投稿

ラベル(茨城県)が付いた投稿を表示しています

民謡のある風景 - 潮風に三味の音流れる水戸三浜(茨城県 磯節)

イメージ
栃木の北に発した那珂川は、茨城へ出て太平洋に注ぎます。 茨城県44市町村のうち、太平洋に向かい合うのは7市1町1村。大なり小なり、海との関わりの中で暮らしてきました。那珂川は、この長い海岸線の中央辺りで海と出合います。 この川の河口には、昔から水戸の三浜と言われてきた港が並んでいます。那珂湊、平磯、磯浜がそれで、いずれも、太平洋の荒波にもまれてきました。中でも那珂湊は、港としての歴史も古く、江戸期、奥州の大名たちは、ここから川伝いに江戸へ物資を運んだといいます。また、大洗にある磯前神社は、1170年近く前に建てられた古社で、海との長いつながりをうかがわせ、ここの港も桃山時代の頃から賑わっていました。 この地方に海にゆかりの唄が伝わっているのは、むしろ当然で、その名もずばり『磯節』と名付けられています。  ♪磯で名所は 大洗さまよ   松が見えます ほのぼのと   松がネ 見えます   イソー ほのぼのと この唄は、三陸から常陸にかけての海岸で唄われていたものが元になっていて、江戸期に花街で整えられ、座敷唄として広まり出しました。大正の初めにはレコード化もされたといいます。 この『磯節』を得意としたのが、目の不自由だった関根安中という男です。元船方だった関根は、角力の常陸山に美声を愛され、相撲巡業と共に全国を回り、唄もまた全国に広まりました。東京でも、1895(明治28)年頃に流行し、1925(大正14)年には、関根自身が、設立間もないNHKからラジオ放送もしたといいます。 太平洋の波にもまれた舟唄が、今ではすっかり三味に合い、銚子の『大漁節』と並び、関東を代表する民謡となりましたが、曲調はやはり、潮風がよく似合います。 

住民主体の「おもてなし」行事・真壁のひなまつり

イメージ
桜川市の南東に連なる筑波山・足尾山・加波山は「常陸三山」と呼ばれ、古くから茨城の山岳信仰の中心地として知られていました。筑波山は、日本百名山の一つに数えられ、江戸時代には「西の富士、東の筑波」と言われ、富士山と並び称されました。足尾山の山頂には足の病を取り除き、足を丈夫にするという足尾神社があり、多くの履物やギプスなどが奉納されています。修験道の山として知られる加波山では、今も山伏の修行である禅定が行われます。また加波山は、明治時代に起きた反政府運動「加波山事件」の舞台でもあります。 この常陸三山では良質な花崗岩を産出し、そのふもとにある桜川市真壁町は、昔から石材の産地として名を馳せてきました。また採石だけではなく、石の加工も行われ、真壁で造られる「真壁石燈籠」は、国の伝統的工芸品に指定されています。 真壁は、戦国時代に真壁氏が城を築き、今につながる町割りが形成されました。その後、豊臣政権五奉行の筆頭で、関ケ原の戦いでは家康を支持した浅野長政が、隠居料として真壁に5万石を与えられ、真壁藩初代藩主となって城下町を完成させました。枡形と呼ばれる城下町特有の町割りは、今も当時の面影を伝え、国の伝統的建造物群保存地区に指定されているエリアでは、約100棟が国の登録有形文化財になっています。 2003(平成15)年、伝統的建造物群保存地区の真壁地区で、自宅や店にひな人形を飾る活動が始まりました。最初は数人の有志が、真壁に来た人を何とかもてなしたいと企画したものでしたが、それを見ていた町の人たちが、自主的にひな人形を飾り始めました。初の試みにもかかわらず、数人で始めたものが、3月3日のひな祭りの頃には約40軒になっていたといいます。 そして2年目以降、ひな人形を飾る家や店舗は次々と増え、今では約180軒が、それぞれのおひな様を飾るようになり、観光客も年々増えて10万人に及ぶ規模になりました。更には、「真壁のひなまつり」の盛況ぶりが周辺にも広がり、最近は県内あちこちで同様の企画が開催されるようになっています。 こうして、今や茨城を代表する春の風物詩に成長した「真壁のひなまつり」ですが、そもそもは「真壁に来る人をもてなしたい」という住民の思いから始まったものです。そのため、多くの住民が外から来た人に声掛けし、真壁の歴史や町のことを話してくれます。そんな「おもてなし」の心こそが、「真

