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北前船と金毘羅詣、そして鉄道の町として栄えた多度津

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昨日の琴平町と共に、今日の多度津町も、以前、記事にしていますが( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )、その際はB級グルメの鍋ホルうどんが中心だったので、改めて今回、多度津について書いてみたいと思います。 前の記事でも少し触れましたが、多度津は、室町時代初めから約200年の間、香川氏の城下町として栄えました。その後、豊臣秀吉の四国征伐で香川氏は滅びますが、江戸時代になって、元禄年間に多度津藩が成立すると、2度目の城下町として栄えることになりました。 ところで、昨日の記事( 上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる )で、十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』を取り上げましたが、弥次さん北(喜多)さんは、多度津にも来ています。大坂から丸亀まで船で渡り、こんぴらさんに参詣した二人は、善通寺と弥谷寺にもお詣りして、多度津から丸亀へ戻ります。 『続膝栗毛』の初編が発表された1810(文化7)年当時は、大坂と丸亀を結ぶ金毘羅船が一般的でした。人々は、丸亀の宿に荷物を預けて金毘羅宮へ詣で、また丸亀から大坂へ戻りました。なので、弥次北も、多度津から大坂へ直帰するのではなく、丸亀へ戻って荷物をピックアップしてから、大坂へ帰ったのでしょう。 多度津藩は、1694(元禄7)年、丸亀藩から分封されて成立しますが、藩主は丸亀城の部屋住みで、多度津には少数の家臣が住んで藩政を執り行っていました。多度津に陣屋が置かれたのは、4代藩主京極高賢の時代になってからのことで、次の5代高琢は、桜川の河口港だった多度津湛甫を、4年にわたる大工事の末、1838(天保9)年に立派な港へと変貌させます。 これにより多度津は、讃岐一の良港となり、北前船の基地として発展。讃岐三白と言われる塩や綿、砂糖などを積んで、日本海沿岸から北海道まで航海し、干鰯や肥料などを持ち帰りました。その結果、廻船問屋を始め、万問屋や干鰯問屋など、さまざまな問屋が軒を連ね、多度津は活況を呈します。 また、九州や中国、北陸地方など日本海側の人たちが、北前船で多度津に上陸し、金毘羅宮を目指すようになります。金比羅宮への参詣には、主にこんぴら五街道と呼ばれる道が使われましたが、中でも途中に善通寺がある多度津街道は、信仰の道として多くの人が利用し、多度津の浜には船宿や旅籠が建ち並びました。 更に1889(明治2

三次浅野藩と赤穂浪士の絆求めて

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三次市は、三つの川が合流して、中国地方第一の大河・江の川となる辺りに開けた地域で、古くから交通の要衝として知られていました。今も山陰・山陽を結ぶ交通の要で、広い商圏を抱えていますが、特に江戸時代は、鉄の産地出雲につながる出雲往来などのポイントとして、重要視されました。 この辺り一帯は、秋から春にかけて、川が運ぶ冷気の影響で、濃い霧が時々発生します。夜半から朝まで漂う「霧の海」は、観光の呼びものの一つになっていますが、昔は往来を妨げ、山道の通行を難儀なものにしました。このため、江戸時代、出雲への道は、東海道並みの道幅に広げられ、一里塚も置かれたといいます。 三次市は、江戸時代、広島・浅野藩の支藩である三次藩の城下町として栄え、四十七士の討ち入りで知られる元禄赤穂事件とも深い関わりがあります。 三次の地は、もともと三吉氏が代々領地としていたもので、16世紀末に、今の尾関山公園の北方にそびえる比熊山一帯に山城が築かれました。その後、この城は廃城となり、関ケ原の戦いの後、安芸国に入封した福島正則が、重臣・尾関正勝にこの地を治めさせ、尾関氏は江の川を見下ろす尾関山に館を構えました。そして、1619(元和5)年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が安芸に入封しました。 今から390年前の1632(寛永9)年、長晟が没し、嫡男光晟が家督を継ぎます。しかし、当時、光晟が17歳という若さだったこともあって、幕府は、光晟の庶兄に当たる浅野長治に5万石を分与する処置をとらせて、本藩を手助けさせることにしました。こうして三次藩が成立し、長治は、三次の町全体を一つの曲輪(郭)に見立て、4代にわたってこの地を治めました。 元禄赤穂事件でおなじみの浅野内匠頭長矩の正室阿久利姫(揺泉院)は、この三次藩初代藩主浅野長治の次女にあたります。二つの浅野家は、長矩の高祖父にあたる長政から分かれたもので、同族ということになります。 二人の縁組は、長矩が10歳、阿久利が7歳の時に幕府から許可され、長矩17歳、阿久利14歳の時に結婚。この時、赤穂藩からは、家老の大石内蔵助が迎えに来ました。大石、時に24歳。まさかに、19年後、主君の仇討ちということになるなど、思いようもありません。大石は、長治の建てた鳳源寺に詣で、境内にシダレザクラを植えました。今に残るこの桜は、両家の繁栄を願ってのものだったでしょう。 阿久利は、

