投稿

8月, 2021の投稿を表示しています

白山麓の人々の心を紡ぐ伝統の手織り・牛首紬

イメージ
霊峰白山を源に金沢平野へ注ぐ手取川。その手取川に沿って、白山市の鶴来地区から白山方面へ向かうと、25kmほどで白峰の集落に出ます。 ここは、かつて白山麓十八力村と呼ばれる天領でした。その後、1889(明治22)年に村制を施行、白峰村となりました。雪の多い北陸でも有数の豪雪地帯で、冬ともなれば、集落全体がすっぽりと雪に覆われてしまいます。古くから養蚕が盛んで、かつての十八力村の一つ牛首村で織られていた「牛首紬」は、今でもこの地域の特産品となっています。 牛首紬の起源は定かではありません。1159年の平治の乱で敗れた源氏(平家という説もあります)の落人が、この地に逃れ、その妻女が機織りの技に優れていて、村の女たちにその技術を伝えたのが始まりとも言われます。それが正しければ、860年以上の歴史を持つことになり、牛首紬の繊細な技術は、こうした都人の匂いなのかもしれません。 記録の上では、京都の旅籠屋松江重頼が書いた『毛吹草』(1645年)に出てくる牛頸布の名が最初です。その後、江戸後期の『白山草木士心』(1822年・畔田伴存作)には、「牛ケ首は民家二百三十軒あり繁盛の地なり、蚕を家ごとに養うて、糸を出すことおびただし」と、記されています。 最盛期、年間1万2568反も生産したと記される1934(昭和9)年頃は、総数200戸余りの機場と2社の大機業場がありました。しかし、なぜか第2次世界大戦前には、そのほとんどが姿を消しています。更に戦後、復興を試みた者のうち、残ったのは加藤機業場のみとなってしまいました。 後継者もなく、伝統の牛首紬も消えゆくかと思われました。が、「祖先の遺産は守らねば」と、1965(昭和40)年、土木建築会社・西山産業が織物部門を設け、西山家の七人兄弟から三、五、六男が紬屋に転身しました。三男西山鉄三さんの話では、当初は牛首紬の産業化など愚かなこと、と笑われたといいます。 確かに織物部門は、しばらく赤字を続け、西山産業のお荷物になっていたそうです。更に1974(昭和49)年、手取川ダムが出来、紬の里が水没しました。そのため西山産業は、白峰村日峰と鶴来町に工場を移転。紬の技術を持っていた人たちも集団で移転し、牛首紬は白峰と鶴来で再出発しました。 そんな中で、加藤機業場でも息子が跡を継ぐ決意を固めます。1979(昭和54)年には、牛首紬生産協同組合を結成。その

人の心の温もりを伝える北国の手技・南部裂織

イメージ
裂織という織物があります。裂くと織るでは、まっく別物のようですが、古着を細かく裂き、それを緯糸に織りあげたところから、この名があります。東北地方や日本海側、信州などの寒冷地で、古くから織られていた庶民の織布です。 かつては、大人の単衣がすり切れると、傷んだ部分をとって子どもの着物にしました。それが破れるとつぎあての布にし、布地が弱ったものは数枚重ねておむつを作り、おむつから雑巾にしました。布が糸くずになるまで使い、更にそれをまとめて、布団の綿代わりにしました。 使い捨て時代の今日からは想像も出来ませんが、つい最近まで、日本ではそれが当たり前に行われていました。 特に、綿花栽培地と異なり、綿花の出来ない北国の人々は、木綿布、木綿糸に対する執着もかなり強いものがありでした。江釣子の南部裂織も、そんな北国の人々の生活の知恵から生まれた織物なのです。 北上市の黒沢尻は、北上川の舟運で栄えた港町でした。ここに関東や関西方面からの古着が、荷揚げされていました。江釣子の年配者に聞くと、戦後しばらくまで、北上市には、古着屋がたくさんあったそうです。 そうした古着を利用して、各家庭で裂織が織られていました。戦後、家の建て替えが盛んに行われた頃、江釣子の家々からは、必ずと言っていいほど、手機が出てきたといいます。裂織とは、それだけ生活に密着した織物であったのです。 裂織は、古着を裂いて糸に使うわけですから、当然、厚手の布になります。それは、冬の長い、北国の人たちにとって、恰好の防寒着になりました。はんてん風に仕立てて仕事着にしたり、丹前などにして、寒さをしのいだのでしょう。昭和に入って、一般農家に炬燵が普及すると、それは炬燵掛けとなって、やはり人々の生活の中に溶け込んでいました。 しかし、交通手段の発達と、繊維の流通が盛んになると、裂織の必要性も失われ、この手仕事は、いつのまにか姿を消していました。そんな中で、いち早く、裂織の復活を志したのが、江釣子の沢藤隆助さんでした。 沢藤さんは1960(昭和35)年、村の文化祭にたまたま展示された裂織に魅せられ、さまざまな研究を重ねた後、現在の南部裂織を育て上げました。更に、その子邦夫さんが跡を継ぎ、織元平太房として伝統を守っています。 「緯糸に古着を裂いた布を使っているので、経糸と絡んだ時にどんな模様に変化するのか想像がつかない。でも、偶然の美

優れた織物技術を採り入れ、生み出したソフトな絣柄

イメージ
武蔵村山市は東京都の中北部、都内では珍しい伝統産業・村山大島紬の産地です。村山大島紬は百数十年の歴史を持ち、1967(昭和42)年には製作工程が都の無形文化財に、また75(昭和50)年には国の伝統的工芸品に指定されています。 武蔵村山市は、もともと養蚕が盛んな土地でした。そのため江戸中期には、絹を使った砂川太織が織リ出され、また藍の産地でもあったことから、藍を使った紺絣の生産も始まりましたた。 村山大島紬は、この二つが大正中期に結びついたもので、その特徴である染色法・板締め注染法や、当時大流行だった大島柄も、この頃に導入されました。今でこそ、日本三大紬の一つにあげられる村山大島紬ですが、こうして長い時代の流れの中で、優秀な技法と柄を積極的に採り入れ、初めて完成したものなのです。 特徴である板締め注染法というのは、絣の部分をくっきり残すために、紋様を彫った2枚の板の間に絹糸を挟んで締め付けて防染し、染料を注ぎ込んで染める技法です。正倉院の収蔵品に見られる古くからの絞リ染め技法の一種で、今ではわずかに村山大島紬と伊勢崎紬などで用いられているだけの貴重な技法です。 織物の経緯の密度に合わせて板図案を作り、それをもとに絣板を彫ります。板には、精緻な絣を作るため、樹齢100年ぐらいの特種なサクラの巨木の、芯を除いた柾目を使っています。村山大島紬の味わいは、こうして染められた経緯の精緻な絣を、一本いっぽん手作業によって、柄合わせしながら織り出すことによってもたらされています。 村山大島紬は、伝統的工芸品の指定によって一挙に注日を浴び、他の産地が停滞する中、一人安定的に推移してきました。しかし、1980年代に入ると大きなかげリが見えてきました。板締め染色による伝統的工芸品・村山大島紬のみが注目され、それ以外の製品はほとんど無視されるという結果を招いたからです。そのため、新製品開発の意欲が失われ、単一製品で量産型という産地構造になリ、多品種少品生産で常に新製品を開発するという、望まれる地場産業像とは全く逆の道を歩んでしまいました。 伝統的工芸品の指定で、非常な活況を呈した村山大島紬ですが、それが逆に足かせとなってしまったわけです。現在、村山織物協同組合によると、組合員は17社となっていますが、実際に稼働しているのは数軒だけとも言われています。取材をさせてもらった田愛織物も小室織物も

