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民謡のある風景 - 維新の風雪、今に伝えた応援歌(山口県 男なら/オーシャリ節)

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山口県萩市は、1600(慶長5)年から260年間、長州藩36万石の城下町として栄えました。この市の北部に、菊ケ浜と呼ばれる海岸があります。指月山と鶴江台の間に広がる弓なりの形の砂浜で、今では北長門海岸国定公園の一部になっています。1863(文久3)年、この浜で上を下への大騒動が起こりました。 幕末期、日本中を尊皇攘夷の掛け声が飛び交いましたが、この年6月25日、長州藩はスローガンを実行に移し、下関海峡通過のアメリカ船を砲撃。次いで、フランス、オランダの艦艇を攻撃しました。7月16日、アメリカ艦ワイオミング号が反撃に出て、萩砲台を砲撃。次いで2隻のフランス艦が報復を開始して、砲台を占領してしまいました。 危機を感じた長州藩は、根拠地を山口に移し、菊ケ浜に約2kmにわたって土畳を築き、米仏蘭の反撃に備えました。この時に唄われたのが、『男なら(オーシャリ節)』だといいます。きっかけがきっかけですから、歌詞もおのずから勇ましくなります。  ♪男なら お槍かついで お仲間となって   ついてゆきたや 下関   尊皇攘夷と聞くからは   女ながらも武士の妻 まさかの時にはしめだすき   神功皇后さんの三韓退治 かがみじゃないかいな   オーシャリシャリ 「オーシャリシャリ」は、「おっしゃる通りです」の意だそうで、土畳構築に従事した女性たちの心意気を唄ったのが、この唄だというのですから、詞の勇ましさも分かろうというものです。曲は、幕末流行の「甚句」ものの系譜と言われています。 それにしても、明治維新の頃の唄を、そのまま伝えているのが、いかにも維新の主役を演じた県らしいところです。

「岩国藩のお納戸」と呼ばれ繁栄した白壁の町並み

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瀬戸内海国立公園の西端にある柳井市。向かいの大島との間、柳井水道の交通の要衝として古くから開け、藩政時代、市の中心・柳井津は、「岩国藩のお納戸」と呼ばれるほどの経済的勢力を持ち、商都として賑わいました。 柳井水道は狭い海峡です。しかし、瀬戸内海には実に多くの島々が散在しているため、いきおい舟はこの水道に集中しました。この辺りはかつて、内海航路を上り下りする舟が、最も激しく往来した所です。 柳井はその海上輸送の拠点として発展しました。柳井商人はここを基地に、大坂や九州へと商圏を拡大し、町は大きく繁栄しました。明治に入り、鉄道が通っても、山陽本線の急行停車駅となり、柳井は山口県東部の中核都市として、重要な役割を果たしてきました。 その山陽本線柳井駅から北へ5分ほど歩くと、柳井川へ出ます。柳井川までの道筋は、かつては海でした。町の発展につれて町域を拡大する必要から、1662(寛文2)年に埋め立てられ、一部が川として残されました。柳井川を左手に折れて二つ目の橋・宝来橋は、その旧地と新地を結ぶため、延宝年間(1673-81)に架けられました。橋の周辺には舟着場の跡が残り、かつて荷を積んだ舟が盛んに往来していた頃をしのばせます。 宝来橋を渡って小路を真っ直ぐ進むと、左右に通じる道に出ます。この辺りから右に約200mの問は「白壁の町」と呼ばれ、道を挟んで両側に古い商家が軒を連ねています。江戸時代には産物を満載した大八車が往来し賑わいました。 江戸中期の町屋の典型として、国の重要文化財に指定されている国森家を始め、2階建の妻入りで入母屋、本瓦葺きの家が多く残っています。間口がほとんど一定しており、よく似た家ばかりが並んでいます。他所にもこうした町並みはありますが、柳井ほど徹底している所は珍しいでしょう。 ここの通りは1982(昭和57)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。その町割は、室町時代のままと言われ、町としての柳井の歴史の深さを物語っています。

