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民謡のある風景 - 殿様が今に残した大観光資源(徳島県 阿波踊り)

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南国・阿波徳島の夏は猛暑続き。8月の平均気温は28度。その暑さに挑むように、毎年8月12日から18日まで、熱狂的な阿波踊りが繰り広げられます。 (前唯子)♪踊る阿呆に見る阿呆       同じ阿呆なら踊らにゃ損々 (本 唄)♪阿波の殿様 蜂須賀公が       いまに残せし盆踊 (後離子)♪アーエライヤッチャ エライヤッチャ       ヨイヨイヨイヨイ 地元では、世界の二大祭りはリオのカー二バルと徳島の阿波踊りだ、と胸を張ります。熱狂ぶりではひけをとりません。陽気な早まの三味線に、太鼓・笛・鉦などがからんで踊り手を煽ります。唄は江戸期にはやった『よしこの節』ですが、唄の前後の囃子詞がなんといっても絶妙です。 阿波踊りの発生については、阿波藩主を称えた徳島城落成祝賀説がよく知られます。天正年間、阿波の藩主となった蜂須賀家政が、徳島城を築き、その落成を祝って、旧暦7月14日から3日間、城下の人々に無礼講を許したのが、この踊りの始まりだといいます。 もっとも、だからといって、藩主が踊りの振り付けをやるわけはないので、この踊りの元になっているのは、地元に古くから伝わる「精霊踊り」だという説もあり、盆行事の踊りがベースになったというのが本当のところらしいです。 唄の方も、後から阿波へ入ったものと言われます。18世紀後半、今の茨城県潮来地方ではやり出した『よしこの節』が、船便によって各地にもたらされ、阿波へも、特産の藍を商う人々によって伝えられた、とされています。が、今では阿波が本場の観があります。 阿波踊りは、いまや徳島県の一大観光資源、遠くから踊りに出向くファンも多くいます。今年も「踊らにゃ損々」の熱気が話題を呼ぶことでしょう。 

藍が生んだ繁栄の証を卯建の町並みに見る

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美馬市脇町は、吉野川中流域の北岸にあります。江戸時代には城下町として繁栄しますが、その萌芽は、織田信長の前に三好政権を築いた、戦国武将の三好長慶にあります。 脇城は、平安時代に、讃岐の国守だった藤原氏の居館として作られたのが初めのようです。鎌倉時代になると、源氏の流れをくむ小笠原氏が阿波国の守護に任ぜられ、更に戦国時代になると、小笠原氏の庶流である三好氏が阿波を治め、1533(天文2)年、三好長慶が、阿波北方鎮圧の拠点として、脇城を改修しました。 その後、1556(弘治2)年には、武田信玄の弟信顕が、京都で長慶に会い、その計らいで脇城主となります。しかし、1582(天正10)年、阿波国を平定した土佐の長宗我部氏に城を落とされ信顕は戦死。その長宗我部氏も羽柴秀吉の四国攻めで敗れ、1585(天正13)年、秀吉の腹心・蜂須賀正勝の子・家政が、阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となり、正勝の盟友で筆頭家老の稲田稙元が、脇城に入城しました。 稙元は、脇城に入城すると直ちに城郭を修理強化すると共に、戦乱のために荒廃した城下町の復興に尽くします。そして、城下に商人町を形成し、これを保護したため、脇城下は四国、中国地方の商人まで移住して来て、当時としては珍しい一種の商業都市として繁栄しました。 また、藩主の蜂須賀家政が、藍の生産を奨励したことで、吉野川沿岸の農地の多くが、藍畑へ転換されました。徳島の藍は、品質の高さから別格扱いされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。こうして、「藍と言えば阿波、阿波と言えば藍」と言われるほど、阿波国(徳島県)は、江戸時代から明治後期に至るまで、藍王国としてその名をはせることになります。 しかし、なぜ阿波が藍王国になったのでしょう。その答えは、「四国三郎」の異名をもつ吉野川にあります。 吉野川は、愛媛県西条市と高知県いの町に頂がある瓶ケ森(1897m)を源に、四国のほぼ中央部から県北を、西から東に流れ、徳島市で紀伊水道に入ります。利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と共に、日本三大暴れ川の一つに数えられ、台風が来る度に洪水を繰り返しました。が、その氾濫によって、流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしました。 この洪水地帯で育った藍は、粉にしてから乾燥、発酵させ、藍染めの元となる藍染料「すくも」を作ります。こうして出来た

