藍が生んだ繁栄の証を卯建の町並みに見る
美馬市脇町は、吉野川中流域の北岸にあります。江戸時代には城下町として繁栄しますが、その萌芽は、織田信長の前に三好政権を築いた、戦国武将の三好長慶にあります。 脇城は、平安時代に、讃岐の国守だった藤原氏の居館として作られたのが初めのようです。鎌倉時代になると、源氏の流れをくむ小笠原氏が阿波国の守護に任ぜられ、更に戦国時代になると、小笠原氏の庶流である三好氏が阿波を治め、1533(天文2)年、三好長慶が、阿波北方鎮圧の拠点として、脇城を改修しました。 その後、1556(弘治2)年には、武田信玄の弟信顕が、京都で長慶に会い、その計らいで脇城主となります。しかし、1582(天正10)年、阿波国を平定した土佐の長宗我部氏に城を落とされ信顕は戦死。その長宗我部氏も羽柴秀吉の四国攻めで敗れ、1585(天正13)年、秀吉の腹心・蜂須賀正勝の子・家政が、阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となり、正勝の盟友で筆頭家老の稲田稙元が、脇城に入城しました。 稙元は、脇城に入城すると直ちに城郭を修理強化すると共に、戦乱のために荒廃した城下町の復興に尽くします。そして、城下に商人町を形成し、これを保護したため、脇城下は四国、中国地方の商人まで移住して来て、当時としては珍しい一種の商業都市として繁栄しました。 また、藩主の蜂須賀家政が、藍の生産を奨励したことで、吉野川沿岸の農地の多くが、藍畑へ転換されました。徳島の藍は、品質の高さから別格扱いされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。こうして、「藍と言えば阿波、阿波と言えば藍」と言われるほど、阿波国(徳島県)は、江戸時代から明治後期に至るまで、藍王国としてその名をはせることになります。 しかし、なぜ阿波が藍王国になったのでしょう。その答えは、「四国三郎」の異名をもつ吉野川にあります。 吉野川は、愛媛県西条市と高知県いの町に頂がある瓶ケ森(1897m)を源に、四国のほぼ中央部から県北を、西から東に流れ、徳島市で紀伊水道に入ります。利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と共に、日本三大暴れ川の一つに数えられ、台風が来る度に洪水を繰り返しました。が、その氾濫によって、流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしました。 この洪水地帯で育った藍は、粉にしてから乾燥、発酵させ、藍染めの元となる藍染料「すくも」を作ります。こうして出来た...