経の和紙と緯の絹糸が彩なす錦織り

イメージ
有明海に面した城下町・鹿島。江戸時代、佐賀鍋島家の支藩、鹿島鍋島家2万石の居城が築かれ、今日の市街地形成の端緒を開きました。 その鹿島藩の殿中で生まれ、藩主夫人を中心に、その側近たちによって伝承された錦織りがあります。経が和紙、緯が絹糸という一風変わった織物「鹿島錦」です。一般には、佐賀錦と言った方が通りはいいかもしれませんが、藩とは逆に、錦は鹿島が本家となります。 江戸後期、第9代藩主夫人柏岡が、病の床に臥していた折に、網代天井のおもしろさを身の回りの品に応用出来ないものかと考えたのが、鹿島錦の初めだといいます。その後、経紙として和紙に金箔、銀箔を貼ったものを使ったり、緯糸に金糸、銀糸、彩糸を使ったりして、徐々に改良され、豪華な手織りの実用品となりました。鹿島藩から佐賀本藩へも伝わりましたが、藩主夫人が考案した錦だけに、藩外に漏らされることはなく、歴代夫人や御殿女中などによって受け継がれました。そういう意味では、織物というよりも、趣味的な手芸であったという方が適当かもしれません。 1910(明治43)年、ロンドンで開かれた日英大博覧会に出展され、初めて一般の人々の注目を集めることになりました。しかし、この時、佐賀を代表するという意味からか「佐賀錦」と名付けられ、以来こちらの名の方が一般的になってしまいます。 もっとも、存在が知られるようになっても、製作が一般に普及するようになるのは、昭和も戦後になってから。いくつかの同好会が生まれ、鹿島でも1969(昭和44)年、主婦らを中心に鹿島錦保存会が作られました。更に、1985年から鹿島市内の中学校でも必修クラブに採リ入れられたり、高校の授業に採用されたりして、保存会の会員がその指導に当たりました。 藩主夫人ら一部の人たちの楽しみでしかなかった鹿島錦も、今では、だれもが技術を覚えられる時代になりました。それでも変わらないのは、手織りであるということ。その手間たるや並大抵ではありません。幅20cmぐらいで長さ1cmを織るのに、たっぶり2時間はかかるといいます。そうした手織リだからこそ、温かみ、柔らかみが出るのでしょう。 今、鹿島錦保存会の会員の作品は、日本三大稲荷の一つ、祐徳稲荷神社の外苑にある祐徳博物館で輝きを放っています。

宮古の人々のアララガマ精神が育んだ精緻な上布

イメージ
沖縄県宮古島。エメラルド色の海と紺碧の空。太陽の光はあふれんばかりにふり注ぎ、強烈な色彩を生み出します。影の色もまた強烈です。 宮古上布は、その影の色をしています。藍染の涼しげな風合いがそう思わせるのでしょうが、その歴史にも、影の部分が秘められています。 宮古上布の正確な由来は不明です。しかし、島では1583年、夫の栄進のお礼に琉球王へ綾錆布を献上した稲石という女性を、宮古上布の祖としています。綾とは、宮古の言葉で縞を指し、錆は布の色合いで青系の色、すなわち藍のことだろうと推測されています。 その後、稲石の技は、島の人々に広く伝えられ、全島で高品質の上布が生産されるようになったといいます。しかし、それはやがて、人頭税制の下、貢納布として姿を変え、島の人々の上に重くのしかかることになります。 1609年、薩摩の琉球侵攻と共に、宮古上布はその魅力ゆえに貢納品に指定されました。薩摩の重税に苦しんだ琉球王府は、貢納布を人頭に割り当て、島の女性に労苦を強制しました。 各村に機屋が設けられ、織女たちは1年の大半を機に向かって過ごしました。織女たちの肉は落ち、顔は青ざめ、毛髪が抜け落ちたと伝えられます。こうして織り上げられた上布は、琉球王府を経て薩摩に献上され、中央では薩摩上布の名で高価に取り引きされました。 人頭税の廃止は1903(明治36)年のこと。宮古、石垣など先島の人々は、実に300年も、この悪名高い税制に苦しめられたのです。 もともと宮古島は、離島県の離島として、台風や干ばつなど、厳しい自然に痛めつけられてきました。しかし、その中で培われた宮古の人々のアララガマ(堅忍不屈なること)精神と創造性、団結力で、これらを乗り越えてきました。 そのため、薩摩による過酷な圧政にも、宮古の人たちは屈することなく、極めて精緻な上布を育んできました。薄く透けているため、蝉の羽にもたとえられるその風合いの秘密は、非常に細い糸にあります。クモの糸かと見紛がうその糸は、苧麻の繊維を爪の先で極限まで細く裂いたものを使います。また、ロウをひいたようだと称されるその光沢は、木槌で布を強くたたき込むことで生み出されます。 その独特の製法の一つひとつに高い技術が要求されるだけに、簡単な仕事ではありません。宮古上布特有の艶出しの仕上げを洗濯と呼びますが、5kg近い木槌で布をまんべんなく打ち、昔から、1反を

