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海に最も近い駅・千綿駅と大村湾に沈む夕日

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昨日の記事( 取材で泊まった大村の町を散歩してみた )の大村から、JR大村線でも国道34号でも、20分弱で千綿駅に着きます。この駅については、以前の記事( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )に書いており、今回が再登場となります。 千綿は、もともと長崎街道25宿の松原宿(大村市)と彼杵宿(東彼杵町)の間宿(あいのしゅく)だった所です。宿駅として商工業が栄え、宿場であった約400mの街道筋には江戸時代の住宅も残り、長崎県の景観資産に指定されています。 1928(昭和3)年開業の千綿駅は、海の見える駅として知られ、2014(平成26)年には青春18きっぷのポスターになりました。そのキャッチは「18時16分 小さな改札をくぐった。大きな夕日が迎えてくれた。」でした。「海とホームが日本一近い駅」とも言われる千綿駅。遮るものなく見られる、大村湾に沈む夕日は、確かに格別です。 東彼杵町役場商工観光係がYoutubeにアップしていた動画(オリジナル→ https://www.youtube.com/watch?v=bf_v_zV8l6Y )を編集して、一部早送りにしたので、埋め込んでおきます。ちなみに、動画の説明には、「列車が傾いて停まる駅としては日本一美しい夕景だと長距離トラックドライバーさんのお墨付きです。映画ロケとタモリ倶楽部様お待ちしています。ちなみに各停とイベント列車しか停まりません」とありました。「列車が傾いて停まる駅としては」というのが気になりますし、長距離トラックドライバーさんって誰よ、とツッコミたくなりますが、青春18きっぷのポスターより夕日が際立っているので、良かったらチラ見してください。 で、前の記事にも書きましたが、現在の駅舎は、開業当時の駅をイメージして、1993(平成5)年に建て替えられたものです。ホームは、大村湾の海岸線に沿って設置されているため、カーブしており、そのため「列車が傾いて停まる駅」ってことになるわけです。 駅は、私が行った当時は無人駅で、何もありませんでしたが、16年から、東彼杵町のまちおこしグループ「長咲プロジェクト協議会」が管理業務を担当。現在は、佐世保から移住してきた湯下龍之介さん、香織さんご夫婦が、駅舎の業務管理責任者を兼ねて、「千綿食堂」という名の小さな食堂を運営しています。

南阿蘇村でお世話になった宿のいい話

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今回は、熊本地震について書いた前3本の記事の余録です。地震発生後10日近く経った4月24日に初めて西原村に入った際は、車中泊だったのですが、5月以降は出来るだけ取材先に近い宿を拠点にしました。 熊本城に近い アークホテル熊本城前 、益城町と西原村に近い グリーンリッチホテルあそ熊本空港 と ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前 、それに 南阿蘇村のグリーンピア南阿蘇 、 ペンションルミナス 、ペンションハーモニーなどです。 熊本市内に関しては、シティホテルもビジネスホテルもたくさんあるので、特に問題なしでしたが、他はオンライン予約大手の楽天トラベルやじゃらんで、飛行機のパックで出てきた宿を押さえました。益城町には、エミナースというホテルがあるのですが、ここは当時、被災された方の避難所になっていました。ただ、益城や西原は熊本空港がある場所なので、周辺にビジネスホテルが点在しており、特に宿には困りませんでした。 グリーンリッチホテルあそ熊本空港は菊陽町、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は大津町にそれぞれありますが、どちらも熊本空港から車で14、15分の所にあり、近くには鍋ケ滝の取材( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に泊まった ホテルビスタ熊本空港 や、ベッセルホテル熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港、カンデオホテルズ菊陽熊本空港、HOTEL AZ 熊本大津店などが、熊本から南阿蘇村へ向かう国道57号沿いに建っています。 このうち、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は、JR豊肥本線肥後大津駅から歩いて2分ほどの所にあり、近くには居酒屋さんがあったり、鍋ケ滝撮影で泊まった時に行った馬肉料理の「馬勝蔵」も歩いて5、6分と、かなり利便性のあるホテルでした。 地震があった2016年の取材はいずれも単独でしたが、この時は地震被害から再建された益城町給食センターの取材で、カメラマンの田中さんが一緒だったため、飲み歩くことを想定していました。ただ、給食センター再建支援の中心になった方と取材のコーディネートをしてくれた方が、両方とも熊本市の方で、しかも一人はお酒を飲まず車の運転が好きな方で、車で送迎するからと、熊本市内の馬肉ダイニング「馬桜」に連れて行かれ、結局、飲み歩きの利便性は何の意味も持ちませんでした。 一方、南阿蘇村は、草千里ケ浜や白川水源など、豊

