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『あまちゃん』に登場した北三陸鉄道のモデル・三陸鉄道北リアス線でレトロ列車に乗る

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取材で田野畑村を訪問することになった際( 日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地 )、以前から懇意にしていた方が、浅草酉の市発祥の寺として知られる長國寺の大熊手を宮古へ奉納すると聞き、そちらも併せて取材させてもらうことになりました( 震災の被災地で女性たちの支援に取り組む )。で、奉納に合わせて、三陸鉄道の田野畑駅からレトロ列車に乗り沿線の復興状況を視察するということだったので、それにも立ち会わせてもらいました。 三陸鉄道は、国鉄再建法により工事中止となった久慈線と盛線を、日本最初の第三セクターとして受け継ぎ、1984(昭和59)年に北リアス線(旧久慈線)、南リアス線(旧盛線)と名付けられて開業しました。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で、三陸鉄道は壊滅的な被害を受けましたが、動かせるところから動かそう、と震災5日後の3月16日には、北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運転を再開。更に20日に北リアス線宮古 - 田老間、29日に北リアス線田老 - 小本間で運転を再開させ、いずれも震災復興支援列車として無料乗車としました。 その後、11月になって復旧工事の施行協定が締結され、全線復旧に向けて工事が始まりました。そして12(平成24)年4月に北リアス線の田野畑 - 陸中野田間、13(平成25)年4月に南リアス線の盛 - 吉浜間、14(平成26)年4月に南リアス線の吉浜 - 釜石間と、北リアス線の小本 - 田野畑間の運転が再開され、全線での運行再開が実現しました。 我々がレトロ列車に乗ったのは、13年12月だったので、まだ小本 - 田野畑間の運転は再開されておらず、田野畑から北の路線のみでした。が、その年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』のロケ地・大沢橋梁では、わざわざ停車して説明までしてくれるサービス精神旺盛なアナウンスもあり、楽しいミニツアーでした。 当時は、北リアス線の北側折り返し駅となっていた田野畑駅は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の登場人物カンパルネラの愛称で親しまれており、駅舎にはネスレのキットずっとプロジェクトによって復興支援の桜の模様が描かれていました。また、駅舎の中には、本棚を備えた無料休憩所や、喫茶店もあり、喫茶店ではコーヒーや紅茶などの他、カレーライスやピラフ、チャーハンなどの食事メニューも提供されていました。 なお、2019

がんばるばい熊本!! 南阿蘇ミーティング 2016夏

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南阿蘇村は4月16日の熊本地震本震で、震度6強を観測。阿蘇外輪山の内側にある村は至る所で山ののり面が崩落して、流れ出した土砂が道路や橋、住宅を押し流しました。 この地震では、南阿蘇村だけで31人の方が犠牲となりました(関連死15人)。村の調べでは、被害家屋は全壊、半壊だけで1600棟以上と、甚大な被害となりました。この他、国道57号が阿蘇大橋の崩落と土砂災害により通行止め、県道28号熊本高森線も俵山トンネルの崩落と土砂災害のため通行止めとなったのを始め、村内の生活道路が至る所で損壊していました。 また、山の崩落が見られるエリアでは雨が降る度に土砂災害の危険が高まり、大雨が降った6月28日には1658世帯3931人に避難指示、2693世帯6606人に避難勧告が出ました。これは村の人口の9割近くとなり、地震から2カ月以上が経っても、多くの住民が2次災害に怯える状況となっていました。 その1週間ほど前の6月20日夜半にも阿蘇地方を豪雨が襲い、福祉避難所の旅館朝陽はベランダの排水能力が間に合わず、全館水浸しとなってしまいました。避難者たちは、漏電の恐れがあるためブレーカーを落とし、暴風雨と暗闇の中、フロアの水出しに追われたといいます。オーナーの土田裕二さんによると、朝陽に避難している約30人方はお年寄りが多く、地震による被災だけでも大変な中、6月のような豪雨災害が重なると、非常に大きなストレスとなると話していました。 5月に朝陽を訪問した際の話を、熊本市の知人TTさんにしたところ、少しでもそうした方たちの力になりたいと、被災地支援隊を組織し、朝陽を拠点に活動を展開することになりました。支援隊のうち女性陣は調理場で食事の支度、男性陣は土田さんを通じて依頼のあった被災者宅で家の片付けを手伝うなどの活動を実施しました。 その後、8月に入って、被災地支援活動を通じてつながった全国の有志により、南阿蘇村にある世界最大級の野外劇場アスペクタで、食と音楽、遊びのイベント「がんばるばい熊本!! 南阿蘇ミーティング 2016夏」が開催されました。 イベントには全国15道府県から有志が集結。地元ボランティアも含め約130人のスタッフで、さまざまな企画が実施されました。「食」ではフードコートに、鶏肉とナスのグリーンカレー(チーム青森)、焼き鳥と焼きトウモロコシ(チーム鯖江)、たこ焼き、お好み焼き