南国沖縄に咲く王朝文化の華、紅型

イメージ
紅型は、京都の友禅や加賀の友禅、江戸の小紋と並び称される我が国の伝統的な染め物です。1枚の型紙を使って、多彩に、そして華麗に染め上げます。 沖縄では、本島のあちこち、そして全ての島々で、宮古上布や芭蕉布、ミンサーなど、さまざまな染織が行われています。しかし、沖縄の代表的な染物である紅型は、那覇市の、それも首里を中心とした一部の地域に限られています。それは、かつてここが、琉球王朝の首都だったこと、そして、紅型が支配階級の人たちの公用服に用いられていたことが、その理由です。 紅型の歴史は、琉球王朝にあって、海外貿易が盛んに行われていた14、15世紀にさかのぼると言われます。当時、インドやジャワ更紗の影響を受け、後に、中国の型紙の技法や京都の友禅染めの手法を採リ入れることによって、次第に琉球を代表する染め物に成長していったのです。 紅型の型紙は、木綿豆腐を乾燥させたルクシューと呼ばれる小さな台板の上で、小刀を用いて突彫りによって彫っていきます。突彫りで彫った線は、柔らかで、染め上がった文様に優しさを出し、人の血の通った温かみを感じさせます。 また、18世紀、琉球王朝は尚敬王の時代に、清朝の隆盛を受けて、自らも経済、文化の発展を確立し、琉球ルネッサンスと呼ばれる黄金時代をつくリ出していきました。この時代は、音楽や舞踊など琉球独自の古典芸能が花開いた時でもあリ、これらに華麗さを与えたのが、紅型の踊り衣装でした。これが、後に首里王宮における貴族婦女子の衣装に影響を及ぼし、紅型発展の契機になったと言われます。 こうした王朝時代には、紅型は階級によって、色や生地に区別があったようです。また、階級が下がるにつれ、全体に柄が細かく複雑になリ、身分が高いほど、模様は単純で大柄なものが用いられました。一見、逆のようですが、これが、琉球ならではの美意識ということになるのでしょうか。 紅型の特色は、これはもう見ての通り、その強烈な色彩にあります。それは、色彩が顔料を主とし、顔料の上に植物染料を塗るからです。光線が強い沖縄では、植物染料だけでは、すぐ褪色してしまいます。一方、顔料は日光や熱に強く、褪色することがありません。このように、不透明色の上に透明色を塗る染め方が、紅型の特色であり、かつ、沖縄のオリジナルな色調が生まれるゆえんです。 そして、この紅型の強烈な色彩は、なんと言っても、沖縄の明る

北の創り手たちの心を伝える温もりの木工クラフト

イメージ
東川町は、北海道の屋根と言われる大雪山連峰の山裾にあり、肥沃な土壌と豊かな自然に恵まれています。道内一の落差を誇る羽衣の滝を持つ天人峡温泉、大雪山連峰の主峰旭岳中腹の旭岳温泉の二つの温泉を有し、おいしい米や野菜、木工品が生産される町として知られています。 また毎年、国際写真フェスティバル「フォト・フェスタ」や「写真甲子園」が開催され、写真の町としても有名です。 東川は、旭川市の東にあり、元は旭川村(現市)に属していました。その後、1897(明治30)年に分村、1959(昭和34)年に町制を施行しました。町の西側は上川盆地の穀倉の一環を成す平野部、東部は大雪山連峰の主峰旭岳に連なる火山・原生林地帯で、大雪山国立公園に含まれています。 旭川、東川の周辺は、大雪山系の森林地帯を控え、古くから製材木工業が盛んで、家具などの生産も行われてきました。これらの家具は、狂いの少ないと言われる地場木材を使って、全国的にも高い評価を得ています。 そうした伝統家具の流れの中で、40年ほど前から、木工クラフトが脚光を浴びるようになりました。当初は、旭川に造形作家などを招いて講習会も行われ、家具作りのノウハウを生かしながら、新しいクラフトを生み出してきました。自然をモチーフにしたものが多く、作品からは木の温もりや優しさが伝わってきました。 やがて、題材を自然に求める作家たちは、自然が豊かな郊外へ工房を移すようになりました。特に、素材や工具なども入手しやすい東川は、そうした作家たちにとって、恰好の拠点だったようです。現在、東川には多くの工房が点在し、それぞれ独自の手法とデザインで、楽しいクラフトを制作しています。 しかも、家具を始めとする木工の伝統を受け継いだ作家たちは、高い技術に裏打ちされた新しいクラフトを創り上げ、全国的にも高い評価を得ています。販路も、むしろ道外の方が多く、東京や大阪といった大都市圏に広がっています。コンクリートに囲まれた都会の人間にとって、東川のクラフトは、自然の温もりを感じさせるオアシスとなっているのでしょうか。 ※写真は、鳥のモビールを始め動く木工クラフトを創る早見賢二さん

形から心へ、それが伝統となり、今に継承される農民美術

イメージ
上田には奈良時代、信濃国府が置かれ、国分寺・国分尼寺も建立されました。以後、仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と呼ばれる塩田平を始め、市内には多くの文化財が残っています。 近世には、真田昌幸が上田城を築き、町屋を形成。以来、幕末まで上田藩5万3000石の城下町として栄えました。 明治から大正にかけては、全国有数の蚕都として発展。その頃、農民自らの手による農民美術が生まれています。 農民美術の提唱者は、洋画家の山本鼎氏でした。山本氏は、フランス留学からの帰途、ロシアに半年ほど滞在していました。その間、農民たちが、冬の副業として木彫人形や白樺巻の小物入れなどを作っているのに着眼。両親が住む信州の農村でも、応用出来ると考えました。 そして帰国後、作る喜びと、農家の副収入を狙った一石二鳥の産業美術運動を提唱し、現在の上田市神川に練習所を開設しました。その後、全国各地で講習会を開催、上田に農民美術研究所も設立しました。 一時、日本農民美術生産組合連合会の加盟団体は50を数え、約600人の人たちがこの仕事に就いていたといいます。しかし、関東大震災、昭和恐慌、満州事変以来の戦時体制の強化によって、研究所は閉鎖。更には戦争の激化と共に、農民美術は壊滅に瀕しました。 戦後、練習所の第1号生徒であった中村実氏らが中心となり、再び農民美術の製作が開始され、神川を中心に徐々に復活を果たしました。当初は、山本氏が持ち帰った見本の模倣から始まった農民美術ですが、技術の向上に伴い心も宿り、芸術として昇華されてきました。 その第一人者である中村実さんは、父の跡を継ぎ、1977年に2代目を襲名。その時、時流に流されまいと、安易な道を避ける不器用な生き方を選びました。と同時に、それが独りよがりにならないよう、絶えず自分を戒めていると話していました。 現在は、3代目が後を継承。中村さんを含め16人の作家が、山本鼎氏が灯し、先達から伝えられた農民美術の灯を、伝統工芸として継承していくために努力を重ねています。 農民美術のモチーフには郷土芸能上田獅子などがよく使われます

