投稿

ラベル(佐賀県)が付いた投稿を表示しています

民謡のある風景 - 天然の景観に育まれた古謡(佐賀県 岳の新太郎さん)

イメージ
佐賀には、全国的に知られた民謡があまりありません。が、土地を代表する唄『岳の新太郎さん』は、野趣を帯びながらも優美な味わいをみせ、多〈の人をひきつけてきました。  ♪岳の新太郎さんの   下らす道にゃ   ザーンザ ザンザ   銅の千灯籠ないとん   明れかし   色者の粋者で   気はざんざ 唄に出てくる「岳」は、多良岳(983m)のことで、阿蘇火山帯に属する円錐状の火山。ツツジ、シャクナゲの群落で知られ、山は佐賀と長崎の県境にまたがります。昔、多良岳の山項には金泉寺という寺があり、そこに新太郎という美男の寺侍がいたといいます。その言い伝えが、この唄のタイトルにもなったわけですが、曲調は、天明年間に流行した伊勢神宮の木遣唄が元になっている、と言われます。元唄は各地に広まり、長野の伊那地方では、『ざんざ節』と呼ばれる草刈唄になったりしました。『岳の新太郎さん』も、以前は『ザンザ節』と呼ばれていたようで、木材の宝庫だったこの地方へ、仕事唄として入ってきたものかもしれません。 この唄が知られるようになったのは比較的新しく、昭和20年代に、地元の人々が九州芸能大会で唄い、1954(昭和29)年には、東京の郷土芸能大会でも地元太良町の人が唄い、一躍評判になりました。56(昭和31)年には、鈴木正夫がレコード化し、それ以来、佐賀の代表的民謡と言われるようになりました。つまりは、この間に知られるようになったわけで、それだけに唄も本来持っている味わいを失わずにきた、と言ってもいいでしょう。 多良岳の一帯は県立自然公園に指定され、山項に立てば、有明海と大村湾が左右に広がり、阿蘇の噴煙もまた遠く望まれます。民謡は自然が育てるものだと言われますが、この景観の中で、土地の唄を聴けば、まさにそうとしか言いようがない思いにかられます。

鳥栖駅6番ホーム「中央軒」のかしわうどん

イメージ
今から20年近く前、サロンパスで知られる久光製薬の元会長・中冨正義さんにお会いするため、佐賀県鳥栖市を訪問しました。事前にご本人と約束し、「白寿のジョガー」として取材させて頂くことになっていたため、鳥栖到着後、真っ直ぐご自宅へ伺いました。 1905年生まれ中冨さんは、60代も後半を迎えたある日、旧友から高齢者マラソン出場を誘われました。学生時代は陸上部でしたが、50年近くも走りから遠ざかっていました。いったんは無理だと断ったのですが、旧友の「途中で歩いてもいいから」の一言にカチン。生来の負けず嫌いが頭をもたげ、練習に励んだ末、見事完走。 これをきっかけに、その後、国内外の大会へ次々と出場。ついには82年、77歳の時にホノルルでフルマラソンを走ってしまいます。以来、ホノルルには15回連続出場。サロンパスの試供品を詰めた大きな袋を肩からかけ、沿道の観衆に配りながら走るのが名物となりました。 実は中冨さんとはそれ以前に、どこかのホテルで偶然お会いしたことがありました。その時、乗り合わせたエレベーターで、同行されていた方が持っていた袋からサロンパスを取り出し、渡されたことがあります。突然のことで驚いたのも確かですが、ホノルル・マラソンでサロンパスを配るエピソードは聞いていたので、結構うれしくなったものです。 そんな話を枕に、いろいろ伝説的エピソードを伺おう、なんぞと考えながら、中冨家のインターホンをピンポーン。すると、家の方が出てこられ、中に入れてくださいました。取材のため中冨さんにお会いしたい旨伝えると、いま旅行に出ているとの返事。 呆然とする私に、ご家族が申し訳なさそうに声を掛け、経緯を聞いた上で、少し待ってほしいと。しばらくして、手ぶらでお帰しするわけにはいかないので、とりあえずマラソン関係も含め、エピソードを詳しく知っている関係者の方に集まってもらうことになった、とのこと。 せっかく手配をしてくださったので、そちらに出向き、お話を伺うことにしたのですが、行ってみると、結構な人数が集まっており、これも中冨さんの人徳なのだろうと察しました。で、基本的なエピソードはそこで伺い、後でご本人からは電話取材でコメントをもらうことにし、写真も先方が手配してくれることになりました。その後、世間話に入り、鳥栖の町についても、いろいろお話を聞かせて頂く中、気になる情報が飛び込んできまし