阿蘇大橋の崩落で村が寸断された南阿蘇村

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前の記事で書いた西原村での炊き出しの日(4月25日)、炊き出しの中心となった石垣島のSYさんと共に南阿蘇村へも入りました。阿蘇大橋が崩落していたため、いったんミルクロードに出て、県道23号から南阿蘇村に向かいました。事前にコンタクトを取っていた中尾三郎さんの自宅は、応急危険度判定で「建物が傾斜している」として危険判定を受けていたため、当時は、阿蘇市赤水に避難しており、そこでお会いして現状をお聞きしました。 中尾さんの自宅があるか立野地区には、村で唯一の救急病院だった阿蘇立野病院があり、中野さんの自宅からは車で5分ほどですが、病院の間の道路は地震の被害で通行止めとなっていました。その阿蘇立野病院も、地震で建物に亀裂が入るなど大きな被害を受け、入院患者を他の医療機関に搬送後、しばらく休診となっているなどの話を伺いました。また、中尾さんの自宅や阿蘇立野病院は、村の中心部とは黒川をはさんで対岸にあり、阿蘇大橋の崩落によって行き来が出来にくい状態だとも話していました。 南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷にあります。白水村、久木野村、長陽村の3村が合併して出来た村で、村内中央を東から西へ流れる白川が、外輪山の切れ目となる立野地区で黒川と合流し、熊本平野へと流れています。今回の地震では、旧長陽村の黒川側で大きな被害が出ました。大規模な土砂崩れにより国道57号が寸断され、阿蘇大橋が崩落した立野地区や、京都大学火山研究所の下から大規模地すべりが起きた高野台も、複数のアパートが倒壊した東海大学の学生村があったのも、このエリアになります。 地震から1カ月ほど経った5月17、18日に、再度、南阿蘇村を訪問しました。最初に伺ったのは、高野台に住む松岡一雄さんでした。 松岡さんは、地震の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れに、身体が宙に飛ばされました。続いて長い横揺れが始まり、それと共にこれまで経験したことのないような地響きがしてきました。土砂崩れでした。 京都大学火山研究所が丘の上にあるこの地区は高野台と呼ばれ、村が開発公社を通じて売り出した住宅地でした。南阿蘇村で不動産業を営み、村内の宅地情勢に詳しい上田晴三さんは「傾斜の緩やかな場所ですし、雨も降っていないのに、これほどの土砂崩れが起こるとは考えてもいませんでした。火山灰の層が強い揺れで液状化したとしか考え

