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ブルーインパルスの創設者・源田実さんに伺った話

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私がまだ20代半ばだった41年前の今日、当時参議院議員だった源田実さんのお話を伺う機会がありました。日本の防衛に関するお話でしたが、ロシア(当時はソ連)の考え方なども出て来ました。今回のウクライナ侵略で、それを思い出したので、お話の一部を抜粋して紹介します。 源田さんは当時4期目の参議院議員を務めていましたが、お話を伺うきっかけは、源田さんが隊長を務めていた赤十字飛行隊の調布支隊長で、自らセスナを操縦して災害救援などに当たっていた山口敏彦さんからの紹介でした。ちなみに源田さんは、1904(明治37)年、広島県の生まれで、海軍兵学校、海軍大学校を卒業。1941(昭和16)年には第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の作戦計画に参加。戦後、昭和29年航空自衛隊に入り、航空総隊司令を経て、航空幕僚長を務めました。  ◆ 人類の6000年の歴史を見て、その中で侵略者が最終的に勝利をおさめた例は、ただの一度もない。例外がないんです。言葉をかえて言えば「異民族を武力で征服することは不可能である」ということです。 チンギス・ハーンがアジアからヨーロッパに至る、世界でいまだかつてない大帝国をつくり上げた。アレキサンダーは、ヨーロッパからインドまでの大帝国をつくった。今何が残っているのか。 現在、アフガニスタンがソ連に制圧されている。しかし、アフガニスタンのあの民族、必ず独立します。私ははっきりこの首を賭けて言えます。要するに、武力による異民族の制圧というのは、全くの無駄であり、罪悪であると。 過去の日本はどうでしょう。神功皇后様以来、何度韓国を制圧したかーー。今、だれが韓国を統治しているか。日本人か。日本の制圧に対する恨みは、韓国人の心の底に深く根を下ろしています。いまだに豊臣秀吉は恨まれているんです。 我々が韓国に行きますと、調子がいいです。政治家同士、高級官僚なんていうのは、みんな適当に飲んで「日韓親善」と……、「共に手を携えて、共産主義に対抗しようじゃないか」と。上の方は「そうだ、そうだ」と、こうなんです。向こうの兵隊に聞いてごらんなさい、どう言うか。 「まっぴらだ。我々だけでやる。日本とは手を携えない。我々は日本の支配下にあった40年を忘れることは出来ないんだ」 と言うんですよ。 今の韓国の兵隊は戦後派です。従って自分らの親から教えられることなんです。彼らはまたその子どもに教える

1995年3月20日 地下鉄サリン事件

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私が30代後半だった1995年の今日、東京でオウム真理教による無差別テロ、地下鉄サリン事件が起きました。世界初となる化学兵器を使ったテロで、13人の方が犠牲になり、6000人以上が負傷しました。 狙われた地下鉄は、日比谷線、丸ノ内線、千代田線の3路線で、いずれも警視庁や警察庁、検察庁などの中央官庁がある霞ケ関駅を通る路線でした。この中で、最も多くの犠牲者が出た日比谷線では、小伝馬町駅で4人、八丁堀駅で1人、築地駅で3人の方が亡くなっています。 当時、私が勤めていた編集部は築地にあり、自宅の最寄り駅からは1本で行くことが出来ました。しかし、その日は北千住の手前で電車がストップ。当初、原因は確認中との車内アナウンスが流れていましたが、やがて「築地駅で爆発事故があった模様」という情報がもたらされました。 後になって分かったのですが、乗客が車内非常通報装置を押し、サリンが撒かれた車両が停車したのが築地駅で、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームに倒れ込んだそうです。そして、それを見た運転士が、「車内から白煙が出て乗客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という話になったようです。 実際の日比谷線でのテロは、次のように実行されました。 1995(平成7)年3月20日(月曜日)、実行犯の林泰男はサリン3パックを携帯して、上野駅から日比谷線中目黒行きの3号車に乗車。秋葉原駅でサリンが入った袋に穴を開けました。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客の一人が、サリンの袋をホームに蹴り出しました。 これにより、電車は運行を継続。しかし、サリンの液体は車両の床に残ったままだったため、車内はパニックとなり、乗客は他の車両へ避難をし、非常通報ボタンを押すことになります。また、サリンの袋が蹴り出された小伝馬町駅では、ホームに広がったサリンを多くの乗客が吸引、4人の方が犠牲となりました。 当時、カメラ器材などを購入していた会社が、小伝馬町にありました。そこの店長は日比谷線の利用ではなかったため難を免れましたが、出勤はまさにテロがあった時間帯で、朝、小伝馬町駅の前を通り掛かったら、出口付近に大勢の人が倒れており、二日酔いにしてはずいぶん人が多いなあ、と思っていたとのこと。そんなのんきなことを思い浮かべるほど、無差別テロなどということが日本で起こるとは、誰もが予想もしていません

