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民謡のある風景 - 温泉情緒たたえて江戸期から(石川県 山中節)

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湯どころと言われる加賀には山中、山代、片山津、粟津と名湯がそろい、それぞれの風情を見せます。中でも山中は唄と共によく知られ、古くから文人墨客が訪れました。 山中温泉は、加賀山地の南部を北へ流れる大聖寺川の中流の渓谷にあります。川は、町の東を流れ、上流にかかるこおろぎ橋から、下流の黒谷橋まで、約1kmの間が遊歩道になっていて、奇岩、怪石が並びます。 芭蕉がここへやって来たのは、1689(元禄2)年7月27日(今の9月10日)の午後6時頃だったといいます。8日間滞在した芭蕉は、黒谷橋などに遊んでいますから、奇岩の景勝も堪能したに違いありません。その折の一句。 「山中や菊はたおらぬ湯のにおい」 温泉と共に有名な『山中節』は、地元の古い盆踊甚句が、お座敷唄に変わったものと言われていますが、『松前追分』が変化したものだという説もあります。江戸期、北前船に乗った北陸・加賀の船乗りたちが、北海道で「追分」を唄い覚え、湯治に来た山中温泉で唄い広めて、それが『山中節』に変わっていったというのです。元禄年間には、今の『山中節』の原型が出来ていたといいますから、芭蕉も、元唄のそのまた元唄の一節ぐらいは聞いていたかもしれません。  ♪ハアーアーアー   忘れしゃんすな 山中道を   東ァ松山 西ァ薬師 (チョイチョイチョイ) この唄は昭和の初め頃まで、早いテンポで唄っていたそうですが、今の曲調で唄い出したのは、地元の米八という芸妓で、レコード化されて全国に知られるようになりました。それからは米八調の『山中節』が正調とされ、いかにも温泉情緒たっぷりの、しっとりとした味わいの唄となって定着しました。この唄には、艶っぽい歌詞が多くあります。それがまた温泉街の歓楽ムードにも似合います。芭蕉別れの句。 「湯の名残今宵は肌の寒からむ」

城のある風景 - 加賀百万石初期の苦悩

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加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。 1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成、そこは御山とも呼ばれて、北陸一帯の組織の中核となりました。 中世的な体制を破っていった織田信長は、一向宗門徒組織とも激しく対立し、各地で一向一揆の鎮圧に乗り出し、金沢御堂もまた織田方の柴田勝家の猛攻にさらされました。1580(天正8)年、金沢御堂は激戦の果てに陥落、佐久間盛政が、この仏法の法城に入りました。 門徒組織の真っただ中に乗り込んだ盛政は、直ちに土塁を築き、堀をうがち、「御山」を「尾山」と改めて城の名としました。更に3年後、前田利家がこの地に入り、加賀百万石の祖となりました。 利家は、一揆鎮圧にも腕をふるい、門徒をはりつけや釜ゆでにしたといいますから、彼にとっても、この地は敵地でした。城は、かつての御山の面影を留めぬほどに改築されねばなりませんでした。 城は、浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の突端にありましたが、城の向きが北北東に変えられ、今の河北門が正門に改められました。1610(慶長15)年には、内堀や外堀も完成しました。 その後、金沢城は火事に遭いますが、裏門にあたる石川門は、1788(天明8)年に再建され、4〜7mmの鉛瓦で葺かれました。鉛瓦が使われたのは、いざという時に溶かして弾丸にするためでした。 加賀を治めた前田氏は、幕府にとっては目障りな外様の大大名でした。領民は門徒の恨みひきずり、油断ならず、城が安穏であったのは、3代藩主から後のことだったといいます。