ヨシが繁る広大な湿地帯・渡瀬遊水地

イメージ
義父は、関東平野のほぼ中央にある茨城県古河市の出身でした。戦後、ソ連によるシベリア抑留から生還、東京電力で定年まで勤め上げました。私の妻は、東京・中野の家で生まれましたが、義父は定年前に妹夫婦と隣り合わせで古河の土地を買っており、リタイア後は古河で暮らしました。 私の父は、水戸の出身でしたが、若い頃に東京へ出てしまい、祖父も晩年は東京で同居していました。そのため、水戸の実家は既になく、子どもの頃から田舎というものを知らなかった私は、古河が初めての田舎という感じでした。 その古河市のはずれを流れる渡良瀬川は、栃木県足尾町に源を発し、ここで利根川と合流します。渡良瀬川をはさんで栃木、群馬、茨城、埼玉の県境が交差する辺りに広がるのが、渡良瀬遊水地です。その中央には、かつて日本最初の公害事件として知られる足尾鉱毒事件で廃村になった谷中村がありました。 渡良瀬川河川敷で行われる古河の花火 その谷中村の遺跡が、今も谷中湖のほとりに残っています。しかし、湖周辺にはサイクリング・ロードが巡り、湖上ではウインド・サーフィンを楽しむレジャー・スポットに変貌しています。 東西約6km、南北約9km、東京の山手線内とほぼ同じ広さに相当する遊水地一帯は、ヨシが繁る広大な湿地帯です。その景観は、釧路湿原にも例えられるほどのスケールを持っています。都心から電車で1時間足らずの所だとは、ちょっと信じがたい光景です。 ここには、たくさんの野鳥が生息し、フナを始めとする魚も豊富。釣りを楽しむ人も多くいます。人の背丈よりはるかに高く生い茂るヨシは、よしずの材料となります。そのため、早春にはヨシ焼きが行われ、この広大な野が炎に包まれます。 また、遊水地からは東に筑波山、西に富士山、北に日光連山が望めます。冬の夕焼けと、晩秋と春先の早朝に川霧がたちこめる中の朝焼けは、格好の被写体となり、プロ、アマ問わず、多くの写真家が訪れます。特に元旦には、筑波山から昇る初日の出をとらえようと、土手の上にずらりとカメラが並ぶそうです。 もう1カ所、お薦めなのが、古河総合公園です。渡良瀬遊水地に比べると、ぐっとスケールは小さくなりますが、それでも都心に比べれば広い敷地の中、四季の花々が咲き誇り、市民の憩の場となっています。古河城主・土井利勝ゆかりのハナモモは、市の花に制定されていて、2000本もの桃林は4月上旬が見頃となりま

