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9月, 2021の投稿を表示しています

ガーリック・キャピタルを標榜する青森県最南端のニンニク村

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田子町は青森県最南端、南を岩手県、西を秋田県と接する県境の町。町の特産「田子ニンニク」は、知る人ぞ知る上質のニンニクで、一流レストランが指名買いするほどのブランドを確立しています。 田子でニンニク栽培が始まったのは1962(昭和37)年。隣の福地村で、小規模ながら栽培されていたニンニクの種子を、町の農協青年部が買い入れ、栽培したのが始まりです。 「福地ホワイト六片種」と呼ばれる、この種子は、その名の通り真白で、実の一片一片が、普通の品種の2倍以上もあります。更に質も非常にいいのですが、いかんせん大規模に栽培されていたわけではなく、当時はほとんど知られていませんでした。 しかし、田子で試験栽培を始めてみると、この辺りの土壌や気候が、ニンニク栽培に適していることが分かりました。田子は、十和田火山の噴火によるシラス状の土地で、水はけがいい土地です。また、冷害の原因となるヤマセも、ニンニクの敵ではありませんでした。逆に、収穫期に日照が少なく、実が大きく育つというメリットさえもたらしました。 こうして田子では、69年から「第1次5力年計画」を立て、本格的なニンニク生産を開始。その年のニンニク生産額は300万円でした。が、75年には100倍の3億円、87年には7億円と増え続け、日本一のニンニク産地となりました。 現在、ニンニク栽培は県内の他市町村にも広がり、生産量1位の座は譲ったものの、町を挙げて築いたニンニク文化で「ニンニクの首都」を標榜。町の中央には「ガーリックセンター」が建てられ、一般財団法人田子町にんにく国際交流協会が発足、世界一のニンニクの町アメリカ・カリフォルニア州ギルロイ市との姉妹提携など、ニンニクを柱にしたユニークな町づくりが行われています。

越前の砂丘を彩る可憐な花"辣韮"

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えちぜん鉄道三国芦原線の終着駅三国港。福井駅から小さな電車に乗って、45分の行程です。すぐ隣には「関西の奥座敷」と言われる北陸の湯どころ芦原温泉が控えます。 「九頭竜川は北陸一の長河である。三国町はその河口に『帯のはばほど』につづく古い町なみである」。三好達治が、『越前・三国わが心のふるさと』でこう書いているように、三国町(現・坂井市三国町)は九頭竜川の河口に臨む古くからの港町。江戸時代には北前船の積み出し港としてにぎわい、北陸第一の港と称されました。 その三国港の西南に、長さ12kmにわたってなだらかな砂丘地が広がります。長さが3里あることから三里浜と呼ばれるこの砂丘地帯は、全国一のラッキョウの産地です。 ラッキョウは乾燥に強く、砂丘地で無灌水栽培出来る数少ない作物の一つ。しかも球の光沢、緻密さなど、品質ではかえって砂丘地の方が優れ、また植え付け、掘リ出し、洗浄等の作業も容易で、砂地であることが有利に働いています。 三里浜にラッキョウが導入されたのは1874(明治7)年頃。少数の人が自家用として栽培を始めました。その後、他の村人もこれにならって作リ始め、次第に生産も増え、1897(明治30)年頃には、余ったものが三国商人によって売られるようになりました。 しかし、この地方にラッキョウ栽培が定着するまでには、幾多の困難と苦闘の歴史がありました。江戸時代、この辺りは日本海から吹きつける強風のため、田畑は土砂に埋まリ、海の荒波によって家々が倒され、住民は流浪して他郷に逃げざるを得ない状態でした。 江戸中期、敦賀に生まれた僧・大道が、こうした惨状をみかねて、村々の百姓を説いてネムの木を植えて砂地を落ち着かせました。大道は、次にシイや松を植え、次第に面積を広げていきました。更に草地を増やして緑化を押し進め、ついに砂丘を耕地化することに成功したのです。 そして、大道のこうした努力は、後年、全国一のラッキョウ産地として花開いたわけです。今、かつての不毛地帯・三里浜は、ラッキョウを始め、スイカ、ダイコンなどの名産地となっています。 ところで、日本の大部分のラッキョウ産地は、1年掘り栽培を採用していますが、三国では2年掘りを採用しています。2年間、畑に置くことによって、分球数が多くなり、小粒で身が締まり、肉質も緻密で歯切れの良いラッキョウになります。ラッキョウの花は、10月下旬から