苦難の道を乗り越えて発展してきた桐箪笥

イメージ
新潟県のほぼ中央、信濃川の支流加茂川に沿って開けた加茂市は、794(延暦13)年、京都の賀茂神社を分祀。それに伴い、京風の文化・習俗も伝わり、街を貫流する加茂川の風姿と合わせて、越後の小京都と呼ばれることもあります。江戸時代には、毎月6回定期的に開かれた六斎市の市場町として栄えました。 その加茂に、約200年の歴史を持ち、国の伝統的工芸品に指定されている「加茂桐箪笥」があります。 桐は吸湿性が少なく、高温多湿の日本にあっても衣類を湿気から守り、また熱伝導が低いことから火事に遭っても内部は燃えにくい性質を持っています。こうした素材の上に、桐箪笥は隙間がなく、気密性の高い作り、扉や引き出しの開け閉めが軽いといった特徴を持ち、古くから日本人に愛用されてきました。その中にあって、加茂の桐箪笥は、全国の約7割の生産量を占め、北海道から九州まで出荷されています。 しかし、これまでの歩みを見ると、順風満帆とはほど遠い苦難の歴史を感じます。とくに昭和20年代から30年代までは、まさに茨の道でした。 戦後はベニヤ箪笥の全盛期で、政府も機械化、量産化を推進するため、手作りの桐箪笥に対し、20%の物品税をかけました。当然、桐箪笥は高価になり、売れ行きが低迷。 また、新潟では木材不足解消のため、生長の早い桐の植林を進めていましたが、桐の使用量が減ったため供給過剰となり、桐の価格が下落しました。すると価格の安さに注目した洋家具メーカーが、裏板や引き出しに桐を使い始めました。 ところが、その頃には値下がりに嫌気をさした桐農家が、植林をやめており、今度は桐が極端に不足。昭和30年代には、桐箪笥は壊滅状態に陥り、昭和27年に全国で1360軒あった業者の数は5年ごとに半減し、40年代に入ると170軒まで減ってしまいました。 その後も桐材の不足、日本人のきもの離れなど、多くの危機がありましたが、加茂桐箪笥はそのつど柔軟に対応し、それらを乗り越えてきました。今後も、高い技術を生かして時代のニーズを取り入れていけば、日本の伝統家具である桐箪笥を継承していくことができるのではないでしょうか。

山紫水明の渓谷に伝統の技が息づく木彫りの里

イメージ
滋賀県北東部、琵琶湖東岸の町・米原。古くから交通の要衝として栄え、現在も新幹線停車駅の米原は、東海道・北陸両線の連絡駅となっています。また、国道8号と同21号の分岐、名神高速道路と北陸自動車道のジャンクションもここにあります。 米原にはもう一つ、東海道本線・醒井駅があります。古来、中山道61番目の宿駅として賑わった町です。この宿場の東の入口に、清らかな湧水があります。『古事記』や『日本書紀』に見られる「居醒の泉」だとされ、『十六夜日記』を始め古くから多くの書物に書き残されています。 湧き出た水は、地蔵川となって街道筋を流れます。川には釧路湿原や奥日光・湯川などで見られるバイカモが群生しています。水温が年間14度前後の清流に育つこのバイカモが、訪れる人の気持ちを和ませ、なんともいえない趣をこの宿駅に与えています。 その醒井から鈴鹿山脈の北の端、霊仙山へ向かって3kmほど進むと、木彫りの里・上丹生に出ます。1日の平均日照が3時間といわれるほど山が迫り、その間を流れる丹生川に沿って民家が軒を連ねています。130戸ほどのうち約4分の1が、木工を生業とする家だそうです。 上丹生で木彫が始まったのは、江戸中期。堂大工・上田長次郎の次男勇助が、友人の川口七右衛門と共に京都で12年間、彫刻修業をし、帰郷して社寺彫刻や欄間彫刻を手がけたのが始まりです。その後、2代目勇助が長浜の浜仏壇の彫刻を始め、江戸末から明治中頃にかけて、木彫の村として大きく成長しました。更に明治の末、横浜で西洋家具、東京で西洋建築を学んだ宮大工の森曲水が、それらを伝統的な木彫技術に生かし、工芸として新しい流れをつくりました。 森曲水の弟子の一人井尻庄一さんは、昭和元年からノミを手にし、芸術性の高い作品で上丹生の木彫の第一人者と言われました。その後、息子の宣男さん、信一さん兄弟が後を継ぎ、更に現在は孫の一茂さんが継承しているようです。取材でお会いした際、庄一さんは「木彫りは下絵がすべて」と話していました。「いい構図が浮かぶと寝食を忘れ筆を執る」と。 社寺建築の彫刻から欄間、仏像、だんじりを始めとした祭の山車や曳き物、床置、家具、仏壇など木で彫れるものは何でも彫るのが、上丹生の木彫の特色です。さまざまなものを彫るため、粗彫りも含めるとノミの種類は300種以上に及びます。上丹生にはこうした彫刻を始め木地、仏壇の飾り金具

