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阿蘇大橋の崩落で村が寸断された南阿蘇村

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前の記事で書いた西原村での炊き出しの日(4月25日)、炊き出しの中心となった石垣島のSYさんと共に南阿蘇村へも入りました。阿蘇大橋が崩落していたため、いったんミルクロードに出て、県道23号から南阿蘇村に向かいました。事前にコンタクトを取っていた中尾三郎さんの自宅は、応急危険度判定で「建物が傾斜している」として危険判定を受けていたため、当時は、阿蘇市赤水に避難しており、そこでお会いして現状をお聞きしました。 中尾さんの自宅があるか立野地区には、村で唯一の救急病院だった阿蘇立野病院があり、中野さんの自宅からは車で5分ほどですが、病院の間の道路は地震の被害で通行止めとなっていました。その阿蘇立野病院も、地震で建物に亀裂が入るなど大きな被害を受け、入院患者を他の医療機関に搬送後、しばらく休診となっているなどの話を伺いました。また、中尾さんの自宅や阿蘇立野病院は、村の中心部とは黒川をはさんで対岸にあり、阿蘇大橋の崩落によって行き来が出来にくい状態だとも話していました。 南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷にあります。白水村、久木野村、長陽村の3村が合併して出来た村で、村内中央を東から西へ流れる白川が、外輪山の切れ目となる立野地区で黒川と合流し、熊本平野へと流れています。今回の地震では、旧長陽村の黒川側で大きな被害が出ました。大規模な土砂崩れにより国道57号が寸断され、阿蘇大橋が崩落した立野地区や、京都大学火山研究所の下から大規模地すべりが起きた高野台も、複数のアパートが倒壊した東海大学の学生村があったのも、このエリアになります。 地震から1カ月ほど経った5月17、18日に、再度、南阿蘇村を訪問しました。最初に伺ったのは、高野台に住む松岡一雄さんでした。 松岡さんは、地震の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れに、身体が宙に飛ばされました。続いて長い横揺れが始まり、それと共にこれまで経験したことのないような地響きがしてきました。土砂崩れでした。 京都大学火山研究所が丘の上にあるこの地区は高野台と呼ばれ、村が開発公社を通じて売り出した住宅地でした。南阿蘇村で不動産業を営み、村内の宅地情勢に詳しい上田晴三さんは「傾斜の緩やかな場所ですし、雨も降っていないのに、これほどの土砂崩れが起こるとは考えてもいませんでした。火山灰の層が強い揺れで液状化したとしか考え...

日本一の献眼の町・静岡県小山町を訪ねて

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昨日の記事( 世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海 )の忍野八海から南へ約20km、富士山東麓、山中湖のすぐ南にあるのが、静岡県小山町です。ここは、「献眼の町」として知られていて、2009年には、町で献眼運動を推進してきた小山ライオンズクラブが、日本アイバンク協会の第1回今泉賞を受賞しました。 この賞は、日本で最初の角膜移植手術を行った今泉亀撤さんに因んだものです。最初の角膜移植手術が行われてから50周年に当たる08年に、今泉さんが保健文化賞を受賞。今泉さんは、その賞金の大部分を日本アイバンク協会に寄付され、同協会はそれを基に、角膜移植医療及びアイバンク活動に貢献した方々を顕彰するため今泉賞を設定しました。第1回の受賞者は、今泉さんが手術を実施した岩手医科大学の眼球銀行と小山ライオンズクラブの2団体、それに個人が2人でした。 その小山ライオンズクラブを、以前に取材させてもらったことがあります。 小山ライオンズクラブが、献眼運動に取り組み出したのは1970年のことです。まず、クラブ会員全員が献眼登録し、翌年には町民へのPRのために「アイバンクの夕べ」を開催。また小山町の区長会でアイバンク運動についての協力を呼び掛け、小学校校区の会合でもPRを行いました。 更には会員が手分けをして、1軒1軒、献眼について説明して回るというローラー作戦を展開。その甲斐あって、老人会を中心にライオンズ友の会まで出来ました。こうした組織を通して、献眼運動の啓発が進んでいったのです。 72年5月、クラブの最長老だった小山彦平さんが、小山町初の献眼者となりました。その後、毎月会員か、会員の親類の人たちが献眼者となりました。町で亡くなった方があれば、会員たちは必ずお悔やみに上がって遺族を慰め、その上で献眼の意義も説きました。 小山では、不幸があった時、集落の人が総出で通夜や葬儀を手伝います。クラブでは、献眼者の葬儀に生花を贈り、アイバンクからの感謝状を捧げてきました。 こうして、運動を始めてから8年目には物故者の10%を超える方が、献眼をするまでになりました。その年、クラブでは献眼者合同慰霊祭を行って、改めて故人の尊い意志に感謝を捧げ、ねんごろに弔いました。心を尽くす、ということが、この活動ではとても大事なことなのです。 この手厚さが、町の人たちに感銘を与えたのでしょう。初の献眼者から数...

