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戦国武将・真田家の本拠地

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上田市は、長野県東部、北は上信越高原国立公園の菅平高原、南は八ケ岳中信高原国定公園の美ケ原高原など2000m級の山々に囲まれ、中央部を千曲川が流れています。奈良時代に国分寺、国分尼寺が建てられ、鎌倉時代には、鎌倉の仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と称されています。 戦国時代に入ると、真田氏の本拠地として、その名を知られるようになります。真田氏は、信濃国海野荘(現・長野県東御市)を本拠とする海野氏の分家とされ、戦国時代初期の武将・海野棟綱の子(孫とも言われる)幸隆が、真田郷に住み、真田を名乗ったのが、昌幸や幸村ら、今の我々が知る真田氏のルーツです。 幸隆は、武田信玄に仕え、武田二十四将の一人として活躍します。次の昌幸は、幸隆の三男でしたが、長兄、次兄が長篠の合戦で戦死したため、家督を継ぐことになります。そして、武田家が織田信長によって滅ぼされると、織田家に付くも、間もなく信長が本能寺の変で暗殺されると、上杉から北条、北条から徳川と、主家をめまぐるしく替えながら領地を守ります。 なので、本能寺の変の翌年に完成した上田城が、誰の指図あるいは許可を受けて築城したのかは不明です。ただ、1583(天正11)年、上田盆地のほぼ中央、千曲川とその分流を引いた尼ケ淵を臨む崖の上に、上田城が築かれたのは確かです。 で、変わり身の早さで定評のあった昌幸ですが、家康が北条氏との取り決めで、上州の沼田城を北条氏に譲るよう命じると、昌幸は家康から離れ、再度上杉の元へ走ります。本領発揮ですね。しかし、ここからが、ただの日和見さんとは違います。 これに激怒した家康が、大軍を率いて上田に押し寄せますが、昌幸は巧みな戦略でこれを撃退。しかも、二度にわたり徳川軍を退けたことで、真田の名は、全国に轟きます。 その後、豊臣秀吉の裁定により、家康の元へ戻り、信之は、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘を嫁に迎えます。1600年の関ケ原の戦いでは、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、信之は東軍に付き、家名の存続を図ります。 関ケ原の戦いで、一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、これにより昌幸と信繁は、紀州九度山へ配流となり、上田城も破却されてしまいます。徳川に付いた信之は、昌幸に代わって上田藩主となりましたが、上田城の再建は許されませんでした。 関ケ原の戦いから14年、既に昌幸は生涯を閉じていましたが、信

群馬県下で唯一現存する城櫓

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高崎は平安時代、赤坂の庄と呼ばれ、鎌倉時代には和田氏が城を築き、戦国時代を通じてこの地を治めました。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、上州の諸城は次々と陥落し、和田城もあえなく落城。その年、徳川家康が関東に入部し、和田の地は、徳川四天王の一人井伊直政によって支配されることになりました。 直政は、家康の命によって、和田城跡に城を築き、地名を高崎と改めました。この地は、中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、家康はその監視を行う城が必要と考えたのでした。 直政が、関ケ原の戦いで大功を挙げ、近江に移封されてからは、高崎城の城主は有力譜代大名が歴任。高崎は城下町として、また重要街道の宿場町として大いににぎわい、物資が集散し商業も栄えました。 明治維新で廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、または移築されました。現在、建物で残っているのは、乾櫓と東門だけで、実はこの二つも、当時名主であった梅山氏に払い下げられていたのだといいます。 1951(昭和26)年、高崎市史編纂委員数人が、市内を踏査中、下小鳥町で風変わりな土蔵を発見しました。旧高崎城各部実測図と照合したところ、それは乾櫓だということが判明しました。 高崎城には、御三階櫓(天守)と乾(北西)、艮(北東)、巽(南東)、坤(南西)の4基の隅櫓がありました。しかし、残っているのは、乾櫓だけ。しかも、高崎城はおろか、群馬県下唯一の現存城櫓となっています。 こうしたことから、乾櫓はその後74年に、梅山氏から市に寄贈され、現在地に三の丸模擬石垣を造り、その上に移築復元されました。また、東門も梅山氏宅の門になっていたところ、その数年後に乾櫓の隣に移築されることになりました。 東門の復元には、高崎和田ライオンズクラブが関わっています。80年2月、結成10周年を迎えた同クラブが、記念事業として梅山氏から東門を譲り受けて移築し、高崎市に寄贈したのです。その説明板によると、高崎城にはかつて16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で、そのうち東門だけくぐり戸がついており、通用門として使われていたとあります。 高崎城東門は、本瓦葺きの単層入母屋造りで、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。向かって左が大戸、中央がくぐり戸、右が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行った武者窓付の藩士詰所だとされています。

