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がんばるばい熊本!! 南阿蘇ミーティング 2016夏

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南阿蘇村は4月16日の熊本地震本震で、震度6強を観測。阿蘇外輪山の内側にある村は至る所で山ののり面が崩落して、流れ出した土砂が道路や橋、住宅を押し流しました。 この地震では、南阿蘇村だけで31人の方が犠牲となりました(関連死15人)。村の調べでは、被害家屋は全壊、半壊だけで1600棟以上と、甚大な被害となりました。この他、国道57号が阿蘇大橋の崩落と土砂災害により通行止め、県道28号熊本高森線も俵山トンネルの崩落と土砂災害のため通行止めとなったのを始め、村内の生活道路が至る所で損壊していました。 また、山の崩落が見られるエリアでは雨が降る度に土砂災害の危険が高まり、大雨が降った6月28日には1658世帯3931人に避難指示、2693世帯6606人に避難勧告が出ました。これは村の人口の9割近くとなり、地震から2カ月以上が経っても、多くの住民が2次災害に怯える状況となっていました。 その1週間ほど前の6月20日夜半にも阿蘇地方を豪雨が襲い、福祉避難所の旅館朝陽はベランダの排水能力が間に合わず、全館水浸しとなってしまいました。避難者たちは、漏電の恐れがあるためブレーカーを落とし、暴風雨と暗闇の中、フロアの水出しに追われたといいます。オーナーの土田裕二さんによると、朝陽に避難している約30人方はお年寄りが多く、地震による被災だけでも大変な中、6月のような豪雨災害が重なると、非常に大きなストレスとなると話していました。 5月に朝陽を訪問した際の話を、熊本市の知人TTさんにしたところ、少しでもそうした方たちの力になりたいと、被災地支援隊を組織し、朝陽を拠点に活動を展開することになりました。支援隊のうち女性陣は調理場で食事の支度、男性陣は土田さんを通じて依頼のあった被災者宅で家の片付けを手伝うなどの活動を実施しました。 その後、8月に入って、被災地支援活動を通じてつながった全国の有志により、南阿蘇村にある世界最大級の野外劇場アスペクタで、食と音楽、遊びのイベント「がんばるばい熊本!! 南阿蘇ミーティング 2016夏」が開催されました。 イベントには全国15道府県から有志が集結。地元ボランティアも含め約130人のスタッフで、さまざまな企画が実施されました。「食」ではフードコートに、鶏肉とナスのグリーンカレー(チーム青森)、焼き鳥と焼きトウモロコシ(チーム鯖江)、たこ焼き、お好み焼き

阿蘇大橋の崩落で村が寸断された南阿蘇村

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前の記事で書いた西原村での炊き出しの日(4月25日)、炊き出しの中心となった石垣島のSYさんと共に南阿蘇村へも入りました。阿蘇大橋が崩落していたため、いったんミルクロードに出て、県道23号から南阿蘇村に向かいました。事前にコンタクトを取っていた中尾三郎さんの自宅は、応急危険度判定で「建物が傾斜している」として危険判定を受けていたため、当時は、阿蘇市赤水に避難しており、そこでお会いして現状をお聞きしました。 中尾さんの自宅があるか立野地区には、村で唯一の救急病院だった阿蘇立野病院があり、中野さんの自宅からは車で5分ほどですが、病院の間の道路は地震の被害で通行止めとなっていました。その阿蘇立野病院も、地震で建物に亀裂が入るなど大きな被害を受け、入院患者を他の医療機関に搬送後、しばらく休診となっているなどの話を伺いました。また、中尾さんの自宅や阿蘇立野病院は、村の中心部とは黒川をはさんで対岸にあり、阿蘇大橋の崩落によって行き来が出来にくい状態だとも話していました。 南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷にあります。白水村、久木野村、長陽村の3村が合併して出来た村で、村内中央を東から西へ流れる白川が、外輪山の切れ目となる立野地区で黒川と合流し、熊本平野へと流れています。今回の地震では、旧長陽村の黒川側で大きな被害が出ました。大規模な土砂崩れにより国道57号が寸断され、阿蘇大橋が崩落した立野地区や、京都大学火山研究所の下から大規模地すべりが起きた高野台も、複数のアパートが倒壊した東海大学の学生村があったのも、このエリアになります。 地震から1カ月ほど経った5月17、18日に、再度、南阿蘇村を訪問しました。最初に伺ったのは、高野台に住む松岡一雄さんでした。 松岡さんは、地震の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れに、身体が宙に飛ばされました。続いて長い横揺れが始まり、それと共にこれまで経験したことのないような地響きがしてきました。土砂崩れでした。 京都大学火山研究所が丘の上にあるこの地区は高野台と呼ばれ、村が開発公社を通じて売り出した住宅地でした。南阿蘇村で不動産業を営み、村内の宅地情勢に詳しい上田晴三さんは「傾斜の緩やかな場所ですし、雨も降っていないのに、これほどの土砂崩れが起こるとは考えてもいませんでした。火山灰の層が強い揺れで液状化したとしか考え

