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民謡のある風景 - 力集めて創り上げた東北の唄(山形県 花笠踊り)

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南の『阿波踊り』に対する、北の踊りが、『花笠踊り』です。この踊りは、戦後に急成長したもので、山形市を中心に尾花沢市や大石田町で、夏のビッグイベントに数えられるまでになりました。  ♪花の山形 紅葉の天童   雪を チョイ チョイ 眺むる尾花沢   ハァ ヤッショマカショ 花笠を持って踊る『花笠踊り』は、明るく華やかで、あくまでも陽性です。この唄は「土摘唄」、地元の言い方では「ドンヅキ唄」がベースになっている、と言われます。 大石田町出身で、食品メーカー紀文の創業者保芦邦人は、昭和30年頃、上野近くの民謡酒場でこの唄を聞き、すぐ、それが「ドンヅキ唄」だと気づきました。保芦が上京したのは1929(昭和4)年でしたから、その頃には、地元で耳になじむほどの唄になっていたのでしょう。 元になった土禍唄は、1919(大正8)年、灌慨用の水源地として尾花沢に徳良湖が作られた時、工事人夫たちが唄った労作唄だと言われます。が、この地方には元々こうした土摘唄があり、それを民謡歌手の伊藤桃華が覚えていました。昭和13年頃、伊藤の師匠で山形に住んでいた有海桃洀がこれを聞き、土摘唄の初めのフレーズの曲調を生かし、後半を有海自身がアレンジして、一つの唄を作りました。これが『花笠踊り』の原型だと言われます。それを有海の知人斎藤桃菁が唄い込み、更に曲調を整えました。こんないきさつだから、『花笠踊り』については「こちらが本家」という本家争いが続くこととなりました。 そのせいか、踊りも山形と尾花沢では違います。大石田では、保芦が私財を投じて踊りを支援し続けたこともあり、踊りが町の名物となっていきます。尾花沢でも人気となり、昭和30年代末には、地元の民間放送の支援で『花笠踊り』は東北を代表する大イベントとなりました。新しい唄が地域起こしにつながった好例と言えるでしょう。  

山形の芋煮は、京都の「いもぼう」がルーツらしい

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昨日の記事( 立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す )に書いた山寺から、車で15分ほどの所に、親友の陶芸家・寒河江潤一さんの天童焼若松窯がありました。寒河江さんとは20年来の友人で、パソコン・メールが主流の時代には、神戸のDHさんと3人でいわゆるメル友の間柄でした。その後、DHさんと天童へ伺ったり、国内外のあちこちでオフ会をしたり、顔を合わせるようになりました。私がリタイアした一昨年には、天童でサクランボ援農オフ会の予定でしたが、新型コロナの蔓延により2年続けて中止。今年こそ実現を、と念願していたところ、寒河江さんがこの1月2日に急逝され、コロナ前の2019年3月に、天童と山形ではしご酒をしたのが、最後となってしまいました。 その寒河江さんに誘われ、山形の秋の風物詩・芋煮会を初体験させてもらったことがありました。もう12〜13年前の話ですが、寒河江さんとの思い出の一つとして、残しておきます。 芋煮会は、近畿ろうあ連盟と小樽ろうあ協会のスキー交流会について、明石の橋本維久夫さんや小樽の西本吉幸さんが、地元の寒河江さんらと打ち合わせるため、天童に集まるタイミングで開催されたものでした。私も、寒河江さんから話を伺い、旧知の皆さんとお会いするため、福島の取材後、天童へ立ち寄りました。 芋煮会当日は、朝5時半起きで里芋の収穫にゴー。この畑は、食の安全が揺らいでいる折、お年寄りに安心でおいしい野菜を食べてもらおうと、有志がボランティアでたち上げ、無農薬・有機肥料の野菜作りに取り組んでいるもので、「有気菜園」と名付けていました。収穫した野菜は、市内にある特別養護老人ホームの清幸園と明幸園にプレゼント。年間約30種類の野菜を育て、お年寄りに季節ごとの野菜を届け喜ばれているそうです。 そして、どうせなら、と芋煮会用の里芋も作っていて、ついでにトウモロコシと枝豆も芋煮会に合わせて収穫出来るよう植え付けていました。トウモロコシと枝豆は、私も友人の高橋昌男さんの畑で収穫経験があり、慣れたものですが、里芋は初めての経験でした。 いったんホテルに戻って朝食の後、今度は芋煮の下準備にゴー。やがて枝豆が茹で上がり、ここでビールを1本。そして、また1本。更に用事を済ませた寒河江さんが到着して1本・・・と、結局、本番の乾杯の前に4本も空けてしまいました。 最初の芋煮は、汁だくで・・・正直、具はあま