2006年3月19日 線路歩行初体験の巻

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今から16年前の今日、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の高架線路上を歩くという貴重な体験をしました。 前日の18日から、高知県春野町(現・高知市春野町)へ、高校生のライフスキル教育を取材に行っていた私。取材を終えて、羽田空港へ戻ってきたのは、そんなに遅い時間ではありませんでした。 しかし、事務所へ出ても中途半端な時間だったので、そのまま直帰することにしました。それが結果的に、線路歩行初体験につながりました。 羽田空港へのアクセスは、電車だと京急とモノレールがあり、私の場合、京急を利用する時は東銀座か人形町で乗り換え、モノレールを使う時は山手線経由の秋葉原乗り換えになります。 で、その時は、羽田空港からモノレールを使い、浜松町で山手線に乗り換え、秋葉原で日比谷線に乗車しました。電車は、私の最寄り駅である北越谷行きで、とても順調に家路に就いていました。 が、しかし、北越谷駅の一つ手前、越谷駅を発車したところで、電車がストップ。 「強風により飛ばされたビニールが、架線に引っかかっているとの連絡が入りました。撤去まで、しばらくお待ちください」 との車内放送がありました。 アナウンスに切迫感はなく、すぐ動くのだろうと、高をくくっていたのですが、待てど暮らせど動く気配がありません。更には停車中は暖房も切れ、徐々に寒さが車内を包み始めました・・・。 結局、50分ほど待たされた挙げ句、撤去の見込みがつかないので、最後尾の車両から越谷駅まで線路伝いを歩いてほしいとのこと。そこで、最後尾の車両まで移動しました。 で、どうやって線路に下りるのだろうと思っていたら、駅員たちはやおら座席を取り外し、3本を使ってスロープを急造。ほうほう、こうやるのかあ、と関心しきりの乗客。 実際には、傾斜が結構きついので、お年寄りや女性たちはおっかなびっくりでしたが、私は、こんな経験なかなか出来ん、とうれしくなって線路に降り立ちました。 ちなみに、東武線は複々線になっており、もう1本の下り用線路は全く影響なしで運行していたため、しばらくして到着した電車で、ほぼ1時間遅れで無事、帰着することが出来ました。

南伊予地方が伝えた奇想天外な笑話

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「鉄砲撃ちの茂八」 昔、昔、村に鉄砲撃ちの上手な茂八さん、という人がおった、とよ。 なにしろな、鉄砲撃ちの名人なもんでよ、とんでもねえことがおこるんだ、と。 ある日のことだ。鉄砲撃ちの茂八さんが、鉄砲持って、出かけたんだ、と。どうしたことかその日にかぎって、さっぱりえものが無かったんだ、と。しかたがないから、家へ帰ろうと、野原をとぼとぼ歩いていたら、空を雁が飛んでいた、と。 それで、茂八さんは「雁、雁、竿になあれ」と言ったんだ、と。そうしたら、今までカギになって飛んでいたのが、まっすぐになって飛んだ、と。それを見た茂八さんが、「雁、雁、カギになあれ」と言ったらの、カギになって飛んだんだ、と。 茂八さんは「ははあ、こりゃしめた。雁に命令して、一発でしとめてやろう」と思い、「雁よ、雁よ、竿になれ」と言って鉄砲かまえた。 ところがよ、雁も雁じゃ。撃たれちゃかなわんと、竿にならずに、カギになって飛びだしたんだ。だがの、さすがは茂八さんじゃ。雁の裏をかいて、鉄砲、カギのかっこうに曲げてな、ズドン。先頭から終わりまで、全部一発でしとめてしまったんだ、と。これ本当の話だ、と。  ◆ 愛媛県の昔話の中には、「トッポ話」という系列のものがあると言われています。この「トッポ」というのは、方言で、とんでもない、奇想天外な、という意味なのだそうで、とほうもない嘘で、人をアッと言わせるような話を「トッポ話」と言うのだそうです。主に愛媛県の南伊予地方に伝わり、高知県などでも笑い話として語り伝えられています。 「トッポ話」は地名とか人名をつけて「なになにトッポ話」という形で話されているのだそうで、「岩松トッポ話」とか「粂之丞のトッポ話」とかいう形で伝えられていますが、話の内容には同じものもあるようです。例えば、ここに出て来た鉄砲撃ちの話にしても、一発の弾でたくさんの獲物をしとめたとか、竹藪に弾を一発打ち込んだら、その弾が竹藪の中で跳ね返って、何と七日七晩も鳴り響いていたとか、ありそうもない話がさもあったというふうに、語られることが多いようです。とにかく、とてつもない出来事が実際にあったこと、事実だとして語られているのです。そこがまた面白さを誘ってもいるわけで「トッポ話」の特徴にもなっているようです。 愛媛県の「トッポ話」は北宇和郡の津島町から、南宇和郡にかけて多く語り伝えられていると言われていま

