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民謡のある風景 - 病人が命をかけた一筋の唄(群馬県 草津節)

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JR吾妻線は、上越線の渋川から分かれて、大前まで約55km、吾妻川沿いに長野県境へと向かいます。渋川から12番目の駅が長野原草津口で、ここで降りる客の大半は、足早に草津温泉行きのバス停に向かいます。 バスでおよそ45分。草津温泉は、白根火山の山麓に、昔ながらの湯煙を立てています。温泉は酸性泉で、時間湯という湯治方式で知られ、共同浴場では今もその時間湯が行われています。 湯は、とにかく熱いです。50度から70度はあるという熱湯は、そのままでは入れませんから、長い板でかき回して湯温を下げます。その時に唱和する唄が、有名な『草津節』です。  ♪草津よいとこ 一度はお出で ア ドッコイショ   お湯のなかにも コーリャ 花が咲くよ   チョイナ チョイナ 唄に合わせて湯もみをするようになったのは、大正の頃からだと言われ、それ以前には、唄うどころではなく、熱い湯に3分間入るだけで精いっぱいだったようです。 『草津節』の発生については、諸説があります。東京・青梅周辺の機織唄が元唄だという説や、千葉の船頭たちが唄った船唄ではないか、あるいは、茨城県鹿島灘の沿岸で唄われていた『げんたか節』が元唄だとも言われています。それほどにも各地から人がやって来たのでしょう。 1922(大正11)年にこの地を訪れた歌人の若山牧水は、「湯をもむとうたえる唄は病人がいのちをかけしひとすじの唄」と詠みましたが、実際の湯治客が唄った『草津節』は、それだけ真剣な響きを持っていたのかもしれません。 やがて、唄に明るい三味の手がついて、『草津節』はお座敷唄となり、関東大震災の頃から昭和にかけて、大いに流行しました。今では、地元でもこの唄を組み込んだ「湯もみ」を、ショーとして見せるようになりました。唄が観光資源となった好例と言えるでしょう。

群馬県下で唯一現存する城櫓

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高崎は平安時代、赤坂の庄と呼ばれ、鎌倉時代には和田氏が城を築き、戦国時代を通じてこの地を治めました。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、上州の諸城は次々と陥落し、和田城もあえなく落城。その年、徳川家康が関東に入部し、和田の地は、徳川四天王の一人井伊直政によって支配されることになりました。 直政は、家康の命によって、和田城跡に城を築き、地名を高崎と改めました。この地は、中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、家康はその監視を行う城が必要と考えたのでした。 直政が、関ケ原の戦いで大功を挙げ、近江に移封されてからは、高崎城の城主は有力譜代大名が歴任。高崎は城下町として、また重要街道の宿場町として大いににぎわい、物資が集散し商業も栄えました。 明治維新で廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、または移築されました。現在、建物で残っているのは、乾櫓と東門だけで、実はこの二つも、当時名主であった梅山氏に払い下げられていたのだといいます。 1951(昭和26)年、高崎市史編纂委員数人が、市内を踏査中、下小鳥町で風変わりな土蔵を発見しました。旧高崎城各部実測図と照合したところ、それは乾櫓だということが判明しました。 高崎城には、御三階櫓(天守)と乾(北西)、艮(北東)、巽(南東)、坤(南西)の4基の隅櫓がありました。しかし、残っているのは、乾櫓だけ。しかも、高崎城はおろか、群馬県下唯一の現存城櫓となっています。 こうしたことから、乾櫓はその後74年に、梅山氏から市に寄贈され、現在地に三の丸模擬石垣を造り、その上に移築復元されました。また、東門も梅山氏宅の門になっていたところ、その数年後に乾櫓の隣に移築されることになりました。 東門の復元には、高崎和田ライオンズクラブが関わっています。80年2月、結成10周年を迎えた同クラブが、記念事業として梅山氏から東門を譲り受けて移築し、高崎市に寄贈したのです。その説明板によると、高崎城にはかつて16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で、そのうち東門だけくぐり戸がついており、通用門として使われていたとあります。 高崎城東門は、本瓦葺きの単層入母屋造りで、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。向かって左が大戸、中央がくぐり戸、右が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行った武者窓付の藩士詰所だとされています。

