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民謡のある風景 - ドジョウすくって民謡もヒット(島根県 安来節)

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山陰本線で米子から安来へ。中海に面した安来は、昔、山陰道の宿場町・港町として栄えました。中海は中江 - 瀬戸で美保湾に通じ、今も安来商港は、島根の東の玄関口と言われています。 「安来」とくれば、言わずと知れた『安来節』の発祥地。駅前広場にも塔が建てられています。   ♪安来千軒 名の出たところ    社日桜に 十神山 (アラ エッサッサー) 唄の起源は、いろいろに言われていますが、船唄の『出雲節』が元になっているとされ、初めはやや長い曲調であったといいます。その後、明治の初め、美保湾に面した境の港町に、さん子という唄のうまい芸妓が出て、『さんこ節』という名で、七七七五調の今のような詩型が唄われるようになりました。 これに手を加えたのが、安来で料理屋をやっていた渡辺佐兵衛・お糸親子で、富田徳之助が三味の手を工夫したといいます。この、整えられた唄に興味を持ったのが、日本画の巨匠・横山大観です。松江でこの唄を聞き、帰京するや、早速お糸一行を呼んで各地を回らせました。それがきっかけで、とうとう『安来節』は浅草にまで進出、全国的に有名になっていきました。 『安来節』は、唄も陽気ですが、踊りもまたユーモラスです。踊りは、俗に「ドジョウすくい」と言われ、実際にドジョウを取るときの手が振り付けられたのだ、といいます。一説には、安来が鉄工業の歴史を持つ町でもあるため、「どじょうすくい」は「土壌すくい」で、砂鉄採取の動作が振り付けられたのだ、とも言われています。 説はともあれ、安来となれば、この踊りくらいは覚えておかなければ、というので、学校の運動会の集団演技などでも取り上げられるケースが多いようです。土壌よりはドジョウである方が、唄そのものの明るさが生きてくるようです。 

石見神楽の豪華な衣装を制作する知的障害者施設

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前の記事( 八百萬の神々が滞在する出雲大社東西十九社を参拝 )に書いた「神等去出祭」は1時間弱で終了。その後、宿を予約していた浜田市を目指してレンタカーを走らせました。出雲大社から浜田までは約100km。途中、江津道路というのがあり、大社から浜田まではほぼ2時間。19時過ぎに、浜田駅前のホテルにチェックインしました。  食事は、ホテルから徒歩2、3分の「蓼」という店に。ここはオイルフォンデュが自慢らしく、それに乗っかり、ワインと一緒にオーダーしました。オイルがなじむまでウインナーや肉団子を食べ、キャベツなど水気が出るものは後回しに、と言われるがまま、食べ始めましたが、何のことはない、どれを入れても結構はねるのですな、これ。まあ、鍋や焼き肉感覚で、串揚げをするというのは初体験だったので、楽しく食事が出来ました。  翌日は早起きをして、浜田から山の方に南下して、旧金城町へ。ここで知的障害者施設・桑の木園の収穫祭を取材しました。 浜田市金城町は島根県西部、北は広島県との県境を成し、山陰と山陽を結ぶ交通の要衝となっています。昔から石見神楽が盛んな土地で、「神楽の町」と呼ばれ、また日本近代演劇の父・島村抱月生誕の地としても知られます。 桑の木園は、1974年に知的障害を持つ子どもの親たちが、障害者が納得出来る施設を作ろうと、署名運動や募金活動を展開して設立されました。その母体となる「いわみ福祉会」では現在、障害者の就労支援として飲食業を始め、洋菓子、工芸品、園芸、農産品の製造販売を実施するなど、多角的な活動を実践しています。中でも異色なのが、「神楽ショップ くわの木」で作られている神楽衣装です。 金城に限らず、石見地方では神楽が盛んで、自治体の数だけ神楽団があると言われます。この石見神楽は、豪華絢爛な衣装も魅力の一つです。 しかし、1970年代から90年代にかけ、衣装や面を制作する職人が減少、需要に供給が追いつかない状況になりました。そこで、いわみ福祉会では施設の知的障害者がこの制作に参加出来ないか、と考えました。地域に伝わる神楽の伝統を引き継ぐことにもつながりますし、知的障害者が地域の役に立つチャンスにもなります。 模索するうちに、後継者不足で廃業せざるを得なかった職人から、直接技術の手ほどきを受けられることになりました。制作に必要な技術を、基礎からしっかり叩き込まれた神楽