立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す

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同じ編集部にいたK嬢は、階段フェチでした。あるエッセーで、「階段が好きだ。歴史ある寺社の石段、しかもちょっと長いぐらいの方がうれしい。頭上で待っている景色への期待を高めつつ、一段ごとに景色が変化してゆくのも楽しい。すり減った石段には、古の人も同じように息を切らしながら上ったのだなあと思う。そして何より、最上段に到達した時の達成感がたまらない。後で襲ってくる筋肉痛は覚悟の上だ」なんてことを、書いていました。 当然、取材で訪れた山寺の1015段の石段なんざ、うれしいだけだったようです。その証に、東京に戻ってから、ネットで「日本一」と「石段」のキーワード検索をしてみたそうです。その結果、熊本県美里町にある金海山大恩教寺の釈迦院に通じる石段が、3333段で日本一だったとのこと。ちなみにこれは、1988年に完成したもので、それまでは山形県・羽黒山神社の参道2446段が日本一だったらしく、これらにも、いつか挑戦してみたい、と酔狂なことを言っていました。 何を隠そう、山寺へは私も2度ほど行っています。なので、行きはよいよい帰りは怖いじゃないですが、下りの方が膝にくるのを体験しております。そう言えば、前の記事に書いた愛知県新城市の鳳来寺表参道( 私のルーツ旅その二 - 新城編 )も、麓から1425段の石段が続く完全な山道でした。カメラマンの田中さんと私は、当然、参道入口で写真を撮った後、本堂近くまで車で移動しました。K嬢だったら、徒歩で石段にチャレンジしたかもしれません。 山寺は、正しくは宝珠山阿所川院立石寺と言います。清和天皇の勅願により860(貞観2年)に慈覚大師円仁が開山したと伝えられる天台宗の古刹です。荒々しい奇岩を露わにした岩山は、杉木立に覆われ、山腹に大小40余りの堂塔が建ちます。石段は鬱蒼とした緑の中を縫って、奥之院まで続いています。 山寺の登山口は、JR仙山線山寺駅から徒歩約7分。参道ではなく、潔く登山口と言っちゃってるところは好感が持てますが、それで石段の数が減るわけではありません。で、最初の石段を登り切った所に、国指定重要文化財である根本中堂があります。その側には、俳聖・松尾芭蕉像と、弟子の曾良像が立っています。 芭蕉が、『おくの細道』の途次、ここを訪れたのは1689(元禄2)年の旧暦5月27日、太陽暦では7月13日のこと。そして芭蕉は、有名な一句「閑さや岩にし

真室川音頭の町で開かれる仮装盆踊り大会

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真室川町で、仮装盆踊りがあることを聞きつけ、取材に出掛けたのは2017年の8月でした。真室川は山形県北部、雄勝峠を通る奥羽本線や国道13号によって秋田県と結ばれています。東京からだと山形新幹線で新庄駅まで行き、そこで奥羽本線に乗り換えて2駅、新庄からは15分ほどで到着します。横手の記事( 「雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら」 )に、横手までのアクセスルートを三つ紹介し、距離は最も短いけど一番時間がかかると書いた「山形新幹線・奥羽本線ルート」です。 真室川の仮装盆踊りは、真室川まつりの前夜祭として行われ、同時にこの日から、特設会場でビアパーティーが開催されたり、手作りの灯ろうが伝統芸能「釜淵囃子」と共に町を練り歩く動く灯ろうが実施されたりします。真室川まつりは例年8月17日に開催され、山神神社の勇壮な神輿渡御や真室川音頭パレードが行われ、夜には約2500発の花火を打ち上げる真室川まつり花火大会でフィナーレとなります。 仮装盆踊り大会は、真室川駅前に櫓が組まれ、駅ロータリーが盆踊り会場に変身。踊りはもちろん、真室川音頭。 そう、まつり本番でも、生唄生演奏で町民約500人が踊りながら町を練り歩く真室川音頭パレードがあるように、真室川と言えば、真室川音頭を忘れてはいけません。 真室川町のウェブサイトによると、真室川音頭の由来は「明治時代に遠く千島やカラフトへ出稼ぎにわたった人々が歌った『カムチャッカ節』を元唄に、真室川町に住んでいた近岡ナカエさんが創作して歌ったのが始まりと言われています」とのこと。また「全国的に広まったのは、昭和の始めに隆盛をほこった真室川鉱山に働く人々に盛んに歌われ、戦後『真室川小唄』としてリバイバル。さらにレコード化されたことにより、全国的に歌われるようになりました」ということになっているようです。 ただ、一応諸説があるようなので、ちょっとだけ検索してみると、源流として有力なのは、明治の頃、北海道や樺太の缶詰工場で働く女工たちによって歌われた労働歌で、その原曲は、樺太や千島で歌われていた「カムチャッカ小唄」だそうです。そして、これがお座敷唄となって、合いの手で「ナット ナット!」と囃すことから「ナット節」と呼ばれるようになり、更に大正の末頃から本州の港町でも歌われるようになったようです。 内陸部である真室川出身の近岡仲江さんが、「ナット

