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かつては「下の下」と言われた深海魚「げんげ」を食べる

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思い起こせば2006年9月16日、この日初めて、「げんげ」という深海魚を食しました。 前夜、私とライターの砂山幹博さんは、東京駅から20時12分発の上越新幹線に乗り込み、越後湯沢へ。そこから特急はくたかに乗り換え、富山を目指しました。新幹線は3連休前で指定が取れず、自由席にも座れたなかったため、その頃はまだあった車内の売店前で立ち放し。その間、暇なので、売店の女の子と話し込み、気づいたら缶ビールとワインを買い込んでいました。 その後のはくたかは、指定が取れていたので、列車の中で飲み続け、富山に着いたのは23時25分。結局、この日はチェックインして寝るだけになりました。 翌日は、朝から夕方まで取材。そして夜、当時、富山在住だった友人NYさんが案内してくれた店で、砂山さんを交え食事をすることになりました。この店で登場したのが、「げんげ」です。 げんげは見た目グロテスクな深海魚で、昔は「下の下」と言われて捨てられていたそうです。げんげの名も「下の下」に由来すると言われていますが、今では高級魚となり、漢字も「幻魚」と当てられています。 皮からしてかなりのゼラチン質で、ヌルヌルというか、ベロベロというか、食感に特徴のある魚です。友人いわく、天ぷらにしてもヌルヌル感は残るとか。恐るべし、げんげ! その店では、付きだしのげんげ豆腐に始まり、げんげの骨せんべい、げんげ鍋と続き、いろいろな食べ方を味わいました。もちろん、他にも富山の郷土料理として伝わる昆布〆の定番、富山湾のカジキマグロとか、カニの押し寿司など、お手頃価格で頂きました。 2軒目に移って、ここでもこれまで聞いたことのない魚類を注文。更にげんげ干を発見し、それも頼んでみたところ、これが絶品でした。 そんなげんげ体験もあり、翌年にも富山出張の際に、げんげを出す店を見つけて食べた私。更にその次の年、08年には魚津取材があり、周辺を調べているうちに、「元祖げんげの唐揚げ」げんげの万両という店を見つけ、「もうこれは行くしかない!」と、即決しました。 この店は、初代店主が試行錯誤を繰り返した末に作り出した名物「げんげの唐揚げ」で有名でした。また、げんげの握りといったげんげ料理はもちろん、白えびのお作り、ズワイガニなど、日本海の幸を味わい、充実した夕食となりました。 ※万両は、残念ながら閉業されたようです。新型コロナの影響もあったんで...

北陸の銀閣寺とも称される松桜閣

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黒部で「くろワン・プロジェクト」について話を伺った菅野寛二さんは、取材が終わった後、庭が黒部市指定名勝になっている「松桜閣」に案内してくれました。松桜閣は、富山地方鉄道の新黒部駅と舌山駅のほぼ中間にあり、北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅からも歩いて5分ぐらいの所にあります。 もともとは、富山県の初代県令(県知事)国重正文の住居として、1883(明治16)年、富山市に建てられました。5年後、国重氏が内務省社寺局長として転任した後、空き家になっていたところを、1891年に黒部の豪農・西田豊二が買い取り、現在の場所に移築しました。 その後、永平寺64世貫首・森田悟由禅師(号・大休)に帰依し、得度した佐々木太七郎が、明治末に、西田家から屋敷ごと購入し、大休庵を結びました。そして、太七郎の子である尼僧・即妙師が、1931(昭和6)年に曹洞宗の寺院として開山。旧国重邸の隣に本堂を建立し、46(昭和21)年に寺号を大休山天真寺に改め、現在に至っています。 市の名勝に指定されている庭は、1898(明治31)年、豊二の弟・収三により、1530坪の回遊式大庭園として作庭されたものが、基礎になっています。それが、大休山開山の翌年、地元の庭師・城川久治が、近江八景を模して改修し、今の姿になったということです。 しかし、近年は、旧国重邸の老朽化が進み、文化財的価値は失われつつあったようです。そんな状況を憂えた地元の方たちが、NPO法人「松桜閣保勝会」を作り、松桜閣の復活に立ち上がりました。そして、大工と庭師の育成を目的とする富山市の専門学校・職藝学院の上野幸夫教授に相談し、同学院の学生たちによって復元工事が行われました。 ちょうど、北陸新幹線開業の時期でもあったため、天真寺の了承も得て、黒部宇奈月温泉駅からも近い観光スポットとして、庭園と邸宅を開放。天真寺境内にありながら、松桜閣と庭の管理・運営は、松桜閣保勝会が担当しています。 松桜閣の数寄屋造りは全国的にも珍しい、建築学的に貴重なものだそうです。新幹線駅からも歩けますし、その後、舌山駅から地鉄に乗れば、宇奈月温泉までは24分。温泉前に、立ち寄ってみてはいかがでしょう。