シルバーラッシュに沸いた石見銀山夢の跡

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世界遺産・石見銀山のある大田市には、これまで4回行っています。石見銀山の大森にも行ったことがありますが、3回目までは世界遺産登録前のことで、その時は人気など全くと言っていいほどない、閑散とした町でした。  大田市は島根県中央部、北は日本海に面し、市の南東端には、山陰の名峰三瓶山がそびえています。この大田市の中心部から西へ車で約15分、狭い谷間を縫うように流れる銀山川に沿って進むと、古い家並みが忽然と現われます。 国の伝統的建造物群保存地区に指定されている「大田市大森銀山地区」です。江戸初期、江戸が人口40万人の頃、20万の人口を抱え、寺が100余と伝えられた銀山の町です。 今も1kmにわたって古い家並が続きますが、大森に住むお年寄りの話では、昔はぎっしりと家が建てこんでいたそうです。確かに、路地を入っていくと、通りの裏側は今は空き地や畑になっていますが、奥には必ずと言っていいほど崖にへばりつくようにして建つ寺があります。谷間の空間を最大限に活用して暮らした、大森の人々の生活が偲ばれます。 大森は江戸時代、大量の銀生産で栄え、俗に「石見銀山」と呼ばれ、幕府直轄の天領となって、代官所も置かれていました。当然、武家屋敷なども多く残っているのですが、不思議なことに、町人屋敷との住み分けがされていません。 侍と町人の家が混在するという、特異な町並みを持っているのが、大森の特徴とも言えます。大森から更に山へ入った辺りは、銀山町と呼ばれ、恐らく銀山の発見以来、最も早くに出来上がった町であったでしょう。 やがてシルバーラッシュが起こり、銀山関係者を相手に商いを営む町人が、下手の大森に町を作っていきました。更に、代官所が大森の入り口にあることから考えると、江戸時代に天領となって、赴任してきた武士のために作られた役宅は、下手から上手へ向かって作られていったのでしょう。谷間の狭い土地だけに、銀山が繁栄を続けるうち、その双方が混ざり合ったものと考えられます。 大森の町並みのいま一つの特徴は、屋根が石見地方特有の赤い瓦で葺かれていることです。日本の家並の美しさはモノトーンの美だと言われますが、そこに、ある色が添えられると、強い印象を与えます。紅殻の格子がそうであり、紺の暖簾が美しく見えるのも、そのためでしょう。 大森では赤瓦が町全体の印象を決めています。そして、今は空き家も多い大森の町並みに

八百萬の神々が滞在する出雲大社東西十九社を参拝

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出雲大社へはこれまで、3回行っています。1回目は1995年で、石見銀山のある大田市在住の知人に連れて行かれました。しかし、この時は駐車場に車を停め、なぜか近くの店で出雲そばだけ食べて帰って来ました。今から思うと、ちょうど昼時だったので、単に食事に寄っただけだったようです。 直近は、2016年で、この時は、第35回出雲くにびきマラソンに参加した方の追跡取材のためでした。取材させて頂いたのは、出雲くにびきマラソンに視覚障害を持つランナーが参加するきっかけとなった半谷辰男さんでした。で、9年ぶりに参加した半谷さんは、久しぶりの出雲ということもあり、遷宮が終わった出雲大社への参拝を希望。私も同行したというわけです。 もう一度は、2010年の11月22日でした。1995年の初訪問は、境内には入っていなかったので、この時が初めての参拝となりました。 出雲大社には四つの鳥居があります。順にくぐっていくと四逢わせ=幸せになれるんだそうです。一の鳥居は日本一の大鳥居で、宇迦橋を渡った神門通りの入口にそびえています。 二の鳥居は神門通りが終わった勢溜(せいだまり)にある木造の鳥居。昔、市が立ったり、芝居小屋や見世物小屋が出来て、人出が多かったことから、「人の勢いが集まり溜まる場所」ということで「勢溜」と呼ぶそうです。 で、この二の鳥居からが、本当の参道という感じで坂を下ります。次の三の鳥居からは松並木の参道になっていて、最後の四の鳥居をくぐると、目の前に拝殿があります。で、鳥居を四つともくぐると幸せになれるということなので、私、二の鳥居のそばでそばを食べたんですが、食べた後、神門通りを戻りまして、一の鳥居から順にくぐってきました。 ところで、神門通りに行列が出来ていたのですが、看板を見ると「日本ぜんざい学会壱号店」とありました。同学会によると、ぜんざいは出雲地方の「神在(じんざい)餅」が元で、これが出雲のズーズー弁により「ぜんざい」になったそうです。出雲には旧暦10月に全国から神々が集まり、「神在祭(かみありさい)」が執り行われるわけですが、その折に振る舞われたのが神在餅で、ぜんざいは出雲の発祥というのが、同学会の主張です。 ちなみに、ぜんざいについては、とんちで有名な一休さんにまつわる食べ物という説もあります。大徳寺の住職から餅の入った小豆汁をごちそうになった一休さんが、そのおいしさ