難攻不落と言われた総石垣の不思議な山城

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太田市は、群馬県の南東部にあり、南に利根川、北に渡良瀬川と、水量豊かな二つの川に挟まれています。江戸時代には、大光院の門前町、日光例幣使街道の宿場町(太田宿)として栄えました。大正期以降は、富士重工業の企業城下町として飛躍的な発展を遂げ、現在も北関東随一の工業製品出荷額を誇っています。 そんな太田市のほぼ真ん中にある金山に、関東七名城の一つで、日本100名城にも選定されている太田市のシンボル金山城があります。1469(文明元)年に、新田氏の一族・岩松家純によって造営されたのが始まりとされます。 その金山城は、難攻不落の城と言われ、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏といった有力な戦国大名が、延べ十数回にわたって攻め寄せましたが、戦闘では一度も落城することはありませんでした。 城というと、石垣の上に築かれた天守閣を思い浮かべると思いますが、このような城が一般的になるのは、織田信長の安土桃山時代以降のことです。中世の城は、ほぼ土だけで造られた山城で、石垣はほとんどありません。特に関東では、関東ローム層の赤土で造った城が多く見られます。 そんな中、金山城は、総石垣の山城だったといいます。城が築かれた金山(標高239m)は、岩盤で出来ており、石が容易に手に入ったということもあったのでしょう。そのせいか、石垣だけではなく、城内は石畳となっていたり、池も石垣で囲まれたりと、ちょっと日本らしくない城になっています。 城内の池は、「月ノ池」と「日ノ池」と呼ばれています。山頂にある「日ノ池」は、結構な大きさがある池で、側には石組みの井戸が二つあります。また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を溜める構造になっているそうで、これらによって、山頂にありながら、池は涸れることがないといいます。「月ノ池」も、「日ノ池」と同じ造りで、上下二段の石垣で囲まれた池になっています。 城は、岩松氏から由良氏へと城主が替わり、更に1584(天正12)年には北条氏が支配します。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、金山城も廃城となりました。 現在、金山城跡として、我々が目にしているのは、1992(平成4)年から発掘調査を開始し、往時の通路形態を復元したもので、2001(平成13)年に第1期整備事業が完成。引き続き、04年から第2期整備事業が実施されました。

フォトジェニックな沼田の風景 - 吹割の滝、玉原湿原、上発知のしだれ桜

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  前のブログで、「 はじめての親子孫3世代旅行 」について書きました。目的地は群馬県沼田市で、老神温泉に泊まり、上発知の果樹園でりんご狩りなどをして楽しみました。 その沼田市へは以前にも、仕事で何度か行っています。最初に行ったのは、1999年のことで、「天狗の寺」として知られる迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ)や、沼田まつりで女衆が担ぐ「天狗神輿」などを取材しました。 なぜに天狗なのかは、後述するとして、実は、孫がりんご狩りをした果樹園「香里園」(かおりえん)は、迦葉山のふもとの「天狗の里フルーツ団地」にあります。で、弥勒寺や香里園がある上発知には、その名も「上発知のしだれ桜」と呼ばれる美しい一本桜があり、この桜を撮影するため、沼田を訪れたこともあります。それが2013年のことで、今回の家族旅行はそれ以来の沼田行きでした。 残雪の武尊を背景に枝を広げる上発知のしだれ桜 上発知のしだれ桜は、木の下にお地蔵さんがあることから、「地蔵桜」とも呼ばれています。桜の木は、小さな丘の上にあり、さまざまな角度から撮影出来るため、開花時期には多くのアマチュア・カメラマンでにぎわいます。 沼田市教育委員会が設置した案内板によれば、樹高17m、幹周り3.7mとのこと。開花時期は例年だと、4月中旬から下旬にかけてで、ここに掲載した写真を撮影したのは4月22日でした。 ちなみに、沼田ICから香里園までは約8km。実は、その少し手前には「発知のヒガンザクラ」と呼ばれる一本桜もあります。ただ、こちらは開花時期が、上発知のしだれ桜より、5~10日ほど早いようで、一緒に撮影するというわけにはいきません。 で、香里園から上発知のしだれ桜までは約2km、沼田ICからなら約10kmということになります。 そして、上発知のしだれ桜から北上すると、4kmほどで迦葉山弥勒寺に着きます。弥勒寺は、標高1321mの迦葉山南腹にある曹洞宗の古刹です。寺には、顔の丈5.5m、鼻の高さ2.7mという、日本一の大天狗面が安置されています。この寺は天狗信仰の寺として知られ、他にも大小さまざまな天狗面が奉納されています。 弥勒寺はもともとは853(仁寿3)年、慈覚大師円仁の創建と伝えられ、天台宗に属していました。しかし、1456(康正2)年、天巽慶順禅師が入山して再興、この時、曹洞宗に改められました。 伝説では、禅師入山