佐賀県を代表する民俗芸能・面浮立

イメージ
政府は現在、盆踊りや念仏踊りなど、地域の歴史や風土を反映して伝承されてきた民俗芸能「風流踊」を、ユネスコ無形文化遺産に提案しています。既に2009年、風流踊系の「チャッキラコ(神奈川県三浦市)」が登録されており、今回はこれに国指定重要無形民俗文化財となっている全国各地の風流踊40件を加えて、「風流踊」として拡張記載を再提案。ユネスコでの審査は、今年11月頃に行われる予定です。 この風流踊の流れをくむ民俗芸能が、佐賀県鹿島市にもあります。県の重要無形民俗文化財に指定されている「面浮立」です。「浮立」の由来は、もちろん「風流」で、佐賀県南西部に多く見られます。この辺りの浮立は、鬼の面を被って踊るのが特徴で、そのため「面浮立」と呼ばれます。そして、面浮立を踊る際に使う面を浮立面と言います。 鹿島錦の取材で、この地を訪れた時、地元の方が浮立面を彫っている方の工房に連れて行ってくれました。 浮立面は木彫りの面で、素材は佐賀県の県木である楠を始め、桐や檜などを使います。同じ鹿島でも、地域によって表情が微妙に異なりますが、阿吽の面相を一対とするのは、共通しています。「阿」が雌面、「吽」が雄面で、雌面は角がほとんどなく、額にV字の皺があり、雄面は角が長く、額にU字の皺があります。 浮立面は、2003年に、佐賀県の伝統的地場産品に指定されました。現在、浮立面を制作している工房は、杉彫と中原恵峰工房の2軒で、いずれも鹿島市にあります。杉彫の4代目小森恵雲さんは、2002年に佐賀県マイスターに認定され、2015年には、中原恵峰さんと共に、国土緑化推進機構の「森の名手・名人」に認定されています。 この浮立面をかぶって踊る面浮立には、いろいろ種類があって、その中で、県の重要無形民俗文化財に指定されているのは、鹿島市の音成(おとなり)面浮立と母ケ浦(ほうがうら)面浮立の二つになります。音成が、最も古い形を残していると言われる面浮立で、母ケ浦は、鬼面芸として完成された芸と構成を持っているとされます。佐賀県には、他にも面浮立がありますが、この音成系と母ケ浦系の2種類に分かれるようです。 音成浮立と母ケ浦浮立を見分ける上で分かりやすいのは、衣装の違いになります。音成は濃紺1色で帯と太鼓のひもが黄色なのに対し、母ケ浦は波といかりの華やかな模様の衣装になっています。他にも、曲目の違いや動きの違いなどがあ

歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄

イメージ
この2日、大村、東彼杵と長崎街道に触れながら記事を書いてきました。順番でいくと、今日は嬉野になるのですが、嬉野については1年以上前に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いてしまったので、今回は嬉野はパスして、次の武雄についてになります。計画性のないブログなので、こういう時に困ってしまいます・・・。 さて当初、嬉野宿から小倉へ向かう長崎街道は、多良街道の起点で、有明海の干満差を利用した河港都市でもあった塩田宿(嬉野市)を経由する南回りのルートでした。しかし、塩田川は度々氾濫し、往来に支障を来すことが多かったため、1705(宝永2)年に嬉野から柄崎宿(武雄市)を経由する北回りルートがつくられました。 武雄は、嬉野と同様に、古くからの温泉として知られ、いずれも神功皇后にまつわる伝説があり、また奈良時代の『肥前国風土記』にも、それぞれの温泉が出てきます。武雄の神功皇后伝説は、皇后が剣の柄で岩を一突きしたら温泉が湧き出たというもので、そこから柄崎と呼ばれるようになったとされます。 その後、柄崎はいつの頃からか塚崎と書くようになったようですが、武雄の名については、明治政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』によると、肥前佐賀藩に「武雄村」の名があり、幕末には一つの村になっていたようです。その後、1889(明治22)年の町村制施行では、武雄村の柄崎などの集落によって武雄町が発足しています。 武雄のシンボル的な山・御船山の北東麓にある武雄神社は、735(天平3)年の創建と言われ、武雄の名はこの神社に由来するそうです。で、その武雄神社の「武雄」については、諸説あるようですが、武雄神社では、武内宿禰を主祭神に、その父である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)などを合祀しているので、武雄心命のお名前を頂戴したのかもしれませんね。 この武雄神社とは反対側の御船山南西麓には、御船山楽園という庭園があります。15万坪という広大な大庭園で、江戸時代の武雄領主鍋島茂義の別邸跡です。 御船山の断崖絶壁に向けて、20万本ものツツジが植えられ、開花時期には広い園内が一面、ツツジのジュータンを敷き詰めたようになります。また、秋の紅葉時には、ライトアップが行われ、御船山楽園の池には灯篭が浮かび、幻想的な世界が展開します。 武雄はまた、焼き物の産地としても知られ