難攻不落と言われた総石垣の不思議な山城

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太田市は、群馬県の南東部にあり、南に利根川、北に渡良瀬川と、水量豊かな二つの川に挟まれています。江戸時代には、大光院の門前町、日光例幣使街道の宿場町(太田宿)として栄えました。大正期以降は、富士重工業の企業城下町として飛躍的な発展を遂げ、現在も北関東随一の工業製品出荷額を誇っています。 そんな太田市のほぼ真ん中にある金山に、関東七名城の一つで、日本100名城にも選定されている太田市のシンボル金山城があります。1469(文明元)年に、新田氏の一族・岩松家純によって造営されたのが始まりとされます。 その金山城は、難攻不落の城と言われ、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏といった有力な戦国大名が、延べ十数回にわたって攻め寄せましたが、戦闘では一度も落城することはありませんでした。 城というと、石垣の上に築かれた天守閣を思い浮かべると思いますが、このような城が一般的になるのは、織田信長の安土桃山時代以降のことです。中世の城は、ほぼ土だけで造られた山城で、石垣はほとんどありません。特に関東では、関東ローム層の赤土で造った城が多く見られます。 そんな中、金山城は、総石垣の山城だったといいます。城が築かれた金山(標高239m)は、岩盤で出来ており、石が容易に手に入ったということもあったのでしょう。そのせいか、石垣だけではなく、城内は石畳となっていたり、池も石垣で囲まれたりと、ちょっと日本らしくない城になっています。 城内の池は、「月ノ池」と「日ノ池」と呼ばれています。山頂にある「日ノ池」は、結構な大きさがある池で、側には石組みの井戸が二つあります。また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を溜める構造になっているそうで、これらによって、山頂にありながら、池は涸れることがないといいます。「月ノ池」も、「日ノ池」と同じ造りで、上下二段の石垣で囲まれた池になっています。 城は、岩松氏から由良氏へと城主が替わり、更に1584(天正12)年には北条氏が支配します。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、金山城も廃城となりました。 現在、金山城跡として、我々が目にしているのは、1992(平成4)年から発掘調査を開始し、往時の通路形態を復元したもので、2001(平成13)年に第1期整備事業が完成。引き続き、04年から第2期整備事業が実施されました。

熊本と聞いて思い浮かぶ事ども

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2016(平成28)年4月の熊本地震から5年、修復が終わった熊本城天守閣の公開が、6月28日から始まっています。とはいえ、このコロナ禍では、県外からはおいそれとは行けず、しかも完全復旧は2037年と、まだ16年も先とのことで、個人的には生きてるうちに見られるか、という状況になっております。 さて、この熊本城、加藤清正が築いた城です。天守閣前の2本の銀杏は、城の完成を記念して植えられました。その時、清正は、銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。 慶長年間、清正は一大築城工事を始め、白川と坪井川、井芹川の三つの川を外濠と内濠に利用して、壮大な城を造りました。 熊本城には、大小3基の天守を含め、5階の櫓が5基もあったそうです。実戦に強い名城と言われ、特に石垣は、清正公石垣と呼ばれる独特のものでした。それは、武者返しとも称され、上がそり返った独特の構造で、敵兵がよじ登って来れば、上の所ではね返す形になっていました。 実戦についての考えは徹底していました。城内には、120カ所の深井戸を掘り、天守閣の畳の芯には、カンピョウとかズイキなど食料になるものが使われたといいます。籠城戦に耐えられるようになっていたのです。銀杏も、実が保存出来るという発想で植えられたという説がありますが、この銀杏、実は雄木で、実はならないそうです。たぶん、後世の俗説なんでしょうね。 この名城も、清正の後、2代忠広の時に細川氏のものとなってしまいます。家中をまとめきれていないということで改易になったのですが、加藤氏が去っても、予言は城に残りました。 1877(明治10)年、西南の役が起こります。兵乱とは関係のなかった熊本城ですが、この戦いに巻き込まれてしまいます。銀杏は成長して、天守の高さに達していました。 熊本城には、政府軍の谷干城らの熊本鎮守台兵が立てこもり、それを、西郷隆盛を擁した薩摩士族軍が襲います。守りに強い名城はびくともしませんでした。しかし、この時の城内の出火で、宇土櫓などを残して、主な建物は焼失してしまいました。そしてこの時、銀杏も一緒に焼けてしまいます。現在の銀杏は、焼け残った根元から出た脇芽が成長したものです。 また、3層6重の一の天守と、2層4重の二の天守は、1960(昭和35)年に復元されました。今回、いち早く復旧した天守閣は、復興のシンボルとし