熊本地震支援活動 - 西原村・益城町

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熊本地震が起きた2016年4月14日は、取材で宮崎県の高鍋町にいました( 児童福祉の父・石井十次のルーツを訪ねる - 高鍋 )。宮崎県でも、阿蘇に近い高千穂町などで震度5強を観測しましたが、高鍋町は震度4の揺れでした。それでも、大きな地震であったことはすぐに分かりました。 しかし、その2日後に本震がくるなんて・・・。 4月16日午前1時25分頃、熊本県熊本地方を震源とする強い地震があり、益城町と西原村で震度7の激しい揺れを観測しました。14日にあった震度7の揺れは、この日の地震の「前震」とされたのです。 翌17日、東日本大震災の被災地支援で知り合い、前年9月の関東・東北豪雨でも常総市に詰めて活動した茨城県水戸市の若林純也さんが、早くも熊本の被災地に入り、特に被害が大きかった益城町、西原村、南阿蘇村を回って、状況の確認とニーズの把握、支援の調整を始めました。ちょうど、東日本大震災の被災地・南三陸へ同行したり、後の西日本豪雨では一緒に真備へ入った、南海のシーサーこと石垣島のSYさんから、熊本地震の被災地で炊き出しをしたいが、どこがいいだろうと相談を受けていたので、若林さんに連絡し、炊き出し場所の調整をお願いしました。 若林さんは、すぐに西原市災害対策本部と調整をしてくれ、4月25日に避難所となっている西原中学校で炊き出しを受け入れてもらえることが決まりました。 熊本市から東へ約20km。阿蘇外輪山の西麓にある西原村は、昭和35年に山西村と河原村が合併。両村から1文字ずつをとって新しい村名としました。熊本地震では、16日未明の本震で震度7の激しい揺れを観測。住宅約2300棟のうち344棟が全壊、1087棟が半壊と、6割以上の家が大きな被害を受けました。また、倒壊した建物の下敷きになるなどして、5人の方が亡くなっています。 石垣島からやって来たSYさんたちは、沖縄での戦没者遺骨収集活動などで以前から交流のある福岡の友人らと共に、24日夜、西原村に到着しました。そして、避難所の責任者と打ち合わせを行った上で、休む間もなく翌日の設営を開始。手際よくテントやテーブルなどの配置を済ませた後、車の中で仮眠をとり、翌朝の炊き出しに備えました。 SYさんたちが提供したのは、八重山そばと天ぷら。また、話を聞きつけた恩納村商工会女性部の方たちが、1000食分のだしと、サーターアンダギー500

