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民謡のある風景 - 山峡に湧く情熱と郷土愛と(埼玉県 秩父音頭)

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埼玉の西域、甲武信ケ岳に発した荒川は、延々144kmの流れとなって東京湾に注ぎます。その荒川が、秩父盆地から関東平野へ抜け出す区域、延長約4kmにわたるのが、「地球の窓」「地質学の宝庫」と言われる長瀞です。水は緑青色の深く静かな流れを見せ、岩畳と調和して、山国秩父ならではの景観をつくっています。 『秩父音頭』は、この山国の様子をこう唄い出します。  ♪ハァーアーエ   鳥も渡るか あの山越えて   鳥も渡るか あの山越えて(コラショ)   雲のナアーアーエ   雲のさわ立つ アレサ奥秩父 秩父の一帯では、昔『日光和楽踊り』などと同系の盆踊り唄が唄われていましたが、次第にすたれ、昭和に入る頃は消滅寸前だったといいます。これを憂慮したのが、長瀞の上流にある皆野町の医師・金子伊昔紅で、昭和の初め、地元の唄を整え、保存する運動を起こします。 俳人でもあった伊昔紅は、1930(昭和5)年に詞も公募して選定、曲調は盆踊り唄を元に、秩父の屋台囃子の手などを伴奏に採り入れました。踊りの振りも、農村歌舞伎をベースに編み出し、ほぼ今の形の『秩父音頭』が出来上がりました。 初め、その唄は「秩父豊年踊り」あるいは「秩父盆踊り唄」などと呼ばれていましたが、33(昭和8)年、北海道帯広市で開かれた全国レクリエーション大会に、伊昔紅の社中が出場、その時から『秩父音頭』と名称も定まりました。 秩父は、よく知られたように「自由自治元年」の民権運動の古里でもあります。郷土愛の深さは、他国に優るとも劣らぬ地と言えるでしょう。その情熱が、『秩父音頭』を生み、育てました。 毎年夏になると、皆野町では唄の祭りが開かれ、山峡の人々の秘められた思いが、一気に爆発します。秩父・長瀞は、情熱の古里でもあるようです。 

2006年3月19日 線路歩行初体験の巻

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今から16年前の今日、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の高架線路上を歩くという貴重な体験をしました。 前日の18日から、高知県春野町(現・高知市春野町)へ、高校生のライフスキル教育を取材に行っていた私。取材を終えて、羽田空港へ戻ってきたのは、そんなに遅い時間ではありませんでした。 しかし、事務所へ出ても中途半端な時間だったので、そのまま直帰することにしました。それが結果的に、線路歩行初体験につながりました。 羽田空港へのアクセスは、電車だと京急とモノレールがあり、私の場合、京急を利用する時は東銀座か人形町で乗り換え、モノレールを使う時は山手線経由の秋葉原乗り換えになります。 で、その時は、羽田空港からモノレールを使い、浜松町で山手線に乗り換え、秋葉原で日比谷線に乗車しました。電車は、私の最寄り駅である北越谷行きで、とても順調に家路に就いていました。 が、しかし、北越谷駅の一つ手前、越谷駅を発車したところで、電車がストップ。 「強風により飛ばされたビニールが、架線に引っかかっているとの連絡が入りました。撤去まで、しばらくお待ちください」 との車内放送がありました。 アナウンスに切迫感はなく、すぐ動くのだろうと、高をくくっていたのですが、待てど暮らせど動く気配がありません。更には停車中は暖房も切れ、徐々に寒さが車内を包み始めました・・・。 結局、50分ほど待たされた挙げ句、撤去の見込みがつかないので、最後尾の車両から越谷駅まで線路伝いを歩いてほしいとのこと。そこで、最後尾の車両まで移動しました。 で、どうやって線路に下りるのだろうと思っていたら、駅員たちはやおら座席を取り外し、3本を使ってスロープを急造。ほうほう、こうやるのかあ、と関心しきりの乗客。 実際には、傾斜が結構きついので、お年寄りや女性たちはおっかなびっくりでしたが、私は、こんな経験なかなか出来ん、とうれしくなって線路に降り立ちました。 ちなみに、東武線は複々線になっており、もう1本の下り用線路は全く影響なしで運行していたため、しばらくして到着した電車で、ほぼ1時間遅れで無事、帰着することが出来ました。

宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」

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関東平野は、日本の平野の18%を占める、とにかくだだっ広い平野です。その中でも埼玉県は、西部に秩父山塊を抱えてはいるものの、ほとんどが平地で、私が住んでいる越谷市に至っては、ほとんどの場所が海抜5m未満、最も高い所でも8mないという、思い切り平べったい土地です。そのため、高架線を走る電車やホーム、大きめの河川橋の上などからは、東に筑波山、北に日光連山、西に富士山や南アルプス、南に東京スカイツリーが望めます。 東京も似たようなもので、奥多摩以外に高い山はなく、東京23区の最高峰は標高25.7mの愛宕山(港区の愛宕神社)という惨状です。いかに、関東平野がのっぺりしているかという証にはなりますね。 それでも埼玉には、秩父山塊があり、最高峰は秩父市と長野県川上村の境にある標高2483mの三宝山になります。ただ、山頂からの眺望は全くと言っていいぐらいないらしく、登山をする人は、近くの甲武信ケ岳のついで、あるいはアズマシャクナゲがきれいな十文字峠などとセットで登るようです。ちなみに、埼玉、山梨、長野3県にまたがる甲武信ケ岳は標高2475m、三宝山と同じく秩父市と川上村の境にある十文字峠は標高1962mになります。十文字峠には、私も登ったことがあります( 最も奥秩父らしい森林美を持つ十文字峠 )。その時に泊まった十文字小屋は、埼玉県側にあり、標高は2035m地点と、私のしがない登山歴の中では富士山に次ぐ高い山です。 これら2000m級の山々が連なる秩父には、「地球の窓」とも呼ばれる長瀞があります。長瀞の岩畳は、幅約80m、長さ約500mに及ぶ広大な自然岩石で、国の特別天然記念物に指定されています。また、長瀞と言えば、急流を船で下るスリリングな川下りが人気です。 そんな長瀞に、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、一つ星を獲得した寶登山(ほどさん)神社があります。今から1900年以上前の西暦111年、父・景行天皇の勅命により日本武尊は東国を平定。そして『日本書紀』によると、その帰途に武蔵国へ入ったとされます。そのため、武蔵国には、あちこちに日本武尊の東征にまつわる伝説が残っています。 寶登山神社もそうですが、秩父の三峯神社や、埼玉と共に武蔵国を形成していた東京の鷲神社(台東区)、根津神社(文京区)などにも、日本武尊伝説が伝えられています。寶登山神社については、尊が宝登山へ向か

植木の里・川口安行の話

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長男家族は、我が家から約9km、車で20分ぐらいの所に住んでいます。ルートはいくつかあるのですが、国道4号を突っ切るとJR武蔵野線東川口駅南口の戸塚地区、4号線を草加方面へ少し走ってから入ると安行地区を通ります。 安行地区は、「植木の里」と呼ばれ、その歴史は400年以上になります。かつては鋳物と共に川口の2大産業として、隆盛を極めましたが、東京に隣接していることから人口が増えると共に、住宅開発が進み、鋳物工場も緑化産業も徐々に減っています。 それでも安行には、川口市営植物取引センターや川口緑化センター樹里安、花と緑の振興センター、安行園芸センターなど、「植木の里」にふさわしい施設があります。植物取引センターでは、毎週火曜日、植木のせりが行われ、全国から関係者が集まります。また、センターの敷地には、JAさいたまの子会社「安行植物取引所」が運営する植木直売所があり、一般の人が購入出来るようになっています。 川口緑化センターは、川口の伝統産業である植木や花、造園の振興を図るため、緑化産業に関する情報の収集や提供を行う施設です。道の駅「川口・あんぎょう」が併設されており、多種多様な花と緑を販売する園芸販売コーナーや、レストラン、屋上庭園などがあります。 花と緑の振興センターは、県の施設で、生産者や造園業者向けの情報提供や講習を行う他、園内には植木や鑑賞用樹木など、2000種類以上の植物が展示されています。安行園芸センターは、農事組合法人あゆみの農協の施設で、植木や草花、園芸資材を購入出来ます。 安行は、1496(明応5)年、この地に曹洞宗の金剛寺を創建した中田安斎入道安行の名にちなんで付けられた地名と言われています。応仁の乱から20年ほど経ち、時は群雄割拠の戦国時代が幕を開けた頃でした。殺傷が続く戦乱の中、自らの所業に悩んでいた中田氏は、この地を行脚していた節庵禅師による金剛経で救われ、寺を建てることにしたと伝わります。 入道というぐらいですから、在家のまま剃髪し、仏道に進んだのでしょう。中田氏の出自については、いまひとつ分からないのですが、安行の子どもが、太田資長(道灌)の孫である資頼に仕えていたということから、安行も同時代を生きた資長の配下にあったのかもしれません。資長が、道灌を名乗るのは入道してからのことで、安行に影響を与えたと考えられなくもないかと。 戦国時代の中田