木のぬくもりを伝える北国のクラフト

イメージ
1980年代から、日本のあちこちで、まちおこし・村おこし運動が盛んになりました。置戸町も、そんな町の一つでした。 置戸では、1970年代の後半から、町づくりのためにさまざまなアイデアを生み出してきました。全国的に有名になった人間ばん馬や、町民焼酎、町民ワイン、それにオケクラフトなどがその産物です。中でもオケクラフトは、置戸町のアイデンティティーとも言える森林文化の中心的存在として、町を挙げてその育成、強化に取り組んできました。 置戸町は大雪山の東端に接し、周囲を山に囲まれ、森林が町の面積の8割以上を占めています。森林のほとんどは、エゾマツとトドマツ。軟らかく割裂性が高いため、建材としての需要はほとんどなく、せいぜい炭鉱の支柱用に安い値段でしか売れませんでした。 そのため二次加工に力を入れ、付加価値を高める必要がありました。コロッケを買う時に包んでくれた経木や、駅弁の折り箱などがそれです。しかし、ある時期から折り箱は紙製になり、経木はビニールへと変わってしまいました。 そこで割裂性のよさを生かして、割り箸作りを始めました。これは当たり、高級割り箸の生産はぐんぐん伸びました。が、機械で量産する場合、割り箸に出来るのは表皮に近い部分だけ。樹齢100年ぐらいの太い木でも、中の60年分ぐらいは捨てることになります。これでいいのだろうか。そんな声が、町の中で次第に大きくなってきました。 割り箸にしろ、経木にしろ、使い捨てとは言え、捨てた後はまた自然に返ります。木に囲まれて生きてきた日本人の生活の知恵であり、人間が自然に積極的に関わった形でのリサイクルでした。しかし、機械の導入によって、自然と人間の良い関係が崩れてしまったのです。6割は捨てるとなると、やはり抵抗があります。町でも「豊かな自然を守り、自然と共に楽しく暮らす町づくり」を目指し始めました。 町では、工業デザイナーの秋岡芳夫氏を招き、自然との新たな関係を模索しました。その話し合いの中から生まれたのが、オケクラフト。成長に100年かかった木では、100年使える物を作る。育つスピードと作るスピードを合わせよう。この考え方をベースにした新しいものづくりへの挑戦でした。 エゾマツ、トドマツの見直しが始まりました。東北工業大学からロクロ技術と樹脂強化、クラフトデザインを導入。170種類もの工芸品を試作して、東京のデパートで展覧会を

障害者スポーツの普及活動からアスリートへ転身 - 田中光哉さん

イメージ
■ テコンドー K44/44クラス-61kg級代表 沖縄の名桜大学在学中に、東京パラリンピックの開催が決まりました。何か関係する仕事に就きたいと考え、東京都障害者スポーツ協会に就職。協会では障害者スポーツの指導やスポーツイベントの運営に携わり、その中で自分と同じ上肢に障害がある選手が出場するテコンドーと出会いました。 小学校から大学まで健常者と一緒にサッカーをしていた田中さんは、何かスポーツをしたいと考えていたところだったため、テコンドーに取り組んでみることにしました。しかも東京パラリンピックの公式競技として採用されることが決まったと聞き、どうせならパラリンピックを目指そうと考えました。 そうするうちに合宿や遠征が増え、東京パラリンピック出場の可能性も感じ始めました。しかし、当時の職場では休みを取るのが難しく、2018年4月、競技に専念出来る雇用形態で製薬会社へ転職。同時に、通っていたテコンドーの本部道場の近くに引っ越して、競技に集中する環境を整えました。更に、テコンドーの本場である韓国へ武者修行に行ったり、韓国から練習パートナーに来てもらったりして、研鑽を積みました。 テコンドーは、障害者スポーツには珍しいフルコンタクトの格闘技で、迫力や激しさがあり、障害のあるなしにかかわらず観戦して楽しめる競技になっています。田中さん自身はステップを得意としており、観戦の機会があれば細かいステップを見てほしい、と話していました。 パラテコンドーは障害の程度によって四つのクラスに分かれ、更に体重別に3階級が設定されていますが、パラリンピックでは障害のクラス分けがありません。テコンドーには手で押して蹴るという戦法があるため、腕がある障害の軽い選手と対戦する場合、両上肢欠損の田中さんは不利な状況での戦いになります。そのため、練習パートナーや師範を始め道場生の協力を得て、腕がある選手と対戦する場合の戦術や技を磨いてきました。そのかいあって、昨年1月のパラリンピック選考会で見事優勝して、日本代表の座を射止めました。 「東京パラリンピックでの目標は、メダル獲得です。その戦いを通して、パラテコンドーを多くの人に知ってもらいたいです」と、田中さんは話しています。 【成績】9月2日テコンドー男子K44 61kg級準々決勝に登場した田中選手(K43)は、ブラジルのソダリオ トルクワト選手と対戦し、

地元開催でお家芸復活の期待がかかる全盲の柔道家 - 永井崇匡さん

イメージ
■ 柔道B1クラス73kg級代表 生まれつき眼球に異常があり、2歳で完全に視力を失いました。小学校1年の終わり頃、父が少しでも運動をさせたいと、地元中之条町の林昌寺道場で柔道の指導をしている知人に相談し、道場に通い始めました。外遊びは危ないと止められていたため、道場で思う存分動けるのが楽しく、永井さんは熱心に練習に励み、小学生時代には県大会で2度3位に入賞。もちろん相手は全て健常者でした。 中学は東京にある筑波大学付属視覚特別支援学校に進学。寮の門限があり、柔道は2週間に一度、自宅に帰った時に林昌寺道場で稽古をするぐらいでした。それでも中学3年で出場した視覚障害者の大会で優勝。高等部に進むと門限が延び、近くにある系列の筑波大学付属高校の柔道部で練習するようになりました。高校1年で出場した健常者の大会では決勝で破れましたが、健常者とも互角に渡り合える実力が評価され、視覚障害者柔道の強化合宿に呼ばれるようになりました。その後、数学教師を目指し、2年間の浪人生活を経て、学習院大学理学部数学科へ進学。運動と勉学を両立させ、2019年春、大学を卒業し、同大職員として仕事をしながら、東京パラリンピックを目指しました。 視覚障害者柔道は全盲から軽度の弱視まで三つの障害クラスが設定されています。しかし、実際には全クラスの選手が一緒に試合をします。全盲の永井選手には不利ですが、感覚を研ぎ澄ませハンディを克服。国内では優勝して当たり前と言われるほど、一歩抜きん出た存在ですが、目標はあくまでも東京パラリンピックでの金メダル。 柔道男子がパラリンピック正式競技になった1988年のソウル大会で日本は金メダル4個を獲得しましたが、その後は右肩下がりで、前回リオ大会では金メダルがゼロに終わりました。地元開催で、お家芸復活ののろしを上げたい日本パラ柔道界にとって、永井選手は期待の星です。 得意技は巴投げと寝技。最近はそれに加え、小外刈りなどの足技も磨いています。また、視覚障害者柔道では組み合った状態で試合が始まるため、力の強い外国人選手に対抗出来るようフィジカルの強化にも取り組んできました。 【成績】8月28日柔道男子73kg級予選に登場した永井選手(B1クラス=全盲)は、同じB1クラスのアルゼンチン、ラミレス選手(クラス)を相手に39秒、巴投で一本勝ちを収め、幸先の良いスタートを切りました。しか