ヒスイ王国・糸魚川と奴奈川姫の伝説

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糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ぐ活動を取材した際、市内をあちこち歩いていて、ヒスイと奴奈川姫(ぬなかわひめ)にまつわるあれこれを見つけました。 まず、糸魚川駅南口に出ると、すぐ右側に「ヒスイ王国館」という建物があります。コミュニティーホールらしいですが、1階には糸魚川観光物産センターがあって、それこそヒスイや地酒などが置いてありました。糸魚川は、硬玉ヒスイの原産地なのです。 糸魚川駅の隣に、えちご押上ひすい海岸駅(えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)がありますが、この駅から海に向かって5分ほど歩くと、その名もヒスイ海岸があります。玉石の海岸で、石の多くは、川によって、長い年月をかけ山から海に流されてきたものです。運が良ければ、ヒスイが見つかることもあるそうです。 さて、ヒスイ王国館前の横断歩道を渡ると、奴奈川姫のブロンズ像があります。更に、海へ向かって真っ直ぐ延びる駅前通りは、その名も「ヒスイロード」と呼ばれ、両側の歩道には、デッカイ勾玉と少し小ぶりな勾玉、それに宝珠が、あっ、ここにも、あれ、あそこにも、という感じで設置されています。 そして駅から歩いて5分ほど、日本海を望む駅前海望公園には、ひときわ大きな奴奈川姫のブロンズ像が建っています。姫にしがみついているのは、息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)で、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子とされます。つまり、大国主神と奴奈川姫の間に出来た子どもってことになります。 ただ、『古事記』では、出雲国の大国主神が、高志国の沼河比売(奴奈川姫)に求婚したことまでしか出ていません。でも、平安前期の歴史書『先代旧事本紀』には、大己貴神(大国主神)と高志沼河姫(奴奈川姫)の子どもと記されており、記紀には記述がないものの、これと同じ伝承が、糸魚川を始め各地に残っています。 出雲と糸魚川では、かなり距離がありますが、日本海に面しているので、舟で交流があったのでしょうね。しかも、糸魚川には、古くからヒスイを使った玉作りを行う一族がいたと言われます。玉は古代人の装飾品で、勾玉・管玉など、多種多様な玉があります。ヒスイやメノウなどを材料として作られましたが、それが信仰の対象となるほど、神秘的な美しさを秘めていました。 大国主神がはるばる出雲から高志国までやって来たのも、ヒスイを求めてということだったのでしょう。で、玉造部

