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民謡のある風景 - 家康につながる誇り、今に伝えて(愛知県 岡崎五万石)

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岡崎は、徳川幕藩体制を開いた徳川家康生誕の地です。5万石の城跡に立つ今の天守閣は、1958(昭和34)年に再建されたものですが、その中は、史実を誇るかのように、家康に関わる古い資料の展示場となっています。 なにしろ、三河武士発祥の地ですから、岡崎は代々徳川譜代の家臣が城主となり、1769(明和6)六から本多氏が入って、石高も5万石に定まりました。昔は、その5万石の城の下まで、藩御用達の船が川を上ってきました。船は、知多湾から矢作川に入り、岡崎の手前で支流の乙川を遡り、城から歩いて3、4分の船着き場へ向かいました。 『岡崎五万石』は、その様子をこう唄います。  ♪五万石でも 岡崎さまは   ア ヨイコノサンセー   お城下まで 船が着く   ションガイナ ア ヤレコノ   船が着く お城下まで 船が着く   ションガイナ ア ヨーイヨーイ   ヨイコノサンセー マダマダハヤソー 「五万石でも」という唄い出しに、家康につながるプライドを感じさせる歌詞ですが、今、この唄は、お座敷唄としてよく知られ、芸妓衆の三味がよく似合います。 唄の曲調は、「ヨイコノサンセー」という囃子言葉からもうかがわれるように、木遣唄系で、江戸末期から唄われ出したと言われます。木遣唄が作業唄だったことから考えて、川を上下する船乗りが唄い出したのではないか、という説もあります。いずれにしても、地元では一時廃れました。この唄が復活したのは、大正の初め頃で、その後、昭和に入って、中山晋平・野口雨情コンビでレコード化され、今では地元の保存会が正調を伝えています。 春、岡崎城は桜の花に埋まり、「五万石」の誇りが蘇ります。唄にも季節があるのかもしれません。

日本六古窯の一つ常滑焼の歴史

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私が編集に携わっていた雑誌は、今年で創刊64年になりますが、一貫して読者からの投稿欄が設けられています。編集部にはバックナンバーが全て保管されており、創刊2年目に入った1959年の雑誌(第2巻第1号)を見ていた時、「常滑焼の歴史」という原稿が目に止まりました。投稿者の柴山三郎さんは、1898(明治31)年に常滑市で生まれ、1923(大正12)年に秘色焼を興し、主に花器や水盤を作陶していた方でした。その投稿は、次のように始まっていました。 「全国有数の『すえ物作りの街・常滑』の名は、あまりにも世間に知られておりません。皆さんの身近に使用されていながら、その陶器が何焼であるかを知らずに使われている不思議な存在が、常滑焼であります」 私も、常滑焼と聞いて、イメージするのは土管坂ぐらいで、柴山さんの原稿を読んで初めて、朱色の急須や植木鉢も常滑焼だと知りました。常滑焼が、越前・瀬戸・信楽・丹波・備前と共に、日本の六古窯の一つとされていることは知っていましたが、確かに身近で使っていながら、それが常滑焼とは意識していませんでした。ちなみに、INAX(伊奈製陶/現LIXIL)も常滑だそうで、柴山さんは、常滑焼の知名度の低さは伊奈製陶以外、 ほとんど宣伝をしていないという、昔からの宣伝嫌いの風習からで、「デパートの宣伝係でさえ知らない人が多い実情であります」と書かれていました。 せっかくなので、柴山さんの原稿を以下に抜粋してみます。 「常滑市は名古屋市の南方、伊勢湾の海中に細長く延びた知多半烏の西海岸にある人口5万(※1)の街であります。名古屋駅から名鉄電車で急行1時問(※2)で達する陶器の街で、煙突林立する大工業地帯の景観を見ることが出来ます。有田焼も京焼も生まれていなかった鎌倉時代に、幕府からの注文で大きな壺や、 ひらかと称する皿、茶碗を盛んに焼いていたのであります。3000年以前の弥生式の土器も付近から発掘されていますので、 常滑焼の起源をどこまでさかのぼってよいのか分かりません。昔は船を利用した海上輪送が唯一つの運送機関でありましたので、 海岸地帯であって粘土と燃料の豊富にあった常滑地方一帯が、自然と陶器の生産地として発展したものと考えます。常滑古窯調査会の手で、半島の丘陵地帯の尾根10里ほどの間に散在する古い窯跡1000余カ所の存在を確認することを得ましたが、まだ山中に埋も