日本のワイン発祥の地は、自然美あふれる水の里

イメージ
JR牛久駅の東口から商店街を抜け、市役所通りを歩いて行くと、突然、西欧調のレンガ造りの建物に出くわします。日本最初の本格的ワイン醸造所「シャトー・カミヤ」です。 シャトー・カミヤは1903(明治36)年、浅草の「神谷バー」で知られる実業家・神谷傳兵衛氏によって建てられました。「シャトー」という称号は、原料栽培からボトリングまで、一貫して行う醸造所のみに与えられるものです。 その称号通り、シャトー・カミヤは創業以来、牛久でぶどうの栽培から醸造、ボトリングまでを行ってきました。しかし、近年、牛久は東京のベッドタウンとして急速に発展。住宅地でのぶどう栽培が困難になり、やむなく70年代半ばからは、山梨県の農家に生産委託をするようになりました。 が、現在も本館の他、明治時代に建てられた醸造場や倉庫などがそのまま残ります。これらレンガ造りの建物はレストランや資料館として利用され、一般に公開されています。特に地下の貯蔵庫には、ワインの熟成を促す、黒カビに覆われた500リットルの樽が並び、歴史の重みを感じさせます。園内には売店もあり、牛久ワインを始め世界のワインがそろっています。好みのワインを探してみるのも楽しいでしょう。 また、「神谷バー」の名物・電気ブランも、ポケットサイズから一升瓶まで、ラインアップされています。電気ブランはもともと45度だったようですが、今のものは30度。でも40度のものも「電気ブランオールド」という名で売っています。電気ブランに何が入っているのかは知らないのですが、ブランデーをベースに、いろいろブレンドされているようです。カクテルのマンハッタンみたいな甘みがあるのはジン+フレンチベルモットが入っているんだろうかとか、薬っぽいのはハーブ?とか、想像をふくらませるのも楽しいかもしれません。そんな複雑な味が、カーッという喉ごしと共にやってきます。チェイサーがないときついです。 ちなみに、東京発祥のB級酒としては、この電気ブラン(ブランデー)と、ホッピー(ビール)、更にはホイス(ウイスキー)があります。ホッピーは今や全国区になっており、普通に小売りされていますが、ホイスは小売りはないので、幻の酒とも言われています。 シャトー・カミヤがある牛久と言うと、これはもう世界一の高さ(120m)を誇る牛久大仏で有名です。が、日本では珍しい淡水真珠や、「うな丼」発祥の地として

渡良瀬川と利根川に育まれた関東平野の城下町

イメージ
古河市は茨城県の最西端、埼玉、栃木、群馬の各県境に接し、関東平野のほぼ中央にあります。室町時代に、第5代鎌倉公方の足利成氏が、鎌倉から古河へ本拠を移し、古河公方を称して館を構えて以来、北関東の経済、文化、軍事の中心地となっていました。 江戸時代には、古河は将軍が日光東照宮に参拝する際の宿泊所となりました。また、利根川という天然の要害を持つ地であったため、古河城主には、有力な譜代大名が配されました。 結局、徳川家譜代の中でも、常時重要ポストを担ってきた土井氏が16万石を領しておさまり、明治までその城下町として発展。更には、日光街道の宿場町、利根川と渡良瀬川の両河川を控えた河港町としても栄えました。 この古河市、実は市の面積に占める河川敷の割合が、全国一なのだそうです。利根川に、渡良瀬川と思川が注ぐ、いわば川の町だけに、河川敷の広さも相当なもの。なにしろ市の面積の4分の1が、河川敷で占められているのです。 これらの河川敷は、市民の憩いの場として利用され、渡良瀬川沿いには、サッカーのグラウンドが延々と続きます。古河市はまた、全国有数のサッカー王国でもあり、小、中、高校とも全国制覇を果たしています。それを支えてきたのも、この広大な河川敷なのかもしれません。 現在、古河市を含むこの辺り一帯は、関東水系の遊水地となっています。その中心は、公害の原点と言われる足尾銅山鉱毒事件で廃村となった谷中村があった所です。この一帯は、繰り返す水害の暴威に何度も泣かされました。そのため明治政府は、谷中村を中心とした本格的な遊水池を作り、河川敷を拡張して治水対策を施しました。 こうして公害、遊水池によって村を失った人々は、水のひいた遊水地に繁茂するヨシを材料に、よしずやすだれを作り、生計を立てるようになりました。よしず作りは大正の末、海水浴が盛んになる頃から需要が激増して、生産も企業化しました。一時は古河市を中心に茨城、栃木、群馬、埼玉4県にまたがって、数百軒が生産に携わっていました。しかし、それも50年ほど前までがピークで、現在は中国産の安いよしずに押され、業者も減ってしまいました。 が、ヨシ自体はまだまだ豊富。秋には、陽光に映えて見事な黄金色に輝き、華麗な大草原と化します。晴れた日には西に富士山、北に日光男体山が望め、その景観はあたかも、ヨシを中心とした日本最大の湿原、釧路湿原を思わせるよう