日本の心・茶の文化を育む三河の小京都

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西尾市というと、このコロナ禍で、市議14人がコンパニオンを入れて忘年会をしたり、副市長の指示で大手薬局チェーン創業者夫妻のワクチン接種予約を優先確保したりと、残念なニュースが続き、かなり評判を落としてしまいました。西尾には、「一色産うなぎ」「西尾の抹茶」と、特許庁認定の地域ブランドが二つあり、私も抹茶の取材をしたり、一色うなぎを取り寄せたりしたことがあったので、正直がっかりしました。 しかし、そうした残念な人たちと、うなぎや抹茶の生産者の方たちとは別物。市の評判と共に、そうしたブランドに傷がつくのは忍びないので、今回はさわりだけですが、取材をした抹茶について書いておきたいと思います。 西尾市は、地域ブランドに認定されているように、日本一の抹茶の里です。西尾で抹茶づくりが始まったのは、1872(明治5)年のこと。市の西部、稲荷山の麓にある紅樹院の住職足立順道師が、修業の帰りに京都・宇治から茶の実を持ち帰ったのが始まりといいます。その後、宅地化により宇治の茶園が減少したこともあって、昭和20年代頃から、抹茶生産の比重は宇治から西尾にシフトしてきました。 植物学的には、抹茶の木と煎茶の木に違いはありません。むしろ茶畑の違いが大きな要素となっています。特に茶摘みの時期になると、それが顕著になります。 抹茶用の畑は、俗に「覆下茶園」と言われ、全面に覆いをかけます。新芽が出る頃に日差しをさえぎるのは、茶の木の成育にとって障害になるように思えます。しかし、実際はそうすることで、よりおいしい茶が出来るから不思議。 抹茶の場合、茶摘みの20日ほど前から覆いをかけ始めます。最初の10日間は日照の2〜3割をカット。後の10日間は7〜8割をカットし、茶園の中はほとんど薄暗闇となります。 これによって、根から吸収された養分はぶどう糖のままとどまります。その時に茶摘みをすることで、茶葉の有効成分、例えば茶のうま味の中心となる「タンニン」などが最高値となり、おいしいお茶が生まれます。 抹茶の葉は年に1回、摘まれます。そのため、茶樹の背も高くなっています。西尾では毎年、茶摘みの時期に、中学生による勤労体験学習が組まれています。 薄暗く、背の高い木の中で、まさに声はすれども姿は見えぬ状態。はたから見ると、ユーモラスな光景なのですが、全て手摘みで行う抹茶だけに、生産農家にとっては、まことに貴重な労働力

吉野ケ里を見下ろす霊場背振山に日本の茶の源流を求めて

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「お茶のはじめは三粒の種を 栄西禅師が唐みやげ」。茶どころ静岡で広く歌われた茶節の中に、こんな一節があります。 日本における茶の歴史は、確実な史料の上では平安時代にまでさかのぼることが出来ます。遣唐使を送るなど、唐文化を盛んに移入していた日本は、茶もまた導入し、宮廷に茶園まで作っていたようです。 しかし、貴族社会の衰退と共に、茶の文化もいったん廃れたと考えられています。その後、現在に結びつく形での茶の歴史は、鎌倉時代の栄西禅師によって、改めて開かれたというのが、通説となっています。 栄西禅師は、臨済宗の開祖として知られますが、1191(建久2)年、宋からの帰国に際して、茶の種子を持ち帰りました。そして、その種子を、佐賀県の脊振山に播いたといいます。 脊振山は、佐賀県と福岡県の境にあります。昔は、九州屈指の霊場として知られていました。山頂には、海路の神として弁財天が祭られ、かつての大陸との交通史を物語っています。伝教、弘法、慈覚らの諸大師が唐に渡る際には、必ず脊振山に参拝し、祈願したといいます。山頂の弁財天を上宮、709(和銅2)年に元明天皇の勅命で開かれた霊仙寺を中宮、麓の坂本修学院を下宮とし、この一帯は「脊振千坊」と言われるほど栄えたと伝えられます。 栄西禅師が、宋から持ち帰った茶の種子を播いたのが、その霊仙寺の西の谷・石上坊の庭であったと言われます。坂本修学院に残る江戸後期の史料には、当時、霊仙寺一帯には九反五畝(約95アール)の茶園があったと記されています。 霊仙寺跡のある吉野ケ里町(旧東脊振村)松隅坂本には、かつて「チャガエ」という風習がありました。チャガエとはもちろん、茶替えの意味で、明治の末から大正の初め頃、この辺りでは自家製茶のうち上茶は仲買人に売り、質の落ちる茶は、女たちが近隣の村に持ち出し、塩、砂糖、綿などと替えたそうです。栄西ゆかりの地だけに、そんな風習があったことも興味深いですね。 現在は、吉野ケ里町東脊振で作られた自家製茶のうち、上茶は「栄西茶」のブランドで販売されています。もともと小規模な茶園が多いため、販売用は非常に少ないのですが、吉野ケ里町のふるさと納税返礼品になっているので、興味のある方は検索してみてください。 さて、霊仙寺と茶園の今はどうなっているかというと、昔日の面影はほとんどありません。霊仙寺跡には祈祷所として乙護法堂が建ち、そ

杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち

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2014年9月に、アーチ曲線が特徴的な新駅舎となった越後線内野駅は、かつて「鶴の友」駅と呼ぶ人がいました。というのも、旧駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたのです。「内野駅」の看板はその隣に、小さな(それが普通だったんでしょうが・・・)白い文字でひっそりと掲げられていました。 これなら「鶴の友」駅と呼ばれても不思議はない。そう私も思いましたが、そもそも「鶴の友」って何? 新潟以外の人にとっては、聞き慣れない名称に違いありません。 それもそのはず、県外不出の地酒の名前だからです。蔵元が、地元の人の口に合った酒造りを目指し、新潟市以外ではほとんど売られていません。しかし、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 「鶴の友」の蔵元は、内野駅から真っ直ぐ南へ向かって歩き、国道に出たところで左折。すぐに樋木酒造の風格あるたたずまいに出くわします。建物が国の文化財に指定されており、酒蔵としての年輪を感じさせます。ここから更に500mほど東へ行くと、「越の関」のブランドで知られる塩川酒造があります。かつては、そのまた500m先に「日本海」の伊藤酒造、また駅前通りを挟んで樋木酒造と反対側の国道沿いには「朗」の濱倉酒造があり、内野は酒蔵の町と呼ばれていました。 こんな至近距離に、造り酒屋が集中していたのは、良質な水を豊富に使える立地と、陸運、水運の便の良さ、新川開削工事や北国街道を行き交う人で賑わい、町全体が繁盛したことによります。1818(文政元)年、信濃川に合流していた新川を開削し、直接日本海に放流するために始まった新川開削工事では、全国から人が集まり、その人たちの飲食をまかなうために料亭が栄え、造り酒屋も多数生まれたというわけです。 また、新潟は酒造りのプロ越後杜氏の本拠地です。江戸時代初めまで、日本酒は新酒、間酒(あいしゅ)、寒前(かんまえ)、寒酒造りと年4回仕込んでいました。しかし、江戸幕府が秋の彼岸以前の酒造りを禁止。米本位制をとっていた幕府にとって、米の大量消費が米価を高騰させ、経済が混乱することを恐れたからです。 また、寒造りの酒は旨い、という評判もあり、この頃から日本酒は11月から3月にかけての寒造りが主体となり、その期間だけ酒造地へ出向いて酒造りをするプロ集団が誕生することになりました。 新潟の冬は、山間部は雪に閉ざされ、沿