目標はずばり、東京パラリンピックでの金メダル! - 山口凌河さん

イメージ
■ ゴールボール代表 小学5年生で野球を始め、中学時代は野球部の主将を務めるスポーツ少年でした。が、中学2年の時、レーベル遺伝性視神経症という難病を発症。2.0あった視力は半年ほどで、わずかに人影や光を認識出来る程度にまで落ちてしまいました。医師からは治らないと告げられ、自暴自棄になっていた彼に、母が盲学校進学を進めました。そして、進学した茨城県立盲学校で、ゴールボールと出会いました。 「目が見えなくなったらスポーツなんて出来ないと思っていました。でも、普通に体育の授業があり、また身体を動かす楽しさを感じることが出来ました」 その後は、ゴールボールにのめり込みます。野球と同じ団体競技で、仲間と声を掛け合い、コミュニケーションを取りながら戦う楽しさが山口さんには合っていました。高校1年の冬には、早くもゴールボールのユース代表合宿に呼ばれました。ここで世界を意識。世界と戦えることが、何よりも魅力的でした。 2013年には世界ユース選手権大会で優勝、更にフル代表にも招集され、2019年に開催されたジャパンメンズオープンでは大会得点王に輝き、日本チームの優勝に貢献しました。 山口さんのプレーは、投げる球の速さと、相手が嫌がるところに正確に投げ込めるコントロールの良さにあります。現在の目標はもちろん、東京パラリンピックで金メダルをその手にすること。 「以前は夢でしかありませんでしたが、相手チームを研究し、どうやったら勝てるか試行錯誤を繰り返し、東京パラリンピックではいい結果が出せるのではないか、と手応えを感じられるようになりました」 目が見えなくなったことで、見えたこともたくさんあります。自分は両親や友達、チームの仲間、所属する関彰商事の人たちなど大勢の人に支えられています。一番の収穫は、人のありがたさに気づけたことでした。そして、その人たちや自分を応援してくれている人に、スポーツで結果を出し恩返しがしたい。全ての人が、イコールで結ばれる社会を目指し、自分もレガシーを作っていけたら・・・。そう山口さんは話します。 【成績】予選リーグ:8月25日のアルジェリア戦は13対4で勝利、山口選手は5分の出場で1得点を上げました。27日のアメリカ戦は11対1で勝利、この日はスターターの3人が好調で、コールド勝ちを収めたこともあり、山口選手の出場はありませんでした。28日のリトアニア戦も1

スピードと高い守備力で日本代表に定着 - 赤石竜我さん

イメージ
■ 車いすバスケットボール代表 5歳の時、ぜんそくの発作で入院。治療を終え退院する日の朝、突然立てなくなりました。精密検査の結果、日本で3例目という難病だと判明。脊髄損傷で車いす生活を送ることになりました。 その後、リハビリを続ける中、小学校4年生の時に、当時通っていたリハビリの先生から車いすバスケットボールのことを聞き、現在所属しているチーム「埼玉ライオンズ」を紹介してもらいました。当時はあまり興味を持てませんでしたが、中学に入学すると、仲のいい友人がバスケット部に入部したり、3歳上の兄がバスケットをしていたりする影響もあって、改めて埼玉ライオンズの練習に参加させてもらうことにしました。 ちょうどその頃、2020年の東京パラリンピック開催が決まりました。赤石さんはその出来事に運命的なものを感じ、バスケットにのめり込むようになります。もちろん競技を始めたばかりで明確な目標ではありませんでしたが、東京パラリンピックに出たいという気持ちはその時から少なからずあったといいます。 中学2年の時、正式にチームに加入。ぐんぐん頭角を現し、高校1年で初めて国際大会を経験。それがきっかけとなって日本代表を目指すようになりました。今度は明確な目標でした。そして高校2年で23歳以下日本代表に選ばれ、その1年後にはフル代表にも初招集されました。 赤石さんの持ち味はスピードを生かしたディフェンス力。スピードでは日本でも1、2を争うレベルにあり、日本代表で求められているのもそこだと自覚しています。逆に一番の課題は得点力で、特にアウトサイドシュートの確率を上げるため、さまざまなトレーニングに励んでいます。 「東京パラリンピックに出場する日本代表チーム12人の中に残ることが当面の目標でしたが、選ばれただけでは意味がなく、選ばれたからには結果を出す義務があります。日本代表チームが目標としている初のメダル獲得に貢献した、と言われるような活躍をしたいと思っています」 スピードと高い守備力で、日本代表に欠かせない存在になっている赤石さん。その目線は更なる高みにあります。 【成績】 予選リーグ :8月26日のコロンビア戦は63対56で勝利、赤石選手のプレイタイムは11分15秒、フィールドゴール(FG)は0/3でした。27日の韓国戦は59対52で勝利、赤石選手は8分51秒の出場で、FG2/2、アシスト(AS

難病に負けず、明日に向かって走り続ける"あきらめない男" - 伊藤智也さん

イメージ
■ 陸上男子T52(車いす:100m/400m/1500m)代表  ※写真は20年前の取材当時 伊藤さんが発病したのは、35歳の誕生日を迎えた3日後の1998年8月19日のことでした。医師からは10万人に1人という中枢神経系の難病、多発性硬化症だと告げられました。伊藤さんの場合、まず両脚が動かなくなりました。やがて左目が見えなくなり、左腕にも症状が現れてきました。 病気は伊藤さんから、さまざまな運動機能を奪ってしまいました。しかし、伊藤さんの前向きな性格や持ち前の明るさまで奪うことは出来ませんでした。発病から1年ほど経った1999年の夏頃には、車いすマラソンの練習も始めました。練習を続けるうち、どうせやるからには大きな大会を走りたいと思うようになり、 2000年11月12日に開催される第20回大分国際車いすマラソン大会に出場することを決めました。  ◆ 大会当日、30km地点を通過した時のことです。よし、もう少しだ。伊藤さんが、そう思った瞬間、体が車いすごと道路にたたきつけられました。 左側から抜いてきた選手との接触事故でした。左目が失明状態のため、その選手が視界に入らなかったのです。右肩に激痛が走りました。脱臼でした。が、伊藤さんはあきらめませんでした。競技係員が寄って来ました。「どうする? 棄権するか?」。係員の問いに、伊藤さんは答えました。「右肩をはめるのを手伝ってください。レースを続けます」。 30km地点での転倒後、伊藤さんは脱臼した右腕一本で車いすを操作し、懸命にゴールを目指しました。スピードは出ず、後続の選手に抜かれて行きます。彼らは追い抜く時、一様に「がんばれよ」と声をかけて行きます。両腕両脚がなく、顎を使って車いすをこいでいる選手もいました。伊藤さんは走りながら、そんな選手たちに励まされていました。そして3時間という制限時間まで残り約15分、伊藤さんは力を振り絞ってゴールに飛び込びました。  ◆ このレースをきっかけに、伊藤さんは本格的に陸上競技に参戦。2002年には、日本選手権シリーズのマラソン、5000m、1500mの各種目で優勝を飾っています。また、国際大会にも出場し始め、2003年の世界選手権では400m、1500m、マラソンの3種目で金メダルを獲得。 パラリンピックには2004年のアテネから、2008年北京、2012年ロンドンと、3大会連