戦国武将・真田家の本拠地

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上田市は、長野県東部、北は上信越高原国立公園の菅平高原、南は八ケ岳中信高原国定公園の美ケ原高原など2000m級の山々に囲まれ、中央部を千曲川が流れています。奈良時代に国分寺、国分尼寺が建てられ、鎌倉時代には、鎌倉の仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と称されています。 戦国時代に入ると、真田氏の本拠地として、その名を知られるようになります。真田氏は、信濃国海野荘(現・長野県東御市)を本拠とする海野氏の分家とされ、戦国時代初期の武将・海野棟綱の子(孫とも言われる)幸隆が、真田郷に住み、真田を名乗ったのが、昌幸や幸村ら、今の我々が知る真田氏のルーツです。 幸隆は、武田信玄に仕え、武田二十四将の一人として活躍します。次の昌幸は、幸隆の三男でしたが、長兄、次兄が長篠の合戦で戦死したため、家督を継ぐことになります。そして、武田家が織田信長によって滅ぼされると、織田家に付くも、間もなく信長が本能寺の変で暗殺されると、上杉から北条、北条から徳川と、主家をめまぐるしく替えながら領地を守ります。 なので、本能寺の変の翌年に完成した上田城が、誰の指図あるいは許可を受けて築城したのかは不明です。ただ、1583(天正11)年、上田盆地のほぼ中央、千曲川とその分流を引いた尼ケ淵を臨む崖の上に、上田城が築かれたのは確かです。 で、変わり身の早さで定評のあった昌幸ですが、家康が北条氏との取り決めで、上州の沼田城を北条氏に譲るよう命じると、昌幸は家康から離れ、再度上杉の元へ走ります。本領発揮ですね。しかし、ここからが、ただの日和見さんとは違います。 これに激怒した家康が、大軍を率いて上田に押し寄せますが、昌幸は巧みな戦略でこれを撃退。しかも、二度にわたり徳川軍を退けたことで、真田の名は、全国に轟きます。 その後、豊臣秀吉の裁定により、家康の元へ戻り、信之は、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘を嫁に迎えます。1600年の関ケ原の戦いでは、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、信之は東軍に付き、家名の存続を図ります。 関ケ原の戦いで、一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、これにより昌幸と信繁は、紀州九度山へ配流となり、上田城も破却されてしまいます。徳川に付いた信之は、昌幸に代わって上田藩主となりましたが、上田城の再建は許されませんでした。 関ケ原の戦いから14年、既に昌幸は生涯を閉じていましたが、信

忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目

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昨日の記事( 千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る )の根津神社から湯島方面へ向かう不忍通りは、湯島の手前で不忍池に沿って曲がり、上野駅へと至ります。不忍通りの名前の由来は、不忍池から続く通りだからですが、じゃあ、不忍池の由来は?って思いますよね。 これには諸説あって、上野の山の古称「忍岡(しのぶのおか)」からという説や、笹が生い茂って輪のような水辺だったから(篠輪津)という説、更には結ばれなかった男女が池に身を投じた悲話からついたという説もあります。 ちょっと地形の話になりますが、東京は、いわゆる山の手と呼ばれる標高20mぐらいの台地と、ゼロメートル地帯と呼ばれる下町エリアの低地から成ります。また、昨日の記事で、「文京区は、もともと五つの台地といくつもの谷で出来ており、坂が多い」と紹介しましたが、山の手には、それと同じように、台地が浸食されて出来た谷が、あちこちにあります。 上野の場合、山の手の台地と下町の低地の境になっています。分かりやすいのが上野駅で、中央改札口と不忍口は1階にありますが、公園口は3階にあり、駅を境にして台地と低地が分かれているのです。(※入谷口はちょっとややこしくて、駅の外に出る入谷口は1階ですが、ホームに入る入谷改札は3階にあります) で、上野公園も、公園口から入った国立西洋美術館や国立科学博物館、東京国立博物館などは台地、そして不忍池は低地となります。上野は、「上野のお山」などと呼ばれるように、まさに台地の上にあり、忍岡の古称もそこから付けられたのでしょうし、不忍池は、忍岡ではないということで、不忍となったのかもしれません。この説、確かに一理あります。 でもまだ、「忍」って?となりますよね。そこで出てくるのが、篠輪津説ですが、これを逆にたどると、忍岡は篠輪岡ってことになって、台地も笹が輪になっていたことになり、ちょっと無理がありそうです。そう考えると、しのび逢いの男女説も、こじつけな感じがします。 そこで、もう一度「忍」に戻りますが、この字を見ると、どうしても忍者や忍術、いわゆる「忍び」を思い浮かべてしまいます。が、実は「シノブ(忍)」というシダがあって、これ、山地の岩の上や木の幹などに付くんだそうです。シノブは、日本全国に分布しており、当然、上野の台地にも繁茂していたでしょう。 なので、シノブが生えている岡=忍岡、シノブのな