銘菓郷愁 - 江戸へ13里の味「芋せんべい」 埼玉県川越

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「芋せんべい」は、甘藷を原料とした和菓子です。甘藷は今でこそ珍しくもなんともありませんが、もともとは中南米が原産地と言われ、全世界では数百種もあるそうです。我が国には、まず、今の沖縄に伝わり、次に薩摩に渡って、中国・関西方面で栽培されるようになります。 関東・東北方面に広がったのは、18世紀に入ってからでした。特に1735(享保20)年に、学者の青木昆陽が、幕府の命令で小石川の薬草園に甘藷を試植し、それが普及のきっかけになりました。サツマイモの普及を図った昆陽は、その後、甘藷先生と呼ばれるようになりました。 1751(寛延4)年には、川越藩主の奨励で、今の所沢市に住んでいた名主が甘藷栽培を開始し、やがて関東一円に広がっていきます。関東一帯はローム層でしたから、日照りの夏はろくに作物が出来ず、悩みのたねでした。けれども、甘藷は日照りに強く、イモが土中で育ちますから、いざという時の食べ物としても貴重なものでした。 こうして甘藷は一般に普及し、1790年代になると、江戸の町々にも焼き芋屋が増え、木戸番小屋でも売るようになりました。この時、本郷4丁目の木戸番が、味がクリ(栗=九里)に近いというので、しゃれて「八里半」という看板を出したそうですが、後になるとクリより(四里)うまいということで、「十三里」としゃれる人も出ました。 このしゃれにあやかるわけではありませんが、江戸・日本橋から13里の所が川越市の札の辻で、昔、役所の制札を掲げた四つ辻です。この辻に続く蔵の街のほぼ中央にあるのが、和菓子舗亀屋榮泉です。「芋せんべい」は、この地で初めて作られたもので、甘藷は明治の頃に作り出された「紅赤」種を使っています。「紅赤」は、川越イモの名を全国に知らしめた良質のイモで、大正時代には全国に普及し、何よりも食味抜群のイモとされましたが、育てにくい優良児とも言われています。 その「紅赤」のイモを薄く切って、両面に黒ゴマをまぶし、鉄板で焼いて、表に砂糖蜜をぬって「芋せんべい」が出来上がります。原料となる「紅赤」は生のイモを切っていくわけですが、亀屋榮泉では、スライス機も自ら開発した独自のものを使っているそうです。大正時代には、当時の宮内省からも注文を受け、甘藷菓子の名を高めました。蜜の甘さにひたっていると、甘藷の馥郁とした甘さが湧き上がってくる素敵な銘菓です。

城のある風景 - 江戸城と共に造られた武蔵国の要

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さいたま市岩槻区は、江戸時代の寛永年間以来、人形で知られた伝統の町です。日光御成街道の宿場町でもあった岩槻はもともと、太田道灌と父道真がひらいた岩槻城の城下町でした。 岩槻城は、1457(長禄元)年に造られたと言われ、完成の年は江戸城と同じです。江戸城も道灌が父の協力を得て築城したと言われ、この二つの城に加えて、北に川越城を配した太田氏の備えは、鉄壁の構えと言われました。 岩槻城は、元荒川を東に配し、南北に干潟と丘陵を望む位置に造られました。武蔵国は低湿地でしたから、岩槻に忽然と姿を現した城は、その地に浮かぶ浮城とも呼ばれました。 岩槻城は、太田氏の衰退と共に持ち主が替わり、結局、北条氏のものとなりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の時に浅野長政軍に攻められて落城、更に徳川家康の関東入りと共に、その勢力下に入りました。城は、1609(慶長14)年 に焼けましたが、家康は、江戸の守りに欠かせぬ拠点として再建、この後、徳川幕府の老中幕閣が次々に入城してこの地を治めました。 寛永年間、日光東照宮が造営されましたが、それに携わった工人の一部が、御成街道筋のこの地に落ちつき、人形作りを始めました。それ以来、雛人形作りが岩槻藩の重要な産業となり、藩財政を支えました。その伝統が脈々と引き継がれ、今では、雛人形を始め、武者・木目込・御所などさまざまな種類の人形が作られ、生産体制も、人形の部分作りの専門家による分業体制がとられています。 岩槻の今に至る繁栄の途は、元をたどれば太田道真・道灌父子の先見の明に基づくものであったといえるでしょう。その礎となった城の跡は、今、公園となって、歴史を秘めた四季の美しさを見せています。 ※近年、岩槻城に関しては、忍城主・成田親泰の祖父にあたる成田資員が築城したとする説を始め、いくつか異説が出ており、築城者と築城年についてははっきりしていません。 関連記事 → 江戸時代から連綿と続く日本一の人形のまち - 岩槻