北陸の古い集落に伝わる不思議な茶会 - バタバタ茶

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海抜0mのヒスイ海岸から標高約3000mの白馬岳まで、海・山・川に恵まれた朝日町。町域の6割が、中部山岳国立公園と朝日県立自然公園に指定されているだけあって、自然の豊かな町です。その朝日町の中心から、山の方へ向かい、車で20分ほど走った所に、蛭谷(びるだん)という古い集落があります。 この蛭谷で古くから飲まれているお茶が、バタバタ茶。島根のボテボテ茶、沖縄のブクブク茶などと同じ、振り茶の一種です。 振り茶というのは、茶碗や桶に、煎茶や番茶をだして茶筅で泡立てて飲むやり方で、抹茶を使う茶の湯とは違った庶民の喫茶法です。しかし、振り茶が茶の湯に対する庶民のお茶なのか、振り茶が発展したのが茶道なのか、実のところよく分かっていないようです。 こうした振り茶の習俗は、富山県東北部にかなり広く見られる他、かつてはほぼ日本列島全域にわたって行われていたらしいです。朝日町でも、以前はあちこちで見られましたが、今では蛭谷以外では、あまり行われていません。 朝日町のバタバタ茶は、三番茶を摘んで、室で発酵させた黒茶という特殊なお茶を使います。これを茶釜で煮だし、五郎八茶碗という抹茶茶碗を小振りにしたような茶碗に茶杓で汲み出し、茶筅で泡立てて飲みます。色と味はウーロン茶に似ており、ちょっと苦味があります。が、これを泡立てると、まろやかな味に変わり、何杯飲んでも胃にこたえるようなことはありません。 この黒茶に関しては、蓮如上人との関連で、次のような話が伝わっています。蓮如上人は、1471(文明3)年に越前吉崎(現・福井県あわら市吉崎)に坊舎を建立しましたが、その影響で北陸には、真宗のムラが多く、蛭谷もその一つになります。で、吉崎御坊を建立した翌年、蓮如上人は越中立山の清水に堂を構え説法をした際、蛭谷の黒茶を供したとされます。これがバタバタ茶だったかどうかは分かりませんが、黒茶自体は、その頃から既に世に知られるお茶だったようです。 本来、バタバタ茶は各家の先祖のヒガラ(命日)に、親類や近所の人を招いて行うものですが、「こっそり茶」と称して、特別な日でなくとも、気の合う者同士が集まり、ささやかな茶会が始まることも多いとのこと。 蛭谷ではよく、巾着袋のようなものをぶら下げて歩いている人に出くわします。これは、茶碗と茶筅を入れた茶袋と呼ばれるもので、朝日町のバタバタ茶のユニークなところは、自分の茶道...