起動しなくなったMacの復活とMojaveで使えるiMovieの捜索

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先日突然、それまで使っていたMac mini(High Sierra)が起動しなくなりました。その少し前から、やや動作が遅くなった感はあったのですが、作業に支障を来すほどでもなかったので、そのまま使い続けていました。 症状としては、一応、高らかに起動音を鳴らして、スタートし始めるのですが、それが遅々として進みません。あまりに遅いので、いったん強制終了して、PRAMのクリアなど、思いつく限りの手段を講じてみましたが、全く効果なし。仕方なく、しばらく放置して様子見。だいぶ時間が経ってから覗くと、つかえていた部分を何とか乗り越え、進行状況を示すバーが進んでいました。その後も辛抱強く待ち、バーは少しずつ進んでいましたが、結局は、最後の最後で、頑として動かなくなります。 そこで、もう1台のMac mini(Mojave)用の外付起動ディスクを持ってきて、それをつないで起動してみました。すると無事に起ち上がり、DiskFirstAidで修復を試みましたが、本体のHDDは物理的に障害が出ているようでした。まあ、古いので仕方ないか、と。 もともと、本体のHDDには、ほとんどファイルはなく、外付HDDに保存していたので、大きな問題はなかったのですが、それでも外付に移していない、作業中のファイルもあったので、それを救出すると共に、アカウント関係など、設定をそのまま移行させることが出来そうな状態になりました。 MojaveのMac miniは、リビングのテレビにつないで、時々ネットをするぐらいだったのですが、激遅だったため、起動するのも嫌になるほどでした。そこで、ポータブルSSDを買ってきて、それを起動ディスクにしたところ、体感速度で10倍ぐらい速い、超速Macになったので、夢よもう一度、こちらもポータブルSSDを起動ディスクにしようと目論んだわけです。 ちょうど近くのノジマで、バッファローのSSD-PG480U3-BAを安く売っていたので、それを買ってきて、起動ディスク用にフォーマット。そして、本体にダウンロードしておいたOS(Mojave)を、外付SSDにインストールし、移行アシスタントを実行しました。 これによって、外付SSDを起動ディスクとして、起動しなくなったMac miniが使えるようになり、更には以前より早くなったので、万々歳という感じでした。しかし、一つだけ、困ったことが

障害者スポーツの普及活動からアスリートへ転身 - 田中光哉さん

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■ テコンドー K44/44クラス-61kg級代表 沖縄の名桜大学在学中に、東京パラリンピックの開催が決まりました。何か関係する仕事に就きたいと考え、東京都障害者スポーツ協会に就職。協会では障害者スポーツの指導やスポーツイベントの運営に携わり、その中で自分と同じ上肢に障害がある選手が出場するテコンドーと出会いました。 小学校から大学まで健常者と一緒にサッカーをしていた田中さんは、何かスポーツをしたいと考えていたところだったため、テコンドーに取り組んでみることにしました。しかも東京パラリンピックの公式競技として採用されることが決まったと聞き、どうせならパラリンピックを目指そうと考えました。 そうするうちに合宿や遠征が増え、東京パラリンピック出場の可能性も感じ始めました。しかし、当時の職場では休みを取るのが難しく、2018年4月、競技に専念出来る雇用形態で製薬会社へ転職。同時に、通っていたテコンドーの本部道場の近くに引っ越して、競技に集中する環境を整えました。更に、テコンドーの本場である韓国へ武者修行に行ったり、韓国から練習パートナーに来てもらったりして、研鑽を積みました。 テコンドーは、障害者スポーツには珍しいフルコンタクトの格闘技で、迫力や激しさがあり、障害のあるなしにかかわらず観戦して楽しめる競技になっています。田中さん自身はステップを得意としており、観戦の機会があれば細かいステップを見てほしい、と話していました。 パラテコンドーは障害の程度によって四つのクラスに分かれ、更に体重別に3階級が設定されていますが、パラリンピックでは障害のクラス分けがありません。テコンドーには手で押して蹴るという戦法があるため、腕がある障害の軽い選手と対戦する場合、両上肢欠損の田中さんは不利な状況での戦いになります。そのため、練習パートナーや師範を始め道場生の協力を得て、腕がある選手と対戦する場合の戦術や技を磨いてきました。そのかいあって、昨年1月のパラリンピック選考会で見事優勝して、日本代表の座を射止めました。 「東京パラリンピックでの目標は、メダル獲得です。その戦いを通して、パラテコンドーを多くの人に知ってもらいたいです」と、田中さんは話しています。 【成績】9月2日テコンドー男子K44 61kg級準々決勝に登場した田中選手(K43)は、ブラジルのソダリオ トルクワト選手と対戦し、

