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民謡のある風景 - イナセな気風伝えて生き残る(東京都 江戸木遣り)

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正月。東京では、出初め式で鳶の唄う『江戸木遣り』が聞かれます。江戸・町火消しの伝統を伝える鳶たちは、なんともイナセです。木遣りが粋に聞こえるのは、そのせいかもしれません。  ♪めでためでたの若松さまよ   枝もしげれば 葉もしげる 唄はこんな始まり方をしますが、実際唄われるのを聞いていると、「ホイヤー、手古セー、エー、イエー、エーホイヤネー、イエー、ホイヤネー」といった掛け声風な言葉が多く出てきます。これは、木遣りが本来は労働の場で唄われていた頃の名残りだといいます。 江戸は、あちこちを埋め立てて造られた町です。昔の土木建築作業は、人の力に頼りました。作業を一つに束ねるためには、合図の掛け声が必要でした。それが木遣りの源流。一方、建築用材が、鎌倉の材木座海岸を中継点として江戸へ運ばれ、それと一緒に、この辺りで唄われていた『天王謡』という作業唄も江戸へ流れてきました。この唄いぶりがやがて江戸木遣りの母体となっていきます。 江戸は火事の多い町でしたから、材木の需要も旺盛だったでしょう。1659(万治2)年などは、正月から3月までで105回も火事がありました。日に一度は火が出るのですからひどいものです。しかも、人々は火を恐れ、我先に逃げましたから、火事になるとどうしても大きくなります。1660年には、2350軒を焼く大火となりました。町火消したちは、その火の中へ飛び込んでいくのですから、人々の称賛を浴び、粋で勇み肌なところがもてはやされました。 江戸の火消し制度は、明治維新でなくなりましたが、鳶と唄は残りました。もっとも、鳶の仕事はどんどん減って、唄は、作業唄から祝儀唄、座敷唄へと姿を変えました。今、この唄を伝えるのは、江戸消防記念会の人たちです。万事が合理化される中で、イナセな気風が、ここだけかろうじて息づいています。

「日本一ウザい」と評判のレストラン「ザクロ」

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「日本一ウザい」と評判のレストラン「ザクロ」に初めて行ったのは、2010年のこと。完全に一回り昔のことになります。 「ザクロ」は、日暮里駅から歩いて5分ほどの「夕やけだんだん」と呼ばれる坂を下りた所にあります。 「夕やけだんだん」というのは、一般公募で選ばれた名前で、坂の上から奇麗な夕焼けが見えることが、命名の決め手になっています。ちょうど谷中銀座商店街の入口になっており、休日ともなれば、多くの人で賑わいます。 この谷中を始め、以前の記事( 千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る )でも紹介した根津や千駄木は、東京を代表する散歩スポットとなり、三つの街の頭文字をとって通称「谷根千」と呼ばれています。そんなエリアの入口に当たる場所にあるのが、「ザクロ」です。外観からして、「谷根千」とは対照的な雰囲気を醸し出しているんですが、ここが日暮里であることを思い出すと、なぜかふさわしい気にもなってきます。。。 このレストラン、テレビなどでもよく紹介されており、「日本一ウザい」のは、ここの店長サダット・レザイ・モハマッド・アリさんです。「ザクロ」のTwitterアカウントは、自らを、「日本一ウザい」で検索すると、トップに出てくるレストランザクロです、と紹介しているので確かです。 2010年の時は、初ザクロということもあり、お勧めの「おなかペコペココース(1000円※現在は1100円)」にしました。なんせ、お店の美しい女性が「ザクロに来られる99%のお客様がオーダーされる、ハッピーランチです♪」というもので・・・。この店で出しているのは、アリさんの出身国であるイランと、トルコ、ウズベキスタンの料理です。 おなかペコペココースは、これらの料理が次から次へと出て来ます。ベースとなるナン、ライス、スープに続いて、骨付きラムのカレー、豆カレー、ファティール、ラムの肉団子、サモサ、サラダ、ポテトサラダ、チキンのカレー風煮込みが 登場。これでチャイは飲み放題、ジュースやデザートもあって、更にサービスのクッキーとナツメもありまして(ランチは他にも何かあったような気がしますが、品数が多すぎて・・・)、食後にはシーシャを初体験してきました。 ちなみに私は、アリさんが買い物に出掛けている最中に店に入ったので、普通に席に座りました。と、右隣に座っている人が、中東風のベストを着ていたので、「それ