北の国・ワインカラーの町

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池田町の町を歩いていて、やたらと目につくのがワインショップです。それこそ、軒を連ねるようにして並んでいます。そして、その前の歩道も、街灯も、家々の屋根も、みなワインカラー。それもそのはず、ここはワインの里、町ぐるみでワインを愛し、育てているのです。 この北の小さな町池田町を、全国的に有名にしたのが、十勝ワインで知られる町営のワインづくりです。地方の時代にあって、この池田町のワインづくりの成功は、新しい町づくりのモデルとされ、「自治体ワイン」の名まで生みました。 昭和30年代の初め、池田町は冷害によリ財政赤字に陥いりました。この時、ある専門家が言った「ここの山ブドウは良質のワインになるアムレンシス系統かもしれない」の一言が、町を挙げてワインづくりに取リ組むきっかけとなりました。 1960(昭和35)年、ワイン町長と呼ばれた当時の丸谷金保町長の発案で、ブドウ栽培に着手。3年後の63年から、ワインの醸造を始めました。 池田町のブドウは当時の日本では珍しい垣根式や棒仕立てで栽培されていました 良いワインは、良いブドウから。ここのブドウは、よっぽどワインに適していたのか、翌64年には、早くも国際ワイン品評会で銅賞に入賞。以後も同品評会での金賞、銀賞を始め、世界のワイン・コンテストで数々の賞を受賞。世界に誇るワインへと評価を高めていきました。 もっとも、初めから全て順調に進んだわけではありません。国際品評会に入賞、町民がやっと、ブドウ栽培をやろうという機運が盛リ上がった64年、厳しい冷害に見舞われ、苗木が全滅してしまいました。 その後、懸命な努力によリ、山ブドウにヨーロッパ種のセイベル種を交配させて、寒さに強い「清見」を生み出しました。本当に軌道に乗ることが出来たのはそれからです。 池田町のワインには、いくつもの品種がありますが、人気なのは、「清見」や「山幸」など酸味の効いた辛口の赤。これらは、特産のいけだ牛にとてもよく合います。春と秋に行われるワイン祭では、十勝ワインの飲み放題がある他、牛の丸焼きも登場。北海道の雄大な自然にマッチした、なんとも豪快なイベントです。 ↑中世ヨーロッパの城を思わせるところから「ワイン城」と呼ばれる池田町のシンボル・ワイン工場

球磨川「焼酎渓谷(バレー)」を訪ねる

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人吉を語る時、忘れてはならないのが球磨川です。熊本県南部をU字状に流れる長さ約115km、九州第二の大河です。 日本三大急流の一つに数えられ、その急流を下る球磨川下りはよく知られています。また、アユ釣りの名所として、全国の釣り天狗を魅きつけていますが、シーズンなど、アユの数より多いんじゃないかと思うほど、釣り人の姿が目につきます。 寛政の三奇人の一人とうたわれた高山彦九郎は、1792(寛政4)年2月、球磨を訪れていますが、その時の様子を『筑紫日記』に「馳走有り。焼酎に鮎を肴とす」と書いています。球磨川のアユと球磨焼酎。たしかに、最高のご馳走であったに違いありません。 さて、その球磨焼酎ですが、これは球磨川流域に27(取材時は32)もの醸造元があります。人吉の下流・球磨村から、上流の水上村にかけて球磨川沿いにまんべんなく、焼酎メーカーが散らばっています。 その様は、「焼酎渓谷」という表現がぴったりです。この渓谷の人たちは、球磨川の清流の恵みを受けながら、これまで何世代にもわたって焼酎を作り、売り、そして自分たちも飲んで生活してきました。 ところで、なぜ、球磨川流域が、このような焼酎の大生産地になったのでしょうか。水がいいこともありますが、球磨焼酎は米が原料、球磨地方にはその米が余っていたからということらしいのです。 人吉は、相良氏が鎌倉初期から明治維新まで、約700年にわたって治めてきた日本一古い城下町。この人吉藩は、表高こそ2万2000石という小藩でしたが、実質10万石の収入がありました。 人吉市の東端から小高い丘陵が連なります。実はその奥に、巨大な稲田が広がっているのですが、丘に隠れているのを幸い、うちはここまでと検地の役人をだましていたのです。そして、この豊かな米を原料に、せっせと焼酎を作っていました。  ◆ 取材の際、チョクと呼ばれる盃に遭遇しました。販売促進用に作ったぐい飲みのミニチュアだろうと思ったのですが、取材に協力して頂いた深野酒造の社長は、「いや、これこそが本来の球磨焼酎の盃」と。 元来この地方では、ガラという酒器に入れて、そのまま火にかけて温めたものをチョクで飲みます。そして、酔うほどに賑わうほどに、無礼講で球磨拳が始まります。 球磨拳というのは、ジャンケンに似たゲームで、負けた人が必ず一杯飲み干さなければいけません。しかも、延々続くという恐怖のゲ