はじめての親子孫3世代旅行で老神温泉へ

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  吟松亭あわしま特別室「尾瀬」からの眺望 11月23〜24日、群馬県沼田市の老神温泉へ行ってきました。親子孫そろっての旅行は初めてのことで、今年3月に生まれた長男の第2子から、今年4月にリタイアした私まで、総勢10人での旅となりました。 当初、栃木県の大田原を目的地として計画していたのですが、温泉露天風呂付客室で、食事は部屋食もしくは完全個室という条件を設定していたため、そもそも宿が限定されていました。しかも、10人の予定が合わないといけないので、日程調整にも苦労し、最終的に、行き先は老神温泉に変更することとなりました。 吟松亭あわしま特別室「尾瀬」の露天風呂 老神温泉を選んだのは、「吟松亭あわしま」という宿に、温泉付特別室が3部屋あり、更に食事は2食とも完全個室となっていたからです。特別室の3室は本館の最上階にあり、この階には3部屋しかないとのこと。部屋は、「尾瀬」「武尊」「皇海」の3部屋で、「尾瀬」と「武尊」が露天風呂、「皇海」は窓から景色が眺められる展望風呂付きの部屋でした。広さは、「尾瀬」と「皇海」が和室2部屋にツインのベッドルーム、「武尊」が和室とツインのベッドルームとなっていました。 予約サイトで見た時は、「尾瀬」のみ予約可能になっており、8カ月と1歳4カ月、そして2人の4歳児は寝相が悪いため、布団を敷くとして、12.5畳と6畳で大人4人、乳幼児4人はさすがに厳しいと思い、最適な部屋を宿に直接照会することにしました。すると、予約サイトに出ていない部屋でも、空きがあるとのことで、少し時間をおいてアクセスしてくれれば、「皇海」も出てきます、との答えでした。 その回答通り、しばらくして予約サイトにアクセスしてみたところ、展望風呂付の「皇海」が予約可能で出て来たため、「尾瀬」と合わせて2部屋を確保。4歳児二人は食事と布団付き、1歳4カ月と8カ月の孫は布団のみで、予約が成立しました。 吟松亭あわしま特別室「尾瀬」の露天風呂 4歳児の孫は二人とも女の子で、このところディズニー・プリンセスにはまっているため、沼田市の隣・高山村のロックハート城でプリンセス体験をすることにし、あとはりんご狩りぐらいで、極力、ホテルの部屋で過ごすことにしました。 当日、11月23日は、3連休最終日だったので、少し道路状況を心配していたのですが、コロナ禍以降、NEXCOは渋滞情報を出さなく