地元開催でお家芸復活の期待がかかる全盲の柔道家 - 永井崇匡さん

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■ 柔道B1クラス73kg級代表 生まれつき眼球に異常があり、2歳で完全に視力を失いました。小学校1年の終わり頃、父が少しでも運動をさせたいと、地元中之条町の林昌寺道場で柔道の指導をしている知人に相談し、道場に通い始めました。外遊びは危ないと止められていたため、道場で思う存分動けるのが楽しく、永井さんは熱心に練習に励み、小学生時代には県大会で2度3位に入賞。もちろん相手は全て健常者でした。 中学は東京にある筑波大学付属視覚特別支援学校に進学。寮の門限があり、柔道は2週間に一度、自宅に帰った時に林昌寺道場で稽古をするぐらいでした。それでも中学3年で出場した視覚障害者の大会で優勝。高等部に進むと門限が延び、近くにある系列の筑波大学付属高校の柔道部で練習するようになりました。高校1年で出場した健常者の大会では決勝で破れましたが、健常者とも互角に渡り合える実力が評価され、視覚障害者柔道の強化合宿に呼ばれるようになりました。その後、数学教師を目指し、2年間の浪人生活を経て、学習院大学理学部数学科へ進学。運動と勉学を両立させ、2019年春、大学を卒業し、同大職員として仕事をしながら、東京パラリンピックを目指しました。 視覚障害者柔道は全盲から軽度の弱視まで三つの障害クラスが設定されています。しかし、実際には全クラスの選手が一緒に試合をします。全盲の永井選手には不利ですが、感覚を研ぎ澄ませハンディを克服。国内では優勝して当たり前と言われるほど、一歩抜きん出た存在ですが、目標はあくまでも東京パラリンピックでの金メダル。 柔道男子がパラリンピック正式競技になった1988年のソウル大会で日本は金メダル4個を獲得しましたが、その後は右肩下がりで、前回リオ大会では金メダルがゼロに終わりました。地元開催で、お家芸復活ののろしを上げたい日本パラ柔道界にとって、永井選手は期待の星です。 得意技は巴投げと寝技。最近はそれに加え、小外刈りなどの足技も磨いています。また、視覚障害者柔道では組み合った状態で試合が始まるため、力の強い外国人選手に対抗出来るようフィジカルの強化にも取り組んできました。 【成績】8月28日柔道男子73kg級予選に登場した永井選手(B1クラス=全盲)は、同じB1クラスのアルゼンチン、ラミレス選手(クラス)を相手に39秒、巴投で一本勝ちを収め、幸先の良いスタートを切りました。しか