日本一の献眼の町・静岡県小山町を訪ねて

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昨日の記事( 世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海 )の忍野八海から南へ約20km、富士山東麓、山中湖のすぐ南にあるのが、静岡県小山町です。ここは、「献眼の町」として知られていて、2009年には、町で献眼運動を推進してきた小山ライオンズクラブが、日本アイバンク協会の第1回今泉賞を受賞しました。 この賞は、日本で最初の角膜移植手術を行った今泉亀撤さんに因んだものです。最初の角膜移植手術が行われてから50周年に当たる08年に、今泉さんが保健文化賞を受賞。今泉さんは、その賞金の大部分を日本アイバンク協会に寄付され、同協会はそれを基に、角膜移植医療及びアイバンク活動に貢献した方々を顕彰するため今泉賞を設定しました。第1回の受賞者は、今泉さんが手術を実施した岩手医科大学の眼球銀行と小山ライオンズクラブの2団体、それに個人が2人でした。 その小山ライオンズクラブを、以前に取材させてもらったことがあります。 小山ライオンズクラブが、献眼運動に取り組み出したのは1970年のことです。まず、クラブ会員全員が献眼登録し、翌年には町民へのPRのために「アイバンクの夕べ」を開催。また小山町の区長会でアイバンク運動についての協力を呼び掛け、小学校校区の会合でもPRを行いました。 更には会員が手分けをして、1軒1軒、献眼について説明して回るというローラー作戦を展開。その甲斐あって、老人会を中心にライオンズ友の会まで出来ました。こうした組織を通して、献眼運動の啓発が進んでいったのです。 72年5月、クラブの最長老だった小山彦平さんが、小山町初の献眼者となりました。その後、毎月会員か、会員の親類の人たちが献眼者となりました。町で亡くなった方があれば、会員たちは必ずお悔やみに上がって遺族を慰め、その上で献眼の意義も説きました。 小山では、不幸があった時、集落の人が総出で通夜や葬儀を手伝います。クラブでは、献眼者の葬儀に生花を贈り、アイバンクからの感謝状を捧げてきました。 こうして、運動を始めてから8年目には物故者の10%を超える方が、献眼をするまでになりました。その年、クラブでは献眼者合同慰霊祭を行って、改めて故人の尊い意志に感謝を捧げ、ねんごろに弔いました。心を尽くす、ということが、この活動ではとても大事なことなのです。 この手厚さが、町の人たちに感銘を与えたのでしょう。初の献眼者から数

流域の人々の心を映す清流・千種川

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千種川は、1985年に環境省選定の名水百選に選ばれています。その紹介文の中で、小中高校生による水生生物調査や、流域のライオンズクラブの活動が取り上げられ、「地域住民活動を通じて保全に努めている」と記されています。 千種川中流域にある佐用ライオンズクラブの呼びかけで始まったこの活動は、流域の赤穂、相生、上郡、佐用、千種の5クラブ合同の奉仕活動として、1972(昭和47)年から実施されてきました。その成果は毎年、『千種川の生態』という冊子にまとめられ、流域の人々の意識を高め、清流を守るために大きな力となってきました。1993年には、その功績が認められ、環境庁長官から表彰を受けており、質の高い活動として地域住民からも支持されています。 延長68km、源流を中国山地の分水嶺・江浪峠に発する千種川は、上郡から赤穂市を抜けて、瀬戸内海へと注ぎます。人工改変度が小さく、ダムもないため、昔ながらの美しい流れを保つ、我が国では数少ない川の一つとなっています。 しかし、そこに住む人々にとって、川は単なる風景ではありません。 上郡町が、「ふるさと創生事業」でまとめた『ふるさと上郡のあゆみ』は、「上郡は 千種川の恵みによってこそある」で始まります。 千種川は、その豊富な水量により、土地を潤し流域の人々の暮らしを支えてきました。鉄道のない時代には高瀬舟が通い、一つの風物詩をなしていました。上郡やその上流の佐用に荷揚げ場が置かれ、瀬戸内海と中国山地を結ぶ重要な交通網の役目を果たしていたのです。 そんな恵みの川、千種川をそのままの姿で残したい。ホタルが飛び交い、アユが跳ねる川のままでいてほしい。流域の人々のそんな願いが、千種川を昔のままの澄んだ流れに保っているのでしょう。 全国各地を歩いて回った民俗学者・宮本常一が、生前、こんなことを言っていました。「民衆が水を管理し、民衆が水を自分たちのものとして考えてこれを操作してゆく間は水は汚れるものではない」。 千種川の清流が、その言葉の正しさを証明しているようです。上郡町は、兵庫県最西端。町面積の7割を山林が占め、その山々の間を縫うように、千種川が流れます。