創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」

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一昨日の 居酒屋「鍵屋」 、昨日の あんこう料理専門店「いせ源」 に続く老舗つながりで、編集部があった築地の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」について触れておきます。 「つきじ宮川本廛」は、1893(明治26)年の創業です。同店のサイトによると、創業者の渡辺助之丞は、深川にあった「宮川」という、うなぎ専門店で修行をした後、暖簾分けにより築地で開業したそうです。 深川の「宮川」は、幕末から営業していた老舗のうなぎ店で、同店の主人だった宮川曼魚が、随筆『深川のうなぎ』(1953年)の中で、次のように記しています。 「維新前に深川八幡前の川岸端に鰻屋があつた。表通りには長い竹樟の先へ紺地に白く染め抜いた『田川』と云ふ『のぼり』がたてゝあつた。木場の人達は、松本や平清の酒後好い気持で芸者や松本の女中を連れて、この『のぼり』へ行くのであつた。仲町の芸者や、松本、平清の女中たちはふだんにもこの『のぼり』へ行つて、白焼で一口やつたあとは、筏で『ごはん』を、と酒落こんでゐた。当時にあつては誰れもが『のぼり』と呼んで通つてゐた。  その『のぼり』が明治になつて『宮川』になつた。そして表通り西寄りの方へ移転して、現今も引続いて繁昌してゐる。昔は松本や平清と倶に深川の名物になつてゐた」 宮川曼魚(渡辺兼次郎)は、日本橋にある老舗のうなぎ屋「喜代川」の次男として生まれました。若い頃、室生犀星や萩原朔太郎らと共に、北原白秋門下として文学活動を始めますが、請われて、後継者がいなかった深川「宮川」を継ぐことになります。そして、うなぎ屋の主人を務めるかたわら、江戸文学の研究を続けました。 「つきじ宮川本廛」のサイトによると、「深川のうなぎ専門店『宮川』での修業を終え、同店の廃業に際し名跡を受け継ぎ、明治26年、散切り頭の助之丞二十八歳は築地橋、東詰めに“うなぎ屋”を開業」とありますが、深川の「宮川」は、戦後も繁盛していたわけですから、「宮川」の名跡を継いだのは、開業と同時ではなかったようです。 ちなみに、1951年6月28日に亡くなった林芙美子は、その前日、『主婦の友』の連載企画「私の食べあるき」で、東京の料理屋を2軒回りました。その1軒が、深川の「宮川」でした。 うなぎが、庶民の食べ物となったのは、江戸時代に入ってから。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸の町の整備に着手し、1回目の天下普請では、日比