北原白秋の古里「水郷柳川」をどんこ船で下る

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「水郷柳川」として知られる柳川市は、福岡県南部、九州一の大河・筑後川が、有明海へ流れ込む河口に開けた町です。有名な有明海の干潟は、筑後川によって運ばれてきた大量の土砂や阿蘇の火山灰など、微細な土によって形成されました。現在でも、筑後川河口付近では、1年間に約10mの割合で、干潟が成長していると言われています。  こうした自然の営みに、柳川の人たちはうまく調和し、干潟に掘割を切って排水を促し、掘った土を盛って陸地化してきました。しかも堀割は、干拓事業のための水路として、灌瀧用水路として利用するだけではなく、立花氏12万石の城下町として、城を防御する城堀の役割を果たしていました。 柳川には、中心部の2km四方だけで、60kmもの水路が張り巡らされています。柳川市全体で見ると、水路の総延長は930kmにもなるそうで、柳川の水路面積は、道路面積をしのいでいるといいます。まさに「水郷柳川」と呼ぷにふさわしい状態です。 柳川を「水郷」と呼んだのは、北原白秋でした。白秋(本名隆吉)は、1885(明治18)年、沖端村(現・柳川市沖端町)の造酒屋・北原家の長男として生まれました。白秋が生まれた明治時代には、掘割は城を守る役割を失い、人々の暮らしの場としての性質が強まっていました。 掘割に面する家々では小舟を持ち、掘割を移動手段として使っていました。また、農村から川船で野菜を売りに来たり、有明海に面する熊本や長崎、佐賀など他県からの物品が、柳川で川舟に積み換えられ運ばれたりして、舟運も発達しました。また、炊事・洗濯などにも、掘割の水が使われ、人々の日常生活と水路が密接につながるようになっていました。 そんな時代に生まれ、高校まで柳川で暮らした白秋は、写真家田中善徳との共著である水郷柳川の写真集『水の構図』の中で、古里柳川について、次のように書いています。 「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った。・・・」 地元の中学伝習館に進んだ隆吉少年は、「白秋」という号で短歌を作り始めます。しかし、教師との対立から中学を中退、早稲田大学英文科予科に進みます。その後、与謝野鉄幹に誘われ『明星』に参加し、学業の傍ら詩作に励みます。そして、1909(明治42)年に処女詩集「邪宗門」を発表します。 更に