時代に即応し新しい作風を生む九谷焼の魅力

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能美市寺井町は石川県南西部、北陸の空の玄関口・小松空港から、車で15分ほどの距離にあります。古くから九谷焼の産地として知られ、九谷焼は全生産量の約8割をつくっています。寺井には九谷陶芸村があり、九谷焼資料館や美術館、陶芸館、九谷焼団地協同組合、石川県九谷焼技術研修所などが建ち並んでいます。 九谷焼というと、絢燗豪華な壷や、大皿などを思い浮かべる人が多いでしょう。ある意味では、そのイメージは的を得ています。九谷焼の魅力はなんと言っても、色絵装飾のすばらしさにあるからです。 九谷焼の世界では、「絵付を離れて九谷はない」と言われるほど。その特徴は、一般に九谷五彩と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の見事な色彩効果と豪放優美な絵模様に現れています。 しかし、絵模様自体は時代によって変化しており、これが九谷とは一概に言えない多様さを有しています。その多彩な作風を可能にしたのは、九谷に陶画工の歴史がなかったからだといいます。本職の絵師に絵付けさせたことが、かえって上絵窯としての発展を促すことになったようです。 九谷では今も、素地づくりと、絵付けとは分業制になっています。ろくろで成形し、紬薬を施して白磁の器を焼く窯元と、その素地に絵付けをし、完成品として焼成する窯元は、別々になっているのです。 そのため、九谷焼の焼成は一般に素焼、本焼、上絵窯、錦窯と4回もの工程を経ることになります。他の窯業地のような一貫生産はまれで、これもまた九谷の特色と言えるでしょう。 上絵は、その時代その時代の作家が、独自の画風でさまざまな試みを施しています。だから、一般の人が思い描く九谷焼のイメージも、古九谷窯の青手や、吉田屋窯、あるいは海外貿易用として一世を風靡した九谷庄三風など、実際には人によってまちまちなのではないでしょうか。 九谷は今も変化を続けています。それが、九谷の魅力であり、伝統でもあるのです。 ※取材に協力して頂いた武腰敏昭さん(写真2枚目)は今年7月28日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。武腰さんは、取材当時、日展評議員、石川県陶芸協会理事長を務めておられ、主に陶壁などの大きなものを制作、九谷陶芸村にある巨大モニュメントも武腰さんの作品です。

白山麓の人々の心を紡ぐ伝統の手織り・牛首紬

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霊峰白山を源に金沢平野へ注ぐ手取川。その手取川に沿って、白山市の鶴来地区から白山方面へ向かうと、25kmほどで白峰の集落に出ます。 ここは、かつて白山麓十八力村と呼ばれる天領でした。その後、1889(明治22)年に村制を施行、白峰村となりました。雪の多い北陸でも有数の豪雪地帯で、冬ともなれば、集落全体がすっぽりと雪に覆われてしまいます。古くから養蚕が盛んで、かつての十八力村の一つ牛首村で織られていた「牛首紬」は、今でもこの地域の特産品となっています。 牛首紬の起源は定かではありません。1159年の平治の乱で敗れた源氏(平家という説もあります)の落人が、この地に逃れ、その妻女が機織りの技に優れていて、村の女たちにその技術を伝えたのが始まりとも言われます。それが正しければ、860年以上の歴史を持つことになり、牛首紬の繊細な技術は、こうした都人の匂いなのかもしれません。 記録の上では、京都の旅籠屋松江重頼が書いた『毛吹草』(1645年)に出てくる牛頸布の名が最初です。その後、江戸後期の『白山草木士心』(1822年・畔田伴存作)には、「牛ケ首は民家二百三十軒あり繁盛の地なり、蚕を家ごとに養うて、糸を出すことおびただし」と、記されています。 最盛期、年間1万2568反も生産したと記される1934(昭和9)年頃は、総数200戸余りの機場と2社の大機業場がありました。しかし、なぜか第2次世界大戦前には、そのほとんどが姿を消しています。更に戦後、復興を試みた者のうち、残ったのは加藤機業場のみとなってしまいました。 後継者もなく、伝統の牛首紬も消えゆくかと思われました。が、「祖先の遺産は守らねば」と、1965(昭和40)年、土木建築会社・西山産業が織物部門を設け、西山家の七人兄弟から三、五、六男が紬屋に転身しました。三男西山鉄三さんの話では、当初は牛首紬の産業化など愚かなこと、と笑われたといいます。 確かに織物部門は、しばらく赤字を続け、西山産業のお荷物になっていたそうです。更に1974(昭和49)年、手取川ダムが出来、紬の里が水没しました。そのため西山産業は、白峰村日峰と鶴来町に工場を移転。紬の技術を持っていた人たちも集団で移転し、牛首紬は白峰と鶴来で再出発しました。 そんな中で、加藤機業場でも息子が跡を継ぐ決意を固めます。1979(昭和54)年には、牛首紬生産協同組合を結成。その

