投稿

ラベル(埼玉県)が付いた投稿を表示しています

武州のだるまさんは男前

イメージ
暮れから正月、そして3月末頃まで、全国的にだるま市が集中します。冬はだるまの製造元にとって、文字通り暮れも正月もない最も忙しい時期です。埼玉県南東部に位置し、江戸時代には日光街道の宿駅として栄えた越谷市も、だるまの産地として知られています。 越谷だるまは、別名「武州だるま」とも呼ばれ、関東地方を中心に広く北海道から九州まで出荷されています。生産量としては、群馬県の高崎だるまに次いで全国2位を占めておリ、寅さんで有名な柴又帝釈天や同じ東武線沿線の西新井大師、神奈川県の川崎大師などの参道で売られています。 越谷のだるま作リは、口碑によれば、江戸中期、「だる吉」という人形師によって始められたと伝えられています。その後、幕末の頃、高橋八太郎という人が、本格的にだるまの製造を始め、武州だるま発展の基礎を築きました。この武州だるまの特徴は、他の産地に比べ、色が白く、鼻がやや高く、上品で優しい顔立ちをしていることにあると言われています。そのため、粋を好んだ江戸町民から「武州だるまは男前」との評判を取り、隆盛を誇りました。 だるまは、生地の作リ方から見て、昔ながらの張り子だるまと真空成型だるまとに大別出来ます。張リ子だるまは、いちょうの木で作った木型に下張り紙を貼リ、その上の和紙を貼って2~3日天日で乾かし、その後、型抜きして、膠で切リ目を貼ります。一方、真空成型というのは、どろどろに溶かした紙と鋳型を使うもので、機械化され、生地作リ専門の業者によリ、それぞれの産地に卸されています。 現在では、ほとんどの産地が、真空成型の生地を利用しておリ、伝統的な張リ子だるまは消えつつあります。そして、真空成型方式によって、量産出来るようにはなりましたが、その一方で、形が画一化され、生産者の持つ個性と味わいが失われてしまっているのも事実です。 その中にあって、武州だるまはわずかではありますが、昔ながらの張り子だるまの伝統を守っておリ、1984(昭和59)年には、だるま産地としては全国で初めて、県の伝統的手工芸品の指定を受けています。 現在、この伝統的な張り子だるまの製造元は越谷市を中心に4軒残っていますが、どの家も代々家業を継承している家ばかりです。これは、他の職人仕事と同じで熟練するまでにはそれなりの年月がかかるためでしょう。そして、各家がそれぞれ独自の木型を持ち、個性溢れるだるまを作っていま...

日光街道第三の宿場町・越谷あれこれ

イメージ
江戸時代の地口(言葉遊び)に「草加(そうか) 越谷 千住の先よ」というのがあります。越谷は千住、草加に続く日光街道第三の宿場町。日光街道は、日本橋を起点に千住から草加、越谷と続き、更にその先に粕壁(春日部)など、日光までに全部で21の宿場が置かれていました。 千住は日光街道第一の宿で、松尾芭蕉『おくの細道』旅立ちの地でもあります。また次の宿・草加は草加せんべいで有名。越谷の次、春日部はアニメ『クレヨンしんちゃん』の舞台として知られます。そう思うと、この越谷、かなり影が薄いように感じてしまいます。 越谷市の人口は約34万人。1962年に東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)が東京メトロ日比谷線と直通運転を開始して以降、東京のベッドタウンとして急速に人口が増加。更に2008年3月にJR武蔵野線の越谷レイクタウン駅が開業。その年10月には、越谷レイクタウン駅北口駅前に日本最大のショッピングモール「イオンレイクタウン」がオープンし、影が薄かった越谷もだいぶ様相が変わってきました。今では、大東建託賃貸未来研究所による「街の幸福度ランキング」調査で、越谷レイクタウン駅が、4年連続で「街の幸福度(駅)」埼玉県版のトップになるなど、イメージも良くなっているようです。 そんな越谷市に、平安時代中期の創建とされる古社・久伊豆神社があります。江戸時代には鷹狩りの折に越谷に宿をとっていた将軍が参拝されたと言われ、社紋「立葵」はその際に徳川家から奉納されたと伝えらています。明治維新後はこの辺りの総鎮守として郷社に列格。宮内庁越谷鴨場と共に市の「環境保全地域」に指定されています。 久伊豆神社の境内には、樹齢約250年、県の天然記念物に指定されている藤があります。神社によると、「この藤は埼玉県指定の天然記念物で、株回りが7m余り、地際から7本に分かれて、高さ2.7mの棚に枝を広げている。枝張りは東西20m、南北30mほどあり、天保8年(1837年)、越ヶ谷町の住人、川鍋国蔵(ほうき職人だったらしい)が、現在の千葉県流山から、樹齢50余年の藤を舟で運び、当地へ移植したといわれています」とのこと。 花の見頃は、だいたい4月末から5月初旬のゴールデンウィークの頃で、市内外から花を愛でるため多くの人が訪れます。 また、その少し前の3月下旬から4月上旬には、北越谷の元荒川桜堤でソメイヨシノが咲き誇り、多く...

宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」

イメージ
関東平野は、日本の平野の18%を占める、とにかくだだっ広い平野です。その中でも埼玉県は、西部に秩父山塊を抱えてはいるものの、ほとんどが平地で、私が住んでいる越谷市に至っては、ほとんどの場所が海抜5m未満、最も高い所でも8mないという、思い切り平べったい土地です。そのため、高架線を走る電車やホーム、大きめの河川橋の上などからは、東に筑波山、北に日光連山、西に富士山や南アルプス、南に東京スカイツリーが望めます。 東京も似たようなもので、奥多摩以外に高い山はなく、東京23区の最高峰は標高25.7mの愛宕山(港区の愛宕神社)という惨状です。いかに、関東平野がのっぺりしているかという証にはなりますね。 それでも埼玉には、秩父山塊があり、最高峰は秩父市と長野県川上村の境にある標高2483mの三宝山になります。ただ、山頂からの眺望は全くと言っていいぐらいないらしく、登山をする人は、近くの甲武信ケ岳のついで、あるいはアズマシャクナゲがきれいな十文字峠などとセットで登るようです。ちなみに、埼玉、山梨、長野3県にまたがる甲武信ケ岳は標高2475m、三宝山と同じく秩父市と川上村の境にある十文字峠は標高1962mになります。十文字峠には、私も登ったことがあります( 最も奥秩父らしい森林美を持つ十文字峠 )。その時に泊まった十文字小屋は、埼玉県側にあり、標高は2035m地点と、私のしがない登山歴の中では富士山に次ぐ高い山です。 これら2000m級の山々が連なる秩父には、「地球の窓」とも呼ばれる長瀞があります。長瀞の岩畳は、幅約80m、長さ約500mに及ぶ広大な自然岩石で、国の特別天然記念物に指定されています。また、長瀞と言えば、急流を船で下るスリリングな川下りが人気です。 そんな長瀞に、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、一つ星を獲得した寶登山(ほどさん)神社があります。今から1900年以上前の西暦111年、父・景行天皇の勅命により日本武尊は東国を平定。そして『日本書紀』によると、その帰途に武蔵国へ入ったとされます。そのため、武蔵国には、あちこちに日本武尊の東征にまつわる伝説が残っています。 寶登山神社もそうですが、秩父の三峯神社や、埼玉と共に武蔵国を形成していた東京の鷲神社(台東区)、根津神社(文京区)などにも、日本武尊伝説が伝えられています。寶登山神社については、尊が宝登山へ向か...

植木の里・川口安行の話

イメージ
長男家族は、我が家から約9km、車で20分ぐらいの所に住んでいます。ルートはいくつかあるのですが、国道4号を突っ切るとJR武蔵野線東川口駅南口の戸塚地区、4号線を草加方面へ少し走ってから入ると安行地区を通ります。 安行地区は、「植木の里」と呼ばれ、その歴史は400年以上になります。かつては鋳物と共に川口の2大産業として、隆盛を極めましたが、東京に隣接していることから人口が増えると共に、住宅開発が進み、鋳物工場も緑化産業も徐々に減っています。 それでも安行には、川口市営植物取引センターや川口緑化センター樹里安、花と緑の振興センター、安行園芸センターなど、「植木の里」にふさわしい施設があります。植物取引センターでは、毎週火曜日、植木のせりが行われ、全国から関係者が集まります。また、センターの敷地には、JAさいたまの子会社「安行植物取引所」が運営する植木直売所があり、一般の人が購入出来るようになっています。 川口緑化センターは、川口の伝統産業である植木や花、造園の振興を図るため、緑化産業に関する情報の収集や提供を行う施設です。道の駅「川口・あんぎょう」が併設されており、多種多様な花と緑を販売する園芸販売コーナーや、レストラン、屋上庭園などがあります。 花と緑の振興センターは、県の施設で、生産者や造園業者向けの情報提供や講習を行う他、園内には植木や鑑賞用樹木など、2000種類以上の植物が展示されています。安行園芸センターは、農事組合法人あゆみの農協の施設で、植木や草花、園芸資材を購入出来ます。 安行は、1496(明応5)年、この地に曹洞宗の金剛寺を創建した中田安斎入道安行の名にちなんで付けられた地名と言われています。応仁の乱から20年ほど経ち、時は群雄割拠の戦国時代が幕を開けた頃でした。殺傷が続く戦乱の中、自らの所業に悩んでいた中田氏は、この地を行脚していた節庵禅師による金剛経で救われ、寺を建てることにしたと伝わります。 入道というぐらいですから、在家のまま剃髪し、仏道に進んだのでしょう。中田氏の出自については、いまひとつ分からないのですが、安行の子どもが、太田資長(道灌)の孫である資頼に仕えていたということから、安行も同時代を生きた資長の配下にあったのかもしれません。資長が、道灌を名乗るのは入道してからのことで、安行に影響を与えたと考えられなくもないかと。 戦国時代の中田...