四国巡礼のスタートは渦潮を超えて

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鳴門市は四国の東端、渦潮で有名な鳴門海峡の西側にあり、大鳴門橋で兵庫県の淡路島と結ばれています。鳴門の渦潮は、瀬戸内海と紀伊水道の干満差により、激しい潮流が発生することで生まれます。春と秋の大潮時には、渦の直径が最大で30mに達することもあり、渦の大きさは世界最大と言われています。 また、鳴門海峡の潮流は、イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と共に「世界三大潮流」と言われています。その速さは、大潮の最大時には、時速20km以上にもなり、こちらは日本一の速さとされています。 そんな渦潮を見るには、「渦の道」と呼ばれる大鳴門橋の遊歩道や、鳴門公園の展望台などがありますが、やはり間近で見られる観潮船がお勧めです。観潮船は、うずしお汽船と鳴門観光汽船があります。 うずしお汽船は、2017年から4年連続で、鳴門市の屋外アクティビティ第1位を受賞。観潮船は、1日18便で、所要時間は約30分です。陶板複製画を中心とした大塚国際美術館の隣にあり、鳴門公園千畳敷展望台や渦の道入口、大鳴門橋架橋記念館などの観光スポットへも歩いて10分程度となっています。 一方の鳴門観光汽船は、大型の「わんだーなると」と水中観潮船「アクアエディ」の二つのタイプの観潮船があります。「わんだーなると」は1日12便で、所要時間は約30分。予約なしで乗れます。一方の「アクアエディ」は1日15便で、所要時間は約25分。こちらは予約制です。 大鳴門橋を離れて鳴門市街地を抜け、西へ15分ほど車を走らせると、大麻町に出ます。ここは、全国にその名が知られる大谷焼の産地です。 大谷焼はなんと言っても、大がめや大鉢類など、大物陶器で有名です。阿波特産の藍染用の藍がめの需要で栄え、明治・大正期には大いに活況を呈しました。しかし、藍染の不振と共に次第に衰退。最近では、花瓶や湯飲みなどの日用雑器も作られています。超大物の大がめの場合、一人が台の上に乗り、もう一人が寝そべって足でロクロを蹴るという方法で作陶します。ここならではの光景でしょう。 また、大麻には、四国八十八カ所霊場の一番札所霊山寺と、二番札所極楽寺があります。第1番札所から第88番札所まで、札所番号の順に巡拝することを順打ちといい、そのスタート地点となる霊山寺は、約1300年前に聖武天皇の勅願で行基が開いたと言われます。弘法大師が、霊山寺を1番札所としたのは、

銘菓郷愁 - 阿波三盆の深い甘さ「滝の焼餅」 徳島

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阿波・徳島産の最高級の白砂糖というと、「和菓子を語るものは、阿波三盆を知らざれば、通にあらず」と言われるほどにも有名です。その阿波三盆を惜しみなく使ったのが「滝の焼餅」です。 日本で国産の砂糖が奨励されたのは、徳川8代将軍吉宗の頃でしたが、この時は、あまり成功しませんでした。その後、各地で藩の政策として砂糖生産が見直され、徳島では、寛政年間(1789 - 1801)の頃から砂糖作りが始まります。 1827(文政12)年の頃には、甘藷の栽培地も広がって、約20万斤(120トン)の砂糖が生産されるようになります。阿波三盆は、こうして全国に知られ、戦前は、宮中から下賜される菓子にも阿波三盆が使われていたということです。 阿波三盆の産地となる徳島は、江戸時代、蜂須賀藩27万7000石の地として知られました。蜂須賀家政が、この地の領主として入国したのは1585(天正13)年のことで、この年、豊臣秀吉が関白となって、天下に覇を唱えます。家政は、直ちに渭山に城を築き、入国の翌年に完成させました。「滝の焼餅」はこの時、城の落成を祝って献上されたと言われます。 もちろん、まだ阿波三盆のなかった頃ですから、その時の献上品は素朴な味だったのでしょうが、この菓子が喜ばれて、領主愛用の名水「錦竜水」の使用を許されます。この水は、徳島駅の南西約600mの地にそびえる眉山の一角大滝山に、今も湧き出ている清水です。この水を使うことで、「滝の焼餅」の味が、更に引き立ちました。 焼餅そのものは、江戸初期の京都名物の中にも名が出てきて、こちらの方は、粘りけのないうるち米を粉にして餅を作り、中に赤い小豆の餡を入れたもので、この餅を釜の上で焼いて花の模様をつけたものだったそうです。 「滝の焼餅」は、阿波米の粉に名水を加えて指で丸め、それを薄くのばして、中に阿波三盆で味を整えた、こし餡を挟んで、鉄板で焼きます。火は、クヌギの薪を使うというぜいたくさで、餅の表面には菊型の型押しをします。その味わいは、昔から「滝のおやき」として文人墨客に愛されてきました。 焼き型の香ばしさ、こし餡の淡泊で深みのある甘さ、湧き上がるような雅趣あふれる舌ざわり、どれをとっても見事な銘菓です。