千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る

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長瀞の寶登山神社、酉の市発祥の花畑大鷲神社に続く、日本武尊東征伝説の第3弾です。今日の舞台は、東京メトロ千代田線の根津駅から、歩いて5、6分の所にある根津神社(文京区)になります。 根津神社は、日本武尊が東征の折に、戦勝祈願のため、今の団子坂辺りに創祀したのが起源とされています。その後、時を経て、江戸城を築いた太田道灌が、社殿を造営しました。 更に時代が下って江戸時代、5代将軍徳川綱吉が、兄綱重の長男綱豊を養子とし、後継に据えた際に、屋敷地を根津神社に奉納し、神社の大造営に取り組みます。現存する社殿や透塀、唐門、楼門などは、この時建てられたもので、これに伴い、旧社地の千駄木から、現在地へ遷座されました。ちょうど、千代田線の千駄木駅から根津駅へ移動したような案配です。 綱吉による、天下普請と言われた大造営は、1706(宝永3)年に完成。その社殿は、権現造が特徴となっています。権現造は、石の間と呼ばれる一段低い建物を挟んで、本殿と拝殿をつなぐ構造で、平安時代に京都の北野天満宮で初めて造られました。かつては八棟造と呼ばれていましたが、日光東照宮に採用されてから、徳川家康の神号・東照大権現から権現造と呼ばれるようになりました。 北野天満宮は、何度も火災に遭っており、現在の社殿は、豊臣秀頼により1607(慶長12)年に造営されたもので、同じ年に伊達政宗によって創建された大崎八幡宮と共に、現存する最古の権現造となっています。日光東照宮は、それに遅れること10年、1617(元和3)年に社殿が完成。以来、権現造は神社建築に多く用いられるようになり、綱吉もこれを踏襲したのでしょう。 根津神社は、北野天満宮と違い、火災に遭うこともなく、また関東大震災や東京大空襲などからも免れ、どれ一つ欠けることなく現存しており、国の重要文化財に指定されています。特に、楼門は、江戸時代から残っているのは、都内で根津神社だけといいます。ちなみに、正面右側の随身は、水戸黄門こと水戸藩第2代藩主徳川光圀がモデルとも言われています。 また、社殿をぐるりと取り囲む塀は、格子越しに反対側が透けて見えることから「透塀」と呼ばれています。この透塀は、「唐門東方」「西門北方」「唐門西門間」の三つに分けて重文指定がされていますが、これは唐門と西門の所で分断されていると判断されたためです。透塀は銅瓦葺で、総延長は108間(約

酉の市の起源は日本武尊の命日に立った門前市

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昨日の記事( 宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」 )で触れた、日本武尊の東征にまつわる伝説が残る鷲神社(おおとりじんじゃ)の話です。鷲神社は、酉の市で広く知られています。社伝によると、日本武尊が東征の折、天岩戸神話の中で、天宇受売女命が裸で踊った際の伴奏者・天日鷲命を祭る社に立ち寄り、戦勝を祈願したことから、天日鷲命と日本武尊を祭っている、としています。 しかし実際には、隣にある鷲在山(じゅざいさん)長國寺(ちょうこくじ)の境内に祭られていた鷲宮に始まると言われます。長國寺も酉の寺として知られ、浅草酉の市は、この長國寺が発祥とされます。 その長國寺は、寺の縁起によると、1630(寛永7)年に石田三成の遺子といわれる、 大本山長國山鷲山寺(じゅせんじ/千葉県茂原市)第13世日乾上人によって鳥越(台東区)に開山され、1669(寛文9)年に、新吉原の西隣に当たる現在地(台東区千束)に移転してきた、としています。 しかし、こちらもいろいろ不明な点があります。まず、石田三成の遺子は6人(3男3女)いて、長男と三男は確かに出家していますが、長男は臨済宗の僧、三男は真言宗の僧になっています。また、長國寺開山の頃、確かに日乾上人という高僧がいましたが、その日乾は、京都八本山の一つ本満寺第13世を経て、1602(慶長7)年に日蓮宗総本山身延山久遠寺の第21世を務めた人です。 久遠寺を退いた後は、一時、やはり京都八本山の一つ本圀寺に住したと言われ、その後、摂津国(大阪府)の能勢頼次に招かれ、能勢氏の領地(能勢郡)に隠居所・覚樹庵を建てました。頼次は、明智光秀と親しく、山崎の戦いでは光秀についたため、豊臣秀吉に領地を没収されますが、徳川家康に仕え、1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、家康により旧領を回復されました。そしてこの年、本満寺貫首であった日乾上人を招き、山や屋敷などを永代寄進。日乾は、そこに庵を結んだことになります。更に家康が亡くなった後、頼次は恩人である家康の菩提のためと能勢氏の祈願所として、覚樹庵境内に真如寺を建立、日乾上人が法務を執りました。 もちろん、長國寺を開山した日乾上人は、この日乾上人とは、同名異人なのかもしれません。ただ、長國寺に安置されている鷲妙見大菩薩(わしみょうけんだいぼさつ)の由来を聞くと、どうも話が混線したのでは、と思わないでもありません。