裏筑波に伝わる手仕事、竹矢作り

イメージ
石岡市八郷町は、茨城県のほぼ中央。四方を筑波山塊に囲まれた、この静かな町で、代々日本古来の武具、矢の製造を営んでいるお宅があります。県指定の伝統工芸品「八郷竹矢」の小池家と助川家です。 八郷で竹矢作りが始まったのは、明治になってから。笠間藩士であった小池さんの祖先が、明治維新後、八郷町に移り住んで始めたのが最初です。 取材させて頂いた小池貢さんは、八郷竹矢「義政」4代目で、小池さんの5代前は、笠間藩の江戸家老でした。当時、徳川家の矢作(矢作り職人)であった大森という人物が、3年ほど小池家へ居候をしていました。その3年の間に、小池家では大森から矢の製法を学んたようです。 明治になって、禄を離れた小池孫太夫義高は、八郷に居を構え、その子義行の時から、矢作りを始めました。もっとも、いきなり正業とするには心許なかったでしょうし、最初は田畑の耕作の傍らの副業ではなかったか、と想像されます。そしてその後、現在に至るまで、昔と変わらぬ手仕事で、矢を作り続けているのです。 「非常に大変なんですよ、これは。矢というのは、手を抜くところがないんです」と、小池さんは話していました。 矢を仕上げるまでの工程は、全て手仕事。一本一本、昔ながらの製法で作り上げていきます。漆器やダルマの木地作りが機械化され、手織りが機械織りに、炭の窯が電気やガス窯に、と変わる中で、矢はそうした機械の恩恵に浴することのない、今では数少ない工芸品の一つになっています。その工程をざっと説明すると・・・。 まず「荒揃え」といって、竹を重さと長さにより分類します。矢というのは、通常4本1組であるためです。次に「荒矯め」にかかります。竹の根の方から、炭を組んだ釜を数回通し、繊維が軟らかくなった時、竹が真っ直ぐになるまで、矯木でこきおろします。「節たたき」といって節を削り、竹の芽の残りを取ります。更に丸み、目方、太さなどを考えながら削っていきます。 矢は、仕上がりが7匁(1匁は3.75g)と決まっています。採取して乾燥したままの竹は、普通11〜12匁。それを削って7匁にするというのは、相当な熟練が必要です。指先と勘に頼った作業となります。それが終わると、2本ずつ溝のついた石2個で挟み、水と細かい砂とをつけて磨きます(「石洗い」)。水分が取れたところで、「節抜き」をして、「火入れ」を行います。焼き過ぎないよう、水をふくませた布