日本の原風景を見るような環状集落・荻ノ島を訪ねて

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昨日のブログ で、新潟県中越地震の際、柏崎の人たちが、長期にわたって小千谷市総合体育館で昼食の炊き出しを続けた話を書きました。その中心となったうちの一人坪田さんには、1997年にあることで取材させてもらっており、大学の先輩(しかも同学部)ということもあって、炊き出しの件を聞いた時には、さっさと同行を決めたものです。 2007年7月16日、今度はその柏崎を、マグニチュード6.8の激震が襲いました。新潟県中越沖地震です。柏崎市は震度6強を観測。新潟県中越地震から3年を経たずして起こった巨大地震に、日本中が驚き、また被災された方たちの心中に思いをはせました。 3年前の中越地震と同様、この時も、明石の橋本維久夫さんを中心に炊き出しが計画されました。しかも、中越地震の時の参加者に加え、青森県つがる、東京、千葉県野田、奈良県生駒、兵庫県の神戸と姫路からも参加があり、更に中越地震の炊き出しで知り合った、長岡のMTさんが、現地コーディネートを担当してくれ、輪が大きく広がっていました。 以前のブログ( 「震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント」 )に書きましたが、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。で、この記事を書くため、当時飛び交っていた打ち合わせメッセージを見ていて、橋本さんが大体長と呼ばれることになったきっかけを作った犯人が分かりました。それは、神戸のDHさんで、参加者に呼び掛けるメッセージで、DHさんは「大隊長(本当は大体でええやろう)の橋本さんから指示があり・・・(中略)・・・既に大体長(わざと間違ってます)から・・・」と書いており、以後の流れを作ってしまったようです。 それはともかく、炊き出しは9月1日に200戸の仮設住宅があった刈羽村の源土運動広場で、翌2日には柏崎市西山町のいきいき館でそれぞれ実施しました。柏崎では、ボランティア・センターに詰めていた岩手県立大学の学生ボランティアがさまざまな企画を練り、お年寄りから子どもまでが楽しめるイベントを用意。また、小千谷で昼食の炊き出しを続けた坪田さんたちも、自分たちが被災しているにもかかわらず、駆け付けてくれました。  ◆ この中越沖地震から1年が経った2008年7月、同じ柏崎でも内陸部にある高柳町を訪問しました。高柳町は、地震の2年前、05年に柏