人を幸せにする食堂 - 桐生のはっちゃんショップ

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  少し前のブログ(「 北関東の歴史町・足利市 」)の最後で、「快く赤れんが工場の撮影を受け入れてくださった上、工場内をくまなく案内してくれた『トチセン(栃木整染)』さんのおかげで、北関東の近代遺産への関心が高まり、翌年の桐生取材につながりました」と書きましたが、その桐生取材のこぼれ話です。 桐生は、「西の西陣、東の桐生」と称される織物の町で、約1300年の歴史を持つ桐生織は、昭和初期まで日本の基幹産業として栄えました。そして桐生には、明治から昭和の半ばにかけて建てられた織物工場が、今も数多く残っています。それらの多くは、ノコギリ屋根の建物で、市内には約220棟が残存しています。 ノコギリ屋根工場は19世紀、産業革命の時代にイギリスの紡績工場で採用されたのが最初だと言われます。ノコギリ屋根では北側に天窓が設けられ、そこから差す柔らかな光が、一日中安定した明るさをもたらし、糸や織物の色を見るのを助けていました。また屋根が高いため織機の騒音を抑える効果もあり、まさに織物工場のための形状と言える建物でした。 最盛期、桐生には約350棟のノコギリ屋根工場があったそうですが、電力事情の改善や安価な照明器具の導入、また途上国の追い上げなどにより、日本の織物産業全体が衰退。織都と言われた桐生でも、ノコギリ屋根工場は次々と姿を消しました。 しかし、90年代に入って、そんなノコギリ屋根工場に光を当てる動きが活発化。桐生市による近代化遺産調査で、市内に残存するノコギリ屋根工場が脚光を浴びるようになりました。更には、ノコギリ屋根工場を商業施設やアトリエなどへ再生活用する動きも広がってきました。 取材では、それらのうち、旧金谷レース工業の工場を再生した「ベーカリーカフェ」や、和菓子店「青柳」、「美容室アッシュ」など、10軒以上のノコギリ屋根工場を回りました。中には、有機栽培のブドウから作ったワインを直輸入する「かない屋」さんのワイン貯蔵庫として利用されているノコギリ屋根工場もありました。これは、珍しい大谷石造りの建物で、温度管理に適していることから、貯蔵庫として活用することにしたそうです。 ところで、桐生は長男のお嫁さんの実家があり、長男夫婦の子ども2人は、桐生の実家に近い病院で生まれました。1人目は、私ども夫婦にとっての初孫で、初宮参りは関東五大天神の桐生天満宮で執り行いました。1600

赤城山麓にある世界的にも貴重な農村歌舞伎舞台

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昨日の徳島・神山の農村舞台に続いて、今日は群馬県の旧赤城村(現・渋川市赤城町)にある農村舞台のお話です。 旧赤城村は群馬県のほぼ中央、赤城山西南麓に広がり、地域の西端を利根川が流れています。自然の豊かな土地で、春のいちごから夏のブルーベリー、秋のりんごと、季節ごとのフルーツ狩りが楽しめます。 その旧赤城村の上三原田地区に、世界的にも貴重な機構を持つ 農村歌舞伎舞台 が残っています。1819(文政2)年に水車小屋の大工をしていた永井長治郎が建てたものと言われます。 農村歌舞伎は村芝居、地歌舞伎などとも呼ばれ、江戸期から明治にかけて、全国で盛んに行われました。それらの舞台は茅葺きの大きめな物置小屋といった感じで、多くは神社の社地に建てられました。こうした地歌舞伎は今も各地に残っていますし、歌舞伎舞台もかなりの数、残存しています。 しかし、それらあまたの歌舞伎舞台の中でも、長治郎が建築した上三原田歌舞伎舞台は異彩を放っています。特徴としては、ガンドウ機構、遠見機構、柱立廻式廻転機構、セリヒキ機構の四つが挙げられます。 ガンドウ機構とは、三方の板壁を外側に倒して、舞台を2倍以上の広さにします。遠見機構は舞台奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せるものです。柱立廻式廻転機構はいわゆる回り舞台で、回転部が6本の柱により支えられ、これを押すことによって回転させます。普通の回り舞台は独楽廻式や皿廻式が使われており、上三原田歌舞伎舞台のものは独特の方式となっています。最後のセリヒキ機構は小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せり下ろす二重セリ機構で、世界的にも例を見ない珍しいものです。 1960(昭和35)年にはこうした特殊な舞台機構が評価され、国の重要有形民俗文化財に指定されています。 更に、舞台操作にも技術を要し、公演中は80人以上の人間が、奈落や屋根裏に入り、拍子木を合図にさまざまな仕掛けを動かします。95(平成7)年には上三原田地区180戸により、上三原田歌舞伎舞台操作伝承委員会が発足。舞台操作を始め、これまた特殊な小屋掛けや桟敷掛けの技術伝承に取り組んでおり、彼らの手で物置小屋が、華麗なる歌舞伎舞台へと変身します。 毎年11月には、この舞台で地元の中学生のこども歌舞伎や農村歌舞

