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民謡のある風景 - 祝祭の町に生き続ける歴史の唄(三重県 伊勢音頭)

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三重は、何と言っても伊勢神宮のある土地。神宮を外して三重は語れません。初参り客は百万を超し、20年ごとの遷宮もまた有名です。2033年には、第63回目の遷宮が行われます。 伊勢は、神宮の鳥居前に開けた町で、江戸の頃は、遷宮の年ごとに爆発的に人の波が押し寄せました。遷宮の年の伊勢参りは「おかげ参り」と呼ばれ、1830(文政13)年には、何と500万人もの人が、伊勢へやって来たといいます。当時の人口は、全国で3000万人ほどだったといいますから、「おかげ参り」の熱狂ぶりも分かろうというものです。 人々は、参宮の帰り、伊勢・古市の妓楼で精進落としをし、そこで『伊勢音頭』を覚えて各地に散りました。  ♪伊勢は 津でもつ 津は 伊勢でもつ   尾張名古屋はヤンレ城でもつ   ヤッコラヤートコセ ヨイヤナ   アリャリャ コレワイナ コノヨイトコセー 伊勢参りツアーを全国に広めたのは、人々にお札を届け、地元で宿坊を営む御師たちでした。1796(寛政8)年8月、その御師を主人公にした芝居『伊勢音頭恋寝刃』が、大阪で幕を開けました。伊勢・山田の御師・孫福斎が、料理茶屋で引き起こした殺傷事件を題材にしたもので、作者の近松徳三は、3日で書き上げたといいます。見せ場は、『伊勢音頭』の踊りを背景にした、10人斬り殺しの場。これが、喝采に次ぐ喝采でした。『伊勢音頭』は、更に有名になりました。 この唄は伊勢参りの道中唄、遷宮の折の木遣などが混じり合って出来たと言われ、1958(昭和33)年には地元で更に整備され、『正調伊勢音頭』としてまとめられました。祝祭の町伊勢にとって、この唄はまさに町の歴史のシンボルのようなものなのかもしれません。これからも、遷宮の年ごとに大きな脚光を浴びていくでしょう。

伊賀肉専門の老舗精肉店「金谷」の寿き焼

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伊賀肉を専門に扱う老舗の精肉店「元祖伊賀肉 金谷」は、1905(明治38)年から、東京へ伊賀牛を出荷していたそうです。しかし、昭和になると、衛生面から列車で生きた牛を運ぶことが禁じられました。そんなこともあって、伊賀肉は現在、伊賀市外にはほとんど出回っておらず、幻のという形容詞がついています。 一方、「金谷」では、1928(昭和3)年に、伊賀街道沿いに店を構え、1階を精肉店、2階を料亭にし、伊賀肉を提供するようになりました。2階のイチオシ・メニューは「寿き焼」。美食家としても知られる池波正太郎が、エッセー集『食卓の情景』にも取り上げた絶品です。 金谷のすき焼きは伝統的な関西風で、割り下は使いません。ベテランの仲居さんが、鮮やかな手さばきで焼いてくれます。見ていると、使い込まれた南部鉄の鍋に牛脂をなじませ、まず肉を1枚だけ焼き始めます。そして砂糖と濃口醤油で味を整え、「どうぞ」と勧めてくれます。肉本来のおいしさを味わってもらうためだそうです。 120年近くにわたって伊賀肉を専門に扱ってきた店だけに、肉そのものがいいのでしょう。最近は「霜降り信仰」と言われるほど、サシ偏重の傾向が強くなっていますが、金谷の伊賀肉はサシが適度に入り、うまみもしっかりと残っています。これなら年配の方でも、たくさん食べられそうです。野菜も地の物を使っており、全ておいしく頂けました。  ◆ ちなみに、東京で伊賀肉のすき焼きが食べられないか検索したところ、1軒だけ見つけることが出来ました。浅草にある「おりべ」です。 同店のサイトによると、「当店では、その殆どが伊賀(三重県)で食される為に東京ではあまり出回っていない、希少な伊賀牛を産地から直接仕入れて使用しております。伊勢志摩サミットでも振舞われたこの伊賀牛は『肉の横綱』とも呼ばれ、大変柔らかく、またサシがありながらしつこすぎない味わいが特徴です」とのこと。 ただ、完全個室、完全予約制で、昼夜とも1日2組のみらしく、気軽に立ち寄れるわけではありませんでした。で、リタイアと同時に始まったコロナ禍もあり、いまだ食べに行けていません。 ■ 「元祖伊賀肉 金谷」 :伊賀鉄道伊賀線広小路駅から徒歩2分 ■ 「おりべ」 :つくばエキスプレス浅草駅から徒歩5分/東武線浅草駅から徒歩10分/東京メトロ銀座線浅草駅・都営浅草線浅草駅から徒歩15分/東京メトロ日比谷線