熊本地震支援活動 - 西原村・益城町

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熊本地震が起きた2016年4月14日は、取材で宮崎県の高鍋町にいました( 児童福祉の父・石井十次のルーツを訪ねる - 高鍋 )。宮崎県でも、阿蘇に近い高千穂町などで震度5強を観測しましたが、高鍋町は震度4の揺れでした。それでも、大きな地震であったことはすぐに分かりました。 しかし、その2日後に本震がくるなんて・・・。 4月16日午前1時25分頃、熊本県熊本地方を震源とする強い地震があり、益城町と西原村で震度7の激しい揺れを観測しました。14日にあった震度7の揺れは、この日の地震の「前震」とされたのです。 翌17日、東日本大震災の被災地支援で知り合い、前年9月の関東・東北豪雨でも常総市に詰めて活動した茨城県水戸市の若林純也さんが、早くも熊本の被災地に入り、特に被害が大きかった益城町、西原村、南阿蘇村を回って、状況の確認とニーズの把握、支援の調整を始めました。ちょうど、東日本大震災の被災地・南三陸へ同行したり、後の西日本豪雨では一緒に真備へ入った、南海のシーサーこと石垣島のSYさんから、熊本地震の被災地で炊き出しをしたいが、どこがいいだろうと相談を受けていたので、若林さんに連絡し、炊き出し場所の調整をお願いしました。 若林さんは、すぐに西原市災害対策本部と調整をしてくれ、4月25日に避難所となっている西原中学校で炊き出しを受け入れてもらえることが決まりました。 熊本市から東へ約20km。阿蘇外輪山の西麓にある西原村は、昭和35年に山西村と河原村が合併。両村から1文字ずつをとって新しい村名としました。熊本地震では、16日未明の本震で震度7の激しい揺れを観測。住宅約2300棟のうち344棟が全壊、1087棟が半壊と、6割以上の家が大きな被害を受けました。また、倒壊した建物の下敷きになるなどして、5人の方が亡くなっています。 石垣島からやって来たSYさんたちは、沖縄での戦没者遺骨収集活動などで以前から交流のある福岡の友人らと共に、24日夜、西原村に到着しました。そして、避難所の責任者と打ち合わせを行った上で、休む間もなく翌日の設営を開始。手際よくテントやテーブルなどの配置を済ませた後、車の中で仮眠をとり、翌朝の炊き出しに備えました。 SYさんたちが提供したのは、八重山そばと天ぷら。また、話を聞きつけた恩納村商工会女性部の方たちが、1000食分のだしと、サーターアンダギー500

音楽で震災からの復興を! - みんなで歌う第九の会

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日本で第九が初演されてちょうど100年目に当たる2018年、福島県郡山市の「みんなで歌う第九の会」を訪ねました。初演というのは、徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所でのことで、第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵による演奏でした。板東俘虜収容所は、規則の範囲で捕虜に自由を与え、地元民との交流も許していました。これには、所長を務めていた松江豊寿さんの考えが、大きく反映されていたようで、松江所長は父親が会津藩士だったため、敗者の屈辱を痛いほど理解しており、収容所でも人道的な管理を行っていたと伝えられています。 この松江さんが、福島出身ということもあり、その年は県内各地で第九の演奏会が続いていました。郡山の「みんなで歌う第九の会」でも、このエピソードに思いを馳せ、もう一度初心に返って、第九の持つ精神性をかみしめたいと、演奏会に向けて練習に取り組んでいるところでした。 東日本大震災で、福島県は沿岸部の津波被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染が広がったことで、山間部の浜通り北部や、郡山市を含む中通りも影響を受けました。震災から時が経っても沿岸部や浜通り北部の方たちは避難生活を余儀なくされ、しかも放射能汚染の風評被害もあり、福島県全体が沈滞ムードに包まれていました。そこで、復興の意欲を音楽で示そうと、「みんなで歌う第九の会」を設立することになったそうです。 ベートーヴェンの交響曲第9番は、日本では親しみを込めて「第九」と呼ばれることが多く、特に合唱を伴う第4楽章は冬の風物詩と言えるほど、年末になると日本各地で演奏されています。この第4楽章は「歓喜の歌」という名で親しまれていますが、歌詞にはドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」が抜粋され、冒頭部分はベートーヴェン自身が作詞したものです。歌詞には友愛や喜びといったテーマが込められており、欧州評議会が、ヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」としている他、統一性を象徴するものとしてEUの歌にも採択されています。 「みんなで歌う第九の会」代表の作田秀二さんによると、第九の会の設立は、震災後、家族や友人たちとの絆が強く求められるようになる中、第九のテーマである友愛こそ、この状況にふさわしいと考えたからだといいます。 作田さんは高校時代に合唱に出会い、大学時代も合唱部に所属。社会人になってからも、月1回のボイストレーニン