江戸へ13里の味「芋せんべい」 埼玉県川越

イメージ
「芋せんべい」は、甘藷を原料とした和菓子です。甘藷は今でこそ珍しくもなんともありませんが、もともとは中南米が原産地と言われ、全世界では数百種もあるそうです。我が国には、まず、今の沖縄に伝わり、次に薩摩に渡って、中国・関西方面で栽培されるようになります。 関東・東北方面に広がったのは、18世紀に入ってからでした。特に1735(享保20)年に、学者の青木昆陽が、幕府の命令で小石川の薬草園に甘藷を試植し、それが普及のきっかけになりました。サツマイモの普及を図った昆陽は、その後、甘藷先生と呼ばれるようになりました。 1751(寛延4)年には、川越藩主の奨励で、今の所沢市に住んでいた名主が甘藷栽培を開始し、やがて関東一円に広がっていきます。関東一帯はローム層でしたから、日照りの夏はろくに作物が出来ず、悩みのたねでした。けれども、甘藷は日照りに強く、イモが土中で育ちますから、いざという時の食べ物としても貴重なものでした。 こうして甘藷は一般に普及し、1790年代になると、江戸の町々にも焼き芋屋が増え、木戸番小屋でも売るようになりました。この時、本郷4丁目の木戸番が、味がクリ(栗=九里)に近いというので、しゃれて「八里半」という看板を出したそうですが、後になるとクリより(四里)うまいということで、「十三里」としゃれる人も出ました。 このしゃれにあやかるわけではありませんが、江戸・日本橋から13里の所が川越市の札の辻で、昔、役所の制札を掲げた四つ辻です。この辻に続く蔵の街のほぼ中央にあるのが、和菓子舗亀屋榮泉です。「芋せんべい」は、この地で初めて作られたもので、甘藷は明治の頃に作り出された「紅赤」種を使っています。「紅赤」は、川越イモの名を全国に知らしめた良質のイモで、大正時代には全国に普及し、何よりも食味抜群のイモとされましたが、育てにくい優良児とも言われています。 その「紅赤」のイモを薄く切って、両面に黒ゴマをまぶし、鉄板で焼いて、表に砂糖蜜をぬって「芋せんべい」が出来上がります。原料となる「紅赤」は生のイモを切っていくわけですが、亀屋榮泉では、スライス機も自ら開発した独自のものを使っているそうです。大正時代には、当時の宮内省からも注文を受け、甘藷菓子の名を高めました。蜜の甘さにひたっていると、甘藷の馥郁とした甘さが湧き上がってくる素敵な銘菓です。