漆黒の川面に浮かぶ幻想的な光 - シラスウナギ漁

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  ふるさと納税のサイトを見ると、人気の返礼品に、和牛やカニ、高級フルーツなどと並んで、ウナギの蒲焼きが出て来ます。そんな、みんな大好き食材のウナギですが、今では天然ものに出会う機会などめったになく、実に99%が養殖ウナギとなっています。 ウナギの養殖で有名なのは、静岡県の浜名湖ですが、都道府県別の生産量を見ると、静岡県は第4位。1位鹿児島県、2位愛知県、3位宮崎県の順になっています。ちなみに、市町村別に見ると、第1位は愛知県西尾市で、同市一色町産ウナギが、愛知県全体の80%を占めています。これに次いで多いのが、鹿児島県の志布志市で、こちらは県全体の約5割を生産しています。 ウナギの稚魚・シラスウナギは、冬から春にかけ、黒潮に乗って東アジア沿岸を回遊し川を上ります。日本では鹿児島や宮崎、徳島、高知、静岡などの川に遡上します。この時、シラスウナギは、潮に乗って遡上してくるため、大潮前後にはシラスウナギを追う漁師たちが、川に繰り出します。 シラスウナギ漁の最適期は、大潮時の干潮から満潮にかけて。また、明かりに集まってくる性質があることから、シラスウナギ漁は新月の夜、川面をライトで照らして行われるのが一般的です。冬の夜、ウナギが遡上する川の河口付近では、漆黒の川面に黄色や緑色の光が浮かび上がり、遠目からはまるでホタルが飛び交うように見えます。 完全に人工的な光なんですが、何とも言えず幻想的な光景のため、夜中にも関わらず、多くのカメラマンがシラスウナギ漁の写真を撮りに訪れます。 私が、最初にシラスウナギ漁の撮影に挑戦したのは、2014年の1月31日から2月1日の新月の夜でした。その時は、高知県四万十市の四万十川で撮影に臨んだんですが、時間帯の問題だったのか、気象条件の問題だったのか、あるいは場所が見当違いだったのか、1隻の船にも巡り会えませんでした。 そして、満を持して臨んだのが、2017年2月26日〜27日の新月でした。これは、雑誌の企画で、カメラマンの田中さんも同行しての取材だったので、3年前の行き当たりばったりとは違い、ちゃんとその道のプロにレクチャーを受けてから撮影に入りました。場所は徳島市の吉野川。取材に協力してくださったのは、吉野川河口にある徳島市第一漁業協同組合の和田純一専務理事でした。 和田さんも、以前はシラスウナギ漁に出ていましたが、シラスウナギは風のある

「お接待」のこころが息づく町 - 神山町

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毎年4月の第2日曜日、徳島県神山町小野の天王神社境内にある農村舞台で、人形浄瑠璃寄井座の定期公演が行われます(今年の公演は、新型コロナウイルス感染予防のため中止となりました)。 徳島県は人形浄瑠璃が盛んで、県内には農村舞台が全国最多の240棟もありました。しかも、他県の農村舞台は歌舞伎系ばかりなのに、徳島では1棟を除いて全て人形芝居系で、人形浄瑠璃の人気の高さを物語っています。定期公演をする寄井座も、神山で170年以上もの歴史を持つ一座です。 神山町の 小野さくら野舞台 は、1951(昭和26)年に造られました。小野さくら野舞台保存会の小川一清会長によると、小川さんが子どもの頃は、ここで映画も上映されたそうです。農村舞台はまた、村人の集会場として、祭りの酒盛りの場として、村の拠点となっていました。 が、時が経って建物の老朽化が進むと共に、娯楽の多様化などで演者が減り、一時、休眠状態となりました。そんな中、1975(昭和50)年に神山町婦人会が、「人形浄瑠璃かじか婦人学級」を組織。寄井座の座員から人形づかいを学び、更にこれらの婦人たちが寄井座に加わることになりました。 この時、婦人会に呼び掛け、かじか婦人学級結成のきっかけを作ったのが、現在、自らの一座・名月座を主宰する後藤伊都子さんでした。後藤さん自身、人形づかいは、かじか婦人学級で学びました。そして今は、それを広く伝えていこうと、徳島文理大学人形浄瑠璃同好会の指導をしており、お会いしたところ非常に穏やかな印象ながら、人形浄瑠璃にかける並々ならぬ情熱がうかがえました。 日本の滝百選・ 雨乞の滝 こうした努力が実を結び、近年、神山では人形浄瑠璃や農村舞台など伝統文化の見直しが始まっています。特に徳島特有の舞台装置・襖絵は、調査で約1500枚も残っていることが判明。そもそもは舞台背景なのですが、徳島では襖からくりという独特の仕掛けによって次々と背景を変えていきます。それがいつしか、人形浄瑠璃とは別の独立した出し物として上演されるほどになったといいます。 襖絵は絵師が、庄屋や富豪の屋敷に滞在し、制作したようです。神山では1999(平成11)年から、国内外のアーティストを一定期間招請して、滞在中の活動を支援するアーティスト・イン・レジデンス(AIR)事業を