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気仙沼横丁と共に忘れられない気仙沼駅前の大衆食堂ますや

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東日本大震災前、気仙沼は、昨日書いた大船渡線の他、南三陸町を通って石巻市の前谷地駅に至る気仙沼線の起点にもなっていました。しかし、気仙沼市と南三陸町にあった16駅中9駅が津波で流失。また鉄橋が落ちたり、路盤・築堤が流失するなど、沿岸部を走る南気仙沼から陸前戸倉(南三陸町)間は壊滅状態となりました。 震災翌月以降は、代行バスやバス振替輸送などで運行していましたが、2012年5月にJR東日本が提示したBRT方式による仮復旧について、沿線の気仙沼、南三陸、登米の各自治体が合意。そして12月22日からBRTの本格的な運行が始まりました。 大船渡や陸前高田を取材する際は、気仙沼が拠点になっていたので、大船渡線のBRTにも乗ったことがありました。しかし、南三陸の場合は、東北新幹線くりこま高原駅でレンタカーを借りるのが常だったので、気仙沼線にはついぞ乗ったことがありませんでした。ただ、気仙沼線・大船渡線BRT専用のICカード「odeca(オデカ)」は購入してあるので、いつか気仙沼線BRTにも乗ってみたいと思っています。 ちなみに、気仙沼線・大船渡線BRTには、「おっぽくん」という沿線復興のキャラクターがあります。「おっぽくん」はリスで、どうやら「お出かけ」に引っかけて尻尾を大きく描いているようです。「odeca」も、そこからの命名のようで(尾デカっ!)、気仙沼駅でカードを見た私、何となく欲しくなってしまい、odecaを作っちゃったのですが、試しに大船渡線BRTに乗った時に持っていくのを忘れ、いまだ一度も使ったことがありません。。。 BRT気仙沼駅は本来の大船渡線気仙沼駅を出てすぐ左手の気仙沼観光コンベンション協会前に設置されていました。いつもレンタカーを借りていた所で、くりこま高原駅の駅レンタカー同様、何度も利用するため顔なじみになっていましたが、途中からレンタカーの取り扱いがなくなってしまい、陸前高田に行く時は一ノ関駅、大船渡へ行く時は水沢江刺駅を利用するようになりました。 あと、気仙沼駅で忘れてはいけないのが、「ますや食堂」と、レトロな喫茶店「停車場」です。 この話は、既に記事しているので、そちら( 復興屋台村取材で出会った気仙沼の名物グルメたち )に譲りますが、簡単に紹介すると、「ますや食堂」さんは、80代のご夫婦と、そのお嬢さんの3人でやっており、震災の時、地域の人を元気

