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南伊予地方が伝えた奇想天外な笑話

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「鉄砲撃ちの茂八」 昔、昔、村に鉄砲撃ちの上手な茂八さん、という人がおった、とよ。 なにしろな、鉄砲撃ちの名人なもんでよ、とんでもねえことがおこるんだ、と。 ある日のことだ。鉄砲撃ちの茂八さんが、鉄砲持って、出かけたんだ、と。どうしたことかその日にかぎって、さっぱりえものが無かったんだ、と。しかたがないから、家へ帰ろうと、野原をとぼとぼ歩いていたら、空を雁が飛んでいた、と。 それで、茂八さんは「雁、雁、竿になあれ」と言ったんだ、と。そうしたら、今までカギになって飛んでいたのが、まっすぐになって飛んだ、と。それを見た茂八さんが、「雁、雁、カギになあれ」と言ったらの、カギになって飛んだんだ、と。 茂八さんは「ははあ、こりゃしめた。雁に命令して、一発でしとめてやろう」と思い、「雁よ、雁よ、竿になれ」と言って鉄砲かまえた。 ところがよ、雁も雁じゃ。撃たれちゃかなわんと、竿にならずに、カギになって飛びだしたんだ。だがの、さすがは茂八さんじゃ。雁の裏をかいて、鉄砲、カギのかっこうに曲げてな、ズドン。先頭から終わりまで、全部一発でしとめてしまったんだ、と。これ本当の話だ、と。  ◆ 愛媛県の昔話の中には、「トッポ話」という系列のものがあると言われています。この「トッポ」というのは、方言で、とんでもない、奇想天外な、という意味なのだそうで、とほうもない嘘で、人をアッと言わせるような話を「トッポ話」と言うのだそうです。主に愛媛県の南伊予地方に伝わり、高知県などでも笑い話として語り伝えられています。 「トッポ話」は地名とか人名をつけて「なになにトッポ話」という形で話されているのだそうで、「岩松トッポ話」とか「粂之丞のトッポ話」とかいう形で伝えられていますが、話の内容には同じものもあるようです。例えば、ここに出て来た鉄砲撃ちの話にしても、一発の弾でたくさんの獲物をしとめたとか、竹藪に弾を一発打ち込んだら、その弾が竹藪の中で跳ね返って、何と七日七晩も鳴り響いていたとか、ありそうもない話がさもあったというふうに、語られることが多いようです。とにかく、とてつもない出来事が実際にあったこと、事実だとして語られているのです。そこがまた面白さを誘ってもいるわけで「トッポ話」の特徴にもなっているようです。 愛媛県の「トッポ話」は北宇和郡の津島町から、南宇和郡にかけて多く語り伝えられていると言われていま...

難病に負けず、明日に向かって走り続ける"あきらめない男" - 伊藤智也さん

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■ 陸上男子T52(車いす:100m/400m/1500m)代表  ※写真は20年前の取材当時 伊藤さんが発病したのは、35歳の誕生日を迎えた3日後の1998年8月19日のことでした。医師からは10万人に1人という中枢神経系の難病、多発性硬化症だと告げられました。伊藤さんの場合、まず両脚が動かなくなりました。やがて左目が見えなくなり、左腕にも症状が現れてきました。 病気は伊藤さんから、さまざまな運動機能を奪ってしまいました。しかし、伊藤さんの前向きな性格や持ち前の明るさまで奪うことは出来ませんでした。発病から1年ほど経った1999年の夏頃には、車いすマラソンの練習も始めました。練習を続けるうち、どうせやるからには大きな大会を走りたいと思うようになり、 2000年11月12日に開催される第20回大分国際車いすマラソン大会に出場することを決めました。  ◆ 大会当日、30km地点を通過した時のことです。よし、もう少しだ。伊藤さんが、そう思った瞬間、体が車いすごと道路にたたきつけられました。 左側から抜いてきた選手との接触事故でした。左目が失明状態のため、その選手が視界に入らなかったのです。右肩に激痛が走りました。脱臼でした。が、伊藤さんはあきらめませんでした。競技係員が寄って来ました。「どうする? 棄権するか?」。係員の問いに、伊藤さんは答えました。「右肩をはめるのを手伝ってください。レースを続けます」。 30km地点での転倒後、伊藤さんは脱臼した右腕一本で車いすを操作し、懸命にゴールを目指しました。スピードは出ず、後続の選手に抜かれて行きます。彼らは追い抜く時、一様に「がんばれよ」と声をかけて行きます。両腕両脚がなく、顎を使って車いすをこいでいる選手もいました。伊藤さんは走りながら、そんな選手たちに励まされていました。そして3時間という制限時間まで残り約15分、伊藤さんは力を振り絞ってゴールに飛び込びました。  ◆ このレースをきっかけに、伊藤さんは本格的に陸上競技に参戦。2002年には、日本選手権シリーズのマラソン、5000m、1500mの各種目で優勝を飾っています。また、国際大会にも出場し始め、2003年の世界選手権では400m、1500m、マラソンの3種目で金メダルを獲得。 パラリンピックには2004年のアテネから、2008年北京、2012年ロンドンと、3大会連...

パラリンピック競技大会のお話

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パラリンピックは、障害を持つアスリートによる世界最高峰の国際競技大会。夏季大会と冬季大会があり、オリンピックと同じ年に同じ都市で開催されます。1960年のローマ大会が、第1回大会と位置づけられていますが、当時は国際ストーク・マンデビル大会と呼ばれていました。 ストーク・マンデビルというのは、イギリスのロンドン郊外にある病院で、ロンドン・オリンピックがあった48年、この病院で16人(男子14人、女子2人)の車いす患者によるアーチェリー大会が開催されたのが、そもそもの発端です。この大会は以後毎年開催され、52年にはオランダからも参加があり、国際競技会へと発展。オリンピックが開催された60年のローマ大会には23カ国、400人が参加するまでになりました。 そして64年の東京オリンピック開催に合わせ、国際ストーク・マンデビル大会を行ってほしいとの要請が、61年3月に同大会の提唱者であるルートヴィヒ・グットマン博士から厚生省(現厚生労働省)にありました。しかし、身体障害者スポーツの素地がなかった日本は、関係団体を中心に協議するも、国際大会以前に国内の障害者スポーツ振興が先との声が強い状況でした。 そんな中、日本国内のライオンズクラブが、朝日新聞厚生文化事業団に対してパラリンピック開催について照会。やるのであれば援助を検討したいと連絡しました。グットマン博士から要請があった1年後の62年3月のことでした。 これを受けた同事業団は協議の上、1)国内のスポーツ振興を図ってからパラリンピックを引き受けるのは実際問題として困難。むしろパラリンピック開催を強く打ち出し国内態勢を作る方が早道。2)パラリンピックを引き受けるに当たっては肢体不自由、盲、ろうあの人たちのスポーツも同時に行うことを条件とする。3)5月に小範囲の人たちで準備打ち合わせ会を開催する。4)ライオンズクラブに強力に働き掛ける、という4項目を決定。厚生省の了解を得た上で、NHK厚生文化事業団との連名で関係者に準備打ち合わせ会の案内を発送、こうしてパラリンピック東京大会開催への道が開けました。 ところでパラリンピックの呼称は、両下肢の運動まひであるパラプレジア=Paraplegiaの「パラ」とオリンピック=Olympicの「リンピック」を組み合わせた造語で、日本が作った愛称でした。正式には国際ストーク・マンデビル大会だったわけ...