「奥羽三楽郷」と称された上山温泉郷のあれこれ

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上山温泉は1458(長禄2)年、足を痛めた一羽の鶴が、この湯で傷を癒やしているのを見た旅の僧、月秀により発見されたと伝えられます。室町時代の1535(天文4)年には武永義忠によって上山城が築城され、その後、羽州街道の開通により共同浴場や旅籠が建ち並ぶようになりました。 上山は城下町、宿場町、温泉町として大いに栄え、「奥羽三楽郷」と称されるほどでした。その名残は、今も町のあちこちに見られます。 また上山には九つの坂があり、坂の温泉郷として独特の情緒をかもし出しています。坂を上り、また下ると、市内のいろいろな名所や温泉街に行き着くことが出来ます。 これらの坂の結節点に上山城があります。上山城はその姿の美しさから「奥州の名城」と称えられていましたが、幕命により1692(元禄5)年に取り壊され、1982(昭和57)年、国立公文書館に残されていた「出羽之国内上山絵図」に基づき再建されました。城が壊された後、城の北側で温泉が発見され、その新湯が今では上山温泉の中心となってます。更にその後、あちこちに温泉が開かれ、今では湯町、新湯、十日町、高松、葉山、河崎の六つの温泉があり、それらを総称して上山温泉郷と呼びます。 上山は、山形市の南隣にあり、山形新幹線かみのやま温泉駅の開業もあって、年間70万人の観光客が訪れるようになりました。ただ、ちょうどバブル崩壊と重なったため、一時は景気低迷の影響などもあり、年々利用客が減り続け、50万人台にまで落ち込みました。 そこで、上山市観光協会が、足湯を増設し、観光の新たな目玉にしようと考え、2003年から商工会、地区会長会、旅館組合などの各団体に呼び掛け「足湯建設実行委員会」を設立。足湯の建設費用は企業や市民から寄付を募りました。その結果、五つの足湯が誕生。全て無料で開放されています。 また上山では2008年から、里山や温泉といった地域資源を生かしたクアオルトによる町づくりがスタート。現在、市民の健康増進と観光集客の二つの効果で町を元気にする「上山型温泉クアオルト」として取り組まれており、これらのかいあって、再び観光客は70万人台に戻ることになりました。( 「自然の恵みに体も心も喜ぶ上山型温泉クアオルト - 上山」 ) ところで、この足湯、いったいどんな効用があるんでしょう。ちょっと調べてみたところ、「体が温まり、眠りやすくなるので不眠症や低血圧