三陸鉄道と大船渡線の結節点・盛駅

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昨日の記事で書いたSL銀河が運行を開始した2014年4月12日の前週4月5日、6日には、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台となり、全国的に注目された三陸鉄道が、3年ぶりに全線で運行を再開しました。今はJRから山田線が移管され、久慈から盛までがつながり三陸鉄道リアス線となっていますが、当時はまだ久慈 - 宮古間の北リアス線と、釜石 - 盛間の南リアス線に分かれていました。ちなみに盛以南は大船渡線、久慈以北は八戸線につながり、岩手県沿岸部を縦貫する大事な足となっています。 東日本大震災では、南北リアス線107.6km(現在は全線163km)のうち約320カ所で津波被害を受けましたが、「三鉄は地元の足」だと全社一丸となって復旧に取り組み、震災の5日後には、比較的被害の少なかった北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運行を再開。その後「三鉄の希望作戦」と名付けたがれきの撤去作業を進めた自衛隊、修復されたホームや駅舎を掃除してくれた地域住民、全国から駆け付けたボランティアなど、多くの人の力を借り、徐々に復旧区間を拡大させてきました。そして4月5日に南リアス線、6日に北リアス線がつながり、ついに全路線で復活を果たしたのです。 SL銀河運行開始の日は、そんな時期でもあったので、私もまだ乗っていなかった南リアス線に乗車してみました。この時、一緒に乗った乗客の一人は、大阪から休暇を取って三陸鉄道に乗りに来たという鉄道マニアで、前日は北リアス線に乗ってきたと話し、北リアス線はトンネルばかりで風景があまり見えなかったが、南リアス線はどうでしょう、と聞かれました。しかし、私も初めてなので、分かるはずもなく・・・。 しかも私の場合、取材の合間だったので、乗車したのは釜石から唐丹までの3駅だけでした。で、ここまでが釜石市で、次の吉浜駅からは大船渡市に入ります。南リアス線も比較的トンネルが多い路線らしいのですが、吉浜(吉浜漁港)、三陸(越喜来漁港・泊漁港)、甫嶺(鬼沢漁港)、恋し浜(小石浜漁港)、綾里(野々前漁港・綾里漁港・石浜漁港)と、駅周辺に漁港があるように、三陸の海もばっちり眺められます。この後、三陸鉄道は陸前赤崎を経て、終点の盛駅へと向かいます。 盛駅は、大船渡市の行政・司法の中心・盛町にあり、JR大船渡線の終着駅でもあります。三陸鉄道とは乗り入れしていませんが、ここで大船渡線に乗り換え、陸

三鉄全線復旧とSL銀河の運行で盛り上がる鉄の町・釜石

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2014年4月12日、力強い汽笛と共にJR釜石線に蒸気機関車が帰ってきました。東日本大震災からの復興に寄与しようと、JR東日本が42年ぶりに復活させたものでした。釜石線の前身・岩手軽便鉄道が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われていることから、SL銀河の名で土日を中心に年間約80本、花巻 - 釜石間を運行することになったのです。 運行初日は関係者や鉄道ファン約300人に見送られ、午前10時37分に花巻駅を出発。途中、遠野駅で給水や石炭補給をして、釜石駅には定刻の午後3時4分に到着しました。釜石ではSLを一目見ようと、ホームや線路沿いに多くの人が詰め掛け、歓迎ムード一色。更には駅前でも岩手出身の民謡歌手やシンガーソングライター、ご当地アイドルなどのライブが行われ、終日盛り上がりました。 SL銀河は、72年まで主に盛岡 - 釜石を結ぶ山田線で活躍していた1940年製のC58-239を復元したものでした。復元前は盛岡市の交通公園に展示されていましたが、市民やSL保存会、鉄道マンらが定期的に清掃するなど良好な状態で保存されていたため、復元が実現しました。 席数は176席で、全席指定。1カ月前から指定券(大人820円、こども410円)が販売されることになり、JR東日本に聞いたところでは、発売と同時に完売しているとのことで、運行前から早くも人気となっていました。 今年の運行は4月9日から始まり、基本的には土曜日が花巻(10:36)から釜石(15:10)、日曜日が釜石(9:57)から花巻(15:19)となっています。この他、ゴールデンウィークには4月29日(金)と30日(土)、また祝日の5月3日に往路、5日に復路、お盆の時期には8月11日(木)12日(金)、14(日)15(月)なども予定されており、運行日についてはSL銀河の サイト を確認してください。 なお昨年11月、JR東日本から、SL銀河は客車の老朽化により2023年春をもって運行を終了する旨の発表がありました。今年は初冬までの運行で、2023年は春のみの運行になるようですが、詳しい日程は分かっておらず、決まり次第発表するとのことです。 私がリタイアしたら、SL大好き鉄子の義母を伴い、SL銀河に乗って釜石へ行き、大槌や山田を始め三陸の沿岸部を案内したかったのですが、それを実現する前に義母が亡くなってしまいました。せめ