白壁土蔵の街に春の訪れを告げる流しびな

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倉吉市は鳥取県中部、市のほぼ中央に打吹山があり、その少し北に玉川という水路が通っています。玉川沿い(通称川端)には、昔ながらの土蔵や商家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたレトロな町並みが形成されています。これらは江戸時代から昭和初期に建てられたものがほとんどで、赤い石州瓦で葺かれた屋根が、家並みに統一感を与えています。 倉吉は、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった交通の結節点にあり、古くから栄えてきました。更に江戸時代には、倉吉せんばと呼ばれる脱穀具で一世を風靡しました。冬の間にせんばを作り、春には日本中に出荷していました。せんばの行商に出掛けた商人はまた、各地の文化を身に付けて倉吉に戻ってきました。その代表格である倉吉絣は、薩摩や久留米を行商した人たちが持ち帰ったと言われ、すぐにせんばと並ぶ主産業となりました。そしてせんばと絣で潤った町には、米問屋や鉄問屋、木綿問屋、醸造業などが蔵を並べ、裏手には水路が造られ、舟が絶えず往来するようになりました。 裏通りのため、人通りがまばらなことも手伝い、昔町にタイムスリップしたような感覚に陥ります。また、玉川をまたいで、各土蔵の木戸口に向かってゆるやかな反りを持つ一枚石の石橋が架けられています。赤い瓦の白壁土蔵群と運河、そして石橋の連続が、非常に美しい家並みを形成しています。 この川端で毎年4月、子どもたちによる流しびなが行われます。1985年に倉吉打吹ライオンズクラブが始めてから、今年で36回目を迎え、「くらよし打吹流しびな」の名で今や倉吉を代表する春の風物詩となっています。 流しびなは巳の日の祓いとして、草や紙で「ひとがた」を作り、災いを払うために川や海に流した行事が源と言われます。やがて3月3日の上巳(本来は3月上旬の巳の日だったらしい)に、子どもたちの健康を願って人形を流す風習へと変遷しました。今でも奈良県五條市や兵庫県たつの市、京都・下鴨神社などで、伝統的な流しびなが行われており、中でも鳥取市用瀬町の流しびなは全国的にも知られています。 もちろん「くらよし打吹流しびな」も、子どもたちの健やかな成長を願ってのイベントなのですが、そもそもの発想は玉川の浄化運動から生まれました。水路としての役目を終えた玉川は、生活排水などで汚れ、70年代から80年代にかけては、誰も見向きもしない川となっていました。

静寂につつまれる冬の銀山湖を訪ねて

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朝来市というと、旧和田山町にある雲海に浮かぶ山城・竹田城で有名ですが、以前、姫路市在住の写真愛好家に勧められたのは、旧生野町にある銀山湖でした。しかも、季節は冬限定で、勧められるまま、2月の寒い時期に生野を訪問しました。 生野は兵庫県のほぼ中央、古代から出雲・大和両文化圏の接点として開け、生野銀山と共に発展してきた鉱山の町です。生野銀山は、807(大同2)年の開坑と言われ、室町時代の1542(天文11)年、山名祐豊が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まりました。その後、織田・豊臣時代を経て、江戸時代には幕府の直轄地として「生野代官」が置かれ、新潟の佐渡金山、島根の大森銀山と共に幕府の宝庫的存在となっていきました。 生野までは、姫路からJR播但線特急はまかぜ1号で約45分。車の場合は、やはり姫路から播但連絡道路を利用、生野南ICまでは約50分です。 私は車を利用しましたが、生野に着いたら、まず駅にほど近い「生野書院」に寄ってみたいところです。中は史料館になっていて、生野銀山関係はもとより、昔の生野の暮らしぶりや生活に関わる史料が展示されています。建物は、大正時代に建てられた林木商の邸宅を改修したもので、生野の町にはまだ、明治、大正の頃のこうした古い建物が多く残っており、銀山の町として繁栄した往時の面影を伝えています。 町並みを散策した後は、国道429号を東へ向かいます。目的の銀山湖の途中に、生野銀山があります。1973(昭和48)年に資源枯渇のため閉山した銀山の跡が、翌年から史跡・生野銀山として保存されています。約1kmの観光坑道や銀山資料館、銀を製錬した吹屋資料館などがあり、50分ほどの見学コースになっています。 さらに東へ10分ほど走ると、県立生野ダムとして建設された銀山湖に出ます。周囲12km、貯水量1800万平方リットルの人工湖で、生野を流れる市川の清水を満々とたたえています。フナやコイ、ブラックバスが多く、釣りのメッカとして県内外の釣り人が足しげく通います。 しかし、冬の銀山湖は静寂につつまれます。この辺りは雪も多く、鏡のような湖面に雪をかぶった周囲の山々を映します。また、温暖化の影響もあり、最近は全面結氷することはないようですが、トップ写真のように湖面が凍ると、湖底に沈んだ木が湖面に突き出したり、波紋を広げたような円が所々に現れ、不思議な風景を見せてくれます。