行基上人の開基、一休禅師の開眼によるレジェンド地蔵

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以前の記事( キャンドルの町として、世界に知られる鈴鹿路の宿場町 )で、三重県亀山市にある関宿には、日本最古の地蔵菩薩を本尊とする地蔵院があると書きました。741(天平13)年に、日本最初の大僧正である東大寺の僧・行基が、諸国に蔓延した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられます。 その後、この地蔵菩薩は、近在の人々や東海道の旅人の信仰も集め、周辺には門前町が形成され、集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。地元には、「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」という俗謡もあるそうです。地蔵院を開いたのが、東大寺大仏造立という国家プロジェクトのリーダーを務めた行基とあらば、そんな俗謡が伝わるのもむべなるかなという感じでしょうか。 それから700年ほど時が経って、地蔵菩薩の修繕が行われ、改めて開眼供養をしたのが、各地を雲遊していた一休禅師だったそうです。1452(享徳元)年のことと伝えられています。日本最古はもとより、行基上人の開基で、一休禅師の開眼となれば、思い切りレジェンド地蔵です。 地蔵院の開基から、1000年ほど時代が下った1797(寛政9)年発行の『東海道名所図会』には、次のように書かれています。 修繕をした地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。 一休さんと言えば、とんち話で有名です。しかし、それは江戸時代に作られた話です。一休禅師が再興して晩年を過ごした酬恩庵一休寺の田邊宗一住職によると、「実際には破天荒な逸話が多い人です。応仁の乱で世の中が乱れ、まともなことを言っても通じない時代に一風変わった言動を取ったことが、後世の物語につながったのでしょう」とのことで、この関地蔵の開眼もホントの話かもしれません。 三重県のウェブサイト

伊賀忍者の古里は俳聖・芭蕉生誕の地

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伊賀市は、三重県北西部、滋賀、京都、奈良と境を接し、大阪と名古屋のほぼ中間にあります。小京都の一つに数えられ、石垣の高さ日本一といわれる伊賀上野城をシンボルとした城下町です。市内には、瓦屋根の低い家並や狭い街路、また寺町や紺屋町、忍町といった町名が残り、往時の面影を伝えています。 以前の記事( 自然豊かな伊賀の隠れ里 - 名張 )にも書いたんですが、「伊賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者でしょう。伊賀市もそれは先刻承知の事案で、2017年2月22日(忍者の日)には、「忍者市」宣言をしています。その宣言文は次の通りです。 「私たち伊賀市民は、伊賀市が忍者発祥の地であることを認識し、忍者の歴史文化や精神を継承するとともに、忍者を活かした観光誘客やまちづくりを行うことを目指して、ここに『忍者市』を宣言します」 そんな忍者市だけに、市内には忍者をモチーフにしたあれやこれやがあふれています。JR関西本線の伊賀上野駅と近鉄大阪線の伊賀神戸駅を結ぶ伊賀鉄道伊賀線は、3編成の忍者列車が運行。中心の上野市駅は、愛称・忍者市駅で、駅舎には「上野市駅」の表示よりデカデカと「忍者市駅」の文字が掲げられています。 また市内には、忍者の衣装をレンタル出来る「忍者変身処」が、上野公園横のだんじり会館を始め数カ所あり、忍者装束で市内を歩く観光客も少なくありません。この他、忍者ちらし寿司(末廣寿司)や忍者うどん(ニカク食堂)、忍者パフェ(むらい萬香園)、忍ジャーエール(大田酒造)など、忍者にちなんだグルメもあり、中には「百地」「半蔵」「影丸」「くノ一」などのコース料理がメインの忍法帖料理(藤一水)もあって、市を上げて忍者推しの伊賀市です。 このように、伊賀で真っ先に思い浮かぶのは忍者ですが、伊賀市となると、忍者は決してイコールではありません。まず、伊賀市は、俳聖松尾芭蕉の生誕地です。また、伊賀上野藩の城下町であり、京都・奈良や伊勢を結ぶ奈良街道・伊賀街道・初瀬街道が通る交通の要衝であり、特産の伊賀組紐や、地ビール元年と呼ばれる1995年誕生のモクモクビールなどもある、話題目白押しの町なのです。 「俳聖」として世界的に知られ、日本史上最高の俳諧師と言われる松尾芭蕉は1644年、現在の三重県伊賀市で生まれました。出生日は不明なため、元号での生年は途中で改元があった寛永21年か正保元年か分か