安全性やブランド力を高め付加価値農業を創出する北空知

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午前3時、まだ真っ暗な中、広大な豊泉牧場の一角に明かりがともりました。乳製品の加工場・MOMO工房で、牛乳の瓶詰めが始まったのです。 「そりゃあ、冬は寒いですよお。でも、真っ白な雪を踏みしめて工房まで歩いて来るのは気持ちいいものですよ」と、ご夫婦でMOMO工房を切り盛りする鹿島留美さんは話します。ご主人の稔さんは豊泉牧場の5代目社長。 豊泉牧場は1957(昭和32)年に酪農専業の3戸により発足、62年から有限会社となりました。当時としては例のない方式でした。そんな伝統を受け、94(平成6)年に社長に就任した稔さんは、更に先進的でユニークな経営に乗り出しました。 96年、消費者とのつながりを構築しようと牛の里親(オーナー)制度をスタート。オーナーは牧場で生まれた子牛を時価で購入。子牛は牧場で育てられ、牛乳が生産されるようになると自分の牛の牛乳をいつでも飲めます。また実際に牧場に出かけて、酪農体験をすることも出来ます。 更に98年、MOMO工房を立ち上げ、ヨーグルト、アイスクリーム、ミルクパンの製造販売を始めました。工房は製造体験も出来るようになっており、学校などの体験学習に利用されています。 牧場まで案内してくれた地元の東原廣志さんが、「鹿島君は思いついたら即行動だからね」と言えば、留美さんも、「相談された時には、もう決まってますからね」と笑っていました。 鹿島さんは、牛乳の配達が終わると、道内一の利用率を誇る道の駅「ライスランドふかがわ」に顔を出します。ここで搾り立てのフレッシュミルクを使ったソフトクリームの販売を始めたからです。消費者との触れ合いを求める鹿島さんの挑戦はまだまだ続きそうです。  ◆ 深川を中心とした北空知管内では「北育ち元気村」の名の下、JAが広域合併し、米を始めとする農産物の広域統一ブランドを作り、その普及に努めています。この辺りは特に道内随一の米どころとして知られます。 北海道開拓が始まった当時、道内では稲作が行われておらず、屯田兵はアワや麦を食べていました。北空知では1892(明治25)年、現在の深川市音江町で稲を植えたところうまく育ち、自分でため池を作ったり、川の水を引いて水田を作る人が多くなってきました。 1912(大正元)年には、石狩川の水を引いて用水路を作る工事が始められ、4年後の1916年に完成。当時はクワやスコップで土を掘り、掘っ

子どもの頃の思い出と共に息づく麦わら帽子

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かつて埼玉は、日本一の麦の生産県でした。県東部、庄内古川(中川)と古利根川に挟まれた肥沃な沖積平野に開けた春日部も、古くから麦作りが行われていました。そして、これら麦稈(麦の茎)を利用した麦わら真田作りの副業も盛んだったようです。 麦わら真田というのは、麦わらを真田紐のように編んだもので、明治初めまで川崎大師の土産品として使われていました。主産地は岡山、広島などでしたが、春日部のものは茎に模様があることから「蛇身真田」と呼ばれて珍重され、川崎や東京・大森などに出荷されていたといいます。 『東海道中膝栗毛』にも「大森といへるは麦藁ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」と書かれており、江戸の頃から、大森は麦わら細工で有名だったことがうかがえます。明治に入ると、その大森で麦わら真田を使った帽子が作られるようになります。横浜にいたアメリカ人の勧めで始まったものといい、1878(明治11)年、大森の島田十郎兵衛が麦わら帽子を作り始めました。 1871(明治4)年に散髪脱刀令が出され、斬髪が進むと同時に、帽子が普及し始めました。1872(明治5)年11月号の『新聞雑誌』は関西方面の斬髪流行を取り上げ、「これがため、大坂、神戸の洋品店にありし帽子一時に売り尽くしたり」と伝えています。斬髪の恥ずかしさを帽子でカバーしようと、帽子は飛ぶように売れました。 その波は、麦わら真田の供給地であった春日部まで押し寄せ、1880(明治13)年、春日部でも麦わら帽子の製造が始まりました。最盛期には、春日部を中心に150の業者、約1万人が帽子製造に携わり、産地として全盛を極めました。と同時に、麦わら帽子は庶民の生活の中に浸透していきました。 多くの人は、麦わら帽子と言えば、夏を思い出すのではないでしょうか。子どもの頃の夏休みの思い出の中に、麦わらの帽子をかぶった自分がいたります。 「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、籍谷に落としたあの麦程帽子ですよ」 これは、西条八十が子どもの頃、母親に連れられ霧積に行った時の思い出を綴った詩ですが、麦わら帽子には、子どもの頃の思い出を象徴するような、不思議な語感があります。 ↑帽子の木型もそれぞれのデザインに合わせて作られます(田中帽子店)