流域の人々の心を映す清流・千種川

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千種川は、1985年に環境省選定の名水百選に選ばれています。その紹介文の中で、小中高校生による水生生物調査や、流域のライオンズクラブの活動が取り上げられ、「地域住民活動を通じて保全に努めている」と記されています。 千種川中流域にある佐用ライオンズクラブの呼びかけで始まったこの活動は、流域の赤穂、相生、上郡、佐用、千種の5クラブ合同の奉仕活動として、1972(昭和47)年から実施されてきました。その成果は毎年、『千種川の生態』という冊子にまとめられ、流域の人々の意識を高め、清流を守るために大きな力となってきました。1993年には、その功績が認められ、環境庁長官から表彰を受けており、質の高い活動として地域住民からも支持されています。 延長68km、源流を中国山地の分水嶺・江浪峠に発する千種川は、上郡から赤穂市を抜けて、瀬戸内海へと注ぎます。人工改変度が小さく、ダムもないため、昔ながらの美しい流れを保つ、我が国では数少ない川の一つとなっています。 しかし、そこに住む人々にとって、川は単なる風景ではありません。 上郡町が、「ふるさと創生事業」でまとめた『ふるさと上郡のあゆみ』は、「上郡は 千種川の恵みによってこそある」で始まります。 千種川は、その豊富な水量により、土地を潤し流域の人々の暮らしを支えてきました。鉄道のない時代には高瀬舟が通い、一つの風物詩をなしていました。上郡やその上流の佐用に荷揚げ場が置かれ、瀬戸内海と中国山地を結ぶ重要な交通網の役目を果たしていたのです。 そんな恵みの川、千種川をそのままの姿で残したい。ホタルが飛び交い、アユが跳ねる川のままでいてほしい。流域の人々のそんな願いが、千種川を昔のままの澄んだ流れに保っているのでしょう。 全国各地を歩いて回った民俗学者・宮本常一が、生前、こんなことを言っていました。「民衆が水を管理し、民衆が水を自分たちのものとして考えてこれを操作してゆく間は水は汚れるものではない」。 千種川の清流が、その言葉の正しさを証明しているようです。上郡町は、兵庫県最西端。町面積の7割を山林が占め、その山々の間を縫うように、千種川が流れます。

日本の原風景を見るような環状集落・荻ノ島を訪ねて

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昨日のブログ で、新潟県中越地震の際、柏崎の人たちが、長期にわたって小千谷市総合体育館で昼食の炊き出しを続けた話を書きました。その中心となったうちの一人坪田さんには、1997年にあることで取材させてもらっており、大学の先輩(しかも同学部)ということもあって、炊き出しの件を聞いた時には、さっさと同行を決めたものです。 2007年7月16日、今度はその柏崎を、マグニチュード6.8の激震が襲いました。新潟県中越沖地震です。柏崎市は震度6強を観測。新潟県中越地震から3年を経たずして起こった巨大地震に、日本中が驚き、また被災された方たちの心中に思いをはせました。 3年前の中越地震と同様、この時も、明石の橋本維久夫さんを中心に炊き出しが計画されました。しかも、中越地震の時の参加者に加え、青森県つがる、東京、千葉県野田、奈良県生駒、兵庫県の神戸と姫路からも参加があり、更に中越地震の炊き出しで知り合った、長岡のMTさんが、現地コーディネートを担当してくれ、輪が大きく広がっていました。 以前のブログ( 「震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント」 )に書きましたが、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。で、この記事を書くため、当時飛び交っていた打ち合わせメッセージを見ていて、橋本さんが大体長と呼ばれることになったきっかけを作った犯人が分かりました。それは、神戸のDHさんで、参加者に呼び掛けるメッセージで、DHさんは「大隊長(本当は大体でええやろう)の橋本さんから指示があり・・・(中略)・・・既に大体長(わざと間違ってます)から・・・」と書いており、以後の流れを作ってしまったようです。 それはともかく、炊き出しは9月1日に200戸の仮設住宅があった刈羽村の源土運動広場で、翌2日には柏崎市西山町のいきいき館でそれぞれ実施しました。柏崎では、ボランティア・センターに詰めていた岩手県立大学の学生ボランティアがさまざまな企画を練り、お年寄りから子どもまでが楽しめるイベントを用意。また、小千谷で昼食の炊き出しを続けた坪田さんたちも、自分たちが被災しているにもかかわらず、駆け付けてくれました。  ◆ この中越沖地震から1年が経った2008年7月、同じ柏崎でも内陸部にある高柳町を訪問しました。高柳町は、地震の2年前、05年に柏...