蒲郡市と西尾市から三河湾を望む

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前に何度か記事の中で触れていますが、担当していた雑誌の写真コンテストの常連さんに、撮影スポットを案内してもらう企画をやったことがあります。その際、愛知県の方に案内されたのが、三河湾でした。案内人は尾張(名古屋)と三河(岡崎)のほぼ中央にある東浦に住んでいました。日の出や夕陽の瞬間にあらわれる、色彩の変化と雲の表情に魅せられ、三河湾一帯を撮影地としていましたが、その時は蒲郡市と、幡豆町・吉良町(いずれも現在は西尾市)を中心に、内陸側を案内してくれました。 名古屋からは、名鉄三河線または名鉄西尾線の吉良吉田駅で下車。東京方面からは、新幹線の豊橋で東海道線に乗り換え、蒲郡へ。車では、東名高速の音羽蒲郡インターから音羽蒲郡有料道路を使い、やはり蒲郡へ出ます。東海道線の豊橋 - 蒲郡が10分、車ではインターから蒲郡までが約20分なので、この記事ではまず、蒲郡から紹介します。 蒲郡は県下有数の観光都市で、市内には三谷温泉、形原温泉、蒲郡温泉、西浦温泉と、四つの温泉場があります。観光都市・蒲郡のシンボルともいえる小島・竹島は、蒲郡温泉の近くにあり、陸とは387mの橋で結ばれています。島全体が暖地性植物でおおわれ、国の天然記念物に指定されています。周辺にも、三重県・鳥羽や伊良湖、三河大島への乗船センター、竹島水族館などがあり、多くの観光客が訪れます。 蒲郡から幡豆までは、名鉄でほぼ15分、車では形原温泉から三ケ根山スカイラインを通って約35分。三ケ根山スカイラインは別名「あじさいライン」と呼ばれ、約15kmの道筋に植えられた7万株のアジサイが、6月初旬から7月中旬にかけて咲き乱れ、ドライバーの目を楽しませてくれます。山頂には、殉国7士の墓やフィリピン戦没者の霊を慰める比島観音などがあり、遠くに渥美半島、知多半島、眼下に三河湾が望めます。 幡豆にはまた「うさぎ島(前島)」と「猿が島(沖島)」という名の無人島がありました。うさぎ島には400羽のウサギが、猿が島には100匹のサルが放し飼いにされ、観光客が間近に動物と接することが出来る「海上動物園」として親しまれていました。遊覧船で20分ほどで渡れたのですが、観光客が減ったことで、遊覧船の運航が停止、島の名も正式名称に戻りました。ちなみに「うさぎ島」のウサギは近隣の小学校や動物園などへ譲渡され、「猿が島」のサルは犬山市のモンキーパークに引

銘菓郷愁 - 純和三盆の極み「二人静」 愛知県名古屋

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「二人静」は名古屋の老舗菓子舗両口屋是清(1634年創業)の創製品で、菓子名としては「ニニンシズカ」と読みます。これは、春の野山に咲く草花「フタリシズカ」の名古屋方言からとったものだそうです。 草花の「フタリシズカ」は、センリョウ科の多年草で、葉の頂きに穂の形をした白い花を1本から5本くらいつけますが、2本並び咲くものが多いようです。18世紀初めの江戸の百科辞典『和漢三才図会』では、この花の名は、能の『二人静』に由来していると言っています。 「静」というのは、源義経の恋人として知られた白拍子「静」のことで、能の『二人静』では、その「静」が二人現れます。物語は若菜を摘む女に「静」と名乗る女が供養を頼むところから始まり、女とその「静」が、影と形になって同じ舞を舞います。「静」を二人にしたことで、義経との悲恋が際立ち、能の原点を示す夢幻の趣の強い曲だとも言われています。 このような物語を背景にした草花を見て、和菓子の着想を得たのが、両口屋是清11代当主でした。能にも詳しかった彼は、庭に生えていた「フタリシズカ」に目をとめ、新しい和菓子の想を練りました。花の可憐、伝説の優美、能の気品を一つの菓子に凝縮させようというのですから、並の難しさではありません。 工夫の末に、国産砂糖の極上品である和三盆を原料とし、それを5cmほどの紅白の半球状にして、球形にまとめ、和紙にくるんだものが生まれました。和紙をほどくと、はらり、二つに分かれるという和菓子です。和三盆は、四国特産のものが使われました。1940(昭和15)年のことでした。 国産の砂糖は、鹿児島や高知で早くから生産され、江戸時代、熊本や徳島、香川でも白砂糖が作られるようになりました。特に、香川では、藩の政策として砂糖製造に力を入れ、1800年代には上等の白砂糖の製造に成功、「讃岐の白糖」は「本邦第一の白糖」と言われるほどになりました。「二人静」が、四国の砂糖にこだわったのは、老舗らしい歴史へのこだわりだったのかもしれません。 高名な俳人中村汀女は、この「二人静」を口に含み、次の一句を生みました。「忘れざり花にも二人静あり」 去りがてなさわやかな甘味が、「静」の名残りの思いを伝える銘菓です。