これなくして冬は語れない - 庄内の郷土料理・寒鱈汁

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酒田市は山形県北西部、1672(寛文12)年に西廻り航路が整備されると、最上川舟運と結び付いた米の一大集散地となり、日本海沿岸有数の港町として発展しました。その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」とも言われ、井原西鶴の『日本永代蔵』に登場する廻船問屋の鐙屋や、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡にうたわれた本間家などの豪商が活躍。更に明治に入ると、庄内平野の米作地帯を背景に米取引が盛んとなり、1893(明治26)年には米の貯蔵庫として山居倉庫が建てられました。 山居倉庫は米どころ庄内のシンボル的存在で、間口13.6m、奥行き約29mの建物が12棟連なっています。そのうち9棟は現役の米保管倉庫となっており、現在は最新空調システムが付いていますが、建てられた当時は土木建築技術の粋を集め、庄内の気候に合わせた機能性を持たせていました。その一つが、倉庫内を一定の温度に保つための二重屋根で、他にも土蔵と屋根の間を空けることで温度と湿度が急激に上昇するのを防ぐなどの工夫が凝らされていました。また倉庫裏にあるケヤキ並木は冬の風雪から倉庫を守るために植えられたもので、夏には生い茂った葉が西日をさえぎる役目を果たします。 ちなみに山居倉庫は、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」の舞台としても知られます。「おしん」は平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録し、世界68カ国で放映されるなど、テレビ史に残るヒットとなりました。 そんな酒田市へ行ったのは、2017年1月27日のことでした。酒田までは飛行機を使った方が若干早いのですが、自宅からだと上越新幹線で新潟を経由しても、30分程度しか違わないので、金額的には半分以下のJRを使うことにしました。北へ向かう新幹線の場合、私は上野か大宮から乗るのですが、この時は大宮から乗車。新潟までは約1時間15分、新潟からは羽越本線の特急いなほで酒田へ向かいます。 新潟から酒田までは、2時間少々ですが、この日は強風の影響で列車が遅延。途中で停車したり徐行したりで、酒田到着は50分ほど遅れました。2005年12月25日に、この区間で強風によって乗客5人が亡くなる脱線事故があってから、強風時の運行にはかなり慎重になっているようです。予定していた取材があったため、やきもきしましたが、地元の方が駅で待機していてくださり、酒田に到

「四季奏でるまち」金山町の美しい風景

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  金山町は、山形県北東部、町の東は秋田県湯沢市に接しています。江戸時代は羽州街道の宿場町として栄え、佐竹氏や津軽氏など諸大名が参勤交代の折に利用しました。旅人も多く、金山宿には本陣を始め旅籠や商家が軒を連ねました。明治の市町村制実施に伴い金山村になり、大正14年に町制を施行して以来、昭和、平成と合併することなく令和の時代に至っています。 最初に金山を訪問したのは、2014年のことでした。金山町田屋地区の、ため池の土手に植えられたシダレザクラを撮影するためで、この桜は、地元では「猪の沢のシダレ桜」と呼ばれていますが、カメラマンの間では「田屋の一本桜」の名で知られています。 「田屋」という地名は、あちこちにありますが、開墾した新田の側に建てた農舎兼住宅を指して、「田屋」と称したようです。金山町の田屋は、金山で最も古い商家・西田家が新田開発をした場所になります。 西田家は、江戸中期の正徳年間(1711~1716年)に、大小二つの堤を築き、田屋地区などを開墾したとされます。この二つの堤は今も残っており、その一つ、猪の沢の堤に植えられているシダレザクラが、「田屋の一本桜」です。堤のほとりには、大正時代に建てられた「湖畔亭」と呼ばれる別荘もあったそうで、樹齢100年以上と言われる、この一本桜も西田家が植えたものでしょうか。 ところで、「田屋の一本桜」は、「東北・夢の桜街道」桜の札所の一つに選ばれています。 東北・夢の桜街道は、東北6県、東京都などの行政や公共交通機関、観光関連企業、信用金庫業界等による東日本大震災復興支援プロジェクトで、震災翌年からスタートしました。東北6県の桜の名所を「桜の札所」に見立てて八十八カ所を選定。これらを札所のように旅することで、復興を支援していこうという呼びかです。 選定された桜の札所・八十八カ所は、桜前線のように南から北上。一番は三春の滝桜(福島県)で、八十八番は弘前公園(青森県)になります。更に4年後、震災直後はアクセスが困難だったため選定が見送られた、被災地の桜など20カ所が追加され、現在は百八カ所となっています。 その一つが、「田屋の一本桜」で、東北・夢の桜街道では、この桜を次のように説明しています。 「山あいの堤に凛として咲く一本のシダレザクラ。樹齢100年以上とみられ、枝一面に咲き誇る様はどの方向から見ても美しい。風のない時は、堤周辺