維新の里・萩に春の訪れを告げるシロウオ漁

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萩を訪問したのは、高知市の隣、南国土佐の玄関口・高知空港を抱える南国市の子どもたちと一緒でした。当時、南国市の民間団体が実施していた「オレンジ・ツアー 南国少年のバス」に同行した時のことです。ツアーは毎年、春休みを利用して、南国市内の中学1、2年生を集め、3泊4日の日程で、維新発祥の地・萩と奇勝秋吉台を訪問していました。 萩では史跡巡りが行われ、班ごとにコースを決めて、自転車で回りました。私も自転車を借り、子どもたちと一緒に、あちこちを回りました。 その際、川に船を浮かべ珍しい網で漁をしているご夫婦がいたので、聞いてみると、シロウオを取っているとのこと。使っていた網は、四ツ手網と言って、萩では、毎年2月下旬から3月の下旬にかけて、この伝統的な漁法で、シロウオを取っているそうです。 十文字に組んだ竹に四隅をとめた六畳大ほどの網を川底近くに沈め、潮の流れに乗ってシロウオが川を遡上するのを待ち、群れが網の上を通過する頃合いを見計らって、一気に網を引き上げるというもの。そして、引き上げた網の上を柄の長いひしゃくでポンポンと叩いて、シロウオを集めてすくい取ります。 萩のシロウオ漁は、早春の風物詩として知られ、この時期、「シロウオの踊り食い」を目当てに多くの人々が萩を訪れるそうです。オレンジツアーは、それを狙ったわけではないんでしょうが、季節が重なるため、ツアーを引率していた大人たちは、この踊り食いを楽しみにしていたようです。 で、昼食時、大人たちは、当たり前のようにシロウオを注文。私の分も頼んでくれたまではいいのですが、「こうやって食べるんですよ」と、見本を示してくれた方の喉の奥から、軽やかなうがいのような音が聞こえてきました。たまたまその方が、喉ごしを楽しむのではなく、一度シロウオを喉にため込むタイプだったのでしょうが、その様子を見た私、げっ! こんな食べ方するんか! と、思ってしまったのでございます。そして、やや興ざめした私は、喉ごしを楽しむべきところ、シロウオをかんでから飲み込んでしまいました。 それからだいぶ年月が経って、福岡で、取材先の方から夕食に誘われ、付いていくと、川の側の店で、シロウオの踊り食いがオーダーされていました。が、初の踊り食いを楽しむカメラマンの田中さんを横目に、私はうがい音がトラウマとなってよみがえり、この時もシロウオをかんでしまいました。 そんな

独特の石積み文化を持つ島 - 周防大島

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ビー玉海岸の朝焼け 瀬戸内海に浮かぶ周防大島は、海岸近くまで山が迫り、平地があまりありません。対岸の柳井市と島を結ぶ約1kmの大島大橋を渡り、海岸沿いの国道から島の内側へ入ると、ほぼ坂道と思って間違いありません。 細い急勾配の道を登っていくと、あちこちに段々畑が見られます。ほとんどが、ミカン畑です。周防大島は、山口県のミカン生産量の80%を占めるミカンの島です。 よく見ると、それらみかん畑の一部に、大きな穴が開いています。しかも、穴は一つではなく、その上の段にもあります。それどころか、あっちにも、そのまた向こうにも、穴が見えます。 「かつては田んぼだったんですよ。この穴は、その灌漑用水路なんです」 と、案内を買って出てくださった旧久賀(くか)町の吉村基元町長が説明してくれました。 周防大島町は2004年10月に大島、久賀、橘、東和の4町が合併して誕生しました。実は久賀町は1904年1月1日に町制を施行して以来、100周年目を迎えたところでした。その町長を務めていたのが、吉村さんでした。 吉村さんによると、久賀には「水洞(すいどう)」と呼ばれる、こうした暗渠が、1200カ所もあるそうです。 「久賀はご覧の通り土地が狭いんで、少しでも多く米が獲れるよう、石を積んで棚田を組み、その中に水洞を作ったんです。小川だと、その上に米は作れませんが、棚田の下を通せば、土地がそのまま使えますからね。子ども一人分の食い扶持ぐらいは収穫出来るというわけです」 なあるほど、です。 現役で使われているみかん畑の水洞 しかし、それにしても山の傾斜を利用し、湧き水を田に引き込むだけならまだしも、棚田の下に石を積んでトンネル状の水路を作るとは。久賀の石工、恐るべし。 実は、久賀は瀬戸内海の石積み技術発祥の地とも言われています。この水洞に見られるように、非常に高度な技術を擁して、島外でも活躍し、久賀石工の名は古くから知られていました。 琵琶湖疎水の縦坑工事や、萩と小郡を結ぶ陰陽連絡道の悴ケ坂峠を貫通する隧道工事などで、福田亀吉を始めとする久賀の石組職が腕をふるったという記録も残っています。また、各地の神社の石鳥居も久賀の石工たちが関係しました。有名なところでは、厳島神社の参道入口にある大