キャンドルの町として、世界に知られる鈴鹿路の宿場町

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亀山市は三重県の北西部、鈴鹿山脈の南東麓にあり、起伏の多い地形から「丘のまち」とも呼ばれます。かつては6万石の城下町として、また東海道の宿場町として栄え、鈴鹿路の要でした。明治に入ってからは、関西本線と参宮線(現紀勢本線)の分岐点となり、諸設備が設けられて発展しました。更に国道1号や東名阪高速自動動車道路が通じ、JR東海とJR西日本の境界線となるなど、今も中京・阪神二大経済圏の接点という重要な位置を占めています。 江戸時代の伊勢亀山藩は、藩主の交替が激しく、江戸中期も後半の1744(延享元)年に、石川氏が6万石で入ってから、ようやく安定しました。亀山市内の宿場は、亀山宿、関宿、坂下宿の3宿があり、その一つ亀山宿は、伊勢亀山城の城下町でもありました。また、関宿、坂下宿は旧関町(2005年に亀山市と合併)にあった宿駅で、関はその名の通り、古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれていました。 伊勢鈴鹿関は、672(天武天皇元)年に起きた古代日本最大の内乱・壬申の乱を描いた、『日本書紀』巻第28「壬申紀」の記載の中に、その名が出ています。その後、741(天平13)年に、日本最初の大僧正で東大寺大仏造立という国家プロジェクトのリーダーを務めた行基上人が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられます。 この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、近在の人々や東海道の旅人の信仰も集め、周辺には門前町が形成され、この集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。そして、関地蔵院を中心に、次第に宿場町が整備されていきました。この関宿は現在、東海道で唯一、往時の町並みを色濃く残しているスポットして知られ、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されています。 その関宿を歩いていて見つけたのが、みそ焼きうどんです。「2011中日本・東海B-1グランプリ」を獲得したB級グルメらしいのですが、個人的には、ご飯と味噌汁がついていたのが、謎でした。まあ、それが、B級たるゆえんなのかもしれませんが、高山でB級グルメをご馳走してくれ( https://petitavi.blogspot.com/2021/01/19.html )、この地方に詳しいOTさんは、「みそ焼きうどんは、三重県ではメイン・ディッシュだと思われます」と解説してくれました。 ところで亀山は、伊勢亀山藩石

自然豊かな伊賀の隠れ里 - 名張

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荷担滝 「伊賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者です。私の場合、子どもの頃から、伊賀イコール忍者と連想していたように思います。『少年サンデー』に連載されていた「伊賀の影丸」辺りが、そういうすり込みの元になったのかもしれません。 ただ、取材を計画した名張が、忍者の里だとは思っていませんでした。伊賀忍者の名前があまりにも強く、忍者と言えば、お隣の伊賀しか頭になかったのです。 そのため、取材に同行して頂いた方たちから、百地三太夫の屋敷があるけど寄りますか、と聞かれても、とっさに返答出来ませんでした。ところがどっこい、伊賀忍者の祖とも言われる百地三太夫(百地丹波)は名張の人で、現在も子孫の方が住んでいるというのです。 百地三太夫と言えば、伊賀忍出身のアウトロー石川五右衛門や、講談や立川文庫の世界では真田十勇士の一人霧隠才蔵の師ということになっています。ちなみに、水戸黄門に出ていた風車の弥七も伊賀・名張の忍者で、元義賊という設定だったようです。 現在、プロゲーマーとして活動する百地祐輔さんも、百地一族の末裔とされています。実家のある愛媛県西予市の祖母の墓には、三太夫と同じ「七曜星に二枚矢羽根」の紋が刻まれているそうです。 百地三太夫屋敷 そんな忍者たちが修行をしたと言われているのが、 赤目四十八滝 です。四十八というのは、数が多いという意味らしく、相撲の四十八手と同じことのようです。特に有名なのが「赤目五瀑」と呼ばれる五つの滝で、中でも「荷担滝」が、赤目四十八滝の最高峰と呼ばれています。 ところで名張は『日本書紀』には「夜半に及びて隠の郡に到り……」と書かれ、「隠」の文字が使われています。古語の「隠(なばり)」に由来するもので、名張が山間の底に隠れて目立たないことから、そう呼ばれたのではないか、と言われています。 日の当たらない谷間の渓谷は、そんな隠れ里の雰囲気を保ち、今にも岩陰や木立の陰から、カムイや影丸が、飛び出してきそうな錯覚を覚えます(ハットリくんでは、いけません)。 伊賀忍者の携帯食だった「かたやき」 実は名張へ取材に行った当時、大学時代の友人が地銀の名張支店におり、夜、一緒に飲みました。ある時、その彼から携帯にメールが入りました。  友:「お元気で