植木の里・川口安行の話

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長男家族は、我が家から約9km、車で20分ぐらいの所に住んでいます。ルートはいくつかあるのですが、国道4号を突っ切るとJR武蔵野線東川口駅南口の戸塚地区、4号線を草加方面へ少し走ってから入ると安行地区を通ります。 安行地区は、「植木の里」と呼ばれ、その歴史は400年以上になります。かつては鋳物と共に川口の2大産業として、隆盛を極めましたが、東京に隣接していることから人口が増えると共に、住宅開発が進み、鋳物工場も緑化産業も徐々に減っています。 それでも安行には、川口市営植物取引センターや川口緑化センター樹里安、花と緑の振興センター、安行園芸センターなど、「植木の里」にふさわしい施設があります。植物取引センターでは、毎週火曜日、植木のせりが行われ、全国から関係者が集まります。また、センターの敷地には、JAさいたまの子会社「安行植物取引所」が運営する植木直売所があり、一般の人が購入出来るようになっています。 川口緑化センターは、川口の伝統産業である植木や花、造園の振興を図るため、緑化産業に関する情報の収集や提供を行う施設です。道の駅「川口・あんぎょう」が併設されており、多種多様な花と緑を販売する園芸販売コーナーや、レストラン、屋上庭園などがあります。 花と緑の振興センターは、県の施設で、生産者や造園業者向けの情報提供や講習を行う他、園内には植木や鑑賞用樹木など、2000種類以上の植物が展示されています。安行園芸センターは、農事組合法人あゆみの農協の施設で、植木や草花、園芸資材を購入出来ます。 安行は、1496(明応5)年、この地に曹洞宗の金剛寺を創建した中田安斎入道安行の名にちなんで付けられた地名と言われています。応仁の乱から20年ほど経ち、時は群雄割拠の戦国時代が幕を開けた頃でした。殺傷が続く戦乱の中、自らの所業に悩んでいた中田氏は、この地を行脚していた節庵禅師による金剛経で救われ、寺を建てることにしたと伝わります。 入道というぐらいですから、在家のまま剃髪し、仏道に進んだのでしょう。中田氏の出自については、いまひとつ分からないのですが、安行の子どもが、太田資長(道灌)の孫である資頼に仕えていたということから、安行も同時代を生きた資長の配下にあったのかもしれません。資長が、道灌を名乗るのは入道してからのことで、安行に影響を与えたと考えられなくもないかと。 戦国時代の中田