渡良瀬川と利根川に育まれた関東平野の城下町

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古河市は茨城県の最西端、埼玉、栃木、群馬の各県境に接し、関東平野のほぼ中央にあります。室町時代に、第5代鎌倉公方の足利成氏が、鎌倉から古河へ本拠を移し、古河公方を称して館を構えて以来、北関東の経済、文化、軍事の中心地となっていました。 江戸時代には、古河は将軍が日光東照宮に参拝する際の宿泊所となりました。また、利根川という天然の要害を持つ地であったため、古河城主には、有力な譜代大名が配されました。 結局、徳川家譜代の中でも、常時重要ポストを担ってきた土井氏が16万石を領しておさまり、明治までその城下町として発展。更には、日光街道の宿場町、利根川と渡良瀬川の両河川を控えた河港町としても栄えました。 この古河市、実は市の面積に占める河川敷の割合が、全国一なのだそうです。利根川に、渡良瀬川と思川が注ぐ、いわば川の町だけに、河川敷の広さも相当なもの。なにしろ市の面積の4分の1が、河川敷で占められているのです。 これらの河川敷は、市民の憩いの場として利用され、渡良瀬川沿いには、サッカーのグラウンドが延々と続きます。古河市はまた、全国有数のサッカー王国でもあり、小、中、高校とも全国制覇を果たしています。それを支えてきたのも、この広大な河川敷なのかもしれません。 現在、古河市を含むこの辺り一帯は、関東水系の遊水地となっています。その中心は、公害の原点と言われる足尾銅山鉱毒事件で廃村となった谷中村があった所です。この一帯は、繰り返す水害の暴威に何度も泣かされました。そのため明治政府は、谷中村を中心とした本格的な遊水池を作り、河川敷を拡張して治水対策を施しました。 こうして公害、遊水池によって村を失った人々は、水のひいた遊水地に繁茂するヨシを材料に、よしずやすだれを作り、生計を立てるようになりました。よしず作りは大正の末、海水浴が盛んになる頃から需要が激増して、生産も企業化しました。一時は古河市を中心に茨城、栃木、群馬、埼玉4県にまたがって、数百軒が生産に携わっていました。しかし、それも50年ほど前までがピークで、現在は中国産の安いよしずに押され、業者も減ってしまいました。 が、ヨシ自体はまだまだ豊富。秋には、陽光に映えて見事な黄金色に輝き、華麗な大草原と化します。晴れた日には西に富士山、北に日光男体山が望め、その景観はあたかも、ヨシを中心とした日本最大の湿原、釧路湿原を思わせるよう

羊蹄山の恵みを受けて育まれたオブラート

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倶知安は、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の北麓に広がる町です。1910(明治43)年に後志支庁が置かれ、羊蹄山麓の行政の中心地、物資の集散地として発展しました。 また、羊蹄山を含む支笏洞爺湖国立公園と、ニセコ積丹小樽海岸国定公園を結ぶ道路交通の要衝にあり、夏の登山や冬のスキーなど、多くの観光客が訪れます。産業は、こうした観光地だけに第三次産業の比率が高くなっていますが、山麓一帯では酪農、盆地では畑作が盛んで、特に馬鈴薯は全国でも有数の産地となっています。 更に、この馬鈴薯を原料に生産される片栗粉やオブラートも、倶知安の特産品。特にオブラートは、全国生産量の40%を占める日本一の生産地です。 オブラートは、英語でイータブル・ペーパー(食べられる紙)とかポテト・スターチ・ペーパーと言うように、その原料は澱粉。特に羊蹄山麓のように、高地で作られる馬鈴薯が、オブラートには向いているといいます。 ここ倶知安のオブラートは、そうした点に目をつけて生まれたものですが、他にも日本一おいしいと言われる羊蹄山の湧水を使っていることも、利点となっているのだそうです。一口にオブラートと言っても、自然の恵みが大きな要素となっているのです。 そもそもオブラートは、キリスト教の祭壇に供える小麦粉の薄い煎餅がルーツだといいます。オブラートとは、その煎餅の形を示す偏円形の意味のギリシャ語とか。それがドイツで薬を包んで飲むのに使われ、原料も澱粉に変わりました。 しかし、初期のオブラートは今のものよりも硬く、厚さも薄焼き煎餅くらいだったようです。飲む時は、水に浮かべて、その上に薬を置き、軟らかくなったところからたたんで、水と共に飲んでいたといいます。 それがだんだんと改良され、現在の厚さ0.03mmというものになりました。その製造工程は、澱粉に水と若干の食用油を加えて糊状にし、それを回転式乾燥ドラムにかけて、薄い紙状のオブラートにするというもの。 こう書くと、ひどく簡単なようですが、実は大変。ドラムの加熱調節はもとより、部屋の温度や湿度、また季節や天候なども微妙に影響します。また、乾燥ドラムには漆が塗られていますが、これも20日ごとに塗り替えなくてはなりません。オブラート製造で一人前になるには、10年はかかると言われる、まさに職人の世界なのです。 こうして作られたオブラートは、裁断されて薬包用や飴、キャラメル