パラリンピック競技大会のお話

イメージ
パラリンピックは、障害を持つアスリートによる世界最高峰の国際競技大会。夏季大会と冬季大会があり、オリンピックと同じ年に同じ都市で開催されます。1960年のローマ大会が、第1回大会と位置づけられていますが、当時は国際ストーク・マンデビル大会と呼ばれていました。 ストーク・マンデビルというのは、イギリスのロンドン郊外にある病院で、ロンドン・オリンピックがあった48年、この病院で16人(男子14人、女子2人)の車いす患者によるアーチェリー大会が開催されたのが、そもそもの発端です。この大会は以後毎年開催され、52年にはオランダからも参加があり、国際競技会へと発展。オリンピックが開催された60年のローマ大会には23カ国、400人が参加するまでになりました。 そして64年の東京オリンピック開催に合わせ、国際ストーク・マンデビル大会を行ってほしいとの要請が、61年3月に同大会の提唱者であるルートヴィヒ・グットマン博士から厚生省(現厚生労働省)にありました。しかし、身体障害者スポーツの素地がなかった日本は、関係団体を中心に協議するも、国際大会以前に国内の障害者スポーツ振興が先との声が強い状況でした。 そんな中、日本国内のライオンズクラブが、朝日新聞厚生文化事業団に対してパラリンピック開催について照会。やるのであれば援助を検討したいと連絡しました。グットマン博士から要請があった1年後の62年3月のことでした。 これを受けた同事業団は協議の上、1)国内のスポーツ振興を図ってからパラリンピックを引き受けるのは実際問題として困難。むしろパラリンピック開催を強く打ち出し国内態勢を作る方が早道。2)パラリンピックを引き受けるに当たっては肢体不自由、盲、ろうあの人たちのスポーツも同時に行うことを条件とする。3)5月に小範囲の人たちで準備打ち合わせ会を開催する。4)ライオンズクラブに強力に働き掛ける、という4項目を決定。厚生省の了解を得た上で、NHK厚生文化事業団との連名で関係者に準備打ち合わせ会の案内を発送、こうしてパラリンピック東京大会開催への道が開けました。 ところでパラリンピックの呼称は、両下肢の運動まひであるパラプレジア=Paraplegiaの「パラ」とオリンピック=Olympicの「リンピック」を組み合わせた造語で、日本が作った愛称でした。正式には国際ストーク・マンデビル大会だったわけ

南蔵王連峰山麓・弥治郎に伝統こけしの源流を訪ねて

イメージ
白石市は、蔵王連峰と阿武隈山脈に囲まれた閑静な城下町。近年は東北自動車道の開通や東北新幹線白石蔵王駅の開業で、県南の交通拠点となっています。白石と言えば、まず思い浮かぶのが、温麺と白石和紙。しかし、もう一つ「弥治郎こけし」の名で知られる伝統こけしも、白石市のものです。 白石市福岡八宮字弥治郎。ここが、弥治郎系こけしの発祥地です。白石市街から北西へ約5km、昔から奥羽の薬湯として知られた鎌先温泉があります。弥治郎の集落は、ここから更に北西へ1.5kmほど行った所にあり、こけしは鎌先温泉の土産物として発生しました。 「伝統こけし」は、東北地方に限って見られる木地玩具ですが、いずれも温泉場を本拠とした湯治土産が元で、その担い手は木地師というロクロ工人団でした。 木地師の本拠は当初、京阪周辺の山地で、特に近江(滋賀県)や吉野(奈良県)が中心だったようです。やがて原材が乏しくなるまま、彼らは深山に良木を求めて散っていきました。それは、地方的な漆器工芸の形成とも関係します。 東北地方にも、こうした木地師の集落は多く、特に会津山地に集中していました。これらは会津漆器と結びついていましたが、会津城下から外れた山地に入った木地師団は、漆器問屋との関わりがなく、そのため湯治客相手の木地物商売とりわけ木地玩具の製作販売を始めたと見られています。東北地方には、温泉が多くあります。その湯治客に目をつけたのは、当然だと言えるでしょう。 こうして発生した伝統こけしは、10系統に分類されます。土湯、鳴子、遠刈田、そして弥治郎の4者をいわば源流とし、作並、蔵王高湯、肘折、木地山、津軽、南部の6者を、後の発生ながら独自の型を伝えるものとしています。そして更に、これらの分派が各地にあります。 これは、近くの温泉という小さな市場だったことから、長男以外が木地業で身を立てる場合は、自分で新しい市場を開拓して独立する必要があったためです。弥治郎系のこけしが白石、小原、仙台、飯豊、米沢、郡山、熱塩、塩川、いわき、そして北海道の弟子屈などに散在するのも、このためです。しかし、今では東北地方全体の土産として、また日本を代表する人形として海外にまで、販路は広がっています。 弥治郎も昔は半農半工で、木地仕事は農閑期に限られていましたが、今では1年中やっています。そして毎春、白石市では、「全日本こけしコンクール」が開催さ