子どもの頃の思い出と共に息づく麦わら帽子

イメージ
かつて埼玉は、日本一の麦の生産県でした。県東部、庄内古川(中川)と古利根川に挟まれた肥沃な沖積平野に開けた春日部も、古くから麦作りが行われていました。そして、これら麦稈(麦の茎)を利用した麦わら真田作りの副業も盛んだったようです。 麦わら真田というのは、麦わらを真田紐のように編んだもので、明治初めまで川崎大師の土産品として使われていました。主産地は岡山、広島などでしたが、春日部のものは茎に模様があることから「蛇身真田」と呼ばれて珍重され、川崎や東京・大森などに出荷されていたといいます。 『東海道中膝栗毛』にも「大森といへるは麦藁ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」と書かれており、江戸の頃から、大森は麦わら細工で有名だったことがうかがえます。明治に入ると、その大森で麦わら真田を使った帽子が作られるようになります。横浜にいたアメリカ人の勧めで始まったものといい、1878(明治11)年、大森の島田十郎兵衛が麦わら帽子を作り始めました。 1871(明治4)年に散髪脱刀令が出され、斬髪が進むと同時に、帽子が普及し始めました。1872(明治5)年11月号の『新聞雑誌』は関西方面の斬髪流行を取り上げ、「これがため、大坂、神戸の洋品店にありし帽子一時に売り尽くしたり」と伝えています。斬髪の恥ずかしさを帽子でカバーしようと、帽子は飛ぶように売れました。 その波は、麦わら真田の供給地であった春日部まで押し寄せ、1880(明治13)年、春日部でも麦わら帽子の製造が始まりました。最盛期には、春日部を中心に150の業者、約1万人が帽子製造に携わり、産地として全盛を極めました。と同時に、麦わら帽子は庶民の生活の中に浸透していきました。 多くの人は、麦わら帽子と言えば、夏を思い出すのではないでしょうか。子どもの頃の夏休みの思い出の中に、麦わらの帽子をかぶった自分がいたります。 「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、籍谷に落としたあの麦程帽子ですよ」 これは、西条八十が子どもの頃、母親に連れられ霧積に行った時の思い出を綴った詩ですが、麦わら帽子には、子どもの頃の思い出を象徴するような、不思議な語感があります。 ↑帽子の木型もそれぞれのデザインに合わせて作られます(田中帽子店)

高野山から伝わり、大都市江戸に育てられた細川紙

イメージ
秩父山地と関東平野が出合う県中西部の村・東秩父。この村は、近隣の小川町、都幾川村などと共に、古くから手漉き和紙の産地として知られてきました。 記録によると、都幾川村の古刹・慈光寺が建立された後、写経の必要から紙づくりが始まったとされます。慈光寺は、奈良時代の創建とされますから、1200年以上も昔のことです。また、いつの頃かは定かでありませんが、高野山の紙を漉いた紀州細川の紙漉き技術を導入したとも伝えられます。そのためこの辺りの和紙は、今でも「細川紙」と呼ばれます。 特に江戸時代、職人たちが開発した細川紙は、漂白しない未晒しのコウゾ100%を使った強じんな和紙でした。水に浸して丸めて搾っても、ピンと延ばせば元に戻りました。そんな質の良さから、商家の大福帳に使われ、火事の際、井戸に投げ込み、後で引き上げても再び使えたといいます。更に大都市・江戸に近かったこともあり、細川紙は非常な繁栄をみました。 しかし、時代と共に和紙を取り巻く環境も様変わりしました。大きな変化は昭和30年代の機械化でした。東秩父や小川の業者も、多くの家が機械和紙に転向しました。機械化による大量生産は原料不足を招き、原木は3倍に高騰しました。 それに追い討ちをかけるように、紙の需要が変わってしまいました。洋紙に押され、和紙を漉いていた家は、どんどん廃業に追い込まれていったのです。 現在、細川紙を漉いている家は数軒のみとなってしまいました。そんな中、東秩父にある「和紙の里」は紙漉きの伝統を将来に伝える施設として作られました。ここでは秩父の山々を借景とした日本庭園の中、細川紙を始めとした和紙の生産と販売を行っています。また、和紙の製作工程が見学出来る他、手作り体験も出来るようになっています。 地元の幼稚園児や小学生も手漉き体験に訪れるなど、今、東秩父では、村をあげて紙漉きの技と心を受け継いでいこうとしています。