子どもの頃の思い出と共に息づく麦わら帽子

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かつて埼玉は、日本一の麦の生産県でした。県東部、庄内古川(中川)と古利根川に挟まれた肥沃な沖積平野に開けた春日部も、古くから麦作りが行われていました。そして、これら麦稈(麦の茎)を利用した麦わら真田作りの副業も盛んだったようです。 麦わら真田というのは、麦わらを真田紐のように編んだもので、明治初めまで川崎大師の土産品として使われていました。主産地は岡山、広島などでしたが、春日部のものは茎に模様があることから「蛇身真田」と呼ばれて珍重され、川崎や東京・大森などに出荷されていたといいます。 『東海道中膝栗毛』にも「大森といへるは麦藁ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」と書かれており、江戸の頃から、大森は麦わら細工で有名だったことがうかがえます。明治に入ると、その大森で麦わら真田を使った帽子が作られるようになります。横浜にいたアメリカ人の勧めで始まったものといい、1878(明治11)年、大森の島田十郎兵衛が麦わら帽子を作り始めました。 1871(明治4)年に散髪脱刀令が出され、斬髪が進むと同時に、帽子が普及し始めました。1872(明治5)年11月号の『新聞雑誌』は関西方面の斬髪流行を取り上げ、「これがため、大坂、神戸の洋品店にありし帽子一時に売り尽くしたり」と伝えています。斬髪の恥ずかしさを帽子でカバーしようと、帽子は飛ぶように売れました。 その波は、麦わら真田の供給地であった春日部まで押し寄せ、1880(明治13)年、春日部でも麦わら帽子の製造が始まりました。最盛期には、春日部を中心に150の業者、約1万人が帽子製造に携わり、産地として全盛を極めました。と同時に、麦わら帽子は庶民の生活の中に浸透していきました。 多くの人は、麦わら帽子と言えば、夏を思い出すのではないでしょうか。子どもの頃の夏休みの思い出の中に、麦わらの帽子をかぶった自分がいたります。 「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、籍谷に落としたあの麦程帽子ですよ」 これは、西条八十が子どもの頃、母親に連れられ霧積に行った時の思い出を綴った詩ですが、麦わら帽子には、子どもの頃の思い出を象徴するような、不思議な語感があります。 ↑帽子の木型もそれぞれのデザインに合わせて作られます(田中帽子店)

高野山から伝わり、大都市江戸に育てられた細川紙

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秩父山地と関東平野が出合う県中西部の村・東秩父。この村は、近隣の小川町、都幾川村などと共に、古くから手漉き和紙の産地として知られてきました。 記録によると、都幾川村の古刹・慈光寺が建立された後、写経の必要から紙づくりが始まったとされます。慈光寺は、奈良時代の創建とされますから、1200年以上も昔のことです。また、いつの頃かは定かでありませんが、高野山の紙を漉いた紀州細川の紙漉き技術を導入したとも伝えられます。そのためこの辺りの和紙は、今でも「細川紙」と呼ばれます。 特に江戸時代、職人たちが開発した細川紙は、漂白しない未晒しのコウゾ100%を使った強じんな和紙でした。水に浸して丸めて搾っても、ピンと延ばせば元に戻りました。そんな質の良さから、商家の大福帳に使われ、火事の際、井戸に投げ込み、後で引き上げても再び使えたといいます。更に大都市・江戸に近かったこともあり、細川紙は非常な繁栄をみました。 しかし、時代と共に和紙を取り巻く環境も様変わりしました。大きな変化は昭和30年代の機械化でした。東秩父や小川の業者も、多くの家が機械和紙に転向しました。機械化による大量生産は原料不足を招き、原木は3倍に高騰しました。 それに追い討ちをかけるように、紙の需要が変わってしまいました。洋紙に押され、和紙を漉いていた家は、どんどん廃業に追い込まれていったのです。 現在、細川紙を漉いている家は数軒のみとなってしまいました。そんな中、東秩父にある「和紙の里」は紙漉きの伝統を将来に伝える施設として作られました。ここでは秩父の山々を借景とした日本庭園の中、細川紙を始めとした和紙の生産と販売を行っています。また、和紙の製作工程が見学出来る他、手作り体験も出来るようになっています。 地元の幼稚園児や小学生も手漉き体験に訪れるなど、今、東秩父では、村をあげて紙漉きの技と心を受け継いでいこうとしています。