東海自然歩道で高尾山と結ばれる箕面の自然

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箕面市は梅田から電車で25分、大阪のベッドタウンとして人口が急増しています。しかし、箕面の駅から少し歩き、箕面公園に入ると、そこには自然があふれています。 箕面公園は明治100年を記念して、1969(昭和44)年、東京・八王子の高尾と共に「明治の森国定公園」に指定され、両公園を結ぶ東海自然歩道の西の起点ともなっています。東海自然歩道は、高尾と箕面を結ぶ1都2府8県(東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、奈良県、大阪府)に及ぶ全長1734kmの自然歩道で、長距離自然歩道の第1号として、70年に誕生しました。ちなみに、長距離自然歩道は、これまでに8本(東北、首都圏、中部北陸、東海、近畿、中国、四国、九州)が整備され、現在整備中の北海道、東北太平洋岸の2本が完成すると、総延長は2万7000kmになります。 で、東海自然歩道は、高尾山や相模湖、比叡山、鞍馬など、自然豊かな観光地が入っており、箕面の散策モデルコースは、大阪府茨木市の忍頂寺から箕面まで約6時間の自然歩道となっています(逆コース5時間40分)。もともと箕面は、箕面滝や箕面山地の渓谷を中心に、新緑、紅葉を始め四季折々の自然の美しさで、古くから知られた景勝地でした。 そのため、箕面単独でも、十分楽しめるスポットになっています。箕面滝までの行程をざっと紹介しておきます。 阪急阪急箕面線の箕面駅で降り、みやげ物店が並ぶなだらかな坂をたどります。みやげ物店の軒先では「もみじの天ぷら」が揚げられ、甘い香りが漂ってきます。「もみじの天ぷら」は、箕面の伝統名菓で、1300年前、箕面山で修行をしていた行者が、滝に映えた紅葉の美しさを称賛して、灯明の油でモミジの天ぷらを作り、旅人にふるまったと伝えられています。今では箕面名物として、みやげ物店の軒先で揚げられています。 そんなみやげ物店が途切れ、しばらく歩くと箕面公園に入ります。箕面川の流れに沿って遊歩道を歩くと、1万点の昆虫のコレクションが展示されている昆虫館があります。箕面公園は、日本有数の昆虫の多産地として知られ、これまでに約4000種が記録されています。 また、この辺りは古くからモミジの名所として有名でしたが、モミジ以外にも、さまざまな樹木や草花など1000種近くの植物が成育しており、箕面の自然の豊かさを物語っています。 昆虫館の対岸には、