長崎を開港したキリシタン大名の本拠地

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大村市には、長崎県の玄関口・長崎空港があります。空港は、大村湾に浮かぶ箕島にあって、市街地とは長崎空港連絡橋(箕島大橋)で結ばれています。橋は、県道38号となっており、鉄道はありません。ただ、歩道が設置されており、全長970mの橋を歩いて渡ることも出来ます。また、ハウステンボスとの間には、連絡船もあります。 空港がある大村湾は、四方を陸で囲まれた「ほぼ湖」となっています。そのため、いつも穏やかな波の音が、琴の音に似ているとして、琵琶湖に例えて「琴湖(きんこ/ことのうみ)」とも呼ばれています。 大村湾が、外海とつながるのは、針尾瀬戸と早岐瀬戸の2カ所だけで、いずれも佐世保湾に通じています。針尾瀬戸は、日本三大急潮の一つとして知られ、鳴門と同じように渦潮が見られます。一方の早岐瀬戸は、全長約11km、幅は100m前後の狭い海峡で、早岐瀬戸と大村湾の関係は、一見すると湖に注ぐ川にしか見えません。 そんな大村市は、江戸時代、大村藩の城下町として栄えました。大村氏は、もともとこの地方の領主で、豊臣秀吉の九州平定では秀吉に従って領地を安堵され、関ケ原の戦いでは徳川方について本領を安堵されました。江戸期を通じて、大村氏の転封はなく、長きにわたってこの地を治めることになりました。 大村藩初代藩主・大村喜前の父純忠は、最初のキリシタン大名として知られます。純忠は、1533(天文2)年、大村氏と縁戚関係にあった戦国大名・有馬晴純の次男として生まれました。母が、大村家第16代・純伊の娘であったために、1538(天文7)年に大村氏の養子となり、第18代領主となります。その後、1561(永禄4)年に横瀬浦(現・西海市)、1570(元亀元)年には長崎をポルトガルに開港し、長崎が南蛮貿易の中心地として発展する礎を築きました。 しかし、1588(天正16)年、秀吉が長崎を直轄領とし、1605(慶長10)年には徳川幕府も同様に直轄領としたため、大村藩は、南蛮貿易の利益を失うことになりました。そんな中、純忠の跡を受けた喜前は、1599(慶長4)年に玖島城を築き、三城城から本拠を移し、城下町も整備。城を中心として五つの武家屋敷街を作り、武家屋敷がある本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路を「五小路」と呼びました。今も当時の面影を伝える町並みが残っていますが、特に小姓小路は、藩政時代の雰囲気を感じさ

