方、現在の主産地・茨城県に伝わったのも、船の遭難がきっかけでした。1888(明治21)年、阿字ケ浦(現・ひたちなか市)の照沼勘太郎が、静岡県沖で遭難。助けられた土地で見た干し芋をヒントに、1895(明治28)年から見よう見まねで干し芋作りを始めました。その後、1908(明治41)年になって、阿字ケ浦の小池吉兵衛と、湊町(現・ひたちなか市)の湯浅藤七が、本格的に干し芋の製造を開始。これをきっかけに各地で生産が拡大し、今では総生産量の約9割を茨城県が占めるまでになっています。 で、高知の「ひがしやま」ですが、これは、そんな干し芋の概念を完全に覆すシロモノです。いつ頃から作られているのかは分からないのですが、地域によって「ほしか」とか「ゆでべら」とか、いろいろな呼び名があるらしく、結構、古くからあるようです。 「ひがしやま」の語源については、「干してかちかちにするという意味の古い土佐弁『ひがちばる』」からきているという説もあります。でも、大月の「ひがしやま」は、「かちかち」とはほど遠いので、少なくとも大月バージョンは、「ひがちばる」ではなさそうです。また、漢字は「東山」とも書くようですが、大月町のある幡多郡に、かつて東山村(現・四万十市)が

日本古来の民具・土佐檜笠の伝統を守る

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本山町は四国の真ん中、太平洋と瀬戸内海からほぼ等距離にあります。四方を山に囲まれた要害の地である上、平地部にも恵まれていたため早くから開け、伊予から土佐に至る官道が通っていました。戦国時代には土佐七人衆の一人・本山氏の本拠地として、江戸時代には野中兼山の支配地となって宿駅として栄え、現在も嶺北(剣山地の北一帯)の中心地となっています。 この町で、日本の伝統的な民具を取材したことがあります。かつてはどこにでもあったもの、笠です。 本山の笠は、吉野川上流、県立自然公園にも指定されている白髪山一帯に広がる良質なヒノキを材料としていました。もともとは、田植えの時などにかぶる農務用に作られていました。が、明治以降は観光用としても使われるようになり、需要が広がりました。 更に、昭和初期にはアメリカへも輸出され、クーリーハットの名で親しまれました。輸出用は多い時には20万個にも上り、外貨獲得、貿易への貢献大として、通産大臣から表彰を受けたこともありました。 取材した時は、日本各地の川下り(球磨川、保津川、木曽川、天竜川、猊鼻渓等)や富士登山、四国霊場巡り、あるいは日光和楽踊りなどで使われていました。いずれも有名な観光地のものなので、過去に本山の檜笠を買われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 今からちょうど420年前の1601(慶長6)年に、山内一豊が遠州・掛川から土佐へ移封されて来ました。この時、家老を務めていた山内刑部(永原一照)が、1300石を与えられて本山城に入りました。槍笠は、刑部と共に、本山へ入った人々により始められたと伝えられます。 工程は、まず丸鋸機で平角材を木取りし、割れ防止と削りよくするため水に漬けます。次に、動力を利用したスライサーで同時に数本の経木を削り出し、幅揃えと材料選別をして数十個分ずつ束ねます。 編組作業は、近所の農家が副業的に行っており、手編みと機編みがありました。この編み方にも数種類あって、それぞれ分業化されていました。 編織されたものは正方形ですが、これを笠用に裁断し、ミシンで縫い合わせます。そして、上縁用の力竹を取りつけ、台に乗せて端を切り落とし、笠型に整えます。更に縁取り用の竹を取りつけ、紐掛けをして完成となります。 この槍笠、かつては嶺北一帯20以上の市町村で作られていました。しかし、新材料の登場や嗜好の変化により需要が減った上、後