日本六古窯の一つ常滑焼の歴史

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私が編集に携わっていた雑誌は、今年で創刊64年になりますが、一貫して読者からの投稿欄が設けられています。編集部にはバックナンバーが全て保管されており、創刊2年目に入った1959年の雑誌(第2巻第1号)を見ていた時、「常滑焼の歴史」という原稿が目に止まりました。投稿者の柴山三郎さんは、1898(明治31)年に常滑市で生まれ、1923(大正12)年に秘色焼を興し、主に花器や水盤を作陶していた方でした。その投稿は、次のように始まっていました。 「全国有数の『すえ物作りの街・常滑』の名は、あまりにも世間に知られておりません。皆さんの身近に使用されていながら、その陶器が何焼であるかを知らずに使われている不思議な存在が、常滑焼であります」 私も、常滑焼と聞いて、イメージするのは土管坂ぐらいで、柴山さんの原稿を読んで初めて、朱色の急須や植木鉢も常滑焼だと知りました。常滑焼が、越前・瀬戸・信楽・丹波・備前と共に、日本の六古窯の一つとされていることは知っていましたが、確かに身近で使っていながら、それが常滑焼とは意識していませんでした。ちなみに、INAX(伊奈製陶/現LIXIL)も常滑だそうで、柴山さんは、常滑焼の知名度の低さは伊奈製陶以外、 ほとんど宣伝をしていないという、昔からの宣伝嫌いの風習からで、「デパートの宣伝係でさえ知らない人が多い実情であります」と書かれていました。 せっかくなので、柴山さんの原稿を以下に抜粋してみます。 「常滑市は名古屋市の南方、伊勢湾の海中に細長く延びた知多半烏の西海岸にある人口5万(※1)の街であります。名古屋駅から名鉄電車で急行1時問(※2)で達する陶器の街で、煙突林立する大工業地帯の景観を見ることが出来ます。有田焼も京焼も生まれていなかった鎌倉時代に、幕府からの注文で大きな壺や、 ひらかと称する皿、茶碗を盛んに焼いていたのであります。3000年以前の弥生式の土器も付近から発掘されていますので、 常滑焼の起源をどこまでさかのぼってよいのか分かりません。昔は船を利用した海上輪送が唯一つの運送機関でありましたので、 海岸地帯であって粘土と燃料の豊富にあった常滑地方一帯が、自然と陶器の生産地として発展したものと考えます。常滑古窯調査会の手で、半島の丘陵地帯の尾根10里ほどの間に散在する古い窯跡1000余カ所の存在を確認することを得ましたが、まだ山中に埋も

蒲郡市と西尾市から三河湾を望む

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前に何度か記事の中で触れていますが、担当していた雑誌の写真コンテストの常連さんに、撮影スポットを案内してもらう企画をやったことがあります。その際、愛知県の方に案内されたのが、三河湾でした。案内人は尾張(名古屋)と三河(岡崎)のほぼ中央にある東浦に住んでいました。日の出や夕陽の瞬間にあらわれる、色彩の変化と雲の表情に魅せられ、三河湾一帯を撮影地としていましたが、その時は蒲郡市と、幡豆町・吉良町(いずれも現在は西尾市)を中心に、内陸側を案内してくれました。 名古屋からは、名鉄三河線または名鉄西尾線の吉良吉田駅で下車。東京方面からは、新幹線の豊橋で東海道線に乗り換え、蒲郡へ。車では、東名高速の音羽蒲郡インターから音羽蒲郡有料道路を使い、やはり蒲郡へ出ます。東海道線の豊橋 - 蒲郡が10分、車ではインターから蒲郡までが約20分なので、この記事ではまず、蒲郡から紹介します。 蒲郡は県下有数の観光都市で、市内には三谷温泉、形原温泉、蒲郡温泉、西浦温泉と、四つの温泉場があります。観光都市・蒲郡のシンボルともいえる小島・竹島は、蒲郡温泉の近くにあり、陸とは387mの橋で結ばれています。島全体が暖地性植物でおおわれ、国の天然記念物に指定されています。周辺にも、三重県・鳥羽や伊良湖、三河大島への乗船センター、竹島水族館などがあり、多くの観光客が訪れます。 蒲郡から幡豆までは、名鉄でほぼ15分、車では形原温泉から三ケ根山スカイラインを通って約35分。三ケ根山スカイラインは別名「あじさいライン」と呼ばれ、約15kmの道筋に植えられた7万株のアジサイが、6月初旬から7月中旬にかけて咲き乱れ、ドライバーの目を楽しませてくれます。山頂には、殉国7士の墓やフィリピン戦没者の霊を慰める比島観音などがあり、遠くに渥美半島、知多半島、眼下に三河湾が望めます。 幡豆にはまた「うさぎ島(前島)」と「猿が島(沖島)」という名の無人島がありました。うさぎ島には400羽のウサギが、猿が島には100匹のサルが放し飼いにされ、観光客が間近に動物と接することが出来る「海上動物園」として親しまれていました。遊覧船で20分ほどで渡れたのですが、観光客が減ったことで、遊覧船の運航が停止、島の名も正式名称に戻りました。ちなみに「うさぎ島」のウサギは近隣の小学校や動物園などへ譲渡され、「猿が島」のサルは犬山市のモンキーパークに引