国見ケ丘から雲海に覆われた天孫降臨の地を望む

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高千穂町は九州山地のほぼ中央、宮崎県の最北端にあり、熊本県、大分県と接しています。国の名勝、天然記念物に指定されている高千穂峡や、国見ケ丘などの景勝地を持ち、天の岩戸開きや天孫降臨を始めとする神話の町として、1年を通じて多くの観光客をひきつけています。 国見ケ丘は、神武天皇の孫に当たる建盤龍命(タテイワタツノミコト)が、 九州統治のため阿蘇に向かう途中、この丘に立ち寄って国見をされたという伝説の丘です。近くには、建磐龍命を祭神とする中畑神社があります。樹齢約300年という杉をご神木とした神社の社殿は、建磐龍命が建てたとされる行宮の跡地に建てられています。建磐龍命は、阿蘇を開拓した神様ともされ、熊本県阿蘇市には、建磐龍命を主祭神とする阿蘇神社があり、中畑神社は、その外宮となっています。 国見ケ丘は、標高513mの小さな山ですが、頂上付近からは、眼下に高千穂の町並みや棚田など、五ケ瀬川に沿って広がる高千穂盆地の美しい風景を見下ろせます。更には東に高千穂の山々、西に阿蘇外輪山や阿蘇五岳、北に標高1757mの祖母山をはじめとする連峰、南に霊峰「二上山」に続く椎葉の山々を一望出来る絶景スポットです。 ちなみに、ここから眺める阿蘇五岳は、お釈迦様が横たわった姿に似ていることから、別名「阿蘇の涅槃像」と呼ばれています。2011年には世界的旅行ガイドブック『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で、一つ星を獲得しました。 国見ケ丘はまた、雲海の名所としても知られます。秋から初冬(9月中旬から11月下旬)の快晴無風の冷え込んだ早朝、霧が高千穂盆地や、とりまく山々を覆い隠し、墨絵のような幻想的な世界を演出します。天孫降臨の地だけに、朝日が差し込むと同時に雲海が広がり、さまざまな表情を見せてくれる光景は、まるで神話の世界のようです。 そのため、シーズン中は多くの人が、早朝にもかかわらず、雲海を見るために国見ケ岳に上がってきます。実際のところ雲海は天候次第ですが、ちょうどこの頃は、国の重要無形民俗文化財になっている夜神楽が奉納される時期でもあり、夜神楽見学に雲海を組み合わせてもいいかもしれません。 また、国見ヶ丘は、初日の出スポットとしても人気で、毎年、初日の出参りを行う人で賑わいます。元日に国見ケ丘でご来光を仰いだ後、初詣は天岩戸神社にというのは、神話の地ならではの正月行事ですね。 ちな

日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地

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2011年3月11日、NPO体験村・たのはたネットワークの副理事長・佐藤辰男さんは、「海のアルプス」と呼ばれる北山崎海岸の南端にある北山浜にいました。春の訪れと共に始まる観光シーズンを前に、町外からの観光客を迎える準備のため、高校生と一緒に海岸を清掃していたのです。 地震の瞬間、地面が大きく揺れ、直後にズドーンという轟音と共に、背後に切り立つ断崖の一部が崩れました。岩の直撃は免れましたが、生徒たちは悲鳴を上げてうずくまり、身動き出来ない様子でした。しかし、のんびりしてはいられません。佐藤さんは、教師らと一緒に生徒たちを励まし、急峻な崖の上へと誘導しました。田野畑村に津波の第一波が到達したのは、地震発生から約40分後。彼らは間一髪で難を逃れることが出来ました。 田野畑村は岩手県の沿岸北部、三陸復興国立公園のハイライトとも言える景勝地・北山崎を抱える人口約4000人の村です。中心部は海抜200~300mの海岸段丘にあり、東日本大震災の津波被害からは免れました。しかし沿岸部の羅賀、島越は住宅の7割以上が全半壊となるなど、大きな被害が出ました。また、漁船の9割弱が流失し、漁業関係も大打撃を受けました。 佐藤さんが所属する奉仕団体では、震災後、国内外からの援助を受けながら、被災者支援活動を開始。村に給水車を寄贈したり、避難所にファンヒーターや電気毛布を持って行ったりしました。更に被災者が仮設住宅に移ってからは、灯油用ポリタンクの収納ケースを各戸に贈った他、仮設住宅の自治会に除雪機を提供するなど、被災者のニーズを把握しながら活動を続けてきました。また、ある程度月日が経ってからは、心のケアが重要だと、花や野菜の苗を植えたプランターを仮設住宅に配るなど、ややもすると閉じこもりがちになるお年寄りが、外に出て交流出来るような支援を心掛けていると話していました。 北山崎は、日本交通公社の全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、最高ランクの特A級に格付けされています。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたって続き、名実共に日本一の海岸美を持つ景勝地です。そのため、放っておいても年間約50万人もの観光客が北山崎を訪れます。 しかし、それらは北山崎を訪問するだけで、宿泊は宮古市など、近隣の市町村に流れていま

震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

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宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。 そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。 その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。  ◆ その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。 家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。 ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。 しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました