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民謡のある風景 - 明るくリズム弾んで瀬戸大橋時代へ(香川県 金毘羅船々)

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香川県琴平町の金毘羅宮、というよりは「さぬきのコンピラさん」と言った方が通りが早いでしょう。「コンピラさん」は象頭山に鎮座し、本宮までは785段の石段の道です。奥宮まで、更に石段が続きます。山の上だけに眺望がすばらしく、晴天ならまさにコンピラ様々です。 かつて、「讃岐の道は金毘羅に通じる」と言われ、全国から人が集まりましたが、その道はどこかで瀬戸内海を渡らなければなりません。江戸後期、金毘羅参りが盛んになると、大坂から丸亀へ向かう客船が人気を集め出します。客船は、「讃州金毘羅船」と染め抜いた幟を立てて、道頓堀、淀屋橋などから船出していきました。 船旅は、風が順調なら3日か4日、逆風だと1週間もかかったといいます。お座敷唄となった『金毘羅船々』は、その辺りのところをうまく唄い込んでいます。  ♪金毘羅船々 追手に帆かけて   シュラ シュ シュ シュ   まわれば四国は 讃州那珂の郡   象頭山金毘羅大権現   一度まわればー この唄は、元禄期に大坂で唄い出されたとか、明治の初めに道中唄としてはやったとか言われますが、詳しいことは分かっていないようです。ある説では、船旅の無柳を慰める遊び唄だったのではないか、と見ています。曲調はあくまでも明るく、リズミカルで、今でも座敷遊びの伴奏によく弾かれたりします。 1880(明治13)年に初演された河竹黙阿弥の芝居『霜夜鐘十字辻筮』にも、「四国は讃州那珂の郡、象頭山金毘羅大権現、御信心の・・・」という台詞が出てきます。その頃には、この唄の一節が耳に馴染んだものだったのでしょう。 本宮の前は19mも突き出した高台で、讃岐平野は一望の下。瀬戸大橋時代を迎えた明るさがみなぎり、思わず、この唄が口の端に浮かびそうになります。

北前船と金毘羅詣、そして鉄道の町として栄えた多度津

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昨日の琴平町と共に、今日の多度津町も、以前、記事にしていますが( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )、その際はB級グルメの鍋ホルうどんが中心だったので、改めて今回、多度津について書いてみたいと思います。 前の記事でも少し触れましたが、多度津は、室町時代初めから約200年の間、香川氏の城下町として栄えました。その後、豊臣秀吉の四国征伐で香川氏は滅びますが、江戸時代になって、元禄年間に多度津藩が成立すると、2度目の城下町として栄えることになりました。 ところで、昨日の記事( 上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる )で、十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』を取り上げましたが、弥次さん北(喜多)さんは、多度津にも来ています。大坂から丸亀まで船で渡り、こんぴらさんに参詣した二人は、善通寺と弥谷寺にもお詣りして、多度津から丸亀へ戻ります。 『続膝栗毛』の初編が発表された1810(文化7)年当時は、大坂と丸亀を結ぶ金毘羅船が一般的でした。人々は、丸亀の宿に荷物を預けて金毘羅宮へ詣で、また丸亀から大坂へ戻りました。なので、弥次北も、多度津から大坂へ直帰するのではなく、丸亀へ戻って荷物をピックアップしてから、大坂へ帰ったのでしょう。 多度津藩は、1694(元禄7)年、丸亀藩から分封されて成立しますが、藩主は丸亀城の部屋住みで、多度津には少数の家臣が住んで藩政を執り行っていました。多度津に陣屋が置かれたのは、4代藩主京極高賢の時代になってからのことで、次の5代高琢は、桜川の河口港だった多度津湛甫を、4年にわたる大工事の末、1838(天保9)年に立派な港へと変貌させます。 これにより多度津は、讃岐一の良港となり、北前船の基地として発展。讃岐三白と言われる塩や綿、砂糖などを積んで、日本海沿岸から北海道まで航海し、干鰯や肥料などを持ち帰りました。その結果、廻船問屋を始め、万問屋や干鰯問屋など、さまざまな問屋が軒を連ね、多度津は活況を呈します。 また、九州や中国、北陸地方など日本海側の人たちが、北前船で多度津に上陸し、金毘羅宮を目指すようになります。金比羅宮への参詣には、主にこんぴら五街道と呼ばれる道が使われましたが、中でも途中に善通寺がある多度津街道は、信仰の道として多くの人が利用し、多度津の浜には船宿や旅籠が建ち並びました。 更に1889(明治2