ユネスコ無形文化遺産・小千谷縮の雪さらし

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「雪中に糸となし 雪中に織り 雪水に濯ぎ 雪上に晒す 雪ありて縮あり 雪こそ縮の親と言うべし」 江戸後期の商人で、随筆家でもあった鈴木牧之は、当時の魚沼地方の生活を描いた『北越雪譜』の中で、小千谷縮をこう表現しています。 小千谷縮は、昔からあった越後上布に改良を加えたものです。緯糸に強い撚りをかけた織物を、お湯の中で丹念に強くもむことで、ほどけた布に「シボ」と呼ばれる独特の細やかなしわが出ます。1955年に国の重要無形文化財第1号指定を受けた他、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。ちなみに重要無形文化財の指定条件には、使う糸や織機の他、湯もみ、雪さらしなどの技法も示されています。 雪さらしは、本来は晴れた日に行いますが、小千谷の冬を彩るイベント「おぢや風船一揆」では、デモンストレーションとして天候に関係なく実施されます。2012年に、おぢや風船一揆に行く機会があり、その際、粉雪が舞う中、雪さらしが披露されていました。 ▲小千谷紹介観光ビデオ「小千谷風船一揆」(小千谷市観光協会) 雪にさらすことで麻生地が漂白されると共に、麻糸が更に鮮やかさを増し色柄を引き立てます。その科学的根拠として、一般にはオゾンの漂白効果が挙げられます。実際に日本雪氷学会が雪上のオゾン濃度を調べたところ、確かに晴れた日に上昇し、雨の日は低下する傾向が見られたそうです。ちなみに、雪の日は雨の日ほど濃度の低下はなかったそうですが、やはり晴れた日の方がいいのでしょう。それを経験則として取り入れていた先人の知恵には脱帽するしかありません。 おぢや風船一揆は毎年2月下旬、2日間にわたって開催されます。日本を代表する熱気球大会「日本海カップクロスカントリー選手権」を兼ねたイベントで、今年で45回目となるはずでしたが、残念ながら新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。 以前は、競技と各種イベントが同一会場で行われていたようですが、雪が少なかった13年前に、競技とイベントを別会場で実施してから現在の形式になったと聞きました。イベント会場では、熱気球試乗体験やうまいもの市場、雪像コンテストなどが実施され、多くの市民や観光客で賑わいます。 小千谷市は、新潟県のほぼ中央、いわゆる中越にあります。2004(平成16)年10月23日に起きた新潟県中越地震では、小千谷でも震度6強の揺れを観

千本桜と菜の花畑のコントラストが見事な権現堂桜堤

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昨日のブログ( 日光街道第2の宿・草加と「おくのほそ道」 )は、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」という江戸時代の地口から始めましたが、実はこの地口、後に「幸手、栗橋、まだ先よ」と続けることもあります。 日光街道は、日本橋を起点に第1の宿・千住から草加、越谷と続き、更に粕壁(春日部)、杉戸を経て、幸手宿、栗橋宿へ通じます。江戸時代は、東京と埼玉、それに神奈川の一部(川崎、横浜)を含むエリアが武蔵国となっていて、次の宿場・下総国中田宿(現・茨城県古河市)との間には関所が置かれていました。 日本橋から千住までは約9km、千住からは草加までが約9m、越谷までは約16kmなので、日本橋〜越谷は約25kmとなります。一方、日本橋から幸手までは越谷の倍となる約50km、栗橋までは55kmほどあり、「草加(そうか)、越谷、千住の先よ」の後に、つい勢いで「まだ先よ」と付け足したくなったやつがいたんでしょうね。 栗橋宿は、利根川対岸の中田宿と、2宿で1宿の合宿(あいしゅく)の形になっていました。ここの利根川には、軍事上の守りの観点から架橋されず、渡船場が置かれていました。渡し場は、房川渡しと呼ばれ、関所(房川渡中田御関所)が設置されていました。中田の名が付いているように、当初は中田宿側に置かれましたが、その後、栗橋側に移設され、通称「栗橋関所」と呼ばれるようになりました。 もう一つの幸手宿は、日光街道と共に、将軍が日光社参の際に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、重要な宿場となっていました。1843(天保14)年の『日光道中宿村大概帳』によると、幸手宿の長さは585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模を誇っていました。 その幸手と言えば、関東屈指の桜の名所・権現堂桜堤で有名です。 権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の1576(天正4)年頃と言われています。天正4年というと、織田信長が安土城を築城した年のこと。 その頃に権現堂を流れていたのは、渡良瀬川の本流だったようです。その後、江戸時代になって、「坂東太郎」こと利根川を東に移すことになり、現在の古利根川から渡良瀬川へ直線上にショートカットする新川通を開削し、これを利根川本流にしました。そのため権現堂の