大規模水害にも負けず咲き誇る常総市の桜堤

イメージ
常総市は、2006年に常総平野の中心だった旧水海道市が、隣接する旧石下町を編入合併して誕生しました。水海道の名は、坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませたことに由来する「水飼戸(みつかへと)」が起源とされ、石下は、坂東武士発祥の地で、平将門生誕の地とも言われるなど、それぞれが古い歴史を持っています。 そんな常総市が、2015年9月、大規模な水害に見舞われました。台風18号の影響による記録的な豪雨(関東・東北豪雨)で、10日早朝から市内を流れる鬼怒川の数カ所で越水や堤防からの漏水が発生し、昼過ぎには三坂地区の堤防が決壊。浸水域は南北約18km、東西約4kmにも及び、約1万1000戸の住宅が水に浸かりました。 大規模水害が起きたその日、私は取材のため北海道の旭川へ行っており、すぐには状況把握が出来ませんでした。そんな中、東日本大震災の支援活動で知り合った水戸葵ライオンズクラブの若林純也さん( 「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」 )が、堤防決壊の翌日に常総入りし、物資の受け入れ態勢など、状況確認を始めたので、若林さんにコンタクトを取ってみました。 しかし、災害対策本部の市庁舎自体、浸水により職員400人、避難市民400人、自衛隊や消防、報道陣ら200人と共に孤立。水が引いた12日になって、ようやく孤立が解消されたとのこと。この状況で、行政が物資の受け入れを管理するのは難しいと判断した若林さんは、所属する水戸葵ライオンズクラブの会員らと共に、救援物資センターを運営することを決断。市と交渉し、市役所新庁舎の2階に常駐することにしました。そして12日には早くも、若林さんと交流のあった首都圏の仲間たちが、第1弾の支援物資を搬入してくれました。 浪江焼きそばの炊き出し その後も若林さんたちは交替で常総市に詰め、救援物資センターを運営しました。また若林さんは、常総市ボランティア・センターで中心的役割を担っていた青年会議所(JC)とも連携し情報を収集。併せて市内を巡回して、被災した市民から支援ニーズの聞き取りを行い、決壊現場の三坂町や周辺地域など、最前線での活動も始めました。 一方、茨城県のライオンズも、義援金口座を開設すると共に、全国からの物資を受け入れるため、常磐自動車道・谷和原IC近くにある水海道ライオンズクラブ会員の倉庫を借り集積所に指定。県内全79クラブに協力を要請したと

国のため散華した若鷲を追悼し、恒久の平和を祈る

イメージ
阿見町は茨城県南部、町の北側を霞ケ浦に面し、大正時代末に東洋一の航空基地と言われた霞ケ浦海軍航空隊が設置されました。更に昭和14年には海軍飛行予科練習部、いわゆる予科練が神奈川県・横須賀から移転し、予科練教育の拠点となりました。予科練を経て戦地へ赴むいた若鷲は約2万4000人、その8割に当たる1万8564人が戦死しました。 その阿見で、予科練の貴重な遺産と歴史を後世に伝え残していこうと、40年以上にわたり毎年8月に、国のために亡くなった若人の冥福を祈りつつ、恒久の平和を誓う会が開催されていると聞き、取材に行きました。会場は、戦陣に散った予科練生の名簿を納めた「予科練の碑」前で、主催のライオンズクラブ関係者を始め、武器学校幹部、阿見町関係者、ロータリークラブ役員らが出席。夕闇迫る午後6時半に開会し、黙祷の後、「海ゆかば」が奏でられる中、出席者全員で白い菊を献花しました。 「予科練の碑」は、陸上自衛隊土浦駐屯地の中にありますが、碑が設置されている庭園「雄翔園」と、その一角にある「雄翔館」は、自衛隊駐屯地に隣接する阿見町運営の予科練平和記念館から、駐屯地の通用路を通って自由に見学することが出来ます。 当日、私は上野から常磐線に乗って土浦まで行き、土浦からはバスで予科練平和記念館を目指しました。最寄りのバス停は阿見坂下で、降車後、記念館までは徒歩3分です。記念館一帯は、霞ヶ浦平和記念公園になっていて、記念館の側には、あの零戦(零式艦上戦闘機)のレプリカが展示された格納庫や、人間魚雷・回天一型の実物大模型があります。 予科練平和記念館は、予科練の歴史と共に阿見町の戦史などが保存・展示されています。「阿見町名所百選」になっていて、命の尊さや平和の大切さを考え、次代に伝える施設として、2010(平成22)年2月2日に開館しました(なぜ2並びなのかは不明)。この記念館を出て、回天の模型を右手に見て歩道を進むと、「雄翔館 無料→」と大書された看板が前方に見えます。ここからは陸上自衛隊土浦駐屯地になり、仕切られた通路を通って、雄翔園へ向かいます。 雄翔園の中央の芝生は桜の花びらをかたどっており、芝生まわりの敷石は錨を、芝生の中の7個の石は予科練の制服「七つボタン」と七つの海を表現しているそうです。また、池と築山は日本列島を表し、各都道府県の場所にはそれぞれの場所から運んだ石と、木が移植