ユネスコ無形文化遺産・小千谷縮の雪さらし

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「雪中に糸となし 雪中に織り 雪水に濯ぎ 雪上に晒す 雪ありて縮あり 雪こそ縮の親と言うべし」 江戸後期の商人で、随筆家でもあった鈴木牧之は、当時の魚沼地方の生活を描いた『北越雪譜』の中で、小千谷縮をこう表現しています。 小千谷縮は、昔からあった越後上布に改良を加えたものです。緯糸に強い撚りをかけた織物を、お湯の中で丹念に強くもむことで、ほどけた布に「シボ」と呼ばれる独特の細やかなしわが出ます。1955年に国の重要無形文化財第1号指定を受けた他、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。ちなみに重要無形文化財の指定条件には、使う糸や織機の他、湯もみ、雪さらしなどの技法も示されています。 雪さらしは、本来は晴れた日に行いますが、小千谷の冬を彩るイベント「おぢや風船一揆」では、デモンストレーションとして天候に関係なく実施されます。2012年に、おぢや風船一揆に行く機会があり、その際、粉雪が舞う中、雪さらしが披露されていました。 ▲小千谷紹介観光ビデオ「小千谷風船一揆」(小千谷市観光協会) 雪にさらすことで麻生地が漂白されると共に、麻糸が更に鮮やかさを増し色柄を引き立てます。その科学的根拠として、一般にはオゾンの漂白効果が挙げられます。実際に日本雪氷学会が雪上のオゾン濃度を調べたところ、確かに晴れた日に上昇し、雨の日は低下する傾向が見られたそうです。ちなみに、雪の日は雨の日ほど濃度の低下はなかったそうですが、やはり晴れた日の方がいいのでしょう。それを経験則として取り入れていた先人の知恵には脱帽するしかありません。 おぢや風船一揆は毎年2月下旬、2日間にわたって開催されます。日本を代表する熱気球大会「日本海カップクロスカントリー選手権」を兼ねたイベントで、今年で45回目となるはずでしたが、残念ながら新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。 以前は、競技と各種イベントが同一会場で行われていたようですが、雪が少なかった13年前に、競技とイベントを別会場で実施してから現在の形式になったと聞きました。イベント会場では、熱気球試乗体験やうまいもの市場、雪像コンテストなどが実施され、多くの市民や観光客で賑わいます。 小千谷市は、新潟県のほぼ中央、いわゆる中越にあります。2004(平成16)年10月23日に起きた新潟県中越地震では、小千谷でも震度6強の揺れを観...