江戸情緒を色濃く伝える小江戸の町並み

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川越は古くから、小江戸と呼ばれてきました。 徳川家康の関東入り以来、川越は江戸城の北の守りの一つとして重要視されました。そのため、川越城は酒井氏、堀田氏、松平氏、柳沢氏ら大老・老中格の譜代や親藩の大名が代々城主を務めました。川越は、その城下町として栄え、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信網の時、行政区画が定められ、ほぼ現在の町が形成されました。 また、川越は江戸から40kmと近いこともあり、大消費地・江戸へ大量の物資を輸送する役目も担っていました。松平信綱による野火止の新田開発もそのためのものでした。交通路も川越街道に加え、新河岸川舟運の水路が整備され、川越から江戸へ、米穀、サツマイモ、醤油、炭、建材などを始め、川越織物などの特産物が運ばれました。 こうして川越は、商業地としても大いに賑わい、また江戸の文化がすぐに伝わるようになりました。その影響は建築様式にも現れ、1720(享保5)年以降、江戸に耐火建築の蔵造り商家が建ち並ぶようになると、川越でも蔵造りが目立つようになりました。 もっとも、今日残るものは、1893(明治26)年の川越大火後に建てられたものです。この時の火事では、市街地の3分の1を焼失しましたが、川越商人の富と力によって、更に重厚な耐火建築の蔵造りの店が復興されました。 その後、川越は第二次大戦の空襲を免れ、明治の建築とはいえ、江戸の面影を色濃く伝える町並みをそのまま残すこととなりました。 川越には現在、JR埼京線、西武新宿線、東武東上線の3線が乗り入れています。この中で、蔵の町並みに最も近いのが、西武新宿線の本川越駅。駅から北へ向かって歩くと、20分ほどで蔵の通りに出ます。この通りは、日本一重厚な町並みと言ってもいいほど、蔵造りの店が建ち並びます。 しかし、池袋からは急行で30分。都心に近いだけに、人口も増え、今や35万都市の川越。蔵の通りの交通量も、かなり多くなっています。江戸時代の面影を残すのは町並みだけで、通りには乗用車やバス、トラックがひっきりなしに走っており、ちょっとつや消し。欲を言えば、迂回路を作ってほしいところです。 蔵の通りから一歩脇道を入ると、川越のもう一つの顔に出合えます。表通りの重厚な町並みとは一変、昔懐かしい駄菓子屋が軒を連ねています。 この辺りは江戸時代、養寿院の門前町として栄えた所で、明治の初め、鈴木藤左衛門という人が、ここで