水戸黄門こと徳川光圀ゆかりの桜と湧水群

イメージ
複数の県をまたぐ県道は、その道路に関係する県同士で、同じ番号になるよう調整するようです。私が時々走る「栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線」なんぞは、その最たるものでしょう。 で、今回の目的地、茨城県大子町を通る「福島県道・茨城県道195号下関河内小生瀬線」も、そんな県道の一つです。福島県矢祭町と大子町を結ぶ県道で、福島県から茨城県側に入った所は、大子町の外大野という場所になります。 この外大野に、水戸黄門こと徳川光圀お手植えの桜と言われる「外大野のシダレザクラ」があります。推定樹齢は約300年なので、光圀(1628〜1701年)が植えたという話も、一応成り立つことになります。 大子町観光協会によると「開花時期は例年4月上旬頃で、古くから地元の人々は、その蕾の膨らみや花の咲き具合を見て苗代つくりや田植えの準備を始めてきました。現在でも、農業暦に深い関わりを持つものとして地域に広く親しまれています。 樹は斜面中腹に生育しているため、生育地を囲むように設けられた歩道から見上げて又は見下ろして樹冠全景を観賞することができ、開花期間中には大勢の花見客が訪れるほか、ライトアップや桜祭りなども実施されます。」とのこと。 ちなみに地元では、大子町外大野字下大倉にあることから、単に「下大倉の桜」と呼ばれているそうです。 矢祭町と大子町の間には、あと2本、国道118号と県道196号が通ります。このうち国道118号は、一級河川久慈川に沿うように走り、茨城県水戸市と福島県郡山市を結ぶJR水郡線も、ほぼ並行して走っています。 久慈川は、福島県と茨城県の県境にある八溝山の北側斜面(福島県側)に源を発し、いったん北流した後、棚倉町でUターンして南流、矢祭町〜大子町を流れ、最後は太平洋へと注ぎます。日本有数のアユの釣場として有名で、釣り師たちが選んだ「天然アユがのぼる100名川」にも選定されています。 源流となる八溝山は、福島県と茨城県、更には栃木県にもまたがっており、山頂付近からは、阿武隈山脈から日光、那須連山、太平洋、関東平野まで望むことが出来ます。茨城県の山と言えば、筑波山が有名ですが、日本百名山の中で最も低い山として知られるように、茨城県には高い山がありません。で、実は標高1022mの八溝山が最高峰になります。 遊歩道のミズナラ(左)と金性水(右) その八溝山は、北方系と