中国地方第一の大河・江の川の河口に発達した窯業の町

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島根県中部、中国地方第一の大河・江の川が日本海に注ぐ、その河口に開けた街。それが江津市です。古くから日本海と江の川の舟運で発達、江戸時代には幕府の天領となり、千石船が出入りする日本海有数の商港でした。そして大正時代までは、中国山地から木材、炭、紙、コウゾなどが江の川を下って江津に集められ、全国に送られました。 しかし、昭和に入って山陰本線の開通、また広島県三次市と江津とを結ぶ三江線が開通すると、河口港町としての機能は衰退し、代わって江の川河口の広大な砂地と豊富な水資源により工場誘致が進められ、パルプ、製紙などの軽工業都市としての性格を強めてきました。 そんな中でも、江津のもう一つの顔である石州瓦、石見焼といった窯業の町としての伝統は、まだ生きています。 山陰本線に乗って、車窓から日本海側を眺めると、赤瓦の家並が非常に印象的です。中には、集落全体が赤瓦で葺かれている所もあって、石見地方の一つの風物詩とさえ言える美しい景観をつくっています。 この赤瓦は、石州瓦の伝統的な色で、来待石をもとにした釉薬が使われ、山陰の風景の中に独特の風趣を与えてきました。 瓦には、製法の違いによって燻瓦、塩焼瓦、釉薬瓦などの種類があります。江津を中心とする石州瓦は、このうち釉薬瓦が大部分を占めます。これは日本海に直面し、厳しい冬の寒気と、日照が少なく雨や雪の多い山陰の気候風土と関係があります。 厳しい自然条件は、それに耐える特性を瓦に求めます。雪の重さに耐える堅牢性、極度の寒冷に耐える耐寒性、瓦にしみ込んだ水分が凍結して瓦が割れることを防ぐための耐水性などです。 釉薬瓦は、こうした条件を満たすために工夫されたもので、原土の精選、均一な加圧、高温焼成などの技術改良を重ね、更に粘土の質に適した釉薬の開発によって、零下30度の超低温にも耐えうる優れた品質を生み出してきました。 その製造は、昔は登り窯を使って焼かれましたが、今ではほとんどがトンネル窯で焼かれています。トンネル窯というのは、瓦を積んだ台車を窯の入口から入れると、予熱帯、焼成帯、除冷帯を微速度で通り、連続焼成が出来る構造の窯で、1日に1万〜2万枚ぐらいの瓦を焼くものが多いようです。 また、トンネル窯に入るまでの工程 - 土練・荒地製作・成型・素地製作・施釉(釉薬をかけ、乾燥)も、全てオートメーションで流れ、省エネ化、省力化が図られていま

神話の時代から今に続く出雲の玉作り

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古来、この地には、三種の神器の一つ勾玉を作る玉造部が住んでいました。松江市玉湯町にある日本最古の温泉・玉造の名は、ここからきています。玉造温泉の上手にある玉作湯神社の祭神・櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)は、玉造部の祖とされています。神話によると、須佐之男命が天照大神に献上した勾玉は、櫛明玉命が須佐之男命に贈ったものといいます。 玉は古代人の装飾品で、勾玉・管玉など多種多様な玉があります。ひすいやめのうなどを材料として作られましたが、それが信仰の対象となるほど、神秘的な美しさを秘めていました。 特に出雲の碧玉は硬質で火に強く、赤や白のめのうとは区別して、青めのうと呼ばれます。中でも玉造石が最も有名で、宍道湖の南にある花仙山から産出されます。 玉作りの中心地は、その花仙山の麓にあり、遺跡も20カ所を超えます。弥生時代の終わり頃から作り始め、古墳時代が最盛期だったようです。玉を飾る風習がすたれた奈良・平安時代にも、出雲だけは玉の生産が行われていました。 出雲の玉造部が作った碧玉製の勾玉を、出雲国造が朝廷に献上していたことが、当時の『出雲国風土記』(733年)や『延喜式』(927年)に記録されています。平安時代には、玉造の名は温泉と共に日本中に知れ渡り、都では貴族の間で評判になっていた、と清少納言が『枕草子』に記しています。 そんな出雲の玉作りも、鎌倉・室町時代に一時廃絶しました。しかし、江戸末期に若狭の技術を導入して復活。印材、かんざし、こうがい、帯留め、根付などが作られました。 明治末には「出雲玉造瑪瑙(めのう)業組合」が組織され、最盛期の大正から昭和初めにかけては、加工業者も14軒を数えました。が、これも戦争で打撃を受け、現在では1軒を残すのみとなっています。

