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民謡のある風景 - 幕末の唄と調和する心地よい古里(和歌山県 串本節)

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JR紀勢本線串本駅から20分ばかり歩くと、海岸から一直線に延びた形で、大小40ほどの岩が点々と続いている風景に出会います。橋の杭を思わせるところから、橋杭岩と呼ばれていますが、どことなく、対岸の大島へ行きつこうとして果たせない、未練の思いを形にしたようにも見え、この地の民謡『串本節』によく似合います。  ♪ここは串本 向かいは大島   橋をかけましょ 船橋を   アラ ヨイショヨーイショ   ヨイショヨーイショ ヨーイショ   (ハ オチャヤレ オチャヤレ) 『串本節』は、幕末の頃、この地に伝わった『オチャヤレ節』(エジャナイカ節)が元になっていると言われ、串本、大島、潮岬などの秋の祭礼で唄われ出したといいます。 串本では、潮崎本之宮神社の10月の祭りで、神輿の行列唄として唄われてきたといい、唄の名も、囃子詞からとって『オチャヤレ節』としてきました。今でも地元の人は、「エジャーナーイカ、エジャーナイカ、ナイカ、ハ、オチャヤレ」と囃します。 大正年間この唄が、全国的に広まるきっかけをつかみます。アメリカから、日米親善の飛行機が串本に来ることになり、取材のため多くの新聞記者がこの地を訪れました。当時の町長が、記者たちのために労いの宴を設け、その席で『オチャヤレ節』が披露されました。囃子詞の面白さにひかれた記者たちが、競ってこの唄を記事にし、更には、上方漫才の名手砂川捨丸がこの唄をレコード化しました。 メディアに乗った唄の伝播力は強く、『オチャヤレ節』は『串本節』と名を変え、祭り唄から座敷唄へと変化しました。が、串本と大島の間は今も巡航船で結ばれ、夕景に浮かぶ橋杭岩のシルエットも、昔に変わりありません。「エジャーナーイカ」の囃子詞は、なぜかこの風景と心地よい調和をみせ、唄の原点を偲ばせてくれます。

醤油の原点、紀州湯浅の溜まり醤油

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湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として、古くから栄えてきました。また、紀伊水道に臨む湯浅湾の奥にあり、海路の便が良かったことから、物流の中心地となっていました。今も、江戸から明治にかけての建物が軒を連ね、往時をしのばせています。 湯浅はまた、日本人にとって欠くことの出来ない味、醤油の古里でもあります。1800年代初頭には、なんと92軒もの醤油屋が営業していたと言われ、醤油醸造の町としても有名です。 醤油は、鎌倉時代の禅僧覚心(法燈国師)が、修行をしていた宋の径山寺(きんざんじ)から、味噌の製法を持ち帰ったことから生まれたと伝えられています。覚心は帰国して、生まれ故郷の由良にあった真言宗の西方寺に入り、同寺の宗旨を禅宗に改め興国寺を開きました。その後、近隣の村々に味噌の製法を伝授していきますが、その過程で醤油が誕生したというのが定説になっています。ただ、発祥譚には、微妙に異なる伝承があります。 一つは、湯浅周辺で径山寺(金山寺)味噌作りが広まり、製造工程で桶の底に溜まった汁がおいしく、それを調味料として使うようになったという説。 もう一つは、ヤマサ醤油のサイトに出ているんですが、仕込みの間違いか何かで水分の多い味噌が出来、その上澄みをなめてみるとおいしく、食べ物の煮炊きに使えると、以後、わざと水分の多い味噌を作るようになったのが始まりという説です。 いずれにしても、湯浅の金山寺味噌作りから溜まり醤油が生まれたのは確かなようで、湯浅は、いわば日本の醤油の原点と言えるわけです。 湯浅は、良質な水に恵まれ、醤油醸造に適していたことから、室町時代にはそれまで自家製で賄われていた醤油を売る店も現れました。江戸時代に入ると、湯浅醤油の名声は一層高まり、販路も拡大。「下り醤油」と呼ばれて関東へも送られました。紀州藩の手厚い保護を受けた湯浅醤油は、「○キ」印の旗を掲げた船で運ばれ、やはり紀州名産のミカン船と共に、さまざまな特権を与えられていたといいます。醤油屋の数が92軒あった当時、湯浅の戸数は約1000戸だったようですから、1割の家が醤油を作っていたことになります。 しかしやがて、江戸へ流通する醤油の産地は、房州の銚子や野田へと移っていきます。ここで江戸の人々の嗜好に合わせた濃口醤油が作られるようになりますが、房州へ醤油醸造の技術をもたらしたのは、紀州から移住した人たちで