江戸情緒を色濃く伝える小江戸の町並み

イメージ
川越は古くから、小江戸と呼ばれてきました。 徳川家康の関東入り以来、川越は江戸城の北の守りの一つとして重要視されました。そのため、川越城は酒井氏、堀田氏、松平氏、柳沢氏ら大老・老中格の譜代や親藩の大名が代々城主を務めました。川越は、その城下町として栄え、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信網の時、行政区画が定められ、ほぼ現在の町が形成されました。 また、川越は江戸から40kmと近いこともあり、大消費地・江戸へ大量の物資を輸送する役目も担っていました。松平信綱による野火止の新田開発もそのためのものでした。交通路も川越街道に加え、新河岸川舟運の水路が整備され、川越から江戸へ、米穀、サツマイモ、醤油、炭、建材などを始め、川越織物などの特産物が運ばれました。 こうして川越は、商業地としても大いに賑わい、また江戸の文化がすぐに伝わるようになりました。その影響は建築様式にも現れ、1720(享保5)年以降、江戸に耐火建築の蔵造り商家が建ち並ぶようになると、川越でも蔵造りが目立つようになりました。 もっとも、今日残るものは、1893(明治26)年の川越大火後に建てられたものです。この時の火事では、市街地の3分の1を焼失しましたが、川越商人の富と力によって、更に重厚な耐火建築の蔵造りの店が復興されました。 その後、川越は第二次大戦の空襲を免れ、明治の建築とはいえ、江戸の面影を色濃く伝える町並みをそのまま残すこととなりました。 川越には現在、JR埼京線、西武新宿線、東武東上線の3線が乗り入れています。この中で、蔵の町並みに最も近いのが、西武新宿線の本川越駅。駅から北へ向かって歩くと、20分ほどで蔵の通りに出ます。この通りは、日本一重厚な町並みと言ってもいいほど、蔵造りの店が建ち並びます。 しかし、池袋からは急行で30分。都心に近いだけに、人口も増え、今や35万都市の川越。蔵の通りの交通量も、かなり多くなっています。江戸時代の面影を残すのは町並みだけで、通りには乗用車やバス、トラックがひっきりなしに走っており、ちょっとつや消し。欲を言えば、迂回路を作ってほしいところです。 蔵の通りから一歩脇道を入ると、川越のもう一つの顔に出合えます。表通りの重厚な町並みとは一変、昔懐かしい駄菓子屋が軒を連ねています。 この辺りは江戸時代、養寿院の門前町として栄えた所で、明治の初め、鈴木藤左衛門という人が、ここで...

千本桜と菜の花畑のコントラストが見事な権現堂桜堤

イメージ
昨日のブログ( 日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」 )は、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」という江戸時代の地口から始めましたが、実はこの地口、後に「幸手、栗橋、まだ先よ」と続けることもあります。 日光街道は、日本橋を起点に第1の宿・千住から草加、越谷と続き、更に粕壁(春日部)、杉戸を経て、幸手宿、栗橋宿へ通じます。江戸時代は、東京と埼玉、それに神奈川の一部(川崎、横浜)を含むエリアが武蔵国となっていて、次の宿場・下総国中田宿(現・茨城県古河市)との間には関所が置かれていました。 日本橋から千住までは約9km、千住からは草加までが約9m、越谷までは約16kmなので、日本橋〜越谷は約25kmとなります。一方、日本橋から幸手までは越谷の倍となる約50km、栗橋までは55kmほどあり、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」の後に、つい勢いで「まだ先よ」と付け足したくなったやつがいたんでしょうね。 栗橋宿は、利根川対岸の中田宿と、2宿で1宿の合宿(あいしゅく)の形になっていました。ここの利根川には、軍事上の守りの観点から架橋されず、渡船場が置かれていました。渡し場は、房川渡しと呼ばれ、関所(房川渡中田御関所)が設置されていました。中田の名が付いているように、当初は中田宿側に置かれましたが、その後、栗橋側に移設され、通称「栗橋関所」と呼ばれるようになりました。 もう一つの幸手宿は、日光街道と共に、将軍が日光社参の際に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、重要な宿場となっていました。1843(天保14)年の『日光道中宿村大概帳』によると、幸手宿の長さは585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模を誇っていました。 その幸手と言えば、関東屈指の桜の名所・権現堂桜堤で有名です。 権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の1576(天正4)年頃と言われています。天正4年というと、織田信長が安土城を築城した年のこと。 その頃に権現堂を流れていたのは、渡良瀬川の本流だったようです。その後、江戸時代になって、「坂東太郎」こと利根川を東に移すことになり、現在の古利根川から渡良瀬川へ直線上にショートカットする新川通を開削し、これを利根川本流にしました。そのため権現堂の...