世界的な文化遺産ウォッチ・リストに認定された岩松の町並み

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ワールド・モニュメント財団(WMF)が認定する、存続が危ぶまれる歴史遺産「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」2020年版の中に、宇和島市にある岩松地区の町並みが入りました。WMFは、世界の歴史的建築物や文化遺産の保護に取り組む財団で、今回のリストには、2019年4月に大火災が発生したフランス・パリのノートルダム大聖堂、新たな空港建設計画で危機に瀕しているペルー南部、マチュピチュの近郊にあるウルバンバの谷、行政上の問題で適切に管理されていないチリ領イースター島の彫刻や岩絵などが含まれています。 「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」は、隔年で発表されており、2020年版は世界21カ国から25カ所が認定され、日本からも2カ所が入っています。その2カ所は、岩松地区と東京都北区滝野川の稲荷湯でした。稲荷湯は、昔ながらの銭湯で、映画『テルマエ・ロマエ』の撮影地としても知られますが、「銭湯の人気低下が、影響を与えている」としています。一方の岩松地区については、少し長くなりますが、報道発表を転載します。 「岩松歴史的町並みは、四国の西側で瀬戸内海の南西部に広がる宇和海のリアス式海岸地帯の湾口部にあたる岩松(愛媛県宇和島市津島町)に所在します。16世紀後半にできた農村集落から始まり17世紀(江戸時代)から酒、醤油などの醸造業を中心に、岩松川の川港を基盤にして栄えました。川沿いに形成された町並みで、往時の有力商家の屋敷構えは今でもその建築的特徴を良く残すなど、岩松の歴史を今日まで伝えており、海岸線が入りこんだ愛媛県南予地方でも、その規模は大きく、保存状態も良いとされています。最近では空家、空き地、改築などにより、その景観が失われることが危倶され、歴史的建物再活用による地域活性化を図りながら町並み保存を地域社会の総意として進める取り組みがされており、今回の『文化遺産ウォッチ』選定にあたっては、歴史的文化的建築的価値とともに、保存活動の計画性や長期にわたる行政も交えた地域社会の関わりの在り方などが評価されました。」 岩松は、この報道発表にあるように、藩政時代から、岩松川河口の港町として、山からは木炭、海からは鮮魚などが運ばれ、山と海の産物の交易により栄えてきました。戦後最初の新聞連載小説となった、獅子文六の『てんやわんや』は、終戦直後、文六が妻の実家がある、この岩松に疎開し

松山・大街道の大入亭からバー露口へ

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松山城は、加藤嘉明が築いた城です。城が完成したのは1603(慶長8)年で、この時、勝山という地名を松山に改めています。城下町は、標高132mの城山(勝山)のふもとに建設し、ほぼ方形の町割りとしました。 その後、松山藩は蒲生氏を経て、1635(寛永12)年から松平氏が藩主となり、明治まで続きました。その間、1784(天明4)年元旦に、天守が落雷で焼失。現在の天守は、1854(安政元)年に再建されたものです。 第2次世界大戦終戦間近の1945(昭和20)年7月26日、その松山市に128機ものB29が襲来、市街地に焼夷弾の雨を降らせます。この爆撃で、松山では半数以上の家屋が焼失、松山市は一面の焼け野原となり、城下町時代の町並みは姿を消しました。 その中で、唯一戦災を免れた歴史遺産が、松山城です。そして松山城は今も、松山のシンボルとなっており、復興した松山市も、やはり城を中心につくられています。 愛媛県庁や松山市役所を始めとした官公庁や金融機関などが集まる松山市の中心地は、城山の南側に集中。かつて、上中級家臣団の武家屋敷があった「外側」と呼ばれる地域で、現在の一番町から三番町にかけての番町エリアになります。松山一の商店街「大街道商店街」は、この番町エリアを東西に分けるセンターにあり、北はロープウェー商店街、南は銀天街につながっています。 私も、松山には結構行っていて、コロナ禍前の2010年代には、覚えているだけで6回行きました。2011年の時は、前のブログに書いた 鳴門 、 東かがわ 、 美馬 を回ってから松山入り。2013年の時は、松山を拠点に、 新居浜 と 内子 、砥部へ行っています。この2回は松山に泊まっていますが、2014年に 宇和島 、 愛南 、 大月 、 足摺 、 四万十 、 中土佐 と回って高知から帰ってきた時は、松山は空港でレンタカーを借りただけでした。実はそんなケースも何度かあり、松山を四国のゲートウェイとして利用することもありました。そう言えば、松山の取材後、高速艇で呉に渡ったこともあり、松山は陸海空、全てにおいて交通の便がいいと実感しています。 そんな松山の大街道で、偶然見つけたのが、「大入亭」です。松山市内を走る路面電車・伊予鉄道「大街道」駅を降りると、目の前が大街道商店街で、大入亭は、そのアーケードに入ってすぐ左のビルの中にあります。立地はいいので

