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東海自然歩道で高尾山と結ばれる箕面の自然

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箕面市は梅田から電車で25分、大阪のベッドタウンとして人口が急増しています。しかし、箕面の駅から少し歩き、箕面公園に入ると、そこには自然があふれています。 箕面公園は明治100年を記念して、1969(昭和44)年、東京・八王子の高尾と共に「明治の森国定公園」に指定され、両公園を結ぶ東海自然歩道の西の起点ともなっています。東海自然歩道は、高尾と箕面を結ぶ1都2府8県(東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、奈良県、大阪府)に及ぶ全長1734kmの自然歩道で、長距離自然歩道の第1号として、70年に誕生しました。ちなみに、長距離自然歩道は、これまでに8本(東北、首都圏、中部北陸、東海、近畿、中国、四国、九州)が整備され、現在整備中の北海道、東北太平洋岸の2本が完成すると、総延長は2万7000kmになります。 で、東海自然歩道は、高尾山や相模湖、比叡山、鞍馬など、自然豊かな観光地が入っており、箕面の散策モデルコースは、大阪府茨木市の忍頂寺から箕面まで約6時間の自然歩道となっています(逆コース5時間40分)。もともと箕面は、箕面滝や箕面山地の渓谷を中心に、新緑、紅葉を始め四季折々の自然の美しさで、古くから知られた景勝地でした。 そのため、箕面単独でも、十分楽しめるスポットになっています。箕面滝までの行程をざっと紹介しておきます。 阪急阪急箕面線の箕面駅で降り、みやげ物店が並ぶなだらかな坂をたどります。みやげ物店の軒先では「もみじの天ぷら」が揚げられ、甘い香りが漂ってきます。「もみじの天ぷら」は、箕面の伝統名菓で、1300年前、箕面山で修行をしていた行者が、滝に映えた紅葉の美しさを称賛して、灯明の油でモミジの天ぷらを作り、旅人にふるまったと伝えられています。今では箕面名物として、みやげ物店の軒先で揚げられています。 そんなみやげ物店が途切れ、しばらく歩くと箕面公園に入ります。箕面川の流れに沿って遊歩道を歩くと、1万点の昆虫のコレクションが展示されている昆虫館があります。箕面公園は、日本有数の昆虫の多産地として知られ、これまでに約4000種が記録されています。 また、この辺りは古くからモミジの名所として有名でしたが、モミジ以外にも、さまざまな樹木や草花など1000種近くの植物が成育しており、箕面の自然の豊かさを物語っています。 昆虫館の対岸には、...

大阪と言えば?で思い浮かべる事ども

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今年、ネット上で行われたアンケートで、「大阪と言えば?」の問いに、39.4%の人が「たこ焼き」と答えたそうです。たこ焼きは、確かに大阪発祥らしく、昭和10年、福島県会津坂下出身の遠藤留吉さんが、明治からある明石の玉子焼をアレンジして、大阪の屋台で売り出したのが始まりだそうです。 それにしても、「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ」と言われる大阪のイメージが、たこ焼きでいいんでしょうか。しかも、第2位のお好み焼き(17.7%)と合わせて、6割近くが粉もんと言われるB級グルメだなんて・・・。 アンケートでは他に、「大阪のおばちゃん」や「吉本新喜劇」「阪神タイガース」「大阪弁」などがランクイン。確かに、よく聞く言葉ですが、これらが本当の大阪なのか、個人的には疑問です。前の記事で触れた、作られた聖徳太子像と同様、これらも作られた大阪像なのでは? というわけで、調べていたら、『大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』という本に出合いました。帯には「大阪は、ほんとうに大阪的か?」とあります。で、出版元のサイトには、以下のようなことが書いてありました。 大阪と聞いて何を思いうかべるだろうか? 芸人顔負けのおばちゃん、アンチ巨人の熱狂的阪神ファン、“金もうけとど根性"の商売人……しかしそれらは東京のメディアが誇張し、大阪側も話を盛ってひろがった、つくられた大阪的イメージだ。「おもろいおばはん」の登場は予算のない在阪テレビ局が素人出演番組を安く量産した結果だし、阪神戦のテレビ中継がまだない一九六〇年代、甲子園球場は対巨人戦以外ガラガラだった。ドケチな印象はテレビドラマが植えつけたもので、「がめつい」は本来、大阪言葉ではなかった。多面的な視点から、紋切型の大阪像をくつがえす。 更に、他のネット記事で著者の井上章一さんは、「東京のメディアはあまり取り上げないが、御堂筋や中之島には美しい街並みがある」と語り、等身大の大阪を提示したいとしています。 私も何度も大阪へ行っていますが、テレビに登場するような「大阪のおばちゃん」には会ったことがありません。タイガースのホーム甲子園は兵庫県西宮市ですし、ネットの調査結果で、唯一理解出来るのは、大阪弁ぐらいでしょうか。それより、第10位に入ったユニバーサルスタジオジャパン(5.4%)の方が、イメージが強いかもしれません。 我が家の長女と...

京阪の伝統干菓子「粟おこし」 大阪

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おこしは、せんべいと並んで古くから干菓子の代表とされ、どちらも我が国最初の百科辞典『和名類聚抄』(931〜937頃)に取り上げられています。その頃はもち米を煎って、水飴でこねて固め、好みの大きさに握って丸めたり、竹の筒などにつめて押し出したりしたものだったそうです。 江戸時代の初めの頃になると、鳩麦の実をよく干して、キツネ色になるまで煎り、砂糖を水に加えてふかしてから、少しずつ砂糖を取り分け、鳩麦を少し混ぜて固まらせたようで、1643(寛永20)年に出た『料理物語』にこしらえ方が紹介されています。もう少し後になると、もち米を蒸してからさらし、乾かして、それに蜜と米粉を混ぜたものを加え、団子状にしたり、押しつぶして六角形に切って食べたりしたようです。 下って、1752(宝暦2)年、8代将軍徳川吉宗が亡くなった次の年、大坂の道頓堀ニツ井戸の津の国屋清兵衛が、それまでのおこしの製法を改め、初めて「粟おこし」の名で、新しいおこしを売り出しました。清兵衛のおこしは、干し飯を挽いて細かくし、飴と上等の黒砂糖か出島糖で練り、板状にのばしたものでした。黒砂糖は、琉球産のものが早くから珍重されていました。出島糖というのは長崎・出島から入ってきた海外産の砂糖で、共に当時の輸入品でした。 19世紀初め頃からは、国産の砂糖も出回るようになりましたが、清兵衛の改良は国産品が使われるよりもそのおいしさが評判になり、各地で真似をするものが出たということです。けれども、やはり真似は真似で、かえって本物の名が高まりました。 また、粒の細かな「粟おこし」に対し、ウルチ米を干し飯にして、水飴と砂糖と練り、箱に入れて冷ましたものは「田舎おこし」と呼ばれ、江戸周辺で作られていたということです。 江戸時代、大坂は天下の台所と言われ、諸国から原料や一次加工品が集まり、大坂でそれらが加工されて諸国へ移出されました。「粟おこし」も、そんな大坂の特色が生み出した逸品だったと言えるでしょう。 初代清兵衛の「菓子刷新」の志は、代々受けつがれ、「粟おこし」も時代と共に新しい味覚を追究し、原料や形を変えて多くの人々に愛されてきました。口に含むと、あくまでも米の香ばしさを失わず、微細なすき間ににじむ甘さが、その香ばしさを包み漂う銘菓です。