浅間山北麓、嬬恋高原キャベツ村物語 - 冬編

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昨日のブログ で、嬬恋村のアイススケートについて書きましたが、嬬恋村の冬はかなり寒いのです。1、2月の最低気温の平均は氷点下9度。最高気温でも0度前後で、日中の平均は氷点下5度近くになります。ちなみに、同じ時期の札幌の平均気温は氷点下3度、最低氷点下7度、最高0度なので、嬬恋の方が寒さが厳しいことになります。 雪山の歌というと、ダークダックスが歌う「 雪山讃歌 」が有名です(古いけど・・・)が、その歌詞が生まれたのは、冬の嬬恋村鹿沢温泉でのことでした。その歴史を振り返ってみましょう。 「雪山讃歌」はダークダックスのメンバーが、まだ慶應大学の学生だった1950年、長野県の志賀高原を訪れた時にこの歌と出会い、後にレコード化したものだそうです。レコードの発売は1958年、今年から年金をもらえるようになった私が、二人の孫(ほのちゃん、めいちゃん)と同じ3歳だった年のことです(笑。。。 彼らが志賀高原を訪れたのはスキーのためで、終点に到着した時、バスの車掌さんが切符を回収しながら口ずさんでいたのが、この曲だったそうです。ダークダックスのバリトン・ゲタさんこと喜早哲さんが、『 日本の美しい歌 』(新潮社刊)という著書の中でそう紹介しています。 この曲は、アメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」(原題:Oh My Darling Clementine)に日本語の歌詞を当てたものでした。「いとしのクレメンタイン」は、1946年公開のアメリカ映画「 荒野の決闘 」(日本公開は1947年)の主題歌となったことで日本でも広く知られるようになりましたが、実は日本語の歌詞は、それよりずっと前の1927年に出来たものだそうです。 で、その作詞者として日本音楽著作権協会に登録されているのは西堀栄三郎さんで、1960年、歌詞の著作権が登録された時に添付された確認書には、次のように書かれていました。 「雑誌『文芸春秋』昭和35年5月号に掲載された酒戸弥二郎氏の『雪山讃歌の作者』に記載された事実は真実であります。  私は当時、京都帝国大学学生としてこの行に参加しておりましたが、昭和二年一月、吹雪にじこめられた鹿沢温泉の宿舎で西堀栄三郎氏が『雪山讃歌』を創作したことは上記酒戸氏の文章のとおりであり、爾後、旧三高山岳部部歌として歌われ