日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」

イメージ
江戸時代の地口に「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」とあるように、草加は千住に続く日光街道第2の宿場町。 松尾芭蕉が曽良と共に、この日光街道を通って「おくのほそ道」へと旅立ったのは、元禄2(1689)年3月27日のこと。深川から隅田川をのぼり、千住で陸にあがった芭蕉は「行く春や鳥蹄魚の目は泪」と詠み、日光街道を北へ向かいました。 そして芭蕉は次の章で「其日漸早加と云宿にたどり着にけり」と書いています。初日は日光街道第2の宿・早加(草加)泊まりのように読み取れます。 しかし、曽良の随行日記には「廿七日夜 カスカベニ泊ル」とあります。千住から草加は2里8町(約9km)、草加宿から次の越ケ谷宿までが1里28町(約7km)、越ケ谷宿から粕壁宿は2里28町(約11km)です。 このあたり、千住から粕壁(春日部)まで27kmを、元気はつらつ一気に歩いたのでは、旅立ちの章で「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」「離別の泪」をそそぎ、「行く春や鳥蹄魚の目は泪」と詠んだ句が霞んでしまうと考え、脚色したのではないかと解釈されています。 それはさておき、東武スカイツリーライン・獨協大学前(草加松原)駅から歩いて5分、草加松原遊歩道の百代橋北側に、この「おくのほそ道」草加の章段を刻した「松尾芭蕉文学碑」が二つあります。一つは書家・木村笛風氏による書、もう一つは活字で刻まれています。 書の方は1991年に建立された高さ2m、幅1.2mの石碑で、併せて横に碑を建てた草加ライオンズクラブによって、松の木が植樹されています。活字の方はその7年後に、同じく草加ライオンズクラブが結成30周年記念事業として設置したものだそうです。 二つの文学碑がある草加松原遊歩道は、旧日光街道の松並木で、綾瀬川に沿ってゆったりとした石畳の散歩道が整備されています。「日本の道100選」や「利根川百景」の他、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝にも指定されています。 ところで、草加と言えば、「草加せんべい」が有名です。元は農家がおやつに作っていた焼き米がルーツと言われ、草加が宿場町として栄えるようになると茶店で売られ、草加土産として江戸に伝わっていきました。 草加では、かつて良質の米が作られていました。特に、草加市東部の青柳の米はしっかりとした米で、寿司屋でも引っ張りだこだったといいます。その青柳に本店がある「まるそう一福...

最も奥秩父らしい森林美を持つ十文字峠

イメージ
埼玉と長野の県境をなす奥秩父・ 十文字峠 。標高は1962m。中央分水嶺でもあり、埼玉側は荒川、長野側は千曲川の源流となっています。5月下旬から6月にかけて、峠は数万本とも言われるアズマシャクナゲで覆われます。 何度も甲武信岳やこの十文字峠を訪れているカメラマンのTさんに誘われ、やはり山好きのカメラマンUさんと共に、アズマシャクナゲを求めて十文字峠へ行くことになりました。私の名前の頭文字がSなので、STUの3人組ということになります(関係ないけど)。 十文字峠へ向かう道は、埼玉県の旧大滝村(現・秩父市大滝)と長野県川上村の二つの起点があります。川上村からは更に、三国峠から尾根づたいに十文字峠へ向かう道と、千曲川の源流部となる毛木平から登る道があります。Tさんが選んだのは、このうち 毛木平 からのルートでした。途中、急坂はあるものの2時間程度で登ることが出来ます。機材を背負っての登りでしたが、比較的楽な山行でした。 出発点の毛木平には、60台近くの車が停められる毛木平駐車場があります。アズマシャクナゲが見頃の6月初旬には、この付近でベニバナイチヤクソウの大群落も見られます。まずはこの可憐な花を楽しんでから出発するといいでしょう。 毛木平からしばらくは、カラマツ林の平坦な道が続きます。沢づたいに緩やかな登りを歩いて行くと、左手に 五里観音 と呼ばれる観音像が見えてきます。十文字峠道は古くから、秩父と信州を結ぶ最短コースとして利用されてきました。そのため旅人の安全の道標として、一里ごとに里程観音が置かれています。ここから八丁坂と呼ばれる急坂までは、さほどきつい登りはありません。沢沿いの道にはさまざまな山野草が見られるので、これらを楽しみながら歩けます。 沢から離れ、ジグザグの登りに入ると、八丁坂が始まります。胸突き八丁の言葉通りの急坂で、ここが正念場。この八丁坂を息をきらせて登りつめた尾根は八丁頭と呼ばれ、十文字峠まではもう一息です。 十文字峠は秩父と信州を結ぶ峠道と、三国山と甲武信岳を結ぶ尾根づたいの道が文字通り十文字に交わります。峠の周辺はコメツガ、シラビソ、トウヒなどの針葉樹林に囲まれています。最も奥秩父らしい深い森林美を持った峠です。アズマシャクナゲが咲き競う6月初旬には、多くの登山客でにぎわいます。 ...