東日本大震災被災地取材の拠点となった釜石駅

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東日本大震災後、最初に入った被災地は釜石でした( 東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石 )。その後1カ月ほどの間に、4回ほど釜石へ行きましたが、東北新幹線はまだ運転を再開していなかったので、鉄路の利用は少し後になりました。 しかし、2011年4月29日に東北新幹線が全通してからは、新花巻で釜石線に乗り換え、釜石駅でレンタカーを借り、大槌や山田、宮古などを回るようになりました。そんなわけで釜石線の利用が増え、往路は新花巻を昼過ぎに出る「はまゆり3号」、復路は釜石を14時半頃出る「はまゆり6号」を使う頻度が多くなりました。 釜石駅はもともと1939(昭和14)年に山田線の駅として開業しました。山田線は1923(大正12)年に盛岡 - 上米内間が開業したのを皮切りに、区間を延伸。路線名の由来で、1892年の鉄道敷設法で規定されていた山田町までは、1935(昭和10)年に完成。しかし、その後も延伸を続け、39年に大槌 - 釜石間が開業して、盛岡から釜石までが全通しました。また44(昭和19)年には現在の釜石線が開業、更に84(昭和59)年に三陸鉄道南リアス線が開業し、釜石には山田線、釜石線、三陸鉄道南リアス線が乗り入れることになりました。 東日本大震災では釜石市も大きな被害が出ましたが、釜石駅は倒壊や流失などは免れ、震災から26日目の4月6日には全線で運行を再開しました。ただ、先に書いたように東北新幹線の復旧はもう少し後のことなので、その当時は、羽田から臨時の直行便が飛んでいた、いわて花巻空港まで航空機を使い、そこからバスで7分の花巻空港駅へ移動して釜石線に乗っていました。 というわけで、釜石は被災地取材の拠点の一つとなり、取材が終わってレンタカーを返した後など、よく駅周辺で時間をつぶすことがありました。そんな時、よく入っていたのが、三陸鉄道の駅舎を利用した「さんてつジオラマカフェ」でした。 カフェは三陸鉄道釜石駅の駅舎をそのまま利用、店内には三陸鉄道沿線の主要な駅や景色を再現したジオラマが設置されていました。カフェの食券は、乗車券の券売機で購入。メニューは、めかぶ丼、いかカレー、たこライスがあって、この3種を盛り合わせた「さんてつセット」が900円でした。最初に入った時、私は「さんてつセット」にするつもりでしたが、駅員さんから、かなりボリュームあります、と聞かされた

『あまちゃん』に登場した北三陸鉄道のモデル・三陸鉄道北リアス線でレトロ列車に乗る

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取材で田野畑村を訪問することになった際( 日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地 )、以前から懇意にしていた方が、浅草酉の市発祥の寺として知られる長國寺の大熊手を宮古へ奉納すると聞き、そちらも併せて取材させてもらうことになりました( 震災の被災地で女性たちの支援に取り組む )。で、奉納に合わせて、三陸鉄道の田野畑駅からレトロ列車に乗り沿線の復興状況を視察するということだったので、それにも立ち会わせてもらいました。 三陸鉄道は、国鉄再建法により工事中止となった久慈線と盛線を、日本最初の第三セクターとして受け継ぎ、1984(昭和59)年に北リアス線(旧久慈線)、南リアス線(旧盛線)と名付けられて開業しました。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で、三陸鉄道は壊滅的な被害を受けましたが、動かせるところから動かそう、と震災5日後の3月16日には、北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運転を再開。更に20日に北リアス線宮古 - 田老間、29日に北リアス線田老 - 小本間で運転を再開させ、いずれも震災復興支援列車として無料乗車としました。 その後、11月になって復旧工事の施行協定が締結され、全線復旧に向けて工事が始まりました。そして12(平成24)年4月に北リアス線の田野畑 - 陸中野田間、13(平成25)年4月に南リアス線の盛 - 吉浜間、14(平成26)年4月に南リアス線の吉浜 - 釜石間と、北リアス線の小本 - 田野畑間の運転が再開され、全線での運行再開が実現しました。 我々がレトロ列車に乗ったのは、13年12月だったので、まだ小本 - 田野畑間の運転は再開されておらず、田野畑から北の路線のみでした。が、その年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』のロケ地・大沢橋梁では、わざわざ停車して説明までしてくれるサービス精神旺盛なアナウンスもあり、楽しいミニツアーでした。 当時は、北リアス線の北側折り返し駅となっていた田野畑駅は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の登場人物カンパルネラの愛称で親しまれており、駅舎にはネスレのキットずっとプロジェクトによって復興支援の桜の模様が描かれていました。また、駅舎の中には、本棚を備えた無料休憩所や、喫茶店もあり、喫茶店ではコーヒーや紅茶などの他、カレーライスやピラフ、チャーハンなどの食事メニューも提供されていました。 なお、2019