醤油醸造や讃岐三白の積出港として栄えた引田の町

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東かがわ市引田(ひけた)は、半島によって風がさえぎられ、平安時代から天然の良港として知られていました。中世には、引田城が築かれて商業が発展、城下は物資の集散地として賑わいました。標高86mの城山にある引田城は、播磨灘に面しており、山城でありながら、三方を海に囲まれた海城でもあり、天然の要害となっていました。 引田は、1584(天正12)年、阿波に次いで讃岐も平定した長宗我部元親の領地となりますが、翌85年、羽柴秀吉の四国攻めで長宗我部氏が敗退。87年に生駒親正が、讃岐国を与えられて引田城へ入城しました。しかし、引田城は、讃岐国の東端にあったため、生駒氏は間もなく中央寄りの聖通寺城に移ります。更に本拠の場所を黒田官兵衛に相談し、88年から高松で築城を開始。城は90年に完成し、97年からは丸亀城の造営に取り掛かっています。 その後、1600(慶長5年)の関ケ原の戦いで、生駒氏は東軍に加担。江戸時代も領地を安堵されましたが、一国一城令により引田城は廃城となりました。ちなみに丸亀城は、樹木で覆い隠し破却を免れたそうです。 1640(寛永17)年のお家騒動後、讃岐は分割され、41年に西讃に山崎氏が入り丸亀藩が興り、東讃には42年、御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が入って、高松藩が成立しました。この高松藩5代藩主の松平頼恭は、質素倹約に努め、藩の財政再建を図ると共に、藩の収入を上げるためさまざまな策を実行。塩田の開発で塩の増産を図ると共に、本草学を学んでいた家臣の平賀源内に、薬草や砂糖の栽培・研究を命じました。 源内は、薬草園の仕事をしながら、砂糖栽培を研究。しかし、砂糖製造の完成を待たず、職を辞して江戸へ出てしまいます。後継の藩医・池田玄丈も、志半ばで世を去り、後を託した弟子の向山周慶が、砂糖の精製に成功します。その成功には、次のような逸話があったといいます。 江戸後期の1790年頃、薩摩の奄美大島出身の関良介という人が、四国遍路に訪れました。しかし、体調を崩して、讃岐国大内郡(現在の東かがわ市)辺りで行き倒れてしまいます。それを助けたのが、藩医で大内郡湊村出身の向山周慶でした。関さんはそれを恩義に感じ、既に砂糖を生産していた薩摩藩秘伝の砂糖製法を周慶に伝授。周慶はついに、上等の白砂糖の製造に成功しました。「讃岐の白糖」は、「本邦第一の白糖」と言われるほど