千本桜と菜の花畑のコントラストが見事な権現堂桜堤

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昨日のブログ( 日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」 )は、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」という江戸時代の地口から始めましたが、実はこの地口、後に「幸手、栗橋、まだ先よ」と続けることもあります。 日光街道は、日本橋を起点に第1の宿・千住から草加、越谷と続き、更に粕壁(春日部)、杉戸を経て、幸手宿、栗橋宿へ通じます。江戸時代は、東京と埼玉、それに神奈川の一部(川崎、横浜)を含むエリアが武蔵国となっていて、次の宿場・下総国中田宿(現・茨城県古河市)との間には関所が置かれていました。 日本橋から千住までは約9km、千住からは草加までが約9m、越谷までは約16kmなので、日本橋〜越谷は約25kmとなります。一方、日本橋から幸手までは越谷の倍となる約50km、栗橋までは55kmほどあり、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」の後に、つい勢いで「まだ先よ」と付け足したくなったやつがいたんでしょうね。 栗橋宿は、利根川対岸の中田宿と、2宿で1宿の合宿(あいしゅく)の形になっていました。ここの利根川には、軍事上の守りの観点から架橋されず、渡船場が置かれていました。渡し場は、房川渡しと呼ばれ、関所(房川渡中田御関所)が設置されていました。中田の名が付いているように、当初は中田宿側に置かれましたが、その後、栗橋側に移設され、通称「栗橋関所」と呼ばれるようになりました。 もう一つの幸手宿は、日光街道と共に、将軍が日光社参の際に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、重要な宿場となっていました。1843(天保14)年の『日光道中宿村大概帳』によると、幸手宿の長さは585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模を誇っていました。 その幸手と言えば、関東屈指の桜の名所・権現堂桜堤で有名です。 権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の1576(天正4)年頃と言われています。天正4年というと、織田信長が安土城を築城した年のこと。 その頃に権現堂を流れていたのは、渡良瀬川の本流だったようです。その後、江戸時代になって、「坂東太郎」こと利根川を東に移すことになり、現在の古利根川から渡良瀬川へ直線上にショートカットする新川通を開削し、これを利根川本流にしました。そのため権現堂の...

大規模水害にも負けず咲き誇る常総市の桜堤

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常総市は、2006年に常総平野の中心だった旧水海道市が、隣接する旧石下町を編入合併して誕生しました。水海道の名は、坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませたことに由来する「水飼戸(みつかへと)」が起源とされ、石下は、坂東武士発祥の地で、平将門生誕の地とも言われるなど、それぞれが古い歴史を持っています。 そんな常総市が、2015年9月、大規模な水害に見舞われました。台風18号の影響による記録的な豪雨(関東・東北豪雨)で、10日早朝から市内を流れる鬼怒川の数カ所で越水や堤防からの漏水が発生し、昼過ぎには三坂地区の堤防が決壊。浸水域は南北約18km、東西約4kmにも及び、約1万1000戸の住宅が水に浸かりました。 大規模水害が起きたその日、私は取材のため北海道の旭川へ行っており、すぐには状況把握が出来ませんでした。そんな中、東日本大震災の支援活動で知り合った水戸葵ライオンズクラブの若林純也さん( 「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」 )が、堤防決壊の翌日に常総入りし、物資の受け入れ態勢など、状況確認を始めたので、若林さんにコンタクトを取ってみました。 しかし、災害対策本部の市庁舎自体、浸水により職員400人、避難市民400人、自衛隊や消防、報道陣ら200人と共に孤立。水が引いた12日になって、ようやく孤立が解消されたとのこと。この状況で、行政が物資の受け入れを管理するのは難しいと判断した若林さんは、所属する水戸葵ライオンズクラブの会員らと共に、救援物資センターを運営することを決断。市と交渉し、市役所新庁舎の2階に常駐することにしました。そして12日には早くも、若林さんと交流のあった首都圏の仲間たちが、第1弾の支援物資を搬入してくれました。 浪江焼きそばの炊き出し その後も若林さんたちは交替で常総市に詰め、救援物資センターを運営しました。また若林さんは、常総市ボランティア・センターで中心的役割を担っていた青年会議所(JC)とも連携し情報を収集。併せて市内を巡回して、被災した市民から支援ニーズの聞き取りを行い、決壊現場の三坂町や周辺地域など、最前線での活動も始めました。 一方、茨城県のライオンズも、義援金口座を開設すると共に、全国からの物資を受け入れるため、常磐自動車道・谷和原IC近くにある水海道ライオンズクラブ会員の倉庫を借り集積所に指定。県内全79クラブに協力を要請したと...