上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる

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綾川町で取材をした際、琴平町に宿をとり、夕食のため町を散策しながら店を探した話( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )を、以前の記事で書きました。ただ、その記事では、骨付鶏がメイン・コンテンツになっていたので、はしょりましたが、琴平と言えば「こんぴらさん」です。 というわけで、今回は金毘羅宮のお話です。 金毘羅宮は、標高538mの象頭山に鎮座し、門前町から本宮まで785段の石段が続きます。奥宮までは、更に583段上らなければならず、本宮までと合わせると1368段となります。ちょうど1カ月前の記事( 立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す )で、参道が1015段の山寺について書き、ついでに日本一は熊本県美里町にある金海山大恩教寺の釈迦院に通じる3333段の石段だと付記しました。 ちなみに、神社に限ると、山形県・羽黒山神社の参道2446段が日本一で、金刀比羅宮はその次、第2位となるようです。また、本宮までの石段は、実際には786段らしいのですが、これだと「7(な)8(や)6(む)」で語呂が悪いと、本宮手水舎の手前で参道を一段下げることで「悩みを落とし」、785段になったと言われています。 ところで、「全ての道はローマに通ず」じゃないですが、江戸時代には、「讃岐の道は金比羅に通ず」と言われるほど、多くの参詣者がありました。それも、讃岐の人だけではなく、全国から人が集まったのです。当時のことですから、瀬戸大橋も明石海峡大橋もありません。当然、本州からは船になります。 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』はシリーズもので、最初の1冊は、1802(享和2)年に発表された『浮世道中膝栗毛』でした。これは、ご存じ弥次郎兵衛と北八の箱根紀行でしたが、これが評判を呼び、翌年『東海道中膝栗毛・後編』が出ると、そこから「三編」「四編」と毎年1冊ずつ発表され、結局、「八編」まで続きました。十返舎一九は、ここで「膝栗毛」は終了としたのですが、発行元が黙っていません。 実は十返舎一九、若い頃、大坂にいたことがあり、ある時、用事で高知へ行ったついでに象頭山に参詣し、善通寺、弥谷寺(71番札所)を回ったそうです。それを知っていた発行元は、金毘羅さんへの紀行を書けと再三にわたって要請。これを断り切れなくなった十返舎一九先生、とうとう『金毘羅参詣続膝栗毛』として、1810(文化7)

醤油醸造や讃岐三白の積出港として栄えた引田の町

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東かがわ市引田(ひけた)は、半島によって風がさえぎられ、平安時代から天然の良港として知られていました。中世には、引田城が築かれて商業が発展、城下は物資の集散地として賑わいました。標高86mの城山にある引田城は、播磨灘に面しており、山城でありながら、三方を海に囲まれた海城でもあり、天然の要害となっていました。 引田は、1584(天正12)年、阿波に次いで讃岐も平定した長宗我部元親の領地となりますが、翌85年、羽柴秀吉の四国攻めで長宗我部氏が敗退。87年に生駒親正が、讃岐国を与えられて引田城へ入城しました。しかし、引田城は、讃岐国の東端にあったため、生駒氏は間もなく中央寄りの聖通寺城に移ります。更に本拠の場所を黒田官兵衛に相談し、88年から高松で築城を開始。城は90年に完成し、97年からは丸亀城の造営に取り掛かっています。 その後、1600(慶長5年)の関ケ原の戦いで、生駒氏は東軍に加担。江戸時代も領地を安堵されましたが、一国一城令により引田城は廃城となりました。ちなみに丸亀城は、樹木で覆い隠し破却を免れたそうです。 1640(寛永17)年のお家騒動後、讃岐は分割され、41年に西讃に山崎氏が入り丸亀藩が興り、東讃には42年、御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が入って、高松藩が成立しました。この高松藩5代藩主の松平頼恭は、質素倹約に努め、藩の財政再建を図ると共に、藩の収入を上げるためさまざまな策を実行。塩田の開発で塩の増産を図ると共に、本草学を学んでいた家臣の平賀源内に、薬草や砂糖の栽培・研究を命じました。 源内は、薬草園の仕事をしながら、砂糖栽培を研究。しかし、砂糖製造の完成を待たず、職を辞して江戸へ出てしまいます。後継の藩医・池田玄丈も、志半ばで世を去り、後を託した弟子の向山周慶が、砂糖の精製に成功します。その成功には、次のような逸話があったといいます。 江戸後期の1790年頃、薩摩の奄美大島出身の関良介という人が、四国遍路に訪れました。しかし、体調を崩して、讃岐国大内郡(現在の東かがわ市)辺りで行き倒れてしまいます。それを助けたのが、藩医で大内郡湊村出身の向山周慶でした。関さんはそれを恩義に感じ、既に砂糖を生産していた薩摩藩秘伝の砂糖製法を周慶に伝授。周慶はついに、上等の白砂糖の製造に成功しました。「讃岐の白糖」は、「本邦第一の白糖」と言われるほど