出雲くにびきマラソンの魅力

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出雲市には何度か行っており、その度に出雲大社へも寄っています。寄っているというのは、厳密に言うと、出雲大社へ行きながら、お詣りしていない時もあるからで、その件については、ブログを改めますので、今は謎ということで・・・。 最近では、2016年と19年に出雲市を訪問しています。いずれも、出雲くにびきマラソンのためです。と言っても、私がマラソンに参加するわけではなく、参加される方、及び参加者をサポートする人たちを取材するためでした。16年の時は単独で、19年の時はカメラマンの田中さんと一緒でした。 16年も19年も、朝イチの夜行バスで名古屋から出雲市駅に到着する参加者の追跡取材のため、出雲へは前日の夜に入っていました。 16年の時は一人だったので、ホテルのフロントで聞いて、地魚を中心とした料理と、出雲一の地酒がそろっているという駅前の「山頭火」にしました。もともと家では、正月のお屠蘇以外、全くと言っていいほどお酒を飲まない私ですが、出張の際は、飲みに出ることもあります。で、どうせなら土地のものを味わいたいと、だいたいが日本酒を選択するので、フロントの方に勧められるまま、山頭火で食事をして、地酒を楽しんできました。 一方、昨年は田中さんが一緒だったので、少し店を探して駅の周辺を歩いてみました。田中さんとは年齢が近い上、子どもの結婚や孫の誕生なども、ほぼ同時期で、そうした話もお互い気兼ねなく出来るため、いつも長くなるのが常です。そこで、1軒で終わらせるか、2軒にするか、なども含めて、周辺のリサーチをするのが恒例となっていました。 とりあえず、前回行った山頭火があるので、余裕で町歩きをしましたが、いまひとつ、ピンと来る店がなく、結局、2周目に入って、ホテル裏の「錦」という店に入ることにしました。食事処となっていたので、ここでとりあえず腹ごしらえをして、物足りなければ2軒目へという作戦です。 入口近くのカウンターに10席ほどと、小上がりが数席あり、更に奥には広間もあるようですが、我々はカウンター席にしました。で、メニューを見ると、地の魚料理や揚げ出し豆腐、玉子焼きなどに交じって、オムレツやら牛テール煮込みやらが並んでいます。しかも、焼きそばや焼きうどん、丼物といった、食事メニューもあります。むむむ! 和食に洋食、その上に大衆食堂的な? 私と違って正統的な酒呑みである田中さんと一緒

安全・安心な天神町商店街とシジミパワーの宍道湖 - 松江

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宍道湖の夕日 ある企画で、島根県松江市と高知県大豊町を取材し、一本の記事にまとめることになりました。松江と高知と言えば、中国地方の日本海側と四国の太平洋側です。ちょっと無茶かなと思いながらも、一度に取材することにし、カメラマンの田中勝明さんに、撮影を打診してみました。 すると田中さんも異論はないということで、羽田~米子~松江~岡山~丸亀~大豊~高知~羽田と移動しながら、松江、丸亀、大豊の3カ所を2泊3日で取材する日程を組みました。 初日は4時半起きで羽田空港へ。が、京浜急行がストップし、振替輸送の案内。そこで新橋から浜松町へ出て、モノレールに乗り換え。何とか飛行機には間に合いましたが、初っぱなから前途多難を思わせる取材行となりました。 その予感は的中。米子空港に近付いた搭乗機は、徐々に高度を下げ、滑走路が見えてきました。が、無事着陸と思われた瞬間、飛行機はスピードを上げ再び上昇。 松江天神町商店街の「おかげ天神」 おいおい、いったい何事? すかさずスチュワーデスは、「当機は既に着陸態勢に入っていましたが、再び上昇しております」と、みんなが知ってる事実を伝えたものの、「状況が分かり次第、またお知らせします」でアナウンス終了。数分後に、機長のアナウンスがあるまで、何が起こったのか分かりませんでした。 結局、滑走路にカラスの大群がいて、万が一を考え着陸を見送ったこと、空港にカラスを追い払うよう要請したことを報告。最終的に10分ほど上空を旋回した後、無事着陸しましたが、この日は朝からなかなかうまくコトが運びませんでした。 この時の取材は、高齢社会への取り組みで、高齢化率が全国2番目の高知県と3番目の島根県を取材することになりました。島根での取材は、安心・安全な街作りで全国的に注目を集めた 松江天神町商店街 でした。 松江城をバックにしまねっことこうやくんの神仏混交ツーショット この商店街は、活性化案を話し合う中、ある若手から出された意外なアイデアを採用しました。それは、天神町の南端にある白潟天満宮を、お年寄り向けにイメチェンしてしまおうという案でした。 学問の神様の天神様を、お年寄り向けにしちゃうなんて、かなり突拍子もない案です。当然、商店街の人たちは首を傾げました。するとまた、