民謡のある風景 - 一高生が唄い広めた男たちの唄(兵庫県 デカンショ節)
兵庫県丹波篠山市は、丹波山塊の間に開けた盆地にあります。盆地からの道は、天引峠、天王峠、鐘ケ坂などの峠を越す道となります。盆地のほば中央に、標高459mの高城山がそびえ、丹波富士の名で呼ばれています。
灘五郷の酒造りを支えてきた丹波の杜氏たちは、この盆地から、半年に及ぶ出稼ぎの旅に出ました。家で待つ妻たちにとっては、つらい半年だったでしょう。地元の古い民謡は、そんな妻たちの気持ちを、「でこんしょ、でこんしょで半年暮らす、あとの半年ァ泣いて暮らす」と唄っていたといいます。
篠山は、1747(寛延元)年以降、青山氏が領主となり、明治維新まで6万石の城下町として栄えました。1898(明治31)年の夏、その旧藩主の青山子爵が、旧藩士らを引き連れ、千葉・館山の海浜に遊んだことがありました。旧藩士たちは、昼は泳ぎ、夜は宴会で盛り上がり、地元の民謡『篠山節』を大声で唄いました。
♪丹波篠山 山家の猿が
花のお江戸で 芝居する
ヨーイ ヤレコノ デッカンショーヨ
この唄を聞きつけたのが、同じ浜に来ていた第一高等学校(現・東大)の学生たちでした。語呂もよければ、調子もよい。バンカラ気分の学生には、ぴったりきました。寮へ帰った彼らは、房州土産の唄として大いに喧伝しました。囃子言葉も、デカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとったと称し、「ヨーイ ヨーイ デカンショー」と唄い替えました。そして学生たちが帰省の度に、この唄を唄ったものですから、全国に広まるのも早かったのです。
こうして一高生が流行源となった『篠山節』は、『デカンショ節』として広まり、それが再び篠山に帰って来ました。地元では、太鼓と三味、笛をつけて、正調の曲調を伝えていますが、そこにはもう、農家の女の嘆きの影もありません。唄の変貌の一例と言えるでしょう。
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