伝統を醸す讃岐の「どぶろく祭り」

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すっかり「うどん県」の名が定着した香川県。三豊市豊中町はその西部、三豊平野の中央にあります。この豊中町笠岡の鎮守・宇賀神社では、毎年春秋2回のお祭リで、参拝者にどぶろく(濁酒)を振る舞うのが、数百年来の習わしとなっています。 もちろん、ちゃんと財務省の許可を得てのもの。1898(明治31)年、酒税法の改正によリ、自家用の酒の醸造は禁止となりました。これに伴い、宇賀神社のどぶろく祭りも、一時中断の憂き目にあっています。しかし、氏子たちが協議のうえ陳情、1900年、年間1石(180リットル)以内との特許を得て復活しました。春は3月春分の日、秋は10月の例祭が、どぶろく解禁の日となります。 どぶろく祭りの由来は、実は明らかではありません。が、かなり古くからのものらしく、古老の話では、300年ぐらい前から続いているといいます。醸造も古式床しい製法で行われます。氏子の中の代々世襲されてきた杜氏によリ、昔ながらの醸造道具(県指定民俗資料)を使って造られます。ただ、昔は各部落の当屋の家で行われていましたが、現在は税法上、神社の境内で行われ、厳重な制度によって出来上がっています。 どぶろくは、祭リの前日にまず「口開け」の式を行います。次いで、祭リの当日、御神酒として神前に奉納し、神事が終わった後、氏子一同や一般の参拝者に頂かせるのが、習わしとなっています。 また、祭リの日には、氏子たちが「エビ汁」をこしらえます。エビの頭を取リ、砕いてすりつぶしたものを、みそと一緒に煮ます。水は、米のとぎ汁を使うため、とろりとコクが出て、非常にいい味に仕上がります。このエビ汁と交互に飲めば、いくらでもどぶろくが腹に納まる、と氏子の人たちは言います。もっとも、度を越すと、救急車のお世話になることになるとか。取材当時は、県内の人にも、ほとんど知られていない祭リで、それだけに郷土色豊かで、素朴な味わいがありました。 現在は、2002年に創設された構造改革特区制度により「どぶろく特区」が認定され、全国で129の特区が、どぶろくをつくっています。しかし、宇賀神社のどぶろく祭りを取材した頃は、どぶろくの醸造は神事用として1石以内に限リ、奈良の春日大社、大分県大田村の白髭田原神社などに認められているだけでした。 ちなみに、春祭リは氏子だけですが、秋の例祭では、一般の参拝者にもどぶろくが振る舞われます。讃岐観光の折