中国地方第一の大河・江の川の河口に発達した窯業の町

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島根県中部、中国地方第一の大河・江の川が日本海に注ぐ、その河口に開けた街。それが江津市です。古くから日本海と江の川の舟運で発達、江戸時代には幕府の天領となり、千石船が出入りする日本海有数の商港でした。そして大正時代までは、中国山地から木材、炭、紙、コウゾなどが江の川を下って江津に集められ、全国に送られました。 しかし、昭和に入って山陰本線の開通、また広島県三次市と江津とを結ぶ三江線が開通すると、河口港町としての機能は衰退し、代わって江の川河口の広大な砂地と豊富な水資源により工場誘致が進められ、パルプ、製紙などの軽工業都市としての性格を強めてきました。 そんな中でも、江津のもう一つの顔である石州瓦、石見焼といった窯業の町としての伝統は、まだ生きています。 山陰本線に乗って、車窓から日本海側を眺めると、赤瓦の家並が非常に印象的です。中には、集落全体が赤瓦で葺かれている所もあって、石見地方の一つの風物詩とさえ言える美しい景観をつくっています。 この赤瓦は、石州瓦の伝統的な色で、来待石をもとにした釉薬が使われ、山陰の風景の中に独特の風趣を与えてきました。 瓦には、製法の違いによって燻瓦、塩焼瓦、釉薬瓦などの種類があります。江津を中心とする石州瓦は、このうち釉薬瓦が大部分を占めます。これは日本海に直面し、厳しい冬の寒気と、日照が少なく雨や雪の多い山陰の気候風土と関係があります。 厳しい自然条件は、それに耐える特性を瓦に求めます。雪の重さに耐える堅牢性、極度の寒冷に耐える耐寒性、瓦にしみ込んだ水分が凍結して瓦が割れることを防ぐための耐水性などです。 釉薬瓦は、こうした条件を満たすために工夫されたもので、原土の精選、均一な加圧、高温焼成などの技術改良を重ね、更に粘土の質に適した釉薬の開発によって、零下30度の超低温にも耐えうる優れた品質を生み出してきました。 その製造は、昔は登り窯を使って焼かれましたが、今ではほとんどがトンネル窯で焼かれています。トンネル窯というのは、瓦を積んだ台車を窯の入口から入れると、予熱帯、焼成帯、除冷帯を微速度で通り、連続焼成が出来る構造の窯で、1日に1万〜2万枚ぐらいの瓦を焼くものが多いようです。 また、トンネル窯に入るまでの工程 - 土練・荒地製作・成型・素地製作・施釉(釉薬をかけ、乾燥)も、全てオートメーションで流れ、省エネ化、省力化が図られていま

江戸中期から上総地方に伝わる金太郎の絵凧

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かつては正月になると、青空に舞い上がる凧が、あちこちで見られました。凧は中国の六朝時代に盛んに行われた遊びで、「紙鳶」とも書き、日本へは平安時代、長崎に入ってきたのが最初だそうです。 その後、次第に各地へ広まり、郷土色を取り入れながら、その地方独特の凧が作られるようになりました。江戸時代に主流をなしたのは角凧で、これにはだるまや武者絵を描いた絵凧と、虎・竜などの文字を白く抜いた文字凧とがありました。 そんな角凧の一つが、房総半島中央部の市原市に残っています。上総角凧と呼ばれ、絵凧の流れをくんで、凧には金太郎の絵が描かれています。この絵柄は、江戸中期から伝わっており、上総角凧のアイデンティティーとも言える重要なファクターとなっています。 上総地方では昔から、男の子が生まれると、その子の健康と成長を願って端午の節句に金太郎にまつわる凧を贈る習わしがあり、それに角凧が使われます。この風習は、現在も変わらずに残っていますが、かつては何人もいた上総角凧の作り手は、今では小澤登さんだけになっています。 小澤さんは、代々角凧作りを受け継いできた高澤家の女性と結婚。義父の高澤文雄さんから、伝統的な技法を受け継いだ4代目で、取材させて頂いた時は、先代の高澤さんも一緒でした。高澤文雄さん自身は、学校を卒業後、小湊鉄道に勤めていましたが、定年退職したのを機に父親の跡を継ぎ、本格的に角凧作りを始めました。 凧に使う紙は、美濃和紙(岐阜県)、因州和紙(島根県)が中心。同じ和紙でも、例えば新潟の和紙は丈夫で破れにくいなど、それぞれに特長があります。それを見極めながら、凧によって紙を使い分けます。絵の具もさまざまに工夫し、凧を空に揚げて光を通した時、絵柄が浮き出るように仕上げます。 そんな上総角凧に、高澤さん自身も魅了されていたようで、「長い歴史を持つ金太郎の絵凧を正確に再現し、伝承していきたい」と話していました。幸い小澤さんが、跡を継いでくれましたし、地元の小学校を始め、各地で凧作りの指導にも励んでいて、市民の間でも上総角凧が見直されるようになっていました。 ところで、上総角凧のある五井は、高澤さんが勤めていた小湊鉄道の始発駅となっています。小湊鉄道は五井駅から、大多喜町の上総中野駅まで約39kmを結ぶ単線鉄道。市原市のほぼ中央を流れる養老川に沿って、2両編成の電車が房総丘陵をコトコトと走りま