城のある風景 - 木曽川見下ろす白帝城

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木曽川は、長野県の鉢盛山に源を発して、美濃高原をゆったり蛇行し、飛騨川を合わせて犬山で濃尾平野に入り、伊勢湾に注ぎます。全長209km。この川を治め、水をどう利用するかは尾張地方の古くからの課題だったといいます。犬山城は、この川が大きく曲がる断崖の上にそびえ、尾張と美濃を一望のもとに捉える位置にあります。 川に臨んで天守がそびえているところから、江戸期にここを訪れた儒者・荻生徂徠は、犬山城を「白帝城」と呼びました。これは、中国・唐代の詩人李白の詩「早発白帝城」に因んだものといい、詩の中の「朝に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日に還る」に由来します。 詩の中の白帝城は、中国四川省の長江(揚子江)中流北岸に位置し、周りは峡谷で自然の要害として知られた所だといいます。『三国志』で有名な蜀漢の初代皇帝・劉備玄徳が、後事を丞相・諸葛孔明に託して亡くなった城としても知られています。 犬山城は、16世紀の半ば頃、織田信長の叔父に当たる信康が、今の場所に造ったと言われます。城の主は、その後めまぐるしく替わり、現在見るような3層5重の優美な天守閣(国宝)が出来たのは、関ケ原合戦の頃で、城下町もその頃に整備されたと言われます。 木曽川に臨み、濃尾平野を見下ろす要害の地は、徳川幕藩体制下の尾張藩にとっても重要な地でした。そのこともあってか、この城には尾張藩の筆頭家老成瀬氏が入りました。成瀬氏は、もともとは徳川家康の旗本で、この地も家康から与えられたといいますから、言ってみれば、尾張藩お目付け役のようなものでした。 そうみると、木曽川から見上げた犬山城は、まさに幕府の権威の出城のようなもので、徂徠でなくても仰ぎ見て白帝城と賛嘆したくなったことでしょう。

日本の心・茶の文化を育む三河の小京都

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西尾市というと、このコロナ禍で、市議14人がコンパニオンを入れて忘年会をしたり、副市長の指示で大手薬局チェーン創業者夫妻のワクチン接種予約を優先確保したりと、残念なニュースが続き、かなり評判を落としてしまいました。西尾には、「一色産うなぎ」「西尾の抹茶」と、特許庁認定の地域ブランドが二つあり、私も抹茶の取材をしたり、一色うなぎを取り寄せたりしたことがあったので、正直がっかりしました。 しかし、そうした残念な人たちと、うなぎや抹茶の生産者の方たちとは別物。市の評判と共に、そうしたブランドに傷がつくのは忍びないので、今回はさわりだけですが、取材をした抹茶について書いておきたいと思います。 西尾市は、地域ブランドに認定されているように、日本一の抹茶の里です。西尾で抹茶づくりが始まったのは、1872(明治5)年のこと。市の西部、稲荷山の麓にある紅樹院の住職足立順道師が、修業の帰りに京都・宇治から茶の実を持ち帰ったのが始まりといいます。その後、宅地化により宇治の茶園が減少したこともあって、昭和20年代頃から、抹茶生産の比重は宇治から西尾にシフトしてきました。 植物学的には、抹茶の木と煎茶の木に違いはありません。むしろ茶畑の違いが大きな要素となっています。特に茶摘みの時期になると、それが顕著になります。 抹茶用の畑は、俗に「覆下茶園」と言われ、全面に覆いをかけます。新芽が出る頃に日差しをさえぎるのは、茶の木の成育にとって障害になるように思えます。しかし、実際はそうすることで、よりおいしい茶が出来るから不思議。 抹茶の場合、茶摘みの20日ほど前から覆いをかけ始めます。最初の10日間は日照の2〜3割をカット。後の10日間は7〜8割をカットし、茶園の中はほとんど薄暗闇となります。 これによって、根から吸収された養分はぶどう糖のままとどまります。その時に茶摘みをすることで、茶葉の有効成分、例えば茶のうま味の中心となる「タンニン」などが最高値となり、おいしいお茶が生まれます。 抹茶の葉は年に1回、摘まれます。そのため、茶樹の背も高くなっています。西尾では毎年、茶摘みの時期に、中学生による勤労体験学習が組まれています。 薄暗く、背の高い木の中で、まさに声はすれども姿は見えぬ状態。はたから見ると、ユーモラスな光景なのですが、全て手摘みで行う抹茶だけに、生産農家にとっては、まことに貴重な労働力