神田にある老舗のあんこう料理専門店「いせ源」

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昨日、1856(安政3)年創業の居酒屋「鍵屋」について書きましたが( 江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」 )、今日はそれより更に古い料理屋「いせ源」の話です。かつて勤めていた編集部の忘年会を老舗シリーズにしていたことがあり、その一つが、1830(天保元)年創業の「いせ源」でした。 「いせ源」は、神田にある有名なあんこう料理専門店ですが、もともとは京橋にあった「いせ庄」というどじょう屋が前身だそうです。2代目の時に、京橋から神田に移転し、店の名を「いせ庄」から「いせ源」へ改めます。「庄」は初代の名前・庄蔵から取っており、改名後の「源」も2代目の名前・源四郎から取っています。 じゃあ「いせ」はというと、店主の名字は伊勢ではなく立川、更に三重県の出身でもないようで、話によると、江戸の名物「伊勢屋」の「いせ」を拝借したらしいのです。有名な噺のまくらに、江戸の名物があり、それには、「火事に喧嘩に中っ腹。伊勢屋、稲荷に犬の糞」と、「伊勢屋」が出て来ます。江戸の町には、それだけ「伊勢屋」が多かったわけですが、そんなブランドにあやかったのかもしれません。 それはともかく、神田に移って「いせ源」として営業を始めた2代目は、どじょうだけではなく、あんこう鍋やよせ鍋、かき鍋、青柳鍋、白魚鍋など、さまざまな鍋を提供。その中で、あんこう鍋は、当時主流だったみそ仕立てから醤油仕立てに変えたことで、江戸っ子の胃袋を完全にわしづかみ。それはやがて、4代目があんこう鍋専門店にするほどの人気ぶりだったようです。 定番のあんこう鍋の他にも、きも刺しや唐揚げ、煮こごり、とも和えなど、さまざまなあんこう料理が楽しめます。また、鍋のシメにおじやを作ってくれますが、これがまた旨いのです。 建物は、関東大震災で全焼した後、再建された当時のままのもので、東京都の歴史的建造物に選定されています。老舗にふさわしい佇まいで、大正時代の下町の風情をも伝えています。 ちなみに、老舗忘年会シリーズは他に、深川・森下にある馬肉料理専門店「桜鍋みの家本店」(1897[明治30]年創業)や、浅草にある牛鍋の「米久本店」(1886[明治18]年創業)などがありました。どちらも「いせ源」同様、雰囲気からしてすばらしいお店です。 みの家の桜鍋 米久の牛鍋

江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」

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前に上野について書いた際( 忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目 )、上野駅の隣にある鶯谷駅についても少しだけ触れました。その時にも書きましたが、鶯谷駅の南口は山の手台地、北口は下町低地になっており、南口は徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の寺域で、崖下となる北口はラブホテル街という、地形的にも環境的にも、かなり対照的な感じになっています。 で、上野の記事は、南口から上野公園に向かって書き進めましたが、北口にも、実はお薦めしたいスポットがあります。 鶯谷駅の南口から跨線橋で北口へ渡り、鶯谷駅下の交差点で言問通りを横断。左に進んで2本目の道を入り、すぐに左折すると、右側に大変趣のある佇まいを見せる正統派居酒屋「鍵屋」があります。 「鍵屋」は、1856(安政3)年の創業。現存する居酒屋としては、日本最古と言われます。もともとは酒屋で、店先に卓を置いて飲めるようになっていたそうです。当時は、今よりもやや浅草寄りの下谷に店を構えていましたが、言問通りの拡張に伴い現在地へ移転。大正元年に建てられた日本家屋を改装し、風情ある店構えを保ちつつ今も変わらぬスタイルで営業しています。 なお、初代の建物は、私が幼少期から結婚するまで住んでいた小金井市の、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に移築され、毎年8月のイベント時には、その中でお酒を楽しめるそうです。 これまで何度か「鍵屋」に行っていますが、17時開店なので、平日、仕事を終えてからだと、店内はいつも満席。ただ、お客さんが長居をするような店ではないので、少しの間、待っていれば入ることが出来ます。 メニューを写真で入れておきますが、私が必ず頼むのは、「うなぎのくりからやき」と「煮奴」です。 「くりからやき」は、不動明王が持つ倶利伽羅剣に似ていることから名付けられたもので、「鍵屋」では、間違いなく看板メニューになっています。「鍵屋」では、うなぎの腹身を串に刺し、たれに漬けて炙っています。身は弾力があり、甘辛いたれとうなぎの脂がよく絡み、とてもおいしいので、お薦めです。 もう一つの「煮奴」も「鍵屋」の名物の一つで、メニューにある「とりもつなべ」の甘辛い醤油味のつゆで煮ています。とりもつのだしが、豆腐によく染み、更に時々とりもつが入っていたりして、それもまた楽しみな一品となっています。 また「鍵屋」のお酒は、菊正宗、大関、櫻正宗の