吉野ケ里を見下ろす霊場背振山に日本の茶の源流を求めて

イメージ
「お茶のはじめは三粒の種を 栄西禅師が唐みやげ」。茶どころ静岡で広く歌われた茶節の中に、こんな一節があります。 日本における茶の歴史は、確実な史料の上では平安時代にまでさかのぼることが出来ます。遣唐使を送るなど、唐文化を盛んに移入していた日本は、茶もまた導入し、宮廷に茶園まで作っていたようです。 しかし、貴族社会の衰退と共に、茶の文化もいったん廃れたと考えられています。その後、現在に結びつく形での茶の歴史は、鎌倉時代の栄西禅師によって、改めて開かれたというのが、通説となっています。 栄西禅師は、臨済宗の開祖として知られますが、1191(建久2)年、宋からの帰国に際して、茶の種子を持ち帰りました。そして、その種子を、佐賀県の脊振山に播いたといいます。 脊振山は、佐賀県と福岡県の境にあります。昔は、九州屈指の霊場として知られていました。山頂には、海路の神として弁財天が祭られ、かつての大陸との交通史を物語っています。伝教、弘法、慈覚らの諸大師が唐に渡る際には、必ず脊振山に参拝し、祈願したといいます。山頂の弁財天を上宮、709(和銅2)年に元明天皇の勅命で開かれた霊仙寺を中宮、麓の坂本修学院を下宮とし、この一帯は「脊振千坊」と言われるほど栄えたと伝えられます。 栄西禅師が、宋から持ち帰った茶の種子を播いたのが、その霊仙寺の西の谷・石上坊の庭であったと言われます。坂本修学院に残る江戸後期の史料には、当時、霊仙寺一帯には九反五畝(約95アール)の茶園があったと記されています。 霊仙寺跡のある吉野ケ里町(旧東脊振村)松隅坂本には、かつて「チャガエ」という風習がありました。チャガエとはもちろん、茶替えの意味で、明治の末から大正の初め頃、この辺りでは自家製茶のうち上茶は仲買人に売り、質の落ちる茶は、女たちが近隣の村に持ち出し、塩、砂糖、綿などと替えたそうです。栄西ゆかりの地だけに、そんな風習があったことも興味深いですね。 現在は、吉野ケ里町東脊振で作られた自家製茶のうち、上茶は「栄西茶」のブランドで販売されています。もともと小規模な茶園が多いため、販売用は非常に少ないのですが、吉野ケ里町のふるさと納税返礼品になっているので、興味のある方は検索してみてください。 さて、霊仙寺と茶園の今はどうなっているかというと、昔日の面影はほとんどありません。霊仙寺跡には祈祷所として乙護法堂が建ち、そ