時代に即応し新しい作風を生む九谷焼の魅力

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能美市寺井町は石川県南西部、北陸の空の玄関口・小松空港から、車で15分ほどの距離にあります。古くから九谷焼の産地として知られ、九谷焼は全生産量の約8割をつくっています。寺井には九谷陶芸村があり、九谷焼資料館や美術館、陶芸館、九谷焼団地協同組合、石川県九谷焼技術研修所などが建ち並んでいます。 九谷焼というと、絢燗豪華な壷や、大皿などを思い浮かべる人が多いでしょう。ある意味では、そのイメージは的を得ています。九谷焼の魅力はなんと言っても、色絵装飾のすばらしさにあるからです。 九谷焼の世界では、「絵付を離れて九谷はない」と言われるほど。その特徴は、一般に九谷五彩と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の見事な色彩効果と豪放優美な絵模様に現れています。 しかし、絵模様自体は時代によって変化しており、これが九谷とは一概に言えない多様さを有しています。その多彩な作風を可能にしたのは、九谷に陶画工の歴史がなかったからだといいます。本職の絵師に絵付けさせたことが、かえって上絵窯としての発展を促すことになったようです。 九谷では今も、素地づくりと、絵付けとは分業制になっています。ろくろで成形し、紬薬を施して白磁の器を焼く窯元と、その素地に絵付けをし、完成品として焼成する窯元は、別々になっているのです。 そのため、九谷焼の焼成は一般に素焼、本焼、上絵窯、錦窯と4回もの工程を経ることになります。他の窯業地のような一貫生産はまれで、これもまた九谷の特色と言えるでしょう。 上絵は、その時代その時代の作家が、独自の画風でさまざまな試みを施しています。だから、一般の人が思い描く九谷焼のイメージも、古九谷窯の青手や、吉田屋窯、あるいは海外貿易用として一世を風靡した九谷庄三風など、実際には人によってまちまちなのではないでしょうか。 九谷は今も変化を続けています。それが、九谷の魅力であり、伝統でもあるのです。 ※取材に協力して頂いた武腰敏昭さん(写真2枚目)は今年7月28日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。武腰さんは、取材当時、日展評議員、石川県陶芸協会理事長を務めておられ、主に陶壁などの大きなものを制作、九谷陶芸村にある巨大モニュメントも武腰さんの作品です。

伝統を守りながら新しいものを育てる南会津の太鼓胴産地

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福島県の南端、尾瀬の玄関口として知られる南会津町に、「ミニ尾瀬」と言われる駒止湿原があります。この湿原に群生する水芭蕉は、がくの部分に特徴があり、世界でもここだけの品種とされ、多くのハイカーが訪れます。 町の中心・田島は、江戸期には幕府直轄領として、南会津地方の産業、文化の中心地となっていました。毎年夏に行われる「田島祇園祭り」は800年の伝統を持ち、歴史の深さを物語っています。 この田島は、江戸時代から続く太鼓胴の産地です。太鼓は木をくり抜いた胴に、牛などの動物の革を張ってつくられます。昔から分業制がとられ、田島を中心とする南会津地方は胴までをつくり、江戸や上方へ出荷していました。 会津西街道を通って、会津若松の問屋に納められた胴は、そこから陸路江戸へ、また阿賀野川を下って新潟経由で海路大坂へ送り出されていました。問屋経由であったせいか、大正時代までは、会津が太鼓胴の産地であることは知られていましたが、実際にどこでつくられているかは特定されていませんでした。 最盛期の大正時代には、全国の太鼓胴の8割ほどが、南会津地方で生産されていたといいます。太鼓の胴をつくるには、最低でも直径60cm以上の原木が必要となります。当時、南会津地方には、樹齢100年以上の木が豊富にありました。太鼓職人は山に寝泊まりしながら、こうした原木をくり抜いていました。 しかし、豊かな自然に恵まれた南会津でも、近年は大木が激減。やがて原木は北海道産が主流となり、胴堀り職人もいなくなってしまいました。そんな中、南会津町にある川田太鼓工房は、南会津産の木にこだわり、アイデアと技術で新しい太鼓胴を生み出しました。 名付けて「ハイテク太鼓」。ハイテクといっても、電子太鼓でもなければ、中にICが入っているわけでもありません。南会津町特産のナラの木の一枚板を、樽のように張り合わせて太鼓胴に仕上げる製法です。 近年は、各地に太鼓のチームも出来、海外で公演するほどになっています。そうした太鼓ブームや町おこしのために、巨大な太鼓もつくられるようになりました。ハイテク太鼓は好みの音、好みの大きさに仕上げられるそうで、そうした需要にも合致しています。更には、世界的に希少となった大木の保護のためにも、また国産材の活用という点からも、注目すべき太鼓胴と言えるでしょう。

西の芦屋釜と並び称された茶釜の銘品・天命釜

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栃木県南西部、市の南端を渡良瀬川が流れる佐野は、古名を天命(てんみょう)といい、『太平記』には「下野国天命宿」の名が見えます。後に天明の字が当てられ、『木曽路図絵』は「天明宿、犬伏宿は半里の間、大路町続きなり。天明は昔茶釜を鋳て、天明釜と云ひ、筑前芦屋釜と同じく賞美せられし名物なり」と記しています。 鎌倉極楽寺に文和元年(1352)銘の釜があって、これが現存する最古の天命釜とされています。また、足利義政愛蔵の東山御物にも室町中期の天命釜があり、現存しています。西の芦屋釜と並び称されたこれら天命釜の特徴は、荒い鉄の地肌の美しさと佗の趣と言われます。 しかし、天命では茶釜ばかりを作っていたわけではありません。梵鐘、鰐口、釣燈篭、仏像の他、鍋や釜などの日用品にまで及んでいます。中でも梵鐘は、国の重要文化財に指定されているものだけで十数点も残っています。 現存する梵鐘で最古のものは、千葉県の日本寺にあり、元亨元年(1321)の銘が入っています。面白いところでは、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼすきっかけとなった京都・方広寺の大鐘があり、その製作には、40余人の天明鋳物師が参加したといいます。 伝承によると、天明鋳物は平安時代、藤原秀郷が、河内の鋳物師5人を移住させ、武具を作らせたのが始まりと言われます。その後、茶の湯の流行と共に茶釜の需要も増え、やがて茶の世界で珍重され、中央まで名が聞こえるようになりました。 取材時には、市内に10カ所あった工房は、現在4カ所まで減少しています。しかし、残っているのは、いずれも工芸品を手掛けている工房ばかり。藤原秀郷によって招請されて以来30代近く続く正田家の正田忠雄さんを始め、江田家22代目江田蕙さん、それに取材に協力して頂いた栗崎二夫さん(栗崎鋳工所)と若林秀真さん(若林鋳造所)の4人の鋳物師が、天明鋳物の歴史を継いでいます。 このうち栗崎さんは、主に朱銅焼と呼ばれる鋳物を作っています。朱銅焼は焼いた青銅を磨き込むことで、赤の地肌に金の班紋を浮きださせる技法を用い、漆器の根来塗を思わせる不思議な鋳物です。 また若林さんは、亡き父彦一郎さんの跡を継ぎ、伝統的な天命鋳物を守っています。彦一郎さんは、伝統を後世に伝えていくために鋳物製造の資料や在来民具を収集し、残してくれました。若林さんは、その伝統を守りながら、更に自分の世界を切り開こうと、自ら茶の