千本桜と菜の花畑のコントラストが見事な権現堂桜堤

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昨日のブログ( 日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」 )は、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」という江戸時代の地口から始めましたが、実はこの地口、後に「幸手、栗橋、まだ先よ」と続けることもあります。 日光街道は、日本橋を起点に第1の宿・千住から草加、越谷と続き、更に粕壁(春日部)、杉戸を経て、幸手宿、栗橋宿へ通じます。江戸時代は、東京と埼玉、それに神奈川の一部(川崎、横浜)を含むエリアが武蔵国となっていて、次の宿場・下総国中田宿(現・茨城県古河市)との間には関所が置かれていました。 日本橋から千住までは約9km、千住からは草加までが約9m、越谷までは約16kmなので、日本橋〜越谷は約25kmとなります。一方、日本橋から幸手までは越谷の倍となる約50km、栗橋までは55kmほどあり、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」の後に、つい勢いで「まだ先よ」と付け足したくなったやつがいたんでしょうね。 栗橋宿は、利根川対岸の中田宿と、2宿で1宿の合宿(あいしゅく)の形になっていました。ここの利根川には、軍事上の守りの観点から架橋されず、渡船場が置かれていました。渡し場は、房川渡しと呼ばれ、関所(房川渡中田御関所)が設置されていました。中田の名が付いているように、当初は中田宿側に置かれましたが、その後、栗橋側に移設され、通称「栗橋関所」と呼ばれるようになりました。 もう一つの幸手宿は、日光街道と共に、将軍が日光社参の際に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、重要な宿場となっていました。1843(天保14)年の『日光道中宿村大概帳』によると、幸手宿の長さは585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模を誇っていました。 その幸手と言えば、関東屈指の桜の名所・権現堂桜堤で有名です。 権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の1576(天正4)年頃と言われています。天正4年というと、織田信長が安土城を築城した年のこと。 その頃に権現堂を流れていたのは、渡良瀬川の本流だったようです。その後、江戸時代になって、「坂東太郎」こと利根川を東に移すことになり、現在の古利根川から渡良瀬川へ直線上にショートカットする新川通を開削し、これを利根川本流にしました。そのため権現堂の

日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」

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江戸時代の地口に「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」とあるように、草加は千住に続く日光街道第2の宿場町。 松尾芭蕉が曽良と共に、この日光街道を通って「おくのほそ道」へと旅立ったのは、元禄2(1689)年3月27日のこと。深川から隅田川をのぼり、千住で陸にあがった芭蕉は「行く春や鳥蹄魚の目は泪」と詠み、日光街道を北へ向かいました。 そして芭蕉は次の章で「其日漸早加と云宿にたどり着にけり」と書いています。初日は日光街道第2の宿・早加(草加)泊まりのように読み取れます。 しかし、曽良の随行日記には「廿七日夜 カスカベニ泊ル」とあります。千住から草加は2里8町(約9km)、草加宿から次の越ケ谷宿までが1里28町(約7km)、越ケ谷宿から粕壁宿は2里28町(約11km)です。 このあたり、千住から粕壁(春日部)まで27kmを、元気はつらつ一気に歩いたのでは、旅立ちの章で「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」「離別の泪」をそそぎ、「行く春や鳥蹄魚の目は泪」と詠んだ句が霞んでしまうと考え、脚色したのではないかと解釈されています。 それはさておき、東武スカイツリーライン松原団地駅から歩いて5分、草加松原遊歩道の百代橋北側に、この「おくのほそ道」草加の章段を刻した「松尾芭蕉文学碑」が二つあります。一つは書家・木村笛風氏による書、もう一つは活字で刻まれています。 書の方は1991年に建立された高さ2m、幅1.2mの石碑で、併せて横に碑を建てた草加ライオンズクラブによって、松の木が植樹されています。活字の方はその7年後に、同じく草加ライオンズクラブが結成30周年記念事業として設置したものだそうです。 二つの文学碑がある草加松原遊歩道は、旧日光街道の松並木で、綾瀬川に沿ってゆったりとした石畳の散歩道が整備されています。「日本の道100選」や「利根川百景」の他、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝にも指定されています。 ところで、草加と言えば、「草加せんべい」が有名です。元は農家がおやつに作っていた焼き米がルーツと言われ、草加が宿場町として栄えるようになると茶店で売られ、草加土産として江戸に伝わっていきました。 草加では、かつて良質の米が作られていました。特に、草加市東部の青柳の米はしっかりとした米で、寿司屋でも引っ張りだこだったといいます。その青柳に本店がある「まるそう一福」は、今も米にこ

