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民謡のある風景 - 吉野杉の香気偲ばせる過疎の古里(奈良県 吉野川筏唄)

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奈良と三重にまたがる大台ケ原は、全国一の多雨地帯と言われます。吉野川はそこを源流とし、和歌山へ出て紀ノ川と名を変え、紀伊水道に注ぎます。全長136km。大阪に隣接し、人口がふくらむ奈良県にとって、この川は貴重な水資源です。その川を、昔は筏が走りました。 奈良県は、近畿の屋根と言われる紀伊半島中央地域を抱え、県域の3分の2が山間地です。以前は山林、木材業が代表的産業で、吉野杉の名は全国に知られました。 吉野杉は、酒樽用に最適と言われ、中でも樹齢70年から100年ぐらいのものが珍重されました。最上のものは、外側が白太で内側が赤く、「内稀」と呼ばれて、酒どころ灘や伏見の酒造家の需要がひきもきらぬ有り様だったといいます。吉野杉の樽に詰められた酒は、樽回船で江戸まで運ばれ、遠州灘の波にもまれている間に、吉野杉特有の香気がブレンドされて、樽酒ならではの味をかもしました。 さて、いくら需要があるとは言っても、吉野杉の古里は山間の地です。杉材を運ぶには、陸路よりは川の方が、はるかに便利でした。そんな労働の中で、筏師たちが唄い出したのが『吉野川筏唄』だったといいます。  ♪筏乗りさんヨー   ア 袂がぬれる ヨー工   赤いたすきで 締めなされ   ホイ ホイ 筏唄は、川の流れがリズムの基調となります。流れが穏やかなら、道中唄調に「ホーイ ホイ」といった合いの手になりますし、流れが急な川なら「コラショーイ」といった掛け声が入ります。同じ筏唄でも、熊野川上流・北山川系の唄のテンポが早いのは、そのせいだと言われます。 かつて唄が流れた吉野川から筏師たちは姿を消し、この唄の古里一帯は、今、過疎に悩む地となりました。この唄も、同じ運命をたどるのでしょうか。

日本仏像界の人気スター阿修羅が待つ興福寺

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数えでちょうど50になる年の1月下旬、久々に奈良駅に降り立ちました。その日はとても寒く、駅を出ると、空から白いものがちらちらと落ちてきました。 昼を回っていたので、まずは腹ごしらえと、奈良の街に足を踏み出しました。しかし、町並みに全く記憶がありません。思えば、高校の修学旅行以来の奈良だったのです。 そう言えば、中学の修学旅行も京都、奈良でした。が、思い出に残っているものと言えば、京都の清水寺と、旅館でのバカ騒ぎぐらいのものでした。 高校の時は、興福寺の阿修羅像にひかれたことを覚えています。 阿修羅は本来、古代インドの戦闘神で、神々の王である帝釈天に戦いを挑む鬼神でしたが、後に釈迦に帰依して守護神となりました。三つの顔に六本の腕を持つ、そんな荒ぶる神が、興福寺でいちばん人気の仏像なのです。興福寺・国宝館の床は、阿修羅像の前が、最も傷みが激しいといいます。 人気の秘密は、清楚な少女を思わせる、そのはかなげな表情にあります(もちろん、阿修羅は男です。だから、少女ではなく美少年と言った方が正しいのでしょうが、とりあえずこの記事では、あえて少女路線で突っ走ります)。 で、実はこの阿修羅像、復元模造プロジェクトのリーダーを務めた小野寺久幸さん(美術院 国宝修理所長)が、「阿修羅像のモデルはおそらく少女」と言っているのです。この説を唱える専門家は結構多いようで、個人的には肩入れしたくなる説です。 私の目的は、その阿修羅がいる興福寺の五重塔でした。ただ、冒頭にも書いたように、この日は時折、雪もちらつく空模様。おかげで国宝館に退避し、阿修羅に再会出来ましたが、それで満足して帰るわけにはいきません。一応、仕事で来ているので・・・。 そんな祈りが通じたのか、夕方になると風が強まり、雲が流れていきます。やがて日が差し始め、青空も見えてきました。しかし、晴れたとはいえ風が強く、人気のない境内で、寒さに震えながら自分の境遇を呪ったものです。結局、夜に出直し、ライトアップされた五重塔を撮影しましたが、この時の方が風がなく、寒さも感じませんでした。人生、そんなものですね。 ところで、五重塔は、もうすぐ約120年ぶりとなる大規模修理に入ります。それを前に、この3月1日から31日まで、ふだんは拝観出来ない塔の1階部分の特別公開が行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの感染急拡大に伴い延期となりました