平安時代から続く絹の里は、中南米音楽とシャモ推しの町

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東日本大震災後、飯舘村や南相馬市へ取材に行く際、福島でレンタカーを借り、川俣町経由で入っていました。福島から川俣までは国道114号を通りますが、川俣に入って700mほどの所に小さな池があります。そのほとりには、「コスキンの町 川俣」と書かれたモニュメント「コスキンくん人形」が立っています。 初めて見る人は、「何だこれ?」と思うに違いありません。ところが、私の場合、やはり初見だったものの、すぐにそれが何かを理解しました。そうです。私、川俣がコスキンの町であることを、だいぶ前から知っていたのです。 日本最大のフォルクローレ音楽祭「コスキン・エン・ハポン」が、川俣町で開催されていると知ったのは、2000年のことです。その年はちょうど、「コスキン・エン・ハポン」が始まって25周年だったため、それを記念して第1回コスキン・パレードも行われました。 「コスキン」というのは、南米アルゼンチンの地方都市の名前です。アンデス山脈の山間にある人口2万人の小さな市ですが、ここで10日間にわたり延べ20万人が集まる盛大な音楽祭が開かれます。 その祭りを模して、川俣町の南米音楽愛好家が、「コスキン・エン・ハポン(日本のコスキン)」として音楽祭を開くようになりました。当初は、全国13のフォルクローレ愛好家グループが集い、演奏を楽しんでいました。しかし、年々参加グループが増え、25年目の2000年には過去最高の161グループが日本各地から集まり、2日間にわたり演奏を行ったそうです。 その後も、ますます隆盛となり、連綿と続いてきました。今では国内外から200組を超える演奏者が集まる国内最大級の中南米音楽の祭典に成長。10月第2土曜日から3日間、山間の小さな町は、中南米の音楽とカラフルな色であふれ返ります。 実は川俣町も、東日本大震災の原発事故により、一時、山木屋地区が帰宅困難地域に指定されていました。しかし、各地から寄せられる応援に力を得て、コスキン・エン・ハポンは震災の年にも例年通りに開かれました。 ただ、2019年は東日本台風、2020年は新型コロナウイルス感染症の影響で、コスキン・エン・ハポンは中止となりました。今年は、4月時点では開催予定で進んでいましたが、その後の状況に鑑み、開催断念を決断。残念ながら、3年続けて中止という事態になりました。 昨年は、代替えイベントとして、演奏動画を集めて