数ある「白糸の滝」の中でも、群を抜く美しさ - 軽井沢・白糸の滝

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昨日、静岡県富士宮市の白糸の滝( 富士山の湧き水が断崖から流れ落ちる白糸の滝 )について書きましたが、実は「白糸の滝」という名前の滝は、全国にあります。その数、優に100を超えるようで、ざっと拾い上げただけでも、 青森県十和田市(奥入瀬渓流) 、 秋田県男鹿市 、 秋田県大仙市 、 山形県戸沢村 、 岩手県西和賀町 、 宮城県栗原市 、 福島県猪苗代町 、 栃木県日光市 、 山梨県富士吉田市 、 山梨県小菅村 、 長野県軽井沢町 、 兵庫県出石町 、 岡山県井原市 、 愛媛県東温市 、 福岡県糸島市 、 福岡県福智町 、 熊本県西原村 などがあります。 このうち、富士宮の白糸の滝同様、日本の滝百選に選ばれているのは、山形県戸沢村の白糸の滝で、最上峡にかかる最上四十八滝の中で最大の滝となっています。また、山梨県富士吉田市にある白糸の滝は、落差約150mの滝で、富士山系の中でも湧き水が豊富なことから「水峠」とも言われる三ツ峠の湧水を水源としています。 そんな中、富士宮の白糸の滝に匹敵する知名度を誇るのが、軽井沢の白糸の滝です。そもそも、日本屈指の避暑地である軽井沢にあって、その中でも随一の景勝地とされているわけですから、有名なのも、あたり前田のクラッカーってやつです。 以前の記事( 浅間山北麓、嬬恋高原キャベツ村物語 - 冬編 )でも、ちょこっと触れていますが、そこに書いた通り、日本の代表的活火山の一つ浅間山の雪が伏流水となって湧き出るのが、白糸の滝です。高さは3mほどしかありませんが、細い筋になったいく条もの滝が、70mにもわたって広がっています。よくよく見ると、苔むした岩肌から水が湧き出し、それが数千もの流れとなって、滝を形成していることが分かります。水温は1年中一定しており、冬でも凍ることはなく、鮮やかな緑のこけに覆われた岩肌を清洌な水が白い帯となって流れ落ちています。 軽井沢と嬬恋村を結ぶ白糸ハイランドウェイ沿いにあり、軽井沢からだと小瀬温泉を過ぎた頃から、道路の左手に湯川が見えてきます。ここから白糸の滝までは6kmほど。滝の入口には売店が1軒あり(ただし冬季休業です)、その左右に駐車スペースがあります。 駐車場から滝までは、遊歩道が整備されています。ただ、冬場は雪や霜で、日なたはぬかるみ、日陰は凍った状態になっています。滝までは、緩やかな坂道になっているので、