東海随一の紅葉の名所・香嵐渓と足助の町並み

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かつて編集に携わっていた雑誌で、写真家の前田真三さんに1年間表紙をお願いしたことがあります。その5月号に、前田さんが選んだのは、霧がたちこめた奥三河の杉林でした。 この時は、表紙にまつわるエッセーも書いて頂いたのですが、その中で前田さんは、かつては奥三河というと、「悪路ばかりが印象に残っていて、平凡な山村風景に心を引かれるということはなかった」と記しています。しかし、ある機会を得てから、数多くこの地を訪れるようになったそうです。そして、「今まで、まったく見栄えのしないと思っていた奥三河の風景が、非常に新鮮なものに見えるようになってきた。それは、そこに日本の山村風景の原点のようなものが潜んでいることを、感じとったからである」と書いています。 愛知県は大きく、尾張地方と三河地方に分かれます。そのうち三河の北東部にあたる地域が「奥三河」になります。現在の行政区分で言うと、新城市(南設楽郡)と北設楽郡、そして豊田市北東部(旧東加茂郡・足助地区や旭地区など)が該当します。 で、これまでこのブログ( 私のルーツ旅その二 - 新城編 など)で何度か触れていますが、我が家の家譜でたどれる確実な祖先というのは、私から数えて14代前の鈴木重勝という人で、今の新城市を本拠としていました。三河には、穂積姓鈴木氏の本宗家・藤白鈴木氏の流れを汲む三河鈴木氏という系統がありますが、我が家の祖先はその流れの一つのようです。 その三河鈴木氏の祖は鈴木重善で、甥である藤白鈴木氏11代目当主重家とその弟重清が、源頼朝と対立して奥州へ逃れる義経に従って行動していため、その後を追う途中、三河国矢並(現在の愛知県豊田市矢並町)に来たところで足を痛め、逗留して回復を待つ間に、義経を始め重家・重清も討死にしてしまい、奥州行きを諦め、そのままこの地に永住することになったと伝えられます。そして、重善の後裔は、矢並を拠点に勢力を広げ、重善から数えて8代目の重就の子どもが足助(兄・忠親)と酒呑(弟・重時)に分かれ、更に酒呑系から寺部と則定へと分かれていったようです。これらの土地は全て、現在の豊田市になります。 我が家の祖先である鈴木重勝は、酒呑系だったようですが、重時以降、どのようにして新城方面へ勢力を広げていったのかは分かりません。一方、兄の忠親を祖とする足助鈴木氏は、忠親の後、重政、重直、信重、康重と5代が続き、家康