2011年3月11日 東日本大震災

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東日本大震災一周年追悼式 10年前の2011年3月11日は、池袋で取材があり、地震の少し前に築地の事務所を出て、東京メトロ有楽町線で池袋へ向かっていました。地震の瞬間は、地下鉄の中も、ものすごい揺れで、私が乗っていた電車は、飯田橋駅と江戸川橋駅の間で緊急停車をしました。 もちろん、大きな地震があったのは、すぐに分かりましたが、詳しい情報がないまま、地下鉄の中で待つしかありませんでした。その後、15時過ぎにようやく運転を再開しましたが、時速5km以下でそろりそろりと移動。その段階で既に家内とはメールで連絡が取れていましたが、長男や長女、また築地の事務所がどうなっているかなどは、全く分かりませんでした。 東京スカイツリー 東日本大震災犠牲者追悼ライトアップ 20分ほどして、ようやく江戸川橋駅に到着したので、すぐに地上へ出ました。携帯電話はつながらないため、メールを入れますが、事務所のスタッフからは返信なし。事務所のある築地までは7km近くあり、一方、取材先の池袋は4kmほど。 地震の詳しい情報が分からなかったので、とりあえず、取材先の東京芸術劇場へ歩いて向かうことにしました。池袋には、16時過ぎに着きましたが、やはりというか取材を予定していたイベントは中止。しかも、東京芸術劇場がある池袋西口公園は、避難場所になっていたため、人であふれ返っていました。そんな様子もあって、その頃には、ただ事ではないと分かったので、次なる問題は、どうやって自宅に帰るかでした。 とりあえず池袋駅へ行きましたが、電車は全く動く気配がなく、挙げ句、JRは駅のシャッターを下ろして閉鎖するから、構内から退去するようアナウンスを始めました。その間にも、家族や友人、知人とはメールでやりとりし、情報を交換していましたが、誰も状況把握など出来るものではなく、結局、一人ひとりがその場で判断するしかありまでした。 JRに関しては、シャッターを閉めて乗客を閉め出すぐらいですから、全く期待出来ません。他の私鉄も、その段階では当然、動いていませんし、とりあえず運行を続けているバスで移動することにしました。ただ、池袋からどこ行きのバスが出ているのか、全く知らないので、まずバス乗り場周辺を歩いてみることにしました。 すると、目の前で浅草行きのバスが出発。しかも、その後ろにもう1台、浅草行きが停まっていました。そこで、このバ

最も奥秩父らしい森林美を持つ十文字峠

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埼玉と長野の県境をなす奥秩父・ 十文字峠 。標高は1962m。中央分水嶺でもあり、埼玉側は荒川、長野側は千曲川の源流となっています。5月下旬から6月にかけて、峠は数万本とも言われるアズマシャクナゲで覆われます。 何度も甲武信岳やこの十文字峠を訪れているカメラマンのTさんに誘われ、やはり山好きのカメラマンUさんと共に、アズマシャクナゲを求めて十文字峠へ行くことになりました。私の名前の頭文字がSなので、STUの3人組ということになります(関係ないけど)。 十文字峠へ向かう道は、埼玉県の旧大滝村(現・秩父市大滝)と長野県川上村の二つの起点があります。川上村からは更に、三国峠から尾根づたいに十文字峠へ向かう道と、千曲川の源流部となる毛木平から登る道があります。Tさんが選んだのは、このうち 毛木平 からのルートでした。途中、急坂はあるものの2時間程度で登ることが出来ます。機材を背負っての登りでしたが、比較的楽な山行でした。 出発点の毛木平には、60台近くの車が停められる毛木平駐車場があります。アズマシャクナゲが見頃の6月初旬には、この付近でベニバナイチヤクソウの大群落も見られます。まずはこの可憐な花を楽しんでから出発するといいでしょう。 毛木平からしばらくは、カラマツ林の平坦な道が続きます。沢づたいに緩やかな登りを歩いて行くと、左手に 五里観音 と呼ばれる観音像が見えてきます。十文字峠道は古くから、秩父と信州を結ぶ最短コースとして利用されてきました。そのため旅人の安全の道標として、一里ごとに里程観音が置かれています。ここから八丁坂と呼ばれる急坂までは、さほどきつい登りはありません。沢沿いの道にはさまざまな山野草が見られるので、これらを楽しみながら歩けます。 沢から離れ、ジグザグの登りに入ると、八丁坂が始まります。胸突き八丁の言葉通りの急坂で、ここが正念場。この八丁坂を息をきらせて登りつめた尾根は八丁頭と呼ばれ、十文字峠まではもう一息です。 十文字峠は秩父と信州を結ぶ峠道と、三国山と甲武信岳を結ぶ尾根づたいの道が文字通り十文字に交わります。峠の周辺はコメツガ、シラビソ、トウヒなどの針葉樹林に囲まれています。最も奥秩父らしい深い森林美を持った峠です。アズマシャクナゲが咲き競う6月初旬には、多くの登山客でにぎわいます。