目標はずばり、東京パラリンピックでの金メダル! - 山口凌河さん

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■ ゴールボール代表 小学5年生で野球を始め、中学時代は野球部の主将を務めるスポーツ少年でした。が、中学2年の時、レーベル遺伝性視神経症という難病を発症。2.0あった視力は半年ほどで、わずかに人影や光を認識出来る程度にまで落ちてしまいました。医師からは治らないと告げられ、自暴自棄になっていた彼に、母が盲学校進学を進めました。そして、進学した茨城県立盲学校で、ゴールボールと出会いました。 「目が見えなくなったらスポーツなんて出来ないと思っていました。でも、普通に体育の授業があり、また身体を動かす楽しさを感じることが出来ました」 その後は、ゴールボールにのめり込みます。野球と同じ団体競技で、仲間と声を掛け合い、コミュニケーションを取りながら戦う楽しさが山口さんには合っていました。高校1年の冬には、早くもゴールボールのユース代表合宿に呼ばれました。ここで世界を意識。世界と戦えることが、何よりも魅力的でした。 2013年には世界ユース選手権大会で優勝、更にフル代表にも招集され、2019年に開催されたジャパンメンズオープンでは大会得点王に輝き、日本チームの優勝に貢献しました。 山口さんのプレーは、投げる球の速さと、相手が嫌がるところに正確に投げ込めるコントロールの良さにあります。現在の目標はもちろん、東京パラリンピックで金メダルをその手にすること。 「以前は夢でしかありませんでしたが、相手チームを研究し、どうやったら勝てるか試行錯誤を繰り返し、東京パラリンピックではいい結果が出せるのではないか、と手応えを感じられるようになりました」 目が見えなくなったことで、見えたこともたくさんあります。自分は両親や友達、チームの仲間、所属する関彰商事の人たちなど大勢の人に支えられています。一番の収穫は、人のありがたさに気づけたことでした。そして、その人たちや自分を応援してくれている人に、スポーツで結果を出し恩返しがしたい。全ての人が、イコールで結ばれる社会を目指し、自分もレガシーを作っていけたら・・・。そう山口さんは話します。 【成績】予選リーグ:8月25日のアルジェリア戦は13対4で勝利、山口選手は5分の出場で1得点を上げました。27日のアメリカ戦は11対1で勝利、この日はスターターの3人が好調で、コールド勝ちを収めたこともあり、山口選手の出場はありませんでした。28日のリトアニア戦も1

スピードと高い守備力で日本代表に定着 - 赤石竜我さん

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■ 車いすバスケットボール代表 5歳の時、ぜんそくの発作で入院。治療を終え退院する日の朝、突然立てなくなりました。精密検査の結果、日本で3例目という難病だと判明。脊髄損傷で車いす生活を送ることになりました。 その後、リハビリを続ける中、小学校4年生の時に、当時通っていたリハビリの先生から車いすバスケットボールのことを聞き、現在所属しているチーム「埼玉ライオンズ」を紹介してもらいました。当時はあまり興味を持てませんでしたが、中学に入学すると、仲のいい友人がバスケット部に入部したり、3歳上の兄がバスケットをしていたりする影響もあって、改めて埼玉ライオンズの練習に参加させてもらうことにしました。 ちょうどその頃、2020年の東京パラリンピック開催が決まりました。赤石さんはその出来事に運命的なものを感じ、バスケットにのめり込むようになります。もちろん競技を始めたばかりで明確な目標ではありませんでしたが、東京パラリンピックに出たいという気持ちはその時から少なからずあったといいます。 中学2年の時、正式にチームに加入。ぐんぐん頭角を現し、高校1年で初めて国際大会を経験。それがきっかけとなって日本代表を目指すようになりました。今度は明確な目標でした。そして高校2年で23歳以下日本代表に選ばれ、その1年後にはフル代表にも初招集されました。 赤石さんの持ち味はスピードを生かしたディフェンス力。スピードでは日本でも1、2を争うレベルにあり、日本代表で求められているのもそこだと自覚しています。逆に一番の課題は得点力で、特にアウトサイドシュートの確率を上げるため、さまざまなトレーニングに励んでいます。 「東京パラリンピックに出場する日本代表チーム12人の中に残ることが当面の目標でしたが、選ばれただけでは意味がなく、選ばれたからには結果を出す義務があります。日本代表チームが目標としている初のメダル獲得に貢献した、と言われるような活躍をしたいと思っています」 スピードと高い守備力で、日本代表に欠かせない存在になっている赤石さん。その目線は更なる高みにあります。 【成績】 予選リーグ :8月26日のコロンビア戦は63対56で勝利、赤石選手のプレイタイムは11分15秒、フィールドゴール(FG)は0/3でした。27日の韓国戦は59対52で勝利、赤石選手は8分51秒の出場で、FG2/2、アシスト(AS