加太の海に浮かぶ要塞の島

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和歌山市で最近、人気観光地として脚光を浴びているのが、加太の海に浮かぶ無人島「友ケ島」です。島は、明治時代から第二次世界大戦まで、軍事要塞として使用されていて、今は廃墟と化した赤レンガの施設群が残っています。その独特の風景がネットで話題となり、「ラピュタっぽい」とか「バイオハザード的」などと評され、一躍超人気スポットになったのです。 友ケ島は、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島の総称で、要塞跡があるのは、沖ノ島になります。明治時代に大日本帝国陸軍が、外国艦隊の大阪湾への進入を防ぐために、沖ノ島の5箇所と虎島に砲台や防備衛所を造りました。 これらの島は、第二次世界大戦までは一般の立ち入りは禁止されていました。戦後、友ケ島全体が瀬戸内海国立公園に指定されたことにより、終戦時に爆破処分された第2砲台以外は、各種施設が、比較的良好な状態で残ることになりました。現在は、要塞時代をしのばせる砲台跡を巡るハイキングコースも設けられ、人気の観光地となっています。 友ケ島までは、加太港から船で片道20分ほど。ハイキングコース沿いに、第2砲台跡を始め、展望台、第3砲台跡、桟橋などを見て回って約2時間30分。夏場は、磯遊びをする家族連れでも賑わいます。 友ケ島のある加太は、古くは「潟見の浦」と呼ばれ、『万葉集』にも詠まれた景勝地でした。その後、四国・九州の大名が参勤交代に加太の港を利用するようになり、交通の要衝として発展。また、紀伊国屋文左衛門を始め、諸国の回船が加太港から江戸へ荷を運ぶようになり、商家や旅籠が軒を並べ、港町として栄えました。 しかし、現代においては、景勝地や海上交通の要衝としてよりも、鯛の一本釣りなど関西屈指の漁場としての方が有名。また、供養のため2万体とも言われるひな人形が奉納されている淡嶋神社や、友ケ島の要塞跡など、観光的な目玉でも注目を集めています。 砲台跡は、友ケ島ばかりでなく、本土側にも残っており、休暇村紀州加太の中に深山砲台群、和歌山市立青少年国際交流センターに加太・田倉崎砲台があります。特に深山砲台は、休暇村周辺の散策道沿いにかなりいい状態で残っています。一方の加太・田倉崎砲台跡を見学するには、青少年国際交流センターで受付をする必要があります。 この青少年国際交流センターが建つ丘の下には、雛流しの神事で有名な淡嶋神社があります。拝殿には所狭ましと人形がぎっしりと並

衝撃のトンテキ - 山田ヒロキチ商店(和歌山県岩出市)