東武スカイツリーライン西新井駅の「西新井らーめん」

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我孫子駅の唐揚げそば( 常磐線我孫子駅「弥生軒」の唐揚げそば )、鳥栖駅のかしわうどん( 鳥栖駅6番ホーム「中央軒」のかしわうどん )に続いて、西新井駅の立ち食いラーメンの紹介です。 ホームの立ち食いそばは、かなりの数があると思いますが、ラーメンは珍しいのではないでしょうか。国民食の一つと言われるほど人気のラーメンなのに、なぜホームの立ち食いというとそばやうどんが中心になるんでしょう。駅のホームという場所柄、提供までの時間が問題なんですかね。 それはともかく、西新井駅のラーメンは、1983年に埼玉県越谷市へ引っ越し、築地へ通勤するようになって、その存在を知りました。 ちょっと身の上話をすると、私は新宿区生まれ、小金井市育ちで、結婚するまではJR中央線の武蔵小金井駅から歩いて5分ほどの所に住んでいました。一方、妻の実家は中野で、結婚してからは、東村山市にアパートを借りて住んでいました。しかし、義父はリタイア後、故郷である茨城県古河市に移住する予定だったこと、また私の事務所が築地であることから、両方に利便性がある東武伊勢崎線沿線に的を絞って、家を探しました。 結果、越谷市で土地を見つけて家を建てることになり、妻と2歳前の長男の3人で埼玉県人となりました。その後、長女が生まれ、更には年月を経て長男、長女が結婚して孫も生まれましたが、一昨年まで東武線での通勤が続きました。が、実のところ、わざわざ途中下車してまでラーメンを食べようとは思わず、「西新井らーめん」を食べたのは、長男が小学校高学年の一時期だけでした。 「西新井らーめん」を食べることになるきっかけは、中学受験を控えた長男の日曜テストでした。当時、四谷大塚のテストを受ける長男とその友人に付きそうのが、毎日曜日の恒例になっていました。で、西新井駅で準急に乗り換えたりする際、めざとく「西新井らーめん」を見つけた長男のリクエストで食べることになったのです。 以後、それが恒例のようになり、今では2人の子どもの親となった長男は、初詣で西新井大師へ行き、帰りに家族で「西新井らーめん」を食べるというのが、正月の恒例行事になっているようです。別に親から親へ代々受け継ぐ恒例行事にしなくてもいいんですが・・・。子どもの頃の思い出って、変なところで残っているのかもしれませんね。 東武伊勢崎線は、1899(明治32)年に北千住駅から久喜駅まで

1995年3月20日 地下鉄サリン事件

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私が30代後半だった1995年の今日、東京でオウム真理教による無差別テロ、地下鉄サリン事件が起きました。世界初となる化学兵器を使ったテロで、13人の方が犠牲になり、6000人以上が負傷しました。 狙われた地下鉄は、日比谷線、丸ノ内線、千代田線の3路線で、いずれも警視庁や警察庁、検察庁などの中央官庁がある霞ケ関駅を通る路線でした。この中で、最も多くの犠牲者が出た日比谷線では、小伝馬町駅で4人、八丁堀駅で1人、築地駅で3人の方が亡くなっています。 当時、私が勤めていた編集部は築地にあり、自宅の最寄り駅からは1本で行くことが出来ました。しかし、その日は北千住の手前で電車がストップ。当初、原因は確認中との車内アナウンスが流れていましたが、やがて「築地駅で爆発事故があった模様」という情報がもたらされました。 後になって分かったのですが、乗客が車内非常通報装置を押し、サリンが撒かれた車両が停車したのが築地駅で、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームに倒れ込んだそうです。そして、それを見た運転士が、「車内から白煙が出て乗客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という話になったようです。 実際の日比谷線でのテロは、次のように実行されました。 1995(平成7)年3月20日(月曜日)、実行犯の林泰男はサリン3パックを携帯して、上野駅から日比谷線中目黒行きの3号車に乗車。秋葉原駅でサリンが入った袋に穴を開けました。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客の一人が、サリンの袋をホームに蹴り出しました。 これにより、電車は運行を継続。しかし、サリンの液体は車両の床に残ったままだったため、車内はパニックとなり、乗客は他の車両へ避難をし、非常通報ボタンを押すことになります。また、サリンの袋が蹴り出された小伝馬町駅では、ホームに広がったサリンを多くの乗客が吸引、4人の方が犠牲となりました。 当時、カメラ器材などを購入していた会社が、小伝馬町にありました。そこの店長は日比谷線の利用ではなかったため難を免れましたが、出勤はまさにテロがあった時間帯で、朝、小伝馬町駅の前を通り掛かったら、出口付近に大勢の人が倒れており、二日酔いにしてはずいぶん人が多いなあ、と思っていたとのこと。そんなのんきなことを思い浮かべるほど、無差別テロなどということが日本で起こるとは、誰もが予想もしていません

