戦国武将・真田家の本拠地
上田市は、長野県東部、北は上信越高原国立公園の菅平高原、南は八ケ岳中信高原国定公園の美ケ原高原など2000m級の山々に囲まれ、中央部を千曲川が流れています。奈良時代に国分寺、国分尼寺が建てられ、鎌倉時代には、鎌倉の仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と称されています。 戦国時代に入ると、真田氏の本拠地として、その名を知られるようになります。真田氏は、信濃国海野荘(現・長野県東御市)を本拠とする海野氏の分家とされ、戦国時代初期の武将・海野棟綱の子(孫とも言われる)幸隆が、真田郷に住み、真田を名乗ったのが、昌幸や幸村ら、今の我々が知る真田氏のルーツです。 幸隆は、武田信玄に仕え、武田二十四将の一人として活躍します。次の昌幸は、幸隆の三男でしたが、長兄、次兄が長篠の合戦で戦死したため、家督を継ぐことになります。そして、武田家が織田信長によって滅ぼされると、織田家に付くも、間もなく信長が本能寺の変で暗殺されると、上杉から北条、北条から徳川と、主家をめまぐるしく替えながら領地を守ります。 なので、本能寺の変の翌年に完成した上田城が、誰の指図あるいは許可を受けて築城したのかは不明です。ただ、1583(天正11)年、上田盆地のほぼ中央、千曲川とその分流を引いた尼ケ淵を臨む崖の上に、上田城が築かれたのは確かです。 で、変わり身の早さで定評のあった昌幸ですが、家康が北条氏との取り決めで、上州の沼田城を北条氏に譲るよう命じると、昌幸は家康から離れ、再度上杉の元へ走ります。本領発揮ですね。しかし、ここからが、ただの日和見さんとは違います。 これに激怒した家康が、大軍を率いて上田に押し寄せますが、昌幸は巧みな戦略でこれを撃退。しかも、二度にわたり徳川軍を退けたことで、真田の名は、全国に轟きます。 その後、豊臣秀吉の裁定により、家康の元へ戻り、信之は、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘を嫁に迎えます。1600年の関ケ原の戦いでは、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、信之は東軍に付き、家名の存続を図ります。 関ケ原の戦いで、一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、これにより昌幸と信繁は、紀州九度山へ配流となり、上田城も破却されてしまいます。徳川に付いた信之は、昌幸に代わって上田藩主となりましたが、上田城の再建は許されませんでした。 関ケ原の戦いから14年、既に昌幸は生涯を閉じていましたが、信