群馬県下で唯一現存する城櫓

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高崎は平安時代、赤坂の庄と呼ばれ、鎌倉時代には和田氏が城を築き、戦国時代を通じてこの地を治めました。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、上州の諸城は次々と陥落し、和田城もあえなく落城。その年、徳川家康が関東に入部し、和田の地は、徳川四天王の一人井伊直政によって支配されることになりました。 直政は、家康の命によって、和田城跡に城を築き、地名を高崎と改めました。この地は、中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、家康はその監視を行う城が必要と考えたのでした。 直政が、関ケ原の戦いで大功を挙げ、近江に移封されてからは、高崎城の城主は有力譜代大名が歴任。高崎は城下町として、また重要街道の宿場町として大いににぎわい、物資が集散し商業も栄えました。 明治維新で廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、または移築されました。現在、建物で残っているのは、乾櫓と東門だけで、実はこの二つも、当時名主であった梅山氏に払い下げられていたのだといいます。 1951(昭和26)年、高崎市史編纂委員数人が、市内を踏査中、下小鳥町で風変わりな土蔵を発見しました。旧高崎城各部実測図と照合したところ、それは乾櫓だということが判明しました。 高崎城には、御三階櫓(天守)と乾(北西)、艮(北東)、巽(南東)、坤(南西)の4基の隅櫓がありました。しかし、残っているのは、乾櫓だけ。しかも、高崎城はおろか、群馬県下唯一の現存城櫓となっています。 こうしたことから、乾櫓はその後74年に、梅山氏から市に寄贈され、現在地に三の丸模擬石垣を造り、その上に移築復元されました。また、東門も梅山氏宅の門になっていたところ、その数年後に乾櫓の隣に移築されることになりました。 東門の復元には、高崎和田ライオンズクラブが関わっています。80年2月、結成10周年を迎えた同クラブが、記念事業として梅山氏から東門を譲り受けて移築し、高崎市に寄贈したのです。その説明板によると、高崎城にはかつて16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で、そのうち東門だけくぐり戸がついており、通用門として使われていたとあります。 高崎城東門は、本瓦葺きの単層入母屋造りで、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。向かって左が大戸、中央がくぐり戸、右が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行った武者窓付の藩士詰所だとされています。

難攻不落と言われた総石垣の不思議な山城

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太田市は、群馬県の南東部にあり、南に利根川、北に渡良瀬川と、水量豊かな二つの川に挟まれています。江戸時代には、大光院の門前町、日光例幣使街道の宿場町(太田宿)として栄えました。大正期以降は、富士重工業の企業城下町として飛躍的な発展を遂げ、現在も北関東随一の工業製品出荷額を誇っています。 そんな太田市のほぼ真ん中にある金山に、関東七名城の一つで、日本100名城にも選定されている太田市のシンボル金山城があります。1469(文明元)年に、新田氏の一族・岩松家純によって造営されたのが始まりとされます。 その金山城は、難攻不落の城と言われ、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏といった有力な戦国大名が、延べ十数回にわたって攻め寄せましたが、戦闘では一度も落城することはありませんでした。 城というと、石垣の上に築かれた天守閣を思い浮かべると思いますが、このような城が一般的になるのは、織田信長の安土桃山時代以降のことです。中世の城は、ほぼ土だけで造られた山城で、石垣はほとんどありません。特に関東では、関東ローム層の赤土で造った城が多く見られます。 そんな中、金山城は、総石垣の山城だったといいます。城が築かれた金山(標高239m)は、岩盤で出来ており、石が容易に手に入ったということもあったのでしょう。そのせいか、石垣だけではなく、城内は石畳となっていたり、池も石垣で囲まれたりと、ちょっと日本らしくない城になっています。 城内の池は、「月ノ池」と「日ノ池」と呼ばれています。山頂にある「日ノ池」は、結構な大きさがある池で、側には石組みの井戸が二つあります。また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を溜める構造になっているそうで、これらによって、山頂にありながら、池は涸れることがないといいます。「月ノ池」も、「日ノ池」と同じ造りで、上下二段の石垣で囲まれた池になっています。 城は、岩松氏から由良氏へと城主が替わり、更に1584(天正12)年には北条氏が支配します。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、金山城も廃城となりました。 現在、金山城跡として、我々が目にしているのは、1992(平成4)年から発掘調査を開始し、往時の通路形態を復元したもので、2001(平成13)年に第1期整備事業が完成。引き続き、04年から第2期整備事業が実施されました。