長い歴史を誇る伝統の竹細工「三尾そうけ」

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先に公開したブログ記事( 「魚の王国・富山湾に君臨する味覚の王者、越中ブリ」 )に書いた定置網と並んで、氷見にはもう一つ、長い歴史を誇る伝統の技があります。「三尾そうけ」と呼ばれる竹細工で、石川県境にある三尾という集落に受け継がれています。 昔、弘法大師が、この地に立ち寄った時、豊富な竹に目を留めて、土地の者に技術を教えたのが始まり、という説もあります。真偽のほどは定かではありませんが、昔から材料の竹に恵まれていたのは確かなようで、定置網のブイ代わりに竹を使っていた時代もあったようです。 「そうけ」は「笊筍」と書くように、竹で作った笊(ざる)のこと。三尾では材料にマダケを使い、昔から現在に至るまで、いわゆる米揚げざるを専門に作っています。 三尾そうけは、一方に口のついた片口型の当縁(あてぶち)仕上げのもので、1斗(18リットル)揚げから2升(3.6リットル)揚げと、大小はあるものの、形は全て同じで、重ねると、すっぽりと一つに収まります。 かつては三尾の集落のほとんどの家で、そうけ作りが行われていました。農家の副業として、農閑期などに夫婦分業で作業をしていたもので、主に男が竹を割ってひごを作り、女がそれを編み上げていました。 今もご夫婦でそうけを作っているお宅を訪ね、仕事を見せて頂きましたが、その熟練した技には驚くばかり。初めは何をしているのか分からないほど、鮮やかな手さばきでした。 が、昔は台所の便利道具として必需品だったそうけも、今ではプラスチックやステンレス製のざるに取って代わられ、一般家庭では目にすることはありません。時代の流れの中で、三尾そうけでも後継者不足と作り手の高齢化により、伝統の技が消えゆくのは時間の問題だと聞きました。寂しい限りです。 ※三尾地区では、地域の伝統を継承しようと、三尾竹細工生産組合が出来、生産者を講師に竹細工を学ぶと共に、そうけの竹材を確保するため竹林の整備も行っているようです。

魚の王国・富山湾に君臨する味覚の王者、越中ブリ

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氷見の魚の旨さには定評があります。これには、いくつもの要因が重なっています。 その一つが、富山湾の起伏に富んだ地形。富山湾の海底は沿岸部から急勾配に深くなり、水深1000m以上にも及びます。湾底まで落ち込むこの斜面を「ふけ」と呼び、ふけ際はプランクトンが豊富で、魚が群れをなしています。そんな富山湾の中でも氷見沖は、最も大陸棚が発達してふけ際が多く、絶好の漁場となっています。 また、富山湾には立山連峰の雪解け水が流れ込みます。森は魚を養うと言われる通り、豊かな森のある海はプランクトンも豊富。富山湾には、こうした河川から流れ込む栄養豊かな沿岸表層水と、その下に流れ込む対馬海流系の暖流、更に下には海洋深層水が流れています。そのため暖水性から寒水性まで、多種多様な魚が水揚げされます。この海水の性質が、二つめの要因。 そしてもう一つが、氷見の漁師たちの鮮度へのこだわりです。氷見の漁は 全て定置網で行われます。氷見の定置網は、今から400年以上も前に始まったとされています。以来、何回かの変遷を経た後、今日のような越中式定置網が設置されるようになりました。 全長約300〜400mという巨大な網で、更にこの網から海側に垣網という長い網が延びています。回遊してきた魚は、この垣根にぶつかり回り込むうち、いつしか定置網の中に誘い込まれるという仕掛けです。定置網は水深も40〜70mもあり、いわば巨大な生け簀の中で、漁師たちの到着を待つというあんばいです。 朝4時半、漁師たちは4隻の船に分乗して、沖合約3kmの定置網を目指します。20分ほどで網に到着すると、3隻の船で網をたぐりながら、魚を主網に追い込んでいきます。網の幅が狭くなると、1隻は網を離れ、側で待機していたもう1隻の船と共に、浜に近いやや小さめの定置網で網起こしを始めます。大型の定置網では、2隻の船が船体を横にしながら向かい合い、どんどん網を引き上げていきます。 やがて、ばしゃばしゃと跳ねる魚の姿が見え始めると、漁師たちは大きなたもで魚を次々にすくいあげていきます。とれた魚はすぐに船倉に仕込んだ氷水に入れ、瞬時に仮死状態にします。氷見では漁に出る時、船に大量の氷を積んでおり、鮮度を保つ工夫が施されています。網の中の魚を全てすくい終わると、休む間もなく港へ帰り、魚を選別。すぐさま市場へ運び込み、セリにかけます。 市場では、セリ落とした...