藍が生んだ繁栄の証を卯建の町並みに見る

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美馬市脇町は、吉野川中流域の北岸にあります。江戸時代には城下町として繁栄しますが、その萌芽は、織田信長の前に三好政権を築いた、戦国武将の三好長慶にあります。 脇城は、平安時代に、讃岐の国守だった藤原氏の居館として作られたのが初めのようです。鎌倉時代になると、源氏の流れをくむ小笠原氏が阿波国の守護に任ぜられ、更に戦国時代になると、小笠原氏の庶流である三好氏が阿波を治め、1533(天文2)年、三好長慶が、阿波北方鎮圧の拠点として、脇城を改修しました。 その後、1556(弘治2)年には、武田信玄の弟信顕が、京都で長慶に会い、その計らいで脇城主となります。しかし、1582(天正10)年、阿波国を平定した土佐の長宗我部氏に城を落とされ信顕は戦死。その長宗我部氏も羽柴秀吉の四国攻めで敗れ、1585(天正13)年、秀吉の腹心・蜂須賀正勝の子・家政が、阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となり、正勝の盟友で筆頭家老の稲田稙元が、脇城に入城しました。 稙元は、脇城に入城すると直ちに城郭を修理強化すると共に、戦乱のために荒廃した城下町の復興に尽くします。そして、城下に商人町を形成し、これを保護したため、脇城下は四国、中国地方の商人まで移住して来て、当時としては珍しい一種の商業都市として繁栄しました。 また、藩主の蜂須賀家政が、藍の生産を奨励したことで、吉野川沿岸の農地の多くが、藍畑へ転換されました。徳島の藍は、品質の高さから別格扱いされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。こうして、「藍と言えば阿波、阿波と言えば藍」と言われるほど、阿波国(徳島県)は、江戸時代から明治後期に至るまで、藍王国としてその名をはせることになります。 しかし、なぜ阿波が藍王国になったのでしょう。その答えは、「四国三郎」の異名をもつ吉野川にあります。 吉野川は、愛媛県西条市と高知県いの町に頂がある瓶ケ森(1897m)を源に、四国のほぼ中央部から県北を、西から東に流れ、徳島市で紀伊水道に入ります。利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と共に、日本三大暴れ川の一つに数えられ、台風が来る度に洪水を繰り返しました。が、その氾濫によって、流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしました。 この洪水地帯で育った藍は、粉にしてから乾燥、発酵させ、藍染めの元となる藍染料「すくも」を作ります。こうして出来た

伊賀忍者の古里は俳聖・芭蕉生誕の地

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伊賀市は、三重県北西部、滋賀、京都、奈良と境を接し、大阪と名古屋のほぼ中間にあります。小京都の一つに数えられ、石垣の高さ日本一といわれる伊賀上野城をシンボルとした城下町です。市内には、瓦屋根の低い家並や狭い街路、また寺町や紺屋町、忍町といった町名が残り、往時の面影を伝えています。 以前の記事( 自然豊かな伊賀の隠れ里 - 名張 )にも書いたんですが、「伊賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者でしょう。伊賀市もそれは先刻承知の事案で、2017年2月22日(忍者の日)には、「忍者市」宣言をしています。その宣言文は次の通りです。 「私たち伊賀市民は、伊賀市が忍者発祥の地であることを認識し、忍者の歴史文化や精神を継承するとともに、忍者を活かした観光誘客やまちづくりを行うことを目指して、ここに『忍者市』を宣言します」 そんな忍者市だけに、市内には忍者をモチーフにしたあれやこれやがあふれています。JR関西本線の伊賀上野駅と近鉄大阪線の伊賀神戸駅を結ぶ伊賀鉄道伊賀線は、3編成の忍者列車が運行。中心の上野市駅は、愛称・忍者市駅で、駅舎には「上野市駅」の表示よりデカデカと「忍者市駅」の文字が掲げられています。 また市内には、忍者の衣装をレンタル出来る「忍者変身処」が、上野公園横のだんじり会館を始め数カ所あり、忍者装束で市内を歩く観光客も少なくありません。この他、忍者ちらし寿司(末廣寿司)や忍者うどん(ニカク食堂)、忍者パフェ(むらい萬香園)、忍ジャーエール(大田酒造)など、忍者にちなんだグルメもあり、中には「百地」「半蔵」「影丸」「くノ一」などのコース料理がメインの忍法帖料理(藤一水)もあって、市を上げて忍者推しの伊賀市です。 このように、伊賀で真っ先に思い浮かぶのは忍者ですが、伊賀市となると、忍者は決してイコールではありません。まず、伊賀市は、俳聖松尾芭蕉の生誕地です。また、伊賀上野藩の城下町であり、京都・奈良や伊勢を結ぶ奈良街道・伊賀街道・初瀬街道が通る交通の要衝であり、特産の伊賀組紐や、地ビール元年と呼ばれる1995年誕生のモクモクビールなどもある、話題目白押しの町なのです。 「俳聖」として世界的に知られ、日本史上最高の俳諧師と言われる松尾芭蕉は1644年、現在の三重県伊賀市で生まれました。出生日は不明なため、元号での生年は途中で改元があった寛永21年か正保元年か分か