難病に負けず、明日に向かって走り続ける"あきらめない男" - 伊藤智也さん

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■ 陸上男子T52(車いす:100m/400m/1500m)代表  ※写真は20年前の取材当時 伊藤さんが発病したのは、35歳の誕生日を迎えた3日後の1998年8月19日のことでした。医師からは10万人に1人という中枢神経系の難病、多発性硬化症だと告げられました。伊藤さんの場合、まず両脚が動かなくなりました。やがて左目が見えなくなり、左腕にも症状が現れてきました。 病気は伊藤さんから、さまざまな運動機能を奪ってしまいました。しかし、伊藤さんの前向きな性格や持ち前の明るさまで奪うことは出来ませんでした。発病から1年ほど経った1999年の夏頃には、車いすマラソンの練習も始めました。練習を続けるうち、どうせやるからには大きな大会を走りたいと思うようになり、 2000年11月12日に開催される第20回大分国際車いすマラソン大会に出場することを決めました。  ◆ 大会当日、30km地点を通過した時のことです。よし、もう少しだ。伊藤さんが、そう思った瞬間、体が車いすごと道路にたたきつけられました。 左側から抜いてきた選手との接触事故でした。左目が失明状態のため、その選手が視界に入らなかったのです。右肩に激痛が走りました。脱臼でした。が、伊藤さんはあきらめませんでした。競技係員が寄って来ました。「どうする? 棄権するか?」。係員の問いに、伊藤さんは答えました。「右肩をはめるのを手伝ってください。レースを続けます」。 30km地点での転倒後、伊藤さんは脱臼した右腕一本で車いすを操作し、懸命にゴールを目指しました。スピードは出ず、後続の選手に抜かれて行きます。彼らは追い抜く時、一様に「がんばれよ」と声をかけて行きます。両腕両脚がなく、顎を使って車いすをこいでいる選手もいました。伊藤さんは走りながら、そんな選手たちに励まされていました。そして3時間という制限時間まで残り約15分、伊藤さんは力を振り絞ってゴールに飛び込びました。  ◆ このレースをきっかけに、伊藤さんは本格的に陸上競技に参戦。2002年には、日本選手権シリーズのマラソン、5000m、1500mの各種目で優勝を飾っています。また、国際大会にも出場し始め、2003年の世界選手権では400m、1500m、マラソンの3種目で金メダルを獲得。 パラリンピックには2004年のアテネから、2008年北京、2012年ロンドンと、3大会連

パラリンピック競技大会のお話

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パラリンピックは、障害を持つアスリートによる世界最高峰の国際競技大会。夏季大会と冬季大会があり、オリンピックと同じ年に同じ都市で開催されます。1960年のローマ大会が、第1回大会と位置づけられていますが、当時は国際ストーク・マンデビル大会と呼ばれていました。 ストーク・マンデビルというのは、イギリスのロンドン郊外にある病院で、ロンドン・オリンピックがあった48年、この病院で16人(男子14人、女子2人)の車いす患者によるアーチェリー大会が開催されたのが、そもそもの発端です。この大会は以後毎年開催され、52年にはオランダからも参加があり、国際競技会へと発展。オリンピックが開催された60年のローマ大会には23カ国、400人が参加するまでになりました。 そして64年の東京オリンピック開催に合わせ、国際ストーク・マンデビル大会を行ってほしいとの要請が、61年3月に同大会の提唱者であるルートヴィヒ・グットマン博士から厚生省(現厚生労働省)にありました。しかし、身体障害者スポーツの素地がなかった日本は、関係団体を中心に協議するも、国際大会以前に国内の障害者スポーツ振興が先との声が強い状況でした。 そんな中、日本国内のライオンズクラブが、朝日新聞厚生文化事業団に対してパラリンピック開催について照会。やるのであれば援助を検討したいと連絡しました。グットマン博士から要請があった1年後の62年3月のことでした。 これを受けた同事業団は協議の上、1)国内のスポーツ振興を図ってからパラリンピックを引き受けるのは実際問題として困難。むしろパラリンピック開催を強く打ち出し国内態勢を作る方が早道。2)パラリンピックを引き受けるに当たっては肢体不自由、盲、ろうあの人たちのスポーツも同時に行うことを条件とする。3)5月に小範囲の人たちで準備打ち合わせ会を開催する。4)ライオンズクラブに強力に働き掛ける、という4項目を決定。厚生省の了解を得た上で、NHK厚生文化事業団との連名で関係者に準備打ち合わせ会の案内を発送、こうしてパラリンピック東京大会開催への道が開けました。 ところでパラリンピックの呼称は、両下肢の運動まひであるパラプレジア=Paraplegiaの「パラ」とオリンピック=Olympicの「リンピック」を組み合わせた造語で、日本が作った愛称でした。正式には国際ストーク・マンデビル大会だったわけ