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民謡のある風景 - 自在に生きる上方気質の古里(大阪府 河内音頭)

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大阪府の中東部に広がる河内地方は、中世の頃、あの楠正成も守護を務めた地です。江戸後期からは、大坂の穀倉地帯とも呼ばれ、独特の農民気質を育てました。この地方で広く唄われてきたのが、『河内音頭』で、常に脱皮を繰り返し、時代時代でリニューアル版がヒットしています。  (お久藤七)  ♪アー さては一座の皆様や   申し上げます段の儀はお久藤七物語   ヨンヨホ ホイホイ   これよりぽつぽつのせまする 『河内音頭』は、八尾市が発祥地だと言われています。八尾は、中世の寺内町から発展した町で、かつては河内木綿の集散地でした。 この八尾市に、臨済宗の常光寺という寺があります。延命地蔵が本尊で、毎年8月、地蔵盆踊りが盛大に行われます。盆踊り唄の中の流し音頭は、『河内音頭』の中でも最も古いものだと言われ、室町初期の頃、常光寺が再建された際の木挽き唄がベースになっていると言われます。 この唄の特徴は、伝統的な上方の話芸を自在に取り込んでいる点でしょう。河内街道をたどって入って来たさまざまな音頭がミックスされ、明治期から後は、阿呆陀羅経、浄瑠璃、浪曲、漫才と、とにかくさまざまなものを消化して、即興自在なスタイルを打ち立てました。明治期には、義太夫節を取り入れた唄い方や、江州音頭の節を入れたものが人気を集めました。中でも1893(明治26)年に起こった「河内十人斬り」事件を唄ったものが評判になって、『河内音頭』の名は、全国に知られるようになりました。語り芸を取り込んだ特徴が発揮されたわけです。 戦後も、鉄砲光三郎の節が話題となり、近年では、河内家菊水丸がレゲエ調に変化させたCMソングをヒットさせました。時代と共に呼吸する柔軟さが、この唄を生んだ土地の人の特有の気質なのかもしれません。

東海自然歩道で高尾山と結ばれる箕面の自然

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箕面市は梅田から電車で25分、大阪のベッドタウンとして人口が急増しています。しかし、箕面の駅から少し歩き、箕面公園に入ると、そこには自然があふれています。 箕面公園は明治100年を記念して、1969(昭和44)年、東京・八王子の高尾と共に「明治の森国定公園」に指定され、両公園を結ぶ東海自然歩道の西の起点ともなっています。東海自然歩道は、高尾と箕面を結ぶ1都2府8県(東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、奈良県、大阪府)に及ぶ全長1734kmの自然歩道で、長距離自然歩道の第1号として、70年に誕生しました。ちなみに、長距離自然歩道は、これまでに8本(東北、首都圏、中部北陸、東海、近畿、中国、四国、九州)が整備され、現在整備中の北海道、東北太平洋岸の2本が完成すると、総延長は2万7000kmになります。 で、東海自然歩道は、高尾山や相模湖、比叡山、鞍馬など、自然豊かな観光地が入っており、箕面の散策モデルコースは、大阪府茨木市の忍頂寺から箕面まで約6時間の自然歩道となっています(逆コース5時間40分)。もともと箕面は、箕面滝や箕面山地の渓谷を中心に、新緑、紅葉を始め四季折々の自然の美しさで、古くから知られた景勝地でした。 そのため、箕面単独でも、十分楽しめるスポットになっています。箕面滝までの行程をざっと紹介しておきます。 阪急阪急箕面線の箕面駅で降り、みやげ物店が並ぶなだらかな坂をたどります。みやげ物店の軒先では「もみじの天ぷら」が揚げられ、甘い香りが漂ってきます。「もみじの天ぷら」は、箕面の伝統名菓で、1300年前、箕面山で修行をしていた行者が、滝に映えた紅葉の美しさを称賛して、灯明の油でモミジの天ぷらを作り、旅人にふるまったと伝えられています。今では箕面名物として、みやげ物店の軒先で揚げられています。 そんなみやげ物店が途切れ、しばらく歩くと箕面公園に入ります。箕面川の流れに沿って遊歩道を歩くと、1万点の昆虫のコレクションが展示されている昆虫館があります。箕面公園は、日本有数の昆虫の多産地として知られ、これまでに約4000種が記録されています。 また、この辺りは古くからモミジの名所として有名でしたが、モミジ以外にも、さまざまな樹木や草花など1000種近くの植物が成育しており、箕面の自然の豊かさを物語っています。 昆虫館の対岸には、