加賀温泉郷・湯の里、技の里

イメージ
山中、山代、片山津 ー 旧山中町(現・加賀市)は、古くから知られた湯の里です。2005年に加賀市と合併して新生・加賀市となった後、町名がそれぞれ加賀市山中温泉、加賀市山代温泉、加賀市片山津温泉となったのを見ても、これら三つの温泉が、町にとってどんな存在なのかが分かります。 このうち山中温泉は、大聖寺川の中流にあリ、文字通り山の中。山代温泉は大聖寺川下流、前に田園地帯を控え、背後に小高い丘陵を背負った高台にあります。そして片山津は日本海側、柴山潟の畔にデラックスな旅館が立ち連なる明るい温泉です。この三湯に、小松市の粟津温泉を加えて、加賀温泉郷と総称しておリ、それぞれ異なった風情と情趣で、多くの湯客を引きつけています。 この加賀温泉郷には、お湯の他にもう一つの顔があります。山中漆器と九谷焼 ー つまリ「技の里」としての顔です。 山の木地師が、温泉土産に杓子や椀、それに玩具などを挽いたのが、山中漆器の始まリだといいます。漆塗リは江戸時代中頃に始まリ、蒔絵は江戸後期に京都や会津の技術が導入されて基礎が出来たといいます。 同じ石川県には、漆器の代名詞のようになっている輪島塗がありますが、両者の間にはかなりの違いがあります。山中漆器の場合、塗リそのものよりも、むしろ挽きの方に特徴があると言えます。 特に、ひと目で山中漆器と分かるのが、独特の素地加飾「筋挽き」です。器の表面にびっしりと細かい筋を彫リ上げる千筋や、平筋、ロクロ目筋、更には飛び鉋を使った飛び筋、稲穂のような筋文様を彫る稲穂筋など、数十種類の筋挽きがあります。素地加飾に使う小刀やカンナは、全て木地師自らが作ってもので、作業に応じて使いわけます。 また、薄く挽く技術も、非常に優れています。向こう側が透けて見えるような、極薄の茶托や椀素地があって、その技には本当に驚いてしまいます。こうした高度な技術は、漆を塗った後に蓋がぴったリ吸い付くよう見込んで挽く技術にも通じ、中でも茶道の棗では、他の追随を許さない力を持っています。  ◆ もう一つの技・九谷焼も、この時、当時の代表的な作家・北出不二雄さんにお会いし、お話を伺うことが出来ました。北出さんは、1919(大正8)年の生まれで、取材時は60代後半、日展評議員や金沢美術工芸大学名誉教授も務められ、石川県の無形文化財に指定されていました。少年時代から家業である製陶に関わり、兵役に

江戸情緒を色濃く伝える小江戸の町並み

イメージ
川越は古くから、小江戸と呼ばれてきました。 徳川家康の関東入り以来、川越は江戸城の北の守りの一つとして重要視されました。そのため、川越城は酒井氏、堀田氏、松平氏、柳沢氏ら大老・老中格の譜代や親藩の大名が代々城主を務めました。川越は、その城下町として栄え、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信網の時、行政区画が定められ、ほぼ現在の町が形成されました。 また、川越は江戸から40kmと近いこともあり、大消費地・江戸へ大量の物資を輸送する役目も担っていました。松平信綱による野火止の新田開発もそのためのものでした。交通路も川越街道に加え、新河岸川舟運の水路が整備され、川越から江戸へ、米穀、サツマイモ、醤油、炭、建材などを始め、川越織物などの特産物が運ばれました。 こうして川越は、商業地としても大いに賑わい、また江戸の文化がすぐに伝わるようになりました。その影響は建築様式にも現れ、1720(享保5)年以降、江戸に耐火建築の蔵造り商家が建ち並ぶようになると、川越でも蔵造りが目立つようになりました。 もっとも、今日残るものは、1893(明治26)年の川越大火後に建てられたものです。この時の火事では、市街地の3分の1を焼失しましたが、川越商人の富と力によって、更に重厚な耐火建築の蔵造りの店が復興されました。 その後、川越は第二次大戦の空襲を免れ、明治の建築とはいえ、江戸の面影を色濃く伝える町並みをそのまま残すこととなりました。 川越には現在、JR埼京線、西武新宿線、東武東上線の3線が乗り入れています。この中で、蔵の町並みに最も近いのが、西武新宿線の本川越駅。駅から北へ向かって歩くと、20分ほどで蔵の通りに出ます。この通りは、日本一重厚な町並みと言ってもいいほど、蔵造りの店が建ち並びます。 しかし、池袋からは急行で30分。都心に近いだけに、人口も増え、今や35万都市の川越。蔵の通りの交通量も、かなり多くなっています。江戸時代の面影を残すのは町並みだけで、通りには乗用車やバス、トラックがひっきりなしに走っており、ちょっとつや消し。欲を言えば、迂回路を作ってほしいところです。 蔵の通りから一歩脇道を入ると、川越のもう一つの顔に出合えます。表通りの重厚な町並みとは一変、昔懐かしい駄菓子屋が軒を連ねています。 この辺りは江戸時代、養寿院の門前町として栄えた所で、明治の初め、鈴木藤左衛門という人が、ここで

ハイカラな家並が語る進取の気風

イメージ
八幡浜市保内町は県西部、日本一長い半島として知られる佐田岬半島の基部にあり、北は瀬戸内海の伊予灘、南はリアス式海岸の宇和海に面しています。古くは平氏の荘園であったと言われ、平家谷を始め、平家の落人伝説が多く残っています。 保内の町を歩いていると、擬洋風のしゃれた建物や赤レンガ塀など、レトロなたたずまいを見せる家並が目に付きます。まるで、明治時代か大正時代の街をのぞいているかのようです。 保内町は藩政時代、川之石、雨井の二つの港を中心に海運業で栄えました。両港は九州から大坂にかけ、ハゼ、木蝋(もくろう)、干鰯(ほしか)、米などを回送する千石船の出入りで賑わい、港町は活気にあふれました。 更には明治新政府の殖産興業政策を受け、鉱業、紡績業などの商工業が発展。1878(明治11)年には、県下で初めての第二十九国立銀行、89年には四国最初の紡績工場が建てられています。 紡績工場は昼夜2交替で操業、夜は自家発電で電灯をともしました。これが四国最初の電灯であり、初めて「文明の光」を見た保内の人々の驚きは大きかったといいます。大正から昭和初期には「町民の3人に一人は東洋紡績の従業員」と言われるほどの隆盛を見せました。 一方、海運業で力を付けた豪商たちは、藩政時代に始まった鉱山採掘に目を付け、明治半ばには鉱山経営にも乗り出しました。大峯鉱山は一時、四国第2位の産出量を誇り、保内は鉱山ラッシュに沸きました。 今、街のあちこちに点在するハイカラな家並は、保内の経済が隆盛を極めた明治、大正期に建てられました。保内の歴史は、産業の歴史でもあり、家並はいわば歴史の証人とも言うべき存在なのです。そして、その一つひとつが、進取の気風に富んだ伊予の経済人の姿を彷彿させます。  ◆ ところで、その保内に「元祖 魚肉ソーセージ」があります。日本で最初に魚肉ソーセージを作ったのは、保内にある西南開発という会社です。これについては、別記事を立てますが、その予告編ということで、さらっと触れておきます。