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和歌山県岩出市に、山田ヒロキチ商店というお店があります。 山田ヒロキチさんがやっているお店かと思いきや、山田洋充(ひろみつ)さんのお店なんです。 山田さんは以前、歯科技工士をしていたそうです。ただ、20代後半になって、自分の人生を生きたいように生きようと決意。父子家庭で小さい頃から自炊をしていたこともあって、料理が好きだった記憶がよみがえり、料理人になることにしたのです。 そう、山田ヒロキチ商店は、洋食屋さんなのです。で、看板メニューは、写真の「特製たっぷりキャベツとガーリックの濃厚トンテキ」。ご覧頂いて分かるように、ガーリックがたっぷりのった、インパクト抜群のトンテキです。 そもそも、2012年の開店当初は、ごく普通のトンテキだったそうです。ただ、ランチタイムの限定メニューだったところ、まかないで食べたスタッフが絶賛し、レギュラーメニューに転換。その際、見た目にインパクトを持たせてようと、ガーリックスライスとキャベツの千切りを今のような山盛りにしたとのこと。 すると、そのインパクトに、お客さんがスマホで写真を撮ってSNSにアップ。ネットで拡散することで、遠方からわざわざ食べに来る人が急増。それがまた評判になり、ついには、車で来店する客のために、専用駐車場のある現在の場所へ移転することになったとか。 もっとも、山田ヒロキチ商店は、ただのウケ狙いの店ではなく、6年間、和歌山市の老舗洋食店を始め、和、洋、中などさまざまな料理の修行をして独立しただけあって、料理はもちろん接客もしっかりしています。山田さん自身、「洋食店の親方からは、レシピでなく舌と感覚で覚えるように言われ、洋食の味の命とも言えるドビソース(デミグラスソース)の作り方を教わりました。また、店の回し方や接客の楽しさも学びました」と話しています。 ちなみに、山田ヒロキチの「ヒロキチ」は、山田さんのあだ名で、修業時代、周囲から「ヒロキチ」と呼ばれていたことから、そのまま店名にしたそうです。 岩出で取材したのは、もちろん特製トンテキではなく、根来塗でした。根来塗は鎌倉時代から室町時代にかけ、根来寺の僧侶らが、仏具や什器として作っていた漆器です。で、根来寺は、覚鑁上人(かくばんしょうにん/興教大師)によって開創された新義真言宗の総本山で、室町時代末期には450もの坊舎に僧侶など5000人以上が起居していたと言われ、根

本州最南端・串本節の古里を歩く

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  JR串本駅から歩いて20分ほどの所に、海岸から紀伊大島へ向かって一直線に続いている大小40ほどの岩があります。長さは約850mにも及び、それらの岩が橋の杭を思わせるところから、橋杭岩(はしぐいいわ)と呼ばれています。 橋杭岩には、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭けをして、一夜にして出来たという次のような伝説があります。 昔、弘法大師が天の邪鬼と、串本から大島まで橋を架けられるか賭けをしました。弘法大師は橋の杭をどんどん作っていき、天邪鬼はこのままでは負けてしまうと、とっさにニワトリの鳴きまねをして、弘法大師に朝が来たと思い込ませました。弘法大師は、それで諦め、その場を去ったため、橋の杭のみが残りました。 弘法大師伝説はともかく、まるで橋脚のように直線上に連なる岩を見ていると、対岸の大島へ行きつこうとして果たせない、未練の思いを形にしたようにも見えます。 串本は、紀伊山地を背に雄大な太平洋に突き出した本州最南端の町です。東西に長く延びた海岸線は、リアス式海岸になっており、橋杭岩だけではなく、多くの奇岩・怪石の雄大な自然美に恵まれ、吉野熊野国立公園の指定を受けています。 東京からは、羽田から1時間15分のフライトで、南紀白浜空港へ。空港から串本までは、車で約1時間半となります。ただ、便数は3往復なので、フライトの時間が旅程と合わない場合は、新大阪から特急くろしおに乗ることになります。 2年前の2018年9月に、カメラマンの田中さんと私が選んだのは、特急くろしおでの往復でした。取材は朝だったので、前日中に入ればよく、往路はどうとでもなりましたが、帰路は昼の飛行機には間に合わず、さりとて夜の便では時間を持て余してしまうための選択でした。 前日、東京駅からのぞみで新大阪まで行き、乗り換え時間10分少々で特急くろしおに乗車。串本着は18時34分の予定で、乗車時間は約3時間20分。夕食は着いてからでいいものの、時間がたっぷりあるので、くろしおではビールでも飲みながら移動しよう・・・。田中さんも私も、そう目論んでいたのですが、くろしおには、車内販売がありませんでした。 ゑちご亭の料理たち 列車での車内販売は、日本では1935年から行われていたそうですが、近年は駅のコンビニや駅ナカなどが充実したことより、車内販売の利用客が年々減少。更に離職者が増え、人員確保も難しくなったこと