大阪と言えば?で思い浮かべる事ども

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今年、ネット上で行われたアンケートで、「大阪と言えば?」の問いに、39.4%の人が「たこ焼き」と答えたそうです。たこ焼きは、確かに大阪発祥らしく、昭和10年、福島県会津坂下出身の遠藤留吉さんが、明治からある明石の玉子焼をアレンジして、大阪の屋台で売り出したのが始まりだそうです。 それにしても、「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ」と言われる大阪のイメージが、たこ焼きでいいんでしょうか。しかも、第2位のお好み焼き(17.7%)と合わせて、6割近くが粉もんと言われるB級グルメだなんて・・・。 アンケートでは他に、「大阪のおばちゃん」や「吉本新喜劇」「阪神タイガース」「大阪弁」などがランクイン。確かに、よく聞く言葉ですが、これらが本当の大阪なのか、個人的には疑問です。前の記事で触れた、作られた聖徳太子像と同様、これらも作られた大阪像なのでは? というわけで、調べていたら、『大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』という本に出合いました。帯には「大阪は、ほんとうに大阪的か?」とあります。で、出版元のサイトには、以下のようなことが書いてありました。 大阪と聞いて何を思いうかべるだろうか? 芸人顔負けのおばちゃん、アンチ巨人の熱狂的阪神ファン、“金もうけとど根性"の商売人……しかしそれらは東京のメディアが誇張し、大阪側も話を盛ってひろがった、つくられた大阪的イメージだ。「おもろいおばはん」の登場は予算のない在阪テレビ局が素人出演番組を安く量産した結果だし、阪神戦のテレビ中継がまだない一九六〇年代、甲子園球場は対巨人戦以外ガラガラだった。ドケチな印象はテレビドラマが植えつけたもので、「がめつい」は本来、大阪言葉ではなかった。多面的な視点から、紋切型の大阪像をくつがえす。 更に、他のネット記事で著者の井上章一さんは、「東京のメディアはあまり取り上げないが、御堂筋や中之島には美しい街並みがある」と語り、等身大の大阪を提示したいとしています。 私も何度も大阪へ行っていますが、テレビに登場するような「大阪のおばちゃん」には会ったことがありません。タイガースのホーム甲子園は兵庫県西宮市ですし、ネットの調査結果で、唯一理解出来るのは、大阪弁ぐらいでしょうか。それより、第10位に入ったユニバーサルスタジオジャパン(5.4%)の方が、イメージが強いかもしれません。 我が家の長女と

銘菓郷愁 - 京阪の伝統干菓子「粟おこし」 大阪

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おこしは、せんべいと並んで古くから干菓子の代表とされ、どちらも我が国最初の百科辞典『和名類聚抄』(931〜937頃)に取り上げられています。その頃はもち米を煎って、水飴でこねて固め、好みの大きさに握って丸めたり、竹の筒などにつめて押し出したりしたものだったそうです。 江戸時代の初めの頃になると、鳩麦の実をよく干して、キツネ色になるまで煎り、砂糖を水に加えてふかしてから、少しずつ砂糖を取り分け、鳩麦を少し混ぜて固まらせたようで、1643(寛永20)年に出た『料理物語』にこしらえ方が紹介されています。もう少し後になると、もち米を蒸してからさらし、乾かして、それに蜜と米粉を混ぜたものを加え、団子状にしたり、押しつぶして六角形に切って食べたりしたようです。 下って、1752(宝暦2)年、8代将軍徳川吉宗が亡くなった次の年、大坂の道頓堀ニツ井戸の津の国屋清兵衛が、それまでのおこしの製法を改め、初めて「粟おこし」の名で、新しいおこしを売り出しました。清兵衛のおこしは、干し飯を挽いて細かくし、飴と上等の黒砂糖か出島糖で練り、板状にのばしたものでした。黒砂糖は、琉球産のものが早くから珍重されていました。出島糖というのは長崎・出島から入ってきた海外産の砂糖で、共に当時の輸入品でした。 19世紀初め頃からは、国産の砂糖も出回るようになりましたが、清兵衛の改良は国産品が使われるよりもそのおいしさが評判になり、各地で真似をするものが出たということです。けれども、やはり真似は真似で、かえって本物の名が高まりました。 また、粒の細かな「粟おこし」に対し、ウルチ米を干し飯にして、水飴と砂糖と練り、箱に入れて冷ましたものは「田舎おこし」と呼ばれ、江戸周辺で作られていたということです。 江戸時代、大坂は天下の台所と言われ、諸国から原料や一次加工品が集まり、大坂でそれらが加工されて諸国へ移出されました。「粟おこし」も、そんな大坂の特色が生み出した逸品だったと言えるでしょう。 初代清兵衛の「菓子刷新」の志は、代々受けつがれ、「粟おこし」も時代と共に新しい味覚を追究し、原料や形を変えて多くの人々に愛されてきました。口に含むと、あくまでも米の香ばしさを失わず、微細なすき間ににじむ甘さが、その香ばしさを包み漂う銘菓です。

城のある風景 - 復活した太閤さんの城

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大坂城といえば、誰もが思いつくのは、豊臣秀吉・太閤さんでしょう。下層階級からのし上がっていった秀吉は、自らの政権をうち立てた時、栄華を誇示し、大坂城を金・銀で飾りたてました。 大坂城は、もともとは石山本願寺があった所で、地勢上も優れた位置にありました。織田信長は本願寺を攻めてここを手に入れ、後を襲った秀吉がここに城を築いたのですが、その子秀頼の代で、徳川勢に攻められて落城してしまいました。 徳川氏は、権威を示すためにも、太閤さんを上回る城を造り上げねばなりませんでした。諸大名を動員して大改修をやり、太閤さん時代の敷地の上に10mもの盛り土をして工事をやりました。よほど豊臣氏の影を払い除けたかったのでしょう。 運ばれた大石の数は40万個にも及んだといいます。諸大名もうんざりしたでしょうが、石に紋様を刻んで、確かに協力しましたぞ、という印にしました。天守閣も造り変えられ、5層6階・59mほどのものになりました。 こうやって造り変えられた大坂城は、もう一度落城します。1868(慶応4)年1月、戊辰戦争が起きて炎上、徳川時代の大坂城は終わりとなります。天守閣は、既に1665(寛文5)年に落雷で燃え、無くなっていました。 それから大正に至るまで、大坂城は天守閣の無い城でしたが、太閤さん以来、城は大阪のシンボルとなっていました。ぜひとも天守閣が欲しいということになり、大阪の人々が立ち上がります。 1931(昭和6)年、大阪市民の手で高さ約53mの天守閣が再建されました。外観は、大坂夏の陣の塀風に描かれた形をとり、初の鉄筋コンクリート造りのものになりました。全階エレベーター付きという近代型です。