経の和紙と緯の絹糸が彩なす錦織り

イメージ
有明海に面した城下町・鹿島。江戸時代、佐賀鍋島家の支藩、鹿島鍋島家2万石の居城が築かれ、今日の市街地形成の端緒を開きました。 その鹿島藩の殿中で生まれ、藩主夫人を中心に、その側近たちによって伝承された錦織りがあります。経が和紙、緯が絹糸という一風変わった織物「鹿島錦」です。一般には、佐賀錦と言った方が通りはいいかもしれませんが、藩とは逆に、錦は鹿島が本家となります。 江戸後期、第9代藩主夫人柏岡が、病の床に臥していた折に、網代天井のおもしろさを身の回りの品に応用出来ないものかと考えたのが、鹿島錦の初めだといいます。その後、経紙として和紙に金箔、銀箔を貼ったものを使ったり、緯糸に金糸、銀糸、彩糸を使ったりして、徐々に改良され、豪華な手織りの実用品となりました。鹿島藩から佐賀本藩へも伝わりましたが、藩主夫人が考案した錦だけに、藩外に漏らされることはなく、歴代夫人や御殿女中などによって受け継がれました。そういう意味では、織物というよりも、趣味的な手芸であったという方が適当かもしれません。 1910(明治43)年、ロンドンで開かれた日英大博覧会に出展され、初めて一般の人々の注目を集めることになりました。しかし、この時、佐賀を代表するという意味からか「佐賀錦」と名付けられ、以来こちらの名の方が一般的になってしまいます。 もっとも、存在が知られるようになっても、製作が一般に普及するようになるのは、昭和も戦後になってから。いくつかの同好会が生まれ、鹿島でも1969(昭和44)年、主婦らを中心に鹿島錦保存会が作られました。更に、1985年から鹿島市内の中学校でも必修クラブに採リ入れられたり、高校の授業に採用されたりして、保存会の会員がその指導に当たりました。 藩主夫人ら一部の人たちの楽しみでしかなかった鹿島錦も、今では、だれもが技術を覚えられる時代になりました。それでも変わらないのは、手織りであるということ。その手間たるや並大抵ではありません。幅20cmぐらいで長さ1cmを織るのに、たっぶり2時間はかかるといいます。そうした手織リだからこそ、温かみ、柔らかみが出るのでしょう。 今、鹿島錦保存会の会員の作品は、日本三大稲荷の一つ、祐徳稲荷神社の外苑にある祐徳博物館で輝きを放っています。

エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉

イメージ
  嬉野と言えば、日本三大美肌の湯と言われる嬉野温泉で有名ですが、他にも500年以上前から栽培されている嬉野茶や400年の伝統を持つ肥前吉田焼など、長い歴史に培われた産業でも知られます。また、塩田川と長崎街道という水陸二本の動脈に挟まれた河港都市・塩田津は、居蔵造りの町家が軒を連ね、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 建設中の九州新幹線長崎ルートに「嬉野温泉駅」(仮称)の設置が予定されていますが、現在は市内に鉄道駅がなく、嬉野へ行くには車を利用することになります。私は2度ほど、取材に行っていますが、2回とも長崎空港からレンタカーを借りて、嬉野に入りました。嬉野市は佐賀県ですが、佐賀空港からは約50km、長崎空港からは約30kmと、断然、長崎空港の方が近いからです。 箱庭のように整った嬉野の茶園 で、長崎空港からだと、すぐに大村ICで長崎自動車道に乗れ、嬉野ICまで行けるため、かなり楽な行程になります。ただ、全て下道を走っても時間的には数分しか違わないので、景色を楽しみながら海岸線を通る下道ルートの方がいいかもしれません。ちなみに、途中の千綿駅は、海が見える駅として知られ、昭和の面影を残す木造駅舎ということもあって、鉄道ファンならずとも立ち寄りたくなる場所です。 さて、嬉野茶の500年や肥前吉田焼の400年と、長い歴史があることは先述しましたが、嬉野温泉には、神功皇后にまつわる伝説があり、それが嬉野の地名の由来になったと言われています。その伝説とはこうです。 水玉模様が代名詞の肥前吉田焼 その昔、神功皇后が戦いの帰りにこの地に立ち寄られました。その折、疲れた羽根を川に浸していた白鶴が、元気に飛び立つ様子をご覧になりました。皇后が試しに、戦いで傷ついた兵士を川に入れてみたところ、たちまち兵士の傷が癒えたと言います。そして、川の中を探ってみると、白鶴がいた場所には温泉が沸いていたのです。そこで皇后は「あな、うれしいの」と言われたとのことで、その後、この地を「嬉野」と呼ぶようになったということです。 神功皇后と言えば、『日本書紀』では170~269年の人となっているので、その歴史は嬉野茶や肥前吉田焼どころの騒ぎではありません。まあ、あくまでも伝説ですが・・・。 ちなみに、長崎出島の医者として来日したドイツ人のシーボルトが、1826(文政9)年の江戸への旅を中