加賀温泉郷・湯の里、技の里

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山中、山代、片山津 ー 旧山中町(現・加賀市)は、古くから知られた湯の里です。2005年に加賀市と合併して新生・加賀市となった後、町名がそれぞれ加賀市山中温泉、加賀市山代温泉、加賀市片山津温泉となったのを見ても、これら三つの温泉が、町にとってどんな存在なのかが分かります。 このうち山中温泉は、大聖寺川の中流にあリ、文字通り山の中。山代温泉は大聖寺川下流、前に田園地帯を控え、背後に小高い丘陵を背負った高台にあります。そして片山津は日本海側、柴山潟の畔にデラックスな旅館が立ち連なる明るい温泉です。この三湯に、小松市の粟津温泉を加えて、加賀温泉郷と総称しておリ、それぞれ異なった風情と情趣で、多くの湯客を引きつけています。 この加賀温泉郷には、お湯の他にもう一つの顔があります。山中漆器と九谷焼 ー つまリ「技の里」としての顔です。 山の木地師が、温泉土産に杓子や椀、それに玩具などを挽いたのが、山中漆器の始まリだといいます。漆塗リは江戸時代中頃に始まリ、蒔絵は江戸後期に京都や会津の技術が導入されて基礎が出来たといいます。 同じ石川県には、漆器の代名詞のようになっている輪島塗がありますが、両者の間にはかなりの違いがあります。山中漆器の場合、塗リそのものよりも、むしろ挽きの方に特徴があると言えます。 特に、ひと目で山中漆器と分かるのが、独特の素地加飾「筋挽き」です。器の表面にびっしりと細かい筋を彫リ上げる千筋や、平筋、ロクロ目筋、更には飛び鉋を使った飛び筋、稲穂のような筋文様を彫る稲穂筋など、数十種類の筋挽きがあります。素地加飾に使う小刀やカンナは、全て木地師自らが作ってもので、作業に応じて使いわけます。 また、薄く挽く技術も、非常に優れています。向こう側が透けて見えるような、極薄の茶托や椀素地があって、その技には本当に驚いてしまいます。こうした高度な技術は、漆を塗った後に蓋がぴったリ吸い付くよう見込んで挽く技術にも通じ、中でも茶道の棗では、他の追随を許さない力を持っています。  ◆ もう一つの技・九谷焼も、この時、当時の代表的な作家・北出不二雄さんにお会いし、お話を伺うことが出来ました。北出さんは、1919(大正8)年の生まれで、取材時は60代後半、日展評議員や金沢美術工芸大学名誉教授も務められ、石川県の無形文化財に指定されていました。少年時代から家業である製陶に関わり、兵役に

奥能登の厳しい自然が生んだ温もりの風景 - 間垣の里

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小さな田が重なり海岸まで続く、輪島の 白米千枚田 古い話になってしまいますが、1983年の暮れ、能登半島の輪島市を訪問しました。私にとっては、初めての奥能登です。当時は羽田から小松空港へ飛び、バスで小松か金沢に移動して、そこから列車(まだ国鉄でした)で輪島に入りました。 カメラマンのTさんが一緒で、列車は空いていたので、向かい合わせの2人掛け座席に一人ずつ座りました。Tさんは乗り物酔いをするため、いつものように進行方向に向かって座り、私はバックで進む形になりました。しばらくして、若い男性が我々の席に来て、席が空いているか尋ねました。「ええ、空いてますよ」と答えましたが、我々はかなり怪訝な表情になっていたと思います。 岩場に開いた丸い穴から水が流れ落ちる 桶滝 なんせ、空いているも何も、列車は空席ばかり。なぜ、わざわざ相席に? するとTさんの隣に座るなり、彼はいろいろと話しかけてきます。どうやら話し相手がほしかったようです。初めは世間話だったのですが、我々の目的地が輪島だと知ると、自分の身の上話を始めました。 彼は輪島塗の家に生まれ、漆器職人さんに囲まれて育ったそうです。生漆が肌につくと、かぶれることはよく知られていますが、徐々に漆への耐性が出来てきます。彼の実家では、その経験値を応用して、新しい職人さんが入ってくると、早く耐性を獲得させるため生漆をなめさせていました。彼は、漆に囲まれた、そうした生活が嫌で、家を飛び出したとのこと。その後は、かなり強烈な流転の人生を送り、今は大阪の金持ちの男性に囲われていると話しました。 その頃には、彼はほとんど私に向かって話していました。が、話がだんだんと深刻になってきたため、前の座席のTさんにも加わってもらおうとしましたが、Tさんは目をつぶったまま微動だにしません。どうやら、寝たふりを決め込んだようです。「ズルっ!」と思ったものの、仕方なくそのまま一人で聞き役を続けました。その結果、列車が輪島に着くまで、彼の話をたっぷりと聞かされることになりました。  ◆ そんな波乱の輪島入りだったわけですが、取材自体は非常に順調で、地元ミニコミ誌の取材にも同行させてもらいました。 ミニコミ誌の取材先は、西保海岸 上大沢 (かみおおざわ=輪島の人は略して「かめぞ