聖徳太子が開き、1400年の歴史を刻む斑鳩の里

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今年は聖徳太子(574 - 622)の1400回忌に当たり、奈良県斑鳩町の法隆寺で、4月3日から5日まで法要が営まれました。 私が習った日本史では、聖徳太子と言えば、十七条の憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などを成し遂げた偉人として、扱われていました。しかし近年の研究で、それらに疑問符が付き、一時、「聖徳太子」の表記が、小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更されました。その後、反対意見が殺到したため文部科学省が変更を撤回し、現在はまた元の「聖徳太子」に戻っていますが、高校の日本史では「厩戸皇子」「厩戸王」とする教科書の方が多いようです。 厩戸皇子(うまやどのおうじ)というのは、聖徳太子の本名なので、じゃあ合ってるじゃん、より正確を期しただけでは、と思うんですが、事はそう単純ではないようで・・・。 例えば『日本書紀』によると、最初の遣隋使は607年にあの小野妹子らを派遣したことになっていますが、中国側の『隋書』には600年に日本の使節が来たという記録が残っているのだそうです。とはいえ、厩戸皇子が推古天皇から摂政に任じられたのは593年のことですから、600年の派遣も彼が中心になったと考えてもおかしくはありません。 ただ、当時は蘇我馬子が権勢をふるっていたというのも確かなようです。推古天皇も、崇峻天皇が馬子に暗殺された後、叔父である馬子に推されて即位しました。で、推古天皇は、天皇中心の国造りを目指し、甥である厩戸皇子を摂政にするわけですが、馬子との力関係を考えると、聖徳太子の業績とされている事案の全てが、厩戸皇子一人で成し遂げたと考えるのは、かなり無理がある、というのが現代の考え方のようです。 で、622年に厩戸皇子が亡くなった後、蘇我氏は更に力を強め、馬子の孫・蘇我入鹿は、厩戸皇子の一族が住む斑鳩宮を襲撃。厩戸皇子の子・山背大兄王を含め、一族は自害に追い込まれます。その後、蘇我氏の横暴を快く思っていなかった中大兄皇子が、中臣鎌足らと共に蘇我入鹿を暗殺、大化の改新へとつながります。 と、なんだか歴史ブログみたいになってきちゃいましたが、もう少しだけ・・・。 大化の改新から更に時が経ち、厩戸皇子が亡くなって50年後の672年、古代日本最大の内乱・壬申の乱が起きます。で、勝者となった天武天皇は、天皇中心の律令国家造りを進めていきます。しかし、

銘菓郷愁 - 菓子の祖「餢飳饅頭」 奈良

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菓子の菓は、クサカンムリに木の実を表す果を配し、古くは、モモやカキ、クリ、ミカン、ウリなどが菓子と言われていました。やがて、奈良時代から平安時代にかけて、中国から「カラクダモノ」と呼ばれるものが輸入され、菓子の領域が広がりました。 「カラクダモノ」は、もち米の粉や小麦粉、大豆や小豆などで作り、これにいろいろな調味料で味をつけたものだそうです。1135(保延元)年の『五節殿上饗目録』には、菓子として「小餅、唐菓子、枝柿、甘栗」などの名が出ていたといいます。五節殿は皇后や女御がいた所ですから、当時の上流階級の女性がどんな菓子を食べていたかが類推出来ます。『五節殿上饗目録』が出た保延元年というと、平清盛がまだ17歳の青年だった頃のことです。 「カラクダモノ」の伝統は、朝廷の節目の宴の料理や、神社の神饌の中に残り、奈良の春日大社に伝わる「餢飳(ぶと)」も、その中の一つとされています。春日大社は、768(神護景雲2)年の創建ですから、この古式を伝える神饌も大社並みの歴史を持っているのかもしれません。 「餢飳」というのは、油で揚げた餅のことで、我が国最初の漢和辞書『倭名類聚鈔』にも「油煎餅」として出てくるそうです。 春日大社では、今でも神職の人たちが「餢飳」を作り、神前に奉納しています。米の粉を蒸して臼でひいてから、丸く平らにし、二つに折って油で揚げたもので、これを作るのが、春日大社の神職の人たちの大切な役目の一つ。 大社の「餢飳」は、固くて食べにくいそうですが、この「餢飳」を、現代の和菓子として蘇らせたのが「餢飳饅頭」です。 奈良市に江戸末期創業という老舗「萬々堂通則」があります。1950(昭和25)年頃、その老舗の主人が大社の「餢飳」に注目し、これを新しい奈良の和菓子に出来ないかと考えました。さすがに古都の老舗、菓子の歴史の根本に迫ったわけです。主人は、春日大社宮司と相談して「餢飳」を饅頭にすることを思いつきます。 小麦粉をこねて卵と共に皮を作り、小豆のさらし餡を包みます。それを木型に入れて形を整え、ゴマ油で揚げて、砂糖をまぶし、「餢飳饅頭」が出来上がります。揚げた皮の内と外で、餡と砂糖が絶妙な甘さのバランスを保っているのが特徴です。伝統のカラクダモノの味覚を、現代に復活させた銘菓です。 

城のある風景 - 地蔵仏の慈悲心秘めて430余年

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奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封となりました。 郡山城跡のある丘陵地帯は、中世の頃、郡山衆と呼ばれた武士団の居館がありました。城らしい形を整え出すのは、1580(天正8)年頃からで、その年の11月、筒井順慶が、織田信長からこの地を与えられました。 順慶は、翌1581年から築城を開始しましたが、次の年、信長は、明智光秀に討たれてしまいます。順慶に信長を紹介したのは光秀でしたから、順慶の立場は微妙なものになりました。 しかし、順慶は光秀の出陣要請にも動かず、籠城を続けました。ところが、後にどう間違ったのか、洞ケ峠に出陣して光秀と秀吉の戦いぶりを日和見していたことにされます。実際は、慎重派だったに過ぎない彼は、秀吉から大和一国を安堵されてからも築城を続け、天守も造ったと言われますが、本能寺の変から2年後、28歳の若さで世を去ります。 筒井氏に代わって郡山城に入ったのが、秀吉の異父弟・秀長でした。秀長は、1585(天正13)年、秀吉の名代として四国を征伐。その功によって大和を所領に加え、100万石の太守となりました。 このため、城はそれにふさわしく増築されることになり、奈良中から築城用の石が集められました。家ごとに小石が20荷、寺からは、庭石、五輪塔、地蔵仏までかき集められました。天守台北側裾の「逆地蔵」はその時のもので、1523(大永3)年の銘があります。その頃の戦乱の犠牲者を慰めるための、地蔵仏だったのでしょうか。 柳沢氏が城に入ったのは、秀長の築城から140年後のこと。郡山金魚は、あるいは耐えに耐えて地蔵に祈った、この地のご先祖の恵みだったのかもしれません。