筑波山西麓の町で出会ったブランドこだますいか「紅の誘惑」

イメージ
筑西市は、茨城県西部、その名の通り筑波山西麓にあります。我が家からは約50km、カメラマンの田中さんの自宅からは70km弱で、田中さんは一部常磐自動車道を利用しますが、それぞれ車で1時間程度の所になります。そこで、筑西での取材に当たり、我々は、市の南寄りにある「アグリショップ夢関城」集合とし、各自、自家用車で現地へ向かいました。 筑西市は2005年に、下館市・関城町・明野町・協和町の1市3町が合併して誕生しました。市の中心・下館地区は、真岡木綿や結城紬などを扱う商業の町として発展し、「関東の大阪」と呼ばれました。また、集合場所にした関城地区は、日本で最も古い梨の産地の一つで、アグリショップ夢関城は、梨、すいか、ぶどうなど、この辺りでとれるフルーツの直売所になっています。 取材に行ったのは4月で、ちょうど梨の白い花が咲いていました。梨の生産者にとっては、「花合わせ」と呼ばれる梨の授粉作業に大忙しという時期でした。 ただ、メインの取材はフルーツではなく、桐下駄づくりや、商都として栄えた下館の町などが中心でした。 茨城県郷土工芸品に指定されている桐乃華工房は、アグリショップ夢関城から約3kmの所にあります。1951年に現在地に工房を開き、今では関東で唯一、原木の製材から製造まで一貫して行っている桐下駄工房になります。下駄には天板に歯を接着した「天一」と、一枚物の「真物」、丸太から縦に切り出し、下駄の表を合わせた形で加工する、「合目」という最高級の桐下駄があります。桐乃華工房は、原木からの一貫作業をしているため、「合目」も作っており、それらの話や工程を詳しく取材させて頂きました。 一方、水戸線、常総線、真岡線の3路線のターミナル駅となっている下館駅を中心とした下館は、江戸期から明治、大正にかけて活躍した下館商人の本拠地でした。現在でも、当時の面影を伝える蔵が100軒以上現存しており、かつて「関東の大阪」と呼ばれた繁栄ぶりを物語っています。 で、この下館に、「下館ラーメン」というご当地ラーメンがあります。 商都として栄えた下館では、商家は食事もままならいほど忙しく、出前文化が発達。特に時間が経ってもおいしさを損ないにくい中細ちぢれの少加水麺を使ったラーメンが中心になりました。また戦後間もない頃、豚肉より安価だった鶏肉をチャーシューに使ったものが、今に受け継がれています。 掲載

私のルーツ旅その一 - 水戸・常陸太田編

イメージ
お盆なので、ルーツ絡みの旅をしてみます。 我が家の菩提寺は、茨城県水戸市の 薬王院 という天台宗の寺です。平安時代に、桓武天皇の勅願によって伝教大師最澄が創建したと伝えられており、1400年近い歴史があります。本堂は重要文化財で、仁王門と本尊の薬師如来、十二神将像なども県の文化財に指定されています。 また、仁王門の右手に五輪塔がありますが。これは、水戸藩初代藩主頼房の二男で、光圀の兄にあたる松平亀千代丸の供養のために建立された石塔です。亀千代丸は4歳で早逝し、薬王院に埋葬されましたが、後に光圀が頼房の遺志を受け継ぎ、常陸太田の瑞龍山を水戸徳川家累代の墓所と定め、墓を改葬しました。その際、五輪塔は土中に埋められたらしく、1971年に境内の杉の木を切った際、その下の土中から発見され、復元されたそうです。 東日本大震災での倒壊から修復してもらった薬王院のお墓 この瑞龍山は現在、管理上の理由で一般には公開されていませんが、私の曽祖父が晩年に墓守をしていたことがあるらしく、個人的に気になる場所となっています。 曽祖父は、幕末の人で、1838(天保9)年に生まれ、1903(明治36)年に没しています。幕末の水戸は、保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争など、藩内でさまざまな問題が起きていました。 加波山神社 曽祖父は、1863(文久3)年に、一橋慶喜の上洛に随行して京都に入り、在京の藩士(本圀寺勢)らを率いて皇室の守衛や慶喜の補佐に当たりました。その後、いったん帰藩して執政、再上洛して京都守衛などを務めた後、1868(慶応4)年に藩政回復の勅を受けて帰藩し、水戸城に入りました。 この時、保守派の首領には、本家の鈴木石見守が就いており、片や分家の曽祖父は、朝廷の勅書を奉じ、隊長として保守派追討軍を率いることになってしまったようです。 維新後、曽祖父は1871(明治4)年に大参事(今の副知事)に任じられました。また、水戸徳川家の崇敬が厚かった加波山天中宮が、明治の神仏分離で、 加波山神社 に改めた際、初代宮司に任ぜられ、加波山中腹の神社で明治7年から9年まで3年間、奉仕をしたようです。その後、世俗を離れて常陸太田の瑞龍山の水戸徳川家墓所の墓守として