富士山の湧き水が断崖から流れ落ちる白糸の滝

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昨日の小山町とは反対の富士山西麓、山梨県富士河口湖町の南にある富士宮市は、B級グルメの代表格「富士宮やきそば」で有名です。ご当地グルメで町おこしを目指すイベント「B-1グランプリ」の第1回が開催されたのは、2006年2月でした。富士宮やきそばは、ここでグランプリを獲得。一躍、その名が全国区になりました。 第1回B-1グランプリには、全国から10団体が参加。第2位は横手焼きそば( 雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら )、第3位は室蘭やきとり( 鶏肉じゃない「やきとり」で室蘭の町を元気に )で、私はこの二つに加え、青森生姜味噌おでん( インパクト大の青森二大B級グルメ - 生姜味噌だれおでんと味噌カレー牛乳ラーメン )と久留米やきとり( B級グルメの聖地・久留米で焼き鳥のはしご )も食べており、かなりのB級グルメ好きと、今更ながら思うわけです。しかし、第1回に続き、第2回大会でもグランプリを獲得し、殿堂入りを果たしている富士宮やきそばは、いまだかつて食べたことがありません。 富士宮でやきそばによる町おこしが始まったのは2000年。私が富士宮に行ったのは、その前だったので、もちろん焼きそばはあったでしょうが、まだ「富士宮やきそば」と呼ばれる焼きそばはなかったのです。 そんなわけで、私の中の富士宮のイメージは、富士山と朝霧高原、そして白糸の滝です。 一昨日の記事( 世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海 )に書いた、富士五湖を東からぐるっと回ると、最も西にある本栖湖から5kmほどで、富士宮市に入ります。そこはもう朝霧高原で、牛たちが草をはむ緑豊かな高原の向こうには、遮るものなく富士山を望むことが出来ます。 朝霧高原から10kmほど南下すると、白糸の滝があります。本滝の一部は、朝霧高原の更に奥にある毛無山の中腹に湧き出た芝川の支流が流れ落ちていますが、それ以外は全て、崖から直接湧き水が流れ出ています。これらの湧き水は、富士山の雪解け水で、大小数百もの細い滝となって、垂直に落下しています。そのため、高さ20m、幅150mというスケールを誇りながら、優しい印象の滝となっています。 白糸の滝は、古くから知られていて、源頼朝が、1193(建久4)年に富士の裾野で数十万人の兵を集めて盛大な巻狩りを催した際、ここに寄っています。そして白糸の滝を前に、「この上にいかな

日本一の献眼の町・静岡県小山町を訪ねて

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昨日の記事( 世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海 )の忍野八海から南へ約20km、富士山東麓、山中湖のすぐ南にあるのが、静岡県小山町です。ここは、「献眼の町」として知られていて、2009年には、町で献眼運動を推進してきた小山ライオンズクラブが、日本アイバンク協会の第1回今泉賞を受賞しました。 この賞は、日本で最初の角膜移植手術を行った今泉亀撤さんに因んだものです。最初の角膜移植手術が行われてから50周年に当たる08年に、今泉さんが保健文化賞を受賞。今泉さんは、その賞金の大部分を日本アイバンク協会に寄付され、同協会はそれを基に、角膜移植医療及びアイバンク活動に貢献した方々を顕彰するため今泉賞を設定しました。第1回の受賞者は、今泉さんが手術を実施した岩手医科大学の眼球銀行と小山ライオンズクラブの2団体、それに個人が2人でした。 その小山ライオンズクラブを、以前に取材させてもらったことがあります。 小山ライオンズクラブが、献眼運動に取り組み出したのは1970年のことです。まず、クラブ会員全員が献眼登録し、翌年には町民へのPRのために「アイバンクの夕べ」を開催。また小山町の区長会でアイバンク運動についての協力を呼び掛け、小学校校区の会合でもPRを行いました。 更には会員が手分けをして、1軒1軒、献眼について説明して回るというローラー作戦を展開。その甲斐あって、老人会を中心にライオンズ友の会まで出来ました。こうした組織を通して、献眼運動の啓発が進んでいったのです。 72年5月、クラブの最長老だった小山彦平さんが、小山町初の献眼者となりました。その後、毎月会員か、会員の親類の人たちが献眼者となりました。町で亡くなった方があれば、会員たちは必ずお悔やみに上がって遺族を慰め、その上で献眼の意義も説きました。 小山では、不幸があった時、集落の人が総出で通夜や葬儀を手伝います。クラブでは、献眼者の葬儀に生花を贈り、アイバンクからの感謝状を捧げてきました。 こうして、運動を始めてから8年目には物故者の10%を超える方が、献眼をするまでになりました。その年、クラブでは献眼者合同慰霊祭を行って、改めて故人の尊い意志に感謝を捧げ、ねんごろに弔いました。心を尽くす、ということが、この活動ではとても大事なことなのです。 この手厚さが、町の人たちに感銘を与えたのでしょう。初の献眼者から数