多種多様な紙を漉き分ける土佐和紙の伝統技法

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いの町は、四国最高峰の石鎚山を源に、太平洋へ注ぐ仁淀川の下流域にあります。この辺りは紙の原料が豊富で、豊かで美しい水に恵まれた伊野は、古くから紙の町として知られてきました。 どれくらい古いかと言うと、平安時代には既に朝廷に土佐和紙を献上しているほど。その後、930年には、『土佐日記』で知られる紀貫之が土佐国司となり、製紙業を奨励しました。 更に桃山時代になると、四国を統一した長宗我部元親の妹養甫尼と、その甥安芸三郎左衛門家友が、土佐七色紙を考案しました。長宗我部氏滅亡後、1601年に入国した山内一豊は、これを土佐藩の御用紙に指定。藩の積極的な振興策を受けた土佐和紙は、製造技術にますます磨きがかかり、幕府の献上品になると共に、藩の特産として全国各地に流通、地場産業として定着し、発展していくこととなります。 こうした長い歴史に培われただけに、原料のコウゾ、ミツマタなどの特性も知り尽くしています。更には、それらを使いこなすことによって、多種多様な製品を生み出してきました。手漉きで出来る和紙のうち、製品化していないものは無い、と言っても過言ではないほどです。それは、とりもなおさず、さまざまに漉き分ける高度な技法が確立しているからにほかなりません。 例えば土佐和紙の場合、典具帖紙(てんぐじょうし)に見られるような極薄紙の紙漉き技術が伝わっています。これはまさに、熟達した職人技によってのみ可能な難しい技法。むらのない均質な和紙を大量に漉くのは至難の業ですし、修練を積んだ精神力も必要とされます。 最近では、1973年に典具帖紙、77年に清帳紙が国の無形文化財に、また76年には土佐和紙の名称で国の伝統的工芸品に指定されています。 いの町は県中央部、高知市の西に隣接し、日本一の清流と言われる仁淀川がとうとうと流れています。

おいしい食べ物が多かった観光地ナンバー1 - 高知

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土佐伝統食研究の第一人者・松﨑淳子高知女子大学名誉教授チョイスの高知の食材 前2回の記事( 松江 / 香川 )の続編です。羽田~米子~松江~岡山~丸亀~大豊~高知~羽田と移動しながら、松江、丸亀、大豊を取材する行程の第3弾になります。 初日に、島根県松江市と香川県丸亀市で、1件ずつ取材をしたカメラマンの田中さんと私は、次なる目的地、高知県 大豊町 へ移動しました。大豊町は、高齢化率50%を超え、「限界集落」の言葉が生まれた高知県の中山間地で、先の松江の取材と合わせて1本の記事にまとめる企画でした。 大豊町は四国三郎の異名を持つ吉野川の源流域、四国山地の中央部にあり、北を愛媛と徳島に接する県境の町です。人口は約3500人、そのうち約58%を、65歳以上の高齢者が占めます。 高知県の中山間地・大豊町 1955(昭和30)年に4カ村が合併して大豊村が誕生した時、人口は2万2386人でした。戦後の木材需要の高まりと共に、国は農地から杉への転作を奨励。大豊でも山の斜面に広がっていた棚田が杉林に生まれ変わり、木材を都市に供給する林業や炭焼、また農業や養蚕で町は活気づきました。が、高度成長時代に入ると、若者たちは山を捨て都市へと流出。山には、杉とお年寄りが取り残される結果となりました。 「よく『限界集落』という言葉を聞くと思いますが、大豊はまさにその言葉が生まれた地域です」 岩﨑憲郎町長は、開口一番そう切り出しました。「限界集落」とは1991年、高知大学の大野晃教授(現名誉教授)が提唱した概念で、65歳以上の高齢者が半数を超え、集落の社会的共同生活の維持が困難な集落をそう呼びました。 「大豊町は標高200~800mの急傾斜地に集落が点在しています。現在、85の集落があり、そのうち74が限界集落です。町民の平均年齢は63歳、大野教授の概念によれば、町自体が『限界自治体』ということになります」 と岩﨑町長。が、暗くなるような数字のオンパレードでも、町長の表情は意外なほど明るいものでした。 高知市にある大豊町アンテナショップ 「数字的には、確かに厳しいです。しかし、私自身が大豊に生まれ育ったということを差し引いても、この町は魅力のある町、可能性のある町だと思っています」 町長はそれを形にすべく、96年、町とJAなどが出資する