日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地

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2011年3月11日、NPO体験村・たのはたネットワークの副理事長・佐藤辰男さんは、「海のアルプス」と呼ばれる北山崎海岸の南端にある北山浜にいました。春の訪れと共に始まる観光シーズンを前に、町外からの観光客を迎える準備のため、高校生と一緒に海岸を清掃していたのです。 地震の瞬間、地面が大きく揺れ、直後にズドーンという轟音と共に、背後に切り立つ断崖の一部が崩れました。岩の直撃は免れましたが、生徒たちは悲鳴を上げてうずくまり、身動き出来ない様子でした。しかし、のんびりしてはいられません。佐藤さんは、教師らと一緒に生徒たちを励まし、急峻な崖の上へと誘導しました。田野畑村に津波の第一波が到達したのは、地震発生から約40分後。彼らは間一髪で難を逃れることが出来ました。 田野畑村は岩手県の沿岸北部、三陸復興国立公園のハイライトとも言える景勝地・北山崎を抱える人口約4000人の村です。中心部は海抜200~300mの海岸段丘にあり、東日本大震災の津波被害からは免れました。しかし沿岸部の羅賀、島越は住宅の7割以上が全半壊となるなど、大きな被害が出ました。また、漁船の9割弱が流失し、漁業関係も大打撃を受けました。 佐藤さんが所属する奉仕団体では、震災後、国内外からの援助を受けながら、被災者支援活動を開始。村に給水車を寄贈したり、避難所にファンヒーターや電気毛布を持って行ったりしました。更に被災者が仮設住宅に移ってからは、灯油用ポリタンクの収納ケースを各戸に贈った他、仮設住宅の自治会に除雪機を提供するなど、被災者のニーズを把握しながら活動を続けてきました。また、ある程度月日が経ってからは、心のケアが重要だと、花や野菜の苗を植えたプランターを仮設住宅に配るなど、ややもすると閉じこもりがちになるお年寄りが、外に出て交流出来るような支援を心掛けていると話していました。 北山崎は、日本交通公社の全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、最高ランクの特A級に格付けされています。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたって続き、名実共に日本一の海岸美を持つ景勝地です。そのため、放っておいても年間約50万人もの観光客が北山崎を訪れます。 しかし、それらは北山崎を訪問するだけで、宿泊は宮古市など、近隣の市町村に流れていま

震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

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宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。 そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。 その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。  ◆ その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。 家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。 ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。 しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました

海と祭りに生きる山田の人々

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山田町は岩手県沿岸部のほぼ中央、北を宮古市、南を大槌町に挟まれています。東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、更にその後に発生した火災で、町役場周辺の約500棟があった区画が焼き尽くされました。焼失面積は推定で約18haと、今回の震災で発生した東北沿岸部の火災では最大の被害となりました。 震災後、山田町を最初に訪問したのは、4月15日でした。釜石、大槌、山田に支援物資を搬入する河合悦子さんのグループ( 「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」 )を取材するためでしたが、この時にお会いした山田町の方たちには、その後何度も、取材でお世話になりました。その一人、千坂清一さんに、当時のことを伺ったことがあります。  ◆ 震災前は海から100mほど離れた国道沿いで薬局を経営していました。あの日、私は2坪強の調剤室、二人の従業員は店舗、家内は2階の自宅で遅い昼食を取り寛いでいました。そこへあの揺れがきました。予想外に長く強い揺れに、店では化粧品の瓶が割れ、従業員の悲鳴が聞こえてきました。調剤室でも棚やロッカーが倒れ、飼っていた猫が飛び込んできて私の足元をすごい速さでグルグル回りました。初めて見る行動で、恐ろしいことが起きると、動物の本能で察知していたようです。ようやく揺れが収まった後、すぐに店を閉め、家内には近所に一人で暮らす義母(当時93歳)を連れて避難所である役場に行くよう、従業員にはすぐに自宅に帰るように指示しました。 義母、家内と私の3人が役場の中庭に避難してから約30分、周囲が異様な雰囲気に包まれました。何人かが海の方向を見て息をのむような声にならない声を上げていました。屋根が左から右へ、かなりの速さで動いていくのです。周囲には黄色い煙が上がっていました。後に、大津波が建物を根こそぎ破壊していたのだと分かりました。 それからは町内の一角で発生した火事が一晩かけて広がる様子を、役場の敷地内から呆然と見ていました。翌12日の朝に見た山田町はがれきの山と焼け跡、それに異臭が加わり、とても現実とは信じられませんでした。  ◆ 最初の訪問から数日後の4月21日、青森県の弘前東奥ライオンズクラブが、岩手県山田町の保健センター前で炊き出しを行い、弘前名物のかに汁とおにぎりを800食ずつ山田町の人たちに振る舞いました。 かに汁は、桜の名所・弘前の花見に欠かせない津軽地方定番の季