浅間山北麓、嬬恋高原キャベツ村物語 - 夏編

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Google Mapに「 嬬恋村広大なキャベツ畑 」というポイントがあります。嬬恋村は夏秋キャベツで首都圏の80%、日本全体でも約5割のシェアを持つ、日本一のキャベツ産地です。キャベツの作付面積は約3500ha。そのほとんどが村の南側、つまリ浅間山の北側の麓に集中しており、ここが「嬬恋村広大なキャベツ畑」というわけです。 この辺りは夏になると、それこそ一面、緑のジュータンを敷きつめたように広大なキャベツ畑が広がります。だいたい7月から10月中旬の3カ月半が嬬恋キャベツの出荷時期。この間、約21万t、1玉1.5kg換算で約1億4000万玉となりますから、日本の人口より多いキャベツが、嬬恋から全国に届けられていることになります。 嬬恋村、午前3時。丑三つ時は過ぎていますが、まだまだ草木も眠る時間です。真っ暗な中、農家の人たちがキャベツ畑へ向かいます。トラックやトラクターのヘッドライトが照らし出す畑の中で収穫作業がスタート。菜っ切リ包丁で、キャベツを芯から切リ離します。見る見るうちに、キャベツの列が出来上がっていきます。 この時期、嬬恋高原ではよく霧が発生します。取材に訪れた時も、深い霧に包まれた白い世界の中、どこで収穫しているのか全く分からず、途方に暮れたことを思い出します。車ではどうしようもなく、適当にアタリを付けて畑の近くに寄り、耳を澄ませると、サクッサクッという音が聞こえてきます。そちらの方向へ歩いて行っても、音は大きくなるものの、人の姿は一向に見えません。 嬬恋のキャベツは柔らかくてみずみずしいのが特徴とされていますが、これは嬬恋高原の霧と朝露のおかげだとも言われます。また、嬬恋村は標高700~1400mの高原地帯にあり、昼夜の寒暖差が大きいため、糖度が上がり、夏野菜特有の甘みを豊かに含んだキャベツに仕上がるのだそうです。 嬬恋でキャペツ栽培が始まったのは、明治の後期、自家用として作リ始めたのが最初だったようです。その後、昭和4年に有志による共同栽培が開始され、昭和8年頃から商品として作るようになりました。以後、どんどん栽培面積が広がり、それにつれて、村は裕福になりました。嬬恋村の村章にはキャベツを図案化したものが採用されていますが、こうした経緯を知ると、それも当然のことかもしれないですね。

上州名物空っ風と冬の風物詩・干し大根 - 笠懸町

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伝統的な干し大根の取材で、群馬県みどり市笠懸町を訪問した時のこと。 事前の打ち合わせの中で、笠懸町在住のある方が、取材全般の手配をしてくださることになっていました。そのため、まず最初にその方の所へ向かいました。何かのお店だったと記憶しているのですが、対面時のインパクトが強すぎて、その辺の記憶が飛んでいます。 取材当日、撮影担当のカメラマン氏が運転する車で笠懸へ向かいました。コーディネートを引き受けてくださった方の所はすぐに見つかり、打ち合わせをさせて頂こうと、店に向かいました。店内からは大きな声が聞こえていたのですが、何を言っているのかは分からず、そのまま中へ入ってごあいさつをしました。 しかし、中にいた二人の男女はそれには答えず、何やら口論をしています。夫婦喧嘩でしょうか・・・、どうやら絶妙なタイミングで、ばつの悪い場面に遭遇してしまったようです。やがて、ギャラリー側だった私たちにも「何しに来た」と矛先が向けられ、なぜか湯飲みか何かを足元に叩きつけられました。それを見た女性が、「早く帰って!」と、金切り声を上げます。その声にカメラマン氏と私は、何が何だか分からぬまま慌てて車に飛び乗り、店を離れました。 しばらく車を走らせたものの、行くあてがありません。そもそも取材のコーディネーターから追い返されてしまったのですから、取材そのものが大ピンチ。でも、取材をしないと誌面に穴が開きます。それはマズイ! とりあえず行政やJAなど、思いつく限りを回って相談し、取材を受け入れてくれる所を探しました。結果、加工などの撮影は難しいものの、干し大根に関する話だけならOK、そして大根を干す作業は翌朝に撮らせてもらえることになりました。  ◆ みどり市笠懸町は古くから干し大根の産地として知られます。上州名物と言われる冷たく乾いた空っ風が、干し大根に適していたからかもしれません。初冬になると、畑や屋敷の周囲に5段やぐらが組まれ、大量の大根が干されます。やぐら掛けという作業で、白い大根が赤城山を背景に干された眺めはまさに壮観。群馬県を代表する初冬の風物詩となっています。 みどり市は群馬県東部にあり、2006年、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村が合併し、群馬県12番目の市として誕生しました。