神宮外苑の思い出

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神宮外苑の人気スポットのナンバー1は、銀杏並木らしく、多くの人が神宮外苑と聞いて思い浮かべるのは、黄葉したイチョウの並木道のようです。確かにきれいですが、神宮外苑と言えば、絵画館とか国立競技場、神宮球場だろうと思う、古い人間の私です。 明治神宮は、内苑と外苑から成り、内苑はもちろん日本一初詣客が多い神社、外苑は聖徳記念絵画館を中心に、スポーツと文化・芸術の施設群が建ち並ぶエリアです。明治神宮創建のきっかけは、明治天皇崩御の後、国民が明治天皇を記念する施設を求めたことからとされます。そのため、基本的に国民の寄付で賄うこととされ、内苑の方は国費により政府が造営しましたが、外苑は全国からの寄付金がベースになりました。また、鎮守の杜は、全国から献木された木々を植樹した人工の森になっています。 私が、最初に初詣に行ったのは、中学3年生の時でした。当時は、小金井市に住んでいたので、武蔵小金井駅から代々木駅まで、友人たちと出掛け、明治神宮の参拝が終わった後、地元の神社にも参拝して、解散という流れでした。また、大学に入ると、友人たちと年越しを過ごすようになり、その中に、明治神宮参拝も含まれていました。しかし、卒業後は、明治神宮は混むので、自然と避けるようになりました。 そのため、明治神宮の思い出というと、内苑より外苑の方が、大きなウエートを占めています。施設としては、バッティングセンターやアイススケート場も利用したことがありますが、やはりメインは神宮球場です。 神宮球場は、ヤクルトスワローズの本拠地となっていますが、学生野球の聖地でもあります。私が物心ついた時には、長嶋茂雄はプロ野球のスーパースターでしたが、学生時代は、杉浦忠、本屋敷錦吾と共に立教三羽烏と呼ばれ、六大学野球の花形として活躍しました。3人とも卒業後はプロに進み、長嶋がセリーグで、杉浦がパリーグでそれぞれ新人王を獲得しています。しかも、長嶋は打率3割5厘、29本塁打、92打点、37盗塁で本塁打と打点の2冠王(打率と盗塁は2位)、杉浦は27勝12敗、防御率2.05で、二人ともとんでもないルーキーでした。また、本屋敷も1年目から2番遊撃手として130試合にフル出場、打率2割6分、33盗塁、三塁打はリーグ1位の10本と走攻守そろった選手でした。 ちなみに2年目のジンクスと言われますが、杉浦はこの年38勝4敗、勝率9割5厘、防

忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目

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昨日の記事( 千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る )の根津神社から湯島方面へ向かう不忍通りは、湯島の手前で不忍池に沿って曲がり、上野駅へと至ります。不忍通りの名前の由来は、不忍池から続く通りだからですが、じゃあ、不忍池の由来は?って思いますよね。 これには諸説あって、上野の山の古称「忍岡(しのぶのおか)」からという説や、笹が生い茂って輪のような水辺だったから(篠輪津)という説、更には結ばれなかった男女が池に身を投じた悲話からついたという説もあります。 ちょっと地形の話になりますが、東京は、いわゆる山の手と呼ばれる標高20mぐらいの台地と、ゼロメートル地帯と呼ばれる下町エリアの低地から成ります。また、昨日の記事で、「文京区は、もともと五つの台地といくつもの谷で出来ており、坂が多い」と紹介しましたが、山の手には、それと同じように、台地が浸食されて出来た谷が、あちこちにあります。 上野の場合、山の手の台地と下町の低地の境になっています。分かりやすいのが上野駅で、中央改札口と不忍口は1階にありますが、公園口は3階にあり、駅を境にして台地と低地が分かれているのです。(※入谷口はちょっとややこしくて、駅の外に出る入谷口は1階ですが、ホームに入る入谷改札は3階にあります) で、上野公園も、公園口から入った国立西洋美術館や国立科学博物館、東京国立博物館などは台地、そして不忍池は低地となります。上野は、「上野のお山」などと呼ばれるように、まさに台地の上にあり、忍岡の古称もそこから付けられたのでしょうし、不忍池は、忍岡ではないということで、不忍となったのかもしれません。この説、確かに一理あります。 でもまだ、「忍」って?となりますよね。そこで出てくるのが、篠輪津説ですが、これを逆にたどると、忍岡は篠輪岡ってことになって、台地も笹が輪になっていたことになり、ちょっと無理がありそうです。そう考えると、しのび逢いの男女説も、こじつけな感じがします。 そこで、もう一度「忍」に戻りますが、この字を見ると、どうしても忍者や忍術、いわゆる「忍び」を思い浮かべてしまいます。が、実は「シノブ(忍)」というシダがあって、これ、山地の岩の上や木の幹などに付くんだそうです。シノブは、日本全国に分布しており、当然、上野の台地にも繁茂していたでしょう。 なので、シノブが生えている岡=忍岡、シノブのな

千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る

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長瀞の寶登山神社、酉の市発祥の花畑大鷲神社に続く、日本武尊東征伝説の第3弾です。今日の舞台は、東京メトロ千代田線の根津駅から、歩いて5、6分の所にある根津神社(文京区)になります。 根津神社は、日本武尊が東征の折に、戦勝祈願のため、今の団子坂辺りに創祀したのが起源とされています。その後、時を経て、江戸城を築いた太田道灌が、社殿を造営しました。 更に時代が下って江戸時代、5代将軍徳川綱吉が、兄綱重の長男綱豊を養子とし、後継に据えた際に、屋敷地を根津神社に奉納し、神社の大造営に取り組みます。現存する社殿や透塀、唐門、楼門などは、この時建てられたもので、これに伴い、旧社地の千駄木から、現在地へ遷座されました。ちょうど、千代田線の千駄木駅から根津駅へ移動したような案配です。 綱吉による、天下普請と言われた大造営は、1706(宝永3)年に完成。その社殿は、権現造が特徴となっています。権現造は、石の間と呼ばれる一段低い建物を挟んで、本殿と拝殿をつなぐ構造で、平安時代に京都の北野天満宮で初めて造られました。かつては八棟造と呼ばれていましたが、日光東照宮に採用されてから、徳川家康の神号・東照大権現から権現造と呼ばれるようになりました。 北野天満宮は、何度も火災に遭っており、現在の社殿は、豊臣秀頼により1607(慶長12)年に造営されたもので、同じ年に伊達政宗によって創建された大崎八幡宮と共に、現存する最古の権現造となっています。日光東照宮は、それに遅れること10年、1617(元和3)年に社殿が完成。以来、権現造は神社建築に多く用いられるようになり、綱吉もこれを踏襲したのでしょう。 根津神社は、北野天満宮と違い、火災に遭うこともなく、また関東大震災や東京大空襲などからも免れ、どれ一つ欠けることなく現存しており、国の重要文化財に指定されています。特に、楼門は、江戸時代から残っているのは、都内で根津神社だけといいます。ちなみに、正面右側の随身は、水戸黄門こと水戸藩第2代藩主徳川光圀がモデルとも言われています。 また、社殿をぐるりと取り囲む塀は、格子越しに反対側が透けて見えることから「透塀」と呼ばれています。この透塀は、「唐門東方」「西門北方」「唐門西門間」の三つに分けて重文指定がされていますが、これは唐門と西門の所で分断されていると判断されたためです。透塀は銅瓦葺で、総延長は108間(約