七戸から八甲田山を抜けて青森へ

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青森の奉仕団体が、毎年、耳の不自由な子どもたちをリンゴ狩りに招待しているという話を聞いて、取材に行ったことがあります。リンゴ狩りをするのは、青森の市街地からは少し離れた八甲田山麓にある観光果樹園「青森りんごの里」で、青森駅からは10km強という感じでした。 リンゴ狩りは午前中に行うというので、前泊が必要。当然、青森駅近くに泊まるのが便利ですが、実は新幹線の停車駅は、青森駅とは離れた新青森駅になります。東京‐新青森間は3時間15分で、青森駅までは乗り換え時間を入れて約3時間半です。新青森にもホテルやレンタカーがあるので、そちらでもいいかと思いましたが、「青森りんごの里」は東京方面に結構戻る感じだったので、結局、一つ手前の七戸十和田駅で降り、駅に近い東八甲田温泉に泊まることにしました。 七戸町はかつて、レールバスが走る南部縦貫鉄道が通っていた町です。しかし、南部縦貫鉄道は2002年に廃止され、現在、JR七戸十和田駅が町唯一の駅になっています。聞くところによると、町唯一の駅が新幹線の駅というのは、日本全国で七戸町だけだそうです。 駅に隣接してイオンのショッピングセンターが、またイオンの駐車場の隣には道の駅もあって、いろいろな施設が集まっているようですが、日が暮れてから降り立つと、かなり寂しい印象です。目指す東八甲田温泉は駅の近くにあるはずですが、駅からは見あたらず、駅前の公園を突っ切って、Google Mapが示す方向へ歩いてみました。 すると、何となく「あれかな?」という2階建ての建物があり、近づいてみると、「日帰入浴」と共に「宿泊 東八甲田温泉」の看板がありました。七戸町で唯一の宿泊が出来る温泉とのこと。ここのお湯は掛け流しで、大浴場の他に、青森ヒバの香りが心地よりヒバ風呂がありました。 翌朝、駅の反対口にある駅レンタカー七戸十和田駅営業所で車を借り、受付で青森市田茂木野にある青森りんごの里までの道を確認したところ、「八甲田山を通る県道40号は通行止めになっているはず」と。「えっ! うそ・・・そんなはずは・・・」という私に、「確認してみますけど、確実なのは国道4号をいったん北上して、みちのく有料道路で青森市内に入る迂回路です」と、別ルートを教えてくれました。 ただ、想定外の上、土地勘が無いため、そのルートで取材時間に間に合うのか、全く見当がつきません。途中まで行って、...

日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地

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2011年3月11日、NPO体験村・たのはたネットワークの副理事長・佐藤辰男さんは、「海のアルプス」と呼ばれる北山崎海岸の南端にある北山浜にいました。春の訪れと共に始まる観光シーズンを前に、町外からの観光客を迎える準備のため、高校生と一緒に海岸を清掃していたのです。 地震の瞬間、地面が大きく揺れ、直後にズドーンという轟音と共に、背後に切り立つ断崖の一部が崩れました。岩の直撃は免れましたが、生徒たちは悲鳴を上げてうずくまり、身動き出来ない様子でした。しかし、のんびりしてはいられません。佐藤さんは、教師らと一緒に生徒たちを励まし、急峻な崖の上へと誘導しました。田野畑村に津波の第一波が到達したのは、地震発生から約40分後。彼らは間一髪で難を逃れることが出来ました。 田野畑村は岩手県の沿岸北部、三陸復興国立公園のハイライトとも言える景勝地・北山崎を抱える人口約4000人の村です。中心部は海抜200~300mの海岸段丘にあり、東日本大震災の津波被害からは免れました。しかし沿岸部の羅賀、島越は住宅の7割以上が全半壊となるなど、大きな被害が出ました。また、漁船の9割弱が流失し、漁業関係も大打撃を受けました。 佐藤さんが所属する奉仕団体では、震災後、国内外からの援助を受けながら、被災者支援活動を開始。村に給水車を寄贈したり、避難所にファンヒーターや電気毛布を持って行ったりしました。更に被災者が仮設住宅に移ってからは、灯油用ポリタンクの収納ケースを各戸に贈った他、仮設住宅の自治会に除雪機を提供するなど、被災者のニーズを把握しながら活動を続けてきました。また、ある程度月日が経ってからは、心のケアが重要だと、花や野菜の苗を植えたプランターを仮設住宅に配るなど、ややもすると閉じこもりがちになるお年寄りが、外に出て交流出来るような支援を心掛けていると話していました。 北山崎は、日本交通公社の全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、最高ランクの特A級に格付けされています。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたって続き、名実共に日本一の海岸美を持つ景勝地です。そのため、放っておいても年間約50万人もの観光客が北山崎を訪れます。 しかし、それらは北山崎を訪問するだけで、宿泊は宮古市など、近隣の市町村に流れていま...