讃岐うどん発祥の地・綾川町のうどんたち

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  滝宮天満宮 綾川町は香川県のほぼ中央、2006年に綾歌(あやうた)郡の綾上(あやかみ)、綾南(りょうなん)両町が合併して誕生しました。南に讃岐山脈がそびえ、清流綾川が町の中をゆったりと流れ、のどかな田園と里山が織り成す讃岐らしい風景が広がります。 綾川町の滝宮は、讃岐うどん発祥の地と言われ、毎年4月に滝宮天満宮で献麺式が行われています。そんな町だけに、05年のゴールデンウィークには最長2時間待ち、車の列が延々2kmも続いたという山越うどんを始め、人気うどん店が数多くあります。今も休日になると、四国ばかりでなく関西や山陽から観光客が押し寄せ、綾川にある道の駅「うどん会館」には、年間約30万人の来園者があります。 その綾川を取材したのは2015年のことでした。取材は、もちろん、うどんが中心でした。取材記事は、別ブログにまとめているので、良かったらそちらも併せて読んでみてください(「 讃岐うどん発祥の地はうどん県のど真ん中 - 綾川 」)。 取材は、地元の方がコーディネートしてくださり、到着早々、道の駅滝宮「うどん会館」に案内されました。ここで、綾川町とうどんについて、簡単なレクチャーを受けながら、昼食を取ることに。で、先方が注文してくださったのが、冷たいつけうどんでした。さすが発祥の地のうどん、こしがあっておいしかったのですが、カメラマンの田中さんと私が食べ終わるのを待っていたかのように、続けて温かいうどんが出て来ました。というわけで、いきなり冷温両方の洗礼を受けてから、取材開始となりました。 この時の泊まりは、綾川ではなく、お隣の琴平(「 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 」)だったため、夕飯と次の日の朝は、うどんではありませんでしたが、昼食と間食は全てうどんでした。 2日目、朝食を終えて、綾川に着いた我々が案内されたのは、店先に「うどん」と書かれたのれんが出ているだけの隠れた名店「松岡」さんでした。「松岡」さんは、讃岐うどん界で西の横綱と呼ばれながら09年に惜しまれつつ閉店した伝説の名店「宮武うどん」で修行を積んだ大将が1991年に開業した店だそうです。撮影にも快く協力して頂きましたが、その時、限界を超えて作ると質が落ちるから、と毎日決まった数だけしか打たいない、と話しておられました。 そんな「松岡」さんですが、消費税が10%になるのを

丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選

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一鶴の骨付鳥 前回の記事( 安全・安心な天神町商店街とシジミパワーの宍道湖 - 松江 )の続編です。羽田~米子~松江~岡山~丸亀~大豊~高知~羽田と移動しながら、松江、丸亀、大豊を取材する行程の第2弾になります。 松江での取材を終えたカメラマンの田中さんと私は、即、列車に飛び乗り、次の取材のため、岡山経由で丸亀に入りました。松江から特急やくもで岡山まで約2時間40分。ここで特急南風に乗り換え、丸亀までが約40分。途中、米子空港でのゴーアラウンドなど、朝のバタバタぶりをSNSに投稿し、現在は丸亀に移動中と書きました。すると、神戸のDHさんから次のようなメッセージが入りました。 鎌田醤油 「丸亀の鎌田醤油ってご存じですか? ここのだし醤油は逸品です。他にもいろいろ醤油があります。わざわざ探して買いに行きましたよ」 以前、高松出身のライターの卵君から、だし醤油をもらったことがありました。なんでも、讃岐うどんの本場・香川では、冷凍うどんを湯がいてサッと醤油をかけて食べるんだとか。で、確かにそれが、結構イケました。田中さんも、やはり卵君からだし醤油をもらっていたので、二人して、DHさんお勧めの鎌田醤油をゲットすべく丸亀駅に降り立ちました。 が、丸亀駅に到着したのが17時40分ぐらい。鎌田醤油直売所の営業時間は17時半までで、残念ながら入手出来ずに終わりました。 その日の夜、取材先の方たちから誘われ、会食をすることになりました。実は松江からの車内で、我々は、丸亀では骨付鳥の一鶴へ行こうと話していたのですが、これにより、鎌田醤油に続いて一鶴も断念することになりました。ただ、会食の際、讃岐うどん談義になり、鎌田醤油の話も出ました。丸亀の皆さんは、冷凍うどんをチンして鎌田醤油をチャッとかけるのがいちばん! 下手な讃岐うどんの店より、よっぽどおいしいと力説。そして、後で送ってあげるよ、と言ってくださり、後日、本当にだし醤油を送って頂きました。感謝、感謝です。 さて、もう一つの骨付鳥ですが、この半年後、今度はライターの砂山幹博さんと、兵庫県加西と高知で取材をすることになり、迷わず途中の丸亀泊を選択しました。加西の取材後、播但線で姫路へ出て、岡山まで新幹線に乗り、そこから瀬戸大橋を渡って丸亀に入りました。 そし