伝統の手技を受け継ぐ越前すげ笠の里

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笠は、日よけや雨よけの道具として、古くから用いられていました。『万葉集』巻十二には、「ひさかたの雨の降る日を我が門に蓑笠着ずて来る人や誰」という歌があります。 絵巻物によると、平安時代頃から多く使われるようになったようです。主として女が被ったもので、市女笠といいました。笠には、こうした使用者からつけられた名称も多く、時代劇でお馴染みの三度笠(本来は月に3回、江戸・京・大坂を往復した三度飛脚が被ったものでした)もその一つ。また編笠、網代笠など、製法からの名や、すげ笠、檜笠など素材からつけられたものもあります。 福井市清水町はかつて、すげ笠の産地として知られていました。この辺りは水害が多く、米作りにも支障を来すほどで、明治時代に田ですげを育て、笠を作り始めました。すげ笠の収入は農家の副業として、大きなウエートを占めるようになりました。卸業者も多く、県内はもとより、北海道から九州まで他県へも多く移出されていました。 すげは夏に刈り取り、天日干しします。それを質により親すげと「ささ掛け」と言われる下巻き用のすげに選り分けます。戦前まで、農閑期の11月から3月にかけ、家族総出で笠作りが行われました。 すげ笠作りは、大きく分けて骨組み、ささ掛け、笠縫い、仕上げ干しの工程があります。竹で作る骨組みは男、ささ掛けは子ども、笠縫いは女と分業化され、それぞれ10人ほどが仲間となり、楽しみながら仕事をしていました。 清水町のすげ笠は、すげの質や、笠縫いが丁寧なことから、品質では日本一といわれ、『ギネスブック』にも掲載されています。とはいえ最近は、実用としての笠を見かけることはほとんどありません。そんな中、主産地・杉谷地区では、お年寄りを中心に「越前すげ笠を守る会」が作られ、伝統の技を継承しようとしています。また、すげ笠にちなんだ「清水すげ笠マラソン」や「すげ笠ウォーキング」などが行われたり、「すげ笠音頭」が作られたりしています。

日本古来の民具・土佐檜笠の伝統を守る

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本山町は四国の真ん中、太平洋と瀬戸内海からほぼ等距離にあります。四方を山に囲まれた要害の地である上、平地部にも恵まれていたため早くから開け、伊予から土佐に至る官道が通っていました。戦国時代には土佐七人衆の一人・本山氏の本拠地として、江戸時代には野中兼山の支配地となって宿駅として栄え、現在も嶺北(剣山地の北一帯)の中心地となっています。 この町で、日本の伝統的な民具を取材したことがあります。かつてはどこにでもあったもの、笠です。 本山の笠は、吉野川上流、県立自然公園にも指定されている白髪山一帯に広がる良質なヒノキを材料としていました。もともとは、田植えの時などにかぶる農務用に作られていました。が、明治以降は観光用としても使われるようになり、需要が広がりました。 更に、昭和初期にはアメリカへも輸出され、クーリーハットの名で親しまれました。輸出用は多い時には20万個にも上り、外貨獲得、貿易への貢献大として、通産大臣から表彰を受けたこともありました。 取材した時は、日本各地の川下り(球磨川、保津川、木曽川、天竜川、猊鼻渓等)や富士登山、四国霊場巡り、あるいは日光和楽踊りなどで使われていました。いずれも有名な観光地のものなので、過去に本山の檜笠を買われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 今からちょうど420年前の1601(慶長6)年に、山内一豊が遠州・掛川から土佐へ移封されて来ました。この時、家老を務めていた山内刑部(永原一照)が、1300石を与えられて本山城に入りました。槍笠は、刑部と共に、本山へ入った人々により始められたと伝えられます。 工程は、まず丸鋸機で平角材を木取りし、割れ防止と削りよくするため水に漬けます。次に、動力を利用したスライサーで同時に数本の経木を削り出し、幅揃えと材料選別をして数十個分ずつ束ねます。 編組作業は、近所の農家が副業的に行っており、手編みと機編みがありました。この編み方にも数種類あって、それぞれ分業化されていました。 編織されたものは正方形ですが、これを笠用に裁断し、ミシンで縫い合わせます。そして、上縁用の力竹を取りつけ、台に乗せて端を切り落とし、笠型に整えます。更に縁取り用の竹を取りつけ、紐掛けをして完成となります。 この槍笠、かつては嶺北一帯20以上の市町村で作られていました。しかし、新材料の登場や嗜好の変化により需要が減った上、後