ルーツの一つ、新城市山吉田の歴史探訪

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新城市にある四谷の千枚田 以前のブログ(「 私のルーツ旅その二 - 新城編 」)で、我が家に伝わる家譜の最初に記されているご先祖・鈴木重勝は、今の愛知県三河地方の出であることを書きました。雑誌の取材で愛知県新城市に行った際、重勝と重勝の妻、孫の重好と重好妻の墓がある満光寺を訪ねた時のことを記したものです。 満光寺は、860(貞観2)年に慈覚大師・円仁によって創建され、薬師如来をご本尊とする天台宗の寺だったようです。それから700年近い歳月が流れ、戦国時代に入ると、戦乱によって寺は荒廃。それを憂えた重勝が、寺の再建を図ったわけです。 三河と遠江の国境辺りを拠点としていた重勝は、1531(享禄4)年、現在の新城市上吉田に土着。翌1532(天文元)年に、白倉城を築きました。そして、下吉田村の五反田にあった満光寺を、1kmほど東の現在地に移して再建。名僧の誉高い玄賀和尚を、川路村(現新城市川路)の勝楽寺から招聘し開山しました。これによって、宗派は曹洞宗となり、本尊も十一面観音に改められたとされます。 満光寺には、こちらも先祖に縁の深い、井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の龍潭寺にある国指定の名勝庭園にもひけをとらないと言われる庭園があります。作庭者は大死禅柱和尚で、作庭時期は1707(宝永4)年頃と推測され、1973(昭和48)年に愛知県の名勝庭園として文化財指定されています。 白倉城築城と満光寺再興を果たしたご先祖は、1568(永禄11)年、重勝の子・重時が、満光寺の裏山に当たる子路山に、もう一つ城を築き始めます。この頃、ご先祖様が拠点としていた辺りは、今川氏と武田氏と徳川氏の勢力が入り乱れていました。家譜には、「重勝 属今川義元」「重時 奉仕神君」と書かれており、大きな勢力に翻弄されていたことがうかがえます。 同年の家康による遠江進攻の際には、その先導役として重勝と重時は父子で協力。で、重時は、菅沼忠久、近藤康用と共に「井伊谷三人衆」と呼ばれるようになり、家康を頼った井伊家のサポートをすることになります。そして家康から、三河遠江国境の備えのため、柿本城を築城し、井伊谷と柿本城下の山吉田を共同で守るよう命を受けたのです。 が、重時は、翌1569年の遠江堀江城の戦いで鉄砲に撃たれ、討死してしまいました。享年42。その墓は、龍潭寺にあります。 重時の跡を継いだ重好は、この

私のルーツ旅その二 - 新城編

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四谷の千枚田 昨日のブログ( 私のルーツ旅その一 )に書きましたが、我が家の遠い祖先は、江戸時代に、2代将軍徳川秀忠の命により水戸家付家老として、水戸へ赴任しました。 水戸にやって来たのは、1618(元和4)年のことで、家老に任命されたのは鈴木重好でした。重好は、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも登場した井伊谷三人衆の一人、鈴木重時の子どもで、重時が1569(永禄12)年に戦死後、11歳で家督を継ぎました。その後、重好は井伊直政(重好とは従兄弟)に付けられ、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは、一番槍の手柄を挙げたそうです。 ご先祖が築いた柿本城の跡 1590(天正18)年、徳川家康の関東入りに伴い徳川四天王の筆頭・井伊直政は上野国(現在の群馬県、栃木県)の箕輪城主となり、重好は祖父の鈴木重勝(井伊直政の曽祖父)と子の重辰と共に箕輪城に入りました。そして、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは、重好は先方として井伊直政の戦功を助けました。 直政の死後、重好は、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。1603(慶長8)年、征夷大将軍となった徳川家康の命を受け、井伊直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。ただ、井伊直政の没後、井伊家は統制がとれなくなり、家中騒動が勃発。家康のはからいで重好は隠居となり、家督は子の重辰が継ぎました。 その後1618年になって、上野国の安中で隠居生活を送っていた重好は、秀忠から水戸行きを命じらることになったわけです。この時、重好は、孫の長松丸(鈴木重政)を伴って出仕しました。子の重辰は、彦根藩で家老を務めていましたが、1634(寛永11)年に江戸で急死。重好は、その前年の1633年に今度は本当に隠居し、家督は、孫の重政が養子となり継承。我が家は、その重政の孫の代に本家から枝分かれした家系になります。 昨日のブログは、水戸以降の話でしたが、今日は家譜の最初に記されている鈴木重勝までさかのぼります。 鈴木重勝が再興した満光寺 鈴木重勝は、1503(文亀3)年、三河国足助庄酒呑(しゃちのみ)で生まれました。1524(大永4)年に遠州掛川に移り、その後遠州二俣(現在の静岡